現在の受講者に限らず、パソコンの操作をするときに、「何も考えていないのではないか?」と、驚かされることがよくある。
例えば、講習の際に「あらかじめ用意してあるファイルを開きましょう」と、テキストで使用するファイルを開くとき、
・「ドライブ内の自分の名前のフォルダを開きましょう」
・「Wordのテキストのフォルダを開きましょう」
・「現在のテキストは5章なので第5章のフォルダを開きましょう」
・「現在のレッスンは30なのでレッスン30のフォルダを開きましょう」
と、順に開いているのだが、章が変わって(または、レッスンが変わって)、同じように「あらかじめ用意されているファイルを開きましょう」と言うと、決って何人かが「えっ、どこから開くの・・・」と騒ぎになる。
検定試験の練習問題でも、同じ。
練習問題の提供ファイルを事前に開くとき、「提供フォルダ」内には「2003用フォルダ」と「2007・2010用フォルダ」がある。
教室で使用しているOfficeソフトは「2007」なのだから、フォルダ名を見れば「どちらのフォルダ」を開かなければいけないか解りそうなものだが、「2003用」フォルダから提供ファイルを開いて「おかしい」と言っている人が一人・二人ではない。
表計算の「グラフ作成」の問題。問題には、完成したグラフが掲載されている。「完成見本」と書いてあるのだから、設問を全てこなした結果、そのようになるという意味であることは、言うまでもない。
しかし、設問の途中までしか解答していない状態で、完成見本と「ここが違う」「あそこが違う」と、そのたびに呼ばれる。
ほんの少し、考えれば解ると思うのだが、それができない。これでは、パソコンを「使えるようになった」とは、言えない。
講習会 → 教わる → 自分では何も考えない
と、なってしまっているのではないだろうか。
「教わる」こともあれば、「自分自身で考える」こともある。それに気づかないと、いけないと思うが、これも「教えなければいけないのか」
みんな、一度は社会に出たことのある「大人」ばかりなのに・・・。
例えば、講習の際に「あらかじめ用意してあるファイルを開きましょう」と、テキストで使用するファイルを開くとき、
・「ドライブ内の自分の名前のフォルダを開きましょう」
・「Wordのテキストのフォルダを開きましょう」
・「現在のテキストは5章なので第5章のフォルダを開きましょう」
・「現在のレッスンは30なのでレッスン30のフォルダを開きましょう」
と、順に開いているのだが、章が変わって(または、レッスンが変わって)、同じように「あらかじめ用意されているファイルを開きましょう」と言うと、決って何人かが「えっ、どこから開くの・・・」と騒ぎになる。
検定試験の練習問題でも、同じ。
練習問題の提供ファイルを事前に開くとき、「提供フォルダ」内には「2003用フォルダ」と「2007・2010用フォルダ」がある。
教室で使用しているOfficeソフトは「2007」なのだから、フォルダ名を見れば「どちらのフォルダ」を開かなければいけないか解りそうなものだが、「2003用」フォルダから提供ファイルを開いて「おかしい」と言っている人が一人・二人ではない。
表計算の「グラフ作成」の問題。問題には、完成したグラフが掲載されている。「完成見本」と書いてあるのだから、設問を全てこなした結果、そのようになるという意味であることは、言うまでもない。
しかし、設問の途中までしか解答していない状態で、完成見本と「ここが違う」「あそこが違う」と、そのたびに呼ばれる。
ほんの少し、考えれば解ると思うのだが、それができない。これでは、パソコンを「使えるようになった」とは、言えない。
講習会 → 教わる → 自分では何も考えない
と、なってしまっているのではないだろうか。
「教わる」こともあれば、「自分自身で考える」こともある。それに気づかないと、いけないと思うが、これも「教えなければいけないのか」
みんな、一度は社会に出たことのある「大人」ばかりなのに・・・。