文責:甘いすもも
7月6日のゼミにおいて、「犯科帳」(長崎奉行所の判決記録)の中から砂糖密売の一例を追った。ここでは、その概要をのべることにする。
取り上げる事例は1757年10月に起き、翌年9月23日に判決が出されたものである。これは、八百啓介氏が「一八世紀後半の長崎貿易における盈物砂糖の流通について」において盈物の初見であるとして紹介されている。この時期をふくむ18世紀以降は、盈物の量が増加しており、10年後の1767年には盈物の砂糖・薬種は販売が禁止される。この時点では、まだ日雇による処分が黙認されていた。
事件の流れ(1757年9月下旬)
・仁助がオランダ人との間で密売の相談をする。
→仁助が江戸町のりんの家を訪ね、密売の話を持ちかけた所、その量を尋ねられる。
→仁助が翌日オランダ人に確認、200斤を金2両2分で売りわたすとりんに伝える。
→りんは値段が高いとする。仁助はオランダ人に相談し、値段が2両1分となる。
→再びりん宅にて値段を伝えると、りんはお金がないが、そこへやってきた長右衛門が買い取ると伝えた。
(10月2日)
・仁助がりん宅にて、砂糖が30斤増えたので2両2分で買い取るよう偽りを伝え、手付金金1分を受け取る。
→仁助がオランダ人の手印をりん宅へ持参する。
→長右衛門が銭15貫文・りんが2貫文出し、りん宅にいた六助が2両1分に両替する。
→夜五ツ(およそ20時頃)長右衛門と六助が出島に赴き、砂糖の密売を行う。
→夜四ツ過ぎ(およそ22時過ぎ)砂糖を江戸町のりん宅へ運び入れる。
(10月3日)
・りん宅にて、砂糖の量を確認(182斤)
→りん・長右衛門の指示で、忠左衛門が喜平次のもとに口入を頼みにいく。
→砂糖屋重吉のもとで砂糖を売る。
(10月6日)
・密売一件にかかわりのあったものが預かりになる。
以上が事件の概要である(仁助が手付金を使って鉄槌を購入した岡村屋の手代や主人も「犯科帳」には挙げられているが、砂糖の密売とは話がそれるため省略した)。およその流れはつかんだつもりだが、疑問点も残った。各人物がどのような生業(地位)の者であるのか、この砂糖はこの後どのように消費されていったのか、などである。若松正志氏は「近世中期における貿易都市長崎の特質」の中で1793年に唐船から一艘から日雇や日雇頭などに配分された砂糖の内訳を出されている。これによると、1人あたり1.45斤から30.530斤まで幅があるものの、今回密売された182斤よりはだいぶ少ない。よって、盈物砂糖として182斤の砂糖を砂糖屋に運んだ場合、砂糖屋は本当に「犯科帳」の記す通り「密売之品とは毛頭不心附」のまま買い取るのか疑問がわく。砂糖屋の入荷状況を知る資料があれば、盈物として200斤近い量が1度に持ち込まれているかわかるかもしれない。また、密売砂糖の出資者である出嶋町の長右衛門が、それだけの盈物砂糖を集められる立場だったのか分かれば、もう少し事件の背景から盈物の流通にせまれるように思う。もし、ブログを読んで、資料や文献にお心当たりがあれば、ぜひご教示いただきたい。
<参考文献>
八百啓介「近世長崎における輸入砂糖とその流通」『和菓子』第9号、2002年
八百啓介氏が「一八世紀後半の長崎貿易における盈物砂糖の流通について」『九州史学』第121号、1998年
若松正志「近世中期における貿易都市長崎の特質」『日本史研究』第415号、1997年
西和夫『長崎出島 オランダ異国事情』2004年、角川書店
7月6日のゼミにおいて、「犯科帳」(長崎奉行所の判決記録)の中から砂糖密売の一例を追った。ここでは、その概要をのべることにする。
取り上げる事例は1757年10月に起き、翌年9月23日に判決が出されたものである。これは、八百啓介氏が「一八世紀後半の長崎貿易における盈物砂糖の流通について」において盈物の初見であるとして紹介されている。この時期をふくむ18世紀以降は、盈物の量が増加しており、10年後の1767年には盈物の砂糖・薬種は販売が禁止される。この時点では、まだ日雇による処分が黙認されていた。
事件の流れ(1757年9月下旬)
・仁助がオランダ人との間で密売の相談をする。
→仁助が江戸町のりんの家を訪ね、密売の話を持ちかけた所、その量を尋ねられる。
→仁助が翌日オランダ人に確認、200斤を金2両2分で売りわたすとりんに伝える。
→りんは値段が高いとする。仁助はオランダ人に相談し、値段が2両1分となる。
→再びりん宅にて値段を伝えると、りんはお金がないが、そこへやってきた長右衛門が買い取ると伝えた。
(10月2日)
・仁助がりん宅にて、砂糖が30斤増えたので2両2分で買い取るよう偽りを伝え、手付金金1分を受け取る。
→仁助がオランダ人の手印をりん宅へ持参する。
→長右衛門が銭15貫文・りんが2貫文出し、りん宅にいた六助が2両1分に両替する。
→夜五ツ(およそ20時頃)長右衛門と六助が出島に赴き、砂糖の密売を行う。
→夜四ツ過ぎ(およそ22時過ぎ)砂糖を江戸町のりん宅へ運び入れる。
(10月3日)
・りん宅にて、砂糖の量を確認(182斤)
→りん・長右衛門の指示で、忠左衛門が喜平次のもとに口入を頼みにいく。
→砂糖屋重吉のもとで砂糖を売る。
(10月6日)
・密売一件にかかわりのあったものが預かりになる。
以上が事件の概要である(仁助が手付金を使って鉄槌を購入した岡村屋の手代や主人も「犯科帳」には挙げられているが、砂糖の密売とは話がそれるため省略した)。およその流れはつかんだつもりだが、疑問点も残った。各人物がどのような生業(地位)の者であるのか、この砂糖はこの後どのように消費されていったのか、などである。若松正志氏は「近世中期における貿易都市長崎の特質」の中で1793年に唐船から一艘から日雇や日雇頭などに配分された砂糖の内訳を出されている。これによると、1人あたり1.45斤から30.530斤まで幅があるものの、今回密売された182斤よりはだいぶ少ない。よって、盈物砂糖として182斤の砂糖を砂糖屋に運んだ場合、砂糖屋は本当に「犯科帳」の記す通り「密売之品とは毛頭不心附」のまま買い取るのか疑問がわく。砂糖屋の入荷状況を知る資料があれば、盈物として200斤近い量が1度に持ち込まれているかわかるかもしれない。また、密売砂糖の出資者である出嶋町の長右衛門が、それだけの盈物砂糖を集められる立場だったのか分かれば、もう少し事件の背景から盈物の流通にせまれるように思う。もし、ブログを読んで、資料や文献にお心当たりがあれば、ぜひご教示いただきたい。
<参考文献>
八百啓介「近世長崎における輸入砂糖とその流通」『和菓子』第9号、2002年
八百啓介氏が「一八世紀後半の長崎貿易における盈物砂糖の流通について」『九州史学』第121号、1998年
若松正志「近世中期における貿易都市長崎の特質」『日本史研究』第415号、1997年
西和夫『長崎出島 オランダ異国事情』2004年、角川書店