近況報告。

・・・のつもりではじめたのですが・・・。
ゼミについては、学科公式ブログで報告しています。

関東社会学会研究例会「ワークショップ時代の統治と社会記述:ワークとアートの現場から」

2020-08-08 22:39:46 | お仕事とか。

2020-21年度関東社会学会研究委員(テーマB)より、3月から延期になりました、8月22日(土)の研究例会の告知です。

-----

テーマ:「ワークショップ時代の統治と社会記述:ワークとアートの現場から」

日時: 2020年8月22日(土) 14:00~17:00

場所:オンライン開催(ZOOM)

松下 慶太(関西大学)「ワーケーションにおける『スタイル共同体』の形成」

高橋かおり(立教大学)「芸術を通じた場の構築――地域に対する現代美術とクラシック音楽の試みを比較して」

ファシリテーター: 加島卓(東海大学)、元森絵里子(明治学院大学)

公式告知:http://kantohsociologicalsociety.jp/meeting/information.html#section_2


研究例会に参加を希望される方は、8月16日(日)までに元森(motomori[at]soc.meijigakuin.ac.jp)まで、①お名前、②ご所属、③開催情報をお送りするメールアドレスを、ご連絡ください。前日までにオンライン参加に必要な情報をお知らせします。

-----

主旨文(公式告知とは別に、研究委員の思いを前面に出して書きました。)

 2020年度~21年度のテーマ部会Bでは、2回の研究例会と2回のテーマ部会(学会大会時)を通して、具体的な事例を常に念頭に置きつつ、現代社会の社会記述の問題を考えてみたいと思っています。一言でいえば、各領域で既存の記述が失効している感覚を、領域横断的に議論する場にしたいと考えています。

 担当研究委員は、1990年代後半から2000年代半ばに大学・大学院時代を過ごした世代です。「近代」とはこういう時代で、今はその先の「〇〇化社会」を迎えているといった(今思えば紋切り型の)説明を、ぎりぎりわかった気になれた最後の世代のように思います。世間的にも、国家権力―住民自治、専門家支配―市民参画、教育―遊び、労働―余暇のように、近代的な大文字の諸価値に新しい価値を対置するという対抗図式も未だ定番でした。一方、研究の世界には、ニューアカと呼ばれた現代思想の空気が残っていました。歴史社会学や言説分析が流行し、「常識」の歴史性や構築性を明らかにしていった空気の最後にぶら下がって、近代社会と同義にも見えたそれぞれの領域の「常識」の歴史と現在を描こうと、フーコーなどを問い直しながら格闘しました。

 しかし、そうこうしているうちに、社会学は格差社会批判や新自由主義批判へと傾斜していきました。近代の権力性や構築性を指摘することや、「新しい価値」と思われていた住民自治や市民参画の理想を掲げることが、コストカットと自己責任を旨とする新自由主義の統治を下支えしてしまう可能性も、反省的に指摘されるようになりました。さらに、そのころには社会学を教える立場になり、「〇〇化社会」と驚きをもって記述されていたはずの生のモードが自明となり、「新しい価値」が闘っていたはずの大文字の諸価値のリアリティがない、若い世代と向き合うことになりました。それぞれの研究対象としてきた領域にも、様々な変化が起きました。「〇〇化社会」型の記述はもちろんのこと、一時期それ自体で記述の「オチ」にできた「新自由主義の統治に組み込まれている」などの「診断」が通じない感覚があります。

 今や、このリアルこそ、記述の対象なのではないでしょうか。「近代的諸価値から新しい価値へ」と称揚したり、「新しい価値の欺瞞」を批判したりするのではなく、そのように「オチ」をつけたくなること自体も組み込んだ記述が必要なのだと思います。フーコーの装置概念や統治論を洗練・修正させていこうとする研究群や、事物と言説や社会と社会意識といった二元論ではなく唯物論一元論として言説と人とモノの連鎖を追尾していくアクターネットワーク理論などが注目されているのは、わかりやすい対抗図式では描けない現実があるからでしょう。

 時代が複雑になればなるほど、自分のテーマの目の前の事象の探求(と学務・事務)に追われがちになります。社会学のテーマとして、記述というテーマは流行遅れになった感もあります。だからこそ、共通のテーブルを設定して各人のテーマで見えてくることを紹介し合うことで、共通の問題や問題意識を浮かび上がらせ、現代社会がどのような社会でそれに社会学はどう挑むべきかという記述の問題への関心を共有したい…そのような思いで本テーマ部会を企画しました。

 

 タイトルになっている「ワークショップ時代」とは、新しい時代の象徴であり対抗価値として読み解かれた「自治」や「参画」や「選択」の理想が、住民運動のレトリックではなく、新自由主義的な自治体政策(統治のモード)のなかに組み込まれて久しくなった時代を指しています。既存の権威が解体され、新たな価値の構築自体が公的な制度に組み込まれてしまう中、今までの(何段階かの流行の波があった)記述の「オチ」では記述できない現実があります。

 例会当日は、キックオフミーティングとして、前半に、「アート」の権威も「ワーク」の正統性もゆらいだ時代の、「アートによるまちづくり」と「ワーケーション」の事例をご発表いただきます。寿ぐべき対抗的価値だとも、単なるアリバイづくりや統治・消費の技法だとも結論づけられそうなこれらの事例の、しかしそう「オチ」をつけることもできない現実がどのようなもので、それを記述するのにどのような悩みや苦労があるのかをご紹介いただきます。

 後半は、フロアの皆さまの事例や悩みを募集します。「まちづくり」風のテーマに限らなくてけっこうです。皆様の格闘している既存の枠組み(「オチ」)では描き切れない事例と、それを描くのに使えそうな理論や方法論を、ぶっちゃけて共有しましょう。

 なお、学会大会(12月)の折のテーマ部会では、文字通りワークショップを共通テーマとして、さらに議論を深めていく予定です。ワークショップが繰り返される時代には、ファンドレイジングやファシリテーションといったノウハウを持つ中間支援型の専門性の確立が模索される一方で、住民が疲れ弱小NPOが淘汰され、マネタイズに長けた既存資本がそのポジションに収まってしまったり、アリバイ的な住民ワークショップや地域の大学と提携した教育プログラムとしてけっこうな予算が計上されてしまったり……。あえて典型的なテーマにおけるこういった言説や人やモノの配置の現代的様相を共有することで、それを記述する際に考えるべきことのヒントを得て、2年目(例会3月、学会大会6月)につなげていけたらと思っています。

研究委員:元森絵里子(文責)・加島卓・牧野智和・仁平典宏


『子どもへの視角:新しい子ども社会研究』

2020-08-08 22:26:32 | お仕事とか。

2月中旬に発売されたころからコロナ問題に突入し…。

宣伝もしないまま学会等も延期・中止になり…。

ということで、今更少し宣伝しておきます。

 

本ブログが告知場所となっていました子ども社会学若手勉強会のコアメンバーでまとめた本です。

1980年代に子どもだった著者たちから(すでに研究費区分上「若手」でなくなっているメンバー多数)、1980年代以降の子ども論(の問い直し)を問い直し、新しい視角を展望します。

元森絵里子・南出和余・高橋靖幸 編
『子どもへの視角:新しい子ども社会研究』
(新曜社、2020)

https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b497740.html

1980年代以降の世界的な子ども観の問い直しは十分なものであったのか? その問い直しをさらに問い直し、型にはまった子ども観を脱し、複雑な現代における子どもたちの世界のありようを事実に即して、具体的に分析するための有効な視角のヒント集。

<もくじ>

目 次
はじめに

序 章 子どもをどう見るか──20世紀の視角を乗り越える  元森絵里子

 

   ◆ Part 1 現代の子ども研究で問われている視角

 

第1章 子どもの主体性礼賛を超えて──「学校の怪談」をめぐる教師と子ども  吉岡一志

第2章 グローバル時代における「異文化の子ども」研究──バングラデシュの教育熱のグローカル性  南出和余


第3章 子ども研究における「構築」とは何か──児童虐待問題の歴史  高橋靖幸


   ◆ Part 2 新たな視角を必要とする現実

 

第4章 地域に子どもがいることの意味──子どもを見守る防犯パトロール  大嶋尚史


第5章 施設の子どもの教育問題──子ども間教育格差  坪井瞳


第6章 依存か自立かの二項対立を超えて ──児童自立支援施設における「18歳問題」  藤間公太


   ◆ Part 3 子どもをめぐる歴史の重層

 

第7章 関係的権利論から見る基礎教育──植民地近代の遺産とグローバル時代が交錯するインド  針塚瑞樹


第8章 「戦争孤児」のライフストーリー ──カテゴリーとスティグマのループ  土屋敦


第9章 生殖補助医療と「出自を知る権利」──技術・制度・規範のハイブリッド  野辺陽子

あとがき

           


オンライン講義をやっていて思ったこと② 空間がないことと意欲格差

2020-07-07 18:34:20 | 授業とか。

第2弾です。なんていうか、学校とは?みたいな「教育社会学」の授業を、空間のない学校で虚空に向かって話すという不思議な状況となり、その結果が時差で熱心なコメント課題と大量の脱落者という形で返ってくる中で、色々考え吐き出さざるをえなくなってしまっているという感じです。

 

二極化傾向

 新興感染症という外圧により、誰も何も準備をしていないまま各大学がオンライン化に踏み切った当初、心配されたのは、通信環境(Wi-Fi、PC等)のない学生へ配慮すべきという点と、大学全体としてのサーバーの維持や社会全体としての通信速度の維持が可能かという点だった。その結果、双方向授業は避けたほうがいという空気が醸成され(大学によっては明示的に指示があり=明学は指示あり)、オンデマンド配信で課題を回収するという形が標準として推奨されることとなり、学生は課題に追われることとなった。(通信環境の問題は、結局、学生側も必死で整えたうえ、各大学が貸し出しシステムや準備金を出したため、比較的なんとかなってきたはず。)

 このしくみを満喫して、通学の負担なく、動画を何度も戻したりして深い学びができていることを喜んでいる学生もいる。しかし他方で、受講に楽しみを見いだないのか単に手が回らなくなっているのか、脱落している学生もいる。

 そして、オンライン講義では、対面講義以上に後者の学生の姿は教員からは見えない。高校までと違い、自主管理が多く求められる大学の場合、対面講義でも、本当に来なくなった学生の姿は見えない。ただ、授業は実質的に脱落気味だがサークルの部室などに登校している人というのは昔からいるし、最近では、なんなら出席をとらない授業なのになんとなく友達と座っていたりする学生もかなりいる。大学すらも準義務化してきている(少なくとも大学入学層の多くにはそう見えている)なか、大学の学び自体に意義を見出していないがやめることもしない層はおそらく年々増えている。そういう普段は何とか見えている人たちが、教員から見えない。(課題提出状況が鈍っていくことだけがわかる。)


空間共有機能が失われた学校

 そもそも学校の役割とは多義的だ。知識伝達機関、社会化機関というのが最小限の定義だろうが、実際はそれ以外の色々な役割を付随させている。とりわけ、オンラインなどというものが存在しない時代の制約のなかで、同輩集団を長時間、物理的空間に押し込めるというしくみが作り上げられた結果、そこでのインフォーマルな悲喜こもごもも付随するのが学校となった。

 そして何なら、その部分に学校の本質を見出す教師や生徒もいた。日本の学校お得意の集団活動など本当にそれ。「友達に会いに行くのが学校」「部活のために行っていた」「思い出は宝物」みたいな感覚もそれ。当然それらが嫌で嫌で仕方なかった人も生んできた。

 オンライン講義、特にオンデマンド型の授業の場合、この色々な部分がよくも悪くもそぎ落とされてしまった。その結果、学校に、知識伝達以外の多義的な部分でつなぎとめられていた層の脱落傾向が加速している気はする。

 加えて、意欲の湧かない授業をなんとかやりすごす技術が伝承されにくいのではないかと思う。私の授業では、昨年までもパワポでしゃべり、コメントを事後にLMSで提出してもらう方式をとっていたので実質的な受講負担はほとんど変わっていないのだが、今年は、脱落者が例年よりあきらさに多い一方で、出される課題はそんなにがんばらないで!というものばかりとなっている(①参照)。それはつまり、例年、授業に出ずに/をよく聞かずに適当なコメント返すことをしてきた層が、続々と脱落しているからだと推測される。フーコーのパノプティコン論の肝は、規律的態度とともに同時に逸脱的態度も生むというところだという読み方に賛同するが、学校は、聞いているふりをして座っている態度とか、友達と騒いで悪さをする生徒文化といったものも多々生んできた。こういう「やりすごし術」が、課題応答が剥き出しになる形態かつ、逸脱文化の伝承がなされづらい孤立化状況だと、使いづらいのかもしれないと思う。

 もちろん、趣味や自己啓発に位置付けられる他のオンライン受講サービスとは異なり、大学には「学位(学歴)付与」の機能があるので、まだつなぎ留まっているとも言えるだろう。しかし、コロナ関係なく、時代ははもはやオンラインは是か非かという段階でもないだろう(日本の学校のICT化の遅れは世界的には恥ずべきレベル)。今後、小中高も含めて、何が学校の役割か(というそもそも存在していたはずの問題)が改めて問われ、多様な解が見つけられていく必要があるように思う。


オンライン講義をやっていて思ったこと① オンライン学習と学校化された身体

2020-06-28 01:18:06 | 授業とか。

 完全に当初目的も執筆熱意も失っているブログでありましたが、教育とは学校とは何かをしゃべりながら、新しいオンライン授業で自分と学生の皆さんに何が起きるかを考えるという不思議な体験が始まり2か月経過するなかで、気になっていることをまとめました。

課題=チェックされる、成績に関わると思い込む学生

 オンライン講義が始まって2か月。多くの大学が、「学生の通信環境その他に配慮して、オンデマンド講義で課題を回収する形を基本にお願いしたい」(大意)となった結果、学生・教師双方が膨大な課業管理地獄になるディストピアが出現している。

 教員側の窓から見てまず目立つのは、あきらかに教員側が期待している以上に、課題に必死に取り組む学生の姿だ。出したか出さないか、取り組んだか取り組まないかのみチェックするなどとしている授業でも、何百字もやたら書き込んだコメントが返ってくる。さらに、ちょっとの誤字で自動採点で×がついた学生が、どうにかにならないでしょうかと問い合わせてくる。(どうにかも何も・・・。)

 みんな、先生への提出物は細かくチェックされて採点されているという思い込みを内面化しすぎているのだろうか。そうだとしたら、どれだけ学校化されているのか。高校までの学びの態度が抜けないという意味では「生徒化」と呼ぼうか。(しかも「生きる力」云々以降のがんばっている感を見せる必要のある学校の。)社会学では過剰に社会化されたことを、「過剰社会化」と言ったりする人もいる。ちなみに、「過剰社会化」は行き過ぎという点でどちらかというとよろしくないニュアンスで使われる。

オンライン講義はどこまで学校的なのか

  学校外の通信教育では、かなりの数の脱落者がいるはずだと思う。(ちなみに私は高校時代、Z会に1-2回しか返送しないでお金をドブに捨てた。)だから、この過剰な頑張り、過剰に学校化・生徒化された振る舞いは、オンライン講義という形が必然的にもたらすものではないと思う。これまでの学校経験が、学校で提出物を課されたら先生に見られているに違いない、成績に、卒業に関わるものだ、という態度に結びついている気がする。(『学校って何だろう』の苅谷先生のいじわるな「実験」を思い出す。)

 一方、オンラインでの受講では、他の学生の雰囲気が見えない。ほかにどんな人たちがどんな態度で座っているのか、どの程度の手抜きでやっているのか、そもそも教室に現れてすらいないのかの空気感がわからないのがいけないのかもしれない。

 私たちが巻き込まれたオンライン講義とは何なのか。大学の学びを変えるのか。大学教員関係のSNSでは、そんな言葉が2か月前から飛び交っていた。(私は「苦肉の策なんだから、そんなに今から息巻かないでも…」というタイプであったが。)

 ところが、すでにとても学校化した身体の人たちが、対面の学校のインフォーマルなガス抜き機能を欠落させた場で、どこまで看守に見られていると思ってふるまっていいのか決めかねて自らハードルを上げているというのが、今の私から(中央棟の看守室から)見える景色の1つなのだ。(もう一方で、いつもより脱落していく人も多く二極化しているという話はまた今度。)


第14回子ども社会学若手勉強会

2019-10-25 19:22:17 | 子ども社会学勉強会とか。

事実上1年ぶりとなりますが、以下の要領で第14回を開きたいと思います。

今回は、アニメーションに関する学術研究の会と共催です。よろしくお願いいたします。

 

---

日時:2019年12月22日(日)13時~18時

会場:明治学院大学 白金キャンパス

本館5階(北ウィング1552教室) ※いつもの隣です。

 

テーマ:子ども文化からサブカルへ?

※アニメーションに関する学術研究の会と共催


1)パート1:ゲスト報告 (75分×2)

2)パート2:ブレインストーミング(最大120分)

 

「子ども文化」だと思われていた漫画やアニメを卒業しない若者がいると言われてうん十年、これらの「サブカル」はクールジャパンのコンテンツともなってます。しかし、そのこともあってサブカルチャーに関する研究領域では「子ども」という切り口は盲点になりがちで、一方で児童文化・子ども文化研究は成長するオタクたちを組み込めていません。

そこで、今回はアニメーションに関する学術研究の会から、これら大人のファン・オタクたちの研究をされているお二人に、そもそも子どもでない消費者をアニメ産業が取り込むとはいかなる事態であったのか、また「本来は子どものものである」という建前のあるアニメ産業においてアニメファンで居続けるとはいかなる事態であったかという点から研究をご報告いただき、そのうえでサブカルチャー研究と児童文化・子ども文化研究とのすれ違いの位相や、今後の接続も含めた視角の可能性を議論してみたいと思います。

(ゲスト)
杉山怜美(一橋大修士卒、会社員)
アニメファンであることを幼少期から20年以上継続させている人びとへのインタビュー調査から、ファンを長期継続させる力学は何かを問う

永田大輔(明星大学ほか)
子どもではないアニメファン(オタク)の存在の歴史性と社会性を、言説、OVAなどのメディア、制作システムなどの関係性から解き明かす

文献:

永田大輔「ビデオにおける「教育の場」と「家庭普及」-1960年代後半-70年代の業界紙『ビデオジャーナル』にみる普及戦略」『マス・コミュニケーション研究』、日本マス・コミュニケーション学会、88号、pp.137-155、2016年
永田大輔2017「アニメ雑誌における『第三のメディア』としてのOVA」『ソシオロジ』61(3)

杉山怜美2017「ファンであることが長時間持続する力学」『一橋大学修士論文』

☆アニメーションに関する学術研究の会メンバーによる『アニメの社会学――アニメファンとアニメ制作者たちの文化産業論』(ナカニシヤ出版より出版準備中)の初校(11月末に共有予定)

 

参考文献(議論の前提・対象として):
野上暁2015『子ども文化の現代史: 遊び・メディア・サブカルチャーの奔流』大月書店

 ●終了後、希望者にて打ち合わせ兼懇親会を行います

---

文献の共有はMLを通して行っています。準備の都合上、参加希望の場合は、事前にご連絡ください。
また、新規ML参加希望の方も、遠慮なくご連絡ください。

元森絵里子(明治学院大学) motomori*soc.meijigakuin.ac.jp
*を半角@に変えてください