学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

管理者HN変更のお知らせ

2010年09月07日 02時04分07秒 | weblog
ブログ・タイトルの変更にともない、これまで使用してきた管理人のハンドル・ネーム「ぱれいしあ」を「でえすくえら」に変更しました。

でえすくえらは、スペイン語のdeescuela 非学校・脱学校 の意味です。

どうぞよろしくお願いいたします。m(__)m


フラッシュ・モブ

2010年08月31日 04時09分22秒 | サブカルチャー
まずはいくつか画像をごらんあれ。

フランスの大規模OFF 枕投げ

ネット時代の壮大ないたずらといったところかな。

フラッシュ・モブ予告 新宿アルタ前広場

社会的・政治的メッセージを発信する場合もある。

NO PANTS DAY in NY

アートとしての人の集合。パンツなしでみんなで地下鉄に乗ってしまいます。日本ではわいせつぶつ陳列罪でとりしまらるでしょう。が、面白い!


解説

wikipedia フラッシュ・モブ

wikiの解説では政治的なものは含まないとされていますが・・・。

イル・コモンズのふた [警告・フラッシュモブ]

イルコモンズのふたのサイトでは、アートも政治もなんでもありといった解釈がみられますね。

すでに映画・テレビの業界や、イベント・プロデューサーなどはこの群衆行動に目をつけているでしょうね。わたしとしてはこれをぜひ社会運動にビルトインしたいと思うのですが。
ある程度アートっぽく目立たないと、マスコミが取材にきてくれないし。
マスコミに報じられなければ小さなイベントで終わってしまう。。。そんな残念な事態を避けるために。

それから、やっぱりはじける、かっこいい、面白い要素がないと、たくさんの人が集まりません。
人寄せのためにサウンド・デモとか、デモへの美術や音楽の導入も社会運動はやってきました。
しかしネット時代のいま、ネットでよびかけてのオフだけでなくフラッシュ・モブも、社会運動の一風景にしなければなりません。
それをどうすればよいのかは、まだ分かりません。
だけどここにメモを記すことによって、多くの方々と知恵をよせあうきっかけになれば幸いです。











ゲリラ・ガーデニング

2010年08月25日 17時32分03秒 | 住まいと環境
真夜中にグループが集合し、花やハーブの苗を空き地や公園などに植えていく。早朝になると身近な景観を変えタボランティアはずらかる。
それがゲリラ・ガーデニングだ。
日本でも活動するグループがあり、mixiにもコミュができている。
ただし日本では役所の規制が多く、活動範囲は狭い。
自主的に身近な環境をよくする活動だけに、ぜひ定着してほしいものだ。

ゲリラ・ガーデニング(解説サイト)

日本でのゲリラーガーデニングの活動(JANJAN記事)

YOUTUBE画像:ゲリラ・ガーデニング




沢田マンション

2010年08月25日 16時39分37秒 | アウトサイダー・アート
本・「沢田マンション物語」古圧弘枝高知の先駆的建築物、沢田マンション。
沢田夫妻が基本的に二人だけで建てたセルフビルド建築。
今も改装が進んでいる。

沢田夫妻はふたりとも建築士の免許はなく、専門教育・訓練も受けず、仕事の中で建築することを覚えていった。
これは仕事の大切さと教育の無力・限界をあらわすひとつの実証である。

本もあります。
wikipedia 沢田マンション

画像:沢田マンション寸景(youtube)

建築マップ 高知県 沢田マンション

(建てかけ)

パルクール

2010年08月25日 16時36分02秒 | アウトサイダー・アート
パリ郊外バンリュー地区(移民が集住する)発祥の新しいスポーツ。
それは哲学であり芸術でもあると実践者は主張する。

パルクール 画像 

WIKIPEDIA パルクール

<2010/8/25/16:36追記>はじめてこのスポーツの動画をみたとき、衝撃が走った。
なんだろうこれは。中国雑技段、忍者、新体操・・・。
その予想のすべてが外れていた。
貧しい移民の多いパリ郊外・バンリュー地区発祥の、新しいスポーツだったのである。
フランス当局はパルクールグループをギャングと同じように扱っているとのBSの報道もあった。
しかしパルクールする人たちは、これはスポーツであり哲学であり、芸術だと反論しているという。
このスポーツが新たに正規のスポーツとして合法化されることを願ってやまない。
そう、ちょうどワッツタワーズやシュヴァルの理想宮が最初は違法でありながら、のちに人々の努力によって合法化されたのと同じように。<2010/8/25/16:36追記>






ワッツ・タワーズ

2010年08月25日 16時14分29秒 | アウトサイダー・アート
ロサンゼルスの日雇い労働者が、自力で建てた塔です。

youtube ワッツ・タワーズ 

ワッツタワーズ 解説サイト

人は個人で、専門性や教育訓練もなく、ときにこのような優秀なアートを作ってしまえるものですね。
感嘆せずにはいられません。

(建てかけ)


シュヴァルの理想宮

2010年08月25日 16時02分46秒 | アウトサイダー・アート
いくつか気になったアウトサイダー・アートを紹介していきます。まずはシュヴァルの理想宮。
たったひとりで教育や訓練なしで建てた自律的建築であり、アートなのです。


youtube 画像 シュヴァルの理想宮

シュヴァルの理想宮

wikipedia シュヴァルの理想宮




(建てかけ)

トラックバック先URL:">アヴィニヨン 南フランスの生活 La Vie en">アヴィニヨン 南フランスの生活


ブックマーク変更のお知らせ

2010年08月18日 18時57分37秒 | メディア
順番がまだ整っていませんが、ブックマークを整理・更新しました。

すでにおわったサイトは思い切ってはぶき、ブログを休んでいた間にあらためて出会った人や団体のサイトを加えました。
ちなみに>出会いというのは直接・間接の意味であり、リアル・ネットともにです。いやらしい意味はありませんよ、念のため。(笑)

やっぱりサイエンスカフェや哲学カフェの影響はいなめないと感じること、ひとしおです。

ブログ再開・タイトルとコメントルール変更のお知らせ

2010年08月13日 18時12分00秒 | 道々の輩(ともがら)
ブログ再開

いったん閉めていたブログを思い切って再開することにしました。
たくさんのキーワードの管理は大変ですし、ストーカーの圧力でブログをつぶされるのも不本意だからです。
こわごわですが、少しでもいいブログを建てていきたいと思っています。

ブログを新しくするにあたって、タイトルを変更しました。また、これまでまったくオープンだったコメント・トラックバック・メール等に職業制限をもうけることにいたしました。

タイトル変更とその理由

タイトルは、「オルタナティブ塾 on blog」から「学校のない社会 大学のない世界」に変更しました。

理由は、ストーカーはどうやら大学や学校のような世界、またそこで行われる教育という行為にに過剰な幻想やこだわりをもっており、このブログを建てているわたしもそういった世界で共依存する相手とみなしておそろしい執着を見せる点にあります。
最初私は、学校・教育・大学等をあまり大切なものとみなさない立場でありながら、カムフラージュまたは妥協として「オルタナティブ大学 on blog」というタイトルを使っていました。
学校や大学に反抗するなんてけしからん、とする荒らし・サイトつぶしを嫌忌してのことでした。
たとえばアンティオーク大学のような学内で民主的なルール・システムが貫徹している、いわゆる保守的な大学とは違った大学であれば、自分のサイトの「世を忍ぶ仮のタイトルとして適切かと考えたからです。
だけど、ストーカーはそうとりません。セクハラやモラハラやパワハラなどの横行する、偏狭なエリート主義の跳梁跋扈する世界を求め、競争でもりあがるが協力や連帯はない。
今の首都至上主義で、かつて首都だった都市や地方のことはどうでもよい。
せまく小さく囲われた「公(おおやけ)の場」にこだわり、そこから排除すべき大多数のノンリートを、自分たちわずか1~2%エリートのために求めている。
そんな世界の住人がわたしだと思いこんでいるようなのです。
そういった人をわたしは友達にしようとは思いません。

実はそういったものすべてにわたしは反対の立場にあるのです。
それを仮に学校的または大学的なものとしましょう。
そうした学校的・大学的なものとの決別の象徴としてわたしは「オルタナティブ大学」という言葉を用いました。
大学らしくない大学、形骸化された大学、大学とは別のものでありながら大学のふりをしている、大学のパロディーのごときもの。
それを、ストーカーはまったく逆の意味・イメージに受け取ったようです。

こうなっては、誤解を避けるためにも建前ではなく本音のタイトルを使ったほうがいいと考え直しまして、こちらの3つめのタイトルにいたしました。

コメント・トラックバックは大学教員禁止

コメント・トラックバック・メールの大学教員禁止について。
すみません。ほかの職業と同じように大学の教員の方も一枚岩ではありません。なかには信頼できる方、親しみのもてる方、初対面でも百年の友と感じられる方がたがいらっしゃることは理解しています。
ただし、この職業の方には、極端にプライドが高く、長年閉鎖的なハラスメント空間にいたせいもあり、いやがらせの技術の高い方がいらっしゃいます。
それをIQの高さや雇用の安定性を悪用・乱用する形で発散する方もいらっしゃいます。
イリイチの直伝の弟子・山本哲士風に言えば、大学教授はプライドが高くて怒らせると何をやるかわからないということです。
あるネット上の義理の親類からのメールでそのことを警告されたとき、わたしはたかをくくっており、大学教員ではないが大学教員タイプの人間からこっぴどく恐ろしい目・いやなことをやられてしまいました。
あのストーカーの憤怒の表情、ものすごい怒鳴り声、不登校差別に涙ながらに抗議する上品なメールをモンスターメールに印象操作する極端な自己中心性と被害者意識、ゆがんだ認識には、もう二度と遭遇したくありません。
ですので、失敗から学んで、そういったタイプの人間をこちらのブログから排除しておきたいのです。
リアル世界で知りあって信頼しているか、ネットでの永いやりとりを通じて大学教員ながら「大丈夫」な方にはコメント等していただいても結構です。
しかし、そうではない方は残念ですが、コメント・トラックバック・メール・オフのミーティング等へのお誘い等、原則としてお断りしようと思うのです。
長らくブログを留守にしていましたが、体調ももどってきましたし、ぼつぼつとデーミオエルゴーイ(国民のために働くもの)のネット上での実務を再開しようと考えております。
どうか読者のみなさまのご理解・ご協力のほどを、お願い申しあげます。m(__)m




中傷からこちらのブログに来られた方へ

2010年02月05日 20時41分53秒 | ストーカー・DV/モラハラ
杉田俊介ならびにでみあんという二人のストーカーのとんでもない汚い悪口からこのサイトを知られた方へ。

あの二人はたくみに話をでっちあげて、このサイトとは関係のない論争に人を巻き込み、傷つけ、疲弊させました。

そのおかげで数年、このブログを更新することもできなくなりました。
そのときの、「また、いつかあいつらにどんな形で精神的ダメージを与えられたり名誉を傷つけられたりプライバシー情報を漏洩されるかわからない。そのことによって、誤解をとくため・自己弁護の便宜上、やむなく別の個人情報も差し出すはめにさせられたら耐えられない」という根源的不安・恐怖にかられました。

某巨大掲示板での杉田の受動的攻撃性とも呼ぶべき批判ではない悪口は、わたしとの利害対立を考えると、杉田俊介やそのとりまきがわざわざわたしを装う形で書いた可能性もあるかもしれないとわたしはにらんでいます。

なお、杉田俊介ならびにでみあんとわたしとの間に、週刊誌のゴシップとなるような関係は一切ありません。
でみあんとは一面識もありませんし、杉田とは「フリーターズ・フリー」という雑誌の説明・打ち合わせのために一度顔をあわせたにすぎません。
また、二人とも、mixiのなかでの「マイミク」ではありません。
したがって、二人はわたしのマイミクにだけ公開する日記等の情報は見ていません。
にもかかわらず非常になれなれしく、彼らの手下かモノ
であるかのようにわたしを扱います。
この二人から独立した自分の人格を無視した非常につまらない、そして勝手な交渉・論争をやられて、迷惑しています。
それはわたしを傷つけ落ち込ませる効果はあっても、元気づける要素は皆無です。
体調、それにもともとの考えや性格のこともあり、わたしは片っ端からめちゃくちゃなことを書く杉田のようなものと争うことはしたくないと考えています。
心の師・イリイチが、ラテンアメリカの立場に立ってアメリカの進歩のための同盟に反対したとき、バチカンからの異端審問を受けたときにバチカンと闘わなかったこと。
それにわたしは学びたいと思っています。
しかしその思いが定まる前に勝手にでみあんは、頼んでも望んでもいないのにわたしの代弁者として杉田との交渉に入りました。
体調がいい・悪いといったまさにプライベートに属することは、わたし自身にそれを出すか・出さないかを決める権利があり、憲法保障されています。それがプライバシーの権利です。
それをでみあんは、杉田とともにふみにじったのです。また、体調を論争にもちこんでも、非論理的と言わざるを得ません。
そこで論じられている複数のテーマから離れたことを話題にもちこむのは、単なるノイズです。
しかし、わたしが論争をもしやるならやるべきではないし、やらないほうがいいと思っていることをなぜかわざわざでみあんはやってくれたわけです。小さな親切、大きなお世話とはこのことです。
この二人のやったことは許せないと思います。

しかし、いろんな事情も作戦もあり、わたしは今すぐに争う資金も社会的地位もないのです。
ならば、立ち去るほかありません。
つまり、このブログ、それに杉田にリンクされてしまった別のブログもいったんしめて、もう一度別のサイトを立て直してやるほかありません。
それが熟考したうえでのわたし自身の決定です。
でみあんは、突然のストーカー杉田の罠にかけられ狼狽し、めまい、動悸、耳鳴り、汗をいつも以上にかく、吐き気、不整脈等のストレスゆえのショック症状にみまわれたわたしを無視して独りよがりな正義の味方を気取ったにすぎません。
しかしそれは、時には作戦としてなにもしないことが最上であるということをまったく理解しないふざけたやり口です。

でみあんは、ノーベル賞もノーベル経済学賞も区別なく崇拝しているようです。
そのような批判精神のない人に自分の弁護士役をやってほしいとわたしはちっとも思わない。

杉田は、ここは週刊誌的な月旦評を書くところではないため、わたしの一度だけ観察した彼の人物について書きたくありません。
しかし、あまりよい感触はえなかった、むしろ土屋トカチ監督の「フツーの仕事をしたい」に出てくる工藤という企業舎弟風の男とおなじような感じでわたしに因縁をふっかけてきた、それは大変恐ろしかったということだけは言っておきましょう。
彼はなぜかわたしに攻撃性や憎悪を見出し、それがなければ作り上げる人物です。
しかし、それは彼のほうにより顕著に見出せたというほかありません。

まあ、憎悪も攻撃もどんな生物または人間にも見出せるもので、それがあるからといって大騒ぎするのは間違っているのかもしれません。
わたしたちは、いつ人を殺すかもしれない存在です。
イタリアの精神病院廃止運動では、医者が患者が殺人をするか否かは見通せないこと、逆に言えばわたしたちはみないつどこで殺人をするかわからない存在であるということがその根拠になっています。
動物行動学でも、すべての動物には攻撃性があるという前提を立てています。
問題は、その攻撃性が、特定の有徴化されたグループ(たとえばフリーターとか不登校とか外国人とか)だけに見出せる、だからといってその人をこよなくたたくことです。
なお、憎しみや攻撃は小出しにしているかぎりは大したことがないので、あまり抑圧せず、絶対悪視しないほうがいいというのがわたしがフリースクールやテント村から学んだことです。
憎しみや攻撃を野蛮だというのは、文明の傲慢というものです。

わたしは憎しみがなくなることなど望みません。ないものねだりはしないということです。
ただ、憎しみをやみくもに抑圧する教育やしつけならいりません。それは偽善そのものです。


(18:04 2010-8-13 文意を損なわない程度に微調整をほどこしました。)

ブログ名変更のお知らせ

2010年02月05日 20時39分30秒 | weblog
ブログ名をオルタナティブ塾 on blog →オルタナティブ・カフェ@近畿に変更しました。

塾よりも、街角にあり、ふらっと立ち寄るカフェのイメージのほうが、こちらのブログによりふさわしいと判断したからです。

DV被害者からの相談へのレス(抜粋)

2008年08月26日 21時30分15秒 | フェミニズム
とあるDV・ジェンダーヴァイオレンス関連コミュでの自分の発言の抜粋。

■トピ主さんは、失礼ながら、ご自分と彼との区別があいまいすぎるのではないでしょうか?

少しでも離れると生きた心地がしないほどの心理的密着は、身をほろぼしますよ。やめる決意が肝心です。

離れないと、権利のために闘えないです。


■直接(加害者に)会うのは危険です。弁護士、行政書士、または法律に詳しい友人などに同席してもらうか、あなたは欠席して代理してもらうほうがいいでしょう。
一対一では不毛なつぶしあいになることも、第三者や第四者がいることで三つどもえ、四つどもえにもちこめます。そうするとあなたが生き残りやすく、欲求も通しやすくなるはずです。

相手が関係のない論争を起こして交渉を混乱させるようなら、必要最小限の事務的な手続き以外の議論や必要以上のつきあいには応じる必要はありません。
特にそれが不快であったり、あなたの別の用事をさまたげるものであったりすれば、なおさらです。

相手はテンパる、切れる、すねる、ごねるをやれば、あなたが何でもいいなりになることに味をしめています。そうしてコントロール&プライド中毒になっているようですね。基本的にキレ得、ごね得ねらいなんですよ。そこに真剣な愛情やまっとうな親しみの念などありません。尊大な気分にひたりたいだけ、政治的支配の計算があるだけです。

理不尽な相手の欲求や圧力・暴力に対して、中途半端な妥協や打算は意味がないか逆効果だと思います。
もし妥協しても、相手の勝手で甘ったれた欲求は、幾度ものピークを描いて訪れ、エスカレーションしてゆくことでしょう。

■それと、あなたが「彼を好き」というのはもしや錯覚ではありませんか?怖さや緊張による不健康な動悸を、恋愛のそれと取り違えるするのはよくあることです。
吊り橋を渡るなどハラハラどきどきすることを男女が一緒にすると恋愛しやすいという説があります。
それを彼は経験的に理解して、悪用・乱用しているのではないでしょうか。

■あと、孤立するのは得策じゃないです。
つらくても、恥ずかしくても家族、友人、同僚等に折りを見てあなたの受けているDVについて話しましょう。
そんなひとりやくざみたいな男が相手なら、多少保守的な親や友人であっても、あなたに同情し、味方になってくれるでしょう。
それに、いざ逃げたり対決したりする時にも、少しでも周りの人たちの理解やサポートがあるほうがいいです。思わぬ役に立つアドヴァイスもあるかもしれません。
この種の加害者は、被害者についてあらぬ噂を立てることもあります。同じ職場であればなおさらその危険があります。
そのときの対策としても、周りに報告・相談して、彼との密室状況を透明に近づける努力は必要かと存じます。

相手の勝手な自己憐憫や被害者意識にふりまわされてはいけません。まことしやかに相手は暴力を正当化・美化するでしょう。それに巻き込まれてはダメです。

実はわたしもやっかいな相手と権利のために闘争中です。
互いにしっかりと自我を保ち、自由のために闘っていきましょう。

■ そうそう。
>元彼女はもっとひどかった

これは真に受けてはダメな言葉だと思いますね。人に残酷なことを平然と行い、それに社会的または正義的いいわけを添えるいじめっ子、しごきをやる人、それにDV加害者などは、だいたいこういうことをいいます。
それはその場の彼または彼女の横暴をごまかすためです。
暴言や暴力をやりつつ、ほかにも苦労している人はいる、自分なんてまだ甘いほうだ(だから感謝しな)等と言う。
さらに被害の訴えも被害妄想、悲劇の主人公ぶっているとおとしめます。
しかし、何の統計資料や写真や証言など具体的な証拠もなく、あなたの理解力を攪乱しているだけです。
それこそが脅しであり、圧力であり、嫌がらせでしょう。
「もし逆ったり逃げたりすれば、もっとひどい地獄が待っているぞ、それがいやなら俺専属の殴られ女、奴隷の立場に甘んじろ」
とあなたに暗示をかけているようなものですから。

ブログタイトル変更のお知らせ

2008年08月11日 01時18分44秒 | オルタナティブ教育
すみません。今日より旧ブログタイトルだったオルタナティブ大学 on blog を
オルタナティブ塾 on blogへと変更いたします。

理由は、「大学」というものに対して過剰な幻想を抱いて管理人に会いに来たうえ、とても一般人とは思えない粗暴な言葉・態度を示し、セクハラかストーキングとみまごうことを書籍やネットを通じて行う者さえいるからです。

いわゆる大学をわたしはあまり好きではありません。ていうか自分とはあまり日常的に接点がありません。
誰か詳しい人が何も知らない人たちに教える。ある種の閉鎖性・不透明さ、特権。
非民主的・官僚主義的な運営。建前と本音の落差の激しさ。
正当性と知識中心主義。

それらとは距離をおきたいのです。

「ボキュはこれほどよくお勉強したんだから承認して」とマザコン男が気持ち悪い一方的なメールをしてくる。その勝手すぎる期待にわたしが答えないし、そこが特権的なポストや専門性を保障する場所でないと知るやいなや、わたしのことを被害妄想だと言ったり、自分のほうから他人を中傷しながらその方自身が中傷されているとブログに記事を貼ったりする、一人勝手なプライド-屈辱ゲームを楽しむ人間にこれ以上勝手な仲間意識や期待・幻想を持たれないためにも、大学の名前は使わないほうがいいと判断しました。

基本的な中身・方針は変わりませんので、どうかこれからもよろしくお願いします。

なおこれは告知記事ですので、コメントはお断りします。




ストーカーによるいやがらせ

2008年06月30日 23時13分14秒 | 自然保護・修復
(これは、ある日のmixi日記からの転載になります)


今わたしはあるストーカーから出版物を通じた嫌がらせを受けている。

彼は、現代文明の中で狩猟本能を色濃く残したような男で、
学歴や学力の低そうな女性を狩ることを生き甲斐としている。
歪んだプライドの持ち主で、他人にはわかりにくいことでうらみつらみをいだき、独り相撲的な敗北感・屈辱感・劣等感等にまみれている。
女性をすべてお母さんかギャルゲーの女の子キャラのようにみなし、それ以外のイメージの役割を彼女がもし演じれば、キレる、すねる、ごねるといった性格をもつ。
しかもどうやら獲物以外の人の前では賢くてしっかりした人をうまく演じたり自己プレゼンできるタイプだ。
人が自分の好きな人と交わり、関係を切り結ぶことに対して彼は非常に激しい不快感と被害者感を示す。
自分が加害者のシチュエーションであってもおおげさな自己憐憫と被害者意識を示す。しかもそれを(特に社会的地位の低いか生理的に弱い他者に集中的に)投射する。
思いこみ・決めつけが激しく、独断・独善・独裁者的な振る舞いが目につく。

わたしは彼を特に信用していない。
フリースクーラーの立場からは、彼のように知識中心の教育を受けて自我のねじ曲がった人間は問題児にすぎない。
また,学校または大学の外の知の愛好者としては、彼の主張は説明下手だったり、根拠がとぼしかったり、あいまいで主観的なことが多すぎる。研究者と愛好家の入り混じる研究会などに参加したかぎり、そう思える。

だが、彼はわたしを自分にとっての永遠の奴隷か家畜であるかのようにみなしている。私的領有物か所有物のように見なしているのだ。

これは絶対に関わり合いになりたくないタイプである。
リアル世界で会ったときにも被害者意識に満ちたこじつけめいた屁理屈や、おどすような表情・口調・身振りをふりまいていた。
自分は天才だ、奇才・異才だ。心眼が開いている。そうでなくても大天才だ。と顔に書いている。しかし言うことは情けない。マスコミの受け売りだったり、なんにでも反対する万年野党的言い分だったりする。
おまけに彼はバリバリの左翼・共産党系の出版物にも関わっている。
これは、十代のころからイリイチ、アリエス、高坂正高等の書物を通じて反近代の文明論になじんだわたしにとっては耐え難い拷問のような思想である。
また、彼は現代思想オタクでもある。
それは、十代のころブルデュー等を通じて、その種の知識人業界の売り上げまたは人気投票ランキングを相対化したわたしにとって、ただのかしこぶるファッションでしかない。それは安っぽく、悪趣味にしか見えない。

それを彼は面白く新鮮だというだけではなく、神聖なものとして崇拝する儀式を私に強いる。
まったく、いい迷惑とはこのことだ。
もう昨日から腹痛もしたり、悪い夢も見たりしている。
絶対に許せない。


彼はその昔、研究者を目指していたという。
その話を聞いてみると、研究者と小説家の区別もついていないような混乱したことをしゃべりまくった。また、先行研究を批判して打ち立てたい仮説もなく、データを積み重ねて何かを自分で発明したいという意図も伝わってこなかった。
たとえば、社会臨床学会や民族自然誌研究会で一部の研究者の発表に接したときに感じるピリピリした緊張感、冒険心、勇気、聡明さ、ユニークなひらめき…は彼の話からは、みじんも検出できなかった。
ただ自意識過剰と特権意識、ならびに人権感覚のなさがそこにあった。正直、腐っているとしか見えなかった。
統計で言えばクロス集計のような、さまざまな角度からものごとを浮き彫りにしていく作業も彼には向いていないように思えた。
情緒に流されがちで、逆・裏・待遇といったように論理的にものごとを考えたり表現したりするのも苦手のようだった。
たぶん、中高一貫のエスカレターター校に入ってから中だるみ的に学習しなくなっていたのだろう。

その人の差別的な態度、モラル・ハラスメントのような苦痛を与えるいやがらせ、敵意むきだしの姿勢には大変消耗・困惑させられた。
幾度か、フリースクールのこと、稲村という不登校の子どもをだまして入院手続きも無視して暴力的に強制入院させた医者のこと、それを受け継ぐ社会学者や当事者学者のこと、家での抑圧が男の子と女の子では逆に働くという仮説について、メールを送っておいた。
返事がこないため、相手が忙しいか、嫌われたか、それともシステム障害なのかと迷った。
それで、ほぼ同内容で少しだけ訂正したメールを1,2回送っただろうか。だが、無視と放置がかえってきた。
彼が今度作る予定の雑誌に、妥協して協力する、あなたを怒らせたりがっかりさせたのであれば、失礼をわびたいとも記しておいた。
そうすると彼は、それを「ストーキング行為だ」と周囲に吹聴した。またそれを物理的暴力と間違えられても仕方のないような書き方である場所で吹聴した。
さらにそこには、無断でわたしの名前とハンドルネームの双方が使われていた。これはプライバシー侵害行為である。彼は著作物を使ったいやがらせをしたわけだ。
(このへんの行為は赤木コミュ管理人カナメと酷似している。カナメもまた自分に対して異論・批判ならびに和解の申し出をした副管理人にむかって「ストーキングだ」とみなのいる前で、副管理人に恥をかかせたり孤立させかねない状況で言い立てていた。)
ストーカーが関わっている雑誌を見かけて、驚いた。共産党系どころか、まったく共産党の編集者が関わっていた。
わたしは合点がいった。
ああ、これだからやたら思想チェックのようなことをしたがっていたのか。やたらと優等生タイプを集めたがっていたのか。そして異なる立場・思想に不寛容だったのか。
なにか別の目的がありそうだと思ってはいたが、そうだったか。
要するにレーニストなんだ。
高慢ちきな独裁者なんだ。
人に上下をつけ、標準偏差プラスマイナス3以外を読み取れない連中だったのか。
まったく、遊びたい盛りに遊べないとか、苦手科目の克服とか、友達さえも中学入試に有利な文化資本の子どもに限定するとかういった知識中心教育を受けると、これほど歪んだ人格が出てくるものか。

彼なども狩猟生活を送れば、狩猟本能を満たせて、他の女性や女性的な立場とみなした男性にくってかかったりせずにすむのだろう。
しかし他の仕事をやらせると、こんな風におかしくなるのだろう。

だが、今はとりあえずは弁護士を通じて回収や次の版からの訂正を求めることだ。
まったく現代文明というのはそこで大変いきにくい人を作ってしまう。
便利なのか不便なのかよくわからないものだ。

◇誤解を招く表現があったので、訂正しました。(2008.8.9)
研究者→愛好者

わたしは博士号を持たず、また海外研修もしていません。それなのに研究者と分類しては、科学者のコミュニティから知的に一人前だと認められた方がたに対して失礼・非常識に当たります。
まぎらわしい表記になってしまい、申しわけありませんでした。



フリースクールの自由の伝統を守れ!

2008年02月28日 06時50分07秒 | 不登校
自分は、元不登校であることをこちらのブログで表明してきた。
それは、けっこう勇気もいるし、心理的負担もかかることだ。
そのために、攻撃・差別を受けたこともある。
しかし、いくらかの味方が得られたのも事実だ。
誰が味方で、誰が敵か、くっきりと浮かび上がるのは、余計な憎しみを買ってつらいこともあるけれど、風通しの良い爽快さも手に入る。

もう一つ、ここらで立場をはっきりさせておこうと思う。
どうも、それをどこかに書かなければ、自分はこれ以上ブログを建てられないというところまで来ているので。

自分は、学校のない社会を求めている。
全然wじゃない。
自分が登校拒否をしたのも、学校の無い社会を作るために神がそう仕組んだのではないかと十代のころからずっと考えてきた。

同時に自分は教育のない社会を求めている。
教育は毒だ。
人の体質によっては猛毒になりうる。
どうも自分はその教育が猛毒になるタイプのようだと経験的に分かっている。
そうしたグループは、ある一定の規模でいるのだろう。

それから、登校拒否--フリースクール・コミュニティは、いいかげん学校のない社会のための実験的コミュニティとなるべきだ。
マスコミにとりあげられることの多い東京シューレは、ちょっと知識中心に偏りすぎていて、きちんと公教育と距離をおけていない。建物や雰囲気からしてそうだ。いや、昔世話になった地球学校も含めて、日本のフリースクールなりそれとはちょっとズレるけれど親の会は、学校・教育に甘すぎる。さらに言うと医療の危険性についても認識がなっていない。学校や教育と戦い、新しい文化・・社会を作り、そそれを周囲にすすめていく姿勢が弱いのだ。
それは戦略ということもあるし、妥協もあるだろう。
しかし、どこかフリースクールや親の会こそが不登校差別的というか、とりわけ一生型のフリースクーラーにまるで理解がない傾向をもっているようなのだ。

フリースクールをする人、あちこちのフリースクールを回っている人たちを、アメリカではフリースクーラーと呼ぶ。
このことは、元地球学校の児島さんに教えていただいた。彼は20代のころからアメリカのフリースクールをたくさんまわって、しまいには自分で日本にフリースクールを開いた人だ。
彼の話によると、フリースクーラーには短期型と一生型があるそうだ。
短期型は、たった2-3年でおわる。一生型は、いろんなフリースクールのコミュニティを回遊して一生をすごす。
わたしは一生型だ、もう二度と学校と家には戻りたくない。あの二つは地獄だ。非民主的で不自由で冷たさに満ちている。いつも知識やテストのことしか頭に無い。そんな知識中心の学校や家はいらない。
十代のころにそう思った。
経済的法律的事情により、イヤイヤしぶしぶつきあうハメになったものの、心の奥底ではいつも学校は、しばらくのちには家も、信用できないと思ってきた。

しかし、日本のフリースクール業界は、一生型のフリースクーラーを認めない。
一度正しく、フリースクールの理念と歴史を振り返り、古くは1920年代から作り上げてきたフリースクールのリベラルの伝統を守っていくべきである。

こういうと、「登校拒否は一生直らない難病・宿病」「国民病としての登校拒否・それによって国が滅ぶ」といった稲村博風の俗流不登校論または俗流フリースクーラー論に聞こえるかもしれない。
しかしわたしはそれらとは立場が異なる。

病気でもいいじゃないかと、初出は『あそびのページ』というミニコミ誌)で書いている。
別に、いいじゃないか。一生フリースクーラーやっているやつがいたって。
根っから学校が嫌いで、一生学校に行かず教育を受けずに生き、学校に行かず教育を受けずに死にたい人間だっているんだから。そういうタイプにとっては学校に行かないこと・教育を受けないことこそが最良の薬なのだから。

一生型フリースクーラーを排除する日本のフリースクールは、まともじゃない。
じっさいそういうところもあるのだ。
日雇い派遣労働でくたくたになりながら、ボロボロの格好でイベントに行くと、「成長発展が遅れている」「まだ登校になっていないボケがいる」
と顔に描いているバカなスタッフや、ゲストに招かれた精神科医がいたりする。
連中は論外である。どうしようもない。

追記:まあ、精神科医なんて、高度成長期には、ホームレスには精神障害者が多いし入信させると儲かるなんてこともあって、ホームレス狩りみたいなことを病院ぐるみでやっていた連中だ。貧困層の敵であっても味方にはならないだろう。
ちょっと、ろくでもない連中に期待しすぎて被害妄想になったかなwww