ジーケン・オイラー 日々是プロデュース日記

音楽・CM業界に携わり20数年。現在、音楽以外にも多数日々プロデュース中。

CM業界への船出

2007-09-06 17:58:03 | Weblog
前回はお盆の番外編。
しかし相変わらず毎日暑いね。いつも千代田線の乃木坂から青山墓地を横に見ながら西麻布の交差点を右折して会社まで歩くんだけれど、最近この道を通るとね、耳鳴りするんだわ。で、夕方まで目眩とこの耳鳴りが続いて仕事にならんのよ。日比谷で乗り換えて六本木に出てから会社に向かうと大丈夫なんだな、これが。
最近感じるのだけれど、やっぱりこの世には「霊」という言葉では言い表せない何か解明されていないエネルギー物質があるのではないかね。今住んでいる町屋というところは、すぐ近くに斎場があって、毎日我が家の前を黒服の集団が通り過ぎる。この街に住んでからこの家の通りを歩いて駅に向う訳だけれどもその度に身体が物凄く重くなる、というかね。落ちるんだわ、気分が。地下鉄に乗ってしまえば大丈夫なのだけれどもね。しかし、乃木坂で降りて西麻布の交差点過ぎると再びダメなんだわ・・・。出社拒否症なんかな。しかしオイラ社長だしね。誰にも虐められないし。この仕事が厭なのかな。

さてと、ではまたまた時間を遡ろう。25年前へとバビューン。

しばらく実家でぼうっとする日々を過ごしていた。激動の芸能界からほうほうの態で逃げ出し、さてこれから何をすべえかな、と考えていた。当時は特に自分が背負うべき借金も無く養うべき家族も存在していなかったので、気は楽っちゃあ楽だった。とは言っても金は無い。芸能界で様々な人に出会い人脈はそこそこ築けたが、あれだけ騒動を起してしまったので、当分合わせる顔がない。どこかのレコード会社に潜り込む事も考えてみたが、いずれにしても上条さんの知り合いばかりだ。しばらくこのラインからは遠ざかるべきだと心と頭が警鐘を鳴らしていた。とは言うものの、この業界に入るきっかけを作ってくれたエジソン先生には、事の顛末を報告する必要がある。そんな訳で久しぶりに我が師を訪ねた。ちなみに、つい最近我が師エジソン氏(渡辺敬之氏)は秋川雅史のプロデュースをしている。「千の風に乗って」も氏の手による作品だ。儲かってるんだろうな・・・。

「今さら合わせる顔も無いのですが、まあかくかくしかじかで、職を失いまして・・・でへへへ」
「ばかやろ、だから上条さんはなにかと危ないからやめとけって言ったじゃないか。自業自得だな」
「まったくです。返す言葉もありやせん」
「ふむ・・・ところでケンジ、CM音楽やる気はないか」
「いやはや、今さらより好みしている状態じゃございませんので、とにかくなんでもやります」
「実はミュージックハウスゼロという会社から誰か根性のある若いヤツいないかと言われていたのだよ」
「根性っすか・・・まあ、かなり叩かれまくりましたからね」
「うん、じゃっ今から電話してみる」
そんな訳でまたしても師の世話になり、翌週からこの会社に勤める事とあいなった。実は以前エジソンさんのアシスタントをしていた頃からこの会社とは馴染みであつた。なので、面接もなしのいきなりの採用。もちろん三ヶ月間の試用期間は設けられたが。
しかし、上条ボスの元で相当しごかれたので、この頃既に処世術には長けていた。21才の夏。
出社初日は30分前に行き、鍵を貰っていないのでポストに入っていた読売新聞を勝手に取り出し会社の前で座り込んで読んでいた。間もなくデスクの女性が出社してきた。すかさず90度の角度で挨拶。
「この度お世話になる事にあいなりました、鈴木です。よろしくお願い致します」
相手の方が恐縮していたね。
会社に入るとすかさず自分から「掃除機はどこでしょう」と尋ね、いきなり会社中を掃除し始めた。とにかく最初から・・・こやつはただものではない・・・と思わせる事が大事だと計画を練っていた。続々出社してくる先輩スタッフ達に完璧な挨拶をし、事前にデスクの女性から各先輩達、社長のコーヒー及びお茶の好みを聞き出していたので、まずはお茶汲み。その翌日から毎朝30分前に出社し、掃除をし、各デスクを綺麗に拭き、コーヒーを準備する。これを一年間続けた。煙草の銘柄も覚え、それぞれを常に何箱か常備し、相手の様子を窺いながら無くなるとすかさず目の前に差し出す。もうこの頃は楽しくて仕方なかった。こんな事はお茶の子さいさい。嫌味なヤツだったね。
で、二ヶ月で試用期間終了。晴れて正社員となりました。利点は厚生年金、社会保険に加入出来た事かな。ボーナスもあれば給料もきちんきちんと支払われて、それまでの世界とは違ってもうぬるま湯生活。
あるプロデューサーのアシスタントに付いたのだけれども、この人は結構ガタイもでかくて押し出しも強い人で、僕に対しても何かと偉ぶるタイプの人だったのだけれども、ふん、今までの人達に較べればもう仏様のように思えたものだった。
しかし、この高慢さがいけなかった。後々僕はCM業界で散々苦労する。
CM業界は芸能界と違い、相手は一般企業のホワイトカラーさん達である。普通のサラリーマン相手の商売だ。芸能界の常識は通じない。広告代理店は確かにカタカナ職業で、業界人ではあるが、当時の芸能界のような海千山千はいない。皆一流の大学を卒業したエリートばかり。当時から(まあ今もだけれど)僕はかなり短気だった。しかも負けず嫌い。特に上からモノを言われるとすぐにカチンとくる性質。本来、仕事とは頂くもの、頭を下げてナンボの世界。しかもCMは受注業。スポンサー様の大事なお金を預かって販売促進の為にクリエイティブを発揮する。今ではさすがに理解出来るようになってはきたが、当時の僕には全然全くかけらも理解出来なかった。もう喧嘩しまくり。相手が理不尽な事(スポンサーは日本語で書くと「理不尽人」となる)言うと、たかだか21才のアシスタントに過ぎない僕はいきなり暴言吐きまくり。暴れまくり。
入社半年頃の事。あるアパレルメーカーの打ち合わせ。
事前に貰った絵コンテを元にデモテープを制作し持参した。本番前のラフな音楽スケッチ。しかしながら徹夜で創り上げた作品だ。この日のミーティングはオールスタッフミーティングと言って、CM制作に関わる全てのスタッフが顔を揃える。代理店のクリエイター、ディレクター、プロデューサー、制作アシスタント、カメラマン、ライトマン、スタイリスト、ヘアメイク、大道具、音効さん・・・当時CM音楽制作屋の立場は低かった。現在はプロダクションのPM(制作)さんが時間をずらして我々が待たされる事は少なくなったが、当時は違った。彼等から見ればたかだか音楽屋風情。この時の打ち合わせでも散々待たされた。同じテーブルに座ったまま2時間。我々には全く関係の無い撮影の段取りを延々聞かされる。
ようやく音楽の話になったかと思うとすぐにディレクターは撮影部との話を蒸し返す。徐々に撮影スタッフ達が帰り始め、我々だけが残された。するとディレクターはいそいそと鞄にコンテを詰め込み、映像プロダクションの制作に言った。
「次あるから、オレ行くわ」
むっ。
「あの・・・」
ディレクターはゴミでも眺めるような眼を僕に向けた。
「こっちは2時間以上待たされてるんですが、デモテープ聞いていただけないですか?」
既に僕の眼は座っていた。下からすくい上げるようにディレクターを睨んだ。
すると、そいつはこうのたまった。
「音楽は取りあえず鳴ってりゃいいんだよ。制作に渡しとけ」
ぶちっ!!
僕はすかさず持っていたカセットテープをおもいっきりディレクターの顔に投げ付けた。
「てめえ、この場で絞められてーのか!!」一喝。それでも怒りは静まらない。僕は4m×2mの会議室テーブルの端を掴んでその場でひっくり返した。そしてそのまま立ち去った。上司置き去り。
その時のディレクターは当時超が付く売れっ子だった。つい最近癌で死んだと聞いた。その時から今に至るまで一度も仕事はしていない。一度夜の六本木で見かけたので「てめえ、このやろう!!」と追いかけ回した事がある。そいつの名前は関口某という。
そして、その時の代理店からは当然出入り禁止となり、その時のスタッフは誰一人居なくなったであろうつい最近25年振りになんと仕事をした。もちろん当時の事は言わないっつーか、言えない。
もちろん上司からは散々叱られた。でもね、殴られる訳でも拳銃向けられる訳でも無いので馬耳東風。こうして僕は仕事をナメ始めた。今考えると顔から火が出る。

お盆まっただ中

2007-08-14 16:39:31 | Weblog
暑い。八月に入ってからずっと30度越えの真夏日だ。このクソ暑い、しかもお盆の真っ最中に仕事をしなければならないのは、CM音楽屋の宿命みたいなものだ。クライアント様達や代理店様達はこの盆時期例外なくバカンス。毎年休み前に制作チームは問答無用で召集されられる。そして新商品や新企画のオリエンテーションが行なわれるのだ。制作物、企画物の提出は大体お盆明け。毎年恒例の行事。
映像プロダクションと音楽プロダクションにお盆という習慣ははないのだね。だから我々は先祖に祟られその生涯は短命と決まっている。
しかし、ミュージシャン達までもがこの時期、優雅にバカンスを取るのは納得いかんね。しかも連絡が容易に取れない海外に逃げる。ウイーンだとかオーストリアだとか。特にクラシック系のヤツらに多い。けっチキショー、何がバカンスだ。何がヨーロッパだ。自分達をセレブだとでも勘違いしてんじゃねーのか?しょせん弾いてなんぼの日雇い労働者だろうが。俺だってなあガキの時分にゃ、バイオリンのお稽古してたんだぞ。構えるくらいなら今でも出来るぜ。ってまったくもって自慢にもならなけりゃ役にも立ちゃしない。そんなわけでレコーディングするにもこの時期はミュージシャンが激減するのだ。で、そういう時に限って編成のでかいオーケストラものを要求されたりするのだ。
その年の夏も例年のようにお盆のど真ん中にレコーディングをする羽目になった。
とりあえず片っ端からインぺグ(ミュージシャン手配業者)に電話して、説得してもらい、ギャラ上乗せして、ギリギリなんとか頭数だけは揃えた。スタジオはVictor青山の401stだ。SMAPと遭遇する確率の高いスタジオである。都内では近頃オーケストラをレコーディング出来るスタジオが減っちまった。このVictor401stか、早稲田のアバコスタジオくらいなものだ。
急遽田舎から帰省してくれたり、他の仕事のスケジュールとの時間調整で、全てのミュージシャンが揃ったのは夜の八時だった。6×4×2×2×1という中編成。つまりファーストバイオリン6人セカンドバイオリン4人ビオラ2人チェロ2人コントラバス1人という構成である。この時間から開始したのではどう頑張ってもトラックダウン終了は12時を過ぎるだろう。しかもこの日のオーケストラは頭数揃える為に大学卒業したてのネェちゃんやニィちゃんがかなり混じっている急ごしらえの玉石混交オケだ。いやはや気が重い。クライアントは某家電メーカー。無論誰も立ち会わず。映像組は現在この時間ポスプロで編集の真っ最中。こちらの完成時間に合わせて最終チェックに監督が来る予定。
さて、全員のチューニングが終わり、何度か練習しテイクを重ねた。案の定ファーストバイオリンとセカンドバイオリンのアンサンブルが悪い。なかなか合わない音にバイオリントップのリーダーの口調もしらず厳しくなってきた。今日のリーダーは篠崎正嗣さん、通称マサさん。篠崎バイオリンの御曹子だ。
コントロールルームでアレンジャーの博也さんとじりじりしながらスタジオの中を窺っていた。そして、トークバックを通してマサさんに言った。
「とりあえず一度録音してみましょう」
一瞬の静寂の後、あらかじめテープに録音されたクリック音が流れ出す。八つのカウントの後、ファーストバイオリンから始まり、セカンドバイオリンが対メロで絡む。チェロとビオラはピチカート、その後バイオリンの掛け上がりと共にフォルテッシモで全体がテーマを弾く・・・筈だったのだがまるで砂の城が崩れていくように演奏はなし崩しに止まってしまった。下を向いてスコアを眼で追っていた僕は、やれやれとばかりにガラス越しのスタジオの中に視線を動かした。その一瞬後、正面のモニタースピーカーから女性の悲鳴が飛び込んで来た。スタジオの中を見ると、セカンドバイオリンの女性奏者数名とビオラ奏者がパニック状態になっていた。ファーストの連中やチェロやコンバスの連中は何が起きたのか判らず呆然としていた。僕にも何が起きたのか全く判らない。すると、スタジオアシスタントがトークバックを押し、云った。
「出ましたかー」やけにのんびりした声だ。リーダーのマサさんは悲鳴を上げた女性達の視線を追い、右斜め上空を見ながら応えた。
「ああ、なるほどね、また出たんだ。でも今はいないよ」
「・・・・??????んっ?なに?」
再びアシスタントが尋ねた。
「子供でしたか?」
セカンドの若い女性奏者が無言で頷く。この辺りでようやく僕にも理解出来た。僕はトークバックを押しながら言った。
「えーと、10分休憩します」
スタジオ内に入り、セカンドバイオリンとビオラ奏者に「その時」の状況を尋ねた。
弦楽のオーケストラは、向かって左から右にファーストバイオリン、セカンドバイオリン、ビオラ、チェロ、その後ろにコントラバスといった形で配置される。ステージとは違い真横に並ぶのではなく、スタジオのセンターを中心に扇形に並ぶのだ。センターにはクレーンのように長いアームスタンドが放射状に広がり、演奏者達の1メートル上空にマイクがセッティングされる。
どうやらファーストバイオリンの後方上空、セカンドバイオリンとビオラからは正面に位置する場所に「それ」は出現した模様だ。リーダーのマサさんは何度もこのスタジオを利用しているのでこの現象は初めてでは無いのか、至極冷静に対処していた。もっともマサさんはいつも冷静で物腰も上品な人ではあった。スタジオアシスタントは何度も目撃しているからごくごく当たり前の出来事として黙々と作業を続けていた。
実はビクター青山スタジオの隣には千駄ヶ谷トンネルが走っている。そして、トンネルの上は墓地である。東京オリンピックの急ピッチな造成工事の時にこの墓地を移動させず、その下にトンネルを掘ってしまった事が原因なのか、ここは都内でも有名な幽霊スポットとして知られていた。401スタジオの位置はこの墓地と同じ高さに隣接していた。
そして、この401スタジオには寂しがりやの霊が夜な夜な集まってくるらしく、目撃者は多い。ミュージシャンの間では有名な話だった。子供であったり男の子と女の子が手を繋いでいたりとか、モンペを穿いた老婆であったり、東京大空襲で亡くなった女性だとか、目撃情報は様々である。まあとにかく出るのだ。しかも時期はまさにお盆。
今日の聴衆はどうやら子供、2才か3才くらいのおかっぱ頭のちいさな女の子だったとビオラ奏者は言う。スタジオの上部には学校の体育館でよく見られるキャットウオークの様な狭い通路があり手すりが付いている。どうやら女の子はしゃがんだ格好でその手すりの隙間からスタジオを見下ろしていたようだ。同じ向きでもチェロやコントラバスは演奏中視線は下向きになるから気付かなかったようだが、セカンドバイオリン、ビオラは否が応にも視線に入ってしまったのだろう。その場所を見上げてみたが今は何もいない。
このスタジオはビクターの学芸部が使用する事もある。だから少年少女合唱団も出入りする。しかし既に9時過ぎだ。保護者も無しに幼児が一人でいるわけがない。
やはり「出た」のだろう。
休憩の最中、僕はトイレに行った。小便用の便器に向かい視線を上げた。開いた窓の向こうには墓地が広がっていた。視線の先、ススキの向こうに何本もの卒塔婆が見える。
・・・こんなに近けりゃそりゃ出るよな・・・
ズボンのチャックをあげながら頭の中にふとメロディが流れた。誰もが知っている童謡だ。なぜいきなりこのメロディが浮かんだのか不思議だった。手を洗いそのメロディを口ずさみながらスタジオに戻った。アシスタントがスタジオの四隅に四角い紙を置き、その上に塩を盛っていた。「出た」時のしきたり、というかミュージシャンに対する気休めだろう。徐々に平穏を取り戻したスタジオ内は各々のパートが練習を再開していた。その間を縫うように歩き、若手奏者に何度もフレーズの練習をさせているリーダーのマサさんに話し掛けた。単なる思い付きにしか過ぎないのだが、なんとなく釈然としない僕はとりあえずその思いつきを投げかけてみた。
「多分それなら簡単に出来ると思うけど・・・」リーダーは腕時計を見た。ミュージシャンの拘束単位は2時間が1セットだ。10時を過ぎると2セットになってしまう。お互いにそれは避けたい。この人数だと軽く30万近い金額がオーバー料金になってしまう。
「アンサンブル無しで全員ユニゾンでいいですよ、コンバスはいらないし」僕は言った。こんな事にこだわっている余裕はないのだが、何故かそれをやらなければ今宵のセッションが終わらない気がしたのだ。
「わかりました。録音はしないですよね?」
「ええ、録音しても使い道ないし、まあ、お祓いだと思ってください」
「五分だけ時間をください」
マサさんはそう言うと鞄から五線紙を取り出し、書き込み始めた。それを次々にセカンドバイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスに渡した。即興でアレンジを施してくれたらしい。
それを見届け僕はコントロールルームに戻った。チーフエンジニアとアレンジャーに、これから行なう事を伝えた。アレンジャーの博也さんは自分の書いた作品がスムーズに進まない事で少々ナーバスになっていた。しかも彼はガチガチの無神論者だった。
「くだらないけど、ケンジがやりたいんだったらやれば。俺は外で寝てるわ」
呆れながらコントロールルームから出て行った。
「ふむ、確かにくだらないな。なんでやらなきゃいかんのか俺にもわからん」
独りごちつつ、ディレクターチェアに座った。
スタジオではリーダーがメンバーに説明していた。若い女性奏者達は本番の仕事よりも神妙な面持ちでしきりに頷いていた。
「えっと、鈴木さん、じゃちょっとやってみます。テンポはこのくらいでいいかな」
そう言うとマサさんは弓の先で譜面台をこつこつと叩いた。
「はい、いいです。そんな感じで。じゃ、お願いします。こちらはインプットだけで録音はしませんので」と返した。
そして、マサさんが口でカウントを取り、静かにメロディが流れ始めた。
・・・しゃぼん玉 とんだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた・・・
童謡「しゃぼん玉」のメロディである。1コーラスで終わるかと思ったらその後マサさんのソロが始まった。そして、2コーラス目に入りセカンドバイオリンが対メロを奏で、ビオラが追い掛け、チェロが下の方で裏メロを奏でる。先ほどまでとは違い見事なアンサンブルだ。心に沁みる演奏に僕はしばし感動に浸っていた。こんなに綺麗なメロディだったのだと再認識した。
・・・しゃぼん玉 きえた とばずに消えた うまれてすぐに こわれて消えた・・・風 風 吹くな しゃぼん玉 とばそ・・・・
最後のメロディを一小節伸ばし静かに静かに演奏は終わった。しばらく誰も身動きしない。コントロールルームもしーんと静まり返っていた。
その直後である。何人もの演奏者達、特に女性奏者達が泣き始めたのだ。弓を構えたまま嗚咽をもらす。そして感極まった一人が構えていたバイオリンを胸に抱きしめながら泣き崩れた。
「そちらでも聴こえましたか?」
マサさんがコントロールルームに向かって言った。
「ええ、もちろん、録音はしませんでしたが、インプットにしていたので・・・」
「いえ、そうじゃなく、演奏が終わった後の・・・その・・・声なんですけど」
・・・声?
「あの、泣き声ですか?」
僕は問い直した。マサさんはオーケストラのメンバー達に向かって尋ねた。
「えーと、録音してないからイヤホンしてなかった人もいたと思うんだけれど、イヤホンしていた人達、聴こえた?」
泣いていた若い女性バイオリン奏者がしゃくり上げながら答えた。
「きこえました・・・女の子が・・・ありがとう・・・って」

今ならば録音ボタンを押さずともハードディスクに記録は残るのだが、この時代はまだテープに録音されていた。Recボタンを押さない限り録音はされない。目の前のモニタースピーカーからは演奏と奏者達の啜り泣く声以外はなにも聴こえなかった。

しゃぼん玉という曲は中山晋平作曲、野口雨情作詩による作品だ。この作品にはあるエピソードが隠されている。雨情の演奏旅行中に愛娘が疫痢の為亡くなった。雨情の悲しい親心がこの作品には込められているという。わずか二歳でこの世を去った野口雨情の娘。

千駄ヶ谷墓地には「野口」という名前の古い墓が一つだけある。
小さなお地蔵さまがその横に寄り添うように置かれている。

今から10年以上も昔の或る夏の夜の出来事。









嵐の東京音楽祭

2007-08-02 19:12:01 | Weblog
事件は、ある日いきなり勃発した。
時間は少し遡る。L.Aでのレコーディング現場。
スタジオ内にはギターの「スティーブ・ルカサー」ドラムスの「ジェフ
・ポーカロ」キーボードは「スティーブ・ポーカロ」バックコーラスの「ボビー・キンボール」ベースは「エイブラハム・ラボリエル」錚々たる顔触れがセッションを行なっていた。ベースのエイブラハム以外はみんなTOTOのオリジナルメンバーだ。ドラムスのジェフはこの数年後に死亡した。死因は謎に包まれている。おそらくコカインのやり過ぎだ。
さて、事件の火種はセッションの合間のブレイクタイムに起きた。実際はテリーの通訳、もしくはコーディネーターの通訳を介して交された会話だったのだが、めんどくさいので、直接会話の形式を採用する。

ボス:「オー!ユー達、最高にロッケンロールだね!! かぁー俺はしびれたねー。実はさ、来年春に東京音楽祭ってのがあるんだけど、ユー達その時テリーのバックバンドやってくれないかね?」
メンバー達「オオ、ナイスだね。東京に行けるなら喜んでやらせてもらうよ」
と、口々にメンバー達は言う。たかだかセッションの合間のブレイクタイムの無駄話だ。
しかし、完全に間に受けてしまったボスは急遽、日本のTBSの某Pに電話した。そして、来年の東京音楽祭にはTOTOのメンバーが出演する事が決まったと伝えた。そう、伝えてしまったのだ。この後とんでもない事になる。


翌年、東京音楽祭を二ヶ月後に控えたある日、グラミー賞受賞の模様がニュースで伝えられた。
「TOTO、7部門で受賞!!」
日本でも大ニュースだ。それまでは単なるスタジオミュージシャン集団と思われていたTOTOが、エンターテイナーとしても認められたのだ。しかも全世界的に。
そして、そんな事態にもボスは全く動ぜず、TOTOが東京音楽祭にやってくると信じていた。
なんと、TBSでは東京音楽祭告知のTVスポットに・・・当日はTOTOが特別出演・・・というテロップを流した。流し続けた。しつこいほどに。開催される中野サンプラザのチケットは無料だったが、抽選倍率は500倍に跳ね上がった。気を良くしたボスは興行も組んだ。当時渋谷で一番でかいライブハウス「Live in 80」での凱旋コンサートを決めた。無論、バックはTOTO・・・のつもり。
そして、一ヶ月前、LAのコーディネーターを通じて最終確認。
返事は「No Way」あり得ない。
グラミー受賞した直後になんでバックミュージシャンごときで天下のTOTOが日本に行くのか?契約はあるのか?相手にもされない。もう、全く逆立ちしてもバック転しても、のたうち回っても無理。限り無く無理。もはや、TOTOのトイレでも後ろに並べるしかない。
そして、この事実を知ったボスはある日、行方知らずとなった。
そして、僕は逃げ場を失った。
そんな時でも、毎日TBSのテロップは流れ続けた。

もはや一刻の猶予も無い。急遽僕はアメリカに飛んだ。今一度TOTOのメンバーを口説く為に、そしてどうしても無理な場合、替わりのミュージシャンを探さなければならない。TOTOのマネージメントは端から相手にもしてくれなかった。鼻で笑われたようなものだった。
少ないつてをたどってようやく見つかったのは、当時、オリビアニュートンジョンや、シーナイーストンのバックミュージシャンとして活躍していたドラマー、マイクベアードただひとりだった。この時点でまだTBSにはナイショ。開催日の前々日までLAで粘った。しかしもはや刀折れ矢尽きた。マイアミにでも逃げちゃおうかな。ちんたらコカインでも売ろうかな・・・。なんて夢を見ながら帰国の途に着いた。既にTBSにはレコード会社から知らされていた。TBSの通称「ギョロなべP」が激怒しているらしい。
深夜、成田から直行で赤坂のTBS会館に飛び込んだ。今とは全く違う薄暗く狭い廊下を会議室に向かって歩く。視線の先にドアから漏れる光が見えた。真夜中の一時過ぎ。会議は進行中のようだ。
コンコン・・・ノックする。
「・・・・・・」無言。
おそるおそる扉を開ける。
会議室の中、コの字に座る無言の視線が一斉に僕に向かって刺さる。
中央に座っていたでっぷりと太った、今で言うならばメタボ怪人のような巨体がゆらりと立ち上がった。そして、会議室がびりびりと震えるような声で叫んだ。
「か、上条はどうしたーーーーーー!!!!!!!!!!」
その直後、僕の耳の横を何かが掠めて後方に飛び過ぎ、がちゃーんという音と共に割れた。寿司屋で出すような重厚な湯飲みだった。ギョロなべPは目の前に並べられた湯飲みや灰皿を次々に僕に向けてぶつけて来た。狙い定めて。確実に当たるように。その飛来してくる物体を避けながら僕は土下座のままコの字テーブルの中央に向かっていざるように進んだ。「申し訳ありません、申し訳ありません」ひたすら呪文の様に叫びながら。
「お前!この始末どうつけるつもりだーーーー!!!!!!」ギョロなべPはひたすら吠え続け、茶碗を投げる。
幾つかの湯飲みが頭にぶつかり割れた。額から血を流しながら頭を床に擦り付ける僕。
田辺のマネージャーが間に入ってくれて、ようやくギョロなべPは椅子に座った。はあはあと肩で息をしながら。
この年の東京音楽祭には特別ゲストとしてライオネルリッチーの出演が決まっていた。しかし、TOTOの人気は確実にそれを上回っていたのだ。いきなりぶっ飛んだ番組の目玉企画・・・。今考えてもとんでもない事をしでかしてしまったのだね。思い出したら胸がドキドキしてきた。
結局、この時からこの業界抜けるまで、ボスとは顔を合わせていない。おっさん逃げちゃいましたね。
やってきました、東京音楽祭当日。
受付横にひとつの机が置かれた。その机に僕は座り、来る人来る人おそらく3000人近い人達に頭を下げ続けた。机の下には「都合により急遽TOTOの来日は中止となりました」
全く同じ事を翌日「Live in 80」でも行ない、こちらはチケットの払い戻しをした。その時の箱のマネージャーはレスラーのような巨漢で、僕は首を絞められながら空中で足をバタバタさせた。殺されてもおかしくなかったね。
そして、その日からTBSの受け付け横には「犬と上条並びに鈴木出入り禁止」のはり紙。

さすがにこの一件で嫌になった。なんとかこの業界から足抜けしなければと思った。ヤクザのような借金取りは毎日やってくるし、スケジュールはこなさなければならない。ついにサラ金会社も潰れてしまった。後ろ楯の全てが消えてしまった。テリーと二人、途方にくれてしまった。
そんな時、再び赤坂のカツマタさんに拉致られてしまった。またまたヤスナカと二人で天下一ラーメンを啜る。しかし、今回ばかりは僕もボスの行方は皆目わからない。それでも目の前に電話を置かれ、片っ端から上条の知り合いに電話を掛けさせられた。そうは言っても僕も知らない。幾つかの雀荘に電話をしたら後が尽きてしまった。仕方ないので、友達に電話を掛けまくった。相手が何か言う前に「すみません、そちらに上条さんいないでしょうか?・・・ああ、そうですか、わかりました。じゃ失礼します」友達はみな「?????」
そんなこんなで夕暮れ。僕が全く役立たずだという事が分かったらしく、カツマタさんは許してくれた。そして、僕を伴って当時ではまだ珍しかった赤坂の韓国クラブに連れて行ってくれた。僕のなにを気に入ってくれたのかいまだに判らないし、その後一度も会っていないが、帰りがけに三万円くれて「なんかあったら相談に来い」と言って僕は解放された。
ヤスナカとはその数年後、新宿で出会った。一応は兄貴分になっていた。何度か呑みに行ったりするうちにその当時の僕の仕事に興味を持ったのか、仕事を手伝いたいと言って来た。その頃、あるバンドのマネージメントをしていたのだが、ヤスナカに何度か受付を手伝わせた。しかし、巨体で丸坊主のやくざが受付に座っているのはかなり評判悪く、すぐに止めてもらった。その後、なんとなく疎遠になり、ある日、酔っ払い運転で壁に激突して死んだと云う話を聞いた。極道として生きる事も死ぬ事も出来ないヤツだった。

テリーの最後の仕事がハワイツアーだった。ハワイの「WAVE」というクラブで一週間ライブ演奏を行なうのだ。メンバーのジェフ、リチャード、ビルともこのハワイツアーまでの契約だった。
ハワイに到着してすぐにヤツ等が取った行動は、ヤクとオンナの調達だった。三ヶ月に及ぶ禁欲生活で発狂寸前だったようだ。ホテルのベッドの上にはありとあらゆる薬がぶちまけられた。コカインスティック、ガンジャ、ハッシシ、ヘロインの錠剤、薄いビニール片のようなエルその他見た事も無いような様々なおくすり。プラス、パツキンネ−チャン達。このハワイツアーでは一度も海を見なかった。毎日夕方に起きて飯を喰い、クラブに行って夜中まで演奏する。それから、朝方ホテルに戻り、延々とドラッグアンドアルコールパーティ。今さら、僕がドラッグに手を染めたかどうかはどうでもいいことだが、結論としては、酒が一番だと思う。 

さて、このツアー中僕が考えた事は、このままテリーを日本に帰してしまうと、ボスが売り飛ばしてしまったテリーの営業権がなんらかの形で発現し、最悪身に危険が及ぶ事もありうるという事だ。テリーとも相談し、彼女がしばらく日本に帰らなくても良いようにしなければならない。少なくとも一年以上。様々な手を考えて奥の手を使った。これは、まあ時効だろうけれども法律に関わるので書けない。まあ、いずれにしてもこのツアー終了と共に外人メンバー達は本国に帰り、テリーとは空港で別れた。そして僕とキヨミは二人で帰国した。これでともかく全てが終わった。芸能界からは完全に足を洗った。
次回からCM音楽業界篇のスタート。

船橋ガイジン暮らし

2006-11-27 15:23:53 | Weblog
 ちょいと虫の居所が悪い。現実の世界で腹が立つ事が多過ぎる。
誰か刺したい気分。ぶすっと。
 あのさ、いじめなんて三人以上集まりゃ必ず起きる。学校だの教師だの、ましてや教育委員会など関係なく(日教組なんざありゃウンコ以下だ。こいつらが今の学校を最低に落とした)見つからないところで毎日繰り返されている。新聞やテレビの馬鹿共がしたりがおでぐちやぐちやご大層な意見を述べているのを見るとホントやるせない。何故テレビをぶちこわしてもこいつらは死なないのだろうかと。テレビが壊れるだけだ。ガキが一人くたばれば視聴率が上がる。スポンサーが喜ぶ。ディレクターはにんまり。編成局長は酒盛りだ。フジも日テレも馬鹿テレ朝もTBSもみんなおんなじ。いじめも自殺もいずれニュース性が薄まりゃブラウン管から消える。現実はそれでも消えない。続いていく。
 いじめと自殺は別の問題だ。どんなに学校で虐められていても親からホントの愛情を掛けられていたら人は死なないね。自殺は鬱病だ。病気なんだ。治療が必要なんだ。がんばつてるんだよ、どいつもこいつも。なのにガンバリが足んねえだのだの、根性がねえだの抜かすな。腹が痛けりゃ頭が痛けりゃクスリ飲むだろ。脳の中のシナプスが異常起こしてるんだから治療しなけりゃなおらねーよ。それすらも察知できない馬鹿親が子供死なしてしまうんだ。てめえが産んだガキなんだから社会や常識なんぞに惑わされずにきちっと見やがれ。
・・・一昨日死ぬ寸前までいった。クスリを飲むのも面倒くさかった。ただ、ガキに飯作ってやんなきゃならんかったから、クスリを飲んだ。抗うつ剤をいつもの三倍量。それで助かった。自殺衝動は病気以外のなにものでもない。

 追いつめられると死にたくもなる。でも死なない。なんとかなるものよ。
ヤクザの事務所から開放された後に、僕は当時池尻大橋にあったポリドールレコードに向かった。仮TDの音源を持ってT常務を訪ねたのだ。T常務はTBSの演出部から天下ってきた人だ。ばっきばきの業界人。小柄でごま塩頭のまるで下町の桶職人みたいな人だ。口調はべらんめえで、なぜか意味もなく頭をはたかれたものだ。おそらくもうくたばっているだろう。その常務にLAの音源を聴いてもらった。当時のポリドールレコードはジュリー沢田研二が流星を極め、今じゃカス会社だがはその頃は一流のレコードメーカーだった。今回のアルバムはテリーのビクターから移籍後の第一段アルバムだった。
早速試聴室で音源を聴いたT常務は顔をしかめた。
「ケンジよー、こんなんじゃ売れねーよ」
「いや、今の音楽業界でこれだけの音作っている歌手はいませんよ。必ず話題になるはずです」
「だから売れねえんだよ。洋楽のヒットなんて過去の事だ。ニューミュージックか、じゃなきゃ歌謡曲なんだよ。こんなバタくせーもん、誰も求めちゃいねえんだよ」
 この会社からなにがなんでも1000万円からの金額を出させなきゃならない使命を帯びた僕は必至に食いさがった。
「常務、この音がわからないようじゃ音楽の仕事なんて辞めた方がいいですよ。これからアメリカポップスが大流行します。ロスで目の当たりにしてきました。絶対に売れるはずです。しかも参加ミュージシャンはアメリカの超一流スタジオミュージシャンです」
 とにかく必死に理解してもらおうと僕は頑張って力説した。
「てめえ、えらそうな講釈垂れてんじゃねーよ。じゃ売れなかったらどうすんだよ。おめえ、そこの目黒川に飛び込んで死ぬか」
「川底が30センチしかないんで死ねないとは思いますが、ドブ水飲んでくたばってみせますよ」
「おお、よくぞいいやがったな。わかった。わかった。これからお前B社のSん所行ってくれ。大体のナシはついてる。ポリドールのTの使いで来ましたっていうんだぞ」
皆目意味が分からない。が、単なる小僧としては言われるがままにするしかない。Bという会社は郷ひろみの所属事務所だという事くらいしか知らなかった。
 S社長はやさしそうだった。後年の話は何かと支障があるので書かない。
「で、なんだ。おめえが上条んところの小僧か。赤坂の○○興行じゃ、えれえ目にあったらしいな。上条が俺んところに泣きついてきやがったんだ」
「・・・・・・」この人は何者だ?
「まあいい。おめえは知らなくていい。この封筒持ってもう一度Tさんの所行ってくれ・それで話は終わりだ」
「・・・・はい」
「おい、てめえ陰気な目してんじゃねーぞ」
そう言われていきなり頭を思いっきりどつかれた。
「すみません、生まれつきなんで」
「口答えしてんじゃねーよ」
もいちど頭をどつかれた。
ともかく訳も分からずもう一度、ポリドールに向かった。
T常務は封筒の中の書類を確認すると言った。
「あした、経理に行け。ナシは通ってる。現金で受け取って持って帰れ。んじゃな」
 当時の音楽業界ではこんな乱暴なやりとりが通用したものだ。おそらくS社長がなんらかの金額を肩代わりしたらしい。良くは知らない。なんだかんだで、上条のボスは色々なプロダクションの社長に可愛がられていたようだ。確かに愛すべきキャラクターだとは思う。詐欺師だが。今の音楽業界にはこんな人はいないね。良くも悪くも音楽業界人は優等生でイイ子の集まりになってしまった。所詮はタレントに稼がせてあがりを掠める商売だ。もつと博打で良いのだと僕は思う。東大まで出てレコード会社のディレクターなんてやってんじゃねーよ、と思う。誰だとは言わんが。理屈ばっか抜かして音楽知識もなく、というか音楽自体を愛していない。どいつもこいつも予算の達成だけに四苦八苦。馬鹿だわ。ホント。CDが売れないのも分かるってものよ。東芝同様メジャーメーカーはさっさと失せてしまえ。
 なにはともあれ、お金は出来た。その日の内にロスのコーディネーターに送金した。ボスの口座が無いこともさる事ながら、ボスに渡したら借金の方で霧消するか、そのままベガスに飛ばれてしまう。なので、レコーディング費用の管理を行なっているコーディネーター会社に送金した。
 そして、無事全ての行程が終了し、一ヶ月後一行は帰国した。ベースのジェフ、キーボードのリチャード、ドラムスのビルを伴って。
 その日からジェフ、リチャード、ビルと僕の四人の奇妙な共同生活が始まった。船橋の風呂もついていないアパートで。早速簡易シャワーを買った。しかし、とんでもないアパートだったな。八条の畳の部屋に布団を敷き詰めてみんなでそこで暮した。一階はスナック。・・・まるで今の僕の境遇と同じだな。実はわけあって現在中学一年の長男と二人暮らしをしている。町屋というクソ汚い街で。斎場が近くにあるので毎日黒服の集団が闊歩する実に陰気な街。そして、住んでいるアパートの一階がカラオケスナック。毎晩毎晩クソ下手な歌が大音響で流れている。来る客が殆ど毎晩同じらしく、レパートリーもおんなじなので、毎晩毎晩同じ曲を聴かされる。音程が少しでも狂っているとムチャクチャ気持ち悪くなるってのに、半音以上違う馬鹿クソ親父共のムード演歌を聴かされ今殆ど気が狂いそうになっている。昨夜は思わず収納スペースの扉をボコボコにぶったたき、蹴っ飛ばし穴だらけにしてしまった。息子はその光景を半ば呆れつつ震えながら見ていた。家庭内暴力親父・・・。
 それはいい。実に奇妙な四人暮らしだった。まず言葉が通じない。多少の英語は分かるが、少しでも複雑になると皆目わからんちん。奴等は口々に環境の改善を訴えていたようなのだが、もう無視。一階のスナックのママがどうやらサラ金会社の社長の愛人だったらしく、昼飯晩飯は毎日スナックでご馳走になった。おまけに酒も飲み放題だったので、かなりのボトルを開けてしまった。なにしろガイジン共は鯨飲だ。底なしだ。で、なんとジェフがこのママに惚れてしまった。毎晩甘い英語で口説きまくっていた。確かに髪の毛が長くて痩せていて、目が大きくて美人なママだった。のちのち判明するがジェフはとにかく惚れっぽいのだ。船橋での生活では周りにママしか口説く相手が居なかった。単にそれだけの事だったようだ。・・・しかし、ママから叱られた。「変な日本語ばっかり教えてるんじゃないわよ、なによ、お○○ことかカッポンとか、バカじゃないの」いやはや。
 二三日落ち着いた所で、みんなを連れて六本木の事務所に出掛けた。総武線に乗って。
ジェフは電車の中でも女子高生に話しかけていた。「あなたのお○○こが欲しい」とかなんとか。殆どシカトされていたね。リチャードは無口で窓の外をただ眺めていた。ビルは・・・席を譲ってもらって座っていた。目の前に女子高生が数人座っていた。ビルはニコニコと笑いかけ(愛嬌のある顔なんだわ)自分の片足を指さすとその足をいきなり一回転させた。女子高生達、唖然呆然。ホントお茶目な身障者。
(一部書き換え・・・そりゃそうだわな)

ヤスナカとまったり

2006-11-21 18:39:57 | Weblog
 カシラのカツマタさんは一言「客扱いしとけ」と言い残してくれたので、僕は椅子に縛られることも、ムチでしばかれる事も三角木馬に座らせられることも亀甲縛りもなく・・・あれっ?
 まあ、実に中途半端な軟禁状態で八時間あまりを過ごすことになった。
ヤスナカは精いっぱい虚勢を張るように僕を睨みつけていた。こいつの身長はおそらく185センチくらいあったと思う。僕よりも20センチも高い。そしてマル坊主、眉そりそり。はっきり言ってかなりヤバイ容貌。だけどね、この時すでにアンパンのやり過ぎで歯は黒く、抜け落ちているのも何本かあって、どう見ても間抜け面なんだな。このままヤクザ稼業やってても出世する見込みはかなり薄い。いいところ鉄砲玉だ。
 なるべく刺激しないように少しずつ話しかけた。
「あの、咽喉が乾いたんだけど・・・なんか買ってきてもいいかな」
「だめっす。今麦茶持ってきます」
「あっそ」
茶碗に注がれた色の薄い麦茶。
「・・・・・・・・ごくり」
 まだ外では蝉が鳴いていた。既に9月半ば。隣の部屋では何人もの人が出入しているらしい。扉が開いたり閉じたりする音が聞える。ラジオから流れる競馬中継。競馬も競輪も僕はやらないので何処で開催されているのか分からない。エアコンの室外機が壊れそうな唸りを上げている。まだまだ暑い季節。LAも確かに暑かったのだが、空気が乾燥しているので室内はエアコン無しでも結構過ごしやすかった。数日前の出来事とは思えない。
 帰国して間もないからとんでもない時間に意識を失いそうになるくらい眠くなる。時差ボケだ。まさにこの時の沈黙状態では、後ろから強引に引っ張られるような眠気に襲われていた。さすがに眠ってしまって気が付いたら海の底でした・・・ごぼごぼってのは厭なので必至に睡魔と戦っていた。
 テーブルの横のラックには週刊誌が何冊か突っ込まれていた。週刊アサヒ・・・と言っても週刊朝日ではない。この業界でアサヒと言えば間違いなくアサヒ芸能だ。それと週刊大衆。毎号ヤクザ関連がトップページを飾る実に正しくえげつない週刊誌だ。それを手に取りぱらぱらとめくる。ヤスナカは黙って見過ごしている。
「うわっ・・・木之内みどり、ツグトシさんにやられちゃったんだ(竹中直人さん、古い話でごめんなさい)・・・おっ、有名女子大生おっぱいぺろり・・・だって。かぁーったまらんね」
「じょ、女子大生っすか」
思わずページを覗き込むヤスナカ。おそらくこいつは童貞だ。
キッカケを掴みすかさず問い掛ける。
「あのさ、この稼業に入って得した事とかある?」
「大変ッス。じぶんまだ見習いなんで」
「カツマタさんて怖そうだね」
「・・・・」
ヤスナカ再び口を閉ざす。
「ところで、俺、帰れるんかな・・・」
「じぶん、わからないっす。カツマタさんは怖い人っす。イワサキの兄貴に聞いたんすけど、耳や鼻をオトス事くらい簡単にやっちゃうらしいっす」
「へ、へええ、耳とか、は、鼻とかオトシちゃうんだ。そりゃ、えぐいね」
「で、でも、じぶんらにはやさしいっす。・・・裏切れないっす」
 ヤスナカにはどんなに優しくても初対面の僕には関係ない。ああ、ボスよ、はよ電話くれ。この場から一刻も早く開放してほしいっす。
「あ、あの、腹減りませんか?」
ヤスナカが聞いてきた。「祝・贈」と書かれた鷲だか鷹だかの立派な彫刻の施された時計を見るとすでに1時半だった。確かに空腹感はあるのだが、食欲は湧かなかった。そりゃそうだ。ボスがばっくれた時には下手したら、鼻とか耳とか落とされて、海の向こうに送りつけられるかもしれないのだから。ああ、鼻から息が吸えるって、なんて幸せ。
「うーん、腹は減ってるっちゃあ減ってるんだけど」
「出前、取ります。自分、天下一のスタミナラーメン大好きッス」
憎めないヤツ。食い物を前にして人は本性をさらけ出す。こいつはおそらく親には邪険にされたかもしれないが、可愛がってくれた肉親がいるのだろう。そういう笑顔だ。しかし、この稼業には向いてないと素人ながら思うよ。
「天下一ね。うーむ・・・じゃ、チャーハンでいいや、俺」
 天下一ラーメンは当時珍しくチェーン店だった。西麻布の交差点にもあった。ラーメンは、単なるラーメンでしかなく、駅の蕎麦屋で喰うのと殆ど同じだった。店の裏には業務用スープの一斗缶が幾つも転がっている。そんな店。今も変わらず。それも伝統かね。焼き肉ラーメンが友達の間では人気が高かったが、スープで食わせるというよりは、豚のバラ肉の脂で食わせる代物だった。表面には1ミリくらいの透明な脂が浮く。でもね、ラーメンなんてものは当時そんなものだった。外苑前のホープ軒のラーメンを初めて食べたとき、あまりの上手さに感動したものだった。今は・・・おそらく一日か二日胃がもたれるだろう。その当時、オールナイトニッポンのゲストにテリーが出演した時の事だ。直前まで神宮外苑のビクタースタジオでレコーディングしていたので、スタジオ入りの前にホープ軒でニンニクをたっぷり入れてラーメンを喰った。その時のパーソナリティはアルフィ。スタジオにテリーと入った瞬間、有楽町の銀河スタジオではみんながパニックに陥った。「うおおおおおおおおおおおおお、なんじゃこの臭いは!!!!!!!!!!!!!!」
・・・ザマミロ・・・・
 ヤスナカと二人で出前のラーメンとチャーハンを食った。スタミナラーメンは簡単に言うと餃子の中身を麺の上にぶちまけたもの。部屋中にニンニク臭が充満した。若いってニンニクだよね。なんだか分からないけれど。葷酒山門ニ入ラズ(クンシュサンモンニイラズ)禅宗の教えね。ニンニクだのニラだの喰って精力付けて酒呑んで女体の妄想にふけってはあきまへん、という意味らしい。まっヤクザには無縁の教えだ。閑話休題。

 
で、憂国も迫る・・・じゃねーよ、夕刻も迫る頃、漸くボスから電話が入った。現地時間真夜中の一時過ぎだ。確か夏時間だったから。この事務所に電話をしてくる前に、おそらく方々に電話をかけて借金を頼んだか、この事務所の上部団体に渡りを付けていたのだろう。その間に何が執り行われていたのかはいまだに知らない。知る気もない。ボスからの電話の後に、実にあっさりと僕は解放された。しかも3万円入りの「お車代」を貰って。どういう意味だ?と思ったが、詮索はしない。まっ警察への口止め料だったようだ。
 しかしね、こんなのは嵐の前兆よ。この後の数ヶ月間に起こった事はそれだけでサスペンスバイオレンス感動巨篇になるくらいにすさまじかった。   つづく。いつの事やら。

帰国・・・しなけりゃ良かったずら

2006-11-16 18:51:15 | Weblog
 三ヶ月もさぼってしまった。
ここまであまりにも怒濤の勢いで書き倒してきたから、ちょいと疲れてしまったのだな。
それと、会社の資金繰りが毎月毎月毎月毎月・・・・10日25日末日と連続波状攻撃で襲ってきて、ヘロヘロのへとへとになってしまっていたのだ。ホント、経営者なんざなるもんじゃねーな。自律神経失調症だの鬱病だの片頭痛やら虫歯やらインポやら歯も眼も魔羅もオッペケペーのふっにゃふにゃだよ、ちきしょうめ。

 では又輝かしくも青臭い過去に戻ろう。ばびゅーん・・・・・。
 東京に戻って事務所に行くと、社長と専務が僕を待ちかまえていた。いわゆる苦虫を100匹くらい噛みつぶした顔をして。
「ケンジ!!上条のおやじはどうしてんるんじゃ!!」
「どうって・・・レコーディングやってますよ。真面目に。あの・・・なんかそれでレコーディングの資金が乏しくなってきたらしくて・・・それで、あの、まあ僕が帰ってきたわけなんですが・・・」
「あほ!!なに寝ぼけた事抜かしとるんじゃ!!レコーディングっちゅうのはそんなに金が掛かるもんなのか、既に3000万円越えとるんじゃ!!」
「一流ミュージシャン使ってるんで、まあ掛かっちゃってんすかね」
しかし、今考えても掛かり過ぎである。当時がプラザ合意前の一ドル360円換算の時期だとしても、冷静に考えればその半分ぐらいで済む筈だ。
「あのな、ウチの金主筋からの話なんだがな、上条のおっさんな、いたる所で博打の負け金を踏み潰しているらしくてな。今帰ってきたら間違いなく身体バラバラにされるわ。肝臓も腎臓も角膜も何もかも売っぱらわれて、跡形もなくなるわ」
専務が言うには毎日六本木近辺を縄張りにしているTS会という暴力組織の下部組員がボスを探し回っているとの事だった。
どうやら渡米前にレコーディング費用である3000万円の内のかなりの分を博打に費やしてしまったようだ。つまり渡米の理由はつまる所ボスの借金踏み倒し逃亡ツアーだったのだ。レコーディングはその為の大義名分。今では確かに考えられない贅沢レコーディングであった。大ヒットを出しているアーティストならともかく、売れてないアーティストが海外でアルバムレコーディングを行なう場合、その行程は一週間から掛かっても二週間が限度だろう。一日に3曲のリズム録り、ダビングに2日、歌入れに一週間。一日やはり3曲ペース。泊まりは一泊70ドル程度のモーテル。今ならばTDは任せてあとはネットのファイルのやり取りで済ませる。余談になるが、現在はハードディスク1台持っていけば充分。当時は24チャンネルのアナログテープをアルバム分ならば3本から4本持っていく。厚さは2インチだから巾6センチくらいか。一本のテープの重さが2キロ近くある。それを何本も持っていくのだ。で、出国と入国の持ち物検査が厄介だった。当時の検査はX線と強力な磁気を使用していたのでアナログテープを通すと録音されている音が消えてしまう事がままあるのだ。なので、執拗に「No X-ray Please」を連呼しなければならなかった。
僕が帰国した時点で既に二ヶ月が経過していた。つまり二ヶ月間ボスは逃げているわけだ。やれやれである。
音楽業界の知識が皆無の、サラ金会社の社長と専務は結局はボスにいいようにやられてしまったのだ。さすがにこれ以上資金導入する気はないようだ。まあ、笊だし、ドブ金状態ではある。国際電話でこの件をボスに話すと、案の定電話口でキレた。当時の国際電話は会話が遅れる。キレているボスは僕が話している途中から喚き始めるのでぶちぶちに音声が途切れ、もうなんか獣が吠えている状態。何を言っているのかさっぱり解らないので途中で受話器を置いた。しかし、この頃はまだボスに対して忠誠心があった。なんとかしなければならないと思ってしまった。馬鹿だよね。・・・で、ある日、出社中六本木を歩いている時に僕はヤクザに拉致られ、連れ去られてしまったのだ。
なんと、サラ金会社の同僚(?)にチクられたのだ。つまりボスを探している組に、僕がボスの居場所を知っているという事を喋ったらしい・・・。所詮は暴力金融。ヤクザと同じくそったれだ。
車に乗せられ赤坂のマンションの一室に連れていかれた。こんな機会も滅多には無いことなので、つぶさに観察した。なんでかね、結構冷静だった。既にこの頃はボスの影響と暴力金融会社での激烈な勤務によって、闇世界と暴力には麻痺していたのかもしれない。
 事務所の入り口には出前のラーメンの丼が重ねられている。残ったスープの脂が白く固まり、縁には乾いた麺が残滓のようにこびりついてた。天下一ラーメンだった。ドアを開けるとさらにもう一つ頑丈な扉がある。まるでレコーディングスタジオだ。そして、のぞき穴で確認された後、中から扉が開けられた。中は10畳くらいの事務所。奥にもう一部屋。壁には立派な神棚と関連組織の名前の提灯がずらり。革張りのソファに事務机が3つ4つ。ホワイトボードには競馬場と競輪場の名前、開催日付と意味不明の数字がびっちりと書き込まれていた。その下にカタカナの名前が書かれた無数の紙が貼り付けられている。そんな光景を、ほぉ、と思いながら眺めていたら、肩を掴まれて奥に進まされた。もう一つの部屋を肩を掴んでいた男がノックし、言った。
「カシラ、連れてきました」
・・・うおお・・・カシラかよ。いわゆる若頭ってやつだな・・・
「おう」とカシラさんが答える。
ドアを開けると・・・社長室にあるような立派なデスクに両足を乗せてスポーツ新聞を読んでいる痩せた銀髪七三のカシラさん。スリーピースの背広に幅広のネクタイを締めた姿は見た目は普通のダンディなビジネスマンである。年齢はおそらく40代後半。角刈りでもパンチパーマでもない。しかーし、眼が違う。完ぺきに堅気ではない。頬には深い傷痕。脱ぐと背中にはモンモンが入っているのだろうな。
じっと僕を見つめる。思わず頭を下げる僕。
カシラさんはとてもとても優しい声で、僕に言った。
「すまないね。こんな所に連れてきて、さっ座りなさい」
そう言うとデスクの前のソファを指さした。
僕を拉致してきた男に眼だけで出ていけと指示し、カシラさんは僕の前に座った。
小さくなりながら僕もソファに座る。目一杯素直でつぶらな瞳をして。
しばらく何も言わないカシラさん。一旦座ったかと思うとまた起ち上がってデスクに戻った。タバコを取ってきたようだ。タバコはJPS。ボックスから取りだし銜えると僕に箱を差し出した。すかさず遠慮する僕。もう一度ぐいっとタバコを差し出される。断れる状況ではないので右手を伸ばしボックスから一本つまむ。しかし手が震えている。その瞬間、
右手首を掴まれた。ものすごい力で引っ張られた。そして、カシラさんはタバコのボックスをテーブルの上に置くとポケットに手を入れた。
・・・あっ、手刺されるんかな・・・びくっとした。しかし、その手には金ぴかのライターが握られていた。キンッと蓋を開け、シュコッと火を付ける。その間カシラさんは一言も喋らず僕の目を見据えている。正直怖かった。なんというか暴力的な臭いの質が、ボスやサラ金会社の連中とは明らかに違うのだ。当時のヤクザは今のように経済ヤクザではなく、始終牙を剥き、連日抗争事件を起こしていた。六本木や赤坂ではまだ韓国系の組織が介入する前だったので、国内の、特に関西系の進出に伴う衝突が日常茶飯事だった。その眼に見据えられ震えていると、
「火・・・付けてやるよ」そう言いながらライターの火を僕の顔に近づけてきた。いきなり掴んでいた右手を放された。同時にタバコが指から落ちた。タバコはころころと転がりテーブルの下に落ちた。拾おうと身を屈めた途端、目の前のテーブルが横に吹っ飛んだ。テーブルの上の受話器が転がり、ガラスの灰皿が壁にぶつかって割れた。カシラさんが蹴っ飛ばしたのだ。そして、その足は屈んだ格好の僕の首筋の上に乗っけられた。僕の頭は床に押し付けられた。カシラさんは悠然と自分のタバコに火をつけライターをポケットにしまった。
「すまんな、おにいさんにはなんの責任も無いのは知ってる。だけどな、こっちも仕事なんだ。正直に上条の居場所教えてくれよ。そうしたらすぐに帰れる」
端から隠す気は無かった。なにせ海の向こうである。
「か、上条さんは今、ロスにいます」
「そういう噂は確かに聞いた。じゃあホントなんだな」
床に押さえつけられ呻きながら僕は答えた。
「はい・・・今ロスでレコーディングしています」
ふっと頭が軽くなった。カシラさんはボフっとソファに座った。
「で、いつ帰ってくる」
「レコーディングが終われば・・・」
「今から電話をしろ。上条を電話に出せ」
午前中の出来事だった。ロスは今夕方だ。家にはいない。スタジオに入っているだろう。
「今は居ないかも知れないのですが・・・」
「いいから掛けろ!」
「はいっ」
カシラさんは床に転がる電話を拾って僕の目の前に置いた。僕は受話器を取り上げ0051を押した。ピピポパ。オペレーターが出る。ロスの電話番号を告げた。するとこっちの状況も知らないオペレーターは厄介な事を聞いてきた。僕は一瞬迷ったが受話器を外しカシラさんに訊ねた。
「あのコレクトコールにしますか?」
実に間抜けだ。しかし、当時の国際電話は高いので負担を掛けてはまずいと思ったのだ。
「構わない。普通に掛けろ」
再びオペレーターにそのまま繋いでくれと告げた。カチッという切り替えの音の後しばらくしてから日本の電話の呼び出し音ではないくぐもったアメリカ独特の呼び出し音が鳴った。トルルルルル・・・・・トルルルルル・・・・・しばらく鳴り続ける。呼び出し音と呼び出し音の間の無音がとても長く感じた。カチャッ、受話器を上げる音がした。アチャッ、やべっ居たんだ。
「Hello」
んっ?誰だ?知らない声だ。
「あの・・・」
「well?Give' your name?」
「あー、うー、ユア、ユアテレフォンナンバー、トゥーワンスリーエイトエイトワン、××××?」
「No, wrong number」
「・・・・・そ、そーりー・・・」
がちゃっ。・・・うっわー・・・なんちゅうこっちゃ。
「どうした。いたのか?」
「あっいや、あの、電話番号・・・間違えてしまったみたいで・・・」
再び目の前の電話が吹っ飛んだ。カシラさんたら短気なんだから。
「す、す、すみません。もう一度掛けます」
搾り出すような声で言った。あたふたと部屋の隅に別々に吹っ飛んだ受話器と電話機を拾い再び0051にコール。
「コレクトコールにしますか?」
またもやこちらの状況を知らない暢気な問い掛け。むかっとしつつ、
「いや、そのまま繋いでください」
トルルルルルル・・・・・トルルルルルル・・・・・トルルルルルル・・・・・・
一度目は出るなよと願ったが今回は誰か出て欲しいと切実に思った。なんとなく。
トルルルルルル・・・・・・カチャッ
「ハロー」
ほっ、キヨミだ。居たんだ。
「おお、俺、居たんだ」
「ケンジ?今日こっち日曜でスタジオ休みなんだわ。おお、そういえばあのさ、お前が帰った日、ロンダが来て寂しがっててさ・・・・」
いや、もはやロンダはどうでもいい。いらつきながらキヨミの言葉をさえぎった。
「キヨミ、ごめん急いでるんだけれどさ、あのさボス今居る?」
「ボス、テリーとスタジアム行ってるよ。ドジャースの試合観に」
「・・・ああああ、そうなんだ。・・・・ちょっと待って」
送話口を押さえてカシラさんに向いた。
「今、出掛けてるみたいなんですけれど」
いきなりカシラさんは僕の手から受話器を取り上げた。
「おいっキヨミさんよ、ああっ?おまえ男かよ、女みてえな名前付けるんじゃねーよ、なにっ?俺の事なんかどうでもいい。名前?・・・・だまれっ」
カシラさんは受話器を外し僕に聞いた。
「誰だ、こいつは」
「えーと、ギタリストなんですが」
「生意気なガキだな」
・・・ぷっ、いや笑ってる場合じゃない。
「おいっギター弾き。上条が帰ってきたらすぐに○○会のカツマタまで電話するように言え。それまでこいつは帰さねえから」ガッチャーンーンーンーン!!!!受話器が叩きつけられた。今ごろキヨミはキレてる事だろう。
ドジャースの試合が終わるまで僕はここから帰れない事に相成った。まだ試合は始まったばかりだ。アメリカは決着がつくまで試合は終わらない。終了が真夜中になる事もある。
「そういう事だ。しばらくここに居ろ。おーい、ヤスナカー」
ドアが開き傷だらけの坊主頭が後頭部を見せた。90度以上のお辞儀だ。
「はいっ、カシラっ!」
「こいつ、しばらくここの部屋で見てろ。向こうの部屋には連れていくな。ショカツが来ると面倒だ。俺はカイシャに行ってくる。上条から電話があったらな、そのまま切らずに俺が帰ってくるまで待たせとけ」
カシラさんはそう言うとそのまま部屋を出ていった。
それからの時間が長かった。結局ボスから電話が掛かってきたのは八時間も後の事だった。ドジャースの相手がどこか知らないが、試合の行方を海の向こうでびくびくしながら待っている青年がいた事など大リーガー達は少しも知らずに何時間もボールに戯れていたのだ。だから野球選手は嫌いだ。ガイジンは嫌いだ。いまだに野球全般大リーグも全く興味が持てないのはこの時のトラウマか。いや、サッカーもか。っつーかスポーツ全般全く興味無いんだわ。あれもセックスとおんなじで人がやってるの観るより自分がやる方が気持ちいいと思う。そんな事言ってる場合じゃないね。しかし、実はこの事務所にはそれから数ヶ月後再び来ることになるのだ。更に言うとこの時の坊主頭のヤスナカ、本名安中・・・下の名前は忘れたが、こいつとは数年後に出会い、妙ないきさつで舎弟のようになってしまったのだ。当時は18才。死んだのは・・・23才だったかな。五年後に死ぬとは目の前の坊主も僕も知らないんだな。しかしつくづく世の中とは縁だな、やっぱり。

L.Aの熱い風・・・なんじゃそりゃ。

2006-06-01 21:29:48 | Weblog
 今回の渡米の目的はレコーディングともうひとつ、キヨミのギターを中心に他メンバー全員アメリカ人のヤンキーバンドを結成しようというもくろみがあったのだ。メンバーの人選はキヨミと僕に一任されていたので(ボスはとにかく見た目ヤンキーなら良い、という実に乱暴な選択肢)僕らは毎晩のように市内のクラブを見て周り、ブックマネージャーと親しくなり情報を集めた。Rock a GOGO! Roxy トゥルバドール、マダムウォンイースト&ウエスト、他さまざまなクラブに出入した。しかしこの時気付いたのだが、本場だからと言ってみんながみんな巧いという訳じゃないのね。確かに当時の日本人ミュージシャンに比べればパワフルではあるけれども、テクニシャンはなかなかいない。結構難航した。
 さて、どのクラブでも僕らはもてはやされた。それは何故か、コスチュームに凝ってみたのだ。ジーンズにTシャツ、その上に日本から持ってきた甚兵衛の上着を羽織り、頭には日の丸のバンダナ。そんな奇妙な格好したヤツは誰もいなかったから、どのクラブに行っても「サムライ」とか「ニンジャ」とか実にベタな声を掛けられ、とりあえず目立つことには成功した。当時のL.Aだから通用したが今じゃかる~く無視されるだろう。
 
 最初に声を掛けたのはベースの「ジェフ」だった。長身で長髪金髪カール。なかなかの美男子。ベースプレイはどちらかというと当時のハードロック寄りだったが、グルーブ(当時はビートと言った)が抜群に良かった。人懐っこく僕らともすぐに打ち解け、初めて行くことになるであろう日本にとてつもなくデカイ夢を描いていて、正直僕らは「?」だった。なにせジェフに言わせれば「ジャパンのガールはみんなジーンズなど履かず、スカートかキモノなんだろ?そして、家に帰ると床に手をついて挨拶するそうじゃないか・・・」そんな女性を僕らは見たことなかった。相変わらず戦前のイメージが根強く残っている街なのだ、ここは。今思うとL.Aはお洒落でもなく洗練もされていず、アメリカの殆どの地区と同じ用に単なる田舎町である。メキシコが近いせいかメキ文化が街やストリートの名前にも多く見られ、他の街よりも人種の数は多い。映画の街だから一見華やかだが、国際意識はあまりない。首都を問えばソニーかパナソニック。僕らの名前がホンダとスズキだったので二人ともバイクメーカーの御曹司だと思われていたが、めんどくさいのでそれで通した。帰国したらみんなにバイクをプレゼントする事を約束した。いまだに果たされていない・・・当たり前だが。それと首都をトウキョウと言える人が少ない事、同時に日本の地図上の位置はハワイのすぐ近くか、もしくは中国大陸の端っこで自国の属国だと思っている人が沢山いた。大日本国防尊王青年同士会(そんな団体知らん)が聞いたら日本刀振りかざしそうな事を皆平気でおっしゃる。コーリアンは当時は殆ど進出していない。東洋人は中国華僑か、リトルトーキョーの二世三世が多かった。まあ、僕もヨーロッパのはじっこの方はいまだによく判らん。ポルトガルってどこよ?
 そんな状態だから僕らは散々みんなに嘘の情報を植え付けたものだ。例えば女の子を口説くときは「look me yourパイパン」とか「はめさせてください」とか「ヘイ!おま○こ落としたよ」とかもうシモネタ無茶苦茶乱発。大体はキヨミが教えた。あと、SEXは日本語で「ずっぽん」といい、別れたい時には「かっぽん」と言いながらハラキリの真似をする。
 ジェフは我々の馬鹿な言葉を真剣に信じ、メモに取っていた。その後日本でヤツは何度も激怒していた。六本木では一度ももてなかったらしい。
 次に見つけたのがキーボードのリチャード。歯並びがやたらと奇麗な赤毛のアイリッシュ系。格好はスリムの短いパンツに、アロハシャツ。いつも男物のキャノチェ帽を被っていた。L.Aでは珍しいなかなかの洒落者だった。しかしこいつは我が儘で気分屋でいやはや大変だった。キーボードのチューニングも毎回気まぐれでその都度リハとは全く違うことをやりやがってハラハラしどうしだった。女性に対しては奥手で女問題は殆どなかった。しかし、根っからのクスリ好き。日本では絶対に手を出すなと言っていたので時々禁断症状になっていた。
 最後のドラマーがなかなか見つからなかった。パワフル馬鹿が多すぎなのだ。
 ある日、マダム・ウォンというクラブに、ドラマー探しの事は忘れて単純に遊びに行った。キヨミとテリーと三人で。ステージの上ではガールズロックンロールバンドが演奏していた。当時の女性ロックシーンは、AORが主流でパワフルなロックシンガーは少なかった。それから間もなくランナウェイズを解散後のジョーンジェットが「I LOVE ROCK'NROLL」を大ヒットさせた。パットベネターはようやく世の中に知られ始めたころだったと思う。
 ジンソーダをガンガン呑みながらバンドも見ずに三人で盛り上がっていた。その時演奏していたガールズバンドはその後・・・・イギリスで火がつき大ヒットした・・・・名前が出てこない。思いだしたら又書く。でもなんか稚拙なバンドだなと思ったのが正直な気持ち。考えてみるとあの頃L.Aのクラブで演奏していた連中で後にブレイクしたアーティストは結構いた。ジョージマイケル、Heart、ケニー・ロギンス、等々。黄金の80年代ポップスの幕開けの時代だったのだ。
 さて、ガールズバンドのギグが終わり、次に出て来たバンドも女性ボーカルだった。演奏が始まりすぐにキヨミと眼が合った。ドラムのキレがいい。エイトビートなのだがシックスティーンのビートが強い。見ると白人だ。黒人並のビート感だ。(今ではグルーブというのね)しかし、何かしら違和感がある。ハイハットとキックの絡みが妙に変則的なのだ。しかし、それが実にテクニカルに聞こえた。キヨミと二人でひたすらドラムスのプレイに集中していた。ボーカルの印象ゼロ。
 ステージが終わり、そのドラマーは自分のスネアドラムを持ち上げ退場するのだが、その時彼は全く動かない左足を引きずっていた。
 その頃には既に顔なじみになっていたマダム・ウォンのブックマネージャーの「ヤン」に、そのドラマーとの面会をお願いした。僕らは気のなさそうなテリーをテーブルに残し、ヤンに従いバックステージに向った。階段の下の控室の前で、ヤンが相手のマネージャーとなにやら話をしていた。言葉の端はしに「ジャップ」だの「イエローキッズ」だのと聞こえたが無視。相手のマネージャーは端から僕らを軽く見ていたようだ。イエロージャップごときが何をのたまっておるのだ、という調子。いきなり僕が切れた。何故かキレテみた。「シャーラップ!ユーアーシュアファッキングレートマネージャー、ザッツアイノウ!バット ウイアーノットジャストファッキンキッズ、ノットモンキー、ウィアージャパニーズ!!」とかなんとか。言いたい事の十分の一も言えない。しかし、マネージャーは僕らの剣幕にちょっとたじたじしたようだ。そして、扉をガンと叩くと中にいるミュージシャンに声を投げた。「ヘイ!!ビル(日本語にさせてね)日本人がお前に興味を持ったんだと。ここにいるが会うか?」しばらくしてからドアが開いた。マイケル・J・フォックスを一回り大きくしたような風貌で度のきつそうな眼鏡を掛けた金髪の男が僕らの顔を交互に見た。そして、多分こんな事を言ったのだと思う。
「日本人には片足のドラマーがそんなに珍しいか」
ビルはそう言いながら左足のズボンの裾をめくり上げた。肌色の義足だった。
僕らはそれを見て唖然としてしまった。言葉を失った。片足が無いことの哀れみなどではない。なぜ片足で、最前見たばかりのあのドラムプレイが出来るのか。
「あなたが片足だというのは今初めて知りました。失礼しました。だけれどもそんな事はどうでもよくて・・・えーと・・・」気持ちが伝わらない。テリーを連れてくれば良かった。すぐに僕はキヨミをその場に残してテリーの待つテーブルに向かった。そして、彼女の手を取ると再びバックステージに向かった。テリーは通訳として使われることをとても嫌うのだ。まあ、アーティストなのだから当然といえば当然だ。しかし、今回は違う。テリーのオリジナルメンバーを探しているのだから。階段を下りながらテリーに説明した。どうしても僕らの気持ちをカレ、ドラマーのビルに伝えたいのだと。
 テリーに言いたいことを伝えた。彼女がビルに向かって話す。
「彼らはあなたのプレイにとても興味を持ったようよ。片足があるとか無いとか関係ないわ。だってスティービーワンダーもレイチャールズも目が見えないから素晴らしいのではないでしょ。あなたも同じよ」後半はテリーの気持ちだろう。
「私たちは日本でプレイしてくれるミュージシャンを探しているの。あなたをドラマーとして日本に連れていきたいのだけれど、どうかしらって話なんだけど」
ビルはしばし無言だった。そして、退屈そうに様子を窺っていたマネージャーの胸ポケットからボールペンを引き抜くと扉に乱暴に数字を書きなぐった。そして、ぽんっ、とボールペンを放り投げ、再び扉を閉めてしまった。それを見ていたマネージャーが一言。
「やる気みたいだな。週給500ドルは約束してやってくれ」そして僕の肩をぽんと叩くと床に転がったボールペンを拾い上げ僕に手渡した。僕はポケットの中からライブチケットの半券を取りだし扉に書きなぐられたビルの電話番号を書き写した。
 こうして、片足のドラマー「ビル」の加入が決まり、新たなテリーバンドが誕生した。
 
 さて、レコーディングは順調に進み、後はトラックダウンを残すのみとなった。
「ケンジ、悪いが至急帰国してくれ」
 ある日の朝、国際電話を掛けた直後、ボスが言った。なんとレコーディングの資金が底をついてしまったのだ。何とか追加の資金を投入してくれるようにサラ金会社の社長に掛け合っていたようなのだが、社長は相当渋っているようだ。既にこの時点で3000万円近い金額が霧消してしまったらしい。要は今まで出来上がっている音源を社長及び当時の契約メーカーであるポリドールレコードの連中に直接聴かせ、なんとか残りの金をふんだくってこい、と言うのだ。僕この時21歳です。交渉の使者としてこんなに役不足な者はいないでしょう。もう少しL.Aに残ってトラックダウンのテクニックとか学びたかったのだが・・・嘘、ロンダと別れるのがやはり辛かったのだ。それだけだったと思う。
 そんな訳でしぶしぶ一人帰国の途についたわけである。L.A滞在2ヶ月半。この後CMのレコーディングやらなんやらで何十回となくL.Aには来たが、この時の印象が一番鮮烈に残っている。
 さて、東京ではとんでもない事が起きていた。ボスが3ヶ月も日本を離れていた理由が帰ってすぐに判明した。いやはや・・・。続く

L.A失恋話

2006-05-30 12:41:28 | Weblog
 朝7時に起床する事からL.Aでの毎日は始まる。ジンコと共にみんなの分の朝食を拵え(多分この時期の経験によって僕の料理欲が高まったのだと思う)その後、テリーはプールで肺活量を養うトレーニング。キヨミは寝巻きのまま朝からギター抱えて運指のトレーニング、僕は再びカズさんとロケハン。・・・ボスはTVで大リーグ観戦。のどかな午前中を過ごし午後からスタジオ入り。深夜までセッション。真夜中アパートメントに帰り、それからキヨミと僕は酒盛り。歩いてすぐの所に深夜まで営業している寿司屋があった。そこのおかみさんがいかにも在米二世的な美人で、キヨミと僕はとてもやさしくしてもらった。今なら殆ど食べないが、初めてカリフォルニアロールなるものを食べた時には正直美味さに感動してしまった。そんな平穏でルーティンな日々がしばらく続いた。
 レコーディングの第一段階が終了した隙間のある日、ボスに命じられた。
「ケンジ、『パツキン』の『パイオツ』ドッカーンとした女買ってこい」
 当時のサンセットストリートは日が沈むころ、ハリウッドドライブと交差するあたりの両側200メートル程にずらっずらっとコールガールが並ぶのだ。これ以上ないほどタイトなワンピースミニに身体を押し込んだ「黒白抹茶小豆コーヒー柚子桜」のプレイボーイから抜け出たようなグラビア娘がわんさか。今は規制で禁止になり久しいが、当時のハリウッドではひとつの観光名所みたいなもので、それはそれは壮観だった。よくキヨミとボスと三人でゆっくりと車を走らせながら品定めしたものだ。
「ボス、本気です?」
「あたりまえだよ、早くしろ」
 その日テリーとジンコはサウンドエンジニアのレナードの家のパーティに招かれ、おそらく深更まで帰ってこないだろう。確かに今日この日しか楽しみはないな。
「ボス、後で好みで文句言わないでくださいよね」
 そう言いつつキヨミとハリウッドに繰り出した。時間も早くお茶挽いてるアメリカン娘達がしきりに色目を仕掛けてくる。しかし、まだまだ円安の日本、東洋人相手にしてくれるコールガールなんかいやしない。しかもショート(一時間)で200ドル・・・当時の日本円では48000円!チップを入れると一人頭55000円。三人で・・・おいおい165000円也だ。そんなお金持ってないし。ボスに言い訳したいが当然携帯電話なんてない。確認も出来ずすごすごと帰ってきた。しかしボスは既に臨戦態勢だったらしく、手ぶらで帰ってきた僕らにめちゃくちゃ当たりだしたのだ。ただしギターのキヨミはアーティストなので例外。僕だけプールに投げ込まれ、 なんと、L.Aに来てすぐに買い求めたモノホンの拳銃「ワルサーPPK」で乱射し始めたのだよ。・・・まあもちろん当たらないようにだけど、単なるおふざけなんだろうけどね。そうは言ってもびびりまくったわ。

 アパートメントの2階にはユダヤ系の女の子、ロンダが暮らしていた。やせ形で顔が小さく、瞳の色は薄い茶色で、鼻筋が奇麗で唇は薄かった。バストの形も素敵だった。しかし彼女は生まれつき足が悪く、車椅子に乗って生活していた。エレベーターに乗るときなど、我々紳士な日本男児はなにくれとなく親切に接したものだ。彼女は毎日プールサイドにやってきては足を使わずに水泳をしていた。障害者の水泳大会にもたくさん出場し優勝したこともあると言っていた。だから上半身の筋肉は素晴らしかった。やがて我々は彼女と親しくなり、レコーディングがない日や早く終わった日はしょっちゅう夕食を共にした。そして僕は彼女に惚れた。プールサイドで慣れない英語を操ってはたくさん会話を交した。部屋にも遊びに行った。彼女は当時カリフォルニア州や支援団体からの障害者に対する補助金で生活していた。しかし、それだけでは最低の生活しかできないので、副業として「マリファナ」「コカイン」の売人をしていた。部屋の半分に栽培用のプランターがあり、1.5メートル近くに育った大麻が生い茂っていた。当然これは犯罪である。が、しかし今もだが、カリフォルニア州は大麻の個人栽培には寛容で、外で売買でもしないかぎり捕まることはないらしい。これは今では更に緩くシスコでは不眠症の患者や鬱病の患者には医者が処方する事が最近許可されている。まあ、大統領が就寝前に吸引している国だからね。ただし、コカインは御法度だ。勿論所持しているだけで即逮捕。結局はコロムビアやブラジルなどにドルが流出することが許せないのだろう。だから誰にでも栽培できちゃうような大麻にはめくじら立てていないのだろう。
 さて、25年も昔の、それも外国の話だから書いちゃうけれども、ロンダが扱うマリファナはおそらくとても上質なものだった。彼女の家にいると頻繁に顧客がやってきた。殆どがアパートメントの住人達だ。若い女の子も男の子もいれば初老の夫婦も買い求めにくる。まるで、田舎から送られてきた無農薬野菜を個人販売しているがごとくに。
 当然、僕も何度もロンダの御相伴にあずかった。しかも毎回御馳走してくれた。特に食事の前は必ず何服か回し飲みする。すると、舌の味覚がとても鋭敏になって、何を食べても素晴らしく美味しいのだ。ロンダはユダヤ系ではあるがユダヤ教徒ではないらしく、禁忌の食物は無いらしい。牛でも豚でも料理してくれた。特にシーフードが得意で巨大なロブスターや、エビ、イカ、ムール貝、ハマグリなどをたっぷりと買い込んでくる。味付けは簡単で、オリーブオイルにニンニクで全部何もかも白ワインで蒸すだけ。食べる前にしこたまライムを絞るのだ。しかし、これが馬鹿にウマイ。マリファナのせいもあるのだろうが、物も言わずに食べ続け、残った汁まで啜ったものだ。
 ロンダはキスがとても上手だった。キスだけで・・・ちゃうくらいに。
 僕はてっきりロンダと付き合っていたつもりだったのが、それは子供の勘違いというものだった。
 ある晩、全員が寝静まった頃、そっとベッドルームから脱けだす影一つ。ボスだ。部屋着から外出用に着替え、帽子も被り、そっと玄関の扉を開け外に出ていった。こんな時間に一体ボスはどこに行くのだろうか・・・気になり、静かに玄関を少しだけ開き、外を窺ってみた。すると、エレベーターホールにボスが佇んでいた。そして、昇りの箱に消えた。ここは1階だ。アパートの外に出るのにエレベーターは必要ない。地下にはコインランドリーがあるだけだ。エレベーターの回数表示の灯を見つめていると二階に止まった。間違いなくロンダの部屋に行ったのだ。確かに僕は彼女とキスは交した。が、それ以上の行為には進む事が出来ずにいた。下半身が動かなくても行為は出来るのだろうか、それは相手に対して失礼な事ではないのだろうかと。そう思っていた、と言いたいところだが、若干20歳、そんな細やかな心遣いなどあるわけもない。拒絶され、ロンダとの幸せな時間が失われる事が恐かったのだ。寝られない僕は窓の外が明るくなるまで何度も寝返りをうちながらボスのベッドを見つめていた。そして、朝方出ていった時と同様にそっとボスは帰ってきて、寝床にくるまった。僕はその時嫉妬の嵐だった。ボスのベッドのサイドボードの引き出しの中には「ワルサーPPK」が入っている。ボスが寝静まったのを窺い、僕はそっとベッドから抜け出し、サイドテーブルの抽き出しを開けた。そこにはシルバーに光る拳銃が。そっと取りだしグリップを握りしめる。第二次世界大戦当時、ドイツのゲシュタポが使用していた名銃だ。弾倉には7発の弾が込められているはずだ。僕は安全装置を外し、静かにスライドし初弾をチェンバーに送り込む。そしてボスの頭に向けて「ドンッ!」
 そんな夢を見ていたらキヨミに起こされた。いやはや寝取られた、っつーかボスにはどうしたってかなわん。その後もロンダとはうまくやっていたが、二度とキスはしなかった。ウブだったのだ。今なら考えられんな。
 キヨミもやたらともてていた。プールサイドで寝ていると、超美形スタイル抜群がにじり寄ってくる。そしてキヨミの胸を触りながら懇願するように言うのだ「キヨーミ、あなたの乳首にこのピアスを刺させて欲しいのよ」しかし、キヨミにとって残念だったのは相手がゲイだった事だ。最初は判らなかったがプールサイドに
男性二人でやってくる光景を見る事が多かった。このウエストサイドはゲイがやたらと多い地区だったのだ。手を繋ぎながら歩く男性カップルがやたらと眼についた。しかしそういう連中に限ってメチャクチャ美形なのだ。この頃、まだエイズは発見されていない。西海岸はゲイのパラダイスだった。

渡米レコーディング編

2006-05-19 20:14:05 | Weblog
 翌日目覚めると紛れもなくここはL.Aだった。昨夜の記憶が曖昧だ。おそらく朝方みんなと一緒にここに帰ってきたのだろう。住居はホテルではなくアパートメントだった。滞在三ヶ月だからね。ボスとテリーと、渡米前にバンドに引っ張り込んだ高校時代の同級生だったギタリストの本田清巳、それからテリーの付き人として入ったジンコ(本名忘れたが、この娘はテリーの熱烈なファンだったのを釣り上げた)以上五人の共同生活。アパートメントは2ベッドルーム2バスルームと20畳近いリビングにキッチン。建物の1階に位置し(アメリカでは1階は安い。セキュリティが不安だからだろう)リビングの窓を開けると、目の前はプール。そのままどぷーんと飛び込めるようなシチュエーション。アパートメントの場所はビバリーヒルズの近くでウエストハリウッドのラ・ブレアアベニュー沿いというまあ中級の上の街。サンセットストリートから1ブロック北に上がった所でサンセットストリートの角にはタワーレコードがありラ・ブレアアベニュー挟んで反対側に「Whisky a go!go!」があった。L.Aで当時一番大きなライブハウス「ROXY」もサンセットストリートを五分ほど歩いた所にある。とにかく音楽生活従事者には最高の環境だった。プールサイドにはブーゲンビリアが咲き乱れ、初めて見るハチドリが羽ばたきながらハイビスカスの花弁に口吻を差し込む。・・・嗚呼まさにここはウエストコースト・・・らららー。頭の中では「カリフォルニアの青い空」が大パワープッシュ状態。何もかもが輝いて見えた。巨大スーパーマーケットに行くと生鮮売り場には巨大なステーキ肉や丸ごとのターキーや豚の塊肉、サーモンの輪切り、ナマズのような魚、山に積まれたオレンジ、葡萄、スイカにメロンにトマト・・・それとピザやラザニアなどの冷凍食品の数々。ウエルチの巨大ボトルに数種類のジンジャーエール。初めて味わう濃縮果汁還元ではない100パーセントオレンジジュースのフレッシュさ。今じゃカルフールだの紀伊国屋だのコストコだのがあるからこの国でも普通の情景だけれども、その当時の日本の寄り合いスーパーマーケットとは大違いだった(個人的にはその頃の昔の日本の商店街が好きだけれども)
 街中を走っているのは、ついさっき爆撃でも受けたようなボロボロのアメ車(フロントガラスがないだとか、助手席側の扉が無いのは当たり前)ストリートの両側に聳えるFM局やタバコの巨大ビルボード、どこを向いてもアメリカ人(今思えばメキシコ人もたくさん居たはず)そして暑いのにさらさら乾燥している風。何と言ってもイーグルス「ホテルカリフォルニア」のジャケットに使われた「ピンク・パレス」を見たときは「おーい、グレン・フライ、ドン・ヘンリー、ジョー・ウォルシュ他、みんな元気かー、風邪ひいてねーかー」友達でもないし、会った事もないし、身体気遣われても知らないふりされるだけなのに、なんかこの同じ時間に同じ空気を吸っているんじゃないか、と想像するだけで興奮してしまったものよ。
 いやはや、この頃が一番楽しかったね。その後にまたもやとんでもなく翻弄されちゃうドラマが待ち受けていることも知らずにただただ僕ははしゃぎまくっていた。つかの間の娯楽だ。まっそれはおいおい書き連ねるとして。
 すぐに親しくなったのは現地在住のカメラマンのカズさん。「デビッド・リンドレイ」の「Win This Record」のジャケを撮影した人。「デビッド・リンドレイ」は知る人ぞ知る。知らない興味ない関係ないうざいきもい人には全く縁のないアーティスト。なにせ日本ではこのアルバムタイトル「化け物」だったし。当時のカズさんはまだ20代後半。テリーのジャケ写もこの人が担当する事になっていたので、ロケハンと称して色々な所に連れて行ってもらった。L.Aからベガス方面に北上すると一面砂漠地帯。フリーウエイを2時間も突っ走ると乾燥したジョシュアトゥリーが鞠(まり)状になって風に転がる荒涼とした大地。地平線が見えるこんな場所で日没に車を止めて枯れ草集めて燃やし、沸かしたコーヒーにバーボン入れて飲んだりしちゃったら、んもう気分はもはやカウボーイ、訳して「牛少年」・・・なんじゃそりゃ。そんなこんなも初めてのアメリカだった。いずれ慣れると味気なくなるんだけどね。

 到着して数日後にレコーディングが開始した。スタジオシティ・・・ユニバーサルスタジオがある辺りの「スタジオ・ダンブリン」アイリッシュ系のエンジニアがオーナーのスタジオだった。・・・しかしよく覚えているものだ。多分これ書く前は25年間封印していたくらいに懐かしい名前。自分で自分の書く言葉に酔ってしまうよ。
 レコーディング初日。リズム録りの為に続々とミュージシャン達が集まってくる。
「おおおおおおお、き、清巳!!ル、ル、ルカサーだよ、ポ、ポーカロだよ!!!あいつら本物か?」みたいな驚嘆の中、彼らは黙々とセッティング。ドラムの音はセッション開始3時間前にドラムスのトレーナーが楽器を運びセッティングし、基本的なサウンド作りだけで2時間近く掛けていた。この時の音作りの光景は今でも僕の中に活きている。専門的な話になるが、日本のエンジニアの殆どが25年前から今に至るまでサウンド作りの多くをハードやソフトのプラグインに頼っている。イコライジングもアンビエントもだ。(反論は聞かねえ。そうでないとしてもおまいらの殆どは海外に通用しない所詮まがい物だよ)しかし、アメリカでもイギリスでも基本のサウンドはスタジオや板の反響を考慮し、マイクの角度、距離をもとに作り上げていく。この両者の態度は今でも変わらない。だから日本の音はどうしたって薄っぺらい。アメリカのサウンドはどうしようもなくパワフルだ。電圧の加減だとか、コンプの使い方だとか揚げ句は空気の乾燥だのしまいには食い物の違いだのと抜かす馬鹿エンジニアが日本にはまだまだ沢山いるっつーかほぼ全員。太平洋挟んで対岸から馬鹿にする材料探す前に、現地のレコーディングを一度で良いから経験出来る環境を、スタジオはエンジニア志望の人達に提供して欲しい。1曲のトラックダウンに7時間さえも愚か、10時間も掛けるのは単なる制作費の無駄遣い、愚の骨頂だ。伎倆があればな1曲2時間で仕上がるんだよ。
 ついつい興奮してしまった。・・・。しかし、アメリカのスタジオではたまにコカインのやり過ぎでプレイ中に壊れたミュージシャンが暴れだす事もあるようで、エンジニアが座る卓前の下の引き出しにはなにげに拳銃が置かれているし、スタジオとコントロールルームを仕切るガラスは防弾仕様だ。こんな事は学ばなくてもよろしい。その辺については欧米のミュージシャンは確実に相変わらずいまだに牛並に馬鹿だと思う。いやはや。
 しかし、今回はカタカナが多い。読みにくいね。すまん。
 そして、渡米編はもすこし続く。本日はこれまで。酔ったわい。

初洋行・・・良いこともあったさ。

2006-05-18 00:48:49 | Weblog
 さてと、再び25年前に戻ろう。
 サラ金会社兼マネージャー稼業の僕の毎日はそれなりにとてもスリリングだった。逆恨みした債務者が出刃包丁持って乗り込んで来た事もあった。毎日一度は恨み言、脅しの電話を受けたりもした。
 専務の木下さんは見た目無茶苦茶恐い人だったけれど、内実この人は優しい人だった。御自宅に招かれた事もあったが、可愛らしい普通の奥様に当時三歳になるお嬢さんがいて、普通に子煩悩なパパだった。木下さんはこのサラ金会社ともうひとつ、闇の探偵業を営んでいた。まあいわゆる事件屋。企業の不渡り手形の回収だの総会屋の手先となって、大手企業の重役のスキャンダルを探すといったお仕事。何故かこの木下さんに僕はいたく気に入られてしまい、何度もスカウトされたものだ。給料も破格。正直、金の多寡で心は動くものよ。なにせ80万円。当時の自分の給料の7倍近く。でもやっぱりね、音楽から離れる事は出来なかった。
 社長のSさん(今どーしてるか全く判らないので匿名とする)はとにかく芸能界好き。それも夜のクラブ遊びで自慢したい、ただそれだけの理由で。しょっちゅうお供をさせられた。ヤレもしない女とただ呑むだけの慣行の阿呆らしさに20歳で気付き、その後、接待以外でそんな場所に出入した事はない。ただでさえ周りにはピッチピチに若い娘たくさん居るしね。ただみんな恐いけど。
 S社長と同じく、事務所に詰める若い衆達も芸能界に憧れる輩が多かった。そんな連中を逆研修とばかりにNHKの「レッツゴーヤング」の収録に連れていった。NHKホールの楽屋口はステージ下手の入り口に向かって長い待合いロビーになっている。ステージの状況が見えるようにその通路の真ん中にモニターが置かれ、向い側に安手のソファーが並べられている。25年前も現在も殆どおんなじ。ったく番組のプロデューサーにポッポされる前に少しは設備に金掛けろよ、公共放送。(ついつい本音)
 その頃の「レッツゴーヤング」の司会は確か太川陽介と榊原郁江ちゃんだったと記憶する。その後、田原のトシちゃんと聖子ちゃんに変わったのかな。今は「ポップジャム」という名前でこの番組は継承されている。だ・か・ら、ロビーと楽屋、もすこし何とかしろよな。
 で、この日このロビーの一角に相当異色な連中が占拠した。でもね、いつもは肩そびやかして周囲を威圧している連中がまるで「借りてきた猫」状態。自分たちの前をいつもはブラウン管の中でしか見た事ないタレント達が闊歩している。松田聖子、小泉今日子、近藤真彦・・・。どういう顔していればいいのか判らず、ひたすら下を向くばかり。けっ、可愛いやつらだ。
 で、僕はたまたまその頃のピンクレディと、適当になんとなく顔見知りだった時代があって(この辺はもうあんまり覚えていない。土井ハジメさんという振付師との付き合いの延長だったと思う)この日、ミーちゃんとケイちゃんが通りかかった時に「御無沙汰してます」と声を掛けたのだ。すると二人もなんとなく顔だけは覚えていてくれたようで「ああ、どうも、お元気ですか?」と、むっちゃくちゃ業界系社交辞令を返してくれたのだ。当然名前なんざ覚えられちゃいない。しかーし、業界免疫の全く無い先輩社員さん達にはこれが相当「キチャった」らしい。
「すごいっすねーピンクレディと知りあいなんすか」
いきなり敬語。あんたさー、この前俺の事ぼこぼこにしたやんけ。
「いやぁ、ちょっとね」と僕。
なーにがちょっとね、だっちゅうに。でも、ちょいと「勝った」という気分を味わったな。暴中歓あり(ボウチュウカンアリ)・・・。
 その後、このサラ金会社も斜陽化していく。なんだかんだで社長も専務も悪人になりきれなかったのだ。何度も債務者に借金踏み倒され、上条ボスにバンバン金遣われ、裏ビデオ屋は摘発され、歌舞伎町のデート喫茶も時を待たずして日本のヤクザに乗っ取られた。で、ある日潰れてしまった。その後社長のS氏は映像制作会社を起ち上げるが失敗。今はどうしてるのかな。所詮は船橋でパチンコ屋や焼き肉屋を手掛ける家のボンボンだったのだ。
 専務の木下さんは数年後、京浜運河に刺殺死体で浮かんだ事を新聞で知る。・・・。家族の行方は知らない。この人にはかなり好意を持っていた事を自分の泪で知った。

 サラ金会社に所属中、アメリカでの録音話が持ち上がった。当時の日本ではまだ海外での録音は珍しかった。その数年前のプラザ合意後、円は変動制に移行したのだが当時のレートはそれでも充分に円安ドル高だった。確か1ドル240円くらいだったと思う。現在の倍以上だ。海外録音は日本での制作を遥かに上回る高値だったのだ。それでもボスは意地で敢行した。当時のボスの気持ちを諮るに今の自分に似ていると思う。アーティストの為ならばどんなにリスクが掛かっても構わないという気持ちが確かに僕にはある。なんだかんだで影響を色濃く受けているのだなと思うし、その事に何故か悄然としてしまう。
 さて、僕にとっても初の洋行だった。しかもミュージャンの殆どはその後グラミーを総なめしたTOTOのメンバーだった。ギターはスティーブ・ルカサー、キーボードはスティーブ・ポーカロ、コーラスがボビー・キンボール、ドラムスはジェフ・ポーカロではなく、オリビアニュートンジョンのオリジナルメンバー、マイク・ベアードであった。ベースはえーと、えーと、確かイスラム系の人だった。そう!!エイブラハム・ラボリエルだ、うん。
 確かに当時のTOTOメンバーはまだ、金さえ出せば演奏してくれるスタジオミュージシャンではあった。しかし僕にとっては夢の様な話だったし出来事だったのだ。
 初めてアメリカのL.Aに到着した時、既に現地は夕やみに包まれていた。訳も判らずイミグレーションを通過した。僕はテリーと一緒にL.A入りしたので、通訳には困らなかった。彼女がいなければひょっとしたらいまだに僕はイミグレーションの手前で暮らしているかも知れない・・・・んな事はないか。既に先乗りしていたボスとコーディネーターが出口で迎えてくれた。そして、そのまま荷物を解く間もなく我々はサンセットストリート沿いの「Whisky A GOGO」というクラブに連れていかれたのだ。
 夕闇の中でアメリカ初情陸の実感も無いまま、車に押し込まれ、いきなり当時最も流行っていたクラブに連れていかれた20歳の小僧の気持ちを慮ってみて欲しい。「うっわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」である。いきなり映画の世界にぶち込まれた気分だった。なにしろ周りは金髪だらけ。バーカウンターもステージも観客もなにもかもが徹底的にアメリカだったのだ。そして、間髪入れず「ヒューイルイス&ザ・ニュース」のギグである。もうアメリカンOFアメリカン。気分は完全に「アメリカングラフィティ」
 でね、ぼーっとしていると当時はまだクラブに来る東洋人が珍しかったのか、ひやかす意味だったと思うけれども、次々にマリファナを巻いたジョイントが僕の手に渡されるのだよ。最初はタバコだと思ったのだけれども吸うたびに頭がくんらくんらしてくる。ああ、これがグラスか、マリファナかと思い、くそー、負けてたまるかとばかりにガンガン吸いまくった。しかーし、時差ボケと長旅であえなく沈没。正直に言います。「ヒューイルイス&ザ・ニュース」のライブの真っ最中に「Whisky A GOGO」のフロアにわたし嘔吐しました。・・・情けない。その後大ヒットしたバンドのしかも最後のクラブ演奏だけに覚えている人がいるとしたら、わたしゃその人抹殺したいわ。その後はCMのレコーディングやらなんやらで何十回となくアメリカには行ったけれども、あの時のアメリカでの初洗礼は忘れられません。