自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★大きな「九六の家」から仮設住宅に 窮屈さがストレスに

2024年04月24日 | ⇒ドキュメント回廊

  政府はきのう23日の閣議で、能登半島地震の被災地を支援するため、2024年度予算の予備費から1389億円の追加支出を決定した。仮設住宅の建設などに683億円、公共施設や土木施設の復旧に647億円、農林漁業者支援に44億円、福祉・介護サービス提供体制の整備事業に16億円を充てる。能登地震に対応した予備費の支出決定は4回目で、合計は4000億円を超える(23日付・時事通信Web版)。

  元日の地震による全半壊の住宅は2万3917棟(今月19日現在)に及ぶ。国からの支援を受けて県は仮設住宅の設置を進めていて、6月末までに仮設住宅4600戸を完成させるとしている。ただ、一つ懸念するのは能登の人たちは仮設住宅で快適に過ごせるだろうか、ということだ。

  とくに地震の被害が大きかった奥能登では、「九六の意地」という言葉がある。間口9間(約16㍍)奥行き6間(約11㍍)の大きな家を建てるのが男の甲斐性(かいしょう)とする風土だ。黒瓦と白壁、そして九六の威風堂々とした建物が奥能登で立ち並んでいる。奥能登の4市町(輪島、珠洲、穴水、能登)の被災地では、建物の構造がしっかりしていて揺れには耐えたが、裏山のがけ崩れで横倒しになった住宅をよく見かけた。そこで思ったのが、九六の家に住んでいる人たちはコンパクト化した仮設住宅で不便ではないだろうか、という懸念だった。(※写真は、裏山のがけ崩れで倒壊した大きな民家=1月30日、珠洲市で撮影)

  奥能登の人たちはあまりしゃべらないが、しゃべると声が大きいとよく言われる。これは大きな家に住んでいるので普段から家族が聞こえるように大声で話すことに慣れているから。が、仮設住宅で大声が必要だろうか。また、つい先日まで、二、三十畳もある居間で一家だんらんの生活をしていた人たちが仮設住宅となると精神的にも窮屈ではないだろうか。ストレスがたまるかもしれない。余計なお世話と言われるかもしれないが、能登の人たちの豊かな居住生活を見てきただけに、ふとそんなギャップをあれこれと考えてしまう。

⇒24日(水)午後・金沢の天気   あめ

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☆能登の歴史を語る「上時国家文書」 倒壊家屋から救出

2024年04月23日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登には平家伝説が数々ある。能登半島の尖端、珠洲市馬緤(まつなぎ)集落に伝わる言い伝えだ。平氏と源氏が一戦を交えた壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が敗れ、平時忠が能登に流刑となった。時忠は平清盛の後妻である時子の弟であったものの、いわゆる武士ではなく、「筆取り武士」と呼ばれた文官だったこともあり死罪は免れた。

  その時忠を源義経が能登に訪ねて来た。兄・頼朝と仲違いし追われ、奥州・平泉に逃げ延びる途中に加賀の安宅の関をくぐり、そして能登に流された時忠のもとに来た。一説に、義経の側室だった蕨姫は時忠の娘で父親とともに能登に流されていたので、義経は蕨姫に会いに来た。義経の一行がしばらく滞在するため、この地に馬を繋いだので、「マツナギ」という地名になり、その後「馬緤」の漢字が当てられた。

  伝説の続き。その時忠の子孫が輪島市町野町の時国家とされる。2軒ある時国家のうち丘の上にある「上時国家」は去年8月まで一般公開されていたので、これまで何度か訪ねた。入母屋造りの主屋は約200年前に造られ、間口29㍍、高さ18㍍に達する。幕府領の大庄屋などを務め、江戸時代の豪農の暮らしぶりを伝える建物でもある。国の重要文化財指定(2003年)の際には、「江戸末期の民家の一つの到達点」との評価を受けていた。

  時国家を学術調査したのが歴史学者の網野善彦氏(1928-2004)だった。1980年代から古文書調査を行い、時国家が北前船の交易ほか山林経営、製炭、金融などを手掛ける多角的企業家だったことが分かった。さらに、時国家が船を用立てるために、いわゆる土地を持たない「水吞百姓」の身分の業者から金を借りていたことから、「百姓」という言葉は農民と理解されてきたが、むしろ多様な職を有する民を指す言葉ではなかったかと指摘している(網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』)。

  網野氏が読み解いた膨大な上時国家文書8千点余(石川県指定文化財)が、元日の地震で家屋の下敷きになった。厚さ約1㍍におよぶ茅葺の屋根が地面に覆いかぶさるように倒壊した。メディア各社の報道によると、今月20日に国立文化財機構文化財防災センターのスタッフ、石川県教委や輪島市教委の職員、大学教授ら20人が「文化財レスキュー」活動を行い、主屋と離れを結ぶ廊下に保管されていた古文書を運び出した。一部に水ぬれやカビが見られ、現地で修復作業が施されるようだ。

  古文書は地域の歴史を語る貴重な史料でもある。被災家屋の解体が本格化するのを前に、そして梅雨の季節を前に懸命な文化財の救出活動が行われている。

(※写真・上は、上時国家の賓客をもてなす「大納言の間」=2010年8月撮影。写真・下は、能登半島地震で倒壊した上時国家の主屋=2月22日撮影)

⇒23日(火)夜・金沢の天気   くもり

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★被災地や過疎地でドローン活用 能登でノウハウ蓄積

2024年04月21日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登半島地震で最初の揺れが起きたのは元日の午後4時すぎ。スマホの緊急地震速報が不気味な音で鳴り出した。グラグラと家が揺れ出し、押し入れの引き戸などがガンガンと音を立てて閉じたり開いたりを繰り返している。数十秒も続いただろうか。いったん止んだが、しばらくして、またピューンピューンと緊急地震速報が鳴り、再び強烈な揺れが走った。

  NHK地震速報で、女性アナウンサーが強い口調で津波が予想される地域住民に避難を呼び掛けていた。間もなく外が暗くなり、輪島の朝市通り周辺での大規模火災の様子がテレビ画面に映し出された。しかし、能登各地の地震の全容はテレビ画面では映し出されることはなく、スタジオと朝市通りの火災の映像が中心だった。

  翌日2日からはテレビ各社がヘリコプターでの上空からの中継映像を輪島の朝市通りの火災を中心に流していた。震度7の揺れで能登の中山間地ではいたるところでがけ崩れが起き、集落が孤立した。さらに、がけ崩れで谷川がせき止められる「土砂ダム」ができ、各地で民家や集落が水に浸かった。また、隆起して白くなった海岸線が何㌔にも渡って続いていた。このリアルな能登の被災地の状況を知ることができたのはテレビ映像より、むしろドローンによる画像だった。(※写真は、土砂ダムで孤立した輪島市熊野町の民家=1月4日、国土交通省TEC-FORCE緊急災害対策派遣隊がドローンで撮影)

  その後、ドローンが孤立化した集落に食糧などの救援物資を届けるなど、被災地におけるドローンの存在感が高まった。きょう付の日経新聞によると、経産省は石川県にドローンの運航航路や発着の拠点を整備する。能登半島地震の影響でなお医療品や生活必需品などの輸送が滞っているため、復興を迅速に進める狙い。復興後の平時にも活用を続け、ノウハウを蓄積して地方を中心にドローンの利用を広げる、とう。

  確かにドローンは単なる物資の輸送だけでなく、人手不足の解消という視点で見れば、被災地だけでなく、これからの地域の過疎化対策で必要不可欠な「生活インフラ」に位置付けられるかもしれない。記事によれば、経産省では地元自治体や国交省と連携して、複数の避難所をドローンの発着拠点として、専用の離着陸用のポートや充電設備を置く。航空法や電波の状況の観点から飛んでよい場所を事前に定め、ドローン航路をつくる。

  ドローンの新たな可能性を引き出す、実証する、そしてドローン人材を育成する。能登がドローン活用の全国の拠点となれば復興の一助につながるかもしれない。そう期待したい。

⇒21日(日)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

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☆復旧は徐々に進むも 罹災証明書めぐり渦巻く不満

2024年04月20日 | ⇒ドキュメント回廊

  元日の能登半島地震から110日が経った。石川県危機対策課のまとめ(4月19日現在)によると、これまで亡くなった人は245人(うち災害関連死15人)、住宅被害は全半壊や一部損壊含めて7万7935棟、避難所生活を余儀なくされている人は市町での1次避難所で2825人、県が用意した避難所(金沢市など)で2232人などとなっている。断水は珠洲市で2830戸、輪島市で1490戸、能登町で260戸の合わせて4580戸に及んでいる。また、県は仮設住宅4600戸を6月末までに完成させるとしている。

  数字だけを眺めると、たとえば珠洲市の断水は当初4800戸(1月4日時点)だったので、遅い早いは別として徐々に復旧している。先日(4月15日)、1930棟の住宅が全半壊した穴水町を訪ねた。仮設住宅の近くを通ると、洗濯物が干してある様子が見えた=写真=。ささやかな光景だが、生活実感が見て取れ、地域の復旧へと動き出しているようにも思えた。

  ただ、これからの復旧・復興に向けて問題となりつつあるのが、罹災証明書をめぐる被災者と自治体の不協和音かもしれない。きょう新聞メディアは能登半島の中心にある七尾市の事例を報じている。同市では住宅3141棟が全半壊、1万312棟が一部損壊となった。行政が出した罹災証明書について、判定に納得できず再調査を求める申請が今月16日現在で2484件(12.8%)にも及ぶ(20日付・北陸中日新聞)。  

  罹災証明書の発行に当たり、それぞれの自治体は損害割合に応じて「全壊」(損傷割合50%以上)、「大規模半壊」(同40%台)、「中規模半壊」(同30%台)、「半壊」(20%台)、「準半壊」(同10%台)、「一部損壊」(10%未満)の6分類で判定している。外観から判定する1次調査に納得がいかない場合は、被災者の立ち会いのもとで、建物の中に入って確認する2次調査を申請できる。ただ、2次調査は建物内を詳しく調べるため、より時間がかかるとされる。

  1次調査に不服が出る背景には、政府の生活再建支援金に大きな差があるからだろう。全壊の場合の支援金は300万円、大規模半壊は250万円、中規模半壊は100万円だが、半壊以下は支給の対象外となる。能登の知人からのまた聞きの話だ。知人の親族の家は一部損壊との判定だった。屋根にブルーシートを施してはいるが、雨の日には家の中で雨漏りがして、住める状態ではない。修繕は順番待ちで、早くて6月と言われ、作業の予定が立っていない。結局、別の親族から紹介された金沢のアパ-トで暮らしている。知人の親族は「このまま金沢で暮らしたい」と言っているそうだ。

  被害が半壊以上ならば公費解体の対象となる。が、準半壊や一部損壊はその対象ではない。先の知人の親族のように一部損壊であっても、雨漏りなどで住めない状態になるケースが多い。新聞記事にあるように、七尾市だけで一部損壊の住宅が1万312棟に及び、2次調査を求める申請が2484件にも達しているというのはまさに、被害認定をめぐる不満や不安が頂点に達しているとも言える。馳県知事は、被災した住宅などの公費での解体・撤去を「来年10月までの完了を目指す」(3月1日会見)としているが、そんな簡単な言葉では片付けられない問題がいよいよ表面化しつつある。

⇒20日(土)夜・金沢の天気    くも

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★春耕迎えた能登 つくれる田んぼは6割、畑は5割

2024年04月19日 | ⇒ドキュメント回廊
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☆「二度あることは三度ある」 金沢の被災地にリスクを読む

2024年04月18日 | ⇒ドキュメント回廊

  きのうの深夜午後11時14分、九州の大分県と四国の愛媛県に挟まれた豊後水道を震源とする地震があった。気象庁によると、マグニチュード6.6、震源の深さは39㌔、愛媛県愛南町と高知県宿毛市で震度6弱、九州や四国、中国、関西など西日本全体で揺れが観測された。(※地震図は、18日付・NHKニュースWeb版)

  NHKの地震速報で、「南海トラフが来たか」と誰もが一瞬思ったのではないだろうか。今回の地震は、南海トラフ巨大地震の想定震源域内で起きているからだ。NHKの解説によると、想定震源域内でM6.8以上の地震が発生した場合、気象庁は「南海トラフ地震臨時情報」を発表するが、今回はM6.6で基準未満だった。また、南海トラフ地震は、フィリピン海プレートと陸側のプレートの境界部分が震源となるが、今回は深さ39㌔のフィリピン海プレートの内部で発生したと推定され、地震のメカニズムが異なり、南海トラフ地震の可能性が高まっているわけではないというのが気象庁の見解のようだ。

  しかし、地震は予期せずして起きるものだ。去年5月5日に能登半島で震度6強、ことし元日に震度7の強烈な揺れが起きた。「災害は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦)という教訓は実感だった。

  話は変わる。元日の地震で震度5強を観測した金沢市田上新町ではがけ崩れが起き、民家4軒が道路ごと崩れ落ちた=写真・上、1月2日撮影=。場所は金沢大学角間キャンパス隣地の山手の住宅街だ。きのう現地に行くと、崩れ落ちた4軒の民家は解体・撤去されていた=写真・下、4月17日撮影=。現場を眺めながら考えたこと、それは「事はこれで終わったのだろうか」という思いだった。2月13日に現場を訪れたときに、この近くに40年余り住んでいるというシニアの女性から聞いた話だ。「このあたりで30年前にも大雨で土砂崩れがあって、2度目なんですよ」と。

  土砂災害を研究している東京農工大学のチームが現地調査に訪れている(1月3日)。1600平方㍍の斜面が崩壊し、全壊した4棟のうち3棟が10㍍から20㍍西へ移動していた。地盤を調べたところ、大きさがほぼ均一の細かい砂地でできていて、斜面に設置された排水管からは地下水が流れ続けていた。このため、地下水を含んだ砂地に地震の揺れが加わったことで地盤が液体状になる液状化現象が起き、崩落したとみられる(1月6日付・NHKニュースWeb版)。液状化現象というリスクは山沿いでも起きるのだと初めて理解した。

  そして、30年前のがけ崩れが教訓として活かされていなかったのだろうかと改めて考えた。「二度あることは三度ある」。このリスクをどう見極めればよいのか。

⇒18日(木)夜・金沢の天気     くもり

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★地震で傾いた鐘楼堂 修復へと持ち上げた檀家パワー

2024年04月17日 | ⇒ドキュメント回廊

  前回ブログの続き。15日に回った穴水町由比ヶ丘や能登町白丸では地震だけでなく、がけ崖崩れや津波、火災といった複合災害で甚大な被害が出た。これらの地域では3ヵ月過ぎても被害状況はそのまま、人影もほとんどなかった。

        気になった寺があり、帰りに立ち寄った。1月5日に能登町神和住を通ると、石垣の上に今にも倒れ落ちそうな鐘楼堂があった=写真・左=。石垣が一部ひび割れ、根元から大きく傾いている。地震前日の大みそかに多くの人たちが除夜の鐘をつきに訪れただろうと思うと、地域の人たちが鐘楼堂を見るたびに感じるであろう緊張感が伝わってくるようだった。あの鐘楼堂はどうなったのだろうかと気になっていた。

  再度訪れると、まさに修復中だった=写真・右=。鐘楼堂はまっすぐに直され、ひび割れた石垣の周囲を木製のブロックで囲って支えているように見えた。さらに、柱に補強が施されていた。屋根と柱のみで構成された鐘楼堂は、重量級の梵鐘を支える柱が要(かなめ)とされる。このため、4本の柱は強度を増すため、踏ん張るように少し斜めに建てられている。これを宮大工は「四方転び」と呼んでいる。鐘楼堂は寺院のシンボルでもある。耐久性だけでなく建物としてのバランスや建築美の視点も欠かせない。それを見事に復元させているように思えた。

  と同時に、おそらく自らも被災したであろう檀家衆が寺の住職と寄り添い修復の実行へと動いた志(こころざし)に地域のパワーを感じた。

⇒17日(水)午後・金沢の天気   はれ

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☆3ヵ月半経つも現場はそのまま、ボランティアの姿もなく

2024年04月16日 | ⇒ドキュメント回廊

  きょう金沢は夏日、街路の温度計では26度だった=写真・上=。庭の草むしりは上はシャツ一枚で十分だった。金沢地方気象台によると、今夜からあす17日朝までは大気の状態が不安定で、所により雷を伴った雨の降る所がある見込みとのこと。そして、あさって18日から黄砂が予想されている。午後には金沢の街全体がぼんやりとかすんで見えた。いわゆる「霞(かずみ)」だろう。「春なれや名もなき山の薄霞」(芭蕉)

  前回ブログの続き。能登鹿島駅の桜を見て、その後、穴水町で16人が亡くなった由比ヶ丘地区をめぐった。一帯には大量の土砂が積み上がり、巻き込まれた家や車が流されていた。現場はそのまま残されていた=写真・上=。今月12日に当地を訪れた天皇、皇后両陛下が黙礼をされた場所でもある。海岸沿いを走り、能登町鵜川地区に入った。古い伝統的な家並みが多い地区で、全壊の住宅も目立った。

  そして、同じ能登町の白丸地区に入った。同町ではもっとも被害が大きかった地区でもある。白い砂浜が円を描くような風光明媚な地区で、地名そのもの。ここに地震、火災、そして津波の複合災害が起きた。火災に見舞われた一帯では黒くなった車や焼け残った瓦が積み重なっていた。気象庁によると、4.7㍍(痕跡高)の津波が200世帯の白丸地区に到達した。発生から3ヵ月半がたっても、大量のがれきが散乱していた=写真・下=。

  今月12日には両陛下が穴水町に続いて、この地を訪れている。地区をひと回りしたが、がれきを片付けている人がいたのは2軒だけだった。そして、がれきの処理を手伝ってくれる支援ボランティアの姿はなかった。

⇒16日(火)夜・金沢の天気    あめ  

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★「能登さくら駅」の列車と桜トンネル、海を彩る華やかさ

2024年04月15日 | ⇒ドキュメント回廊

   兼六園のソメイヨシノの見頃は過ぎたものの、かなりの観光客でにぎわっている。きょうその兼六園の桜を横目で見て、能登へと車を走らせた。能登半島地震の影響で主要地方道「のと里山海道」は途中から一方通行になっていて、混雑していた。2時間半ほどかかって目的地に到着した。半島の奥、穴水町にある「のと鉄道」の能登鹿島駅。桜の観光名所で知られ、「能登さくら駅」の愛称で親しまれている。

  無人駅のホームに入ると、線路を囲むようにヨメイヨシノが咲いている。アマチュアカメラマンや見学に来た人たちが200人ほどいただろうか。昭和7年(1932)に鉄道の開通を祝って桜が植えられた。それ以降も鉄道会社や地域の人たちが少しずつ植え、いまでは100本余りのソメイヨシノやシダレ桜が構内を彩っている。

  午後0時19分発の穴水駅行きの列車と、午後0時20分発の七尾駅行きの列車が能登鹿島駅で止まった=写真・上=。アマチュアカメラマンたちがわっと押し寄せ、撮影が始まった。満開の桜のトンネルと列車がじつに絵になり、心が和むアングルだ。

  のと鉄道は今回の地震で線路が歪むなど大きな被害に見舞われた。今月6日、およそ3ヵ月ぶりに全線での運転再開にこぎつけた。震災直後のガタガタとなった線路を実際に見ている能登の現地の人々にとっては、満開の桜のトンネルと列車の様子を見てようやく日常への一歩と実感しているかもしれない。

  列車が去り、駅を出ると、まったく別の光景が目に入って来た。桜の並木の向こうに見える穴水湾の海がなんとも幻想的な光景を醸し出している=写真・下=。何と表現したらよいのだろうか、青い海を彩る華やかな桜、青空とコバルトブルーの海を染めるみやびな桜、なのだ。絶景を何度か振り返りながら能登鹿島駅を後にした。

⇒15日(月)夜・金沢の天気    くもり

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☆バイデン大統領の輪島塗を制作したプロデューサーの横顔

2024年04月14日 | ⇒ドキュメント回廊

  日米首脳会談でアメリカを訪れた岸田総理がバイデン大統領に贈った輪島塗が喜ばれたことから、輪島塗が脚光を浴びるようになった。日本人にとって輪島塗と言えば椀や盆という伝統的な器のイメージが強かったが、今回プレゼントされたのは、青と黒のグラデーションが施されたコーヒーカップ、そして、アメリカの象徴である白頭鷲と日本の象徴である鳳凰が舞う姿を蒔絵で描いたボールペンだった。「輪島塗で意外なものが創れる」。これまでの印象が覆されたのではないだろうか。では、こうした輪島塗の創造的な作品はどのようにして創られたのか。

       岸田総理は2月24日に能登半島地震の視察で輪島市を訪れ、輪島塗や農林漁、観光の後継者たちと車座で語り合った。このとき、輪島塗の作品の数々を並べて輪島塗の復興について語ったのが、田谷漆器店の田谷昂大(たや・たかひろ)氏だった。田谷氏は32歳という若さで、社長のポストに就いて、アイデアと感性を凝らした作品づくりを手掛けている。この車座対話のときに、岸田総理は外遊先に輪島塗を積極的に持っていく意向を田谷氏に伝えていた。政府から田谷氏に正式に制作依頼があったのは3月上旬だった。(※写真は、田谷漆器店公式サイトより)

  去年の4月7日、田谷漆器店の工房を見学させてもらった=写真・下、右の人物が田谷昂大氏=。創業200年の老舗で、田谷氏は十代目となる。地元では輪島塗の製造販売店を「塗師屋(ぬしや)」と呼ぶ。

  輪島塗は124の細分化された工程で成り立っていて、それぞれに専門の職人がいる。塗師屋はその工程を統括する。雇っている職人もいれば、外注の職人もいる。とくに、蒔絵や沈金といった加飾では、作品の絵柄によってその絵柄を得意とする職人を選ぶことになる。現代風に言えば、塗師屋は受注から企画、制作、販売を自前で行う「総合プロデューサー」でもある。この一貫した体制があるので、3月上旬に政府から発注を受け、スピード感を持って制作し、4月上旬の納品が間に合ったのだろう。 田谷氏が「塗師屋の仕事は、それぞれの職人が仕事に集中できるように気を回すこと」と語っていたことを覚えている。

  田谷氏の口癖は「漆で表現できるものならば何でも挑戦したい」。この言葉から、塗師屋の威厳と熱い思いを感じた。

⇒14日(日)夜・金沢の天気    はれ

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★「金継ぎ」の発想で能登復興の10年先、20年先をつなぐ

2024年04月13日 | ⇒ドキュメント回廊

   輪島市や珠洲市など能登半島地震の被災地をめぐると、これまで行き来した能登での思い出などが蘇って来る。輪島で倒壊した7階建ての建物は、輪島塗の製造販売(塗師屋)の大手「五島屋」のビルだ=写真・上=。倒壊した内部の様子を外から見ると、グランドピアノが横倒しになっている。展示場で飾られてあった、輪島塗のピアノだろうと察した。

   もう40年も前の話だが、当時、新聞記者として輪島支局に赴いた。そのとき、当時の社長の五島耕太郎氏(1938-2014)と取材を通じて知り合った。チャレンジ精神が旺盛で、「ジャパン(japan)は漆器のことなんだよ」と言い、海外での展示販売などに積極的だった。また、「輪島塗は器や盆だけじゃない。ピアノも輪島塗でできる」と話していたことを覚えている。バブル景気の走りのころで、輪島塗業界には勢いがあった。その後、五島氏は1986年に輪島市長に就き、3期12年つとめた。そして漆器業界はバルブ経済絶頂には年間生産額が180億円(1991年)に達した。横倒しになったグランドピアノはそんなころに作られたものかと憶測した。

  話は変わるが、輪島塗は塗り物だが、焼き物との接点もある。「金継ぎ」と呼ばれる、陶器の割れを漆と金粉を使って器として再生する技術のこと。2022年1月に珠洲市の国際芸術祭の会場の一つ「スズ・シアター・ミュージアム『光の方舟』」にある大皿にも金継ぎが施されていた。松の木とツルとカメの絵が描かれ、めでたい席で使われたのだろう。それを、うっかり落としたか、何かに当てたのだろうか。中心から4方に金継ぎの線が延びている=写真・下=。大正か昭和の初めのころの作か。金継ぎの皿からその家のにぎわいやもてなし、そして「もったいない」の気持ちが伝わってくる。  

  「kintsugi」という言葉が世間に、そして世界に広がったきっかけは、東京パラリンピックの閉会式(国立競技場・2021年9月5日)でアンドリュー・パーソンズ会長が発した言葉だった。日本の金継ぎの技術について、「不完全さを受け入れ、隠すのではなく、大切にしようという発想であり素晴らしい」と述べた。その背景には、サステナビリティやサーキュラーエコノミー(循環型経済)を各国が推し進めていることもある。

  輪島で受け継がれている金継ぎ技術から連想するのは、震災で壊れた能登の復興だ。壊れた皿に漆と金箔を使うことでアートを施して芸術的価値を高める。能登の復興も単なる復興ではなく、不完全さを受け入れながらも住み易さや、未来への可能性を確信させる街づくりに向っていく。金継ぎの発想で能登の復興の10年先、20年先をつなぐ。そうあってほしい。

⇒13日(土)午後・金沢の天気    はれ

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☆両陛下が2度目の能登見舞い 丁寧な被災者への寄り添い

2024年04月12日 | ⇒ドキュメント回廊

  天皇、皇后両陛下がきょう再び能登を訪れ、被災した人々を見舞われた。前回は3月22日だったので、1ヵ月以内に2度は皇室では異例ではないだろうか。メディア各社の報道によると、両陛下は羽田空港の出発時に搭乗した特別機に機材トラブルがあり、別の予備機に乗り換えて能登空港に向かい、予定より1時間遅れて午前11時30分ごろに到着された。

  きょうの能登は青空が広がり、輪島では午前中に20度まで気温が上がった。テレビのニュースで訪問の様子を視ていると、天皇陛下は白いシャツにグレーのジャケット、皇后さまは薄手のブレーのタートルネックに紺のブレザーだった。少し暑く感じられたかもしれない。

  能登空港のターミナルビルで馳知事から被災状況などの説明を受け、その後、午後に自衛隊のヘリコプターで穴水町に移動された。同町では20人が亡くなり、6260棟で全半壊などの建物被害が出ている。両陛下はマイクロバスに乗り、吉村町長の案内で倒壊した建物がそのままの状態となっている商店街などを視察された。その後、50人ほどが避難生活を送っている公共施設「さわやか交流館プルート」で被災者を見舞われた。被災した人たちに「おケガはありませんでしたか」、「お宅の被害がどの程度ありましたか」、「大変ですね」などと言葉をかけておられた。(※写真は、両陛下が見舞いに訪れた能登町の避難所=NHKニュースより)。

  臨時ヘリポートとなっている穴水港の広場では、地震による土砂崩れで16人が亡くなった対岸の由比ヶ丘地区に向かって黙礼された。この後、両陛下は再びヘリコプターで能登町に移動された。同町では災害関連死6人を含め8人が亡くなり、9090棟の建物が全半壊などの被害を受けている。大森町長の案内で、40人余りが避難生活を送っている町立松波中学校を訪れ、被災者と懇談された。その後、津波で住宅が流されるなどした白丸地区を訪ねた両陛下は家屋が倒壊し1人が亡くなった現場の方に向かって黙礼された(同)。

  両陛下は3月22日に輪島市と珠洲市、きょう穴水町と能登町を回られ、地震災害がもっとも大きかった奥能登を一周されたことになる。両陛下の見舞い訪問に、能登の人たちは「気をかけてくださっとる」と敬服していることだろう。金沢でニュースを視聴していても、被災地での丁寧な寄り添いの言葉や所作には共感する。

⇒12日(金)夜・金沢の天気   はれ

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★日米首脳会談に「貢献」 能登地震と輪島塗コーヒーカップ

2024年04月11日 | ⇒ドキュメント回廊

  朝の日差しに目が覚めてスマホでニュースをチェックし始めたころ、グラッときた。気象庁の地震速報に画面を切り替える。「発生:6時50分ごろ 震央地名:石川県加賀地方 深さ:ごく浅い マグニチュード:2.7」と出ている。そして、震源とされる地図上で赤の✖印がついている場所は金沢の山沿いで割と自宅に近い。これを見て一瞬、「森本・富樫断層帯」のことを思い出した。金沢市内を南北に貫くこの断層は、今後30年以内の地震発生確率が2%から8%と、全国的にもリスクが高い(政府地震調査研修推進本部公式サイト)。今回の揺れが、断層と連動しているのか。寝起きの悪い朝になった。

  アメリカを訪問中の岸田総理はバイデン大統領と会談した。メディア各社の報道によると、日米同盟を「未来のためのグローバル・パートナー」と位置づけ、防衛協力を深めるとともに、経済安全保障や宇宙など幅広い分野での連携強化を確認した。また、中国の動向をめぐっては、尖閣諸島を含めた東シナ海や南シナ海での力や威圧による一方的な現状変更の試みに強く反対することで意見が一致。さらに、アメリカの防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条が、沖縄県の尖閣諸島に適用されることを再確認した(11日付・NHKニュースWeb版)。

  いきなり不適切な表現かもしれないが、日米首脳会談がスムーズに運んだとされる背景には能登半島地震が貢献しているのではないだろうか。バイデン大統領は地震があった元日に岸田総理に見舞いの電報を送っている。「As close Allies, the United States and Japan share a deep bond of friendship that unites our people. (緊密な同盟国としてアメリカと日本は両国の国民を結びつける友情という深い絆を共有している)」、「 Our thoughts are with the Japanese people during this difficult time.(この困難な時期に、私たちの思いは日本の人々とともにある)」(※意訳、電報の出典は「ホワイト・ハウス」公式サイトより)

  岸田総理はこの見舞い電報を受けたことについてお礼を述べ、外交交渉をスムーズに運びたかったに違いない。日本時間の10日、夕食会に先立ち、見舞い電報のお礼を込めて、輪島塗のコーヒーカップとボールペンをプレゼントした=写真・上、外務省公式サイトより=。

  コーヒーカップにはバイデン夫妻の名前入り、青と黒のグラデーションが施されている。岸田総理は、被災した能登で創られている日本ではとても有名な「lacquerware(漆芸品)」と紹介し、被災した輪島塗の若手職人たちが今回のために特別に、100以上の工程を経て、心を込めて作製したと説明した(外務省公式サイト)。  

  岸田総理は2度、被災地を訪れている。一回目の1月14日はヘリコプターで上空から被災地の状況や道路など視察。避難所を訪れた。2回目の2月24日には輪島市で農業や漁業者、輪島塗の事業者らと車座で対話し、輪島塗販売店なども視察した。おそらく、このとき岸田総理はピンとひらめいたのだろう。4月の日米首脳会談で、バイデン大統領への手土産に輪島塗を持って行こう、と。(※写真・下は、輪島市での視察後の会見、総理官邸公式サイトより)

  夕食会などで輪島塗のプレゼントで話が盛り上がって、日米の絆を互いが確認し合ったとすれば、能登半島地震と輪島塗が日米会談の成果に貢献したといえるのかもしれない。

⇒11日(木)夜・金沢の天気     はれ

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☆両陛下、12日再び能登に 被災地に丁寧な足運び

2024年04月10日 | ⇒ドキュメント回廊

  先月22日に天皇、皇后両陛下が能登半島地震で被災した人々を見舞うため輪島市と珠洲市の避難所を訪れた。その様子をテレビを視聴していた。午前中に能登空港に到着し、両陛下は黒のタートルネック姿だった。そして、現地に負担をかけないようにと、昼食は東京から持参された。240棟が焼け、多くの犠牲者が出た輪島の朝市通りでは両陛下が黙礼をされた=写真、宮内庁公式サイト・4月2日付「被災地お見舞い」より=。避難所を訪れ、膝をついて被災者と対話する丁寧な所作に、被災者に寄り添う気持ちが感じられた。その両陛下はあさって12日に再び能登の被災地を見舞いに訪れると、メディア各社が伝えている。

  当日は午前中に羽田発の特別機で能登空港に。自衛隊のヘリコプターで穴水町に向かい被災者を見舞うほか、災害対応に当たる関係者をねぎらう。その後、ヘリで能登町に移り、津波の被害が大きかった地域など訪れ、被災者と面会する。夜に帰京する。穴水町では20人、能登町では8人が震災で亡くなっていて、被害が大きかった奥能登4市町をすべて見舞われることになる。被災者と対面する所作だけでなく、被災地域にまんべんなく足を運ばれる丁寧さには敬服する。

  一方で腑に落ちない国の動きもある。きょうの新聞メディアの記事によると、財務省は9日、税制制度等審議会(財務大臣の諮問機関)の分科会を開き、能登半島地震の被災地の復旧・復興は「将来の需要減少や維持管理コストも念頭に置き、住民の意向を踏まえ、十分な検討が必要だ」と訴えた。「被災地の多くが人口減少局面にある」ことなどを理由に挙げた。復興が本格化する中、無駄な財政支出は避けたいという立場を明確にした(10日付・北陸中日新聞の記事を要約)。

  うがった見方をすれば、そもそも能登は人口減が続いていて人がいなくなる地域なので、そんなところに無駄な財政を注ぎ込むことはない。と言っているようにも読める。記事では、分科会終了後に会長代理の増田寛也氏(日本郵政社長)が「家の片付けが進んでない地域に将来の議論をしようと言っても難しい」と指摘した、という。

  この指摘は言い得て妙な感じもするが、中央の権力者の発想ではないだろうか。地域行政が怠慢だと指摘して、そんな能登に財政を投下する価値はない、と言っているのか。地方消滅論を訴えた増田氏だけに、「消えるべき地域はさっさと消えろ」とでも言っているのか。増田氏をはじめ税制制度等審議会の分科会メンバーには一度、能登に足を運んでほしいものだ。       

⇒10日(水)午後・金沢の天気   はれ   

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★隆起した海岸に道路を新設 「逆転の発想」は成功するか

2024年04月09日 | ⇒ドキュメント回廊

  きのう午前中、鹿児島県大隅半島を震源とするマグニチュード5.1の地震があり、宮崎県日南市で震度5弱の揺れがあった。そして、午後10時29分に能登半島の尖端を震源とするM4.1の揺れがあり、珠洲市では震度3だった。元日の地震から100日目のきょう、能登半島では震度2から1の地震が6回もあった。不気味な日々が続いている。

  輪島の海岸線に沿った国道249号を走り、国の名勝「白米千枚田」の棚田を眺める。次に断崖絶壁の曽々木海岸を見ようと、国道を東方向に走らせる。本来ならば、あの勇壮な御陣乗太鼓の発祥地として知られる名舟町の海岸沿いを通過するのだが、地震で地滑りが起きていて、国道が寸断されている=写真・上=。結局、輪島市街地へ引き返すことになる。

  現場は山の中腹からの大規模な崩落であり、従来の道路の土砂を取り除くだけでは復旧は難しいだろう。この国道249号は能登半島の観光ルートでもあり、復旧・復興に携わる国土交通省とすれば、なんとか車の往来を復活させたいと考えたのかもしれない。そこで、浮かんだのが逆転の発想だった。

  きょう付の地元紙・北國新聞によると、国交省復興事務所は土砂崩れで寸断された国道の海側が隆起していることに着目し、海側の地盤を活用して道路を新設する。新しい道路の延長は800㍍で、うち海側430㍍で幅6㍍の2車線。山と海の両サイドに高さ3㍍の土嚢を積んで山からの崩落と高波の影響を防ぐ、としている。新たな道路は5月のゴールデンウィーク(GW)をめどに供用を開始する。

  簡単に言えば、地震で隆起した海側の地盤は陸になった=写真・下=。だった道路として使おうという逆転の発想だろろ。もし、海のままだったら漁業権などが絡んで易々と事は運ばない。記事を読んでの前向きな感想は、山の崩落現場を眺めながら海道を走行する、じつにダイナミックなスポットではないだろうか。すぐ近くにある千枚田は1684年に起きたと言い伝えのある地滑り地帯で、人々が200年かけて再生した歴史がある。まさに災害史が刻まれた能登のスポットだ。

        素人考えだが懸念もある。日本海の冬の風や波は想像がつかないほど荒れることがある。海沿いの民家では、「間垣(まがき)」と呼ぶ長さ3㍍ほどの細い竹「ニガダケ」を隙間なく並べた垣根を造り、吹き付ける冬の強風に備えている。新しい道路には3㍍の土嚢を積む計画だが、強固なコンクリート壁の方がトライバーも安心できるのはないだろうか。

⇒9日(火)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

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