「人の子、主、聖靈」- 聖靈への罪
「この故に汝等に告ぐ。人の凡ての罪と汚すことは赦されじ。誰にもても言葉を持て人の子に逆らふ者は赦されん。されど"言葉"をもつて聖靈に逆らふ者は、この世にても後の世にても、赦されじ」(マタイ12;31-32、並行記事マルコ3;28-30、ルカ12;10)
(だからあなたがたにいつておく。人には*、その於かすすべての罪も神を汚す言葉も赦される。しかし、聖靈を汚すことは赦されることはない。また"人の子"に對していい逆らふ者は赦される拿をる、しかし、聖靈にいい逆らふ者は、この世でも、來る世でも、赦されることはない」;日本聖書協會譯(いはゆる口語譯)
*人の子、と云ふ記述もある。
前囘uploadした文章で私は上記の言葉を引用しました。
原稿を書いてゐた時點では、特に迷ひもせず書いたのですが、暫くしてこの言葉の解釋について、考へ込んでしまひました。そのため、この文章の解釋についてあらためて稿を起こす必要があると考へました。
私は何故これ程までに、この句に惱んでゐるかと云ひますと、父なる神、主なるイエスキリスト、聖靈は、キリスト教の教義における基盤であり、かつ最難關でもある『三位一體論』との關聯で考へてゐるからだと思ひます。
三位一體論では、神といふのは父なる神、聖靈、神の一人子なるイエスキリストからなるとされてゐますが、これらは根元的には一つである、と考へられてゐます。
さうした前提を考慮した場合、何故、聖靈への冒涜が、他の罪や御父、そして人の子=キリストに對する冒涜が赦されてゐるにもかかはらず、聖靈への冒涜が赦されないのでせうか。
以下問題點を整理します。
神への冒涜、「人の子」に對しての冒涜、凡ての罪、は赦されるが、「聖靈」に對する冒涜は永遠に赦されない、といふ言説に對し、
1)「人の子」=イエスとして讀みうる部分、または單に「人の子」=「人間」として讀みうる部分の神學上の差異について。
2)神、神の子(もしくはメシヤ)としての「人の子」、に對する冒涜は赦されるが、「聖靈」に對する冒涜は決して赦されない、と云ふ言葉の解釋について。
すなはち神、「人の子=メシヤ」、聖靈それぞれの概念上の差異、或いはその解釋や相互聯關について。
3)赦されべかる罪と赦され得る罪について、の三點を擧げます。
これは神學的な問題でもあり、かつ非常に難しい問題です。
各種文獻を繙いてもその解釋をめぐつて樣々な見解があり、本稿では詳細に觸れません。
上記に擧げた問題は、神學上の重要な問題であつたとしても、信仰問題としては、即ち、魂の問題としては、いくら學んでも私のまよひをぬぐひ去ることは出來ないやうに思ひますし、一求道者としてこの問題を考へてみたいと思ひます。
從つて、本稿では文獻學的或いは神學的問題についての詳細な言及は避け、主に信仰問題として、すなはち上記3)について言及するものとします。
その前に「聖靈」についての註解を以下に書します。
*聖靈:世の終はりに、神から與へられると信じられてゐる救拯(すくひ)の靈。キリスト教は、それがイエスの復活で現實と化し、信者には終末の賜の先取りとして既に與へられてゐるとした。パウロは「靈の手附け金」(IIコリ1:22,5:5)とか「靈の初穗」(ロマ8:23)といふ表現もしてゐるが、これらは神の靈の附與がまだ部分的であるといふことよりも、寧ろその”附與の確實性”を云ひ表してゐる。(新約聖書飜譯委員會譯『新約聖書』注より引用、強調筆者)。
また『聖書事典』(日本基督教團出版局、1969年發行)では、1)舊約聖書に於ける神の靈2)新約聖書に於ける「聖靈」3)ヨハネ文書の聖靈觀と三區分し、それぞれについて詳細に書かれてゐます(ここでは詳細を省きます)。
文獻學的な背景を述べれば、マルコ福音書第三章28-29節は、本來現在の前後關係とは全く無關係な別個の言葉であつたものを、マルコが編輯する際にここにまとめたものであると考へられてゐます(30節も同樣に後に附加されたものとかんがへられてゐます)。その理由として、ルカ福音書の並行記事である12章10節がマルコ福音書とは全く異なる文脈の中に置かれてゐることによつて説明することができるといひます(豐田)。またマタイ福音書でもマルコ同樣「ベルゼブル問答」の中の言葉として收められてはゐますが、塚本譯*1*2、(及び新英譯聖書)ではともに行があらためられてゐます。これは文脈上の續き工合に問題意識を持つてのことでさう(豐田)。
『マルコ福音書註解』豐田榮著、丸の内聖知會發行、P.23-30より
しかしマルコは、三章30節に「(イエスが)かういはれたのは、彼等が聖靈によるイエスの業をののしつて『あれは穢れた靈に憑かれてゐる』と云つたからである」といふ編輯上の加筆を行つて、28節以下を、22節の「あれはベルゼブルに憑かれてゐる」といふ聖書學者の言葉に、しつかりと結びつけてゐるのです。
*1「アーメン、私は云ふ、人の子らの犯す罪も、また、いかなる冒涜の言葉でも、凡て赦していただける。しかし聖靈を冒涜する者は永遠に赦されず永遠の罪に處せられる。」かういはれたのは、彼等が聖靈によるイエスの業をののしつて、「あれは穢れた靈につかれてゐる」と云つたからである。塚本譯マルコ三章28-30節
*2あなた逹は神の靈をベルゼブルの働きとののしつた。だから私は云ふ、人の犯すいかなる罪も冒涜も赦していただけるが、御靈の冒涜は赦されない。人の子私を冒涜する者ですら赦していただけるが、私を以て働く聖靈を冒涜する者は、この世でも來るべき世でも決して赦されない。塚本譯マタイ十二章31-32節
マタイ傳では、ベルゼブル問答に續く形でこの文章が置かれてゐます。
また、マルコ傳においても、引用部の前後に「かういはれたのは、彼等(=聖書學者)が、聖靈によるイエスの業をののしつて、『あれは穢れた靈に憑かれてゐる』と云つたからである、とベルゼブル問答の文脈で語られてゐます。
最近出版された新約聖書飜譯委員會による新譯聖書によれば、
「この故に、私はおまへたちに云ふ。人間たちは凡ての罪も冒涜も赦されるであらふ。しかし靈[へ]の冒涜は、赦されることがないで在らう。また〈人の子〉に敵對して言葉を語る者は赦されるであらふ。しかし、聖靈に敵對して[言葉を]を語る者は、この世でも、また來るべき世でも赦されることはないであらふ。マタイ12;31-32(新約聖書飜譯委員會譯:岩波書店;括弧などは原文の儘)
ベルゼブル問答において重要なのは、イエスが誰に對してこの言葉を話したか、といふことでせう。この言葉はファイサイ派の學者逹、すなはち、「私逹はけして罪を犯さず、また神を知つてゐます」と考へてゐる人々、ある意味、「傲慢」といふ最大の罪をなしていながらそれにさへ氣附かずに居る人々に向けて話してゐると云ふことではないでせうか。
人が犯したる最大の罪は、神から離れ、我を神の如く振る舞ひ、罪を罪とも意識しない、闇の中を生きることです。聖靈は、罪にまみれた私逹を神のもとに立ち返らせ、私逹を導くものです。内なる神の聲(生けるイエス=キリストの語りかけ)を無視し拒絶すること。聖靈を涜す罪とは、この内なる導き=光を感じていながら、「私はそんな光は知らない」といふこと、といつてもいいかもしれません。
私逹にとつて、この内なる聲=聖靈の導きを無視して生きることは、罪の中でも最大の罪なのでしょう。
「この故に汝等に告ぐ。人の凡ての罪と汚すことは赦されじ。誰にもても言葉を持て人の子に逆らふ者は赦されん。されど"言葉"をもつて聖靈に逆らふ者は、この世にても後の世にても、赦されじ」(マタイ12;31-32、並行記事マルコ3;28-30、ルカ12;10)
(だからあなたがたにいつておく。人には*、その於かすすべての罪も神を汚す言葉も赦される。しかし、聖靈を汚すことは赦されることはない。また"人の子"に對していい逆らふ者は赦される拿をる、しかし、聖靈にいい逆らふ者は、この世でも、來る世でも、赦されることはない」;日本聖書協會譯(いはゆる口語譯)
*人の子、と云ふ記述もある。
前囘uploadした文章で私は上記の言葉を引用しました。
原稿を書いてゐた時點では、特に迷ひもせず書いたのですが、暫くしてこの言葉の解釋について、考へ込んでしまひました。そのため、この文章の解釋についてあらためて稿を起こす必要があると考へました。
私は何故これ程までに、この句に惱んでゐるかと云ひますと、父なる神、主なるイエスキリスト、聖靈は、キリスト教の教義における基盤であり、かつ最難關でもある『三位一體論』との關聯で考へてゐるからだと思ひます。
三位一體論では、神といふのは父なる神、聖靈、神の一人子なるイエスキリストからなるとされてゐますが、これらは根元的には一つである、と考へられてゐます。
さうした前提を考慮した場合、何故、聖靈への冒涜が、他の罪や御父、そして人の子=キリストに對する冒涜が赦されてゐるにもかかはらず、聖靈への冒涜が赦されないのでせうか。
以下問題點を整理します。
神への冒涜、「人の子」に對しての冒涜、凡ての罪、は赦されるが、「聖靈」に對する冒涜は永遠に赦されない、といふ言説に對し、
1)「人の子」=イエスとして讀みうる部分、または單に「人の子」=「人間」として讀みうる部分の神學上の差異について。
2)神、神の子(もしくはメシヤ)としての「人の子」、に對する冒涜は赦されるが、「聖靈」に對する冒涜は決して赦されない、と云ふ言葉の解釋について。
すなはち神、「人の子=メシヤ」、聖靈それぞれの概念上の差異、或いはその解釋や相互聯關について。
3)赦されべかる罪と赦され得る罪について、の三點を擧げます。
これは神學的な問題でもあり、かつ非常に難しい問題です。
各種文獻を繙いてもその解釋をめぐつて樣々な見解があり、本稿では詳細に觸れません。
上記に擧げた問題は、神學上の重要な問題であつたとしても、信仰問題としては、即ち、魂の問題としては、いくら學んでも私のまよひをぬぐひ去ることは出來ないやうに思ひますし、一求道者としてこの問題を考へてみたいと思ひます。
從つて、本稿では文獻學的或いは神學的問題についての詳細な言及は避け、主に信仰問題として、すなはち上記3)について言及するものとします。
その前に「聖靈」についての註解を以下に書します。
*聖靈:世の終はりに、神から與へられると信じられてゐる救拯(すくひ)の靈。キリスト教は、それがイエスの復活で現實と化し、信者には終末の賜の先取りとして既に與へられてゐるとした。パウロは「靈の手附け金」(IIコリ1:22,5:5)とか「靈の初穗」(ロマ8:23)といふ表現もしてゐるが、これらは神の靈の附與がまだ部分的であるといふことよりも、寧ろその”附與の確實性”を云ひ表してゐる。(新約聖書飜譯委員會譯『新約聖書』注より引用、強調筆者)。
また『聖書事典』(日本基督教團出版局、1969年發行)では、1)舊約聖書に於ける神の靈2)新約聖書に於ける「聖靈」3)ヨハネ文書の聖靈觀と三區分し、それぞれについて詳細に書かれてゐます(ここでは詳細を省きます)。
文獻學的な背景を述べれば、マルコ福音書第三章28-29節は、本來現在の前後關係とは全く無關係な別個の言葉であつたものを、マルコが編輯する際にここにまとめたものであると考へられてゐます(30節も同樣に後に附加されたものとかんがへられてゐます)。その理由として、ルカ福音書の並行記事である12章10節がマルコ福音書とは全く異なる文脈の中に置かれてゐることによつて説明することができるといひます(豐田)。またマタイ福音書でもマルコ同樣「ベルゼブル問答」の中の言葉として收められてはゐますが、塚本譯*1*2、(及び新英譯聖書)ではともに行があらためられてゐます。これは文脈上の續き工合に問題意識を持つてのことでさう(豐田)。
『マルコ福音書註解』豐田榮著、丸の内聖知會發行、P.23-30より
しかしマルコは、三章30節に「(イエスが)かういはれたのは、彼等が聖靈によるイエスの業をののしつて『あれは穢れた靈に憑かれてゐる』と云つたからである」といふ編輯上の加筆を行つて、28節以下を、22節の「あれはベルゼブルに憑かれてゐる」といふ聖書學者の言葉に、しつかりと結びつけてゐるのです。
*1「アーメン、私は云ふ、人の子らの犯す罪も、また、いかなる冒涜の言葉でも、凡て赦していただける。しかし聖靈を冒涜する者は永遠に赦されず永遠の罪に處せられる。」かういはれたのは、彼等が聖靈によるイエスの業をののしつて、「あれは穢れた靈につかれてゐる」と云つたからである。塚本譯マルコ三章28-30節
*2あなた逹は神の靈をベルゼブルの働きとののしつた。だから私は云ふ、人の犯すいかなる罪も冒涜も赦していただけるが、御靈の冒涜は赦されない。人の子私を冒涜する者ですら赦していただけるが、私を以て働く聖靈を冒涜する者は、この世でも來るべき世でも決して赦されない。塚本譯マタイ十二章31-32節
マタイ傳では、ベルゼブル問答に續く形でこの文章が置かれてゐます。
また、マルコ傳においても、引用部の前後に「かういはれたのは、彼等(=聖書學者)が、聖靈によるイエスの業をののしつて、『あれは穢れた靈に憑かれてゐる』と云つたからである、とベルゼブル問答の文脈で語られてゐます。
最近出版された新約聖書飜譯委員會による新譯聖書によれば、
「この故に、私はおまへたちに云ふ。人間たちは凡ての罪も冒涜も赦されるであらふ。しかし靈[へ]の冒涜は、赦されることがないで在らう。また〈人の子〉に敵對して言葉を語る者は赦されるであらふ。しかし、聖靈に敵對して[言葉を]を語る者は、この世でも、また來るべき世でも赦されることはないであらふ。マタイ12;31-32(新約聖書飜譯委員會譯:岩波書店;括弧などは原文の儘)
ベルゼブル問答において重要なのは、イエスが誰に對してこの言葉を話したか、といふことでせう。この言葉はファイサイ派の學者逹、すなはち、「私逹はけして罪を犯さず、また神を知つてゐます」と考へてゐる人々、ある意味、「傲慢」といふ最大の罪をなしていながらそれにさへ氣附かずに居る人々に向けて話してゐると云ふことではないでせうか。
人が犯したる最大の罪は、神から離れ、我を神の如く振る舞ひ、罪を罪とも意識しない、闇の中を生きることです。聖靈は、罪にまみれた私逹を神のもとに立ち返らせ、私逹を導くものです。内なる神の聲(生けるイエス=キリストの語りかけ)を無視し拒絶すること。聖靈を涜す罪とは、この内なる導き=光を感じていながら、「私はそんな光は知らない」といふこと、といつてもいいかもしれません。
私逹にとつて、この内なる聲=聖靈の導きを無視して生きることは、罪の中でも最大の罪なのでしょう。