橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

初めて知った本当の不安

2024-02-03 17:32:53 | 火鉢クラブ

入院して2ヶ月が過ぎた。

私としても、人生の後半でこんなことになるとは思わず、乳がんが最初に見つかった時も放射線のピンポイント治療で腫瘍は消え、10年間は普通に過ごしていました。10年後、再発を告げられた時は、当初は再発だと治らないという世の常識に縛られ、不安になったものの、代替治療を続けていたら(と言っても、そこまで高額なものはやってません。そもそも、お金がなかったので)、腫瘍は小さくなってきたので、再発後3年くらいはそこまでの不安はなく過ごしてこられました。まだ、身体も普通に動きましたし。それが、2017年か2018年くらいから、皮膚転移が始まり始めたのです。良くなってきていると思っていただけに、不安がむくむくと膨らんできました。

 

皮膚転移は一度良くなったかに見えましたが、それはただの過程で、徐々に大きくなっていきました。外に腫瘍が出るだけならまだいいのですが、私の場合、皮膚転移は左胸の皮下に蟹の甲羅のように被さって癒着している感じで、多分、いわゆる鎧状がんというのでしょうか、皮膚の下で左の体幹を圧迫し、私は腰の深く曲がったおばあちゃんのようになってしまいました。もう買い物出るほどは歩けず、部屋の中だけの生活。外は電動車椅子です。こうなると、今後の不安は増しました。一番は、満足に仕事ができず、生活費や治療費をどうするか、、、。中にはやめたサプリメントや治療もありました。さらに、ベッドでまっすぐに寝れなくなり、睡眠の質も落ちていきました。こんなことで病気が良くなるわけがありません。リクライニングの作業椅子に座って寝ることも多くなりました。常に体は座ったような状態。どんどん知らない間に疲れも溜まっていっていたのでしょう。それと同時に不安も無意識のうちに積もっていたような気がします。

 

パソコンで文字を書くだけの仕事は何とかできたので、企画書や提案書を書くような仕事をもらってはやっていたのですが、Wordでファイルを最終的に作らなければならない提案書は、膝の上にMacBook Proを乗せて作業するため重くてかなり疲れます。やはりベッドに寝たまま、少し上半身を上げた姿勢で、パソコン作業するのは結構しんどい。

なので、iPhoneやiPadで文章を書いてネットにアップすればいいnoteやブログだけで、生活費や治療費が賄えるほど稼げることが、今の私にとっては1番体にも優しいし、それ故にそうできることが、今の私の目標でもあるのです。

 

ノートの作家やブロガーやもし可能なら、YouTuber、それをちゃんと稼げる仕事にするために、引き続きそれぞれのページではサポートをお願いしております。なにとぞよろしくお願いいたします。

 

ちょっと不安な話から離れてしまいましたね。でも、お金がないということは、他の不安も増大させてしまうのです。かといって、お金さえあればいいと言うものでもないのですが、お金がないと言う事はやはり大きな不安につながります。私は実家の住宅ローンを抱えているということで、ある意味、それを言い訳に貯金を怠ってきてしまいました。蓄が少なかったことを、こうして病気になってみて反省したと言う馬鹿者です。皆さん人生何が起こるか分かりません。ちゃんと貯金はしておきましょうね。まぁ私が言っても説得力ないですが、、、。

 

がんが再発し、体が動きづらくなり、経済的に頼る人もなく、常に不安はあったわけですが、そうした不安は本当の不安ではないと言うことをさらにその先知ることになります。

もちろん、上記のようなことも大きな不安です。しかし、それとはまた質の違う不安が襲ってくるようになりました。

 

これまでこれだけたくさんの不安がありつつ、それでもなんとなく自分は大丈夫と思うことができていました。しかし、今回急に手で体を支えてつたい歩きをしても自分で歩けなくなり、入院してみて、これまで感じたことのない不安を感じるようになったんです。それはまさに死への不安です。

 

以前、このノートにも入院後、怖かった話として、うとうとしながら目が覚めて、その時私は既に死んでいるんじゃないかと思ったと言う話を書きましたが、その時は本当に怖かった。それは不安を超えていたと思います。その時の文章にはその理由として、その日、鎮痛剤をいつもよりたくさん飲んでいたこと、その副作用ではないかということや、常にベッド上に寝かされ、ベッドから滑り落ちることを懸念して、ベッドから足を下ろしてはいけないということで、ベッドにセンサーまでつけられていたこと、そういうことがまるで監禁されているような気分にさせ、私に妄想を見させたのではないか、、、。そういうことを書いています。本当にそれが理由だったかは分かりませんが、その時に初めてあの世へ行ってしまう怖さというか不安を感じたのです。この世の誰かとつながっていないと今ここで寝てしまったら、私は本当にあの世に引きずられていってしまうのではないか。そういう思いが私の背中をゾクゾクさせました。こういう時、誰に連絡すればいいのか?迷いつつ、何箇所かにLINEを送り、返事をもらって、何とかこの世とつながっている実感を得ることができ、その後眠ることができました。

 

よく死を覚悟すると言いますが、私にはなかなかそれはできそうにありません。しかし、宗教書であるとか、神や仏の教えと言うものには、死をも生をも超越し、死の覚悟等と言う概念も乗り越えねば、悟りの世界は知ることができないと言われています。

私というものが怖くて怖くてしょうがない。自分というのを今回初めて深く実感しました。私は大層この世に未練がある俗物であるということも改めて知りました。しかし、清濁合わせ飲むと言うように、人間そんなに正しく生きられるものでもない。そして、それがいいとも限らない。

 

かつてあなたは三途の川を渡りかけて途中で引き返してくるんでしょうそういうシナリオになってるんでしょと言われたことがあります。荒唐無稽な話ですが、途中で引き返してくるという言葉は、私の不安をずいぶん小さくしてくれました。ただ三途の川を渡りかけると言う状態がどういう状態を指すのかよく分かりませんが、既にこの前1度、私は死んだと言う感覚を抱いたことが三途の川を渡りかけということであればいいのになぁと思いつつ、そんな甘いもんでは無いのかなあとも思いつつ。でもそういう人間社会の常識的な考え方で考えるのもこういう場合は間違いなのかなとも思ったりしつつ、結局はそんなこと考えず、今は養生し、考えすぎず、今を楽しみ(といっても、体が突っ張って動きづらかったり、背中の床ずれの周辺やサージカルテープを貼ったところがかゆかったり痛かったりすると、なかなか楽しむという境地になるのは難しいのですが。)今まで何でも考えすぎて細かいことを言い過ぎていた自分からもっとおおらかな自分に生まれ変われるようゆったり日々暮らせればと思います。

 

死ぬのが怖いならば、怖いよーって泣けばいい我慢などする事は無い。それが正直な自分です。

 

話は変わりますが、朝ドラのブギウギを見ていると、あんなに自分の存在を求めてくれる人がいても、人は死んでしまいます。私は自分にはそうした人がいないから、死への覚悟ができないのだろうと思っていました。そういう人がいるから、覚悟ができて、不安も小さくなるということでもないのだろうなぁ。

 

なんだか不安とタイトルに目打った割には、不安の正体についてあまり掘り下げられなかった気がします。でも、やっぱり私の不安は私はこの病気では死なないということを信じられなくなりかけたときにむくむくと膨らみ始め、なんとなく病状が良くなっているような気がし、このまま生きていられるかもしれないと思うときに小さくなる気がします。ご飯がまずく感じたり、食欲がなかったり、体のつっぱりが増して体幹が動きづらくなったり、単純に鎮痛剤が切れて調子が悪くなると不安になり、また薬を飲んでそうした症状が軽くなると大丈夫かもと思える。その程度の不安のようです。

 

結局は死にたくないだけか…。

生きるとか死ぬとか考えないようにする事はできないものなのかなぁ。

しかし、ややスピリチュアルに、過去の後悔や、未来の心配をせず、今のことだけを考えよという人も腹をくくってと言うような言い方をする方は多いです。腹をくくってってどういうことなんだろう?この場合やはり死ぬとか生きるとか置いといてってことなのでしょうか。確かにそうできれば不安と言うものはなくなる気がします。もしかしたら、こんな分析みたいな文章も書いてる場合では無いのかもしれません。こういうことを書けば興味を持って読んでもらえるのではないかと言う下心がないとも言えない。う〜ん、また考えすぎのスパイラルに入ってきそうなので、今回はこの辺で終わっときます。

 

現在1時的にショートステイに移っていて、個室なので、喋りながらマイクで拾って文章を書いてみました。一次よりもかなり精度が上がり、ほとんど音を拾い間違う事はありませんでした。すごいすごい。これまではキーボードで手で書くのと語り書きでは出てくる内容も違うものになると言う気がしていましたが、今回こうして書いてみて、その辺はどうなのかよくわからなくなってきました。手で書いた方が深い思考ができる気がしなくもないですが、考えすぎないというのが今の私の目標でもあるので、まぁいいかなと思っています。こちらの方が目も疲れませんね。なので、病院に戻ったらこんな長い文章が書けるものか、ちょっと自信がありませんが、その分体が良くなるようがんばります。

 

というわけで、いつもいつもで申し訳ありませんが、何卒、治療も含めた私の活動へのサポートよろしくお願いいたします。いかがサポートの窓口となっております。

 

*************************************

 

《中村有里の文筆および火鉢クラブ活動および

再発乳がん入院治療費のクラウドファンディングはこちらから》

 

【カード決済窓口】

火鉢クラブ=中村有里への支援寄付窓口

https://square.link/u/rXN62HZR

 

(上のリンクを開き、ブランクのところに100円以上100万円未満でお好きな金額をご記入になり、お会計ボタンを押した後、必要事項を記入し、決済してください。)

※squareはテレビCMもやっている決済システムです。

 情報の暗号化などはちゃんとしております。手数料は3.6〜3.75%で通常のクラウドフ ァンディングは20%程ですので、拡散力はわかりませんが、なるべくご寄付いただいたものを自らの活動に使えるよう、こうした決済を選んでいます。

 

【銀行口座窓口】

(銀行振込がよろしい方。振込手数料がかかりますが、同じ三井住友銀行の口座からの振込ですと手数料はかかりません。)

三井住友銀行 赤坂支店

普通口座 8048480

口座名義 ナカムラ ユリ

 

 


ご無沙汰していました。再入院報告とクラウドファンディングのお願い。

2024-02-01 23:51:45 | がん徒然草

みなさま大変ご無沙汰しておりました。

一昨年末に引き続き、再び入院し、今回は再入院日から更新が止まって早40日が経ってしまいました。実際、なかなか1つのことを文章にまとめるのが大変だったのです。

入院前、朝、目がさめると、家で急に体が動かなくなり、自分の手足で立ち上がる事も歩くこともできなくできなくなっていました。だからトイレにも行けない。もちろん胸を洗う事も。これはもう人手を借りるしかない。それまではギリギリまたげていた風呂場の入り口の段差も、左脚が上がらず入れない。トイレならオムツでなんとかなるものの、胸の滲出液はどうしようもない。それで、外来の看護師さんに電話し、緊急入院することにしました。

入院した最初の頃は、iPhoneやiPadに5文字書いてはうつらうつらし、夢と現の間を彷徨ったりしていたため、ちっとも文章が進まず、友人からのメールの返信にも数日かかったような状態でした。そのため仕事もできず、他のスタッフにおねがいすることに。経済的には大変困っているのに声を出す事も億劫で、Youtubeもなかなかはじめられない状況でした。

経済的なことを言えば、住宅ローンはもうギリギリ、あと一回払えなかったら、家の権利は保証会社にわたり、団体信用保険も効力がなくなるため、現在、価格が落ちている田舎の実家では、借金残高の方が多く、かえって出費が多くなるのです。

また、先日、母が東京へ来ましたが、その時に、東京で暮らす事は到底無理と実感しました。思ったより物忘れがひどく、スマホを持ってても使えない、ほとんど私が世話せねばならないような状態。1人だとどこへも行けず、故郷の友人らを思い、寂しいとこぼし出します。これでは、私の食事を作るどころか、先に、東京にやられてしまいそうです。
母には現在、生活保護を受けてもらっていますが、うちの地元は生活保護費も低くて、年金もらうのと1万円しか違わず、月6万ちょいで暮らせという。今、水道光熱費も高いし、母も80代で、働けるパワーはもうなくなってきてるし、酷な金額です。ただ、母も高血圧の薬とか飲んでるんで、それが無料になるのだけはありがたい。

なかなか声出すのも大変で、Youtubeやるのもままなりませんが、ここはnoteを広めるためにもやるべきか?もう、迷っている場合ではない段階かもしれません。毎回、2、3分ならしゃべれるかなあ、、、。

アラブの石油王とか、今ならIT長者が、ちょいとポケットマネーを振り込んでくれないものだろうか。いや、今なら、安倍派のパー券代金の一部を、、、なんて、それをやったら私も犯罪?とにかく足長おじさんプリーズです。

とにかく、お金になることをやらねば、病気どころではない(ことはないが)。
当面の問題は1月25日午前までに18万5千円のクレジットカード代金を払わないと、カードが解約され、他にカード契約はもうできない状態なので、noteさえ更新できなくなるというピンチ。ノー利子で貸していただけるのでも良いので、ここを乗り切りたい。

その次は入院の問題。国の決まりで、同じ病院には2ヶ月しかおられず、1月31日には退院せねばならないのですが、わたしまだ、自分の力で立って、歩けないのです。一週間から10日ほど家で過ごせば、病院のベッドさえ空いていれば再入院で。。戻ってくることができるそうです。しかし、31日の時点でまだ歩けなければ、在宅でこれまで週2日だったヘルパーさんを極限まで増やし、胸の処置などで、在宅看護師さんにきてもらわねばならない。しかしそれには、7、8万の金額がかかりそうですが、母も私もそんなお金はない。もちろん、これまでの入院費もかかります。高額医療費制度で安くはなりますが、それで、も今の私には大金。そこで、私の入院治療費として、自分立ち上げのクラウドファンディングをやれないかと思っているのです。

ちなみにこの文章は1月22日にnoteやFacebookにも載せていて、みなさまから上記の支払いも含め、とりあえずの支払いはできそうな金額のご協力をいただきました。本当にありがたい限りです。しかし、入院も治療もまだ続きます。その間は満足に働けません。クラウドファンディングというか、このブログやnoteにいろんな文章は書き続けていますが、そのサポートというか寄付はまだしばらくお願いし続ける所存ですので、何卒よろしくお願いいたします。そして、いずれは文筆などで経済的自立と思い通りの治療をやれる費用を稼げるようになりたいです。

身体の方はわずかずつではありますが、入院後、その前に比べれば、動けるようになってきていると思います。ただ、時間はかかっている。なので、なんとか自分の足で立って、手の力を借りてでも、トイレや風呂場に行けるようにまで回復したい。そして、そこから、奇跡の再発乳がん回復劇にまた挑戦したいのです。

再発が分かってから、今年で丸10年です。再発後もう10年も生きたらいいじゃないという声もあるかもしれない。しかし、私はまた起き上がって、隅田川沿いをジョグしたいのです。火鉢クラブ作って、みんなに楽しんでもらいたいのです。地元の町おこし計画もあります。

入院して、今回はもうだめかもと思った時もありました。しかし、ここへきて、身体も少しずつ動きやすくなってきて、最初はあまり食べられなかったご飯もだいぶ食べられるようになってきました。マグミットという便秘薬を日に一錠と便を押し出すというか、出やすくするピコスルファートという薬は看護師さんに飲まされますが、お通じも毎日あります。自分ではマグミット飲まなくても出るのではないかと思うのですが、それは看護師さんが許してくれません。

にしても、身体というのはすごいです。
入院直後は怖い思いもしました。その辺はまた別の項目で書きます。
ですので、何卒何卒、今一度、私を助けてください。
noteを書き続け、奇跡の寛解に向かい、火鉢カフェを作り、皆さんにお返しができるようがんばらせてください。
何卒よろしくお願い申し上げます🙇‍♀️。

《中村有里の文筆、火鉢クラブ活動、再発乳がん
 入院治療費クラウドファンディングはこちら》

では、私の入院治療費と文筆業などの資金サポートを目指してのクラウドファンディングですが、お返しは、現在個別に送るグッズなどは無理ですので、このnoteのこれから書く記事も無料にして読んでいただけるようにし、サポートしてくださった上、メールアドレスを送っていただいた方にはそれらの方だけが読める文章を送ります。

目標金額は特にありませんが、これまでの入院費、治療費や日々必要な医療品、ヘルパーさん、在宅看護師、在宅医師、必要なら再入院費(病院側はこれが必要という前提で考えているよう)などを考えると、7、80万円から100万円くらいが必要に思われます。さらに細々したものがかかってくるかもしれません。
そして、徐々に働ける身体に戻していきます。
皆さま何卒よろしくお願いいたします。

情報拡散していただくだけでもありがたいです。
私のことを知らない方にも、このnoteを読んでいただき、
ご協力を仰げれば幸いです。

寄附窓口は以下になります。
何卒よろしくお願い申し上げます🙇‍♀️

【カード決済窓口】

火鉢クラブ=中村有里への支援寄付窓口

(以下のURLをクリックすると決済サイトに飛びます)

https://square.link/u/rXN62HZR

(ブランクのところに100円以上100万円未満でお好きな金額をご記入になり、お会計ボタンを押した後、必要事項を記入し、決済してください。)

※squareはテレビCMもやっている決済システムです。
 情報の暗号化などはちゃんとしております。手数料は3.6〜3.75%
 で通常のクラウドファンディングは20%程ですので、拡散力はわか
 りませんが、なるべくご寄付いただいたものを自らの活動に使える
 よう、こうした決済を選んでいます。

【銀行口座窓口】

(銀行振込がよろしい方。振込手数料がかかりますが、同じ三井住友銀行の口座からの振込ですと手数料はかかりません。)

三井住友銀行 赤坂支店
普通口座 8048480
口座名義 ナカムラ ユリ

2024年1月18日 春
中村有里
yuridas67@mac.com


生き延びるためのカンパお願いします

2023-10-06 00:00:12 | がん徒然草

なんと1年以上、こちらのブログには投稿していませんでした。しかし、実は最も古く、これまでのアクセス数が多いのもこのブログです。朝生について書いて、田原総一朗氏にツイッターでリプをもらった時にはgooブログでアクセス1位になったこともある。なのにそんなブログを放置するなんて・・・。それに今、私はなるべく多くの方に訴え、お願いしたいことがあるのです。このブログを氷漬けにしていた1年間の間に、最初乳がんの症状が進み、去年の秋には極度の貧血で入院したり、退院後も皮膚転移のために、体幹が動きづらくなり、外出時は車椅子生活に。仕事もままならなくなりました。それで、細々と書く仕事でできそうなものを少しやり、あとは皆様のご支援で生きてきました。それがここにきて、さらに厳しく、経済的なピンチを迎えております。そこで、こちらのブログの読者の方にも状況を知っていただき、カンパいただけないかと、再会した次第です。以下の文章は、私が別で始めているnoteやもう一つのブログ火鉢クラブに掲載しているのと同じものです。なので、すでに読まれている方もいらっしゃるかもしれませんがそこはご容赦ください。では、以下、私の近況とカンパのお願いです。まだまだ命に対しても諦めておりません。回復を目指すために治療費も必要です。回復して普通に動けるようになった日には、当初から行っております火鉢カフェの実現や地元の町おこし、作家活動など、残りの人生を賭けてやっていければと思います。

よろしくお願いいたします。

*********************************

昨年の4月から5月にかけて、職業フリーランス、実家の住宅ローンありで経済的に頼れる親族のいないおひとりさまのがんが再発したらどうするという趣旨で、朝日新聞beに連載させていただきました。あれから1年半近くが過ぎました。早いものです。

「朝日新聞デジタル それぞれの最終楽章おひとりさまとして」
https://www.asahi.com/articles/DA3S15259364.html
(現在、有料記事となっておりますが、2023年10月25日までは秋得キャンペーンで最初の2ヶ月間100円で有料登録すれば、全ての有料記事が無料で読めるようです)

この1年半の体の変化や状態は都度都度自分のSNSやnote、ブログなどに書いてきましたが、あらためて今回、資金援助をお願いするにあたって、現在の状況をお伝えしようと思い、この投稿を作成しました。

朝日新聞の連載をしていた昨年のGW頃はまだ、がんが再発したとは言え、歩いてどこにでも行けましたし、自転車にも乗れました。よって、無理はしたくないとは言え、仕事もやろうと思えばできました。それがその後、昨年夏頃から胸の腫瘍の皮膚転移が進展し、皮下で癒着したのでしょうか、鎧状がんというような状態になり、体幹を固着させ、前屈みになったまま、真っ直ぐに立って歩けなくなってしまいました。たまに街で、90度くらい腰の曲がったおばあちゃんを見かけますが、そんな感じです。部屋の中で、トイレに行ったり、シャワー浴びたりはできますが、長距離歩くことはできないため、外に出る時は車椅子移動で、要介護3の認定をもらっています(がん患者などは私の年齢でも介護保険が使えるのです。詳しくはこちらの記事を「介護保険申請をした」https://note.com/renasakakibara51/n/nbc2e21721cf3)。

ただ、椅子に座ってパソコンを打つ作業はできたので、これまでディレクターとして仕事させてもらっていたミニ枠の番組のネタの提案書類を書くリサーチャーのような仕事は続けさせてもらっています。しかし、これでは収入は以前の3分の1ほど。必要な生活費、治療費の4分の1ほどにしかなりません。

私の最近の仕事については、
noteの投稿(https://note.com/こい。。/n/nf1acd79c3b44)を読んでもらえればわかりますが、そういうわけで、たまに、zoomを駆使して、カメラマンだけ取材先に行き、私が家からインタビュー取材するというアクロバティックな手法でディレクターをやらせてもらうこともありました。しかし、zoomのインタビューと既存の映像素材だけで構成できるようなネタはたまにしかなく、どんどん生活は赤字になっていきました。

さらに、この夏は体調の厳しい日も多く、私が担当できそうな仕事があまりなかったこともあり、収入は激減。先月もカンパをお願いし、なんとか月末の支払いを乗り越えられました。電気代の高さと、緩和ケア科で処方される鎮痛剤の高さが本当に身に沁みました。

さらに、9月に入って、体幹の癒着が広がったのか、動きにくさがさらに増してきて、現在、トイレ、シャワー、食事準備、ベッドへの移動以外はほとんど椅子に座ったままです。椅子に座って、鎮痛剤を飲んでいても、体幹のつっぱり感、圧迫感は消えるわけではなく、ずっと胸の皮下をぐるりと鎧にはめられ、圧迫されてるような感覚を感じながら過ごしているのです。刺すような耐え難き痛みというのではないので、こうして文章を書くこともできますが、パソコンやタブレットを膝に乗せ、キーボードを叩くだけでも一苦労です。

さらに、鎮痛剤の副作用で睡魔が襲ってくるため、昼間もうとうと。一つの文章も相当集中しないとなかなか仕上がらない始末です。レギュラー番組で、構成作家の仕事をさせてもらえればまた収入が戻ると思い、企画募集にも応募しようと意気込んでいましたが、この9月の調子の悪さに、作業をする余裕がなく、諦めてしまいました。資料も添付し、パワポを使ってデザインまで工夫せねばならぬ昨今の企画書は、作るのにかなり労力がいるのです。調子の良い日がしばらく続けばできるのかもしれませんが、このまま生きていられるのだろうかという不安が頭をもたげるほど胸の圧迫が強まった9月の私にはそれはできませんでした。

テレビで介護疲れで家族を殺したとか、そういうニュースを見ると、なんで私が生きてるんだろうと不思議になることもありました。

体幹が圧迫されているので、首も固着し、引っ張られ、ご飯を食べるのも大変です。飲み込む能力は衰えていませんが、物理的に圧迫されて喉も、腸の入ってる部分も狭くなっているのか、これまですんなり食べていた量の半分くらい食べると、徐々にご飯をまずく感じ始めます。もうこれ以上は食べるなという警告なのか?でも、炭酸水を飲んで、ゲップを出すと、次の一口二口が食べられる。やっぱり、詰まってる感じです。それに、食事の量が減っているとは言え、普通の人が食べると同じものが食べられるし、これだけ、家でずっと座っているだけなのに、これまで通り食べられる方がおかしいでしょう。

それに、やや味覚障害気味です。これは、皮膚転移の部分からの滲出液や出血があるため、身体からアミノ酸やミネラルが大量に流出していることに原因があるのではないかと思います。この栄養分の流出は、昨年の入院の原因となった貧血につながるので気をつけねばなりません。

あと、自分でも不思議なのは、これだけ身体が突っ張って、ずっと前屈みで、床しか見えず、冷蔵庫も一番上の冷凍室は踏み台に上がらないと中も見られないような(なので、今年の頭に、背の低い小さな冷凍庫を買い、その上にレンジを置いてい)、不自由な状態で、よく自分で食事の準備をしているなってことです。普通のガス台の高さだと、鍋やフライパンの中身は見えません。それで、ただ茹でればいいようなものだけは普通のガスを使い、中を見ながら調理せねばならない炒め物などは、椅子の上にカセットコンロを置いて、前屈みの姿勢でも中が見える高さにしたガス台で調理しています。しかし、ずっと前屈みなので、徐々に腰が痺れてきますから、途中、椅子に座って休み休みの作業です。額からはポタポタ汗が落ちてきます。元々食べることは好きで、食い意地は張っていますが、こんな身体になっても、食事の準備だけはやるんですよね。でも、鶴の恩返しじゃないですが、こんな姿勢で腰曲げて、ご飯を作っているところは、あまり他人に見られたいものじゃない。そんな自分の今の姿を想う時、つい、生きている意味はあるのだろうかと考えそうになってしまいます。

このまま、癒着が不可逆に広がって、胸の中の圧迫も強くなったらどうなるのだろう。ご飯も食べられ、こうして無理すれば文章も書ける、頭はしっかりしていると想うし、身体が物理的に動きづらい、突っ張る、圧迫される以外の不調というのは、あまりない。便秘はあるが、めまいとか吐き気とかはない。もし、死に至るようなことがあるとしたら、どういうことが原因で、どういう感じで死ぬのか全く想像がつかない。あまりの圧迫感の強さに、心臓が圧迫され心不全を起こすとか、首から延髄をつなぐ筋が引っ張られている感じの時には、頭の血管が切れるのかとか、座ってばっかだからエコノミークラス症候群みたいなことかとか、そんなことを想像しながら、首や頭をマッサージしたり、足を揉んだりしているのです。でも、全く体も動かず、しゃべることもできない難病で、国会議員になられている方もいると思うと、私の今の状況で死ぬとかいってるのはおかしいのかもとも思います。

このところ、ちょっと調子が悪かったので、私の状態はもう不可逆かもしれないと思いがちでした。しかし、考えてみたら、その背景には「お金がない」という大きな悩みが横たわっていることに気づきます。夏以降、生活費がギリギリで、代替治療のクリニックでの処方も受けていません。それまで、ちびちびながら飲んでいた液体プロポリスも高額なので、買えないでいます。日々、それなりに暮らせるための緩和ケア科の鎮痛薬のみを処方してもらっていますが、鎮痛剤は病気を治すという意味では、体にとってあまり良いものではありません。

しかし、3週間ごとに通う緩和ケア科では、医師はもう「治す」とか「快方に向かわせる」ということは考えておらず、病気が進行して、命尽きるまでをいかに快適に過ごすか、そのための鎮痛剤の最適処方についてしか考えてくれません。少しでも楽になるために、この段階に至っても手術するという方法はないのだろうかとか、皮膚転移だから皮膚科の医師はどういうだろうというような質問をしても、うーんと押し黙るばかりで、まあそれは、普通は私くらいの状態だと、大抵の病院ではもうやれることはないと言われると考えているからで、まあ、そうなんでしょう。

私が少しでも、抗がん剤以外のなんらかの治療を考えるなら、末期癌でも可能性はなくはないと考えている代替医療の医師を見つけて、相談するしかないのでしょう。しかし、それは保険が効かない。ここでもお金が必要です。

私が1000万円でも貯金があれば、そのくらいのことはできるでしょう。それに世の中にはそのくらいの貯金なら持っている人はたくさんいます。いろいろ事情があったとは言え、自分のこれまでの適当な生き方を反省せずにはいられません。でも、反省だけしていてももう遅いのです。自分で動いてなんとかしなければ、何もできず、多分このまま無念のうちに命尽きる。

昨年末、父を亡くしました。父を看取ることもできず、心配ばかりかける中で最期を迎えさせてしまったことは後悔してもしきれません。せめて残された母くらいは、悲しませず、私が母を看取りたい。それには私がもう少し動ける程度には回復しなくてはなりません。

それに、私は自分の身体が動かなくなる直前まで、実家の街に帰り、町おこしをやろうと考えて、地元の同級生に相談もしていました。ずっと考えていた火鉢カフェのコンセプトは実家の方でも東京でも、やれるところで始め、そのコンセプトを多くの人に共有してもらって、全国の共感した人にもやってもらえればとも考えていました。しかし、こんな状態になって、なんだか、そういう目標が自分の中で有耶無耶になってしまっています。

それをうやむやにしないためにも、もっとお金を稼いで、自分の思う代替治療くらいはやれる状態にして、お金の心配をなくし、心を落ち着けた上で、目標を今一度整理して、発信して行かねばと思ったのです。

昨年、朝日新聞beに書いたエッセイでは、youtuberになろうかと書きましたが、それもまだ着手できていません。やらなかった間に、身体の状態はさらに悪くなり、ライブ配信することも一苦労な状態になってしまった。胸の圧迫で、横隔膜を使う「しゃべる」ということは、ちょっとしんどいものになってしまった(もちろん、zoom会議などではなるべく普通にしゃべっていますが、結構、腹筋を使うので、終わった後の疲れ方が以前とは違います)。でも、それも言い訳なのかもしれません。アバターもあれば、AI音声もある時代です。足りないのは勇気と気力だけなのかもしれない。

私は自分の回復を諦めていません。諦めそうになることはあるけれど、死ぬという想像がつかない。想像がつかないうちは死ねないんじゃないかと思います。その間に、人間の生と死というものについてもっと考えて、世の中に発信できたらとも思っています。
多分、今の私は、あまり多くの人が体験したことのない場所にいるんじゃないかと思います。がんが再発した時どう向き合い、どういう治療をし、死の覚悟というものはあるのかないのか、医師の言葉をどこまで信頼するかとか、、、。

なので、もう少し生き延びさせてください。
多くの人が見てない世界を伝えられればと思います。。
そのためのカンパをよろしくお願いします。

クラウドファンディングをすると、皆様からの支援から20%ほどの高額の手数料を引かれてしまうので、カード決済のカンパについては、Squareという決済システムで、独自のカード決済サイトを作りました。こちらだと、3.6%の手数料で済みます。

名称は「火鉢クラブ=中村有里の活動サポート」となっております
https://checkout.square.site/merchant/ML9XEFQ92N6PZ/checkout/QJBOWTPES6Y42SAEUEYR6ZRC

現金でのご支援の場合は、以下の銀行口座にお振り込みお願いいたします。

三井住友銀行 赤坂支店
普通口座 8048480
名義 ナカムラ ユリ


ご支援いただいた資金は私が生きのび、自らの信念で必要だと思う活動を行うために使わせていただきます。何卒よろしくお願いいたします。


この際、陰謀論に風穴を

2022-07-18 01:30:06 | 国内情勢

メディアの中のそれなりの年齢以上の人々や知識人と言われる人の多くや政治家たちは、これまでも統一教会と特定の政治家の関係を知っていて、俎上に上げて問題視することはなかった。赤旗は記事化していたが、それが国会で大きく取り上げられ、世の中に拡散することはなかった。ネット上にはそうした情報がいくつも転がっていたが、根拠のないネット情報というイメージの前に問題化することはなかった。触らぬ神に祟りなしといわんばかりにスルーされてきた。その問題を掘り起こすことが、どういう災厄をその人にもたらすのか?

どこまでが真実でどこまでが陰謀論か判然としない世界で、この問題を深掘りしたら自分が潰されるという恐怖で、みな問題を見て見ぬ振りしてきた。特別会計の闇を暴こうとした石井紘基議員が殺されたり、原発事故の真実に迫ろうとしたジャーナリストが自殺したり、そういうことが疑惑を知るものをより萎縮させた。

しかし、皮肉なことに、安倍元総理を殺害するという蛮行をきっかけに、これまで知っていながら知らないふりをしていたことをメディアも語り始めている。悲劇的な事件の真相究明という大義名分を得て、やっと言論は動き始めた。しかし、今朝の日曜討論で江川紹子氏の指摘を司会者がスルーしたように、いまだ動揺を隠さないメディアもある。裏には何があるのかわからない。私などが知ることのできない、世界の権力の秘密があるのか・・・。

しかし、そう考えることは陰謀論に絡め取られ、さらなる言論の萎縮を招く。今は、きっかけはどうあれ、陰謀論を隠れ蓑にあいまいなまま放置されてきたことを追求できるだけするべきだ。

Qアノンだのなんだの、世界が陰謀論に覆われ始めている今、悲劇がきっかけだとはいえ、せっかく空いた風穴をこのまま閉じてしまっては、さらに陰謀論が幅を利かせる世の中になってしまう。

人の恐れや不安につけ込んで、陰謀論の影に隠れて好き勝手するものを許してはいけないと思う。
こんなこと書きながら、私も言葉を発することが怖かったりする。でも、この風穴から何かを変えていかねばならないとも思う。


安倍元総理銃撃事件報道を見ながらモヤモヤしていること

2022-07-09 21:35:26 | 国内情勢

安倍元総理が銃撃され亡くなったことを報じる報道を見ながら、ひとつモヤモヤしていることがある。ちょっと半信半疑で書く。

モヤモヤというのは、この事件を受けての政治家やメディア、ジャーナリストのコメントの多くが「暴力による言論の封殺は許されない」と訴えていることだ。

今回の事件が選挙期間中であり、銃撃されたのが安倍元総理という政界の大物であったところから、過去の政治家が狙われたテロを引き合いに出し、その流れの中で今回の事件が語られる。
このところの世の中の混乱と疲弊ぶりが戦前と比べられることも多いため、当然、五・一五事件や二・二六事件という言葉を出す人もいる。私とて、最初はそういう事件が頭をよぎった。しかし、それらと同列に考えてもいいのか・・・。

山上容疑者の取り調べでの発言の真偽についてはまだ調べが必要だが、現状の報道では、その動機について「安倍元総理の政治信条への恨みではない」とし、自らの家庭を家庭崩壊に陥れた特定の宗教団体への恨みを晴らそうと、その宗教団体と安倍元総理がつながりがあると思い込み犯行に至ったと供述しているという。

この供述が真実だとしたら、この事件は、ターゲットが大物政治家ではあったものの、山上容疑者の個人的な恨みによるものである。五・一五事件や二・二六事件のような、純粋な政治への不満によるテロと同列で語り、「言論封殺に負けるな」とイキリ立っていいものなのか・・・。

今のところ、容疑者が安倍元総理に不満を抱いていたのは「ある宗教団体とのつながり」のみで、その政策や政治信条に対してではないし、今のところ、山上容疑者は単独犯で、同じ考えを共有する共犯者もいなさそうである。安倍元総理が主張していた政治信条を、自民党の同僚政治家が主張したところで、また銃弾に狙われるということはないのではないか。

今回の事件は、現状では、政治思想や信条に絡んだものではないし、組織的なものでもなさそうだ。家庭が崩壊し恨みを抱えた容疑者は精神的に不安定になっていた可能性もある。どちらかというと、近年増えている、絶望した「無敵の人」による無差別殺人に近いものを感じる。もちろん、ターゲットは無差別どころか、いまや政界のラスボス的存在になった安倍元総理。その後の政界への影響は計り知れない。

しかし、防衛費拡大論議だとか憲法改正問題だとか、戦争の匂いのする案件がクローズアップされているこの時期に、五・一五や二・二六の名前を挙げて今回の銃撃事件を語り、戦争になだれ込んでいった時代を想起させることは、戦争も辞さないと考えている指導者層の思う壺になってしまうのではないか・・・。

私の考えが足りないのだろうか?

大体、今回の事件を受けて「言論封殺」とか言ってるのは政治家やメディアであって、市井の人々はただただ驚いているばかりではないか。犯行の理由がわからずただ怖いねと言っている人々に、これが言論封殺で、政治的自由を奪うものであるというイメージを植え付けることは、かえって世の中にそういう空気を蔓延させることになるのではないかといぶかってしまう。

五・一五とか二・二六とかいう前に、まずは安倍元総理のご冥福を祈りつつ、山上容疑者がなぜこうした凶行に至ったかの動機や背景をきっちり調べるべきだ。

投票日前日の今日、この事件の報道が比較的少なく、通常の番組編成に戻ったことはちょっとホッとした。
選挙と今回の銃撃は無関係である。
選挙後、安倍総理の悲願を達成したい・・みたいなことを言い出す政治家が出てこないことを願う。


朝日新聞be「それぞれの最終楽章」に寄稿しました。

2022-04-11 18:44:10 | がん徒然草

4月9日(土)の朝日新聞beの「それぞれの最終楽章」という欄に寄稿しました。

https://digital.asahi.com/articles/DA3S15259364.html?pn=2&unlock=1#continuehere

サブタイトルは「おひとりさまとして」。独身で経済的に頼る人もない、借金もあって、貯金もない、さらにフリーランスという私が、どうやってこのピンチを切り抜けるのか。。今回から6回ほどの連載になりますが、これを書くことも、このピンチを切り抜けるひとつのきっかけにできたらと思っています。

体もちょっと動きづらくなってきて、この先、テレビディレクターをやっていくのも難しいかもしれないので、この寄稿をきっかけに、noteやブログに投げ銭をいただいたり、youtubeチャンネルを立ち上げたりできないかと思っております。冊子も出せないかなとかも考えています。

みなさま応援してください!

ひとつ気に入らないのは「最終楽章」ってタイトル。そういうつもりはないんですけど、そういう欄なのでしょうがないですよね。生まれ変わって寛解するってつもりだから、今の私の最終楽章ってことだって考えてます。

こうして書きながら、世間の常識では、末期癌だともうダメでしょって読んだ人に心のどこかでは思われてるんだろうな、、そういう思いが念となって伝わってくるとやだなとか思っちゃうんですけど、そんなネガティブな思いは吹き飛ばし、読んでくださった皆さんの、がんばれ〜っていう声だけを糧に、私が生き延びることがみんなの希望になると信じたいと思います。

自分が病気だということを忘れるくらい一生懸命になれることをやりたい!

それが「火鉢カフェ」を作るってことだったりしますが、そのための資金集めもしたいです。

まだまだやりたいこといっぱい、あと20年は生きねばなりません。

そのために、私の書くもの読んで、応援してください!

癌がなくなったら、火鉢カフェ設立に向けてのプロセスを書いていきますので!

また、こちらのnoteでも書き始めてますので読んでみてください。

https://note.com/renasakakibara51

以前は榊原玲奈名義で書いてましたが、もう本名も明かし、榊原玲奈こと中村有里名義にしております。

こちらはどなたにも読んでいただけるよう記事に値段はつけていませんが、任意の金額を投げ銭できますので、応援してやろうと思ってくださる方は、ぜひよろしくお願いいたします。

では、今後ともよろしくお願いいたします。

 

 


ほとばしっていた坂本花織と樋口新葉

2022-02-18 00:33:41 | Weblog
北京五輪フィギュア女子、坂本花織が銅メダル、樋口新葉が5位に入賞した。
 
坂本花織の滑り。特にショートと、樋口新葉のフリーのステップシークエンスは「ほとばしるような」という言葉がぴったりの生命力を感じさせる滑りだった。
 
全身で表現するフィギュアスケートの素晴らしい演技、例えば今回の五輪での坂本花織の演技は、曲の世界観を表現するとかいうレベルではなく、自らの中に潜んでいた光を見出し、その魂のほとばしりを表現していた。それはまさに「自分を生きる」ということのように思えた。
 
樋口新葉選手は多分、やや身体が硬いのだろうし、坂本花織選手は骨太だけれど、それを克服するということではなく、一見ハンディと思われる点も活かした表現方法を見つけ、今の自分そのものをもっとも美しく表現していた。美しさのあり方も十人十色、絶対的な美しさなどないということを教えてくれた。
 
話は飛躍するが、私はガンになって、自分にどこかで嘘をついて生きてきたことを悔い、これまでの人生を抜け出し、自分の魂が求めるままに生きられるようになりたいと思った。そうすることが、病を良くするためにも必要だと思ってきた。そして、それは相当に難しいことだと実感している。
 
しかし、氷上の彼女たちは21歳という若さでそんな難しいことをやってのけている。彼女らは確かに「自分を生きて」いた。そこに至るはどんな努力があっただろう。
 
スポーツや芸術が力を与えてくれるというのはこういうことで、フィギュアスケートというのは、スポーツと芸術の両面を併せ持つということが、大きな感動につながっているのだと、あらためて思った今回の北京五輪だった。今のような五輪開催には賛成はしないが、こういう滑りが見られたことはよかった。もう、五輪はずっとアテネでやればいいんだよね。
 
今年に入って、「のびのび」という言葉が似合うパフォーマンスをよく見かける。今日の坂本花織や樋口新葉、そして鍵山優真。分野は全然違うけど、女性で初めてNHK新人落語大賞とった桂二葉とかも。閉塞の時代にも風は吹く。

北京五輪女子フィギュアショートP 坂本花織の滑りに心震える

2022-02-16 01:05:44 | Weblog
フィギュアスケートが好きだ。
その滑りに本人さえも気づいていないようなその人の本質的な輝きや魂の叫びが表現されていると、涙が出そうになる。これまで、私の中でその最たるものは浅田真央だったのだが、今回のオリンピックの滑りを見て、そういうことを感じさせてくれる選手がまた出てきていることに、ちょっと感動している。
 
これから書くことは私だけが感じている勝手な思い込みが暴走しているだけかもしれないが、そう感じちゃったのだからしょうがない。
 
今夜行われた坂本花織のショートプログラム。本人もその出来に感激して涙していたが、今夜の彼女の滑りは世界に祝福されていた。金色っぽい衣装から本当に金の粉を振り撒いているかのように輝いていた。技術的にも振りの繊細さもワリエワらロシア勢に及ばないのに、その滑りは最終滑走を飾るにふさわしいオーラを湛えていた。
 
ワリエワが儚い妖精なら、坂本はパワフルな大地の女神だ。坂本自身もスタッフも彼女のそんな資質をよくわかって、曲を選び、振り付けをしてるところに感動する。
今回のショートプログラムの曲は、よくぞ坂本のためにこの曲選んだなって感心させられる選曲だった。なんの曲か知らなかったので調べてみたら、映画「グラディエーター」からの「Now we are free」という曲だった。「ついに自由に!」である。
 
今日も30人からの選手が滑ったが、その選手の本質を捉え、それに合った選曲と振り付けをしている幸せなパターンはそんなに多くはない。みな美しく滑るが、それは表面的に美しいだけで、心を揺さぶる滑りになることは稀だ。選手本人が魂の奥に秘めた何かと曲や振り付けがシンクロした時に初めて感動が呼び起こされる。
 
かつて、浅田真央とラフマニノフはそういう組み合わせだった。
そして、今回、坂本花織が滑った、古代ローマの映画の曲やフリーで使われる世界崩壊後の人類最後の生存者の物語を描いたSF映画の曲は、浅田にとってのラフマニノフのような、彼女の本質を炙り出すことのできる曲のように思えるのだ。
 
ラフマニノフが炙り出した浅田の滑りには近代の葛藤の中で苦しみながら成長する人間の魂の叫びを感じたが、体格的にも豊満でパワフルな坂本の滑りは、世界が終わってもそこに再び命が芽吹く大地の強さと、再び新しい世界が始まる喜びを感じさせる。だから、古代世界や世界崩壊後の未来を生き延びる人々の音楽が似合うのだ。
 
妄想っぽい言い方をすれば、今日の坂本の滑りは、コロナ後の世界に大地の恵みの喜びと生命の歓喜をもたらす滑りだった。
 
どんどんバーチャルに移行している世界で、殺伐とした未来を想像して陰鬱となっている私たちに、未来世界でも命の輝きと大地の豊かさは変わらないことを教えてくれるような滑り。
 
やっと頭角を現した坂本花織は、今だからこそ、出るべくして出てきたのかもしれないと、今夜の滑りを見て思ったのでした。

21世紀の寅次郎とは

2020-10-12 09:14:35 | Weblog
先日、近所のカレー屋(?)でお客さんたちと「男はつらいよ」の話になった。現代の寅さんを映画にするとしたら、どんな設定でどんな配役で、寅さんの職業やキャラクターはどういうものになるのだろう。今や映画やドラマに描かれる家族の形も「万引き家族」とか「anone」とか、昔とはずいぶん違っている。そういう時代の寅さん的役柄は誰が演じるどういう人物なのか?テキヤではないはずだ、主役が女性というのもありか、イケメンは?などと盛り上がった。
 
最初、この話は、地域振興は風景を意識することが大事という話から始まった。風景があって人の暮らしがある。私たちは今、風景のない無色の壁の前で暮らしを営んでいるようで、そういう暮らしに豊かさはない。よって、地域も活性化しない。そんな話の流れの中で、「男はつらいよ」は日本全国廻って、いろんな風景をバックに物語が展開するのがいいという話になった。風景を眺めるのではなく風景が人の営みの向こうに黙ってある。この喜び、豊さ。今の時代にこそまた今の時代にふさわしい寅次郎が必要なのではないか、そんな話に花が咲いた。
風景をバックに描かれる人の営み、それも、多くの人に笑顔をもたらす人々の営みとはどういうものだろう。寅さんにように、突っ張らかって、恋に恋して、失恋して泣いて笑って。そして、ヒロインは寅の真っ直ぐさに救われる。現代の「男はつらいよ」は必ずしも、女性が美人のマドンナで、男性が三枚目のおっちょこちょいの組み合わせである必要はないかもしれない。ピュアな男性との交流の中で最後に、傷心の女性が癒される。それが現代の風景の中で描かれればいいのではないか、そんなことを思いながら、主役の男性をイメージした。
職業はテキヤじゃなければなんだろう。全国を放浪でき、ちょっとドロップアウト感のある職業。季節労働者、放浪のユーチューバー、売れない放浪の小説家、各地をツアーするミュージシャン。放浪のジャグラー、大道芸人なんてのもあるかもしれない。そんな彼が、各地で恋をする。21世期の寅次郎は、その性格設定も昭和の寅次郎とは違ってていい。突っ張らかる必要もない。そして、多分、もっと複雑で、人の気持ちに敏感なキャラクターになるんじゃないだろうか。
 
さて、渥美清の寅次郎に匹敵する、令和の愛嬌のある放浪のアウトサイダーは誰がいいのか。知性がちらついてはいけない。けれど、頭が悪くてはいけない。男臭すぎてもいけない。見た目は男性的でもどこか女性的な部分を内包している。ピュア。したたかさを感じさせない。淋しさを抱えている。でも、笑顔が素敵で、ラブコメディを演じられる人。つい三枚目の俳優で考えてしまうけど、想定の範囲を超えず、企画もので終わりそうな感じ。最近、若くて二枚目で演技派と言われる俳優は多いけれど、そういう人たちは才気をビシバシ外に出して、ギラギラしている。寅さんにそういう演技は似合わない。
なかなかに難しい。
 
そして、ひよこ豆のカレーを口に入れた時、ふっと思いついた。あ、この人だ。この人しかいない。それは青天の霹靂のように、確信的に降りてきた。しかし、確信が大きいほどに、悲しくなる・・・。
 
三浦春馬。
 
数日前に最終回を迎えた「おカネの切れ目が恋のはじまり」。彼の遺作となってしまったテレビドラマだ。第4回が最終回。最終回に登場する三浦春馬は回想シーンばかりだったので、3回目のラストシーンが、彼の最後のリアルなシーンとなった。
失恋したばかりの松岡茉優を慰めながら、突然の雷におどろいて抱きついてきた彼女にちゅっとキスをする。そして、そんなことした自分に驚く。これが三浦春馬の最後のシーン。ベタなシチュエーションだが、それをベタではなく共感に持ち込めるのは、多くの人が忘れてしまったピュアさと駄々漏れてしまう情熱と、おっちょこちょいな可愛らしさが共存する三浦春馬の演技のおかげだ。このドラマ、カネ持ちの浪費息子という設定。ピュアなダメ息子というところは寅さん的だった。
 
傷心の女性をピュアな男性が癒してゆく。大袈裟な誇大妄想を言えば、このドラマのあり方は、現代の「男はつらいよ」だったのじゃないか・・・。奇しくも、三浦春馬がいなくなってしまったことで、ドラマの中でも彼はどこかに行ったまま帰ってこないというシチュエーションで、「猿くん(三浦の役名)どこに行ったのかしらねえ」は「寅次郎はどこほっつき歩いてんだろうねえ」に重なった。
その後、店にいたみんなで、いろんな俳優で「現代の寅さん」的なシーンを想像してみたが、誰もしっくりこなかった。どの俳優を当ててみても、みな「寅さん」を”作って”しまうだろうと思えた。
 
三浦春馬という俳優は、作るのではなく21世期の寅次郎に”なれる”俳優だったのではないか。
ラブコメが似合った三浦春馬。大袈裟なのに作為のない演技ができるのは、彼の人生に作為がなかったからかもしれない。
 
三浦春馬の現代版寅さん。一見、意外なアイディアだが、店にいた全員が、そうかもしれない・・と意見が一致した。そして、話をすればするほど、三浦春馬演じる現代の「男はつらいよ」が見たいという思いは大きくなっていった。もちろん、設定は全然違うだろうし、「男はつらいよ」とは似ても似つかぬ作品になるんじゃないかと思うが・・。
生前、そこまでファンというほどでもなかったが、亡くなったことで改めて注目し、この「おカネの切れ目が恋のはじまり」を見たことで、それに気づいた。このドラマをオクラにしないで放送してくれたTBSにも感謝。まだparaviとかで見られるのかな。第3話のラストシーン松岡茉優と三浦春馬の演技見てみてください。
 
ただの思いつきだし、「男はつらいよ」だってテレビで見たことしかないし、見当違いな意見かもしれないけど、私なりの三浦春馬という俳優への追悼文にしたい。
 

安倍答弁は本当に用意周到なのか?

2019-11-24 03:14:04 | 国内情勢
小田嶋隆氏が日経ビジネス電子版で連載している「ア・ピース・オブ・警句〜世間に転がる意味不明〜」を愛読している。
今回のタイトルは「小さなウソを容認すると起こること」。安倍さんの「桜を見る会」に絡む発言についてだ。

小田嶋氏曰く
「われわれは、小さなウソを容認しはじめている。のみならず、バレない効果的なウソについては、どうやらそれらを歓迎しはじめてさえいる。私たちは、あきらかにどうかしている。」

安倍さんの笑顔のぶら下がりを見るとき、「安倍さんは何か逃げおおせる方法を見つけたのだろう」と勝手に解釈して、その姑息な言葉遣いの周到さを妙に信じてしまっていたが、本当にそれは周到な準備の元に語られたツッコミどころのない発言だったのか・・、あらためて思い直している。

実は、考えなしに、その場限りの嘘を言っていただけなのに、それを突っ込むメディアの側が、勝手に安倍ブレーンの有能さに下駄を履かせ、これほど長期政権を保っている首相のブレーンが考えた答弁なのだから、そんなにアホなことを言ってるはずはないと好意的に解釈していただけなのかもしれない。

だから、下手に突っ込むとしっぺ返しを食らうぞと思って、メディアは身動きが取れなくなるのだが、それは自分で自分の首を絞めているに過ぎなかったのかもしれない・・・。

ひとたび、そのように考えれば、この5000円問題は小田嶋さんの言うように、「ウソに決まってるだろ」で一蹴すべき案件でしかない。

安倍ブレーンが有能であるという幻想は、選挙におけるB層にターゲットを絞った代理店戦略やSNSを使ったネット世論形成や対立勢力へのステルス攻撃などに代表されると信じられてきたが、それが本当に彼らの周到な戦略であったのかはもう少し検証されるべきなのかもしれない。
たまたま当たったということはないのか。
そして、そのたまたまを、メディアが「なんかすごいぞ」と勘違いして、下駄を履かせた分析をした結果、安倍さんはうまく逃げ果せるに違いないという判断に至ってしまっているということはないのだろうか???

小田嶋さんが「バレない効果的なウソについては、どうやらそれらを歓迎しはじめてさえいる」というのには、こういうメディアのありようも含まれている気がする。

ただ、官僚や政治家にはたしかに頭の切れる人というのがいる。彼らが用意した首相の答弁は最終的には逃げおおせられる完璧なものであるのかもしれない。しかし、そうした東大話法的「責任を回避するための」言葉は、文法的に責任を回避することはできても、その行間から醸されるうしろめたさみたいなものには鈍感だ。言葉とはそんなに簡単なものではない。人々(国民)の多くは直感的に行間に潜むモヤモヤに気づくはずだ。

政治家とは、このモヤモヤを抱える国民によって選ばれた存在であるのだから、メディアはこのモヤモヤを言語化し、モヤモヤ国民を代表して政治家にそれをぶつけるべきなのだが、なぜか、モヤモヤは放置されたままで、メディアは政府の側が発する東大話法の土俵にのっかって、重箱の隅をつつくような言葉の蟻地獄に引き込まれ、結局、なんだかわけのわからないまま、疑惑は疑惑のままで宙ぶらりんとなり、私たちはなんも考えてない安倍さんに結果的にしてやられている。森友しかり、加計しかり。

「間違ったこと突っ込んで訴えられたらどうしよう」という思いが、「なんだかこの答弁おかしいぞ」というモヤモヤよりも先にある。

どうしてこういう世の中になったのかと考えて思い当たるのは、ここ20年くらいの間に、テレビのコメンテーターが「弁護士」ばかりになり、お茶の間にそうした話法が行き渡ったことが挙げられる。学校の授業でも「ディベート」が採用され、自分が信じていようが信じてまいが、言い逃れられれば勝ちみたいな風潮も行き渡った。

価値相対主義みたいなものが幅を利かせた時代は終わったと思っていたが、最近、あることがあって、それはただ定着して、壁の中に塗り込められただけだということを感じた。自分の考えなどあるほうがおかしいと思っている人が意外に多いのだということを実感している。

だから、政治の報道はなにをどうすべきかを語らず、この事象は誰と誰との関係からこう動くということを予測する「政局」報道ばかりになるのだろう。何を自分は正しいと思うかってことを言わなくていいようにするための仕組みが、日本には行き渡ってるんだよなあ・・・。

はたして、安倍さんのブレーンは有能なのかそうでないのか?

昨今の国際社会における日本のダメさ加減を見ていると、政府ブレーンがそれほど有能とも思えなくなってくるのだが、それに騙される国民の程度が低いだけなのかもしれないな。いや、「有能」という尺度が、私が考えるものとは違ってきてるのかもしれない。

ファイヤーラジオ#004は「ローマ教皇フランシスコの思想を語る」必聴です!

2019-11-24 01:14:39 | 火鉢クラブ

20日にアップしたファイヤーラジオ#004はローマ教皇フランシスコがテーマなのだが、「ローマ教皇来日 日本が問われる『弱者への心』」と題されたロイターのコラムは教皇の来日にあたって読んでおくといい記事だなと思った。

記事によれば、教皇は
『「世界移民・難民の日」に寄せたメッセージでは、世界はますます「エリート主義となり、排除された人々に対して残酷になっている』と指摘。
さらに「日本人は「困っている人」には大変に親切だ。私が困った顔をしていると、すぐにたくさんの人が助けてくれる。そうした優しさがありながら、日本人の心理には障害や差異への「特別視」が残っている気がする。」と厳しい言葉も語っている。

「上級国民」という言葉が流行語となった今年の日本。
また、大村入管でのナイジェリア人男性ハンスト餓死事件など、考えさせられることは多い。

ファイヤーラジオでは、批評家・随筆家でカトリック教徒の若松英輔さんを招いて、中島岳志さんとともにフランシスコ教皇の思想について語っていただいたが、彼の思想は人も自然も同じ被造物とするアッシジのフランシスコ(カトリックのフランシスコ会の創始者)の「万物兄弟の思想」にもとづいており、多分に東洋的であるという。それがゆえに、彼の思想は西洋よりも、日本でこそ理解されうるのではないかと若松さんは指摘する。
しかし、今の日本人にそれを理解する素地があるだろうか・・。

私たちは物事をカテゴライズして、違うものの並立する世界として捉えがちだが、よくよく見れば、違うとされるものにも重なる部分が多いことに気づく。

「差異とは何か」ほんとうにその差異は存在するのか。そこをちゃんと見極めずして、わかりやすい浅薄な分析やキャッチフレーズに乗っかることの危険性。立ち止まること、口ごもることの中にこそ、一見対立するものをつなぐ真実の「言葉」があるのかもしれない。そして、フランシスコ教皇が伝えたいこととはそういうことなのかもしれない。ラジオではそんな話をした。
ぜひお聞きください!

ファイヤーラジオ#004
「ローマ教皇フランシスコの思想を語る」


橋本治の絶筆論稿と橋本治という病

2019-10-17 03:48:49 | Weblog

橋本治の絶筆となった論考「『近未来』としての平成・前編」を読む。前後編の予定だったが、前編だけで終わってしまった。昭和の終わりから平成の終わりまでの時代状況を橋本治的に概括しているが、最後にこれから私たちが考えるべき課題が提起されており、それが、後編に続くはずだった。

 その最後の締めの部分を引用する。

 『(前略)社会は「時代」というレールをなくして、もう前には進まない。同じところをグルグル回っていて、そのことで「先へ進んでいる」という錯覚が生まれているだけなのかもしれない。

(中略)どうやら「動いている」らしい数字を注視して、金をそれに合わせて動かす。それだけが経済だったら哀しすぎる。だから、ここでもう一度、そもそも「社会」とはどういうものだったかを考えてみる必要がある。』

 そもそも社会とはどういうものだったかとは、つきつめれば人間とはどういうものかを考えるようなもので、それが、今の経済学が忘れていることだ。人間の在り様を無視して、数字にすべてを合わせる。その時点で、多分、時代はもう先に進まない。先に進んでいると錯覚している人たちが考えているのは多分これまで通りの「右肩上がり」というやつで、実感のない株価の上昇だけで、先に進んでいると思っている。でも、本当の「先」に進むためには、数字だけに左右されないプランBが必要なのだろう。

 金は天下の回り物。人の複雑な思いの末に(何も考えてないこともありますが)、お金が使われたり使われなかったりする。それを一把一絡げで数字にしてわかったふりして欲しくないのよねえって思う。グローバル時代になって、ネットが普及して、ビッグデータとか言って、なんでもマクロに分析したがるけれど、ある意味それもしょうがないけれど、そういう数字には穴があるよって自覚するところからしか、本当の経済学って始まらない気がする。だって、人の行動は読めないから。私自身のことを考えても、口から出る言葉は本心とは裏腹だ。買い物だって、本当にそのとき欲しかったものは買い逃していたりする。結果が全てというかもしれないけれど、その結果を数値化だけすると、そこに残った後悔やその後悔からくる次の行動を読み誤ってしまうのではないか。もちろん、それを理論としてどう確立せよというのか・・とは思う。しかし、すべてを理論化せねばならないのかという素朴な疑問も湧いてくるのだ。

科学的とはどういうことか(社会科学も含め)、そもそも経済は科学になりうるのか、そういうお前アホか、と突っ込まれそうなことをまた考えている。

こういうことを言うせいで、どれだけ自分が「社会」での居心地が悪くなっていることか・・・。そう思うのだが、やめられない。それが「橋本治という病」なのかもしれない。

そもそも「社会」とはどういうものだったか・・・考えねばならない。

 

追記:

以前、筑摩のウェブで書いていたコラムで橋本治は確かこんなことも書いていた。

がんは治療法の研究は進むのに一向に患者は減らず、それなら「なぜがんが増えるのか?」を考えるべきなのに、なぜかそれはあまり研究されていない。まさにそうなのだ。これもまた世間からは嫌われそうな根源的な問いであり、しかし、橋本治と同じ「がん患者」という当事者である私にとっては、前向きに生きるためにこうした根源的な問いこそが重要なのだ。知りたいということが命の灯を繋げる。

 


ノーベル医学生理学賞をとった研究はがん解明に寄与するか?

2019-10-12 11:42:41 | 火鉢クラブ
日本人が受賞したのはノーベル化学賞リチウム電池だが、医学生理学賞のほうがちょっと気になった。細胞の低酸素応答HIFの研究。細胞、低酸素といえばがん細胞である。

ググったらこんな論文があった。
 

やはり代謝との関係か。幹細胞とか、ミトコンドリアって言葉が見受けられる!まだ読んでないんですけど、ざっと見たら、TCAサイクルの図が載ってたから、そういうこと書いてあるんだろうなと推測する。

がんにしろ、糖尿にしろ、貧血にしろ、多くの病は代謝と大きく関わり、その代謝に大きく関わるのは血液、血流であるということ。そして、結局それは細胞が酸素を取り込む呼吸と代謝の問題に帰結するということを証明していくような研究ではないのだろうか。

この報道をまだあまり見ていないが、そして、日本人の受賞じゃないからあまり詳しくは報じられないと思うが、多分、通常の報道ではHIFというタンパク質の細かい働きの説明にこだわるあまり、この研究に大きな意味でどういう意義があるかがあまり伝わらないのではないかという気もする。どうだろう??

このところ、ちょっと自分の体のこともうちょっと心配しなきゃと思って、がんとはどういうものかを再びちゃんと考えて、対処していこうと考えたりしているので、上の論文も後でちゃんと読まねばな。がんとは何かを考えること。素人目線で、私自身が理解したことを素人でもわかるように伝えることができたらいいなと思う。

時間が取れるかわからないけど、私が学んだガンについての考察を語る会とかゲストとか呼んでやれたらいいんだけどなあ・・。
 
 
ノーベル賞低酸素応答HIFについてのWIREDの記事。だいたいこういう記事を書くのはWIREDなんだよなあ・・。

 

船曳建夫の橋本治への追悼文

2019-10-12 11:41:04 | Weblog
図書館で群像4月号。橋本治の絶筆論考と船曳建夫氏の追悼文。大学同窓だった彼は「その頃すでに橋本が僕を好きになっていたことは確かだった」とふたりの思い出を語る。人を好きになることはこんなにも苦しくて、悲しくて、しかし豊かで、人生に力を与えるのか。涙が止まらない。橋本治やはり私のメンターだ。

船曳建夫氏さらに曰く
『橋本治の「惚れた弱み」につけ込んで上に立っていた』

「惚れた弱み」ってつけ込まれてこそ。それが嬉しかったりする切なさ。でもつけ込まれながらそこで成長するのが橋本治のすごいところ。

だって、好きな人の好きなものは好きだし、だから一緒に好きなことをやれたら嬉しいもん♡で突き進む。
そして、歌舞伎に首を突っ込み、古典への道をひた走った。
そんな橋本治が私は好きだ。かわいいぞ橋本治。

船曳氏の追悼文の最後の一文は
「あと、追悼文とは、亡くなった人に読んで貰(もら)いたくて書くのだということにいま気付いた。」

そして、その追悼文を読んだ鷲田清一氏は朝日新聞の「折々のことば」でこう書いた。

「真にかけがえのない人には、目下思い煩っていることを面と向かって言えない。」

そうだとは思うけれど、本当は面と向かって聞いて欲しい。けれど、言えないというのも確かで、だから、まず「思い煩っていること」を自分の手でひとつずつ消し去って、にこやかな表情で、面と向かえるようになりたい。せめて生きている間に。

#橋本治 #追悼 #船曳建夫 #鷲田清一 #群像

高畑勲が体現した民主主義

2019-10-06 18:21:13 | Weblog
高畑勲展が10月6日までだと気づいて、土曜の夜(金曜土曜は21時まで開館)行ってみた。


何の前情報もなく訪れ、何も考えず展示室に入ると、一番最初の壁に大きくかかれていたのは、「高畑勲のクリエーションとは」という問いと「多数のスタッフの才能を引き出した」という文字だった。メモし忘れたので、多少言い回しは違っているかもしれないが、このフレーズを含んだ3行ほどの文章が壁に大きく縦書きで書かれていた。

そして、見終わって、今回の展示のテーマはまさにこれであったことを理解した。高畑勲のクリエーションの手法が宮崎駿をはじめとした多数のスタッフの才能を引き出し、素晴らしいその後の日本のアニメーションをつくったということをいまさらながら理解した。

そんな高畑勲のクリエーションの手法とはどんなものなのか?

彼らのクリエーションの起点と言える「太陽の王子ホルスの大冒険」の音声解説の中に「日本のアニメーションのその後を決定づけた記念碑的作品は、当時の労働組合の中心人物達が集まり、組織され、その製作過程もトップダウン式ではなく、限りなく民主的な制作体制が敷かれた。」というようなことが語られている。

これは当時の東映動画という組織の柔軟性もあったと思うが、展示を見ると、高畑勲の仕事のやり方もまさにこの「トップダウン式でない限りなく民主的な体制」だったことがわかる。

キャラクターを作るときにはスタッフ全員の意見をすくい上げ、そのやり取りの中から、もともと挙がっていたものよりもさらに素晴らしいものが生まれたことがスタッフの証言も交えて語られる(これは朝ドラ「なつぞら」にも描かれていたが)。

演出である高畑は頭の中にあるシーンをスタッフに伝えるために「言葉」を駆使して説明する。その言葉を理解したスタッフが、それぞれの得意なスキルを活かして、その言葉を目に見える形に変えていく。色彩に長けたもの、画面構成に長けたもの、キャラクター造形に長けたものetc. それぞれの分野において自分(高畑)より能力の高いものたちが高畑が言葉で表現したもののイメージをさらに膨らませて形にしていく。そのプロセスの中で、高畑も新たな発見をし、作品はさらに高みを目指す。

今回の展示からはそんな「民主的なクリエーション」が奇跡的に成立した背景に、高畑勲の類まれな「コミュニケーションを諦めない姿勢」があったことが見えてくる。スタッフに作品を理解してもらうために彼は驚くほどに言葉を尽くし、さらに、言葉以外のさまざまな方法で語りかけていた。

原画やセル画、ラフスケッチなどとともに展示されるのは高畑手書きの企画書やプロット。さらに、企画書に至るまでの思考プロセスや、逆に企画が通って、実際に製作に入ってのち、スタッフたちに作品のテーマややりたいことを正確に伝えるための資料の数々。すべてのシーンには理由があり、その意図が明確に語られる。そこに尽くされた言葉の膨大さや、工夫されたイメージ図など、その情熱に感動せずにはいられない。

こんなものを作っていたのかと驚いたのは「テンションチャート」というものだ。物語の進行に伴う緊張と弛緩や感情の起伏を図式化、登場人物の感情の起伏は折れ線グラフで表現されている。

各シーンごとの登場人物の感情についてはスタッフ間で言葉で議論されて尽くしているに違いない。その上で、全体を俯瞰し、物語の始めから終わりまでの感情の動きを、起伏(折れ線グラフ)という形で一目で見せる。シーンごとのミクロな感情について語り尽くしてきた彼らにとっては、これを一目見ることで、それまで言葉で尽くされてきた議論が体感として身体中に染み渡ったはずだ。

最高の作品を作るために、他人(スタッフ)とイメージを共有するにはどうすればよいのか。高畑勲という人は、作品で何を語るかと同じくらいに、「伝える」ことを考え続け、実践していた人だった。

「自分は何を考えているのか」

独り言のように、自分は何を考えているかを質すかのように綴られた企画メモ。人を説得するための企画書というものはまずはそこから始まるという、基本的だけれど、忘れがちなことを高畑の肉筆資料は物語る。人間にとっての最大の謎は「自分の考えていること」かもしれない。他人に何かを伝えたいと思ったら、まずはその謎に立ち向かうことから始めねばならない。自分は何を考えているのか、なぜそう考えるのか・・・。頭に浮かんだことを漏らさず言葉にして書きとめようとしているかに見える高畑のメモは、私たちをそんな基本に立ち帰らせる。

「マーケティング」という言葉が人口に膾炙し、昨今は多くの企画が「ターゲット」を絞って、そこから逆算するように作られる。企画の根拠は「自分の外側」に求められる。他人を説得するために用意されるのは「データ」である。しかし、「データ」というものはそのターゲットの一部しか表現しておらず、そんなデータによって説明されるターゲット像はある意味幻想であり、いまや、その幻想を前提に作られる歪んだコンテンツが、逆に世の中を歪めているかに見える。

「私はこういうことを考えています」ということを表現するのが本来の企画書の根幹であり、だからこそそこに「責任」ということも生まれると思うが、「データ」に責任を押し付けて、「自分は何を考えているか」を曖昧にしている現代社会が民主的から遠ざかり始めているのは当然かもしれない。

民主主義の根幹は「みんなの意見を聞く」ことにあり、決して「多数決」ではない。「多数決」は時間の制約上、話し合いではどうしても決まらない場合の妥協的な決着方法である。それはクリエーションではない。「自分はこういうことを考えています」というそれぞれの異なる意見を聞き、行き詰まっているかに見える現実からいかに飛躍し、別の次元でよりよい解決法を生んでいくか。そんな民主的なあり方の理想をちゃんと理想として、諦めずにクリエーションしていったのが高畑勲という人だったのかもしれない。

まして、高畑の周りにいたのはそれぞれの分野において、彼以上に才能もスキルもある有望な若者たちである。その能力を利用しない手はない。能力のあるものほど、新しく、他と違うことを言う。それを少数だと切り捨てることは、未来の可能性を切り捨てることになるのだ。それを生かし、一つにまとめていくために、高畑は、正直に、誠実に、驚くほどたくさんの言葉を尽くし、伝える工夫を重ねた。

これだけのコミュニケーションの努力の上に作られたのが世界的にも評価される高畑作品であり、ジブリの作品であることを考えると、そこまでの努力を尽くして初めて、民主主義も理想に近づけるのではないかと思えるのである。逆を言えば、そこまでの努力がないから、民主主義は危機に瀕しているともいえる。

昨今の政治家たちの言葉の薄っぺらさ、私たち有権者をまったく納得させられない言説。その裏で彼らは伝えるための努力をしているのだろうか。相手を理解するための努力をしているのだろうか。その努力をしたくない怠け者たちが、「民主主義は多数決」という定義を盾に、民主主義をいいように利用しているように見える。

今の薄っぺらな言葉しか持たない政治家たちには、「火垂るの墓」を見て「あの惨禍を二度と・・」などと語る前に、その映画を作るために高畑勲がどれだけの言葉を尽くし、周囲とコミュニケーションの努力をしてあの作品が生まれたのか、そのプロセスをこそ知ってほしい。それこそが民主的ということなのだと思うから。

もちろん、展示を見ながらほかにももっといろんなことを考えたけれど、ひとつ今回の感想として書くとしたらこれだと思った。他のことはまたいずれ。