みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#56 基礎教理 Ask, and it shall be given you, NO.1

2024年04月23日 | 基礎教理

C.H. Spurgeon: The People's Preacher (2010) 

以前から聴こう聴こうと思っていたのだが、なかなか機会が得られなかった改革派牧師 CH Spurgeon師の説教を拝聴しようと思う。

膨大な数の説教がネット上にアップされているので、是非機会を捉えて聴いてみて下さい。

◇◇

Prayer: Guaranteed to Succeed! - Charles Spurgeon Sermons

最初から7分40秒まで。

◇◇

成功を保証する祈り。

1873年1月19日、チャールズ H.スポルジョンによる説教。

今朝メッセージの聖書箇所は、ルカの福音書11章9節から10節。

ルカ11:9、10
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 

落ち込んでいる時に超自然的存在に助けを求めることは、人間の本能です。

救われてもいない人たちが霊的な祈りを献げたり、生ける神に救いの信仰を実践するということを言っているのではありません。

深い悲しみ故に、超自然的な存在に助けを求めて叫んでいる人のために、あるいはそのような魂のために、救いのための苦痛にも満ちた願いを込めて、ひっそりと闇の中から叫んでいる子供たちのような人たちのことを言っているのです。

平安な時に、あるいは繁栄の中で、人からあざけられながらも祈りをする人は、困難の中でも祈りをする準備のできている人です。

恐らく、死の恐怖の下で捧げられる無神論者の祈りほど真摯な祈りはない。

アジソンの著作のひとつに、「乗船中自分の不信心を誇る人」に関する記述があります。

激しい嵐が来ると、この男はひざまずいて、「これまで私は無神論者でした」と牧師に告白します。

そのようなことを聞いたことがなかった船乗りたちは、「これはおかしな話だ」と思う。

しかし、嵐の日まで神の存在を信じていなかった無神論者がそう言うのを聞いて彼らはさらに驚く。

老いた船乗りが、幹部に次のように呟いた。

「あの男を船外に投げ出すことが良い考えかもしれないが、残酷な提案だ。あの哀れな生き物はすでに悲惨な状態であり、彼の不信心は消え失せている。死の恐怖の中で、彼は神に慈悲を乞うている。」

このようなことが起きるのは、一度や二度ではない。

事実、奢り高ぶる無神論は最後には地に落ちる。

心から不自然な抑制が取り除かれると、あらゆる人たちについてもあの船乗りと同じことが言えるのではないでしょうか。

困難に遭遇する時、万人は自分の神に叫びます。

鳥が自分たちの巣に帰るように、苦難の中にある者は誰でも、助けや安楽を求めて超越的存在へと立ち返る。

すべての動物を創造した神は、彼らに特殊な力を与えたもうた。

ある動物には捕食者に追跡された時に高速で走ることのできる能力を、またある動物には
敵を押し倒すことのできる角を、さらにある動物には敵を引き裂くことのできる牙と爪を与えたもうた。

人間に対して、神は、他の動物と比べると、些細な程度の力のみを与えたもうた。

しかし、人間は万物の上に立つ王となった。

何故なら、力の源泉を求めるいかなる場所においても、主は人間の力となったからだ。

人間は打ち負かすことのできない存在、あらゆる存在の中でゆるぎない存在となった。

人間の命において明らかである神に似た存在として、人間は空中の鳥、野の動物、海の魚を支配し続けた。

本能によって、人間はパラダイスにおられる神から目をそむけ、今や自分は帝王の座を追われてしまったと思っている。

彼の記憶の中にかつての自分の面影が、そして自分の力があるはずの場所の記憶がかすかに残っている。

それ故、古今東西、人というのは超自然的な助けを求めるものなのです。

私は、この本能という真実性を信じます。

そして、祈りの中に何かがあるというので人は祈るのです。

創造主が被造物に渇きという力を与えたもうた所以は、渇きを癒すための水が存在するから。

飢えを創造した理由は、食欲を満たすために食物があることを教えるためです。

神が人に祈りを促すのは、祈りに連動して反応する祝福があるからです。

祈りは神の配剤であるという事実に基づいて、効果的な祈りを期待するための大きな理由があります。

みことばによって、くり返しくり返し祈ることが命じられています。

神の命令とその成就の方法は愚かではない。

万能の神が、むだなこと、単なる子供の戯言をするように私を任命したとは到底思えません。

神が私に祈ることを命じておきながら、その祈りが、風の中で口笛を吹き、木々に向かって歌を歌うようなものであり、全く結果のないことなどあるでしょうか。

祈りに対して答えがないなら、祈りというのは全く馬鹿げた行為です。

神は祈りの創始者であります。

祈りは効果がない、神が答えてくれなくても祈り続けるというなら(バカでなければ)、その祈りは神に対する冒涜を意味します。

祈りが何の結果も生まないというなら、その祈りは愚か者や狂人の所作に過ぎません。

今朝この事について議論するつもりはありません。

キリストに従う者として、そのような議論を終わせようと思います。

祈りに関連して生じる困難の数々を、私たちの救い主はよくご存じです。

その難しさ故に、弟子たちも心が揺らぎました。

それ故、圧倒的確信によって、キリストはあらゆる逆境を調和させます。

今日の聖書箇所を読んでください。

私はあなたの教師であり、あなたの主人であり、あなたの主であり、あなたの救い主、あなたの神。

 

 


#198 終末預言 ダニエル書に関する論考2題

2024年04月21日 | 終末預言 

David Murray: Jesus on Every Page

参考までに。

◇◇

前回の考察により、エゼキエル書38章とマタイ5:17との整合性の問題は解決されたので、今回はダニエル書に関する論考を2題提示しておく。

旧約における終末預言はイスラエル滅亡に関する預言であるから、人類史終焉の状況把握や教訓として用いるべきではないとは思わない。

先の記事でも書いたが、似て非なるものでありつつも、イスラエル滅亡の予兆は世界終末のそれとかなり類似している。

むしろ、それらを大いに参照して、これから起こるであろう出来事を大胆に予測し、それに対応・対抗しうる手段を探るべきと考える。

パウロが当時の諸教会に宛てた書簡に、現在あるいは将来の教訓として参考にすべき箇所が多数存在するように。

*旧約の預言は、比ゆ表現、象徴表現に満ち溢れているので、素人が口出しすべきではない。しっかりと研究を積み上げた神学者に任せた方がよい。

◇◇


1.ダニエル7章について


ダニエル7章13節にこうあります。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

この聖句はマタイ24章30節と酷似した内容であり、旧約時代の終わりを預言していると理解して良いでしょうか。

そうです。

次に22節。

しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。

「さばき」とあるので最後の審判と世の終わりの預言、そして「聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」とあるので、万物の回復の預言と解釈してよいでしょうか。

「さばき」は、紀元70年の審判を指します。19節に「第四の獣」とあり、これはローマ帝国です。

「聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た」というのは、クリスチャンが神の国を受け継いで、世界を統治する者となった、ということを意味します。

紀元70年にイエス・キリストが再臨され、神殿崩壊とイスラエルの滅亡により、背教のユダヤ人に対する裁きが行われたと同時に、そのイスラエルを滅ぼしたローマ帝国に対する裁きも実行されました。ティトゥスの死です。

そして、それ以降の世界は、ローマ帝国は存続しますが、霊的(法的・契約的)な意味で、世界の主権は彼らから奪われ、イエス・キリストに与えられました。

現在も、アメリカが世界を支配しているように見えますが、実質的に支配者であるのは、イエス・キリストであり、イエス・キリストの体である教会(つまり、クリスチャン)です。

この支配は徐々に広がっていく性質のもので、霊的な変化は、徐々に実際的な変化となって現れます。

その後、キリスト教は、迫害していたローマを逆に乗っ取り、ローマ帝国の国教になりました。ローマ帝国からヨーロッパ諸国が生まれ、キリスト教はヨーロッパに広まり、実際的な支配は拡大して行きました。

現在は、一時的に悪魔側の勝利が続いていますが、それは、神が人間に悪魔の支配の本当の姿を見せて、御国を求めさせるためです。

人間だけでやっていくと宣言した共産主義によってどれだけの地獄が生まれたか。そして、その共産主義の黒幕であったタルムードユダヤ人の世界支配が広まるにつれて、人々の生活がいかに悲惨になっていくかをわれわれは目の前で見ています。

そうすると、15節以下は現在進行中の新約の時代について書かれていると理解されますが、いかがでしょうか。

この7章は、紀元1世紀のイエス・キリストの来臨(紀元27年からの初臨と紀元70年頃の再臨)によって、4つの世界帝国、つまり、サタンの支配の手段が滅びて、イエス・キリストに世界を支配する権力が与えられたことの預言です。

15節以下の第4の獣に関する預言は、「紀元1世紀においてローマ帝国に対するイエス・キリストの勝利と、それに続いて、全世界がイエス・キリストの支配下に入った」という意味で、現在進行中の預言でもあります。
 


2.ダニエル書9章の70週について


すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、
私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。
あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。
あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9:21-27)

この70週は、文字通りの時間を示しているのではない。

黙示書・預言書における数字は、象徴表現である。

ここでは、「7週」が一つの単位として扱われている。

70週は、「7週」という単位が10個並んだ期間を意味する。

7は完全数であるから、それぞれ1個の「7週」は「完全な期間」を示す。

70週は、次の3つの部分に分かれている。

1.「エルサレムを再建せよ」という命令から「君主の来臨」まで(7週)

2.君主による再建と君主の死(62週)

3.裁き:神殿崩壊及び「荒らす憎む(忌む)べき者」の滅亡(1週)

1.

これは、紀元前538年にペルシャの王クロスが神殿とエルサレムを再建せよと命令してから、イエス・キリストの来臨までの時期である。

「7週=完全な期間」であるから、「キリストによる再建の準備が整った」ということを意味している。

2.

再建の開始から君主の死まで62週。

62週=7週x8+6週である。

「7週」という完全な期間が8回連なる。

8は回復と復活を意味するので、再建は完全に行われたことを示す。

イエスによって、イスラエルは回復された。

「広場とほり」は、それぞれ集会と防衛を象徴する。

神の民の集会、交わり、神の国の防衛が回復する。

この期間の最後に来る「6週」の後に、君主が断たれる。

つまり、十字架である。

6は人間を表すので、「人間による殺害」を意味する。

3.

最後の1週は、神の裁きの期間である。

裁きはユダヤ人に対するものと、「荒らす憎むべき者」に対するものに分かれる。

(1)ユダヤ人に対する裁き

「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」

町と聖所の破壊、洪水、戦争、荒廃。

これらは、裁きの象徴である。

紀元70年に成就した。

(2)「荒らす憎むべき者」に対する裁き

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

背教のイスラエルに対する処刑人として選ばれた(後のローマ皇帝)ティトゥスは、ユダヤ人を迫害し、その宗教を冒涜した。

至聖所に、自分の像がついたローマ軍旗を建て、自らを神と宣言した。

しかし、皇帝になって2年で死んだ。

4.

最後の7週は、6週と1週に分かれる。

これは、労働日と安息日の関係に相当する。

つまり、人間は6日働いて、最後の1日は神が働かれる。

6週の最後にイエスは人間によって殺され、ついに、最後の1週、神がご自身の働きを開始され、審判の座に着かれた。

5.

この70週の目的は、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」ことにあった。

つまり、神に従順な民を起こすために、イエスは来られた。

イエスは、「不従順な民」と「従順な民」を分けられ、前者には裁きを、後者には「贖いと永遠の義」をお与えになった。

6.

70週は「イエスによる贖いと救い、イスラエルの再建と、不従順な民に対する裁きと報復」の予言であって、「終末のタイムテーブル」のようなものではない。

年数などを計算し、歴史上の事実との整合性を図るのは無駄な努力である。


 

 

 

 


#2 The Days of Vengeance, NO.2

2024年04月21日 | 報復の日々

#2 The Days of Vengeance, NO.2

p31~
The Primacy of Symbolism
Introduction
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

前回保留とした箇所に関して、若干の知見を加えたいと思う。

参考になるサイトが見つかったので紹介しておく。

ゴグとマゴグとは何ですか?

重要と思われる箇所を引用する。


以下、引用。

マゴグはノアの孫(創世記10:2)であり、結局マゴグはマゴグの子孫が住んだ土地の名前、ゴグは、未来にイスラエルを攻撃する軍隊のマゴグの指導者の名前である。

以上、引用終了。

また、次の箇所。


以下、引用。

エゼキエル38-39章と黙示録20:7-8が違う人々と違う戦いについて述べているもっと明白な理由です。

以上、引用終了。

そして、以下その理由、1~4。

つまり、黙示録20章とは異なり、エゼキエル書38、39章を世界終末預言として解釈することはできないという結論に達する。

似た内容として、かつて次のような例を挙げたことがある。

イザヤ書65章17節
見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。 

ここに書かれている新天新地には

同20節
・・百歳で死ぬ者は若かったとされ
百歳にならないで死ぬ者は
のろわれた者とされる。

つまり、この新天新地には「死」「のろい」がある。

一方

黙示録21章1節
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。  

同4節
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない

つまり、この新天新地には「死」がない。

また

同22章3節
もはや、のろわれるものは何もない。

「のろい」もない。

イザヤ書65章の新天新地と黙示録21章の新天新地は、明らかに似て非なるものと言えよう。

David Chiltonほどの神学者であれば、当然この程度の知識はあるはずだ(と推察する)。

 

 

 


#1 The Days of Vengeance NO.1    

2024年04月17日 | 報復の日々

p18~
The Covenant Lawsuit
Introduction
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

要点のみ抜粋して列挙する。

かなり詳しく検討されていて、面白いことがいろいろ書かれていそうだ。

引用文献も豊富で、信頼性もある。

*先に示したように、無料で閲覧できるので参照のこと。

出エジプト記22:1
牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。 

羊は貧しい者を、また牛は権威を意味し、貧しい者に対する犯罪は4倍の賠償を、また権威に対する反逆は5倍の賠償を要する。

貧しい者や権威に対して敬意を払う必要があることが具体的に明記されている。

黙示録17:1
・・「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。 

大淫婦とは、背教のイスラエルに対する蔑称。

黙示録18:6
あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。 

神に対する不信仰ゆえに、イスラエルは2倍の賠償が要求される。

イザヤ1:21、エレミア2:20、エゼキエル16:14-15、ホセア9:1

黙示録は、クリスチャン(ヨハネ)によるエゼキエル書の書き直しと言われるほどに、エゼキエル書と内容が類似している。

21ページに、黙示録とエゼキエル書の対比表が書かれている。

たまたまネットを見ていたら、今の世界情勢は、エゼキエル書38章の預言が成就しつつある時代と礼拝メッセージにおいて語っている牧師がいた。

そこで、対比表を見てみると

18. The Battle with Gog and Magog (Rex.20:7-9/Ezek. 38-39)

とある。

小生含めてポストミレ派(partial preterists)は、現在は黙示録20章が成就しつつある時代と主張する。

筆者Chilton師の解釈が正しければ、黙示録20章の平行記事と考えられるエゼキエル書38章もまた同時に成就しつつあると考えなければならない。

これはかなり衝撃的だ。

旧約聖書に、いまだ成就していない記事があるということになるからだ。

その解釈とマタイ5:17との整合性をどのように図るかは極めて重大な課題となる。

取り敢えず、いったん保留にしておく。

まだIntroductionを読み進めている段階であり、これからの楽しみにとっておきたい。

 

 

 


#1 イスラエル救済 ポストミレとユダヤ人の救い

2024年04月14日 | イスラエル救済

将来におけるイスラエル救済については、RC Sproul師も肯定しているので、改革派全体に共通する見解と受け取って良いと思う。

MUST SEE!!! John MacArthur vs. RC Sproul on the Future of Israel

以下の記事において、イスラエル崩壊の預言を、世界終末預言として捉えている箇所がある。

マタイ5:17
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

注意が必要だが、全体として大変参考になる記事。

◇◇


ゲイリー・デマー/ピーター・ライトハート


ユダヤ人もねたみに駆られるようになるでしょう。パウロは申命記32章21節を引用し、ユダヤ人について次のように述べています。「でも私はこう言いましょう。『はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。』まず、モーセがこう言っています。『わたしは、民でない者によって、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民によって、あなたがたを怒らせる。』」(ローマ10・19)異邦人は大きな祝福を受けてきました。「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それはイスラエルにねたみを起こさせるためです。」(ローマ11・11)このねたみのゆえに、イスラエルの残りの民は将来回心に導かれるのです。また、パウロは言います。「考えてみなさい。イスラエルの失敗が世界の富となったのであれば、彼らが回心する時には神はどれほど大きな祝福を地に降らせ給うかを」。「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」(ローマ11・12)この約束はユダヤ人の上に成就します。その時、祝福の時代が始まるのです。彼らが神の平和条約に服従する時に、御国は驚異的に発展します。これこそパウロが「それ以上の…もの」という表現によって伝えたかったことなのです。これは十番目の段階へと導きます。つまり、爆発的な回心と祝福の時代が到来するのです。もし神が、民の契約的誠実に対して祝福をもって応えられる方であるとすれば、ユダヤ人の間に広がる回心の波がどのようなものになるか想像してみてください。異邦人の完成の時が来ると、イスラエルは回心します(ローマ11・25)。その時、ユダヤ人と異邦人の間の区別は全く歴史から消し去られます。そして神の御国がかつてないほど完全に統合されるのです。

ハル・リンゼイは、「ドミニオン神学者[=再建主義神学者]」は「反ユダヤ主義」への道を開いている、と非難します。なぜならば、リンゼイの判断によれば、彼らは預言の解釈においてユダヤ人にすぐれた地位を与えていないからなのです。神の計画においてユダヤ人に特別な地位を与えているのはディスペンセーショナリズムだけである、と氏は信じています。しかし、氏が「ドミニオン神学者」であると呼ぶ人々のほとんどは後千年王国主義者なのです。後千年王国説は、常に預言の解釈においてユダヤ人にすぐれた地位を与えてきました。この点においてリンゼイの非難はまったく的はずれなのです。最も重要な箇所であるローマ9-11章の後千年王国主義者の解釈においてもこのことは真実です。

この章では次の二つのことを証明します。第一、ディスペンセーショナリズムが19世紀において発展を遂げる以前に、キリスト教神学者たちはすでにイスラエルの将来に関して活発な議論を展開していたこと。また、彼らの多くは、議論の枠組として後千年王国説を用いていたこと。第二、後千年王国説の見解は「反ユダヤ主義」ではなく、しかも、リンゼイがこの用語に与えたもっとも曖昧な意味においてさえ「反ユダヤ主義」ではないということ。むしろその逆に、歴史的な後千年王国説は、終末時の教会の栄光に関する預言においてユダヤ人に極めて重要な役割を与えていること。

メシアに立ち返らなくてもユダヤ人は神の民の一員になれるのではないか。このような問いに後千年王国説はノーと答えます。後千年王国説は、「ユダヤ人はただキリストへの信仰によってのみ救われ、また、それによってのみキリストの体の生命の中に加えられる」と教えます。イアン・マーレーが述べたように、「ピューリタンは、キリスト教会を離れては、イスラエルにはいかなる特殊的約束も、また、いかなる未完の霊的約束も与えられていない、と信じてい」たのです。さらに、ディスペンセーショナリズムとは異なり、後千年王国説はこれまで、イスラエルの回心がキリストの再臨の前に起こると教えてきました。


初期の改革主義者の解釈


16世紀の宗教改革及び宗教改革直後の時期に、数人の神学者が、神の将来の計画におけるイスラエルの地位について議論しました。ジュネーブのカルヴァンの後継者セオドア・ベザは、英国の神学者トーマス・ブライトマンの説にしたがって、次のように述べました。「ユダヤ人も呼び集められ、福音を告白するようになるだろう。その時、(世界は)死から復活するだろう。」英国のピューリタニズムに直接的な影響を与えていたストラスブールの宗教改革者マルチン・ブーツァーは、1568年にローマ書の注解の中で「パウロは将来ユダヤ人が回心することを預言していた。」と述べました。はじめストラスブールでヘブライ語を教え、その後オックスフォードに転じたピーター・マーター・ヴェルミグリは、この意見に同意しました。

ピーター・トゥーンは、この解釈が大陸からイングランド、スコットランド、アメリカへ伝達した経緯について説明し、次のように述べました。

…カルヴァンやルターは、ローマ11章25節後半の「イスラエル」という言葉はユダヤ人と異邦人の教会を指していると考えていた。しかし、これは「ユダヤ人」、つまり、ユダヤ教を信じる非キリスト教徒のユダヤ人を指すと考えることができる。ベザ自身は、ローマ11章のこの解釈に同意していた。「ジュネーブ聖書」*の各編集者も彼の意見に従った。(*この聖書は、メアリ女王の迫害から逃れてきた亡命者たちによって、ベザの存命中にジュネーブにおいて翻訳され、当時の世界に強い影響を与えた。)1557年版と1560年版において、「イスラエル」は「ユダヤ民族」のことを指す、との短い注が付いている。その後の版(例・1598年版)では、「旧約聖書の預言者は、ユダヤ民族が将来キリスト信仰に立ち返ることを預言していた」と、ローマ11章に注記されている。この聖書やピューリタンの数々の著作(例・ウィリアム・パーキンス『ガラテヤ書注解』や、ヒュー・ブルートンの各著作)を通じて、ユダヤ民族が回心するとの教えは、イングランドやスコットランド、ニューイングランドに広く普及していた。


イスラエルの将来に関するスコットランド及びイングランドの神学者の見解


17世紀のイングランドにおいて、「預言におけるユダヤ人の役割」は特に重要なテーマと考えられ、とりわけ、後千年王国論者のカルヴィニストの間において重んじられていました。イアン・マーレーは、17世紀におけるイスラエルに対する関心の高まりを次のように要約して述べました。

ユダヤ人の将来は彼らにとって極めて重要な関心事だった。というのは、彼らは次のように信じていたからである。「神がお定めになった未来の御計画については、それをはっきりと啓示している箇所はごく僅かである。しかし、『ユダヤ人が召されると同時に、世界は大きな祝福を受けるようになる』とのわれわれの期待を裏付ける箇所は聖書の中に十分に存在するのである」と。ピューリタンのイングランドと契約的スコットランドは霊的祝福についてよく理解していた。彼らがイスラエルを重視したのは、さらに豊かな祝福を得たいと祈願していたからであって、単に未完成の預言に興味を抱いたからではない。

マーレーの著書には、なによりも、後千年王国説がイスラエルに対して大きな関心を寄せていたことを示す豊富な資料が紹介されています。ここではその内のほんの僅かしか引用することができません。16世紀の終り頃に著作活動をしたスコットランドの神学者チャールズ・フェルメは、次のように主張しました。パウロは、「異邦人の完成の時が来ると、イスラエルの民の大部分が、福音を通して、彼らを救う神の御許に呼び集められるであろう。そして、以前は頑なになっていた時代には否定していたイエス・キリストを、告白し、信仰するようになるだろう」と述べた、と。

1635年の手紙の中で、サミュエル・ラザフォードは、長生きをしてこの目でユダヤ人の回心を見たいものだ、と述べました。

ああ、最上の喜び、キリストの雲上来臨!その次に私が慕うのは、我らの兄ユダヤ人とキリストが互いに抱き合って口づけする光景だ!彼らは長い間別れ別れになっていた。しかし、彼らが出会う時、互いの心は和むのだ。ああ、その日よ!待ち焦がれた素晴らしい夜明けよ!ああ、イエス様、私にその、死人の復活のごとき光景を見せてください。あなたと昔の人々が抱き合う光景を。

イギリスの説教家兼神学者トーマス・ブライトマンは、トゥーンの言葉を用いれば、「改革主義的・アウグスチヌス的千年王国思想の、重要かつ影響力のある最初の英国版」を発展させました。この英国版において、ブライトマンはユダヤ人の回心を強調しました。"A Revelation of the Revelation(1615)" において、彼は次のように主張しました。トルコ帝国の滅亡に続いて、「ユダヤ人がキリスト教に改宗する」だろう。その出来事によって「それより世の終りに至るまで非常に幸いな平穏な時代が訪れる」だろう、と。 1635年に出版されたダニエル書11、12節の注解書の副題は、「その最後の三人の敵が完全に打ち負かされた後に訪れるユダヤ人の回復とキリスト信仰への召命は、あざやかに示されている」 でした。ブライトマンは、ユダヤ人がエルサレムに帰ってきて、「ユダヤ人のキリスト教会がキリスト教世界の中心になる」と信じていました。 彼は、ダニエル書12章2-3節と黙示録20章11-15節がその結論を支持しており、これらのどちらも、「キリスト教徒となったイスラエル民族の再建」について語っている、と信じていました。

ピューリタンの指導的教師兼著者であるウィリアム・パーキンスも、将来ユダヤ人が大量に回心すると教えていました。同じく、リチャード・シッブズは「ユダヤ人はキリストの御旗の下にはまだ来ていないが、ヤペテをセムの天幕の中に導かれた神は、セムをヤペテの天幕の中に招きかれるだろう。」と述べました。エルナタン・パーは、1620年のローマ書注解において、異邦人は二度「完成」するだろうと述べました。一つはユダヤ人の回心に先立って完成し、もう一つはその後に完成する、と。「この世の終末はユダヤ人が回心するまで訪れないだろう。だが、ユダヤ人の回心と終末の間にどれだけの間隙があるかは誰も知らないのだ。」

1649年ピューリタン革命の最中に、後千年王国説神学者ジョン・オーウェンは、下院議院において次のように演説しました。「人々は、まことの栄光を求めて、何世代にもわたって恵みの御座の前に祈りを捧げてきました。[神は]この幾百万もの祈りに答えて、いにしえの御民をその故国に帰し、完成された異邦人と合体して一つの群れとされるでしょう。」かつてオーウェンの教会の会員だったサミュエル・リーは、1677年に出版された有名な著書 "Israel Redux" において、ユダヤ人はいつの日かパレスチナの地に帰ってくるだろうと述べています。

信条と告白

イギリスとスコットランドの教会の教会会議も、イスラエル問題を取り扱いました。ウェストミンスター大教理問答の第19一問において、ユダヤ人の回心に対する希望が表明されています。第2の祈りの中で、私たちは「御国が来ますように。」と祈りますが、これはすなわち、「福音が世界中に宣べ伝えられ、ユダヤ人が呼び集められ、異邦人の救いが完成する」ことを求めているのです。同じように、ウェストミンスターの「公同礼拝規則書」では、司祭は次のことについて祈るように指示されています。「福音が宣教されること、キリストの御国がすべての国民におよぶこと、ユダヤ人が回心し、異邦人の救いが完成すること、反キリストが滅びること、主の再臨がすみやかに成就すること。」 1652年に、長老派と独立派をはじめとする18人のピューリタンの牧師と神学者のグループが、次のことを確認しました。「聖書は異邦人の二重の回心について語っている。第一の回心は、ユダヤ人の回心の前に起こる。彼らは野生種の枝であり、栽培種の枝が折られた後に真のオリーブの木に接ぎ木されたのである…。第二の回心は、ユダヤ人の回心の後に起こる。」

会衆教会派によるサヴォイ宣言(1658年)は、教会の未来の望みについて述べ、その中で、ユダヤ人の回心について触れています。

終りの日に、反キリストは滅ぼされ、ユダヤ人は召され、御子の王国に敵対する者どもが滅ぼされる。キリストの教会は、光とみ恵みによる自由で豊かな伝道を通して、拡大し、築き上げられる。その時、この世に、かつてない平穏と平和と栄光の時代が到来する。


イスラエルの回心を求める祈り


ピューリタンと長老主義の教会は、ユダヤ人が将来回心することを確信していました。そのため、彼らはパウロの預言が成就することを熱心に祈り求めました。マーレーは次のように述べています。「[大教理問答書とウェストミンスター公同礼拝規則書]が書かれる何年も前に、ユダヤ人の回心と全世界における福音の勝利を願う祈りへの求めは、すでにピューリタンの集会の特徴となっていた。」20 しかも、当時のスコットランドの長老教会では、「[聖書に]約束された(神の)いにしえの民ユダヤ人の回心が、すみやかに成就することを」祈るための特別祈祷日が制定されていました。ピューリタン独立派のトーマス・グッドウィンは、著書 "The Return of Prayers" の中で、望みが消え行くような時にも祈り続けるべきである、と人々を励ましています。彼は、教会が祈るべきことがらの中に「ユダヤ人の召し、神の敵の完全なる敗北、福音の発展」を含めました。グッドウィンは読者に向かって、これらの三つの祈りは「答えられるだろう」と断言しました。


18世紀のアメリカ


後千年王国論者の中の後千年王国論者であるジョナサン・エドワーズは、1774年に "History of Redemption" の中でキリスト教会の歴史の概略について述べています。エドワーズは、サタンの王国の滅亡にはいくつかの側面があると信じていました。それは、異端と不信仰の全滅、反キリスト(教皇)の王国の崩壊、イスラム教諸国の滅亡、そして、「ユダヤ人の不信仰」の除去でした。

しかし、頑固な[ユダヤ人]は今日まで1700年もの間キリストを拒み続けてきた。エルサレムが崩壊してから今日まで、個人的回心をした者は極めてまれであった。しかし、その日が来れば、彼らの目を覆っていた厚いベールは取り除かれ(第2コリント3・16)、神のみ恵みは彼らの堅い心を溶かし、まったく新しい心に作り変えるであろう…。そしてイスラエルの家は救われるのだ。ユダヤ人は散らされたすべての場所において、己の不信仰をかなぐり捨てるのだ。彼らの心はまったく変えられ、己のかつての不信仰と頑固さを忌みきらうようになるだろう。

彼は、「ローマ書11章に記されたユダヤ人の民族的回心ほど明確な預言は他にはない。」と結論しました。


19世紀と20世紀の改革派学者


19世紀全般、及び、20世紀に入ってからしばらくの間、後千年王国論者はこの見解を説き続けました。偉大なるプリンストン神学者チャールズ・ホッジは、ローマ11章の中に次の預言を発見しました。「ユダヤ人が一つの国民として回復する前に、異邦人たち、つまり、異邦人世界の大部分は一体となって回心するだろう。」彼は、異邦人の完成の後に、ユダヤ民族は救われる、と述べました。「民族としてのユダヤ人は、現在拒絶されている。しかし、彼らは民族として回復する。彼らの拒絶は民族としての拒絶であり、それゆえ、必ずしも個人の拒絶を意味しなかった。同じように、彼らの回復も、民族的なものではあっても、必ずしもすべての個人の救いを意味するわけではない。」これは歴史の終りではなく、むしろ、「その出来事の後に多くの成就すべきことが残されている。しかも、この成就すべき事柄においてユダヤ人は極めて重要な使命を果たすのである。」

19世紀のスコットランドの神学者ジョン・ブラウンはローマ書の注解において、次のように述べています。

使徒[パウロ]は異邦人の以前の状態と現在の状態を対比し、同時に、ユダヤ人の現在の状態と未来の状態を対比している。異邦人は過去において不従順であったが、現在は救いの恵みに浴している。ユダヤ人は現在は不従順の中にあるが、将来は救いの恵みに浴する。

なぜ神は、ユダヤ人を拒絶され、将来回復されるのでしょうか。それは、ユダヤ人も異邦人もすべての人が全的堕落の中におり、それゆえ、救いがまったくの恵みによるものであることを示すためでした。

南長老派神学者ロバート・L・ダブニーは、「未完成の預言」の中に「ユダヤ人のキリスト教会への一般的民族的回復(ローマ4・25-26)」を含めました。プリマス・ブレズレンの千年王国観を論じる中で、ダブニーは「前千年王国説はユダヤ人が集められるとの約束に同意していない」 と主張しました。彼は続いて次のように述べました。 たしかに、この見解[前千年王国説]は、「イスラエルはキリストの再臨の後(直後)に救われ、しかも、その出来事を通して救われる」と説くが、その論旨ははなはだしく一貫性を欠いている。第一、パウロは、「彼らは『異邦人の完成とともに』やって来る」と述べているが、前千年王国説はそのような完成を予期していない。第二、パウロは「彼らは『自分の台木』に接ぎ木されるであろう」と述べているが、これは目に見える教会のことを指している。しかし、前千年王国説は、キリストの再臨は目に見える教会を廃止する、と説くのである。第三、第一の復活の恐怖と、他のすべての不信者を滅ぼす普遍的火との間の、一体どこに不信仰なイスラエルは置かれるのだろうか。最後に、その図式は、「ユダヤ人は言葉の真理[伝道]によっては回心せず、外部からの破局的出来事[再臨]によって回心する」と考える点で聖書的ではない。

今世紀において、幾人かの指導的改革神学者はこれと同じ見解を説いてきました。"The Road to Holocaust" の最も皮肉な面の一つは、リンゼイがローマ書9-10章の解釈の一番肝心な点において、後千年王国論者でウェストミンスター神学校教授故ジョン・マーレーの意見に頼っているということです! それなのに、どうしてリンゼイは後千年王国説の潜在的「反ユダヤ性」について警告を発することができるのでしょうか。そこにははなはだしい論理の飛躍があると言わなければなりません。とにかく、マーレーはローマ11章26節について次のように述べました。

本章のテーマとイスラエルの回復の継続的強調を心に留めるならば、次のように結論する以外にはないのである。すなわち、「イスラエルはすべて救われる」との命題は、イスラエルが民族として完成し、受け入れられ、接ぎ木されることを通して、福音の恵みと祝福そして不信仰から信仰と悔い改めへの立ち返りにあずかることを意味する、と…。彼らの違反、損失、遺棄、断絶、頑固の規模と反比例して、イスラエルの救いは大規模なものになると考えなければならないのである。

多くの「ドミニオン神学者たち」はマーレーの解釈に同意しています。本章の初めの部分で、ユダヤ人の回心について説明したゲイリー・ノースの文章を引用しました。テキサス州タイラー市にあるグッド・シェパード改革監督教会の牧師であり、"That You May Prosper"の著者でもあるレイ・サットンは、マーレーのローマ11章の解釈を引用した後で、「代表的」もしくは「契約的」イスラエル観と呼ぶ見解について説明しています。これは、イスラエルは「世界のキリストへの回心において代表の役割を演ずる」とする考え方です。サットンはさらに次のように述べます。

私は[イスラエルの未来を代表として見る見解]の支持者であって、反ユダヤ主義でもシオニストでもありません。第一、この立場によれば、イスラエルは神の計画において特別な役割を今も担っています。イスラエルは神によって大変愛されているのです。異邦人の回心においてイスラエルは独特な役割を果たします。その役割のゆえに、彼らは伝道されるべきであって、滅ぼされるべきではありません。イスラエルはアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの神に呼び戻されるべきであって、世界の中から除かれるべきではありません。新しいイスラエルである教会は、イスラエルを大切に扱うべきです。「キリスト殺し」の汚名を着せて苦しめるべきではありません。キリストを十字架につけたのは全世界であることを忘れないでください。キリストの頭上にはユダヤ人と異邦人の主要な言語で「ユダヤ人の王」と書かれていました。


第二、しかし、代表的もしくは契約的見解は、民族主義ではありません。それは、政治的単位としての「民族」に魔術的な力があるとは考えません。イスラエルが民族となったことと、契約の中に入れられたこととはほとんど何の関係もないのです。事実、問題を政治化してしまうことは常に、キリストを救い主として、また(さらに重要なことですが)主として受け入れることを妨げてきたのです。

それゆえ、大切なのはイエス・キリストへの契約的誠実であって、政治的・人種的・文化的関係ではありません。

 

結論

イスラエルの回心に対する後千年王国説の関心についてさらに多くの例を上げることができるでしょう。しかし、もうすでに幾つかの結論を導き出すのに十分な証拠はあげられました。第一、後千年王国説は、ユダヤ人が神の計画においていかなる役割も負っていないとする結論を導き出しません。歴史的に見て、ユダヤ人の大規模な回心を否定してきたのは無千年王国説でした。

第二、後千年王国説の立場に立つ著者たちがかくも大きな関心をユダヤ人に寄せているという事実は、彼らが「反ユダヤ主義者」でないことを示しています。「反ユダヤ主義者」の後千年王国論者がいるならば、「反ユダヤ主義者」のディスペンセーショナリストもいるかもしれません。「反ユダヤ主義」は終末論から簡単に帰結するものではないのです。

最後に、ハル・リンゼイの「ドミニオン神学」に対する訴えは深刻に歪んでいました。彼は、後千年王国説に立つ「ドミニオン神学者」はイスラエルにいかなる立場も与えていない、とほのめかしました。しかし、彼はローマ9-11章に関する議論の中で後千年王国論者ジョン・マーレーの文章を引用したのです。指導的な「ドミニオン神学者」がローマ11章をイスラエルの将来の回心の証拠と考えていることについて、彼は読者に何の情報も提供していません。こういった歪みのゆえに、彼の「ドミニオン神学」に対する訴えはまったく信用に値しません。

 

 

 


#55 基礎教理 N.T. WrightによるNew Perspective on Paulは異端  

2024年04月14日 | 基礎教理

独学というのは、常に異端へと走る危険があるということ。

非常に危険な状況にあったことは間違いない。

改革派神学のように土台のしっかりした神学に基いた聖書研究を切に勧めておく。

悪魔の餌食にならないように、独学はやめましょう。

◇◇ 

N.T. Wrightは異端であり、このような異端を信じる人々をクリスチャンとして認めることはできない。

以下、過去の記事を再掲する。

Federal vision(オーバン・アヴェニュー神学)に影響を与えている著名かつ福音派にとって大きな影響力を持つ聖書神学者N.T. Wrightは異端です。

Surprised by Hope: Rethinking Heaven, the Resurrection, and the Mission of the Churchにおいて、「魂の不滅」を否定し、死後魂が天に行くことを否定しています。

さらに、その「パウロに関する新しい見解(New Perspective on Paul)」において「パウロは『行いは義認に役立たない』とは言っていない」と述べています。

Federal visionの立場に立つライトハートは、Wrightの神学から刺激を受けたと述べています。

Federal visionの支持者として『共同Federal vision宣言(A Joint Federal Vision Profession)』に名を連ねている人々には以下が含まれています。

Randy Booth, Tim Gallant, Mark Horne, James B. Jordan, Peter Leithart, Rich Lusk, and Ralph A. Smith

N.T. Wrightは、教会合同つまりエキュメニカル運動の回し者である。

ローマ・カトリックとプロテスタントの垣根を取り去るために、義認の教理を捻じ曲げている

どのように捻じ曲げたかというと、義認を、イエス・キリストの救いを個人的に受け入れることとして見るのではなく、教会や契約に加入するかどうかの問題に貶めることによってである。

つまり、こういうことである。

正統派の聖書的キリスト教では、義認とは「律法を守り、贖いを成し遂げられたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ」達成される。

われわれは、イエス・キリストがアダムの身代わりに律法を完全に守り、神の前に義と永遠の命を獲得してくださったので、信仰によってイエス・キリストの体であるエクレシア(召された者の集まり。単なる制度的教会ではない)に加わり、イエス・キリストと有機的契約的なつながりを持つことによってその功徳を受け継ぐ者となる。

これは、「信じて告白する」ことによって可能になる。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10・10)

単なる教会で洗礼を受けたから救われるのではなく、心に信じなければならない。

それゆえ、義認は、神との個人的関係が主である。

人間存在の基本中の基本の部分である「心」における変化が必要である。

しかし、N.T. Wrightは、義認を集団的ととらえる。

外面的教会制度に加わることによって義と認められると。

礼典は、新しい創造の現実を示す単なる印ではなく、実際にその一部なのである。バプテスマは、…単なる新生、新しい家族への加入の現実を示す道標ではない。それは、実際に、その加入への門なのである。
N.T. Wright, Surprised by Hope: Rethinking Heaven, the Resurrection, and the Mission of the Church (New York, NY: HarperCollins Publishers, 2008), 271-273.

ここで、はっきりと「バプテスマによる救い」の異端的教えが述べられている。

パウロがこう述べているにもかかわらず。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6・15)

では、幼児洗礼はどうなのかという疑問が起きる。

聖書では、家族単位での祝福を述べている。

ラハブの家族は他の家族よりも格別の恵みを与えられた。

しかし、制限があった。

自ら進んで救いを拒むならば救われないという。

私たちが、この地に入って来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。
あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。(ヨシュア2・18-19)

それゆえ、聖書は家族契約を重視しているが、基本は個人の選択である。

個人が心において救いを拒むならば、いくらクリスチャンホームであっても救われない。

N.T. Wrightは、外面的制度的儀式による救いを導入することによって、同じ教理を持つローマ・カトリックとの合同が可能であるという。

サタンは、N.T. Wrightを通じて、プロテスタントの信仰を破壊し、ローマ・カトリックとの教会合同に道を開いたと考えられる。

以下、参考として、カリフォルニア州パノラマ市の『グレース・トゥ・ユー』の理事フィル・ジョンソン師による説明を読んでいただきたい。

N.T. WrightのWhat Saint Paul Really Saidという題の著書によれば、義認は「神とどのような関係にあるのか」ではなく、「民族的及び文化的集団が互いにどう関係し合っているか」についての問題である。

122ページ:
パウロにとって、義認は…「どうやってクリスチャンになるか」ではなく、「ある人が契約の家族に属していることを確認するにはどうしたらよいか」という問題を扱う。[義認]は、キリストを信じるすべての人が、人種の違いを乗り越えて同じ食卓につくことを主張する。」

それゆえN.T. Wrightの考えでは、義認とは、エキュメニカルかつ教会論的な問題であって、救済論的問題ではない。

158ページ:
パウロの信仰義認の教理を通じて、教会は、現在のバラバラな状態を捨てて、エキュメニカル(教会合同)の任務に駆り立てられる。

「イエスを信じる人はみな同じ食卓に属している」(ガラテヤ2章)と宣言するまさにその教理が、「義認に関して異なる教理を持つ人々を食卓から排除すべきだ」との主張に利用されてよいわけがない。

換言すれば、義認の教理は、熱心な教会合同の努力の末に、カトリックとプロテスタントが合意に至ることができる教えなのである。

それだけではなく、義認の教理はそれ自体、教会合同の教えでもあって、教会が文化ごとに小さくまとまるグループ化の傾向を非難し、「イエスを信じる人々は同じ一つの家族に所属している」と宣言する…。

義認の教理は、実際のところ、偉大なる教会合同の教えなのである。

フェデラル・ヴィジョンとフェデラル・ヴィジョンを奉じる教会は、明らかに異端であり、悪魔の教えであり、われわれはその教えとそれを奉じる教会を絶対に推薦しません。

 

 

 


#13 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.7

2024年04月12日 | 生活指針

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur


41分43秒から最後まで。

◇◇

個人に報復は禁じられています。

しかしながら、神の使いとしての政府には与えられています。

私たちは統治施設に関して神に感謝すべきです。

最悪な政府は私たちを失望させ、また迫害しますが、政府が存在しなければ、私たちはお互いを殺し合うことになるでしょう。

また、刑罰がなされなければ、やましい血がつねに存在します。

カインがアベルを殺した後、アベルの血が地から叫んだと創世記4章に書かれています。

多くの聖書箇所で、そのことが示されています。

命を守るために、神は死刑を要求します。

民数記35:33に、「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。 

血を流した者たちの死によってのみ静けることができる報われない血が、殺人国家にはつねに存在します。

犯罪の多発するこの世界において、非常の多くの囚人が死刑を待っている。

生まれ出てこなかった胎児を殺害した人々の数は数えきれない。

命の尊厳に対する関心の欠落や、命を奪った人々に対する即時的死刑執行など、明らかにモラルのレベルは地に落ちています。

ところで、死刑に反対する人々が堕胎を促進したり、クジラや実験用ネズミの救済に賛成するのは何か変だと思いませんか。

受動的な考え方では、新約聖書から勇気をもらうことはできない。

キリストが来て売春婦はこれ以上罪を犯さないように命じられるが、兵士は兵役から引退するようには言われません。

政府に従うべき最後の理由は、第5節。

「以上のことに、もうひとつ付け加えます。ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。 」

その日の最後に正しいことを行なう理由は、神がそうするように命じているからです。

正しいことを行なうメリットは明らかです。

何でしょうか。

良心ゆえにです。

今朝、教会を終えた後、私はパトロシアと亡くなりそうなご婦人に会いに行きました。

彼女の家を見つけることができませんでした。

細い脇道の通りすがら、車に乗っている警察官を見つけました。

彼を通り過ぎましたが、振り返って、再び通り過ぎました。

実際に振り返って、通り過ぎて、彼を見ました。

私は恐ろしいと思ったでしょうか。

いいえ。

彼と話をして愉快になり、握手して、彼がしてくれたことに感謝しました。

怖いことなどありません。

こんな風に楽しく生きることができるのではないでしょうか。

これが、従順なクリスチャンにやって来る平安です。

理解できたでしょうか。

もうひとつ言っておきたいことがありますが、2週間後に戻ってきたら納税の必要性についてお話ししようと思います。

第6節と7節にあります。

(祈り)

 

 


#12 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.6

2024年04月09日 | 生活指針

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur


33分40秒から41分43秒まで。

◇◇

私たちは、路上で革命を起こしたことはありませんが、それは福音派クリスチャンから起こるでしょう。

長きに渡って、政府や大統領、そして上院、州や地方の指導者に対して口汚い誹謗中傷が行われてきました。

政府は保護してくれます。

つつがなく暮らしている時、政府は安全を与えてくれます。

政府の性格がどうあれ、私たちの責任は、静かで平穏な暮らしに預かることです。

パウロとペテロは、「良い評判は私たちを批判する人たちの口を黙らせるであろう」と言います。

つまり、私たちを支配する人たちに対して従順な態度を保ち、静かで、平穏、平安な生活を送っていない時、この証言は失効します。

使徒の言明は無効になります。

信心深いクリスチャンに起こるであろう最悪の事態は、統治権威が彼らを敵と認識することであります。

政府を運営している人たちは敵ではありません。

彼らは任務を遂行する立場にあります。

彼らはどのように任務を遂行するのでしょうか。

彼らの最終手段はあなたがたを敵とみなすことです。

事実、これによりあなたがたは震え上がるでしょう。

4節にあるように、権威にある人たちは神の使いです。

神の使い。

その通りです、何故なら彼らは敬虔な施設である政府内で働いているからです。

彼らは神を知らないかもしれません。

しかしながら、健康かつこの世の平穏という一般恩恵を与えるための神の施設の中で働いているのです。

この事に関して、イスラム教の世界が如何に神から疎遠であるかを教えましょう。

彼らにはアジェンダ(協議事項)があります。

それは、世界全体を恐怖に落とし、破壊することです。

それは何処から来るのか。

サタンのアジェンダです。

政府をサポートし、市民のモデルとなり、良いことをするために、私たちクリスチャンはできる限りのことをします。

ロバート・ホールディンは、「世の政府という施設は慈悲の配剤であり、その存在は不可欠であるため、ある形において終了すると別の形として再構築される」と述べました。

人がどれ程までに堕落しているかを知りたいなら、抑制の取れた振る舞いを見ればよい。

凄まじい大混乱に対抗できる警察や政府が存在しないならば、この町が徹底的に破壊されるまでに対して時間を要さないでしょう。

ロバート・ホールディンは、「ある人種が他の人種を支配することが次々に行われるこの世界は、それほどまでに退廃し堕落しているので、わがままで質の悪い人の感情に対して世の政府による強力な障壁がなければ、そんな冷酷な社会で生きるよりも、森の獣たちとともに生きる方がましである」と述べている。

「一度抑制が解かれると、人は本来の性格を顕わす。」

「イスラエルに王がおらず、人々が自分の目に正しいことを行なっていた時、士師記の最後の3章にあるように、悲惨な結果が待ち構えていた。」

そこで、パウロはこのような場合を基礎に置きました。

私たちが政府に服従する理由は、神が政府の源であるからです。

政府に反抗することは、神に抵抗すること。

神に抵抗することは、裁きをもたらす。

政府は悪を抑止し、善を助長するために働く。

第6に、支配者は神によって権限を与えられ、強い刑罰を課すことができる。

支配者は神によって権限を与えられ、強い刑罰を課すことができる。

4節に戻って、悪を行なう者は、政府、権威、支配者、統治機構を恐れる。

「支配者は無意味に剣を帯びてはいない。彼は神の使いであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」

世の政府は、単なるお飾りではありません。

単なるシンボルでもない。 

口先だけの脅威ではない。

政府は命を奪う権力を有している。

政府は力を持つ必要がある。

政府は強力な抑止力を持つ必要がある。

創世記9章にこうあります、「人の血を流す者の血は、流された者によって流されなければならない。」

「殺人に対しては、死刑。」

マタイ26:52で、イエスは、「剣によって生きる者は剣によって死ぬ。」

かくして、イエスは死刑を肯定しました。

使徒25:11で、パウロは死に値する罪について言及しています。

イエスは創世記にさかのぼり神の啓示を明確化したとパウロは断言します。

統治機構、支配者、政府の権威を行使する人は神の使いであって、悪を行なう者に怒りをもって報復します。

死刑は神の御心であり、死刑執行人は神のしもべ。

ロバート・カルバーは、「刑務官の責務は不快であるが、むちや独房、輪縄、ギロチンなどのようなものは、社会の安定化を支援し、存在する必要がある」と述べています。

何故なら、神は、変質者の意見を聞くのではなくて、現実との調和において、そのような宣言をされるのです。

強制力を持つ政府は社会的必要であり、創造主によって決定されたものです。

ある大学の統計学的検索や社会学研究者らによって決定されたのではない

社会が人間の悲惨な現実から逃避し、刑罰から逃避する時、その社会は死滅します。

ローマ書12章と13章は、個人には禁じられている報復について述べています。

ローマ書12章最後の節を覚えていますか。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

 

 

 


#54 基礎教理 New perspective on Poul

2024年04月07日 | 基礎教理

・The days of vengeance with DAVID CHILTON。

今だ序論の段階であるが、黙示録は、イスラエルの滅亡、すなわち、旧約時代の終焉について主に書かれている書物であること、また、ネロの時代にクリスチャンが迫害された理由は、彼らの信仰故にではなく、反政府組織に誤解されたためであるという。

◇◇

さて、信仰義認に関して、以下のような動画が見つかった。

NT Wright氏の先の動画 How will we know when Jesus is coming back?  において、携挙に関する氏の見解を拝聴したが、この記事に関して言えば、異端を匂わせるような見解はなかったように思う。

しかし、信仰義認Justification by fatih aloneに関して、RC Sproul師はNT Wright氏の新しい視点New perspectiveを異端と断言している。

何故、RC Sproul師はNew perspective on Poulを異端と断定したのか。

また、New perspective on Poulとは一体どのような教理なのか。

参照:

英語の苦手な方は翻訳機能を活用して下さい。

New Perspective on Paul


ネット上でいろいろな文献・記事に当たってみたが、上の記事が一番分かりやすくまとめられているように思う。

かつてプレミレ教徒だった頃に問題視したことのあるPistis Christou を 'faith in',と訳出するのか、それとも、'faithfulness of'と訳出するのかという疑問に関しても言及している。かなり先を走っていたわけだが、結論的には、正統改革派神学からはかなりズレていたということになる。

◇◇

Introductionとして、以下の動画に注目する。
 
Sproul on NT Wright

New perspective(新しい視点)という教理に関しては、WIKIの記事と上の動画のみに留めておくことにする。

それよりも、聖化の歩み、救いの達成、御国の拡大といったテーマの方がはるかに重要と思われる。

 

 


#11 生活指針 Why Christians Submit to the Government, NO.5

2024年04月05日 | 生活指針

Why Christians Submit to the Government wirh John MacArthur


25分29秒から33分40秒まで。

◇◇

これが破綻すると、悪が罰せられることなく、犯罪者は盗んだものとともに消え去り、賠償の機会もなく、品位の回復もない。

加えて、結婚は破綻し、教会は背教に走り、あらゆる神の施設は汚され、罪がさらに罪を生む。

結局、社会の最後に至る。

あなたがたはそれを見ているのです。

政治はそれを変えることはできません。

唯一福音のみが人を変えることができ、変えられた人たちが社会を変えることができるのです。

政府は神に由来する。

政府に逆らうことは神に反抗すること。

神に逆らうことは刑罰をもたらす。

私たちの服従の背後には4つ目の動機があります。

政府は悪を抑止するために働きます。

第3節、「 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。」

明らかに、これは最後の節と密接に連結されています。

「支配者は恐れの原因ではない。」

恐れは恐怖症から来る。

支配者が私たちを恐れさせることはない。

善い行ないに対して彼らが恐怖を引き起こすことはない、しかし悪い行ないに対して(彼らは恐怖となる)。」

政府は悪を抑止するために働く。

政府を恐れるのは善良な人たちではなく、悪人たちである。

法律を守っている限りにおいて、支配者を恐れることは何もない。

「では、その法律とは、皆が知っているような良いこと悪いことを定める普遍的なものなのか」と言うかもしれない。

そうです、その通りです。

しかし、皆が聖書を信じているわけではないし、皆が聖書を持っているわけではありません。

ローマ書2章14,15節によると、「彼らは書かれた神の法をもっている。」

何処に持っているのでしょうか。

心の中に、です。

そして、自分を非難したり、言い訳をする良心の中に、です。

道徳の基本的感覚を持っているのが人間です。

それが人です。

全惑星をみな超えて、宇宙的法の中で人は映えるのです。

万人、非信仰者さえも、自然啓示、道理、一般恩恵によって、基本的道徳を理解しています。

支配者は、神によって定められた基本的道徳を行使します。

あらゆる社会は、それを正しいものとして理解しています。

自国のそれらの法律に従い、良いことを行なう人は、恐れる理由など全くありません。

暴動を起こす人たち、社会を恐怖に落とす人たちは、エジプトで行われているようなことをするのでしょう。

彼らには恐れる理由が無数にあります。

法に従わない人、自分の判断で暴力を振るう人は恐れるべきです。

何故なら、悪行を抑止するために権力を用いる者は直ちに罰則を発動するからです。

迅速な刑罰。

旧約聖書に刑罰の仕方が書いています。

申命記19章13節から19節。

憐れみをかけてはならない。

憐れみをかけてはならない。

申命記13章6節から11節。

えこひいきがあってはならない。

申命記25章2節によれば、直ちに、憐れみなしに、えこひいきなしに、待つことなく。

このような刑罰は犯罪を阻止します。

このような刑罰は、悪人の心に恐れを置きます。

3年後、4年後、10年後、15年後の刑罰ではなく。

しかし、法に従う人は恐れることは何もない。

今日のような社会において、クリスチャンはどうすればよいのでしょうか。

従い、服従すれば、権威を恐れることは全くありません。

ところで、この手紙を書いた人は、権威によってひどい扱いを受けました。

彼は不当に投獄されました。

不当に鞭打たれ、ひどい扱いを受けました。

しかし、原則はそれでも変わりません。

迫害があっても、武力で報復せず、犯罪行為により報復しない。

ペテロは言います、「あなたの心を忠実な創造主に委ねなさい。そうすれば、来ることを受け入れることができます。」

迫害する政府はあります。

私たちのものはそこにはありません。

迫害にあっても、武力を携え政府に立ち向かうことはない。

第5に、政府への服従に関する動機の小さなリストの中に、スキップしてしまった多くの事柄があります。

しかし、大体の状況を伝えることはできたと思います。

ポジティブな面に関して見ていこうと思います。

悪を抑止する目的についてお話をしましたが、ポジティブなこととして、政府は善を促進するために働きます。

3節に戻ります。

権威を恐れたくないと思いませんか。

「善を行ないなさい。そうすれば、あなたは支配者から褒められます。というのは、彼はあなたにとって益となる神の使いだからです。」

恐れたくないと思いませんか。

もちろん、恐れたくはない。

善を行ないなさい。

第1テモテ2章にパウロの心の内が書いてあります。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。  」

政府の役割は悪を抑止することです。

それが主な役割であります。

それが、悪を抑止するための、聖書的に与えられた、委任された政府の役割です。

もうひとつポジティブな点があります。

善を行ないなさい、本質的に善いことを。

そうすれば、支配者によって褒められるであろう。

第1ペテロ2:14に書いています。

正しいことをすれば、批判する者は黙る。

福音派クリスチャンは、この証言を失う瀬戸際に立たされています。