無教会キリスト者

内村鑑三をはじめとする無教会キリスト者の潮流の一つになれば幸いです。無教会キリスト者の先生方の著作を読んでいきます。

聖霊を穢す罪

2005-03-28 10:53:10 | キリスト教
「人の子、主、聖靈」- 聖靈への罪

「この故に汝等に告ぐ。人の凡ての罪と汚すことは赦されじ。誰にもても言葉を持て人の子に逆らふ者は赦されん。されど"言葉"をもつて聖靈に逆らふ者は、この世にても後の世にても、赦されじ」(マタイ12;31-32、並行記事マルコ3;28-30、ルカ12;10)
(だからあなたがたにいつておく。人には*、その於かすすべての罪も神を汚す言葉も赦される。しかし、聖靈を汚すことは赦されることはない。また"人の子"に對していい逆らふ者は赦される拿をる、しかし、聖靈にいい逆らふ者は、この世でも、來る世でも、赦されることはない」;日本聖書協會譯(いはゆる口語譯)
*人の子、と云ふ記述もある。

前囘uploadした文章で私は上記の言葉を引用しました。
原稿を書いてゐた時點では、特に迷ひもせず書いたのですが、暫くしてこの言葉の解釋について、考へ込んでしまひました。そのため、この文章の解釋についてあらためて稿を起こす必要があると考へました。
私は何故これ程までに、この句に惱んでゐるかと云ひますと、父なる神、主なるイエスキリスト、聖靈は、キリスト教の教義における基盤であり、かつ最難關でもある『三位一體論』との關聯で考へてゐるからだと思ひます。

三位一體論では、神といふのは父なる神、聖靈、神の一人子なるイエスキリストからなるとされてゐますが、これらは根元的には一つである、と考へられてゐます。
さうした前提を考慮した場合、何故、聖靈への冒涜が、他の罪や御父、そして人の子=キリストに對する冒涜が赦されてゐるにもかかはらず、聖靈への冒涜が赦されないのでせうか。
以下問題點を整理します。

神への冒涜、「人の子」に對しての冒涜、凡ての罪、は赦されるが、「聖靈」に對する冒涜は永遠に赦されない、といふ言説に對し、
1)「人の子」=イエスとして讀みうる部分、または單に「人の子」=「人間」として讀みうる部分の神學上の差異について。
2)神、神の子(もしくはメシヤ)としての「人の子」、に對する冒涜は赦されるが、「聖靈」に對する冒涜は決して赦されない、と云ふ言葉の解釋について。
すなはち神、「人の子=メシヤ」、聖靈それぞれの概念上の差異、或いはその解釋や相互聯關について。
3)赦されべかる罪と赦され得る罪について、の三點を擧げます。

これは神學的な問題でもあり、かつ非常に難しい問題です。
各種文獻を繙いてもその解釋をめぐつて樣々な見解があり、本稿では詳細に觸れません。
上記に擧げた問題は、神學上の重要な問題であつたとしても、信仰問題としては、即ち、魂の問題としては、いくら學んでも私のまよひをぬぐひ去ることは出來ないやうに思ひますし、一求道者としてこの問題を考へてみたいと思ひます。
從つて、本稿では文獻學的或いは神學的問題についての詳細な言及は避け、主に信仰問題として、すなはち上記3)について言及するものとします。

その前に「聖靈」についての註解を以下に書します。
*聖靈:世の終はりに、神から與へられると信じられてゐる救拯(すくひ)の靈。キリスト教は、それがイエスの復活で現實と化し、信者には終末の賜の先取りとして既に與へられてゐるとした。パウロは「靈の手附け金」(IIコリ1:22,5:5)とか「靈の初穗」(ロマ8:23)といふ表現もしてゐるが、これらは神の靈の附與がまだ部分的であるといふことよりも、寧ろその”附與の確實性”を云ひ表してゐる。(新約聖書飜譯委員會譯『新約聖書』注より引用、強調筆者)。
 また『聖書事典』(日本基督教團出版局、1969年發行)では、1)舊約聖書に於ける神の靈2)新約聖書に於ける「聖靈」3)ヨハネ文書の聖靈觀と三區分し、それぞれについて詳細に書かれてゐます(ここでは詳細を省きます)。

 文獻學的な背景を述べれば、マルコ福音書第三章28-29節は、本來現在の前後關係とは全く無關係な別個の言葉であつたものを、マルコが編輯する際にここにまとめたものであると考へられてゐます(30節も同樣に後に附加されたものとかんがへられてゐます)。その理由として、ルカ福音書の並行記事である12章10節がマルコ福音書とは全く異なる文脈の中に置かれてゐることによつて説明することができるといひます(豐田)。またマタイ福音書でもマルコ同樣「ベルゼブル問答」の中の言葉として收められてはゐますが、塚本譯*1*2、(及び新英譯聖書)ではともに行があらためられてゐます。これは文脈上の續き工合に問題意識を持つてのことでさう(豐田)。
『マルコ福音書註解』豐田榮著、丸の内聖知會發行、P.23-30より

 しかしマルコは、三章30節に「(イエスが)かういはれたのは、彼等が聖靈によるイエスの業をののしつて『あれは穢れた靈に憑かれてゐる』と云つたからである」といふ編輯上の加筆を行つて、28節以下を、22節の「あれはベルゼブルに憑かれてゐる」といふ聖書學者の言葉に、しつかりと結びつけてゐるのです。
 *1「アーメン、私は云ふ、人の子らの犯す罪も、また、いかなる冒涜の言葉でも、凡て赦していただける。しかし聖靈を冒涜する者は永遠に赦されず永遠の罪に處せられる。」かういはれたのは、彼等が聖靈によるイエスの業をののしつて、「あれは穢れた靈につかれてゐる」と云つたからである。塚本譯マルコ三章28-30節
 *2あなた逹は神の靈をベルゼブルの働きとののしつた。だから私は云ふ、人の犯すいかなる罪も冒涜も赦していただけるが、御靈の冒涜は赦されない。人の子私を冒涜する者ですら赦していただけるが、私を以て働く聖靈を冒涜する者は、この世でも來るべき世でも決して赦されない。塚本譯マタイ十二章31-32節

マタイ傳では、ベルゼブル問答に續く形でこの文章が置かれてゐます。
また、マルコ傳においても、引用部の前後に「かういはれたのは、彼等(=聖書學者)が、聖靈によるイエスの業をののしつて、『あれは穢れた靈に憑かれてゐる』と云つたからである、とベルゼブル問答の文脈で語られてゐます。

最近出版された新約聖書飜譯委員會による新譯聖書によれば、
「この故に、私はおまへたちに云ふ。人間たちは凡ての罪も冒涜も赦されるであらふ。しかし靈[へ]の冒涜は、赦されることがないで在らう。また〈人の子〉に敵對して言葉を語る者は赦されるであらふ。しかし、聖靈に敵對して[言葉を]を語る者は、この世でも、また來るべき世でも赦されることはないであらふ。マタイ12;31-32(新約聖書飜譯委員會譯:岩波書店;括弧などは原文の儘)
ベルゼブル問答において重要なのは、イエスが誰に對してこの言葉を話したか、といふことでせう。この言葉はファイサイ派の學者逹、すなはち、「私逹はけして罪を犯さず、また神を知つてゐます」と考へてゐる人々、ある意味、「傲慢」といふ最大の罪をなしていながらそれにさへ氣附かずに居る人々に向けて話してゐると云ふことではないでせうか。

人が犯したる最大の罪は、神から離れ、我を神の如く振る舞ひ、罪を罪とも意識しない、闇の中を生きることです。聖靈は、罪にまみれた私逹を神のもとに立ち返らせ、私逹を導くものです。内なる神の聲(生けるイエス=キリストの語りかけ)を無視し拒絶すること。聖靈を涜す罪とは、この内なる導き=光を感じていながら、「私はそんな光は知らない」といふこと、といつてもいいかもしれません。
私逹にとつて、この内なる聲=聖靈の導きを無視して生きることは、罪の中でも最大の罪なのでしょう。

 
 

[キリスト教十講]「信仰の冒険性」

2005-03-20 08:22:59 | Weblog
前書

この[キリスト教十講]は、内村鑑三の弟子である塚本虎二の著作で、1949年聖書知識社より刊行された初心者向けの小冊子です。
初心者向けといっても、その内容は深遠かつ情熱的、熱狂と冷静、沈思、愛と信仰、時にユーモアに滿ちた真摯な、或いは、命がけで神に向かう姿勢、そして塚本自身の信仰告白ともいえる素晴らしい内容になっています。
とりわけ本稿は、塚本独特の語り口が冴える稿です。私は感慨深く読みました。
著作権上の問題から、抜粋引用、抄讀という形をとっています。
引用部は括弧でくくる等わかりやすいように表記してあります。基本的に旧仮名遣いはあえてそのままで、わかりにくいところのみ括弧で補足しました。
また文意を損なわぬよう細心の注意を払いつつ、若干編集を施しています。

ご興味を覚えた方は、是非原書を繙くことをお奨めします。
本稿は全十講の第六講にあたり、いよいよ大団円に向かい、緊張感に滿ちた文章になっています。

御意見御感想をおまちしております。(K)

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[キリスト教十講]、塚本虎二著、聖書知識社(1949年発行)、P.49-59より
第六講「信仰の冒険性」

「キリスト教にいふ信仰とは何であるか」、これが今回のテーマである。
まずはここでキリスト教の教義の根本といわれる使徒信経を引用する。

「普通に信仰とは、使徒信経にある条項を信じることであるとされる。
以下使徒信経を列挙する。
一  我は天地の創造主、能(あた)はざるところなき、父なる神を信ず。
二  我はその獨子、我らの主イエス・キリストを信ず。
三  彼は聖霊に依りて孕(はら)みし処女マリアより生まれ、
四  ポンテオ・ピラトの時苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、陰府(よみ)に下り、
五  三日目に死人の中より甦り、
六  天に昇り、能わざるところなき父なる神の右に座し
七  彼処より、生ける人と、死せる人とを裁判(さばき)せんために來たり給ふ。
八  我は聖霊と
九  聖なる公会と、聖徒の交わりと、
十  罪の赦しと
十一 身体の蘇りと
十二 限りなき生命とを信ず

以上がキリスト教の大憲章(Magna Charta)であって、カソリック・新教(プロテスタント)を問わずあらゆる教会を通じて、だいたいその信仰告白の基準をこの信経においている。たぶんこれ以上完全簡明にはキリスト教の根本義を言い表し得ないであろう」。
「しかしながら信仰信経の承認は信仰ではない」
これは、私達の信仰生活において、最も陷りやすい誤謬である。
聖書には、「『悪鬼も亦信じて慄(わなな)けり』(ヤコブ書二章十九節)とあるように、悪魔、悪鬼すら神を認め、キリストを神のこと認める。悪魔が神の存在を知り、キリストを神の子と認むるばこそ、彼はキリストを誘惑したのである(マタイ伝四章一節以下、十六章二三節等)。また悪鬼はヨハネ、ペトロよりも前にイエスが神の子なることを前にイエスが神の子なることを告白した(マルコ傳一章三四節、三章一一節、五章七節以下、ルカ傳三四節等)」ゆゑに、「キリストが神の子であることを承認することが信者の資格をつくるものであるならば、私達は悪魔にも悪鬼にも洗礼をさづけねばならないであらう!」
 塚本は信仰信経それ自体を否定しているのではない。
「信仰信経に列挙された事項はみな事実である。今こそ私達の目に見えないけれども、神の前に於いて凡て明白な事実である。私達も神の前に立つ日、凡てが事実であることを知りうるであろう。神のい給いしやと、あるひはキリストがその獨子であり、(処女から生まれ給うたこと)復活し給うたこと、永遠の生命の存在することなど、現在の私達にその有無は知り得ないけれども、もしこれが事実であるならばいつか明白にあるべきである。私達が、これを承認するも、しないもない。事実は事実である。そしてかかる(このような)事実を承認するか否かによって人間の運命が左右されるとはあまりに不合理である」。

では、信仰とは何であろう?
「信仰とは信頼である。愛である。神を愛し、彼に全幅の信頼を投げかけることである。冷たい事実の承認ではない。暖かい愛の信頼である。愛であり、信頼であるが故に、そこに道徳的価値を持つ。私が父の善き子であるのは、父を父として認めることではない。父を愛し、彼に子たるの信頼を投げかけることである」。
「ゆゑに使徒信経のまる飲みは決して信仰ではない。
信仰とは、”父なる神を愛し、信じ、任せ、たとへ神、われを殺し給ふとも、彼により頼むことである。何の証明も、根拠も、理由もなく、ただただより頼むことである。神が神として分かったから信ずるのではない”」。
キリストが神の子であり、十字架の血が私達の罪をあらふ理由が説明されずとも、分からずとも、いな、説明されず、わからぬから(こそ)信ずるのである。ゆゑにこれを信ずるといふ」(強調筆者)。

「信仰が愛であり、信頼であることの第一の結果は、信仰の冒険性である。神亦はキリストがわかつて信頼するのでなく、"わからないのに信頼するから、信頼にはつねに大きな危険が伴つてゐる"。私達は神の愛を信じ、彼に生命までを投げかける。しかし神が果たして存在したまふか否か、彼が愛なる父であり給ふか否かはわからない、ゆゑに私達は全生涯を棒に振るかも分からないのである。大馬鹿を見ないと何人も保証することは出来ない。ゆゑに大なる冒険である。ヨハネもパウロも神を信じ、キリストの十字架を信じて、全生涯をそのために献げつくした。あらゆる患難迫害と戰いつつ遂に殉教の死を遂げた」(""部原著では傍点)。

 「信仰の冒険性」この暗闇への跳躍がなければ、私達は信仰に信入することはできない。
 神の存在証明は不可能だ。また「十字架の贖罪の真理」がこの世の知恵で証明されることもないだろう。たとえそれらが「事実」であるとしても。

「ゆゑに、ヨハネもパウロも、或いは全然その全生涯を棒に振ったのかもしれないのである。まさにのるかそるかの大きな一六勝負を彼等はやつたのである。この冒険をあへて(あえて)する勇気のない人は信仰生涯に入る資格のない者である」と塚本は喝破する!
 内村鑑三は、「十字架の贖罪は事実である、それ故それは実験せられれねばならぬ」と言っている(「聖書知識」聖書知識社、または内村鑑三全集第十五巻(岩波書店)、「パウロの贖罪論」所収)

 本講において塚本は、この信仰を人生に於ける"実験"だという。また生きることそのものが信仰である、と言っているようにも思える。 
 「神に対する信仰も人格者と人格者の関係である以上、同じく愛であり、信頼でなければならぬ」と塚本は云う。そして「さんざん神を研究しつくした上で、これならば大丈夫といつて信じようとするやうな(ような)”横着者”には神は決してその心を開き給はない。神はそんな奴の信仰は”まつぴら”だと言ひ給ふ。私も私を研究した後で友誼(ゆうぎ)を求めてくるやうな不信の友人は”まつぴら”である」
快哉!。

私達は、根拠のない世界に生きている。
確実なものなど何一つもなく、凡ては生々流転する世界である。
この世界は、靜かな池の表面のようである。流れねば澱む。澄んでいれば世界が映る。私達はその投射された世界を眺めている。しかし、それは、世界-本当の世界だと思っている世界-ではない。
風が吹き、池の表面にかすかなさざ波を立てたとき、風(空)が何であるかを知る。だが、その風はどこから来て何処へゆくのかも知らない。


塚本はここで、内省的に告白するように私達に話しかける。
「信仰は命がけである。……私は未だに神がゐ給ふか否か分からない。たぶん永遠に分からないであらう。私はたびたび神はいまし給はないのではないかと思ふ。……正直な告白である。世の凡ての人が私をすてさつても、私は神により頼む。それが私の信仰である」。
「世に信仰を求むる人は多い。その熱心と正直とを私達は知つてゐる。しかし彼等の求めつつある者は、實は信仰ではなくて知識である。またこれを求める手段をあやまつてゐる。……神は愛であり、愛は愛と信頼によつてのみわかるからである。たびたび言うたやうに、知って信じるのではない。信じて後に知るのである(ヨハネ傳六章69節)」。
 我を愛する者は我が父に愛せられん、我も之を愛し、之に己を顕すべし(同十四章21節、十五章14-15節)


何一つ根拠がないのであれば、人生を棒に振ってもいいのではないか、とも思う。
如何に説明しようとも、研究しようとも、わかればわかるだけ飛びにくくなるだろう。
そう、わかればわかるだけ、飛びにくくなるだろう。
マルコ傳九章22-24節
「我信ず、信仰なき我を助け給へ」

[キリスト教十講]「罪を脱する途」

2005-02-05 11:13:03 | Weblog
『キリスト教十講』塚本虎二著 聖書知識社 1949年発行 P.31-40より
第四講「罪を脱する途」

 前稿において塚本は「罪とは何ぞや」と説いた。
「罪とは個々の行為ではなく、神を離れ神を神として認めず、これを崇めないで生きることである」と塚本は云う。ではどうすれば私達は罪から脱することが出来るのか?
 本稿では、罪を脱することを説く。
 前稿で記述した如く、如何に修養努力によって善を積み重ねたとしても、「神よ、我は他の人の、強奪、不義、貫通するが如き者ならず」(ルカ傳十八章十一節)という、罪の親なる傲慢が残る、と塚本は説いた。
 さらに塚本はこう説く。
 「最も完全に罪を脱し得たりとおもふとき、(傲慢という)最も大きな罪が残る。これでは脱罪手段の本末転倒である。ゆゑに真面目に罪と戰ふ人は、必ず最後にパウロとともに「ああ、私はなんと慘めな人間であるか!誰がこの死の体から私を救ってくれるのか!」との悲鳴をあげざるを得ない。この絶叫を知らぬいかなる聖者も道徳家も、それは道徳的鈍感者である」
 それでは、そうすれば私達は罪から完全に離脱しうるのだろうか。
聖書は私達にこの途を示す。塚本曰く
 「罪とは神より離れてゐる事である。これが罪の原因である。否、罪自身である。故に私達が神に帰り得るならば、その時完全に罪から離脱し、過ぎし日の凡ての罪のくらい影は消え失せ、もはや二度と罪を犯さない、また犯せない人となるであろうと。私達が再び神に帰ることを聖書は『神より生るる」と言ひ、『主に居る』といふ。ヨハネが『主に居る者は何人も罪を犯さず』(第一ヨハネ三6)『神より生るる者は何人も罪を行はず、……罪を犯すこと能はず』(同三9)といふのはこの故である」
 即ち、神に帰ることが罪を脱する途である。しかし、これは、如何にして神に帰るか、言うが易し行うは難しである。
 塚本はこういう。
 「もし一朝の決心努力で神に帰りうるのならば、はじめから神を離れなかつたであらう。神を離れたのは、人が自ら神とならう(なろう)という大慢心を起こしたからであり、これは人の犯しうる最大最重の罪を犯したことと同じである。ゆゑにこの大慢心が粉砕せられざる限り、私たちは神にかへることはできない」

 私はこの文章を読んで、これはある意味クリスチャンに特有の罪観念なのではなかろうか、と考えた。傲慢や慢心という罪は、キリスト者であるなしに關わらず、人間が陷りがちな闇である。闇を闇とも認識できない闇である。しかし、神と自らを同じくするというのは、神を知らないものと神を知っているのに目をそむけているものとのあいだでは、この言葉は異なって響くだろう。
 また、哲学者ニーチェを思いだした。
ニーチェは、『アンチ・クリスト』『ツァラトゥストゥラはかく語りき』等、西洋思想史におけるキリスト教の教義を、ルサンチマン思想であるとして、痛烈な批判を繰り広げた哲学者である。私は、ニーチェの諸作品を読むとき、とりわけ、上記に記した書を繙くと、ニーチェはキリストになりたかったのではなかろうか、と感じる。

私達が、ルカ傳十五章十一-二四節の放蕩息子の喩えにおける次男のように、父の元へ帰る亊が出来るためには、何が必要か。そして何を知らないのか。
塚本はこういう。
 「自己に対する絶望、それが神発見の唯一の道である。自分を放り出すまでに自分に愛想を尽かし、捨て鉢になるまでは神に帰り得ない。従って神を信ずることは最大の冒険である」
 別の見方をすれば、絶望にいたり、死にいたってはじめて私達は再生(蘇生)することができるのである。そして、死と再生への途は、父なる神、主イエスキリストの導きにあるはずである。喩え、それがどんなに、この世的には、不幸であったとしても、そこに救いがあるはずである。暗闇へ跳躍するためには、私達の闇を認識しなくてはならぬ。そして、自ずから「私」を捨て去ること、私を失った後に主がはいりたまうことを祈るのみである。
 

[キリスト教十講]「罪とは何ぞや」

2004-12-10 05:33:22 | Weblog
前口上;前回に引き続き塚本虎二著『キリスト教十講』(聖書知識社)を読み進めていきます。
だんだん文章が長くなる傾向になりつつありますが、お付き合い願えれば幸甚です。
また、御意見、御感想お待ちしております。宜しくお願いいたします。
(K)

塚本虎二『キリスト教十講』聖書知識社、昭和二十四年四月十日第二版発行より
「罪とは何ぞや」

 前稿につづき、塚本虎二著『キリスト教十講』聖書知識社、昭和二十四年四月十日第二版より『キリスト教十講』より「罪とは何ぞや」を読んでゆく。
 前講「キリスト教の本質」において、塚本は「人類は罪の結果一人の例外もなく死の運命をになつている。神がこれを憐れんで、獨子(ひとりご)イエス・キリストを与え、彼を信ずることによって、この死よりまぬかれ永遠の生命に入る途をきき賜うた。これがキリスト教である」
と述べた。
従って、もし罪という概念がなければキリスト教は破綻し、「根底からくつがへる」だろう。*1同書22頁
 罪という概念は、凡ての宗教に於いて共通に見られる要素である。
キリスト教では「凡ての人が罪を犯し、一人の例外もない、そして罪の結果として死が人類に望んだ。ただ肉体の死ばかりではなく、第二の死と云われる'霊魂の死'(ロマ六23、黙示録二十11以下)までもが、罪の結果としてあらはれる」*2同書頁23、また「亊の当否は別としてこれがキリスト教の教義である」と塚本は云う。

 聖書の云う罪とは何か。
マルコ傳の罪についてのカタログによれば、「淫行、窃盗、殺人、姦淫(かんいん)、貪り、邪曲(よこしま)、詭計(たばかり)、好色、嫉妬、誹謗(そしり)、傲慢、愚痴」とある。
聖書の云う罪とは、一般に謂われる罪ではない。法律でも律法でもない。
むしろ一般の罪は「罪それ自体の末梢末端」でしかない*4同書27頁。
塚本は「殺人、強盗といふやうな、この罪、かの罪ではない。神に対する私たちの誤つた心の態度、傾向の謂ひである。神を神として崇めず、神に対して信従の態度に出でず、傲慢叛逆の態度を持すること、これが罪である」という。
即ち「神に背いたことが罪であり、罪の元である」というのである。

 聖書には「おほよそ兄弟を憎むものは即ち人を殺すものなり」(第一ヨハネ三15)とある。
また、「人、律法全体を守るとも、その一つに躓かば(つまづ)、是(これ)凡て(すべて)を犯すなり。それ『姦淫するなかれ』と宣給ひし者、また『汝殺すなかれ』と宣給ひたれば、なんぢ姦淫せずとも、若し人を殺さば律法(全体)を破る者となるなり(ヤコブ二10-11)」*3同書27頁とある。
 このように聖書で述べられているイエスや使徒の教えは、きはめてラディカルである。誤解を覚悟で言えば、きはめて乱暴と言ってもいいかもしれない。
 ナザレの人イエスは、当時のユダヤ教におけるあまりに形骸化した律法主義に対し、強烈なアイロニーを交えてこれを徹底的に批判しつくした。
上記の'人を憎むものは殺したことと同罪であり'、また'情欲の目をもって女を見たものはそれを姦淫したものと同罪である'、といったように。
しかし、それにもまして重要なことは"イエス自身は單に律法主義を批判するために來たのではない"と言うことである( 強調筆者)。
「私が律法や予言者を廃するために來た、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するために來たのである」(マタイ五17)という言葉に、イエスの意志は明確に顕されている。

 従ってキリスト教に於ける最大の罪とは、「この故に汝等に告ぐ、人の凡ての罪とけがすことは赦されじ。誰にても言をもて人の子に逆らふ者は赦されん、されど言葉をもて聖霊に逆らう者は、この世にても後の世にても赦されじ」(マタイ十二31-32、並行記事;マルコ三28-30、ルカ十二10)(「だから、あなた方に云っておく、人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も許される。しかし、聖霊を汚す言葉はゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は許されるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、來たるべき世でも、ゆるされることはない」;口語訳)と言う言に集約されうるだろう。

 罪から逃れるためにはどうすればよいか。このテエマについては、次回にまた触れるため、ここでは簡単に触れるにとどめる。
普通の修養では、「肉欲を断つことに始まる」*5同書28頁。しかし塚本は、「是はただ果実をもぎ取るだけであつて、永遠に罪の果実は実ると言う本末転倒のやり方」である、と断言する。何故ならばいかなる超人的な努力でありとあらゆる罪を「浄煉しえたとしても、その後に最大の罪、罪の親なる傲慢」が殘るからである*6同書29頁。
「神よ、我は他の人の強奪、不義、姦淫するが如き者にならず」(ルカ十八11)との「傲慢」が残るからである。是は世のクリスチャンを自称する者の、最も注意しなければならない躓きである!クリスチャンであるとして、人を裁く者がある。一体どういう亊だろうか?また、クリスチャンでなければ救われない、と断言する者もいる。果たしてそうだろうか?私はいぶかる。教会に属していなければ救われないと言うものもいる。ここまでくれば、本末転倒である。

 故に「キリスト教は普通の道徳修養と正反對の途を教える。
まづ初めに傲慢、即ち神を神として認めぬ罪、神の全智全能全義を信ぜず、自分を神の地位に置かんとする最大最悪の罪、罪の罪を根絶すべきを求める。神の前に屈すべく亊を求める」。

要するに「キリスト教における罪とは、父なる愛の神に対する不信頼、不従順」であり、「傲慢であり、大慢心」である*7同書29頁。
 このキリスト教に於ける罪概念と罪悪感に関しては、ルカ傳十五章の放蕩息子の喩えに、美しく描かれている。父なる愛の神から離れて、背いて遠い国へゆき、財産を放蕩し、雑穀を食す慘めな状態から、父のもとへ帰ると歓待し赦していただける。
遠い国で雑穀を食す慘めな状態が即ち罪の状態であり、罪の本源である。この本源を断たぬ限り、「次の瞬間には悪鬼はより惡い七つの悪鬼をつれて来るであらう(マタイ十二45)」*8同書30頁と塚本は、聖書は言う。

 どんなに超人的な努力でも救われない。ならば我々は如何にすべきか?
敬虔かつ熱心なユダヤ教とであったサウロ(パウロ)は、キリスト教との弾圧の最中も、自身の吸収呼吸した思想、信条に曾って行動しているにもかかわらず、どうしても、どうあがいても、抜け出すことの出来ぬどうしようもない絶望を感じることがあったのではなかろうか?

 塚本は、聖書は、そしてパウロは言う。
「克己といひ、修養といひて、痩せ馬の如き自分に鞭打つつある人々を見るとき、私達の眼に涙がにじむ。彼等の誠実と熱心を尊敬する。しかしそれは愚かなる熱心である(ロマ十10以下参照)。生命の父なる神より離れた叛逆の子に生命はあり得ない。雑穀を、飼料を食する人類に「力」のあるはずがない。自ら鞭打って鞭打つだけ自分の力は衰えていくだろう。そしてつひにはむち打つ力すらなくなるのであらう」

「強い人は自分に頼る故に弱い、弱い人は神に頼る故に強い、神の弱いのは人の強いよりも強いからである」(コリント後書十二10).
このアンビヴァレンツこそ、傲慢という罪を克服し、神に屈す我等人類の生くる途であり、光である。

以上で第三講義を終わる。

ML; 無教会キリスト教ー土曜学校
http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageListForm/mukyoukai@freeml.com

 

[キリスト教十講]「キリスト教の本質」

2004-11-24 06:26:59 | Weblog
「キリスト教の本質」
(塚本虎二、『キリスト教十講』、聖書知識社より)

 塚本虎二の『キリスト教十講』は、キリスト教への入門書です。
ですから、全集に比べ表現は平明かつわかりやすい書物ですので、とっつきやすいかと思います。今回読んでいくのは、1949年に聖書知識社から発行された古い本です。また『キリスト教十講』は『塚本虎二全集続第二巻(聖書知識社)』に所収されています。
 本稿は上記前掲書の第二講にあたります。第一講では、塚本自身がキリスト教を信仰するに至る過程が記されており、その記述そのものはdirectかつexcitingなのですが、今回はその部分を省き、第二講から読み進めます。

 塚本はキリスト教を知る、ということについて、下記の如く云う。
"神はすべての人が容易にキリスト教の精神を了解しうる途を備え給う。また、愛である神は私たちに不可能を強い給はない。よって、聖書のどの一書、一章、一節、一句からでも直ちにキリスト教の大精神に達することが出来る。
しかし、舊新約聖書の中で、最も完全かつ正確に、また最も簡単、平明にキリスト教の本質を表す箇所を求めるなら、ルカ傳十五11-32、ロマ書三23-26、ヨハネ傳三16の三つであろう(著者一部編集)"。
 このうち、今回はヨハネ傳三章十六節をとりあげる。これは、塚本が記す如く"ルカ傳の平易さと、ロマ書の正確とを兼ね、しかも三者の中で最も簡単である。(中略)きはめて平易なギリシャ語二十五字のうちに、キリスト教の全精神を盛り尽くして余すところがない。神の霊に動かされずして、何人にこれが出来よう!"という理由に依る。

 「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり。すべて彼を信ずる者の滅びずして永遠の生命を得んためなり(神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じるものが独りも滅びないで、永遠の命を得るためである)」(ヨハネ三23-26 文語訳及び口語訳、日本聖書協会刊)
聖書のこの部位を読むにあたり、必要な歴史的背景とその問題点(躓きやすい處)を簡単に記述する。

塚本は云う。
 "第一に、ヨハネはイエスをもって神の独り子だという。神の存在論では、(神の存在は、いまだ)かつて証明出来得なかった*。また、むしろ申命記六4(「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」)に在るが如く、ユダヤ教の原理、即ち神(ヤハウェ)は唯一である、と矛盾する。
 第二に、ヨハネはイエスが殺されたことを説明して、神が人類を愛する余り、これを人類に賜うたのであるという。神が愛であるということはどういうことだろうか。
 そして第三に、"最もおかしいのは、かく独り子を与え給うのは、彼を信ずることによって、人類が罪を許されて永遠の滅亡から救われ、永遠の命を与えられるためである、ということである"
ここで塚本が「最もおかしい」とあえて云うのは、本書の持つ性格、すなわち入門書的要素に拠るものである。
 そして、以上三つの問題提示に対し、塚本の答えは明確である。
 即ち、"ヨハネが解釈したとおりこれを事実と認めること。即ち神は存在し給ふこと、イエスが神の独り子なること、永遠の生命があること、人間はこのままでは滅亡すべきものであること、しかし若しキリストを信ずれば、その滅亡の運命から救はれて'永遠の生命に入るをうること(強調筆者)'-これらは単にヨハネの迷信でなく、想像でなく、思想でなく、實に皆そのままに事実であることを認めること"と云うがごときである。その理由として"何故なら、健實な人々がヨハネと同じ信仰とに生き、そのためには'生命を捨てることをすら何とも思はなかった'(強調筆者)、その厳然たる事実を説明すべき途はないからである"と言うことになる。

 また、"単に最も合理的な説明であると云ふだけではない。誰でもキリストを信ずるを得たほどの人は、このヨハネの云うところが皆活きた事実であることを自ら實験しえるのである。また實験しうればこそ、私たちは死をも怖れぬ力を持つのである。'もしこれが一の思想であり、説明に過ぎないならば、何人がそのために磔にされ、火に燒かれることを微笑みつつ耐え忍ばう'(強調筆者)。もちろん私たちもまた人間であり、近代科学を呼吸するものである以上、頭では神の存在、イエスの神性、永遠の生命の存在、罪の許し、というような科学のメスの入らない、試験管の中で実験できないことを疑うものである。しかし如何に私の思想学問が反対しても、自分で実験した神の愛と、罪の許された事実を否定し得ない。私の全生涯がたとえ夢であったとしても、信仰の実験だけはRealな事実である。これは永遠に動かない。学説は動いても、(私の)実験は動かない。天地が崩壊しても動かない。(そして)これがキリスト教である"。

 ここで塚本は、キリスト教の本質へ至るためには、論理でも思想でも行いでもなく、ただ信仰のみが、神を見ることができる、と説く。
 従って塚本が云うキリスト教の本質とは、結局の處、次の記述に集約される。"キリスト教を人の側から見ればただ「信ずる」亊である。ただ信ずることであつて、事業ではなく、修養することではない。ただ信ずることである。故に信ずることが出来るほどの人は「凡て」救われるのである。一人の例外もなしに"『キリスト教十講』塚本虎二 聖書知識社 pp19-20
 以上で第二講を終わる。
 なお、引用は凡て上記前掲書(一部筆者による補足、編集あり)に依る。

最後に、キリストに於ける新生について述べたパウロの言より。 
 「人もしキリストに在らば新に造られたる者なり、古きは既に過去り、視よ新しくなりけり」
(「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」)コリント後書五17

*神の存在論の証明は、二千年もの間、西洋哲学を始めあらゆる知が試みてきたことですが、もちろん証明するに至ってはいません。数学者クルト・ゲーデルに関する書に興味深い書がありますので、余談ではありますが、御紹介します。
ゲーデルの哲学―不完全性定理と神の存在論 講談社現代新書 (1466)
高橋 昌一郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/406149466X/ref=pd_huc_sim_1_1/250-9129025-6923457



ヨハネのロゴス

2004-11-03 18:27:29 | Weblog
『ヨハネのロゴス』
塚本虎二、イエス伝研究第一巻、聖書知識社、pp.297-302より
引き続き塚本虎二全集第一巻より、ヨハネのロゴスについて読み進めていく。(以下特別な引用がない限り、訳文は塚本自身*による。また引用は塚本虎二『イエス伝研究』第一巻、聖書知識社より引用した。また原著での傍点部位は"…"で代用した。また本文中の文献引用は'…'で囲い、特殊な概念及び用語については*注を付けた。)
*新約聖書訳文は全集または『福音書』塚本虎二訳、岩波文庫より引用した。またその他は聖書(口語訳)日本聖書協会より引用した。
******************************************************************************************
一1 (世の)始めに言葉(ロゴス)はおられた。言葉(ロゴス)は神とともにおられた。言葉(ロゴス)は神であった。

 '「言葉」とはギリシャ語のロゴス*(Logos)(ΛΟΓΟΣ)の訳語である。
古典の用法としては言語(Word)及び理性、道理(Reason)の両意を有った。新約聖書に於いては主として前者及びこれに関連した意味に使用される。但しヨハネの書きしものの*1中においては、受肉前及び受肉後の神の子を指す特殊の意義に用いられる(ヨハネ一1,14,第一ヨハネ一1,黙示録十九13)。しかしてヨハネの用いしこの語の意味が言語の意味であるか、或いは道理の意であるかは判明しない。(しかしこれは[…]、ヨハネ福音書了解の上に必ずしも大問題ではない。)'pp.299-300.

ここで塚本が'ヨハネ福音書了解の上に必ずしも大問題ではない'というのは、神学的諸問題よりも信仰を第一義に考えた上での発言である。だからといって塚本が神学的諸問題を軽視しているという意味にはならない。原著において(pp.302)、塚本が述べているように、ヨハネ福音書は、或いはその著者は、'我等をして永遠の命に入らしめんとの、きわめて実際的なる見地、目的より書かれたものである故、幽妙なる哲学論の如くであるこのロゴス問題もまた実際的なもの、すなわち、信仰生活の土台石でなければならない'と云う思考に基づいたものである。

'イエスが懐疑者トマスに「幸いなのは見ないで信ずる人たちである」と云われた。トマスはイエスの手の釘の後にその指を差し入れ、その脇に手を差し突きこんだ後、始めてイエスを主なりと信じた。(また)ヨハネは三年の間親しくイエスに聞き、彼を見、手触りしたる後に始めて彼を神の子「命の言(ロゴス)」なりと信じた(第一ヨハネ一1)'と例を挙げ、'我等は彼に習うてはならぬ'と言っている(引用部著者一部改変)。
 塚本はその信仰のあり方として、親鸞聖人の言を引用して云う。
'弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや……'。すなわち、'天より下りし神の子がこれを証言し、また彼に指示し、不信の三年を過ごしたる後、遂にそれを信じたる使徒たちが我等に証言を為す以上、我等は默って信ずべきであり、これこそが真の信仰である'という。

「幸いなのは見ないで信ずる人たちである」これほど単純かつ難しい言葉はあるだろうか。

 'ヨハネ福音書の序言は三つの部分からなる。第一(1-5)は言葉(ロゴス)の何たるかを言うものである。イ)言葉と神との関係(1)、ロ)言葉と宇宙との関係(2-3)、ハ)言葉と人類との関係(4-5)に三分される。第二(6-13)は、人類が言葉に対してとった態度を書いたものであり、洗礼者ヨハネの証明(6-8)と、言葉に対する人類の信、不信の姿(9-13)を述べる。最後に第三(14-18)は、言葉の受肉について語り、自らの実(体)験を述べている。
 'ヨハネのキリスト観、宇宙観、人生観、罪悪感、救拯観、その他全ヨハネ思想、ヨハネ神学の精髄を、純ヨハネ的形式に盛りしたのであって、まさにヨハネ福音書中の圧巻であり、全聖書中においてもまたこれに類比すべきものを見ない'と塚本は云う。
 
 'ヨハネのロゴスとは、旧約聖書ならびに旧約以降の文学に表れる"人格化された神(ロゴス)(傍点筆者)**"の思想を仮用し、これにヨハネ独特のキリスト観を盛り込んだものが、ヨハネのロゴスであろう'、と云う。
 **
 更に塚本は'言葉は思想の発現であり、思想は言葉を持って自己を外に顕す。かくの如くキリストは神の言である。神の思想、或いは"神自身の発現(傍点筆者)"である。[…]神を知るの途は"その言葉なるキリストによる他はない(傍点筆者)"。最も完全なる神の「言葉」はキリストであり、彼を見ることは神を見ること、彼を聴くことは神ご自身に聴くことである'(参照:ヘブル一2,ヨハネ十四9)という。
 再び塚本の講義本文に拠れば、'ヨハネにとってナザレ人イエスはただの人ではなく、永遠の昔より存在し(ヨハネ八58)、彼は神の意志と思想と性質とを完全に表顕される。故に彼はロゴスである。神の言であるが、"彼は神ではない、神とは別個の人格者である(傍点筆者)"。しかし、彼は神と偕におり、神の「懷(ふところ)」にある。それほどまでに彼は神と近い関係にあった。然り彼は神であった。"神と同質(傍点筆者)"であった。天地万有ことごとく彼によりて創造られた。しかして神と均しき彼は、その光と命を、その創造られしものに与えられた。ここにおいてか、この世に命があり、人に光がある。しかして最後にこのロゴスが肉体となりて、我等人類とともに住むに至った。それがナザレのイエスである。'(著者一部編集)
 上記にて塚本はヨハネを通して、神の顕現であり、受肉した神=イエス・キリストを告白する(参照:ヘブル一2)。
 以上がヨハネのロゴスに関する塚本の講義である。

*ロゴスについて
 聖書事典に拠れば、'ギリシャの哲学的伝統に於いては一般に世界内の諸現象の法則性を示す概念的言葉であり、ヨハネの言葉とは内容は全く異なる。(アレキサンドリアの宗教哲学家である)フィロンの哲学やストア派に於いてもこの語は重要な語であるが、そこでは"神の知恵"を人格化したものと見られるものでヨハネのものとは異なる。ヨハネの言葉は寧ろヘレニズム期の二元論的グノーシスの用語に近く、人間の救済のために下降する救い主として理解される。しかしその場合でも、ヨハネの言葉は、現実にイエス・キリストという歴史的人格に於ける受肉を前提としている限り根本的な差がある。すなわち、ヨハネの言葉(ロゴス)は、ロゴスの受肉の前提として、"先在するキリスト"である。それは一つの概念語ではなく、歴史の中に現実となった神の人への語りかけ、"神の自己啓示の証言"なのである。ロゴスはまさに自ら主体として神との応答に於いてある"人格"であり、三一(三位一体)に基づいた神(についての)の理解に於いて把握されなければならない'(傍点筆者、括弧内は著者追補)。
 このように古代ギリシャ的タームであるLogosと、ヨハネの用いたこのLogosは、神の知恵という言説ではなくして、神そのものの存在を示していると考えられる。また上記でグノーシスの関連が述べられているが、ここでは、古代ギリシャ的思想よりは、後記ユダヤ教の黙示思想、神秘宗教、イランの宗教およびギリシャ的・ヘレニズム的哲学の要素を含んだグノーシスに、やや近い、と考えるべきで、ヨハネ或いはヨハネ傳そのものがグノーシス主義的ではなく、非ギリシャ的であり、いわば親グノーシスと考えるべきだろう。しかし、現段階に於いて私はグノーシスについて語る準備がない。

**神の人格化に関して
『(世の)始めに言葉(ロゴス)はおられた』、この言葉を読む場合には創世記第一章を念頭に浮かべることが必要となる。ヨハネは創世記の記事に対応する意味においてこの言葉を使用したと考えられている。創世記一1によれば太初「光在れ」といえば光が存在したように、すべての存在(被造物)は、神の「言」によって創造せられたものであり、更には、神の言が宇宙万物よりも前にあり、従って神の言は「無始」である、と考えられる。すなわちこの「言」は「太初に」永遠の始めより存在したのである。
 ヨハネ傳の冒頭の序詞(一1-18)は、この言が如何にして自己を顕現せしかをを記載しており、キリストの受肉および"キリスト者の新生"は創世記の天地創造の記事に対応すべき新天新地の創造記であると理解することが出来る(以上『註解新約聖書 ヨハネ傳』黒崎幸吉、立花書房より抜粋引用及び一部編集)。

ヨハネ福音書の読み方

2004-09-02 20:05:15 | Weblog
ヨハネ福音書の読み方

今回はヨハネ福音書(以下ヨハネ伝と表記する)の読み方についての塚本の講義から学ぶ。
(以下引用は特別な記述がない限り、塚本虎二「イエス伝研究第一巻」聖書知識社より引用するものとする)

「もしある暴君があって、聖書をことごとく壊滅することに成功したとしても、ロマ書とヨハネ伝とが一冊残存するならば、キリスト教は決して消滅しないだろう」と改革者マルティン・ルターが言ったと伝えられている*1。また「ロマ書が書簡中の書簡ならばヨハネ福音書は福音書中の福音書である」と塚本は云う。

一方田川は*2「ヨハネ福音書は(イエスを知るための材料としては)間接的には考慮すべきではあるものの、イエスを知るための資料としては直接的にはなり難い。(なぜならば)福音書という様式を借りて著者が自分のかなり特殊な宗教思想を展開しているからである」と云う。
*1「イエス伝研究」塚本虎二著、聖書知識社、pp.291
*2「イエスという男」田川建三、三一書房(1980年初版本より引用、pp.24)

ここで簡単に福音書の成り立ちについて田川の論文*2から引用すると、「近代の聖書文献学をおおざっぱに要約すれば、イエスについての言い伝えは、イエスの死後、いやおそらく、生前から口伝伝承により、あるいは噂話として、様々に伝えられ、様々に変化し、部分的に大きく改善されたものもあれば、伝説的に創作されたものもある。それがイエスの死後二十年ほどして、二つの文書にまとめられた。一つはマルコ福音書で、是は一人の著者の意図的な著作である。もう一つは、今日では失われてしまっているけれども、マタイらが共通して利用した資料で、論語と同じような形式でイエスの言葉だけを羅列していった語録(通常Q資料と呼ばれる)であって、これは一人の著者の作品ではなく、そもそも一個の完結した文書であるというよりも、だんだんと成長していった物で文書となってからも、さらに次々とイエスの「言葉(ロギア)」が書き添えられていったものであろう。だから是は、原始キリスト教団の教壇体制が生み出していった文字通りの資料集である」と考えられている。

以上の田川の言説はいわゆるQ資料および最古の福音書であるマルコ伝にいたるまでの過程を描いたものである。なお今回、本稿では、各々の共観福音書の違い、またその成立および神学上の差異については詳述しない。

塚本は、ヨハネ福音書について、福音書中の福音書であるのみならず、「ある見方によれば新約聖書の絶頂」であるという。塚本は以下のように云う。
”キリスト教はヨハネにおいて花咲いたということができる。何故ならば、その書かれし年代において、これが新約聖書中最も新しきもの、すなわち、キリスト教の最も円熟せし時に書かれしものであることは、今日の学者の等しく認むる所である。共観福音書的キリスト教と、パウロ的キリスト教とが合流してヨハネに注入したと云うことが出来る。故に三福音書とパウロを解する者は、必ずヨハネにいたらざるを得ない”

しかし、ヨハネ福音書がこれほど重要な書であるのに反して、一般にはきわめて難解な書とされている。本書の研究が困難である理由は何か。塚本は以下のように記述している。

"本書の著者は果たして何人であるか、使途ヨハネであるか、或いはいわゆる長老ヨハネであるか、或いは他の者であるか。またヨハネの書簡集および黙示録は同一人物による者か、等々。これは新約聖書学上興味深い問題点であると同時に、解決困難な問題である。また三福音書とヨハネ福音書との関係如何.ヨハネ福音書記者は三福音書の存在を知っていたか、もし知っていたとすればなんの殊更にことさらにこれを書いたか、補充、否定、或いは訂正のためか"。(塚本、同書pp.292、著者一部改変)

これは前述引用した田川の論文による「福音書という様式を借りて著者が自分のかなり特殊な宗教思想を展開している」というとおり三福音書とは別の扱いがなされている所以であろうか。
しかしながら、それにしてもヨハネ福音書記者は何のために本書を書いたか、ということは未だ不明瞭であることには変わらない。

また塚本は「ヨハネのキリストと三福音書のそれは歴史的であるか、両者は果たして調和し得べきや。ヨハネ福音書とパウロ書簡との関係如何。また、ヨハネのキリスト論とへブル書のキリスト論との関係如何。(さらに)神秘主義の影響、アレキサンドリヤ哲学との関係如何。彼は何の目的を持ってこれを書いたか。ヨハネのキリストはどこまでがキリストであり、どこまでがヨハネ彼自身の着色であるか、等々、問題は多い。そのためには私たちは永遠にこの書に親しむことはないだろう」と言っている。

ヨハネ福音書と神秘主義との連関については、古くから議論がある。
最近では、カントリーマンが、ヨハネ福音書はヨハネ教団のために書かれた神秘宇主義的傾向の強い書であり、神秘主義の文脈でヨハネ福音書を読む事を提案している(L.W.カントリーマン、『ヨハネ福音書の神秘主義』、教文館)。

ヨハネ福音書の解釈にまつわる多くの問題をあげた後に、塚本はこういう。
「しかし、福音書ならばそんなにむつかしい本であるべきはずはない。神学者の厄介にならず、何人にても容易にこれを読み、これを了解し得べきはずである。私の信ずるところによれば、ある点によれば、ヨハネは新約中最も初学者向きである。何故ならば、まずその用語のなんと平易である事よ、またその表現法のなんと小児らしく単純なる事よ、まさに聖書中の圧巻である。これをロマ書と比較して考えてみるとよい」(著者一部改変)(同書pp.292).

そうはいってもヨハネ福音書の開巻第一に
始めに、言葉(ロゴス)はおられた。言葉(ロゴス)は神と共におられた。言葉(ロゴス)は神であった。…と読み始めると直ちに裏切られる。一体全体何のことかわからない。

故に塚本は「ヨハネ福音書の読み方を知らねばならぬ」という。
一 まず二十一章を除く。(これは'付録'である)
二 次ぎに二十章30-31節を除く。これは本書の目的を書いたもので付言であるからである。
三 次ぎに一章1-18節を除く。これは序論であって、多分ヨハネ(ヨハネ福音書記者)はこれを最後に書いたか、或いはヨハネのキリスト観発達史よりすれば、これが最後に来るべき者と信ずるからである。
かくして、一章19節より二十章29節が残る。これはヨハネ福音書の本体である。而してこの部分は共観福音書と同じく洗礼者ヨハネの出現に始まりイエスの復活に終わっている、而して全体が、前掲のヨハネ福音書の目的に表明されてある如くナザレのイエスが神の子であることを証明せんとすることに始まり、これに終わっている。而して、この本体は第二十二章をもって二分される、一章19節より十二章末節までには、洗礼者の証明に続いていイエス自身の一般人-ヨハネはこれを「世*」という-に対する神の子たる事の証がある。十三章より二十章29節までは、その前半(十二章-十七章)が弟子に対するイエス自身の証、または遺言であり、後半(十八-二十章)は十字架上の死と復活による、神の子たる事の証である、すべてが神の子たる事を証しすることに昇天する、而して、二十章28節の「私の主よ、私の神よ!」なる懐疑家トマスの告白をもって戯曲大団円に達している。(塚本、同書、pp294-295)

*英訳聖書(oxford版)では"world"であり、先にあげたカントリーマンは”コスモス”という訳語を当てている。

このトマスの告白は、もちろんヨハネ自身の告白でもあった。彼にとりて、イエスは人ではなかった。父なる神の懐にいます一人子の神としか思えなくなった(一18)。彼は宇宙開闢の前より神とともにいました舞うた者であり、然り、全宇宙の創造者以外の者ではあり得ない。そうでなくして、どうしてこんな偉大なる能力を持ち得よう、と彼は思うた。

しかし彼は、”世界開闢の対処より神と共に存在し、宇宙万有を創りし人をなんと名付くべきか知らなかった。人類はそれに対する言葉を持たなかった。やむを得ず「ロゴス*」なる語を仮用した”。
*ロゴスおよびヨハネのロゴスについては後述する。

以上が塚本のヨハネ福音書の読み方であり、それは”頗る何でもないこと(原文傍点)“である。しかし”この何でもないことのを解ることは、私にとり、ヨハネ福音書を解ることであった、”と結ばれている。

それにしても、塚本の講義のこの高揚感、この信仰、この熱情はいかなるものにも代え難い。
私は本稿を執筆するに当たって、なるべく塚本自身の言葉を正確に伝えることをまず第一に考えた。
それは、私自身未だあやふやである信仰にいたるための道標であるとともに、塚本の大いなる信仰、そして美文を少しでも、紹介したいという念からである。

次回以降、ヨハネ福音書に関して稿を続ける所存である。




無教会主義

2004-08-04 14:03:40 | Weblog
 今回は「無教会主義」ということについて学びたいと思います。
テクストは矢内原忠雄先生の「信仰と学問-未発表講演集」新地書房を用いました。

 一般的に、「無教会主義=内村鑑三、内村鑑三=無教会主義」と思われているようですが、矢内原先生は"むしろ内村鑑三は無教会主義よりも大きい(存在の)ものである*1"と書かれています。*1同書pp.393-394
 また"無教会主義は信仰の本質から出たものであって、偶然的なもの*2ではない"ともかかれています

*2)彼が無教会を唱えだしたそのきっかけは宣教師や教会側から迫害されたというということも関連しているようである。ここでの偶然的というのは、外的な要素という意味かと思われる。pp.394、著者一部改変

 また無教会主義に対する批判として、"内村の無教会主義は詩的であり(その信仰を)詩を歌っているものであって思想的なものではない。あるいは信仰的な、神学的な、聖書的なものではない。これに対してその弟子たちの無教会主義は神学的で講義的で固いものになってしまっており、(それらは)信仰的ではない"(著者一部改変*3)、というものがあります。*3同書pp.395

 矢内原先生がこの講演をされたのは1961年3月ですが、こういった批判は現在でもあるようです。私自身も実際ある教会の牧師に、まったく同じ批判を受けたことがあります。

 それでは無教会主義の本質とはいったいなんでしょうか。
内村自身は信者のエクレシアのために創刊された雑誌「無教会」の創刊の辞で次のように語っています。

 "これは教会を無視するとか教会を無にするという風に読むべきではなくて、無い教会、教会のないことと読むべきである。教会のないものは、親の無い子供のようにかわいそうなものではないか。それで、この「無教会」という雑誌を出してお互いの愛の交わりをするエクレシアだ"。

 ここで内村先生の言った「教会のないものの集まり」「教会のない者のエクレシア」は、自分あるいは自分の仲間は信仰の未熟な初歩的な、求道的な段階であるという意味ではなく、無教会は信仰の極地であり、一番信仰の深いところ、すなわち私と神との一対一の関係、がそれである、というのが、内村先生の主張"である、と矢内原先生は書かれています。pp397-398(一部抜粋引用、著者改変)

 内村自身の信仰は、時代的な移り変わり、またそれらに対する比重の大きさの推移はみられますが、その骨子は「十字架による罪のあがない」「復活」「再臨」があげられます。

この考え方自体は、無教会であろうが、教会員であろうが、クリスチャンとしてオーソドックスな奥義でありますから、(教会員であるか無教会であるかといった)カテゴリーわけする必要は無いと思われます。

 では、無教会主義の中心はどこにあるかといえば、教会に属していなくとも救われる、それから上記に示したきわめてオーソドックスな十字架による罪の贖い、復活、キリストの再臨が内村の信仰の中心をなしていたものであると同時に、無教会の中心をなしている、と考えることができます。

 かといって、これらの考え方が理解できないから無教会主義ではない、ということはもちろんないわけで、"信仰というのは深いものですしまた年とともに示されてくるもの(矢内原)"ですから、これらがわからないから無教会主義者であるとか無いとか言うことはない、と考えられます。

無教会主義について、簡単に大雑把にまとめました。
何かご意見いただければ幸いです。



イエス伝研究の目的

2004-07-28 19:38:40 | Weblog
「イエス伝研究の目的について」

 塚本虎二はその著作集(「イエス伝研究」聖書知識社」においてイエス伝研究の目的をこう語っている。

 ”四福音書はいずれも明らかにその(福音書執筆)の目的を示している。共感福音書はその初頭において(マタイ一1、マルコ一1、ルカ一1-4)ヨハネ福音書はその結尾において(二十30-31)。しかしてヨハネの文が最も明白である--しかしこれらのことを書いたのは、あなた達にイエスは救世主(キリスト)で、神の子であることを信じさせるため、また、それを信じてイエスの名によって命を持たせるためである。

 すなわち、イエスが神の子キリストであり、また是によりて永遠の命*を得しがんためである、という。
ここにおいて明白なることは福音書はあくまで福音書であって、修養書ではなく、また英雄伝でもないことである。--塚本虎二「イエス伝研究第一巻」pp.12-13”

 またイエスはある意味英雄であるが、英雄ですらない。英雄としてイエスに何事かを期待するものは”それゆえに躓く”、としている(著者一部改変)。

 そして”イエス伝は(寧ろ)彼の死について誌すことを、その主たる目的とするらしくある。死について誌すことが詳細であるばかりではなく、死後に尽きて多くを語っている。’イエス伝は彼の死を重点とする(原文、傍点)’「イエスは死ぬるためにこの世にきた」とさえいう。”

 また塚本は、”イエスは英雄ではない。神の子である。神である。神なる彼は高くある。…我らはイエス伝を読み、彼の罪なき神聖さに照らされて、自己の罪にしにたる汚穢たる姿を見いだす。…我らは彼を尊敬し、崇拝するをもって足りない。我らは彼の前に跪き、神として彼を拝せねばならぬ。彼を師よ!と呼ぶをもって足りない、主よ!とよばなければならぬ。而して、神以外の何ものにも捧げざる、また捧ぐべからざる、礼拝を彼に捧げなければならぬ。
 
 故に福音書の研究を始むるに当たりては、我らはこの謙遜と敬虔なる覚悟とを必要とする。祈りの心「がまえ」(原文傍点)をもって福音書を開くべきである。「神のこの聖なる姿を発見せんとする聖なる熱心に燃えて、研究に当たるべきである(原文傍点)」
 
 従って福音書の研究により、この永遠の命*---ヨハネが言う如く「死んでも生き、永遠に死なない」--生命(いのち)を発見し、是を自分のものとできないならばたといギリシャ語にて福音書全文を暗唱できても、未だ福音書が読めていないのである。
 
 そして最後に塚本は、「(聖書の研究は)永遠のパンの問題(原文傍点)である」とし、「我らは命がけにて、この研究を続ける」と結んでいる。
 
* "永遠の命"について、聖書辞典(日本基督教団出版局)をひもとくと、以下の説明がある。

「生命は神から与えられる貴重な賜物として聖書では終始一貫重要視されているが、旧約聖書の時代には、永遠の生命はまだはっきりした形で把握されていなかった。…長寿を全うすることが神の祝福と考えられているが(創15.15, 25.8, 35.29, 士8.32、ヨブ42.17)、神は「生ける神」であってこの神との交わりによって不死の生活をする人が存在することは旧約のなかでも記されていた(例えば創5.24のエノク、王下2.11のエリア)。

 そして神の義と神が人間と結んだ契約によって人間に対してあらわされる恵みとが、神により頼むヒトを死の中に放置せず、死を乗り越えてイキさせるという思想が次第に強くなっている(詩16.10、49.15、ヨブ19.25)。

 かくて終末的に、神は死に対する勝利を人間に与えられるとの信仰もあらわれてくる(イザ25.8、26.19)。そしてマカベア時代に至って、永遠の生命または死人の復活の思想が、はっきりとした形で出現して生きている(ダニ12.2、IIマカベア7.9、23.36)。

 またこれらの旧約の生命についての思想を一貫しているのは、神に従うことが生命を得ることであり、神に背くのは死に至ると云うことである(申30.15-20、32.47)。これらのことは新約聖書に於いてさらに明瞭になってきている。すなわち、イエス・キリストによって永遠の生命は、今やこの世に完全に掲示されており、信じるものすべてに与えられるのである(ヨハ3.15、39、5.
24、36、6.27、40、17.3、ロマ5.21、6.23、Iヨハ5.11)。
 
 イエスに従うこと、イエス・キリストを信じることは、永遠の生命を得ることである。……すなわち永遠の生命は、単なる霊魂不滅ではない。単なる死後の永生でもない。永遠の生命は、主なる神に背いている人間が、キリストとその十字架によって神と共に生きるもの、神の子とされることであり、罪による詩からの解放、その死への勝利である。永遠の生命は、まさに死人の復活である。罪によって死んだ人間が、キリストによってよみがえらされて生きることである(ロマ6.4、Iコリ15.21-22、55-57、コロ3.1)。死が罪と不可分であり、我々が神の義によって新たに生かされることが永遠の生命である(ロマ6.4、8.10-11)。それ故永遠の生命は、単にいわば水平的に我々の生命が永遠に続くことではなくいわば垂直的に上から、神から、我々に与えられる生命である。

 ……この永遠の生命は(既に上述したところからあきらかであるが)単に未来のものではなくて、現在の生活、我々のこの世での生活の真実の基礎である。『私の言葉を聞いて信じるものは、永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである(ヨハ5.24)(以下略)。

参考文献:
塚本虎二著「イエス伝第一巻」聖書の知識社
聖書事典、日本基督教団出版局