歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

バロックオペラ「Mulier fortis (勇敢な婦人ー-細川ガラシャ)」の公演の案内

2023-11-07 | 日誌 Diary

バロックオペラ「Mulier fortis (勇敢な婦人ー-細川ガラシャ)」の公演の案内

1698年にウイーンで神聖ローマ帝国皇帝レオポルド一世とその家族の前で上演されたバロックオペラ「勇敢な婦人(細川ガラシャ)(Mulier fortis)」の楽譜の校訂版をもとに11月17日午後7時より上野の奏楽堂にてコンサート形式で蘇演します。私も公演実行委員の一人として「台本にみられるガラシャ像」の解説を担当しましたので、公演に先立つ座談会に出席します。

東西宗教研究に寄稿した拙稿 細川ガラシャ考を参考資料としてご覧下さい。

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Mulier fortis (勇敢な婦人ー細川ガラシャ)上演のお知らせ 

2023-09-30 | 美学 Aesthetics
バロック・オペラ コンチェルタンテ Mulier fortis (勇敢な婦人ー細川ガラシャ)上演のお知らせ 
2023年11月17日(金)19時開演 旧東京音楽学校奏楽堂
 
1698年にウイーンで初演された楽劇Mulier fortis(勇敢な婦人 細川ガラシャ)が、2023年11月17日(金)に旧東京音楽学校奏楽堂でコンサート形式で蘇演されることになりました。
 
主催は オペラMulier fortis 公演実行委員会
代表 澤和樹・豊田喜代美
委員:北側央・佐久間龍也・田中裕・西脇純
これは、もともと2年前に東京文化会館小ホールで上演の予定でしたが、コロナ禍のために中止になっていたものです。今回は、あらたに東京芸術大学前学長の澤和樹先生に共同代表になっていただきました。私と西脇純先生は、ラテン語の歌詞の翻訳、注釈、解説の作成などで協力しています。
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ヨハネパウロ二世によるペテロとパウロの祝祭ミサーモーツアルト戴冠ミサ曲(カラヤン指揮)

2023-06-29 | 「聖書と典礼」の研究 Bible and Liturgy
1985年6月29日(使徒聖ペトロ・使徒聖パウロの祝日)にバチカンのサン・ピエトロ大聖堂で教皇ヨハネ・パウロ二世によって挙行された荘厳ミサの記録が、CDおよびYoutubeで視聴可能です。
ミサの間に演奏されたのは、カラヤン指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウイーン楽友協会合唱団による「モーツアルトのミサ曲ハ長調K.317(戴冠ミサ)」でした。この記録は、日本でもCDを購入ことが出来ますが、Youtube版もCDもどちらも完全収録ではありません。
CD版では、ミサの奉献文が省略されていますし、Youtube版は(FULL)と書いてありますが、使徒書の朗読や共同祈願など多くの箇所が省略されています。またどちらも教皇の説教(ホミリア)の原文が掲載されていません。幸い、この日のヨハネ・パウロ二世の説教は、https://www.vatican.va/.../hf_jp-ii_hom_19850629_ss...
で読むことが可能です。モーツアルトのミサ曲を演奏会場ではなく実際のミサ曲の中で聴くという貴重な記録であるだけに、完全収録でないことが惜しまれます。Youtube版には、欠落している箇所のラテン語歌詞と式文およびその英訳を補って、私が(complementaという名で)コメント欄に投稿しておきました。
サン・ピエトロ大聖堂を観光客としてではなく、カトリックの信徒として巡礼することの意味がこの説教を読むと良くわかります。また、モールアルトの「戴冠式ミサ」は、演奏会場で聴くだけでもその優れた音楽性によって感銘深いものですが、聖堂で挙行される祝祭ミサの場で聴くと、その宗教性をも深く感じることが出来るでしょう。
この日のミサの式次第は次のようになっています。
(Youtube版の時間表記をつかう)

開祭の儀 0:00
 使徒言行録12:11 Ritus Initiales Antiphona ad introitum (ACT 12,11)
挨拶および回心の祈り2:00 Formula salutationis et actus paenitentialis
キリエ(あわれみの賛歌)kyrie (W.A.Mozart) 3:13
グローリア(栄光の賛歌)Gloria (W.A.Mozart) 6:43
集会祈願 10:57 Oratio
 
言葉の典礼 Liturgia Verbi
第一朗読 使徒言行録12:1-11 Lectio prima (Act 12,1-11) (ビデオでは省略)
答唱詩篇Responsum graduale(D.Bartolucci) (Ps 34[33],5b.2-3) (ビデオでは省略)
第二朗読 テモテへの第二の手紙 Lectio secunda (2 Tim 4,6-8.17-18) (ビデオでは省略)
アレルヤ唱 システィナ礼拝堂合唱団 Alleluia (Cappella Sistin) (ビデオでは省略)
福音朗読(マタイ16:13-19) 11:55 Evangelium (Mt 16,13-19)
 
ヨハネパウロ二世の説教 (ビデオでは省略)
感謝の典礼  Liturgia Eucharistica
共同祈願 Oratio fidelium (ビデオでは省略)
奉納の歌23:09 Cantus ad offertorium (D.Bartolucci)
Schola
Mundi Magister, atque caeli Janitor, Romae parentes, arbitrique gentium, Per ensis ille, hic per crucis victor necem, Vitae senatum laureati possident.
24:05 Cappella Sistina
O Roma felix, quae duorum Principum Es consecrata glorioso sanguine: Horum cruore purpurata ceteras Excellis orbis una pulchritudines.
Schola Mundi Magister....
Capella Sistina: Amen
祈りへの招きと奉納礼願
et oratio super oblata (ビデオでは省略)
序唱 25:48 Predation
サンクトス(感謝の賛歌)Sanctus (W.A.Mozart) 29:18
ベネディクトス     Benedictus (W.A.Mozart) 31:26
奉献文(CD解説でも欠落しているのでラテン語原文を補う)
34:46 Prex eucharistica
Summus Pontifex
Vere Sanctus es, Domine, et merito te laudat omnis a te condita creatura, quia per Filium tuum, Dominum nostrum Iesum Christum, Spiritus Sancti operante virtute, vivificas et sanctificas universa, et populum tibi congregare non desinis, ut a solis ortu usque ad occasum oblatio munda offeratur nomini tuo. Supplices ergo te, Domine, deprecamur, ut haec munera, quae tibi sacranda detulimus, eodem Spiritu sanctificare digneris, ut Corpus et Sanguis fiant Filii tui Domini nostri Iesu Christi, cuius mandato haec mysteria celebramus. Ipse enim in qua nocte tradebatur accepit panem et tibi gratias agens benedixit, fregit, deditque discipulis suis, dicens:
"ACCIPITE ET MANDUCATE EX HOC OMNES: HOC EST ENIM CORPUS MEUM, QUOD PRO VOBIS TRADETUR."
Simili modo, postquam cenatum est, accipiens calicem, et tibi gratias agens benedixit, deditque discipulis suis, dicens:
"ACCIPITE ET BIBITE EX EO OMNES, HIC EST ENIM CALIX SANGUINIS MEI NOVI ET AETERNI TESTAMENTI, QUI PRO VIBIS ET PRO MULTIS EFFUNDETUR IN REMISSIONEM PECCATORIUM. HOC FACITE IN MEAM COMMEMORATIONEM."
Mysterium fidei
R: Mortem tuam annuntiamus, Domine, et tuam resurrectionem confitemur, donec venias.
交わりの儀 Ritus Communionis
主の祈り 38:12 Oratio dominica
平和の挨拶 Ritius pacis (ビデオでは省略)
アニュス・デイ(平和の賛歌)Agnus Dei (W.A.Mozart) 40:15
47:41 Invitatio ad convivium
 
拝領の歌 Cantus ad communionem:
アヴェ・ヴェルム・コルプスK.618 Ave verum (W.A.Mozart) 48:05
拝領祈願51:00 Oratio post communionem
 
閉祭 51:50 Ritus Conclusionis
 
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反対の一致の射程ー『西田幾多郎記念講演集』を読む

2023-04-29 | 哲学 Philosophy
西田幾多郎記念哲学館でおこなった第77回寸心忌を記念した私の講演<反対の一致の射程ー『西田幾多郎講演集』を読む>が『点から線へ』72号(2023/3/30)に収録されました。
にこの講演の記録のファイルがあります。
 
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茶道とキリスト教シンポジウム(上智大学キリスト教文化研究所)

2022-03-19 | Essays in English 英文記事

キリスト教文化研究所主催(2021年度)連続講演会紀要から

茶道とキリスト教シンポジウム

司会:竹内修 パネリスト:椿巌三・田中裕・スムットニー祐美

 

キリスト教文化研究所紀要39 の目次

テーマ 執筆者
はじめに 川中 仁
ミサと茶の湯に見る天地人の調和―侘茶とキリスト教の本質的一致についての一考察― 椿 巌三
キリスト教と茶道との出会い―禅の修道精神とキリスト教伝道― 田中 裕
「適応主義にみる安土・桃山時代の茶の湯」
―ヴァリニャーノの茶の湯の規則と信長・秀吉・利休の茶の湯―
スムットニー 祐美
〈シンポジウム〉二〇二一年度(第 48 回)連続講演会シンポジウム
「茶道とキリスト教」
椿 巌三
田中 裕
スムットニー 祐美
竹内 修一

 

 

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2022/01/09

2022-01-09 | 美学 Aesthetics
上智大学の中世思想研究所の江藤信暁さんから、ケーベル博士来日百周年を記念して設立された「ケーベル会」の会誌(1993−1996)を贈っていただきました。
 島尻政長先生(ケーベル会会長)の「日本美学史とケーベル先生」、上智大学中世思想研究所にケーベル会誌を寄贈された榎本昌弘先生の「岩下壮一の神父の遺品」、アウグスチヌスの神国論に関する卒業論文をめぐる記事など、多彩なその内容に興味を惹かれました。
 ケーベル博士の信じていたキリスト教は、ギリシャ正教なのか、プロテスタントなのか、ローマン・カトリックなのか、カトリックに歸正したのはいつであったのか、榎本昌弘先生の「ケーベル先生改宗日の謎」や、巽豊彦先生の「ケーベル的キリスト教について」を読むと、周辺にいた人の間で、実にさまざまな議論があったことがわかります。
 ケーベル博士の影響は、無教会の内村鑑三、プロテスタントの波多野精一、ローマン・カトリックの岩下壮一というように、宗派を超えて、キリスト教のすべてに及んでいるのですから、私に言わせれば、彼の立場は、古典の伝統を重んじる「無教会」のカトリックと呼ぶのが適切ではないでしょうか。その立場を音楽の創作と上演活動によって表現し、その活動を美学的に反省しつつ生きたところに、ケーベル博士の独自性があったと思っています。
 私は、一昨年以来、沖縄音楽大学の皆様とともにバロック・オペラ「勇敢な婦人(細川ガラシャ)」の日本での蘇演を計画し、キリシタン時代の東西文化交渉の歴史を継承する試みをしてきました。ケーベル会の創設者とも言うべき島尻政長先生が、沖縄を本拠地として活動されていたこと、またその御命日が、今日の1月9日であることを知りました。偶然といえばそれまででですが、ケーベル博士の日本での音楽活動を継承された島尻先生に倣いつつ、ケーベル博士のご業績を偲びたいと想います。

   ケーベル博士の肖像ーケーベル会誌創刊号(1993)から転載
(和服姿のケーベルと家人たち<駿河台邸>写真提供/久保いと)は来日してからまだあまり時を経ていないころの写真とのことです。




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茶道とキリスト教ー文化内開花と宇宙的典礼

2022-01-06 |  宗教 Religion
 キリスト教文化研究所が昨年主催した「茶道とキリスト教」の連続講演会とシンポジウムで同席した陶芸家の椿嚴三さんから「バリニャーノの紋章」の入った創作茶碗を頂戴しました。
 ルイス・フロイス、通辞ロドリゲス等、日本語に精通した宣教師たちを重用し、ヨーロッパ人に日本文化を、日本人にヨーロッパ文化を学ばせ、「普遍のキリスト教」を日本固有の文化に根付かせることに努力したバリニャーノの伝道精神は、後世の「文化内開花」の理念を先取りするものであったと言えるでしょう。
 日常生活の中に「禅」の精神を生かす茶湯の作法とキリスト教の典礼との相互的交流は、鎖国によって中断したとはいえ、日本のキリスト教徒が創造的に継承できる現代的課題のひとつです。
 キリシタン時代の茶器を骨董的に賞翫するのではなく、現代の陶芸作家として茶道の中に宇宙的な典礼の精神を織り込んでいる椿さんからの有難い贈り物でした。
 
          一碗の底にイエスの息吹く春
 
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活動的生活の源泉となる典礼と聖書的伝統ー聖グレゴリオの家だより2011から

2021-12-23 | Essays in English 英文記事
私の家から歩いて10分ほどの処に「聖グレゴリオの家ー宗教音楽研究所」があります。1979年、故ゲレオン・ゴルドマン神父によって創立された、この宗教音楽研究所の創立40周年記念行事は、コロナ禍による日程の遅れはありましたが、2019年から2021年にかけて行われました。昨日頂いた「聖グレゴリオの家だより2021」にその関連記事が掲載されています。
 
 冒頭にゲレオン神父様の写真と「人間が行う活動の力の源泉は、典礼から流れ出る」という言葉が掲載されていました。それを見た途端に、40年程前、聖堂の小部屋での早朝の聖務日課に参列した頃のこと、聖務日課のあとで頂いた朝食、その時のお話のことなどが、まるで昨日のことのように思い出されました。
 「聖グレゴリオの家だより」には、水垣渉先生の40周年記念講演会「キリスト教の歴史のなかで私たちは今どこにいるかー伝統と歴史の間でー」の抄録も掲載されていました。水垣先生によると、伝統とは「共通性・同一性・不変性」を特徴とし、歴史には「相違・変化」したがって「個別性・多様性」という特徴があり、「伝統と歴史との緊張関係を手掛かりにしてキリスト教をとらえなおし、そしてその緊張関係を解決する方向にこれからの『キリスト教の姿を求めていく」が課題であるとのことでした。そして、この課題にこたえるために、「聖書的伝統」を見直すことが必要であると講演を結んでおられます。
 ゲレオン神父のいわれている「活動的生活の源泉」となる「典礼」が、水垣先生の言われた「宗派の違いを超えた聖書的伝統」と結びつくとき、宗教において変わる事なき「伝統(永遠)」とその多様な現象形態の「歴史(生成流転)」が一つに統合されるでしょう。
 「詩篇に聴くー聖書と典礼の研究」という私の連続講義は、来年も引き続き「聖グレゴリオの家」で行う予定ですが、この講義の課題が何処にあるのか改めて確認することが出来ました。

A 10-minute walk from my house is the St Gregory's House - Institute of Religious Music, founded in 1979 by the late Father Geréon Goldmann, which will celebrate its 40th anniversary between 2019 and 2021, although the Corona disaster has delayed the dates. The event took place in 2019-2021. You can read an article about it in the St Gregory's House News Letter 2021, which we received yesterday.


 It opened with a picture of Father Gueleon and the words "The source of the power of human activity flows from the liturgy". As soon as I saw that, I was reminded, as if it were only yesterday, of the time some 40 years ago when I attended the early morning Divine Liturgy in the small room of the cathedral, the breakfast I had after Divine Liturgy and the stories he told me.
 The "St Gregory's House Letter" also included an extract from Dr Wataru Mizugaki's 40th anniversary lecture, "Where are we now in the history of Christianity - between tradition and history". According to Dr Mizugaki, tradition is characterised by 'commonality, identity and constancy', while history is characterised by 'difference and change' and therefore 'individuality and diversity'. The challenge is to "rethink Christianity in the light of the tension between tradition and history, and to seek a future 'vision of Christianity' in the direction that resolves this tension". In order to meet this challenge, he concluded his speech by saying that it is necessary to rethink the 'biblical tradition'.
 When the 'liturgy', which is the 'source of active life' as Father Gereon called it, is combined with the 'biblical tradition that transcends denominational differences' as Professor Mizugaki said, the unchanging 'tradition (eternity)' of religion and its various forms of 'history (generation and transmigration)' will be united.
 I will continue my series of lectures on 'Listening to the Psalms - Studies in the Bible and Liturgy' at St Gregory's House next year, and I was able to reaffirm where the subject of these lectures lies.

 

Listening to the Psalms - Studies in Scripture and Liturgy Lecture Series
This is a transcript of a lecture given on the day after Holy Ash Wednesday (18 February 2021) in the Department of Church Music at the Institute of Religious Music at St Gregory's House. 

詩編に聴く-聖書と典礼の研究講演録

聖グレゴリオの家宗教音楽研究所での教会音楽科で聖灰水曜日の翌日(2021年2月18日)におこなわれた講義の記録です。コロナ禍の緊急事態宣言の...

youtube#video

 

 

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神山復生病院での岩下神父の面影

2021-12-14 |  文学 Literature
故渡辺清二郎氏の遺稿集「いのち愛(かな)しく」(昭和五〇年一二月八日)のなかに岩下壮一神父の面影を彷彿させる回想記が収録されているので、その一部を引用します。
 
 「前院長ドルトワール・ド・レゼー神父様が重体の折、お部屋が健康者地区にあるため患者は思うように神父様をお見舞いすることも出来ず、大変つらいおもいをさせたことをご承知になり、ご自分の場合は、そんなことのないように「僕が病気の時は、みなさんが自由に見舞いに来られるように、お祈りもしていただきたいしね」などと申された。私はこのお言葉を聞き、胸底に熱いものがこみあげてくるのをどうすることもできなかった。そして神父様はそのお言葉の如く、そこでご臨終を迎えられたのである。(岩下神父は、昭和一五年、ご自分の洗礼名の由来する聖フランシスコ・ザビエルの祝日12月3日に帰天された)・・・・・
 楽しい思い出の一つに年中行事の春の山行きがある。この日、果物、飲料などたくさんのお弁当を準備して軽症なもの達が婦女子をまじえて長尾峠、芦の湖方面へ遠足するのである。神父様は一策を案じられ、子ども達を病院専用のT型フォード(旧式で有名であった)に乗せて、御殿場街道を東に向かって先発させ、そして正午過ぎ、峰伝いに汗に喘ぎながら登っていった大人達の一行と長尾峠近くで合流するように計らわれたのである。見晴らしのきく芝原に一同うちくつろぎ、食べる弁当の味は又格別であった。下界はるか沼津市街をはじめ静裏湾から蒲原方面へゆるく海岸線が流れ、大瀬崎辺りは淡く霞んで実にのどかな眺望である。いつしか私たち数名のものは神父様を囲んで、草原に寝ころがって天を仰いでいた。すると神父様が大きな声で「赤城の子守歌」を歌い出された。われわれもそれに和した。雲が湧いては頭の上を流れていく。しばし我が身を忘れ、俗塵を離れて雄大な大自然の懐に憩ったのである。・・・
 秋の行事の運動会には、少年組に出場して子ども達と勝負を競うのであるが、その一つに小豆の入った袋を頭に乗せて競争する番組があった。これは頭の安定がないと、なかなか走れない。しかし、神父様は足がお悪いから子ども達のように安定がつけ難い。それで負けず嫌いの新婦様が子ども達に負けまいとして歯を食いしばり、ゴールに駆けててくる。そのご様子が私の眼前に彷彿と浮かんでくるのである。なお神山名物の野球試合の時、神父様のジャンケンの相手は三郎少年に決まっていたが、ある試合中、神父様が失策されたので頭から神父様を怒鳴りつけてしまった。あ、しまったと思ったが後の祭り、神父様は頭を地にこすりつけて謝っておられる。全く汗顔の至りであった。・・・・
 懐かしい神父様の思い出は尽きないのであるが、思いあまって言葉足らずになってしまい、充分に筆に表し得ない無力さを残念に思う。擱筆するにあたって、優れた司祭、学者、経世家であられた神父様が、最高学府の教授の栄職も抛って、働き盛りの年代を田舎において癩者の友として過ごされた生涯は、平和や人権が叫ばれるにもかかわらず、人命が軽視され、道義の退廃眼を覆わしめるものがある、暗く腐敗した現代社会に対して、軽少を乱打しているように思われてならない。」(「岩下神父様のこと」、初出は昭和三〇年「黄瀬」六月号)
 
  復生記念館学芸員の森下裕子が語られた「神山復生病院の歩み」というオンライン講演(国立ハンセン病資料館企画 2021/11/27)で、上の渡辺清二郎氏の回想と重なる岩下壮一神父の「映像」をYoutubeで視聴できました。とくに、秋の行事の運動会で子ども達と一緒に走っている岩下壮一神父の姿など、開始から22分くらいのところに収録されています。「働き盛りの年代を田舎において癩者の友として過ごされた」岩下神父のありし日の姿を彷彿とさせる貴重な記録です。
 

「神山復生病院の歩み」/森下裕子(復生記念館学芸員)ミュージアムトーク2021(オンライン開催)第8回

1889年の創立以来、130年以上にわたる神山復生病院の歩みと、その歴史を伝える復生記念館の活動について、豊富な写真資料、映像を交えてお話頂...

youtube#video

 

 森下さんのご講演(全体で1時間25分あまり)は、テストウィード神父にはじまり、現代に至るまでの神山復生病院の歴史をわかりやすく説明していて、復生病院に一貫して流れている基本精神が伝わってきます。

 私自身が神山復生病院を訪問したのは15年ほど前で、おりしも大多数の患者が高齢化した多磨全生園で療養所の「将来構想」が論議されていたころでした。高齢化した回復者のリハビリ治療を、一般の病院の患者さんとともに行うかたちで地域社会に施設を開放した「神山復生病院」は、単に日本で最も古い私立のハンセン病病院と言うだけでなく、「隔離から共生に」むかう療養所の将来像をも示していると感じた次第です。
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岩下壮一の祈りの言葉

2021-12-12 |  宗教 Religion
岩下壮一の祈りの言葉
 
長き鎖国時代に「邪宗門」扱いされ、明治以後は近代化をめざす啓蒙主義の精神から、中世暗黒時代の愚昧な迷信と蔑視されてきたカトリシズムの伝統の名誉を回復しようとした最初の日本人キリスト者といえば、岩下壮一の名前を挙げるのがもっとも適切であろう。「日本のアカデミズムの中にカトリシズムに市民権を獲得させる」ための講演・文筆・出版の旺盛な活動はよく知られている。 
 
しかし、もし岩下壮一の活動がそのような知識人向けのアカデミックな理知的領域だけに限られていたならば、その影響力は決して大きなものとはならなかったと思う。彼は、神山復生病院の院長として、病苦の人々に奉仕する司祭であり、単なる理性の人ではなく、観想と祈りに結びついた実践を重んじる人でもあった。
 
1930年に、レゼ神父の跡を継いで神山復生病院院長に就任した岩下壮一が、黙想会のあとで井深八重をはじめとする看護婦たちとともに祈った言葉が、彼の自筆によって書き残されている。
 
「主イエズス・キリスト、主は病める者を特に愛し、これを慰めいやし給ひしにより、我れ其の御跡を慕ひ、こゝに病人の恢復、憂人(うれひびと)の慰藉(なぐさめ)なる聖母マリアの御助けによりて我が身を病者への奉仕に捧げ奉る。希くはこの決心を祝し末ながくこの病院に働く恵を与へ給へ   亜孟(アメン)」
 
岩下の帰天後も神山復生病院では、黙想会のあとで、この祈りを唱えることが習慣となっていたとのことである。
 
この祈りと共に、もう一つの「岩下壮一の祈り」をここに引用したい。 以前に東條耿一の手記を編集していた時に、私は、彼が如何に岩下壮一とコッサール神父から、どれほど大きな影響を受けていたかに気づいた。とくにヨブ記をどう読むか、岩下壮一は神山復生病院の死者のためにどのような祈りを捧げていたか、それを知る手掛かりが、「ある患者の死」(「聲」昭和六年四月号)というエッセイの最後に記されている「祈り」である。
 
 
ーーーーー岩下壮一の随想「ある患者の死」からーーーーー
 
•    二月中旬のある土曜日の夜のことであった。…けたたましくドアをノックする者がある。「××さんが臨終だそうです!」かん高い声が叫んだ。それはその朝、病室まで御聖体を運んで行って授けた患者の名前であった。その夕見舞いに行った時は、実に苦しそうだった。病気が喉へきて気管が狭くなった結果、呼吸が十分できなくなっていた。…表部屋から入ってストーブの燃え残りの火と聖燭のうすくゆらぐ聖堂を抜け、廊下を曲折して漸く病室に辿り着いた時には、女の患者達は皆××さんの床の周囲に集まってお祈りをしていた。…人間の言葉がこの苦しみに対して何の力も無いのを観ずるのは、慰める者にとってつらいことであった。私は天主様の力に縋る外はなかった。望みならば、臨終の御聖体を授けてあげようと云ってみた。しかしその時もはや水さえ禄に病人の喉を通りかねる状態になってしまったのであった。…
 
•     二ヶ月ほど前、全生病院でみた、咽喉切開の手術をした患者の面影が、まざまざと脳裏に浮かんでくる。どんな重症患者でも平気で正視し得る自分が、あの咽喉の切開口に金属製の枠をはめこんだ有様を、それを覆い隠していたガーゼをのけて思いがけなくも見せつけられた時、物の怪にでも襲われたように、ゾッとしたのを想起せざるを得ない。それはあまりにも不自然な光景であった。併し、その金属製の穴から呼吸しなが、十年も生きながらえた患者があると医者から聞かされたとき、「喉をやられる」と去年の秋から云われていた××さんのために、復生病院にもそんな手術のできる設備と医者とがほしかった。
 
• 議論や理屈は別として「子を持って知る親の恩」である。患者から「おやじ」と云われれば、親心を持たずにはおられない。親となってみれば、子供らの苦痛を少しでも軽減してやりたいと願うのは当然である。しかしいかに天に叫び人に訴えても、宗教の与える超自然的手段を除いては、私には××さんを見殺しにするより外はない。癩菌は容赦なくあの聖い霊を宿す肉体を蚕食してゆく。「顔でもさすって慰める外に仕方ありません」と物馴れた看護婦は悟り顔に云った。そしてそれが最も現実に即した真理であった。
 
• 私はその晩、プラトンもアリストテレスもカントもヘーゲルも皆、ストーブのなかに叩き込んで焼いてしまいたかった。考えてみるが良い、原罪無くして癩病が説明できるか。また霊の救いばかりでなく、肉体の復活なくして、この現実が解決できるのか。
 
 生きた哲学は現実を理解しうるものでなければならぬと哲人は云う。しからば、すべてのイズムは、顕微鏡裡の一癩菌の前に悉く瓦解するのである。
 
• 私は始めて赤くきれいに染色された癩菌を鏡底に発見したときの歓喜と、これに対する不思議な親愛の情とを想い起こす。その無限小の裡に、一切の人間のプライドを打破して余りあるものが潜んでいるのだ。私はこの一黴菌の故に、心より跪いて「罪の赦し、肉身の復活、終わり無き生命を信じ奉る」と唱え得ることを天主に感謝する。
 
• かくて××さんは苦しみの杯を傾け尽くして、次の週の木曜日の夜遅く、とこしえの眠りについた。…翌日も、またその翌日も、病院の簡素な葬式が二つ続いた。仲間の患者が棺を作って納め、穴を掘って埋めてやるのだ。
 
• 今日は他人のこと、明日は自分の番である。…沼津の海を遙かに見下ろすこの箱根山の麓の墓地から××さんとともに眠る二百有余の患者の魂は、天地に向かって叫んでいる。
 
「我はわが救い主の活き給うを信ず、かくて末の日に当たりて我地より甦り、我肉体に於て我が救主なる神を仰ぎ奉らん。われ彼を仰ぎ奉らんとす。我自らにして他の者に非ず、我眼こそ彼を仰ぎまつらめ!」
 
 
 
 
 
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「ニイチェの嘆き」の意味ー「北條民雄集」覚え書き

2021-12-07 |  文学 Literature

昭和12年1月、すでに腸結核を併発して病床にあった北條民雄は、「井の中の蛙の感想」と題する文を『山櫻」に寄稿している。この文は、前年の昭和11年8月の「長島騒擾事件」に言及して、ストライキをした患者達を「井の中の蛙」と批判した日本MTL(mission to lepra という当時の「救癩」団体)理事の塚田喜太郎の文章に対する反論である。

「長島事件」については、ハンセン病問題に関する検証作業の一環として現在ではその状況が歴史的に解明されているが、当時国家的なキャンペーンとして行われていた「無癩県運動」のために、国立療養所愛生園が定員を大幅に超過し、患者の医療・生活条件が極度に悪化したために起きた患者の作業ボイコット事件であった。

塚田は「長島の患者諸君に告ぐ」と題して次のように書いている。(昭和十一年 「山桜」10月号) 

井の中の蛙大海を知らず、とか。実際、井の中の蛙の諸君には、世間の苦労や不幸は分からないのであります。(中略)蛙は蛙らしく井のなかで泳いでいればよいのであります。また、大海も蛙どもに騒がれては、迷惑千万であります。身の程をしらぬといふことほど、お互いに困ったことはないのであります。(中略)患者諸君が、今回のごとき言行をなすならば、それより以前に、国家にも納税し、癩病院の費用は全部患者において負担し、しかる後、一人前の言ひ分を述ぶるべきであると。国家の保護を受け、社会の同情のもとに、わずかに生を保ちながら、人並みの言い分を主張する等は、笑止千万であり、不都合そのものである。

塚田のこの見解に対する北條のコメントが、翌年の山桜の一月号に「井の中の正月の感想」と題して掲載されている。

諸君は井戸の中の蛙だと、癩者に向かって断定した男が近頃現れた。勿論、このやうな言葉は取り上げるにも足るまい。かやうな言葉を吐き得る頭脳といふものがあまり上等なものでないといふことはもはや説明の要もない。しかしながら、かかる言葉を聞く度に私はかつていったニイチェのなげきが身にしみる。「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知ってゐるか、汝を軽蔑する者に対しても公正であれ、といふ公正の苦悩を知ってゐるか
 全療養所の兄弟諸君、御身達にこのニイチェの嘆きが分かるか。しかし、私は二十三度目の正月を迎えた。この病院で迎える三度目の正月である。かつて大海の魚であった私も、今は何と井戸の中をごそごそと這い回るあはれ一匹の蛙とは成り果てた。とはいへ、井のなかに住むが故に、深夜沖天にかかる星座の美しさを見た。大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座が判るか、深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであろう、況や-

北條のこの文章は、慈善事業に携わる者が、同情をよそおいながら相手を差別する偽善を指摘したものであるが、それはまた、「救癩」の美名を掲げつつも、恩恵を受けている「病者」が、自己の権利を主体的に主張したときに不快感を感じて侮蔑的な言辞を吐く「健常者」にたいしても、公正であろうとする「病者」の「苦悩」を吐露したものでもあった。

 北條民雄が引用した「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知ってゐるか、汝を軽蔑する者に対しても公正であれ、といふ公正の苦悩を知ってゐるか」という「ニイチェの嘆き」とは、「ツァトゥストラ」の第一部「創造する者の道」にある言葉である。

岩波文庫の「北條民雄集」にはいくつか注釈をつける必要があったので、私は、昭和10年から12年にかけて、一般に、日本でニイチェがどのように読まれていたか、またとくにハンセン病療養所の中でどのようにニイチェの本が読まれていたかを調べてみた。そのなかで浮かび上がってきたのが、生田長江によるニーチェ全集翻訳のもつインパクトであった。1935年4月には、ニイチェの「ツァトゥストラ」の改訂文語訳が日本評論社から出版されているが、1936年1月に逝去した長江が、ハンセン病による失明と肢体の麻痺による身体的な苦痛の中で、畢生の作ともいうべき『釈尊伝』の執筆を続けていたことは、全生病院の療養者の間でもよく知られていた。

「山櫻」1936年(昭和11年)8月號の巻頭言には、

「こんな時代(癩遺伝思想に支配されている時代)には、よしや癩者に傑れた文学者があつたにしても、それらの思想に阻まれて、その病名を隠匿してゐなければならなかったとしても無理ではあるまい。現に最近逝去した我国屈指の作家某氏が癩者であった事実を世人は余り知らないであらふ。併し、現代はそれらの旧い因習を打破して伝染説の確認されている時代である。そして我々は癩である事実を隠匿することなく生々しい闘病生活の中に癩者としての光明と救ひを見出すべく文学せねばならない、それがこの時代の我々の文学であり、時代の正しい思想の啓示でもあるのだ」

とあるが、ここで「最近逝去した我国屈指の作家某氏」とは生田長江のことである。彼のニイチェ翻訳は、明治時代の文語訳聖書を彷彿とさせる宗教的熱情に満ちた格調の高いものであったが、単に文体が優れていたのみならず、その根本思想の解釈においても、世人が宗教と呼ぶものを否定すると解したニイチェのニヒリズムのうちに、より深い意味での宗教性を見出し、それを仏教の菩薩道の精神において肯定するものであった。言うなれば、「ニイチェから仏陀へ」という高山樗牛や姉崎正治が歩んだ日本のニイチェ解釈の道を、生田長江もまた歩みつつ「釈尊伝」を書くことを生涯の課題としたのであった。自らハンセン病者として盲目と手足の麻痺に苦しみながら創作活動を続けていた彼の著作は、伊福部隆輝をはじめとして、彼と親交のあった同時代の多くの作家達に大きな影響を与え、「没落」の運命を自ら引き受けて生きる勇気を与えたのである。

ところで、生田長江は自ららの生活の信條(一の信條)を次のように自筆で書き残している。「一の信條」の「一」には、生田よりも遙か前におなじくハンセン病の病苦に苦しみつつもプラトンとアリストテレスの哲学を継承したプロチノスの「一なるもの」を想起させるが、それを生田は次のように要約している。

私は信じてゐるー第一に科学的なるもの眞と、第二に道徳的なるもの善と、第三に芸術的なるもの美と、
この三者がつねに宗教的なる者聖に統合せられて三位一体をなすことを。
(生田長江全集第9巻口絵より転載)

真善美という三つの価値が、「聖という宗教的な場」においてひとつに統合されること、その一なるものを生きるということが生田長江の信條であった。

 

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ポール・アヌイ神父と光岡良二との出合いー「北條民雄集」覚え書き

2021-12-05 |  文学 Literature

  ポール・アヌイ神父(ANOUILH, Paul, 1909-1983)は、1951年に長谷川真一ととともに東京少年合唱隊を結成し、とくにグレゴリオ聖歌の歌唱指導したことで、音楽教育の歴史に名前を残していますが、コッサール神父の後を継いで全生園の愛德会の司祭を務めた方でもありました。 
 
    全生園愛德会発行の「いずみ」31 復活祭号(1959)「アヌイ神父叙品二十五周年記念特集」、光岡良二の随筆「アヌイ神父様」が掲載されていたので、それを紹介します。

---------------------------アヌイ神父様  アウグスチノ 光岡良二--------------

            ○ 
アヌイ神父様は、私が会った二人目の神父様であった。 
それまで私が頭で描き、きめこんでいたキリスト教というもの、信仰というものは、何か陰うつなもの、苦しいもの、きびしいもの、歯を食いしばって堪えてゆかねばならないような何かであった。ところが神父様が、そのまわりに漂わせていられるものは、かぎりなく明るい、そして軽やかなものであった。それは、春の日光のように、私の固く凝りかたまった「自我(エゴー)」を融かし去った。私はアヌイ神父様によって、はじめてキリスト教が「喜び」の宗教であることの、本当の実感を教えられた。

            ○ 
 アヌイ神父様の御説教は、ほとんど何時も「愛」にはじまり、「愛」に終わる。
神父様は、私たちの中でも、一ばんひどく病気に傷めつけられている重症の人を、真先に、一番深く可愛がられる。そして単純な、心の貧しい人を可がられる。これらの人はきっと天国でも一番高いところに坐るのだと云われる。軽症な者や、若さに溢れている者や、インテリ臭い者や、はみんな後まわしである。
 神父様の、このような態度の中に、私は何と云えず深い「味」をいつも噛みしめる。

            ○ 
 神父様にお会いした頃、私は怖ろしい魂の状態にあった。或る暗い情念にとりつかれ、絶望的な場所に突き進んでいることが、はっきり分かっていながら、引き返せない状態にいた。自分の罪を知っていて、罪を自分に認めることを拒絶していた。
 こんな私に、アヌイ神父様は、何一つ説教されなかった。私の弱さを認め、愛で包みこみ、慰めと希望だけを与えられた。私が回心の決意を申し上げたとき、神父様が「アリガトウゴザイマス」と、言われた言葉を、私は忘れることが出来ない。

             ○ 
 神父様は、やさしい人であり、又こわい人である。神父様がこわく感じられるときは、じぶんが何処かゆがみ、迷い出している時である。
 私は、いつでも神父様の瞳がまっすぐに見られるようにつとめている。
  私は、「司祭のための祈り」が好きだ。
「願わくは豊かなる御恵みの果実もてかれらの働きを祝し、かれらに委ねられし霊魂は、地上にてはかれらの喜び、慰めとなり、天上にては永遠に輝けるかれらの冠とならんことを。」
  何とすばらしことだろう。私の魂が、神父様の永遠に輝ける冠の一つになるなんて! そしてまだ、何と重いことだろう。
 怠りの時々、私はこの祈りの句を思い出して、心おののくのである。

--------------------------------------------------------------------------------------------

光岡良二(1911-1995)は、1933年(昭和8年)に癩の診断を受け東京帝大文学部哲学科に在籍のまま全生病院に入院しました。1934年に入院した北條民雄(1914-1937)より三歳年長の療友で、病院に収容された児童の為の学校「全生学園」(1932年開校)の教員を務め、児童文藝誌「呼子鳥」(1932年創刊)の編集を担当しました。

岩波文庫の「北條民雄集」には、北條民雄が「秩父晃一」の筆名で書いた二篇の童話を収録しましたが、それはこの「呼子鳥」の第三号と第四号に掲載されたものです。

北條の遺作「望郷歌」(文藝春秋、1937年12月)に登場する全生学園の教師「鶏三」のモデルは光岡良二といってよいでしょう。入院直後に光岡は明治学院のハナフォード師によって受洗し、院内の聖書研究のグループに参加していましたが、北條民雄が中心となった文芸サークルのメンバーにもなっていましたた。当時はこの二つのグループは全く没交渉で、「互いに風馬牛であった」と光岡自身が後に回想しています。

光岡良二は、療友の女性と結婚しましたが、もともと症状の軽かった彼は治癒に近い状態が数年続いたので、退院届けを試みに出したところ、それが受理され、重症で手足の不自由であった妻を病院に遺したまま、単身で退院しましたた。戦況が悪化し病院の経営が困難となった当時は、症状のでない患者はどんどん退院させるのが方針であったようです。友人のつてで軍事物資を調達する工場などの職を転々とした後、敗戦を迎えました。戦後は、進駐軍関係の翻訳サービスのような業務に就いた後で、ハンセン病が再発した為に、1948年に再入院を余儀なくされました。さいわい、新薬プロミンによる化学治療が受けられたので、病状が好転、その後は、園内の中学や青年のための英語教育活動、短歌の創作など文芸活動も再開しました。それと同時に、1952年全国十一箇所の国立癩療養所患者自治会の全国組織の初代事務局長となり、戦後の療養所の民主化の運動にも参加しています。

 北條民雄の評伝「いのちの火影」につけた自伝的回想のなかで、光岡良二は、癩園に復帰した頃の自分の心の深い傷に言及しています。それは、療養所を退所した後で、ある女性と同棲し、結局はその女性とも別れて、再入院せざるをえなかった自分のエゴイズムに苦しんだからでした。「妻とはもとのようになるためには五年の歳月が必要であった。はたして、ほんとうにもとのようになれたのかどうかは分からない。とにかく、ともに静かな初老にはいりつつある」と、のちに光岡は回想しています。
 光岡はすでにプロテスタントの洗礼を受けてはいましたが、「告解の秘蹟」のあるカトリック教会に帰正し、東條耿一の義弟の渡辺清二郎・立子夫妻のいた愛德会の会員となり、会誌「いずみ」に随筆や短歌を数多く寄稿しています。

 

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コッサール神父についてー「北條民雄集」編集覚え書き

2021-12-04 |  文学 Literature
岩波文庫から来春出版予定の「北條民雄集」の編集・解説の準備作業をしているうちに北條民雄と東條耿一が全生病院に入院していた当時、ふたりと交友のあったパリ宣教会司祭コッサール神父(Cossar, Yves 1905-1946)について調べました。幸い、1956年の愛德会発行の「いずみ」第24号コッサール師十周年追悼記念号に神父の写真と患者達一人一人に書かれた自筆のカードが掲載されていたので、ここに転載します。
 
 コッサール神父の自筆カードより(写真版)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
天主 とは永生を望む 靈魂
 救主イエズス・キリストの 御示
神ー聖父・聖子・聖靈ー三位一体
十字架の苦に依りて聖寵を與へ給ふこと
 
教會の教へるがまゝに信じ奉る
洗禮に依りて 神の子となり 愛を以つて
身を捧げ奉らむ
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 神よ  御身を讃美し奉る
 神よ  御恵を感謝し奉る
 御主よ 我等を憐み給へ
 我神よ 我靈魂を愈々照し強め給へ
 萬物の創造主よ 凡ての人を照し導
 き給はんことを
 キリストの御母聖マリアよ
      我等の為に祈り給へ!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カンドウ神父の指示に従って、コッサール師は結核療養所とともに多磨全生病院に来院したことが当時の「山桜」の記録にありますが、単なる慰問者が決して行かない重病棟に赴いて、重症患者に聖体と赦しの秘蹟を授けました。戦後に発行された愛德會発行の「いずみ」を読むと、往事を知る信徒たちの記憶の中に鮮明に残っていたことがわかります。
 
コッサール神父は第二次世界大戦中は敵国フランス人であったために常に警察の監視を受け非常に困難な生活を余儀なくされましたが、昭和19年に万葉集の古歌を引用して次のような説教をしています。
 
ーーーーコッサール師の説教〔昭和19年)ーーーーーーー
「君がゆく道の長手を繰りたたね 焼き亡ぼさむ天の火もがも」
 
これは万葉集にある歌で、中臣の宅守が罪の為流刑に処せられて越前におくられたときに狭野茅上娘子が歌ったもので、
「御身がはるばると流されて行く道の長い行手を繰り寄せ畳んで、ひとまとめにして焼き亡ぼして仕舞う天の火もあれかし」
との意である。これを読みつつ、私は皆さんのことを思う。時に触れ折に触れ、貴方かたは行く手を忍びあるいは暗さを感じつつ同じ気持ちとなられたのではなかろうかと。
 この気持ちは決して無理からぬ事で、聖主イエズスも、御受難の道を想像し給い、「我が父よ、爾は全能なれば能うべくんば、この道を我より遠ざけ給え。されど我が意のままならず、爾の望み給うままになし給え」と仰せられた。
 聖会は、聖主イエズスの御為に苦しみの十字架の道をたたんで焼かず、却ってその道をひろげて、各留に足を止めさせて深くこれを黙想させる。
 それはこの道が私たちの為に非常にありがたい道で、この道の苦しみによって人々がもう一度相互に一致して、神と一となることができるからである。
 私たちもこの意味において各々の苦しみを捧げて、人類統一の積極的な協力者となろうではないか。そして宅守がその追放地に向かってこのような失望の歌のもととなったのに対して、私たち信仰あるものは父たる神に向かって進みつつ、その苦しみ、淋しさ、惨めさのうちにも、常に感謝と喜びの歌を聞かせようではないか。
  十字架の道においてキリストに会い給える聖母マリアよ
  我等の病床生活の良き友たり給え
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
「いずみ」24号に掲載された松風誠人の追悼記事によると、
「私にして若し純粋状態における純粋美の感覚を自らに与える藝術をあげねばならぬぬとすれば、私は躊躇することなく、それは日本の藝術であるというであろう」
というデュ・ボスの言葉を引用しつつ、日本の藝術を愛したコッサール師は、「高く悟りて俗に帰るべし」という芭蕉の言葉を生活方針とされ、謡曲「隅田川」、万葉集短歌の一部仏訳などを試みられ、また日仏会館で芭蕉について講演もされたとのことである。(モニュメンタ・ニッポニカ昭和26年参照)
 
日本人の心の源流である万葉集の古歌をひきつつも、その心の大地に福音を伝道するコッサール師の言葉は、厳しく暗い状況の中で、病苦にあえぐ人々に説かれた「キリストの道行」の黙想の祈りでもありました。
 
 
 
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臨床の哲学と復生の文学ー岩下壮一・北條民雄・東條耿一のことば

2021-09-14 |  文学 Literature
AHOのZoom読書会で、「臨床の哲学と復生の文学ー岩下壮一・北條民雄・東條耿一の言葉」というテーマで講演しました。
 
https://youtu.be/l9OV9lVmFQs
 
「ある患者の死」(「聲」昭和六年四月号:『信仰の遺産』岩波文庫版 459-467頁所収)

•    二月中旬のある土曜日の夜のことであった。…けたたましくドアをノックする者がある。「××さんが臨終だそうです!」かん高い声が叫んだ。それはその朝、病室まで御聖体を運んで行って授けた患者の名前であった。その夕見舞いに行った時は、実に苦しそうだった。病気が喉へきて気管が狭くなった結果、呼吸が十分できなくなっていた。…表部屋から入ってストーブの燃え残りの火と聖燭のうすくゆらぐ聖堂を抜け、廊下を曲折して漸く病室に辿り着いた時には、女の患者達は皆××さんの床の周囲に集まってお祈りをしていた。…人間の言葉がこの苦しみに対して何の力も無いのを観ずるのは、慰める者にとってつらいことであった。私は天主様の力に縋る外はなかった。望みならば、臨終の御聖体を授けてあげようと云ってみた。しかしその時もはや水さえ禄に病人の喉を通りかねる状態になってしまったのであった。…

•     二ヶ月ほど前、全生病院でみた、咽喉切開の手術をした患者の面影が、まざまざと脳裏に浮かんでくる。どんな重症患者でも平気で正視し得る自分が、あの咽喉の切開口に金属製の枠をはめこんだ有様を、それを覆い隠していたガーゼをのけて思いがけなくも見せつけられた時、物の怪にでも襲われたように、ゾッとしたのを想起せざるを得ない。それはあまりにも不自然な光景であった。併し、その金属製の穴から呼吸しなが
ら、十年も生きながらえた患者があると医者から聞かされたとき、「喉をやられる」と去年の秋から云われていた××さんのために、復生病院にもそんな手術のできる設備と医者とがほしかった。

• 議論や理屈は別として「子を持って知る親の恩」である。患者から「おやじ」と云われれば、親心を持たずにはおられない。親となってみれば、子供らの苦痛を少しでも軽減してやりたいと願うのは当然である。しかしいかに天に叫び人に訴えても、宗教の与える超自然的手段を除いては、私には××さんを見殺しにするより外はない。癩菌は容赦なくあの聖い霊を宿す肉体を蚕食してゆく。「顔でもさすって慰める外に仕方あ
りません」と物馴れた看護婦は悟り顔に云った。そしてそれが最も現実に即した真理であった。

• 私はその晩、プラトンもアリストテレスもカントもヘーゲルも皆、ストーブのなかに叩き込んで焼いてしまいたかった。考えてみるが良い、原罪無くして癩病が説明できるか。また霊の救いばかりでなく、肉体の復活なくして、この現実が解決できるのか。

 生きた哲学は現実を理解しうるものでなければならぬと哲人は云う。
しからば、すべてのイズムは、顕微鏡裡の一癩菌の前に悉く瓦解するのである。

• 私は始めて赤くきれいに染色された癩菌を鏡底に発見したときの歓喜と、これに対する不思議な親愛の情とを想い起こす。その無限小の裡に、一切の人間のプライドをだはして余りあるものが潜んでいるのだ。私はこの一黴菌の故に、心より跪いて「罪の赦し、肉身の復活、終わり無き生命を信じ奉る」と唱え得ることを天主に感謝する。

• かくて××さんは苦しみの杯を傾け尽くして、次の週の木曜日の夜遅く、とこしえの眠りについた。…翌日も、またその翌日も、病院の簡素な葬式が二つ続いた。仲間の患者が棺を作って納め、穴を掘って埋めてやるのだ。

• 今日は他人のこと、明日は自分の番である。…沼津の海を遙かに見下ろすこの箱根山の麓の墓地から××さんとともに眠る二百有余の患者の魂は、天地に向かって叫んでいる。

「我はわが救い主の活き給うを信ず、かくて末の日に当たりて我地より甦り、我肉体に於て我が救主なる神を仰ぎ奉らん。われ彼を仰ぎ奉らんとす。我自らにして他の者に非ず、我眼こそ彼を仰ぎまつらめ!」
 
岩下壮一の祈り文
(神山復生病院院長就任時の祈り)
 
主イエズス・キリスト
主は病める者を特に愛し、これを慰めいやし給ひしにより
我れ其の御跡を慕ひ、
こゝに病人の恢復、憂人(うれひびと)の慰藉(なぐさめ)なる聖母マリアの御助けによりて
我が身を病者への奉仕に捧げ奉る。
希くはこの決心を祝し末ながくこの病院に働く恵を与へ給へ
                       亜孟(アーメン)
 
 
 
ジャック・マリタン著・岩下壮一訳『近代思想の先駆者』(昭和十一年)序文より

(六年前に本書翻訳に着手したときの心境を語った後に)ルッター論の訳了とともに生来夢想だにしなかった私立ライ療養所の経営を引き受けることとなってしまった。四十歳を過ぎるまで学校と書籍の中にばかり生活したわたしにとっては、観念の世界から急転直下の人生の最も悲惨な一面を日夜凝視すべく迫られたことはまさに一大事である。

現に今わたしが筆を執っている一室の階下には、「いのちの初夜」をもって一躍文壇に認められた北條民雄のいわゆる「人間ではない、生命の塊り」が床をならべて横たわっている。しとしとと降る雨の音のたえまに、わたしはかれらの呻吟をさえ聞き取ることができる。ここへ来た最初の数年間は、「哲学することが何の役に立とう」と反復自問しないわけにはいかなかった。しかしいまやわたくしはこの呻吟こそは最も深い哲学を要求するさけびだということを知るに至ったのである。…

現代は、すべての文明は特定の文化を、すべての文化は一つの形而上学をーそれが非哲学的な唯物論の形においてであろうともー背後に要求するものであり、そして宗教無くしてはその名にふさわしい形而上学が成立する者でないことを忘れた。これを逆に論じれば、真の宗教無くしては真の形而上学なく、真の形而上学のないところには、真の文化も存在し得ないということになる。どんな物質的進歩も文化的設備や組織も「なんじにいこうまで、われらの心やすきことあたわず」というアウグスチヌスの一語を抹殺しさることはできない。
 
「キリストに倣いて」(昭和12年JOAK放送講座:『信仰の遺産』423頁所収)
 

「汝らわが弟子たらんとせば、汝の十字架をとりて我に従え」で、師と共に十字架の道を歩まなければ、彼と共に「われ世に勝てり」と云うことはできない。世に勝たなければ、」どうしてこれを真の意味で享楽しえましょう。「神を味わいうるはかくの如き人々にして、作られし物に見出さるる一切の善をその造主の賛美にささぐ。わが霊と、そのすべての能力とを浄め、よろこばし、明らかにし、活かし、歓喜の極みに於て汝と一致せしめ給え。ああ、汝の臨在によりてわが心を満たし、われにとりて、一切に於て万事たらんその望ましき幸なる日は、いつ来たらんか」。


最後に私はこの真に世に勝てる幾多の人々を、只今及ばずながらお世話致しておりますお気の毒な癩患者の中に見出し、日毎に無言の教訓を受けておることを言い添えたい。私がここで皆様に何らかの良きことを申し上げ得たとしたなら、それはその方々に負うところの実に少なくないのを感ずる次第である。私にとっては、これこそ著者の「わが神にして一切なる者よ、悟れる者には、この一語にて足る」という言葉の活きた証明であります。

司祭職と秘蹟の問題(昭和14年「カトリック研究」19-6:『信仰の遺産』232-233頁所収)

(筆者の小さな経験を付け加えることが許されるならば)私が復生病院に赴任した後の最初の主日の朝、ある作家が「あれは人間ではない、肉の塊だ」という恐ろしいほど真に迫る言葉をもって形容したその人たちが、私の手から潰れた眼に涙を浮かべて主の御体を拝領したあの忘れられぬ光景を、あの時ほど彼らを慰むるに自分が無力であり、秘蹟がこれに反して力強きを感じたことはない。余の如き下根の者が、どうにか百何十人の現世的には最も悲惨な運命にあえぐ人々と起居していささかご奉仕のできるのは、全く秘蹟のおかげである。この実感を有する私は、嘗て『日本MTL』誌上にに載せられた都下の牧師諸君一行が全生病院を慰問した記事を興味深く読んだのである。一行が代り代り壇上に立って慰問の辞を述べた後に、患者達は舞踊や唱歌などを以て慰問団に応酬した。記者は慰問に行った自分の方が却って慰められて帰ってきた、次回は説教はよしてこちらも余興を用意して出かけたいという意味のことを書いていた。私も全く同感である。


宗教家の慰問はきまりきって永遠の生命のお説教である。それも有益で有難いには相違ないが、いつもいつも講堂に座らされて千篇一律の講話をきかされる患者達の身になれば、むしろ浪花節でもうなって貰った方がどれだけ嬉しいかわからない。況んや永遠の生命の信仰ならば、慰問者よりは遙かに徹底せる信仰者が院内にはいくらも居るに於てをやである。私はむしろ「諸君を前にして何を語っていいか自分には分からぬ」と同情の一念ををこめて挨拶してくださった県知事さんに、真の人間味を感じる。
 
資料2北條民雄のことばー小説「いのちの初夜」(昭和十一年二月同人誌「文学界」に発表ー第二回「文学界賞」受賞)から

(咽喉切開して5年間生き延びたが、苦しみに喘ぎつつ死を願う患者を前にして)「尾田さん、あなたはあの人達を人間だと思いますか。」佐柄木は静かに、だがひどく重大なものを含めた声で言った。尾田は佐柄木の意が解しかねて、黙って考えた。…
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人達の『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけが、ぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんなそんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活、そう復活です。ぴくぴくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。
 
尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それが何処から来るか、考えて見て下さい。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか。」
 
(失明の間近な佐柄木と共に病棟を出て夜明けを迎え)冷たい外気に触れると、二人は生き復ったように自ずと気持が若やいで来た。並んで歩きながら尾田は、時々背後を振り返って病棟を眺めずにはいられなかった。生涯忘れることの出来ない記憶となるであろう一夜を振り返る思いであった。「盲目になるのは判り切っていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる生きる道はある筈です。あなたも新しい生活を始めて下さい。癩者に成り切って、更に進む道を発見して下さい。僕は書けなくなるまで努力します。」
 
(昭和十年十二月八日北條民雄の川端康成書簡)

この作一週間以内に清書して先生に見て戴こうと存じて居ります。この作、自分でも良く出来ているような気がしますけれど、又大変悪るいんではあるまいかと不安も御座います。結局自分では良く判断が出来ません。けれど、書かねばならないものでした。この病院へ入院しました最初の一日を取扱ったのです。僕には、生涯忘れることの出来ない恐ろしい記憶です。でも一度は入院当時の気持に戻って見なければ、再び立ち上る道が摑めなかったのです。先生の前で申しにくいように思いますけれど、僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。文学するよりも根本問題だったのです。生きる態度はその次からだったのです。それでこの作発表のこと全然と云って良いくらい考えませんでした。先生にだけ見て批評して戴いたらそれで充分、という気持で書きました。今後の作もそういう気持でしか書けないと思って居ります。

(昭和十年十二月二十日川端康成の北條民雄宛書簡)

只今読了、立派なものです、批評は申上げるまでもありません。また聞きたいとお思いになる必要もないでしょう。文壇の批評など聞く代りに第一流の書をよみなさい。それが立派に批評となってあなたに働くでしょう。早速発表の手続きをとりますが、急がないで下さい。林房雄が文學界の二月号にくれくれと云いますが、承知はしていません。文學界の改組新年号は発行所から秩父號一氏宛に送ったそうですが着きましたか。毎月文學界賞を出すことになりました。・・・題は「その初めの夜」「いのちの初夜」「入院」など考えましたが、最初の一夜の方素直で気取らずよろしいと思われます。「いのちの初夜」はちょっといいとも思われますが。佐柄木が「いのち云々」というところもあって。最初の一夜は幾分魅力が薄い。実に態度も立派で、凄い小説です。この心を成長させて行けば、第一流の文学になります。
(追伸)今私はバイブルを読んでますが実に面白い、お読みになるとよいと思います。感傷的な宗教書としてでなく、強烈な精神の書として。病院になければ送ります。
 
(注)北條民雄は、文学界賞受賞後の作品として、100枚を越える長編を二篇書いている。しかしながら、これらは、いずれも公表されず、彼の死後に刊行された創元社の北條民雄全集にも収録されていない幻の作である。しかし、川端康成の『いのちの初夜』跋から、我々は、その作品のあらましを推測することが出来る。「その一は「いのちの初夜」にひとたび得た生命観をさらに深く懐疑否定し、その彼方に光明を探ろうとするものであった。その二は、社会運動に携わってゐた青年が、さういふ世と切り離された癩院に入って、尚、プロレタリアの為に反省苦悩し腐れゆく身であくまでもその社会理想を信じて生きるものであった。」

(昭和十一年六月十日北條民雄の川端康成宛書簡)

この作(監房の手記)には、ほんとに命を賭けました。書き始めるとき、それまで手許にあった長編の書きかけも、短編の書きかけも全部破り捨てました。これは遺書のつもりだったのです。これが書きあがったら死のう、と決心して筆を執りました。けれども書き進むうち、死んではならないことだけが分かりました。死ぬつもりで書き始めながら、書き終わった時には、生きることだけになりました。進歩か転落か、それは分かりません。ただ、先生の御評を頂きとうございます。「いのちの初夜」を書いた折、生か死かの問題は解決がついたかのようにお手紙しましたけれど、あの場合はほんとに解決したつもりでいましたのですけれど、つぎつぎと襲ってくる苦しみはあの解決をぶちこわしてしまいました。(中略)
それからこの作は検閲をうけずにお送り致します。検閲をうければ、発表禁止にされてしまうのです。それで検閲なしで発表して、僕はこの病院を出る覚悟に決めました。富士山麓の復生病院の院長岩下氏が僕の「いのちの初夜」に感激したと申されて、先日フランスのカトリック司祭コッサール氏が参りましたので、その人の紹介で右病院に入る予定です。自分にとっては、小説を書く以外になんにもないのに、その小説すら思うように書いてはならないとすれば、なによりも苦痛です。検閲証の紙を一しょに同封して置きますけれど、實に激しい屈辱感を覚えます。一つの作に對してこれだけ多くの事務員共の印を必要とするのです。

(注)「監房の手記」は川端康成の判断で発表を見合わせた。北條民雄も復生病院には転院せず、昭和十二年十二月に全生病院にて逝去(享年二十三)。葬儀は、北條の遺志で、復生病院で受洗した東條耿一はじめカトリックの信徒によって行われた。
 
資料3東條耿一の詩(昭和十二年「四季」十一月号)

樹々ら悩みぬ―北條民雄に贈る― 東條耿一
月に攀ぢよ/月に攀ぢよ/唯ひとり高く在せり/圓やかに虔しく鋭く冴え/微塵の曇りなし/蒼夜なり
樹樹ら悲しげに身を顫はせて呟きぬ/月に攀ぢよ/月に攀ぢよ/されど地面にどっしりと根は張り/あらはになりて身を顫ふ
樹樹ら手をとり額をあつめ/地面はどっしりと足を捉へ/(苦し)/(苦しきか)/(悲し)/(悲しきか)
彼等はてもなく呼び應ふ/樹樹らの悩み地に満ちぬ/月に攀ぢよ/ああ月に攀ぢよ/地面はどつしりと足を捉へ
地面にどつしりと根は張り/翔け昇らんとて激しく身悶ゆれど/樹樹ら翔け昇らんとて

(注)期せずして、追悼の詩にもなったが、この詩を書いた時点では、東條耿一は、まだ、北條民雄が昭和十二年の十二月に急逝するということを全く予想していなかった。東條耿一の詩の最後のスタンザでは、天頂高く皓々と照らす月の光のもとで天に向かって「翔け昇らん」とする樹々が、上への超越を目指す作者とその「いのちの友」の象徴となっている。大地は二人の安住の場所では、もはやないにもかかわらず、その重力が強く「霊魂の飛翔」を妨げている―その二律背反的な苦しさが詠われている。東條の詩に於て、樹々が登攀しようとしている「月」は、天頂高く冴えわたった冬の月である。樹木は、武蔵野にはいまでも随所に見られる欅などの高木などを思わせる。深夜、その高木が、寒月に向かって身を捩らせている。作者はその樹木に向かって、さらに高きところをもとめて登攀せよと呼びかけている。この詩では、晩年の彼の手記に見られる様な、カトリックのキリスト教への復帰という様な具体的な形をとっているわけではないが、「月に攀じよ」という、「いのちの友」への呼びかけのなかに、読者は、東條の垂直的な超越への切実な志向を読みとることができよう。
 
訪問者(遺稿)

我門前に立ちて敲く、我声を聞きて我に門を開く人あらば、
我其内に入りて彼と晩餐を共にし、彼も亦我と共にすべし。(黙示録)

第一篇怯懦の子
こつ、こつ
こつ、こつ……
誰人ぞ今宵わが門を叩く者あり
日は暮れて、凩寒く吹き悩む
こつ、こつ
こつ、こつ……
われ深く黙して答へず/半ばを過ぎし書を読みつぎぬ
こつ、こつ
こつ、こつ……
訪へる声やまず続けり
凩はいよよ募る
われ炉に薪を投げ入れ/尚も黙せり、耳を覆ふ……
こつ、こつ
こつ、こつ……
旅人よ、何とてわが門を叩く
われに何をか告げむとするや
われ知らず、わが扉開かざるべし……
旅人よ、わが門を過ぎよ
わが隣にも人の子は在り
こつ、こつ
こつ、こつ……
噫旅人よ、執拗なり
われは沈黙の人、孤独を愛す
われは聞くを好まず、聞かざるを欲す
われをして在るべき所に在らしめよ……
旅人よ、とくわが門を過ぎよ
しかして汝に受くるものに尋ねよ
こつ、こつ/こつ、こつ……
旅人、汝呪われてあれ
何ぞわれに怨みを持つか
如何なれば斯くもわれを求め
如何なれば斯くもわが安居やすらゐを亂すや
汝に向ひ、外に開かむより
われは寧ろわが裡に死ぬるを望む……
旅人、汝わが門を行け
われは蝮の裔にして汝を噛まむ
こつ、こつ
こつ、こつ……
おお凩よ募れ、闇また来たれ
われ汝を呪はむ
汝、如何に叩くとも
わが扉は固く、朝に至るも閉さるべし
われは汝を知らず、われは汝に聞かず
さなり、われは己に生くるなり……
噫旅人、とくわが門を去れ
然らずば人の子汝を渡すべし.
 
第二篇訪問者

吾子よ、吾なり、扉を開けよ
汝を地に産みし者来たれるなり
吾、はるばると尋ね来るに
汝、如何なれば斯く門を閉じたる
吾子よとく開けよ
外は暗く、凩はいよよ募れり
噫父なりしか
父なりしか、宥せかし
おん身と知らば速やかに開きしものを
噫何とてわが心かくは盲ひ、かくは聾せり
わが父よ、しまし待たれよ
わが裡はあまりに乏しく
が住居あまりに暗し
いとせめて、おん身を迎ふ灯とな点さむ
これ吾子よ、何とて騒ぐ
吾が来たれるは
汝をして悲しませむとにはあらで
喜ばさむ為なり
吾が来れば
乏しくは富み、そが糧は充たされるべし
吾久しく凩の門辺に佇ちて
汝を呼ぶことしきりなれば
吾が手足いたく冷えたり
噫わが父よ、畏れ多し
われおん身が、わが門を叩き
われを求むを知り得たり
されど、われ怯懦にして、おん身を疎み
斯くは固く門を閉したり
噫おん身を悲しませし事如何ばかりぞや
われ如何にしてお宥しを乞はむ
さはれ、われは伏して、裡に愧づなり
わが父よ、いざ来たりませ
 
吾子よ、畏るゝ勿れ
非を知りて悔ゆるに何とて愧づる
夫れ、人の子の父、いかでその子を憎まむ
吾今より汝が裡に住まむ/汝もまた吾が裡に住むべし
父よ、忝けなし
われ、何をもておん身に謝せむ/わが偽善なる書も、怯懦の椅子も
凡て炉に投げ入れむ
わが父よ、いざ寛ぎて、暖を取りませ
われ囚人めしうどにして、怯懦の子、蝮の裔
おん身を凩の寒きに追ひて
噫如何ばかり苦しませしや
最愛の子よ、吾が膝に来よ
而して、汝が幼き時の眠りを睡れ
そは吾が睡り甘美あまければなり
われおん身を離し去らしめじ
わが貧しきを見そなはして
わが裡に住み給へば
われもまたおん身の裡に生きむ
噫永久とこしへに、われ、おん身の裡に生きむ
父よ、われをしてこの歓喜の裡に死なしめよ
父よ、われをしてこの希望の裡に生かしめよ
 
病床閑日        東條耿一(遺稿)

私はけふ晝のひと時を
庭の芝生に下りてみた
陽はさんさんとそゝぎ
近くの樹立に松蝉が鳴いてゐた
私は緑のやは草を踏みながら踏みながら
そのやはらかな感觸を愛しんだ
不思議なほど妖しいほど私の心にときめくもの
一体この驚きは何だらう
思へ寝台の上にはやも幾旬―
もうふたたび踏むことはあるまいと思つてゐた
この草この緑この大地
私の心は生まれたばかりの仔羊のやうに新しい耳を立てる
新しい眼を瞠るそうして私は
私の心に流れ入る一つの聲をはつきり聞いた
それは私を超え自然を超えた
暖いもの美しいもの
ああそれは私のいのちいのちの歌
 
癩者の改心-友への便りにかえてーフランシスコ・東條耿一
(全生園カトリック愛徳会「いづみ」昭和28年クリスマス号に掲載された遺稿より)

 あなたのお言葉は私を大変淋しくさせました。それはあなたが、私の日頃抱いている考えについてお判りにならなかったからではなく、あなたに判っていただけない私の信仰の弱さのためです。
「私は癩になった事を深く喜んでいる。癩は私の心を清澄にし、私の人生に真の意義と価値を與えてくれた。癩によって私は始めて生き得たのだ。私を癩に選び給いし神は讃むべきかな。」の私の言があなたにはどうしてもお気に入らない様ですが、私が癩の疾患を喜ぶのは、苦痛を人生の正しい条件として肯定し、苦痛を愛するが故であります。
 あなたのお手紙の中で、それは負け惜しみだ、心では泣いているくせに、と云われ、又、たいそう悟りを啓きなすったわね、と皮肉たっぷりの調子で申して居られますが、これはあなたの嘲笑の心から出たのではなく、寧ろ憐憫の情からのものと、私は善意に解しておきます。しかし、あなたのお言葉に対して全面的に否定します。
 あなたは私の如き凡庸な人間が人生にとって最悪の悲惨事であるべき不治の業病に罹りながら、却ってその疾患に、その境遇に限りない喜びを覚えるということが、健康者であるあなたには、何かあり得べからざる現象として映り、率直に承服し難いのでありましょう。
これは一応無理からぬ事で、あなたばかりでなく、私の周囲の者、つまり同病者の中にすら癩者の苦痛が判らないのか、そればかりか家族の苦しみを思うだけでも癩の何処がよいのか、と肩を怒らして撲りかねない剣幕で、私の鼻先へ拳を突き出すでしょう。ごもっとも千万です。私だとて、そのようなことが判らぬのではありません。
 然し、神は恩恵を奪うことによって更に大いなる恩恵を約束する。諸々の苦痛は謂わば、その約束の印です。神の愛は惜しみなく奪うところにあることを人は案外忘れ勝ちではないでしょうか。譬えば、私の場合の一つを拾いあげて見ますと、私は癩という世の人の最も忌み嫌う不治の疾患に罹ったが故に、カトリックになり得たのです。神との一致、救霊の道とその方法を與えられたのです。
 或いはあなたは言うかもしれない。癩にならなくともカトリックにはなれたかも知れぬではないかと。それは可能でありましょう。その様な場合には、神はまた癩と違った方法で私の救霊の道を啓示し給うたかも知れません。神の摂理は偉大でありますから、その辺の所は測り難いでしょう。
 苦痛なしには私達は存在しません。苦痛は人生の最大要素です。少なくとも私はそう感じています。苦痛がある故に我々は生きていられる。茨の道を踏まずして天の門には至り難いでありましょう。これは基督が十字架上に於て身を以て我々に示し給うた所であります。「汝もし救かりを得んと欲せば己が十字架を負いて我に従え」とある如くで、苦しみによってのみ我々は神と一致することが出来るのです。
 
主の御胸によりかかりて
福音のきよき流れを、主の
御胸の聖き泉より飲みぬ、かくて
神の御言葉の恩寵を全世界にそそぎいだせり。
(福音史家聖ヨハネの聖務日課の答誦)
 
 私は苦痛の重荷を感ずると何時も、ヨブ記を繙くことにしています。これはヨブ記に自己の苦しみを紛らせる為でなく、ヨブの如く苦しみを愛したいが為であります。ヨブが神の試みに逢ってサタンの手に渡され、その持物、羊、駱駝、馬、夥しい僕達をことごとくサタンの手により奪われ、家は覆され、身は癩になって了い、かくして激しい苦杯を舐め、惨苦のどん底に突き落されたのでありますが、ヨブはなお天を仰ぎ地に伏してエホバの御名は讃むべきかなと神に光栄を帰しています。惜しみなく奪う神の愛をヨブははっきりと知っていたに違いありません。
 私は基督教的苦しみの忍従が限りなき喜びであり愛の勝利への転換であることを述べましたが、私の貧しい言がどれだけあなたの心を掴み得たかと思うと甚だ心淋しさを覚えます。私は己に苦しみを望みませんが與えられる苦痛は神の愛として肯定し、喜んで力の限り愛したいと思います。苦痛を愛の忍従に転嫁してヨブの如く生きたいと思います。惜しみなく恩恵を奪われた者のみ、よく真に神の愛を感ずる事が出来るでしょう。
 
               私を癩者に選び給いし神は讃むべきかな。
 
 
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『死線を越えて』生きることー永井隆の自伝的回想『亡びぬものを』再読

2021-08-09 |  文学 Literature
 昨年10月23日のNHKの朝の連続ドラマ「エール」に「どん底に大地あり」という永井博士の書が出ていましたが、どん底に落ち無一物となった当時の人々の希望を「天」を目指して「凧揚げ」する子供たちに託した絵があります。これは永井博士ご自身が描かれたもので、それに子供の気持ちを表現した歌が書かれています。
(片岡弥吉著『永井隆の生涯』(中央出版社)の図版からの引用)
 
 
片岡によれば、浦上では「たこ」と言わずに「はた」と呼び、四月の復活祭は「はたの祝日」と言って、この日はおとなも子供も一緒になって「はたあげ」をするとのことです。
 
「エール」というドラマは実在の人物をモデルとした歴史小説ですが、ときに永井隆の伝記の中で忘れられている部分を思い出させてくれます。
 
古関裕而は出征した兵士を慰問するために当時の多くの音楽家や作家達と共に大陸にわたりましたが、永井隆もまた従軍医師として大陸に渡りました。『エール』の私設応援団のFB で、ドラマのなかで永井隆をモデルとした医師が、被爆直後の浦上で負傷者の救援活動に挺身している映像を見て、中村哲医師のことを思い出したとかかれていました。みずから頭に大けがをし、包帯に血をにじませながら被爆負傷者の介護をしている姿は史実通りですし、私もまた中村哲医師のすがたを重ね合わせて視聴していました。
 
永井隆は、中国大陸で、民族対立の困難な状況の中で、命の危険も顧みずに、赤十字精神に基づき、敵兵や避難民の救護をしたので、敵国であった中華民国の市長から感謝状がわりの漢詩を贈られています。また戦後、韓国のキリスト者の李文熙は、『愛の歌・平和の歌ー永井隆の生涯』という本を出版して、それは日本語に訳されています。
 

 
この本は、韓国の物理学者でカトリック信徒の崔王植(チェ・オクシク)とイエズス会の薄田昇神父によって、韓国語から日本語に翻訳された。(共訳者の薄田昇は、『私の聖書ー釜ヶ崎の人に教えられて』の著者で、釜ヶ崎の貧民街で活動した神父でした。)
 
 永井隆は従軍医師として満州と華北に二度にわたって中国に渡り、「河北、河南、山東、蘇江、浙江、安徽、広東、広西、ノモンハン」と中国大陸を縦断して、敵味方の区別をしない医療活動に従事した後に、昭和15年2月に下関に帰還した。その経験をもとにして書かれた回想記が、「死線」というタイトルをつけて、永井の遺著『亡びぬものを』の第二部に収録されている。
 
 「死線」という言葉を、永井隆は、「生死の境を超えたところで生きる」という文脈で使っており、「決死の覚悟で戦う」という意味では決して使っていない。その点では、おなじキリスト者の賀川豊彦の自伝的小説『死線を越えて』の場合と同じである。永井の場合には、これは、上官の命令によって戦死を強要された(敵味方双方の)兵士たちの生への願いを基調とする言葉でもあった。
 
われ生きてありと思へやトーチカの陰に座りて朱欒むきつつ
今日もまた生き残りたり玉の緒のいのち尊く思ほゆるかも
 
これは戦地で従軍医師として介護しているときに詠まれた歌であったが、
生命をかぎりなく愛しむ心とともに、若者たちに生命の犠牲を強要し、情報を管理し隠蔽する為政者への批判がともに『亡びぬものを』には記録されている。 (文中、隆吉と呼ばれている人物が永井博士自身である)  
 
 衛生部隊は、お国のために戦場に来ているのではなかった。傷つけるもの、病めるものの為に来ているのだった。それは万国共通の赤十字精神だった。隆吉たちの包帯所には、両軍の負傷兵が今は戦列を離れて、敵と味方ということもなくまくらをならべて寝ていた。ことばは通じなくとも痛いことは同じだったから、情は通じて一本のたばこを分けて飲み、ひとつのみかんを半分ずつ食べ、おならが出ると声を合わせて笑った。隆吉はそれを看護しながら思うのだった。この第一線に相戦う青年たちは、このように何の憎しみも感じることがないのに、なぜ参謀本部や政府は机の上で戦争を考え出したのだろうか?そして、戦争を考え出した高官たちは安全な首都にとどまっていて、何も知らぬ青年たちに殺し合いをさせているのは、どういう了見だろう?
 
 戦地で純軍医師として活動したにのちに永井は昭和十五年二月に下関に帰還した。そして帰国後に彼が経験した当時の日本人の戦争観を次のように記録している。
 
 出雲の古里の家に父はなく、大きなさみしさが隆吉を迎えた。近所の人々は集まって、凱旋祝いをするからと言った。隆吉はかたくそれを断った。人々はびっくりして、なぜ祝いしてはいけないのか、となじった。隆吉は、
「今は祝いなんかしておられる時じゃありません。広西省の山のなかで、私の部下はきょうも血と泥にまみれている。わたしひとりが帰還して、どうして祝い酒なんか飲んでおられましょう。それに日本は勝ってはいないのです。また勝つという確信もないのです」
「それでも、我が軍は破竹の勢いで、あれだけ広い地域を占領したではありませんか?」
「無理強引にかなたこなたと押し歩いたのが勝利ですか? どれだけたくさんの墓標があとに残されたか、ご存じですか? あの調子で行けば、この村の青年は一人残らず引き出されますよ。人の口車に乗って景気よくドンチャン騒ぎをしているうちに財布はからになり、あっと青くなるようなことが起こらなければいいですが・・・」
「しかし、我が軍の情報部の発表によれば-」
「ああ、その発表がねえ・・・。正確な記録ではなくて、空想小説のように私には思われるのですが・・・」
 
 隆吉は、国民に真相が知らされていないのを初めて知った。(中略)大陸の戦場で多くの庶民が塗炭の苦しみをなめ、両軍の無邪気な青年達が頭を割られ、腹を裂かれ、足をちぎられ、血と泥の中にのたうちまわっている、あの悲惨な姿を知らないから、内地では、どこへ行っても戦争景気で飲めやうたえの馬鹿騒ぎをしているのだ。軍需工場の連中は、戦争はもうかるものだと思いこみ、肩で風を切って街をねりあるき、利権屋どもは大きな折りカバンをふくらませて、大陸への連絡船に乗っている。戦地で毎日のように聞かされた、天皇陛下のためというのは、真実であったろうか?
 
 永井が帰還した昭和15年2月は、南京に汪兆銘による「遷都式」が行われる前の月である。日本の「勝利」が喧伝され、上海には利権を求める日本人が大勢中国に渡っていった時期に当たる。永井は従軍医師として日中戦争の現場を体験していたが、上官から広東で乗船するときに「軍医は戦争の犠牲について真相を知っているが、これは国民に知らさないように注意しなければならない」と警告された。下関でも憲兵から再度おなじ趣旨の警告を受け、広島で招集解除されたときも同じ命令を繰り返させられたという。
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