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(←復帰するまでのリハビリと転職活動の経過などを公開します。)(←編集者の私事と仕事、気になる本もたまには紹介します。)

時間は、人の価値観を変える

2017-09-10 16:55:55 | 仕事
書籍編集者に復帰して、4年半以上が経ちました。
もはや、このブログを見ている人はいないでしょう。
偶然ご覧になったあなたは、「はじめまして」になりますね。


試用期間の6か月で正社員にならなかった会社を早々に見切り、
今の会社に移籍できてから約4年、今日までどうにか生きてきました。
気づけば30代も折り返しを過ぎて、四捨五入すれば40歳です。


今の会社に在籍する中で、一度、休職を経験しました。
要因は複合的なものですが、一番は仕事によるストレスです。
随分と、いろいろなことがあり、一部は今も懸案事項として続いています。

その休職をしたことによって、いよいよ、
心身も時間も全てを賭けないと務まらない書籍編集者という仕事と、
お別れをしようという気持ちになったのです。


こうして書いている今も、いろいろな感情や考えがあります。
たとえ衰退産業であっても、自分が売れる本をつくればいいんだ、とか、
辞めたところで、生活費をどうやって稼ぐんだ、とか。

でも、一言でまとめてしまうと、もう心底疲れたのです。
ココロもカラダも壊れてしまったのに、
また同じフィールドに立って成果を出していくのは、結果的に非常に困難でした。
自分なりに、試行錯誤はしてみたのですが……。


ただ、無理もありません。
書籍編集者に復帰してからというもの、
仕事でやりがいやおもしろみを感じたことは、一度もありませんでした。
苦しい、つらい、しんどい……。毎日がその連続です。

心身が壊れる前に、年を取る前に、動けばよかったのかもしれません。
できなかった過去を悔いても、もうどうしようもありませんが……。

無論、とにかく生活費を稼ぐ必要があるから働く、
というぐらいの気持ちだけでは、出版業界を生き抜くのはなかなか厳しいのです。


そして、いつの頃からか、身近にある小さな幸せが、一番大切になりました。

たとえば、近所に咲いているお花がきれいだとか、
街にいる地域猫さんたちが元気そうにしているとか、
そういったものにこそ、かけがえのない価値があって、
その大切なものとともに生きていきたい、と思うようになったのです。

こうした価値観の変化も、仕事観に影響を与えています。


給料は今以上に少なくても、地元で、仕事以外の時間を大切にしたい――。
それが、4年半以上の日々を経て僕が至った、理想の生き方です。
過去の記事を読み返すと、180度価値観が違うのですけれど。


ただ、具体的にどうするか、ということを考えると、考えがまとまりません。
通っている病院の主治医によれば、考えがまとまらない、ということも、
うつなどの精神疾患の1つの現れ方だそうです。

何とか仕事をすること自体にも支障が出てきており、
会社員や社会人としての体面を保つことさえも難しくなりつつあります。
限界を超えてしまったのかもしれません。


とにかく、休日のまま、時間が止まってほしいと願いますが、それは叶いません。


どうすればいいのか、僕は答えのない樹海に迷い込んでしまったようです。

復活へ

2012-11-29 00:00:29 | 転活

久し振りに負けたくない、勝ちたいと、心から思えていました。
  

先が見えなくなって出版社を辞めてから、もうすぐ2年。
想像以上に随分たくさんのものを、失ってきました。


東日本大震災という出来事が起きてしまいました。
この状況で本をつくれない自分に、
「何をやっているんだ俺は」と、嫌で嫌で仕方ありませんでした。

出版社の面接は受けつづけました。
最終面接で落ちたことも、何度かあったような気がします。

30歳の大台に乗り、離職から1年を過ぎて、
転職活動の延長戦はいよいよ敗色濃厚に感じられてきました。
現役の時の水準で、企画書を書くこともできなくなっていました。
「もう今の事務職でいいんじゃないか」と、説得する人も増えました。

退職から2年のブランクが空くと、経験職種でも内定率が激減するそうです。
年齢的にも31歳。時間の経過は、ゲームセットに近づくことです。
編集者に戻るための最後の一手を打とうと、リハビリに通いはじめました。


けれど、ビールのおいしい夏になっても、
世の中への感度も、言葉の感覚も、頭のキレも、戻ってきませんでした。
面接では悲壮感を隠しきれません。
通るものも通らなくなっていきました。


それが、人物に取材をして6000字の記事を書くという
卒業制作」の提出が9月末に迫り、取材準備をはじめた頃から、
少しずつ回復の兆候を感じられるようになっていきました。

世の中にツッコミを入れられたり、
その時にどう言うかを考えられるようになったり、
そもそも、ツッコミという行動自体ができるようになってきました。


その頃、リハビリの1人の先生から
「鶴田さんは社会問題に絡めたものを書くと、うまいんですよ」
と、提出した課題原稿に対する評価の言葉をいただくことがありました。

編集浪人であることをその先生には言っていませんでした。
だから、余計に素直にうれしかったですし、
「俺はまだやれるかもしれない」とようやく思うことができました。


「卒業制作」を書き上げた直後、面接が入りました。

約5か月振りでしたが、この2年間で一番調子がよかったです。
驚くほどうまく会話をすることができた回も、
提出した企画書に怒涛のツッコミを受けて固まった回もありました。

けれども結果的に、書籍編集者として内定をいただきました。
試用期間の6か月で結果を出せれば、正社員になれる予定と聞いています。


「卒業制作」は、私の家族構成に似た人に取材をしたのですが、
媒体掲載面が確約される最優秀賞を逃がしたものの、
次点の優秀賞はいただくことができました。

「書くことが好きだ」ということも、再認識できました。


リハビリに通ったことで、いろんな人に出会うことができました。
そしてようやく、自分だけの前のめりな気持ちだけじゃなくなりました。

仲間がいるから、がんばりたい。

土壇場の状況を逆転できるエネルギーを、久し振りに得ることができました。
その結果が、今回の人生選択です。


私は、書籍編集者に復帰します。

やっぱり、この生き方しか、できないようです。

卒業制作

2012-10-02 22:36:08 | 転活

5月から参加しているリハビリも、今月末で終了する。
先日、半年間の成果を表現する原稿用紙15枚の取材記事を脱稿した。

記事が公表前のため、具体的に話を書けない点はご容赦ください。
執筆段階に起きたこと、考えたことを記録するために、書き連ねます。


大学時代、卒業論文を書かずに卒業してしまったこともあり、
1つのテーマで15枚の文章を書いたことは、おそらくなかったと思う。

なので、そもそも書けるのか、という気がしながらスタート。
取材先として、私の背景的な部分と重なる人にお話を伺うことだけは決めていた。


取材先への依頼。
名刺がないことがいかに不便かを痛感する。

「□□出版編集部の鶴田と申します。
 企画のお願いをいたしたく、一度打合せのお時間を頂戴できませんか」
現役時代ならば、これだけでとりあえず話は通じた。それができない。

「現在リハビリをしている鶴田と申します。
 今回、リハビリの集大成で取材記事を書くという課題がありまして、
 是非その取材にお時間頂戴できればと考えておりますが、いかがでしょうか」
自分が何者かを詳細かつ丁寧に語らないと、相手に「誰?」と言われてしまう。
ましてリハビリの身なので、実績も何もない。壁を感じた。


OKをいただいた取材先への質問内容の作成。
何をお伺いすればいいのかがわからない。

質問は、「自分が何を書きたいか」が明確ならば、ある程度まとめられる。
記者やキャスターが取材先へ質問する際、
自分の聞きたいことに話の展開を持っていこうとするのは、これが理由だ。

しかし、取材先と話をしたいのは確かだが、何を話していいかがわからない。
気になる女子の前までは行くも、結局会話ができなかった思春期を思い出して悲しい。
「もう31歳だぞ、せめて話せよ」と、自分にツッコまれる。

どうにか情報を集めて、質問の展開を組み立てる。
「取材先の根底にある想いは何か」に思いを馳せる、と書けばまとまりはいいが、
頭の中にあるいろいろなものさしを引っ張り出しては、集めた資料に当てる、を繰り返す。
取材先が前に受けたことのある取材と同じではNG。
違いそうな部分を中心に質問をまとめていく。


完成させた質問リストを持っての取材先との面会。
質問を消化することに頭が行ってしまい、会話をすることを忘れがちになる。

ICレコーダーの音声を聴くと、その結果がはっきりわかった。
重要だけれどメモをしていなかった場面が、一番取材先の声にハリがある。
私がしっかり聴けていたからなのだろうと思わされる。

用意していた質問にあまりにも縛られると、
国会の代表質問とそれに対する首相答弁のような予定調和の音読のみになってしまう。
それを原稿にしたら、浅い、眠い、つまらない。ということは、ヤバい。
途中からICレコーダーに聞くことは任せて、トークする方向に針を振った。

打合せで人と会う時に、質問用紙を見ながら話すことは、まずない。
暗記も完全にできないならば、普通に話して、その中で伺えばいいんじゃないかと開き直る。
慣れていないとはこわい。普通のことも普通にできなくなるのだから。

お話を聴きつつトークを組み立て、原稿化した時のイメージをしつづけた。
面会終了後には、達成感よりも先に、とてつもない疲労感がやってきた。ぐったり。


音声を文字に起こしていくテープ起こし。
音質があまりよくなく、思った以上に時間がかかる。

この単純にして精度を求められる作業がいかに大変か、身をもって体験する。
2時間半近くの音声を、どれだけの時間を使って文字化しただろうか。
進んでは戻り、戻っては進み。言葉を、ニュアンスを、話者の雰囲気を拾っていく。

テープ起こしがビジネスとして成立する理由もわかる。
文字化したスクリプトを手にした段階からはじめたら、執筆に全精力をかけられる。

予算と脱稿までの予定が組めれば、今後使おうかと思うが、
今回は自分でやったことで、取材内容を頭に叩き込むことにはつながった。


記事の小見出しを考えてながら、構成の組み立て。
取材内容が一番活きるには、どうすればいいか。

おもしろい展開を描けなかったので、下手なことをするのはやめた。
お話を伺っていったベタな感じの流れで、0次原稿をまとめた。

しかし、制限文字数を大幅に超過。その上、何だか読みにくい。
まずは単純に文字数を減らす作業を繰り返した。


ここからが編集作業。
この段階で、締切まで残り1日半を切っていた。
でも、大丈夫。今まで何度も原稿整理でいい本に仕上げてきましたから。

と思いきや、文字数はいまだに500字近く超過、文章の流れはわかりにくい。
鋭くなるはずの赤ペンの入り方が、明らかに鈍くなっていた。

自分ひとりでは、埒をこじ開けられないと思った。
前の会社の仲間である親しい先輩に読んでもらうことにした。


締切当日、「読んだよ」と電話がかかってきた。
編集者同士でしか話したことのなかった人に、書き手として相談する。
先輩が「全体的にはよかった」とマイルドに会話をはじめるので、
「原稿として甘いのはわかるんですが、赤をどう入れればいいか見えません。
お願いだから、赤字を入れまくってください」と思い切りせきたてた。

「字数を減らすとしたら、ここを短くして…」
先輩が編集者の仕事に入る。無駄がなくて的確な指摘。
粗かった原稿がきれいに磨かれていく。
これが、編集者だ。

ようやく私も目を覚まし出す。
「こことここは、つなげた方が展開がきれいですよね?」
ジャムセッションのように、しばらく編集作業を進める。
全体をくまなく確認していただいたところで、
「あとは自分で脱稿まで持っていきます」と言って電話を切る。感謝です。


漫才に例えれば、書き手がボケで、編集者がツッコミ。
今回は初めて、ツッコミがボケているので、
そのボケがおもしろいかつまらないかを判断しずらかった。
原稿を信じようか、編集者の勘を信じようか、わからずに混乱した。
けれど、先輩と話をしている中で、
自分の原稿にもツッコミを入れられるようになっていった。

ここからは一気に進んだ。
文字数も減らせたし、不要な箇所も見切れた。


ようやく、制限文字数を50字ほど下回り、小見出しと全体のタイトルの確認。

小見出しは、過不足なく文章を仕上げようと頭が動いている時は、
文章の中の大切な箇所が見えているので、ある程度まともなものが浮かぶ。
(本当に冴えている時には、ズバっとハマるようなものを思いつきます。)
つけては外しを少し繰り返して、決めていった。

全体のタイトルは、子どもの名前のようなもの。
読者が抱く原稿に対するイメージを左右するというか、
そもそも読んでもらえるかどうかが、ここで決まる。
締切まで3時間を切った辺りから、追い込みすぎないようにして、
ここまでのことを振り返りながら、
wordで組版イメージをつくったりしつつ、原稿をながめていた。

しばらくして、全体のタイトルがいきなり浮かぶ。引きはある。
原稿の細部との齟齬はないか、読者対象となる人が気になる言葉か、
とにかく冷静に確認をしてみても、大丈夫だった。


そして、脱稿。

原稿を悪くはない水準までは引き上げた。
少なくとも、取材先が話してくれたことをある程度読みやすくは載せられた。

まあ、こんなところでしょうか、といった感じにはなった。


執筆の過程では、怒りという感情を持つことができたのがうれしかった。
言葉に敏感になっていたため、あらゆる感覚が鋭くなっていたと思う。

帰りの電車で執筆に向けて眠って調整していると、
差別的な言葉をふざけて言い合う中学生に出くわし、マジギレしようと思ったり。
クリエイティブとは間逆の職場に溢れる役所的な文章に、
「何を言いたいんですか、ていうか伝える気ないっすよね?」とツッコんだり。
(だから役所は…という言葉は、かろうじて飲み込んで差し上げたが…。)

この感覚が鋭いためにしんどくなって疲れていた、というのが普通だったので、
これまでの頭が働いていない状態は特殊だし、やっぱり不快だったのだろう。


数日ぼんやりすると、また自堕落なカラダに戻るし、
平日の日中の時間は、頭が退化するためのようなものなので、
それ以外の時間は、意識して頭を動かしつづけようと、決めた。


もう、本当に早く復帰したい。
1日のうち、19時間位は仕事したい。

生き恥

2012-08-28 18:50:39 | 私事

とかく私は、自分に自信を持つということができない。

調子に乗って何かをした、っていう経験が全くない訳でもないのだろうが、
必ず何かをしようとする時、周囲からストップがかかるか、
自動的に自分のストッパーを発動させていた。


今回、自分の信念や生き様と、社会的リスクとを、てんびんにかけているのだが、
リスク回避を選択したくはないのだけど、結果的にその方がラクなのは確かだから、
そちらを選ぶというか、自分の信念や生き様から目を背けて、
惰性に流れようとしているのだろう、という気がしてならない。


10年後の自分が、子どもの頃にこういう大人にはなりたくないと思っていた
昔の少しよかったことばかりを懐かしみ、
野球場で感情を垂れ流すだけのヤジを飛ばし、
ただ今という時間をやり過ごすだけの、
何の意味もないヤツになってしまうというオチしかないのに。

既に、半分以上は、そちらに行く可能性が高い、という状況下にいるというのに。


惰性に流れるから、きっと自信を持つということができないのだろう。
大学受験の勉強をしていた時は、徹底的にストイックに結果を求めて過ごしていた。
それが、どうして今はできないのだろうか。


過去の自分に比べて、どんどんどんどん使えなくなって、
衰えていく感覚が、毎日実感として見えている。
リハビリをして何とか下降線をゆるめているとはいえ、
その勢いはどんどんどんどん増している。

それが、どうしても怖くて仕方ない。


もし、自分に自信が持てていたら、周りに迷惑をかけても空気を読まず、
信念に正直に生きていたら、別の人生を得られていただろうことは確かだ。
少なくとも、今、こんなことを書いているような人生ではなく、
落差はあれども自分にとっての「華」をもった人生だったのだろう、と思う。


取り返すならば、もう本当に時間がない。今回のリハビリがラストだ。
だから、すごく焦る。
焦りすぎて、何をしていいのかわからない状態にもなっている。
普段取らないようなギャンブル的な行動にも、戦略も甘いままで出ようとしている。

戦略を練って練って、紙にまとめた上で、勝負を仕掛けてきたのに、
自分のことだとどうもできない。

けれど、どうにもできないでは、どうにもならないのだよね。


旅行に出かけて、リセットしかないな、こりゃ。
その方が、無駄に東京で生きているよりも、効果は高い、と思う。


常にイスを操縦する仕事というのは、身動きが取れないので、退屈だ。
そんな人生は、やっぱり退屈だ。色がない。何色もない。

元横浜・石井琢朗選手 現役引退を発表

2012-08-27 23:03:38 | 球評

「1番、ショート、石井琢朗。背番号5。」
このアナウンスから、応援はいつもはじまっていました。


忘れもしない98年の日本シリーズ第1戦。
横浜スタジアムでの第1打席の2球目。
誰も想像しないセーフティバントを
見事に三塁線に転がし、日本一への勢いをつけてくれました。


忘れもしない08年の横浜スタジアム最終戦。
戦力外通告を受けて、横浜での最後の日。
試合終了後、ライトスタンドの下に来て、
大きな声で「ありがとうございました」と言ってくれました。

同時期に「引退勧告」を受けて最終戦を迎えた
稀代のアベレージヒッター鈴木尚典選手との
最後の2人の背中は、ずっとずっと心の中に残っています。


広島をどうかクライマックスシリーズに連れて行ってください。
そして、華麗なヒットを、広島と横浜のファンに見せてください。

無題

2012-08-22 21:52:42 | 転活

今の職場に、退職を申し出た。
ひとまず、来週頭まで、もう一度考えなさい、と言われた。


一般常識に照らせば、リスクは相当高い。

残念ながら、次の仕事が決まっている訳ではない。
31歳。
20代前半のような「再チャレンジ」が許される年齢ではない。


だけども。


このまま誰のためかわからない作業をしていても、魂の抜けがらのような状態。
私という人がいるならば、自分のために生存年限を有効に活用していいはず。

他人の人生を生きているような感覚で、一生を過ごしたくはない。
間違いなく後悔するだろう。いい人生だったと思って最期は迎えないだろう。

社会的地位やそれに見合った収入は、大学3年生の時に捨てた。
自分の力量で仕事ができる環境は、相次いで仲間を失って消えていった。


そして。


何となく生きてみることを選んでみたが、やっぱりつまらなかった。
職場が安定していたって、自分が不安定だったら、意味がない。


確かに、環境が不安定なら、自分も不安定にはなる。
昨日の夜は自分の先の見えなさ加減から、強烈な不安に襲われた。
怖くて怖くて、仕方がない。

だけども、成功者になるためには、これとお付き合いしないといけないのだろう。
リスクを背負ってでも勝負に出なければ、勝ちはない。
負けのない状態から抜けるのは、やっぱり恐怖が付きまとう。


だから。


隠さずいえば、怖くて怖くて仕方ないから、努力するんだ。
怖さを忘れるために。怖くなくなるために。

自分自身に向き合わないといけない。
今の時点での決着をつけたい。


出版社への転職活動が実質的に可能なのは、あと4か月。
2年以上その仕事からブランクが空いてしまうと、
書類すら通らなくなるのが転職市場の暗黙のルール。

しかも、31歳だ。時間がない。


すっごい、焦っている。しかも、若干躁状態なんだろう。
だから、こういう行動にも出る。


長い延長戦の果てに、サヨナラ勝ちを収めてみせる。
自分が納得して、社会で生きていけるために。

このまま終わって、たまるもんですか。

偶然なのか、運命なのか

2012-08-15 22:02:25 | 転活

昨日、いい加減向き合わなければならないテーマの中でも、
感情のコントロールができなくなるほど、ヘビーなお話に関する本をようやく買った。


ひとまず、ぱらぱらっと見ていたが、やっぱり重たい。
重たいテーマを扱ったり考えたりすることの多い私でも、持ち上がらない重さだ。

ひとまず、かばんの中に入れておき、明日読もうかなと思っていた。


今日、職場にやってくると、回覧物が裏返しにして机の上に置いてある。
何だろう、と思ってひっくり返すと、驚いた。


その持ち上がらない重さを持ったお話に関する内容だった。


そのお話は、特定の業界や組織では有名になったが、
残念ながら現在、テレビや新聞での報道は全くないのである。


なのに。

何だろう、この引いてくる強さ。

持ってる。
超持ってる。


テーマに向き合え、ってことでしょうか。

それ以外に考えにくいのですが。

向かい風から変わる時

2012-08-07 22:07:03 | 転活

2012年8月3日(金)22時15分、下北沢の雑居ビルの2階。

飛び込みで聴きにいったパネルディスカッションには、
ここ2年以上悩み続けてきた自分なりの編集者という生き方の
理想形に向けた階段づくりの方法が、数秒単位で溢れていた。

本当にすごい、すごすぎた。圧倒された。人の話にここまで聴き入ったのは久々だ。
その勢いがもたらしたのか、私の中で、「かたん」と変化する瞬間が訪れた。


パネリストの1人、若き出版社の社長を務める編集者ととにかく話したくて、
最初の言葉も中身も決め切れないまま、とにかく声をかけようと近づいていった。


緊張は高まる。これまで散々緊張する場面には出会ってきたが、
今回の緊張は、自分への自信のなさからくるものでもなく、
結果を出さなければならないとの焦りからくるものでも、なかった。

とにかく話したい。

好きになった相手に、何とか話しかける場面と同じ感覚がした。


いよいよ、その人と話す番になった。
直前に考えたことなんて、簡単に忘れてしまった。


それでも、自己紹介がてら共通の知り合いである
前の会社の人間のことを話して、何とか軽い雑談を済ました。

だけれど、ついに言葉に詰まりはじめ、
何を話していいかわからなくなった。


しどろもどろ、今の私の状況を話していた会話もとうとう止まり、
相手もリアクションに困りそうになりかけようとした時、
思わず言葉が出た。


「やっぱり、つくりたい本、つくりたいですよね。」


私は何のために、生きているのか。
どういう未来を望むのか。
自分の中の答えが、思わぬ形で思い出された瞬間だった。


前の出版社を辞めた理由は、いくつかあった。
経営方針が変わって、つくりたい本がつくれない状況になりつつあったこと、
仲間が次々と辞めたり退職させられたりして、仕事がしにくくなりつつあったこと、
この2つが大きなものだった。


転職する、というのは手段であって目的じゃない。
その目的を達成させることができるのならば、
会社やNPOを立ち上げてもいい、とまで仲間に言っていたことも思い出した。


目の前には、そんな私の理想の形を少しずつ実現している人がいる。
私にとっては、ヒーローだ。

その人は、こんな言葉を返してくれた。


「少しずつおもろいこと、やっていきましょうよ。」


堅い握手を交わした。
強いエネルギーをいただいた。

一瞬で、アタマが冴えていた状態に戻っていった。


私はこの感覚で、本をつくっていた。
自分で企画した仕事に迷いのない、真っ直ぐな勝負師。
この鋭い状態。


興奮しながら帰宅する私に、淡い期待がよぎった。

もうすぐ、帰れるかもしれない。
まだまだ、やれるかもしれない。


最高の夜だった。

リハビリ開始から約2か月目

2012-07-30 21:46:31 | 転活

時間が経つのは、平日の昼間は恐ろしいほど遅いのに、
休日はいつの間にか過ぎていく。


リハビリ開始から2か月が経過した。
予想通り、楽しいだけの段階は過ぎて、考える段階に突入している。

つまるところは1つ、本当に復帰できるのか、ということ。


私が今いる職場を1年で辞めて、高校教師になるべく勉強している友人がいる。
彼には「やりたいことがあるならば、すぐに動いた方がいい」とアドバイスをもらった。
私と同じ30歳での決心。大勝負に出たことをすごく尊敬している。


リハビリ仲間の中では、そのメニューを着実にこなすため、
退職して不安定な生活をする人も何人かいる。
恋人のところに転がり込むというリスクヘッジのある20代後半の女性か、
若さと勢いでまだまだ何とかなるような20代前半の男性がほとんどではあるが、
私もその選択肢が常によぎっている。

辞めたい。辞めて集中したい。

リハビリに対する気持ちの入り方、
書いているものの質が高いのは、事実だからだ。


一方で、今の仕事の状況を冷静に分析して、歯止めをかけてくれる人もいる。
この数か月は閑散期に入る。なので、仕事をしながら動け、と。


気が焦る。
何をそんなに、恐れているんだろうか。

それは、この延長戦には、限りがあるからだ。


年齢が上がると、30歳以下の求人に加え、
30歳未満の求人にも、自動的に応募できなくなる。
文字で書くときわめて単純だが、求人量の絶対量が大幅に減るのだ。


そのリミットが、近い。
だから、気だけが焦る。


平日の昼間の時間にもし喫茶店にいたら、
リハビリを自分のものにするためのトレーニングはできるし、履歴書も書ける。
文章のパフォーマンスは間違いなく上がる。


少なくとも、室内で慢性的な熱中症状態になり、
大事な平日の夜を、ただ回復に当てる必要はなくなる。
アタマが熱を持ったように、ボーっとしている状態が寝るまで続くこの頃。

ちなみに、私の職場は室温が30度を超えないと、冷房は入らない。
しかも換気が悪くて、空気がよどんだような感覚の中で過ごしている。
よどんでいるのは私自身かとも思ったが、そうでもないようだ。


9月末までいれば退職金が倍になるため、8月末の退職は見送った。
大人の判断としては正解だろう、とは思う。
ただし、ストレスという言い訳と、夏という季節に任せて、散財しては何も意味がない。


気だけが焦る。
焦ってばかりで混乱して、やるべきことすら見失っている。
よくない状態。


企画が書けない。
何をやりたいのかが、正直わからない。

けれども、私は編集者として生きたいし、
それ以外に自分を生かすこともできないし、生かすつもりもない。


調子が戻りつつあって、エネルギーが蓄積されてきた証拠なのだろうか。
適切な方向に爆発させれば、結果を出せるのだろうか。
身辺を整理し、頭を整理すれば、結果が出ると思っていいのだろうか。


結局いつも通り、悶々と平日を迎えた。

文章にまとまりがない。やっぱり状態は悪いのか。
その判断すらつかなくなってきているのは、本気でヤバいのかもしれない。

藤田が涙の別れ…キヨシ監督も寂しげ(デイリースポーツ、120626)

2012-06-26 22:12:31 | 球評

楽天へ移籍し、早速今日の日本ハム戦に先発出場した
元横浜・藤田一也内野手が、甲子園での阪神戦後の大阪で、
横浜ナインとお別れをした際の記事が掲載されていた。

他紙では掲載されていない中、
中畑監督の目線で藤田選手を語らせることによって、
おそらくデスクのチェックを通過し、紙幅を獲得できたのだろう。

藤田選手の人柄と中畑監督の複雑な心境を表した記事。

書いてくださったデイリーの横浜担当記者さん、ありがとうございました。

   藤田が涙の別れ…キヨシ監督も寂しげ(デイリースポーツ、120626)