聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

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2007-10-15 | 「その他」


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   このブログは、2.004年11月~2.007年11月までの約3年間に、聖書のみことばに基づいて人生の意味や目的を考え、皆様の人生の指針となるようなメッセージを書き綴って来たものです。全部で、202の記事があります。いくつかのカテゴリーに分けられていますが、どこから読んでも結構ですので、どうか、ご自由にお読みください。これは、単なる道徳や宗教の一つを紹介することが目的ではありません。また、キリスト教の一つの宗派を紹介することでもありません。  

このブログの最大の目的は、聖書の中心の主題であるイエス・キリストという御方を皆様に紹介することにあるのです。神が全人類に啓示された聖書に基づいて、聖書は何を語っているのかをできるだけ聖書の真理から反れないように、書いたつもりです。まだ、イエス・キリストの救いについてお知りにならない方や、聖書をよく理解できない方などにも、何とかして分かっていただきたいという願いをもって書きました。

尚、各記事に写真や絵文字などを使ったのは、初心者の方にも少しでも親しみやすいようにとの願いからです。数行づつ行間を開けたり、字を大き目にしたのも、お年寄りの方や目のご不自由な方でも読みやすいようにと配慮してのことです。脱字や誤字など、また間違った表現など、その他何かお気づきの箇所がございましたら、メールで教えてください。

また、聖書に基づいてここに書かれている記事は、自分が正しいと確信している真理を発信して来たことでありますが、どなたに対しても、信仰を強制するものではありません。人が何を信じ、いかに生きるかは、だれからも強制されるべきものではありません。しかし、たった一度しかない人生ですから、真面目に真摯にご自分の人生についてお考えになってください。そして、この地上の短い人生だけなく、永遠の観点から考えて賢明な人生の選択をなさっていただきたく、心から願っています。

このブログをもう更新することはありませんが、過去に既に書いた記事の修正や、足らない所を補足することなどはあるかもしれませんので、ご了解ください。また、この最初のページの写真やテンプレートなどは、季節によって入れ替えることもあると思いますので、ご了承ください。皆様お一人お一人の人生を神様が豊かに祝福して導いてくださいますように祈りつつ失礼いたします。

私は、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教会、世界統一協会などの団体とは全く無関係です。健全な聖書のみことばに基づいて、福音の真理を純粋に宣べ伝えているクリスチャンです。


◆Since 04.11.14~15.03.25【1.532.338 】  

管理人「北国のこひつじ」


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★最後に・・・・・一言。

2007-10-11 | 「その他」

 
          
北国は、紅葉が色づきはじめ、日毎に秋が深まりつつあり、朝晩は冷え込む季節になりました。みな様はお元気でお過ごしでしょうか。実は、私事ですが、いろいろな事情により、本日をもって、このブログの記事の更新を中止することに致しました。今までご愛読くださった方々に心からの感謝の気持ちをお伝えしたく思います。今まで、多くの皆様から聖書に関する質問のメールや温かい励ましのメールをいただきましたことも、心から感謝いたしております。その他、善意によって記事の間違い、誤字脱字などのご指摘をくださった方々にも心からお礼を申し上げます。

私の個人的な願いは、一人でも多くの方々が万物を創造された真の神様のご存在をお知りになり、生ける神のみことばである聖書に触れ、人間本来のあるべき姿に立ち帰られることです。「聖書」は神の霊感によって記された間違いのない神の真理のことばです。聖書が勧めておりますように、ご自分の(神に対する)罪をお認めになられ、愛なる神が救い主としてお遣わしになられた御子イエス・キリストを信じて永遠の滅びから救われて、永遠のいのちをご自分のものとなさってくださいますように心からお勧めいたします。

今の世界は、まさにかつてのノアの洪水前夜の様相を呈しております。「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」(創世記6:11)と、創世記に記録されてあるように、今日も巷では不道徳と犯罪がはびこり、その悲劇的な惨状は目を覆うばかりで、家庭は崩壊し、社会は腐敗堕落し、日毎に悪が増大しつつあります。確かに、聖書が警告しているように神の裁きの日が迫っていることは確実であると思われます。しかし、聖書は、神が完全に正義の御方ですが、また同時に完全な愛のご性質をお持ちのお方であることを語っております。ですから、神の前に罪を犯して滅びに向かっている私たちのために、救いの道を備えてくださいました。それが、イエス・キリストの十字架と復活による福音なのです。神は、あなたが救われるのを待ち望んでおられるのです。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人(となられた御方)としてのキリスト・イエスです。」(テモテへの第一の手紙2:4、5)。

●「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。‥‥‥夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。 」(ローマ人への手紙13:11~14)。

●「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」(1ペテロの手紙4:7)。

●「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。‥‥」(2テモテ3:1)。

●「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。‥‥神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人(主イエス・キリスト)により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒の働き17:28~31)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

●「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。


みなさん。どうか、聖書に記されているこれらのみことばをご自分に当てはめて深くお考えになってください。これらは、みなさん一人一人の人生と無関係なことばではありません。天地万物をお造りになられた真の神様が、みなさんお一人お一人に、個人的に語っておられるみことばなのです。決して無視できない神のことばなのです。人生は70年か80年の短い地上の生涯だけで終わってしまうのではありません。肉体の死は、死後に永遠に続く世界の入り口に過ぎません。死後には永遠に続く二つの世界があることは、聖書が繰り返し語っている事実なのです。

死後には、もう二度と救われるチャンスはありません。ある意味においては、この地上の生涯は、死後の永遠の世界をどこで過ごすかを決定するために備えるため与えられている準備期間でもあるのです。永遠のいのちか、永遠の滅びか。永遠の天国か永遠の地獄(火の池)か。永遠の祝福か、永遠の苦しみか。それを決定するのはあなた自身の決断にかかっていると言っても過言ではありません。これは、非常に厳粛なことです。どうか、賢明な人生の選択をなさってください。これは、私の心からの偽らざる切実な願いなのです。

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 」(マタイの福音書7:13,14)。
 



★人間の厳粛な死について

2007-09-22 | 「人の死とその備え」


●「私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。」(2サムエル14:14)。
 
 このことばは、エルサレム南方にあったテコアの町に住んでいた知恵ある一婦人のことばです。この一節だけを考えてみたいのですが、少しだけその背景の説明が必要かと思います。異母弟を殺したアブシャロム(ダビデ王の息子)は、父ダビデの怒りを恐れてエルサレムに帰らず、三年の間ゲシュルの王の所に身を隠していました。わが子がたといどのような大罪を犯したとしても父のわが子への愛情は簡単に消えるものではありません。しかし、たやすく息子を赦すことの出来ない王ダビデにとって、この三年はまことに長い年月であったであろうとことは推察できます。そのダビデ王の心中を察した部下のヨアブ(ダビデの軍の長)は一計を案じて、一人の知恵のあるテコアの女の協力を得てダビデにアブシャロムを呼び戻す召還の機を提起したのです。

 テコアの女は、ヨアブから指図されるままに、長い間喪に服している女を装い、王のもとに行って、言いました。「実は、この私は、やもめで、私の夫はなくなりました。このはしためには、ふたりの息子がありましたが、ふたりが野原でけんかをして、だれもふたりを仲裁する者がいなかったので、ひとりが相手を打ち殺してしまいました。そのうえ、親族全体がこのはしために詰め寄って、『兄弟を打った者を引き渡せ。あれが殺した兄弟のいのちのために、あれを殺し、この家の世継ぎをも根絶やしにしよう。』と申します。あの人たちは残された私の一つの火種を消して、私の夫の名だけではなく、残りの者までも、この地上に残さないようにするのです。」 と言って不孝なやもめ女を演じました。これは、すべてダビデがわが子アブシャロムを呼び戻すための策であったのです。

 それで、ダビデ王は彼女に同情し、この女のために命令を出すことを約束しました。そして、これは、ダビデの心情に訴えて、追放したわが子アブシャロムを赦し、召還させるためにした演技であったのです。それで、このチャンスを逃さず、その女は王に強く迫って言いました。「このはしために、一言、王さまに申し上げさせてください。あなたはどうして、このような神の民に逆らうようなことを、計られたのですか。王は、先のようなことを語られて、ご自分を罪ある者とされています。王は追放された者を戻しておられません。 私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。‥‥」(2サムエル14:12~14)。冒頭の聖句から、人生の大切ないくつかの真理と、ここに暗示されているキリストの福音について考えてみたいと思います。

【1】人間は必ず死ぬ者である。 
 彼女は「私たちは、必ず死ぬ者です。」と言いました。これは、何と厳粛なことばではないでしょうか。すべての人は、いつか必ず死ななければならない存在です。これには、いかなる差別もありません。老人だけでなく、今若い人もやがていつか死ぬ時が来ます。病気や病弱な人だけでなく、今健康に何の不安もない頑健な体を持った人も、やがては必ず死ぬ時が来ます。貧しい人だけでなく、大金持ちも例外なく死ぬ時が来るのです。また、身分の低い人だけでなく、一国の大統領や宰相も死ななければない時が必ず来るのです。だれでも、病院の医者から「あなたは癌です。」と告知されたら、非常に大きなショックを受けるでしょう。なぜでしょうか。死ぬのが怖いからです。最近は医学が急速に進歩して今は完治する癌も多くありますが、昔は、「癌」は死の宣告を意味しました。
 
 人間が一番忌み嫌う言葉は、「死」ではないでしょうか。死が怖いので、できるだけ死について考えないようにします。私は家のすぐ近くにガレージを借りていますが、左から1番、2番、3番とあって、その次が私の借りているガレージなのですが、4番ではなく、5番なのです。「4」は欠番になっています。日本人は「4」は「死」を連想させるので、忌み嫌います。ホテルも、病院も4号室がないのが一般的ではないかと思います。しかし、人がどんなに「死」について考えないようにしても、人間は動物と違って未来のこと、また死のことを考えざるを得ないのです。どんなに死を避けようとしても、すべての人はこれを避けることはできません。人間は、この世に生を受けて、誕生した瞬間から、一刻一刻と死に向かって歩んでいるのです。ですから、この死の問題の解決なしに人生にどんな意味があるでしょうか。

 どうか、あなたもご自分の問題として真剣にこの「死」の厳粛な事実についてお考え下さい。ニュースで、だれか有名人が若くして亡くなったことが報じられると、人は驚き、悲しむでしょう。でも、「死」を自分の問題として真剣に考えようとする人は稀にしかいません。隣りの家の人が何かの病気や事故で死んでも、「自分だけは死ぬことはない。」と頭の中で考えているのではないでしょうか。街を歩いている人を見ても、電車に乗っている人を見ても、みな、「自分は死とは関係ない。」と思って生きているように見えるのは、私だけでしょうか。人は、出産、入学、進学、就職、結婚、マイホームの建築、老後などのために備えをします。しかし、なぜ、人は、万人に必ず訪れる死のために備えをしようとしないのでしょうか。私にはそれが不思議でなりません。
 
 「もし、世界に核戦争が勃発したらどうしょう‥‥」と、世界の指導者たちはそのような事態を避けるために、懸命に努力をしています。なぜでしょうか。それは、「死」が恐ろしいからです。しかし、冷静になってお考えください。核戦争が起こっても、死者の数は、起こらなかった時よりも多くなるわけではありません。なぜなら、人間の死亡率は100%だからです。核戦争やテロが起こらなくても、人は必ず死ぬ時が来るのです。地球の温暖化は進み、地球環境は益々悪化の一途を辿り、私たちが住みにくい環境になりつつあります。これから、年々、温暖化が進んで行くと、地球の生態系も変わり、また、真夏の猛暑はさらに酷くなり、大型台風その他の甚大な被害を与える災害の増加などを人々は恐れています。それは、なぜでしょうか。明らかなことは、人はみな「死」を恐れているからです。

 では、人はなぜ死ぬようになったのでしょうか。人類は最初から死ぬべき者として創造されたのではありません。唯一の神(創造者)は、最初のアダムを創造されたとき、すべての良い環境が備えられたエデンの園に住まわせました。神である主は、人に命じて仰せられたのです。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:16,17)と。ところが、人間は悪魔の誘惑に陥り、サタンの誘いのままに、妻のエバと共に禁断の木の実を食べ、神の掟を破り、死ぬべき者となってしまいました。それから、人類は今日に至るまで、神に背を向けて自分勝手な罪の道を歩み、死と永遠の滅びへの道をまっしぐらに突き進んでいるのです。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです」(ローマ人への手紙5:12)。

●「罪から来る報酬は死です。‥‥」(ローマ人への手紙6:23)。

●「一生涯死の恐怖につながれて奴隷になっいる‥‥。」(ヘブル人への手紙2:15)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル人への手紙9:27)。


 ですから、どんなに科学や医学が進歩しても、人間の「死」の問題を解決することは不可能なのです。医学によって、ある病気を一時的に治癒させることができたとしても、それは僅かに延命に役立つかもしれませんが、「死」の問題の解決にはならないのです。科学の力も、権力も、お金の力も、人類の「死」の問題を解決することはできません。人ができるだけ健康に留意し、そのために様々な努力をしたとしても、人は決して「死」から逃れることはできません。私たちが死を避けようとして逃げても、「死」が私たちを追いかけて来るのです。逃げても、逃げても、追いかけて来るのです。太陽が前方にある時、自分の影が後ろにできますが、その影からどんなに逃げようとしても、逃げることは不可能ですね。自分の「死」から逃げることも同じことなのです。

【2】こぼれた水が再び器に戻ることがないように、人は一度死んだら、再び地上に戻ることはない。
 「私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです」。
日本にも、「覆水盆にかえらず。」という古い諺がありますが、太公望の妻は、読書ばかりしている太公望に愛想を尽かして出ていったにも関わらず、彼が斉の宰相になった事を知って復縁を求めました。この時太公望は水を入れたお盆をひっくり返し、「元に戻せたら希望に応じる。」と言ったそうです。この中国の故事から、一度別れた夫婦は元には戻らないということがもともとの意味のようです。ここで、「神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。」というのは、永遠の復活を否定したことばではなく、人間は一度死んだら、もはや地上には戻っては来ないという意味です。天に向かって叫んでも、地に向かって慟哭しても、死んだ人は再び地上に戻ることはないのです。

【3】神は罪によってエデンの園から追放された人類に回復の道を備えられた。
 この知恵のあるテコアの婦人は、「どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。」と、ダビデに訴えたのですが、この要求は受け入れられ、アブシャロムは連れ戻されたのです。それと同じように、神様は、神に敵対して罪を犯し、霊的には死んだ者となり、肉体的にも死ぬべき者となり、死後には「第二の死」という永遠の裁き(火の池)を受けるべき者となってしまった哀れな人類を顧みてくださり、もう一度回復させてくださる救いの道を備えられました。それは、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、罪の全くない聖なる御方を十字架につけて、私たちの罪の身代わりに罰してくださることによって、この御方イエス・キリストを信じる者をみな救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださるという神の約束なのです。

 あなたのために、十字架上で死なれた御方は墓に葬られて三日目によみがえられ、今も生きておられるあなたの救い主です。どうか、神のこの絶大な救いへの愛の招きを断ることなく、御子イエス・キリストを信じて救われてください。主イエス様は、今日もあなたに救いの手を差し伸べておられるいつくしみ深いお方なのです。どうぞ、神の恵みを無になさいませんように、心からお勧めいたします。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 」(ヘブル人への手紙2:14,15)。

●「キリストも一度(人類の)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(1ペテロ3:18)。
  
●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)。

 

管理人:「北国のこひつじ」

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★あなたの若い日に神を!

2007-09-15 | 「聖書と人生」


        

●「あなたの若い日に、あなたの創造者(神)を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。

最近、考えさせられていることの一つは、現代の多くの若者たちに、「生きる意味が分からない。」「生きることに疲れた。・・・・」「明日への希望がない。」「この世から消えてしまいたい。」「死にたい。」などのことばが、ネット上でも氾濫していることであり、今の若者が直面している大きな問題は「生きる意味の不況」ではないでしょうか。 一部屋に一台テレビがあるような暮らし。 一家に何台も車があるような暮らし。インターネットや携帯電話で、世界の情報をリアルタイムで瞬時に得ることができる便利な社会。しかし、 それはこの地球上の一握りの人たちにのみ許された豊かさなのです。 そして、現代の文明と文化的な生活は、必ずしも彼らに幸福と満足を与えているわけではなく、それとは裏腹に彼らは生きることの空しさを感じているのです。

 今、私たちの社会を襲っている問題の本質とは何なのでしょうか。それは「生きる意味」が見えないということではないでしょうか。 今、日本の社会のいたるところで起こっているのは、「生きる意味」の雪崩れのような崩壊ではないでしょうか。なぜ自分が生きているのかが分からない。 生きることの豊かさ、何が幸せなのかが分からない。 その崩壊がまず目に見える形で現れているのが 若者の危機ではないでしょうか。 若者だから「夢」がある、若者だから「生きる活力」に満ちているといったイメージは 既に過去のものとなったとう人もいます。 現代の若者には覇気や意欲がなく、無気力になっています。いつも疲れているように見えます。「なぜ生きているのか、意味が分からない。」 そういった若者が日本中にあふれているのが現実なのです。

 若者だけでなく、小学生のような児童も、言葉で表せない空しさと孤独を感じて、心で叫んでいます。学校で勉強する意味も、生きることの意味も分からず、疲れているのです。ある本の著者は、小学校二年の女の子の次のような遺書のことを紹介しています。「ママ、パパへ。わたしは 生きていてもいみのない人げんです。わたしがいきていても みんながこまるだけです。 ママ、パパ。長いあいだおせわになりました。 なにもいわず、わたしをしなせてください。 ・・・・・・。」。 私が住んでいる街でも、近年女子児童がいじめが原因で自殺してしまいました。そして、親や学校の先生たちや友だちにも幾通もの遺書を書いて自殺したのですが、その遺書はとても痛々しいものです。その少女を大人が誰も助けることが出来なかったことを思うととても残念で悲しく思います。

 自殺の増加と低年齢化に、世の中の大人たちも戸惑っているようです。科学や医学などは、確かに急速に進歩しているのですが、 人類の闇はますます深まっていると言えるのではないでしょうか。 「強く生きなさい。」と励ます本が相次いでベストセラーになっているそうですが、それらの本は「生きていても何の意味もない。」と考えている若者に対して、一体、どんな説明が用意されているのでしょうか。「強く生きなさい。」「しっかり生きなさい。」と連呼しても、 若者たちの耳には空しくこだまするだけではないでしょうか。殺人、自殺、暴力、虐待などは、 「一体、生きる意味はどこにあるのか。」 「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か。」 と必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが 生み出す悲劇ではないかと言う学者もいます。

 人が生きて行くためには、多くの悩みがあり、苦しみがあり、幾多の逆境と試練を通らなければなりません。 これら諸問題の根底にある「人生の意味と目的」と「生命の尊厳」が明らかに示されない限り、どんなに対策を講じようとしても水面に描いた絵のように空しく感じられるのではないでしょうか。「人生に目的はあるのか。」「生きる意味は何なのか。」 だれも、その質問に答えることができないのです。教育の現場は荒れており、学校の先生でさえも、生きる意味を教えることができないで悩んでいます。これは、教育界における最大のテーマでもあるのです。学校で、生きる方法や術(すべ)を教えても、「人が生きる意味」を教えなければ、人生においてそれが何の意味があるというのでしょうか。

 人類は、この問題の答えを見出さない限り、ますますこの深い闇の中に入って行く以外にないのです。では、政治の力によって、この「難問」に対する答えを与えることができるでしょうか。その答えは「NO!」です。児童や青少年の健全な成長や、青少年犯罪の防止のために、国でいろいろな法律を作って、多くの子供たちを十把一絡げにして道徳や生きる術(すべ)を教えようとしても、一人一人が「生きる意味と目的」が分からなければ、真の意味で、政治の力で「美しい国」を造ろうとするすべての策は徒労に終わるでしょう。これは、日本だけの問題ではなく、世界のどこの国でも直面している問題なのです。また、これは、若者だけの問題ではなく、老若男女、すべての年代の人たちが考えなければならない深刻な問題なのです。

 「私は、何のために生まれて来たのか。」「生まれて来なければよかった。」「私がいるだけ、みんなに迷惑。」と思って日々、葛藤しながら生きている青少年がいっぱいいます。それだけ、いろんな悲しみや苦しみが世界にあふれています。現実は経済的に富める国の人も、貧しい国の人もそれぞれの苦しみをかかえて生きています。アメリカでは、他殺よりも自殺のほうが多く、殺人によって亡くなる人の1.7倍の人が自ら生命を絶っているそうです。世界保健機関によれば、2.000年には100万人が自殺しています。日本では、年間自殺者が3万人を越えています。現実にはその10倍とも言われる自殺未遂者がいるため、毎日1.000人からの日本人が自殺に追い込まれていることになるのです。交通事故の年間の死者数が6.000人台であることを考えると、これは異常な数字ではないでしょうか。

 潜在的に自殺願望を持った人も多くいますが、昨日まで幸せの絶頂にいたと思われていた人が突然の不幸で、今日自殺することだって珍しいことではないのです。人生に「意味と目的」を見出せず、挫折したり、不幸な境遇に遭うとその困難を乗り越えて生き続けることが出来なくなってしまうのです。自分だけはそういうことにはならないと言い切れるでしょうか。どんな逆境に遭遇しても、「生きるのはこのためだ!」という明確な目的を持っているでしょうか。あなたご自身も周りの人たちも、いよいよ追い込まれて、初めて生きる目的を探すのでは遅過ぎるのです。苦しみに耐え切れず自殺してしまう方が多いのです。「生きる目的」など、そこまで深刻に考えなくてもと思っておられる方も、肉体的にも精神的にもまだ元気な時に真剣に考えていただきたいのです。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7)。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。


 人生の真の意味を問うこれらの問題の解決は、聖書の中にあります。「生きる意味は何か。」の深刻な問題の解決は、目先の表面的なことでは不可能なのです。この世の中のあらゆる問題の解決のためには、人間の”原点”に帰らなければなりません。あなたが、もしワイシャツのボタンを掛け違えたならば、最初から掛けなおす必要があります。途中から、掛けなおしても問題は解決しません。聖書を読んで初めて、その人生の暗い闇の中に光明が差し込んで来るのを悟ることが出来ます。時計は時間を計るためにあり、椅子は人がそこに座って休むためにあり、家は人が住むために作られます。学校の教育で教える進化論は、あたかも科学的であり、事実であるかのように、大部分の人たちが考えていますが、全く非科学的であり、非理性的であることを覚えて下さい。人間は、偶然に出来た産物ではなく、創造者(God)によって造られた存在なのです。造られた存在であれば、当然、そこに創造者が与えた意味があるのです。

 「人生」とは、「人が生きる」と書きます。ですから、「人とは何か」「人間はどこから来たのか」というその人間の原点に立ち返らない限り、人生の意味も分からないことになります。人間は神によって造られ、生かされている存在です。しかし、人類の始祖アダムは神の掟を破ってしまったのです。でも、愛なる神は人類が今日まで神に反逆し、神に背を向けて自分勝手な道を歩んで滅びに向かっているのを哀れんでくださり、ご自分の御子イエス・キリストを救い主としてお遣わしくださいました。この御方が十字架で私たち罪人の身代わりに死んでくださったのです。この神の御子イエス・キリストを自分の救い主と信じる者は救われ、永遠のいのちを受けることができます。そして、いつくしみに満ちた神は疲れてきっている若者をも招いておられ、真の平安を与えてくださるのです。 

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)

 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

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★親切なサマリヤ人

2007-09-08 | 「キリストの愛」


 ルカの福音書の中に、イエス様が自分は律法を守っていて正しい人間である考えていた一人の律法の専門家との対話の中で、「私の隣人とはだれのことですか。」との彼の質問に対して答えられた有名な「親切なサマリヤ人」の例え話がありますので、そこから少し書いてみたいと思います。
 
●「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣り人になったと思いますか。」(ルカの福音書10:30~36)。
 
イエス様が語られたこの例え話は、多くの教訓を私たちに教えていますが、特にこの話に登場する三種類の人たちを通して、それぞれ私たちに大切なことを語っていますので、私たちの人生について考えてみましょう。
(1)エルサレムからエリコへの道を下って行って、そこで強盗に会い、半死半生の目に遭った人、この人の中にこそ、私たち罪人の姿が描き出されているのです。
(2)半殺しにされて倒れている人を見ながら、そっぽを向いて通り過ぎてしまった祭司やレビ人の中に頼りにならないこの世の姿を見ることができます。
(3)この傷つき倒れている旅人の所へわざわざ近寄って来て、介抱し、自分のお金を払ってまで、その人を宿屋まで連れて行って面倒を見たサマリヤ人の中に、私たちを救ってくださるために天から来てくださったイエス・キリストの姿が描き出されています。
 
【1】強盗に襲われた旅人。
 一人の男(ユダヤ人)がエルサレムの都からエリコに下って行きました。そして、その「エリコへ下る道」で強盗に襲われたのです。私たちの人生においても、思いがけないこと、予期しないことが突発的に起こることが多いものです。自分の人生設計通りに生きることのできる人は皆無に近いと言っていいでしょう。ある方の話によると、エリコへ下る道は二つあったそうです。一つは遠回りですがあまり危険のない安全な道です。もう一方は近道であって早く着くのですが、曲がりくねった険しい道で、強盗に襲われることが多い道です。そして、彼は多分友人の忠告があったにもかかわらず、この曲がりくねった危険な道を選んで下って行ったのです。

 そして、彼は強盗に襲われて、打ちのめされ、半殺しにされてされてしまったのです。この男の姿の中に私たち罪深い人間の姿が示されています。まず、私たちの前には、いつも選ぶべき二つの道があります。一つは神様に従って歩いて行く正しい道です。もう一つは、自分勝手に歩いて行く罪(自我)の道です。そして、その道は「下って行く道」なのです。エリコは地中海より250m低い所にあった町です。聖書の中で、「下る」という言葉が出て来ると、多くの場合(すべてではありません)、あまりよくない意味があります。アダムがエデンの園で罪を犯して以来、人類の歴史は常に下っていると言っても過言ではありません。自分では、教養を身に付け、修養して向上していると思っていても、神に従わない道は常に下っているのです。

 そして、その道は曲がりくねった罪の道です。しかも、その道のあちらこちらに私たちに襲いかかる悪魔(サタン)が待ち構えているのです。自己中心のわがままな道は、最後には自分を滅ぼすことになるのです。この旅人は自分の持ち物を奪われて、着物を剥ぎ取られて、その上、殴られて半死半生の状態で道端に倒れています。私たち人間の姿がここにあります。もう自分ではどうすることもできないあわれな状態です。この傷ついて倒れている旅人は、放置しておけば間違いなく、死んでしまう絶望的な状態です。これは、あらゆる現代の人間の姿なのです。現代においても、世界の道端は霊的に略奪され、傷つき倒れて横たわっている人でいっぱいなのです。これがこの世の現実なのです。

●「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。 」(イザヤ書1:6)

●「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ書7:24)。

●「あなたの傷は癒しにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。」(エレミヤ書30:12)。


 あのパウロのことばは、パウロだけでなく、世界中のすべての人の心からの叫びなのです(たとい、自分で気づいていなくても)。あの使徒パウロをして、「私は本当にみじめな人間です。」と言わしめるほどに罪の傷は癒しにくいのです。このエリコに下る道で強盗に襲われた旅人にあるものは、《孤独と不安と恐れ》であり、《絶望と悲しみ》であったのです。人のために何か良い行いをしようとする前に、自分自身が救われなければならないみじめな罪人であることを、徹底的に知らなければ、キリストの十字架の深い意味も知ることができません。だれも、そこまで深刻に考えなくてもと考えている方も多いと思いますが、これが人間の本当の姿なのです。

【2】祭司とレビ人。
 この二人は旅人が道端で倒れて苦しんでいる姿を見て、うめき声を聞きながら、向こう側をそっぽを向いて行ってしまいました。これは、愛のない冷たい人たちです。祭司は、エルサレムの神殿で神様に仕え、人々を助ける人であったのです。レビ人というのは祭司の手伝いをして、やはり人々を助ける役目の人であったのです。しかし、神殿で神様に仕えていた彼らが、いったん自分たちだけになってエリコへ下る道を急いでいた時に、苦しみ呻いて助けを求めていたその旅人を見ながら、見て見ぬふりをして、通り過ぎてしまうのです。この祭司とレビ人の中にいざという時には頼りにならないこの世のものの姿を見ることができます。この世の中には、まことの愛というものがいかに稀であり、少ないものであるかを示しています。

 これは、この世の宗教家だけに限ったことではなく、学校の先生、医者、政治家であるかもしれません。彼らは、あまりにも利己的で、またあまりにも多忙なために最小の援助さえ提供しようとしなかったのです。彼らは、「私とは関係のないことだ。このようなことにかかわっている時間などない。」と心の中で考えたかもしれません。ですから、祭司もレビ人も「この人を見ると、向こう側を通り過ぎて行った。」のです。この世は、本質的に自己中心的であり、これが人間の本当の姿なのです。この世の多くの宗教をよく調べるならば、利己的で愛のないものであることが分かります。大部分がお金や利権によって動いているのです。
 
 ”本当に利己的でない純粋な愛を見出すのは、ゴミ箱の中にダイヤモンドを発見するよりも困難なことだ!”と言った人がいますが、この世の中に真の愛を求めても決して満たされることはないということも事実なのです。しかし、この祭司やレビ人を私はさばくことができません。なぜなら、これは、自分自身の姿でもあると気づかされるからです。私は、今日まで幾度となく、困っている人、傷つき悩んでいる人、助けを必要としている人の側を通り過ぎてしまったことでしょうか。あなた自身はどうでしょうか。「自分には愛がある人間だ。」と言い切れる自身がおありでしょうか。私たちは、他人のことは「あの人は愛がない冷たい人だ。」と「簡単に口では言えますが、他人の中にあるものは、また自分の中にもあるということも事実なのです。 

【3】親切なサマリヤ人。
 最後に、その見捨てられた男のところにさまりや人がやって来ました。この人は、家畜に乗って来たのですが、彼のうめき声を聞いた時、心から同情して、その傷ついた男の人の所へ駆け寄ったのです。このサマリヤ人は、その哀れな旅人の前に跪いて、じっとその傷口を見ました。そして、自分が持っていたぶどう酒で傷口を消毒し、オリーブ油を注いで包帯をし、自分が乗って来た家畜にその男を乗せて、わざわざ宿屋まで連れて行って、自分のお金を取り出して、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら私が帰りに払います。」とまで言いました。彼は、持っているすべてを与えて、この見知らぬ旅人に対して自分の命の危険を冒してまで愛と親切の限りを尽くしました。”人生は出会いで決まる”ということばがありますが、この旅人がこのサマリヤ人に出会ったことは本当に幸いなことでした。

 そして、この「親切なサマリヤ人」の姿こそ、実はイエス・キリストご自身の姿なのです。サマリヤ人がこの傷ついた旅人の所に来てくださったように、イエス・キリストは、私たちを罪と滅びから救うために、大変な犠牲を払って天から来てくださったのです。そして、その33年間のご生涯の最期に十字架の血潮というぶどう酒で私たちの罪の傷口を洗い、聖霊の油をもって私たちの罪の傷を覆ってくださった御方なのです。イエス・キリストは、私たちを責めることもなく、ただ黙って十字架でご自分の血潮を流して、私たちの罪を赦し、「アガペーの愛」によって包帯をしてくださったのです。このサマリヤ人の自分を忘れ、自分の危険を顧みることもしない打算のない愛はキリストの純粋な愛を示しています。

 このサマリヤ人が、そのお金も労力も、物も時間もすべてを犠牲にして旅人を助けたように、キリストは私たち全人類のために十字架で、ご自分の命までも犠牲になさったのです。傷の手当てをし、介抱する姿 ----- ここに、キリストの無限の愛と優しさと思いやりとが余すところなく、表されています。”包帯を巻いてあげられなければ、他人の傷口に触れてはならない。”とのことばを読んだことがあります。私は、他人の傷口に触れてかえって、結果的にその傷口を広げてしまうことのある愚かな人間です。しかし、イエス・キリストの愛は違います。イエス・キリストは、十字架の血潮に染まった愛の包帯で私たちの傷口を覆ってくださるのです。

●「愛は多くの罪を覆うからです。」(1ペテロ4:8)。

 この例え話の中でイエス様はわざとユダヤ人と敵対関係にあったサマリヤ人(ユダヤ人と異邦人の混血の民)を登場させました。このような敵対関係は、その当時、」もう400年以上も続いていたのです。そして、その憎しみの関係は、イエス様の時代にもまだ続いていたのです。ですから、このサマリヤ人がユダヤ人にした親切は信じられない出来事であったのです。このサマリヤ人は傷つき倒れているユダヤ人にユダヤ人を見て、「かわいそうに思い」ました。この「かわいそうに」ということばは、同情を表わすギリシャ語の中でも、一番強い表現で、”内臓が揺り動かされる”というような深い同情を意味することばなのです。そして、彼はその愛を実際の行動にによって表わしたのです。ただ、彼は外国人を愛したのではなく、400年に亙る憎しみの歴史を越えて、敵に対して真の隣人となったのです。

 私たち人類もまた、神に対して長い間敵対していた者たちであります。しかし、イエス・キリストは、そのすべてを乗り越えて、無条件で私たちを一方的に愛してくださいました。これは、まさに「人知をはるかに越えたキリストの愛」(エペソ3:19)です。この親切なサマリヤ人の姿の中にキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」のすべてが表わされています。十字架はそのクライマックスです。私たちは、あの強盗のように人を傷つけたことはないでしょうか(言葉でも、精神的にも)。私たちは被害者意識を強く持ちやすいのですが、自分が加害者になっていることを忘れやすい者です。また、祭司やレビ人のように助けを必要としている人の側を故意に通り過ぎたことはないでしょうか。私たちは、自分が傷つき倒れているみじめな罪人であることを素直に認めているでしょうか。

 私たちは、主から遠く離れ過ぎていて、助けを求めることができない時、あのサマリヤ人のようにイエス様の方から近づいてくださるのです。心のうめき声を聞いてくださるのです。イエス・キリストがあなたを助けるために、天から下って来られました。私たちの声にならないようなかすかな呻き声をも聞いて、同情して近づいてくださるのです。どうか、キリストが差し出しておられる愛の御手を拒まないで下さい。そして、キリストは例え話の最後に、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言われました。キリストを信じて救われた人は、今度はほんとうに隣人を愛する力が与えられるのです。真の愛は「私の隣人とは誰か。」と問わしめるような冷たいものではありません。

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★父親の愛と神の愛

2007-08-30 | 「神の愛について」



●「すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子。』 」(2サムエル18:33)。

●「それで、この日の勝利は、すべての民の嘆きとなった。この日、民が、王がその子のために悲しんでいる、ということを聞いたからである。民はその日、まるで戦場から逃げて恥じている民がこっそり帰るように、町にこっそり帰って来た。王は顔をおおい、大声で、『わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ。』と叫んでいた。 」(2サムエル19:2~4)。


 かつてのイスラエルの王ダビデは、実に数々の苦難と波乱に満ちた生涯を送った王であったことは、聖書を読むとよく分かります。羊飼いの少年から身を起して、初代の王サウルに代わって王位に就きましたが、それは、神の導きで、彼が神を恐れ敬い、その導きに従ったからでした。でも、彼にも欠点があり、ある失敗のために非常な苦境を経験しなければならなかったのです。それは、実子アブシャロムが父親のダビデに反逆して、王位をめぐって親と子が戦わなければならなくなったことです。これは、ダビデにとっては非常につらい経験であったと思います。わが国でも、戦乱の昔、親子兄弟が相分かれて血で血を洗うような悲しい歴史が多く残っていることは、みなさんもご存じのことと思います。

 さて、ダビデ王の第三子であるアブシャロムは、父の王座を狙って謀反を起し、ひそかに工作して、民の心を自分に引き寄せ、クーデターを起したのです。不意をつかれたダビデは、一時は非常な危険に晒されたのですが、かろうじて逃げのび、幾多の苦難の後、やがて陣容を整えることができました。そして、双方の軍隊がエフライムの森で戦ったのです。この時、ダビデ王は出陣する将軍たちに「わたしに免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」(18:5)と命令しました。ダビデにとっては、実のところ、自分のことよりも、自分に反逆を企てたアブシャロムのことで胸がいっぱいであったのです。自分のいのちを狙う敵ではあったのですが、アブシャロムはダビデにとって、愛するわが子であったのですから、当然のことであったと思います。 

 アブシャロムは、自分の出世のためには父の命をも奪おうと考えた野心家であったのです。2サムエル記18章の記述にあるように、エフライムの森で激しい戦いが繰り広げられたのですが、アブシャロムの軍隊に多くの戦死者が出て、密林で行き倒れなった兵士も多く、ダビデ王の軍隊が大勝したのです。戦いの最中アブシャロムは騾馬に乗っていたのですが、騾馬が大きな樫の木の下を通ったとき、アブシャロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙吊りになってしまいました。それでダビデの軍隊は、木に宙吊りになっていたアブシャロムの心臓を槍で突き刺したので、アブシャロムは殺されてしまったのです。そして、戦線からの伝令が王のもとに走って来て、「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王様に手向かった者どもを引き渡してくださいました。」(18:28)と、伝えたのです。

 そうしたら、王は「若者アブシャロムは無事か。」と聞きました。伝令は、王の悲しみを思い(あるいは王を恐れて)、「‥‥何があったか分かりません」と口を濁して答えました。そこへ、第二の伝令が走って来て、王に「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」(18:31)と伝えました。王は、またその伝令に「若者アブシャロムは無事か。」と、再び尋ねたのです。そして、その伝令は「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者(アブシャロム)のようになりますように。」と言って、「死んだ」ということばを使わないで、ダビデの息子の死を遠回しに伝えたのです。この伝令のことばによって、わが子アブシャロムの戦死を知ったとき、王は身震いして悲しみ、門の屋上の部屋に上がって泣き続けました。

 まさに、王の心は断腸の思いであったことでしょう。そして、王は泣きながら、次のように叫び続けました。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」 聖書は、わが子を失った時のダビデの嘆きを、このように切々と書き記しているのです。父親に背いたわが子の罪を責め、咎めようともせず、「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」と叫んだダビデの愛が私たちの心を打ちます。ダビデは勝利の喜びよりも、わが子の死を嘆き悲しんだので、その軍隊は戦いに敗れて逃げ帰った民のようにひそかに町にはいり、輝かしい勝利はすべての民の悲しみとなったことが記録されてあります。

 たとい、自分に反逆したわが子であろうとも、その子の死を悲しまない親がいるでしょうか。自分が天下をとるためには父のいのちをも奪おうとしたアブシャロムでした。しかし、たとい彼がいかなる悪事を働こうとも、ダビデにとっては、わが子であったのです。それゆえダビデはアブシャロムの死を悼み、泣き悲しんだのです。この父親のわが子への愛情や機微は、ダビデの命を守るために身命を賭して戦った将軍や兵士には、用意に理解できなかったかもしれない。しかし、父親の愛とはそういうものなのではないでしょうか。わが子が死ぬことを望む父はいません。このダビデのわが子アブシャロムに対する親の愛は、神の愛をよく表していると思います。

 あのルカの福音書15章の例え話を思い出してください。弟息子は、父の家にいることに満足できないで、父に反抗して家出をし、父親からもらった財産で毎日贅沢に遊び暮らし、放蕩三昧の生活をして、湯水のように財産を使い果たし、どん底の生活をするまでに落ちぶれてしまいました。最初は周りにたくさんいた友人も、一人二人とみな去って行きました。「落ちぶれて 袖に涙のかかる時 人の心の奥ぞ知らるる。」という歌がありますが、この時の彼の心境は、この歌を詠んだ人の心境に似たものがあったと思います。人の心の冷たさに触れ、深い孤独感の中にあったはずです。彼は、豚小屋の中でやっと本心に立ち帰って、悔い改める決心をしたのです。

 ボロボロになって、乞食のようになって、帰って来たわが子に父親は駆け寄り、抱擁し、何度も何度も口づけし、抱擁したのです。「口づけした。」ということばは、直訳では「何度も何度も口づけした」という意味だそうです。そして、息子が帰えって来たときのために用意していた、最上の着物を着せ、肥えた子牛を屠って、ご馳走を作り、祝宴を開いたのです。父親は、「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と、言いました。この例え話の中の兄は、自分の義を誇り、他人を見下げてさばいていたパリサイ人を表していますが、彼はこのような父の態度に満足せず、怒って家に入ろうともしませんでした。

 しかし、父親は、彼を諭すように言いました。「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」と。何と大きな父親のわが子に対する愛ではないでしょうか。英文で、「愛は不在と隔たりと沈黙には耐えられない。」というような意味のことばを読んだことがあります。この父親は、こんなできそこないのような息子でも愛していました。弟息子が父から遠く離れていた「不在」と「隔たり」と「沈黙」には、耐えられないほど苦しみを味わい、断腸の思いであったことでしょう。ある人が「『親』という字は『木の上に立って見る』と書くでしょう。親不孝な子供でも、親というのは、木の上に立って、わが子の帰りを待っているのです。」と言ったことばが今でも心に残っています。
 
 この例え話では、「父親」は「神」を表しています。息子は私たち神から離れ、神に反抗して永遠の滅びに向かっている私たち罪人を示しています。ですから、この例え話は、「神の偉大な愛」を表しているのです。三つの例え話は、御子イエス・キリスト、聖霊、御父の三位一体の神の愛を示しているのです。預言者エゼキエルは、「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル書33:11)と、神のメッセージを語っています。神のみこころは、私たちが滅びることではなく、生きることであると語っています。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

●「キリストも一度(人類の)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(1ペテロ3:18)。


 父なる神から遣わされた御子イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、自らの罪のために滅びるほかはない私たちが生きるためであり、永遠のいのちを得るためであったのです。神は、こんな罪深い者たちのために、ご自身のひとり子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。何という偉大な驚くべき愛ではないでしょうか。どうぞ、神が差し伸ばしておられる愛の御手を拒むことのないようにお勧めいたします。
 
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★天国とはどんな所ですか?

2007-08-23 | 「ご再臨と信者の真の希望」
         
        

 ある方から「クリスチャンが行く天国とはどんな所ですか?」と聞かれたことがありますが、聖書にはどのように書いてあるのか、見てみましょう。ヨハネの黙示録21章と22章に天国の様子が書かれてありますから、その箇所を開いてご覧になってください。ヨハネは神様から示された黙示を、そのまま記録しています。そして天国については、あまり詳細には書かれていませんが、それには意味があるように思います。ヨハネは、「天国にあるもの」より、「天国にはないもの」について多く書いているように思います。なぜなら、天国のすばらしさをどのような美しい形容詞を用いて描写したとしても、私たちの限界のある能力では、次元の違う世界のことを完全には理解できないからではないかと思います。そのようなことを念頭において、お読みになってください。ヨハネは、七つの「ないもの」を記して、新天新地の一部を描写しています。

●「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」(ヨハネの黙示録21:1~4)。 

【1】天国には「海」がない。
 ここには、「もはや海もない。」(黙示録21:1)と記されていますね。この地球上に海を造られたのは、神様です。そして、人類はその海から、私たちが生きるために必要な魚や種々の海産物など多くの海からの恵みを受けて来ました。また、海がなければ、雨が降ることがありませんから、地上の様々な植物も育たなかったわけです。しかし、海はまた一度牙を剥くと、非常に恐ろしいところでもあるのです。今日までの人類の歴史の中で、どれだけ多くの船舶の海難事故などで多くの人々のいのちを飲み込んで来たことでしょうか。海は、ある意味では、あらしなどによる危険や恐怖の象徴であったとも考えられます。黙示録には、「海から一匹の獣(反キリスト)が上って来た」(13:1)とあるので、悪の根源のように考えられていたのかもしれません。また、海は少しも休むこと知らない不安定なものを示しています。

【2】天国には「死」がない。
 人類の始祖アダムとエバは、神様が備えられたあの「エデンの園」はすばらしい所でした。そして、彼らが神に反逆して罪を犯す前には、この地球上には人間を不幸にして来た「死」はなかったのです。人間が罪を犯した結果、そこは、まさに「失楽園」となり、それから、幾千年間もの間、人類は死の恐怖の奴隷となってしまい、絶えず死の恐れと不安に慄きながら生きて来ました。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活のみわざによって、死は滅ばされ、新天新地においては、もはや死はなくなってしまったのです。天国においては、永遠に「死」はありません。

【3】天国には「悲しみ」がない。
 「悲しみ」も、やはりアダムとエバの罪の結果、人類に入って来たものですが、キリストの十字架と復活のみわざによって、神様は完全に取り除いてくださいました。アダムの罪以来、いつの時代にも、人類は多くの悲しみと悲惨を経験して来ました。しかし、キリストは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われています。人間の悲しみを理解され、あのゲッセマネの園では「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われたお方ですが、そのキリストが十字架でその罪の結果の「悲しみ」をも負ってくださいました。そして、天国では、神様ご自身が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるというのです。何と慰めに満ちた光景ではありませんか。
 
【4】天国には「叫び」がない。 
 叫び(crying)は、泣き叫ぶことです。人間の罪がある所には死があり、死がある所には、悲しみがあり、悲しみがある所には、叫びがあります。今日の私たちの周囲のあちこちから、人々の泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。不幸があった家からも遺族の泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。ある国々では、今日も戦場と化した街々から、父や母を失った子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。でも、新天新地では、もう叫び声は聞こえて来ることはけっしてないのです。

【5】天国には「苦しみ」がない。
 「苦しみ」ということばが、聖書に最初に出て来るのは、創世記3章です。エデンの園で人間が罪を犯す前には、「苦しみ」は全くありませんでした。「エデン」は歓喜の意味があります。そこは、楽しみと喜びで溢れていました。しかし、アダムとエバが神に反抗して罪を犯した直後に、女には、「みごもりの苦しみ」と「出産の苦しみ」が入って来ました。また男には、「苦しんで」食を得なければならなくなったのです。聖書には、人類のありとあらゆる苦しみが記されています。しかし、イエス・キリストの十字架と復活の勝利によって、すべての不幸の根源は取り除かれ、新天新地には、もはや「苦しみ」もありません。それは、もう過去のものとなってしまったのです。

【6】天国には「のろわれるもの」がない。 
「もはや、のろわれるものは何もない。」(黙示録22:3)。 
 最初のエデンの園には、もちろん、「のろわれるもの」は何もありませんでした。人類に「のろわれるもの」が入って来たのは、やはり人間の罪の結果なのです。神は罪を犯したアダムに対して次のように言われたのです。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」(創世記3:17)。しかし、イエス・キリストは、人類に対するのろいを取り除くために、罪人の身代わりになって、十字架に掛けられて、のろわれた者となってくださったのです。

【7】天国には「夜」がない。
「もはや夜はない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示録22:5)。 
 現在の天と地は、神様が最初に創造された秩序であり、地球の自転により、昼と夜があり、昼は働いて夜は休むことが出来るようにしてくださったのです。これは神様の愛の配慮によるものであったのです。しかし、夜は闇であり、暗いのです。現在、人類の文明の発達によって大都会は不夜城のようになっていますが、これは、正常なものではありません。私たちは、明日の朝になれば、地上を明るくしてくれる太陽が東の空から昇って来ると信じているので、夜も安心して床に入り、眠ることが出来ます。永遠に朝が来ないと仮定すれば、だれも安心して夜床(ベッド)に寝ることができません。だれでも、夜は怖いのです。しかし、天国には永遠に夜がないというのです。そして、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙示録21:23)とあります。

 私は、ある意味で消極的な面から天国(新天新地)について書いたたのですが、天国で何よりもすばらしい幸いなことは、そこに御父なる神と、私たちのために十字架にかかって身代わりに死んで復活してくださった主イエス・キリストが共におられることなのです。冒頭のみことばでも、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられる。」とあります。また、イエス様と共に十字架につけられた二人の強盗のうち、悔い改めた一人に対して、イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と約束されました。また、主イエス様は、刻々と近づいていた十字架刑の直前において、弟子たちを励まして、次のように言われたのです。 

●「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所(天国)を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1~3)。 

 とにかく、天国のすばらしさは、だれもそれを人間のことばで表現することはできないのではないかと思います。パウロは、第三の天(神が臨在される所:天国)について次のように語っています。パウロが大きな試練の中にあって落胆していた時に、神様は彼を激励するために第三の天(天国)を見させてくださったのです。この時のことを、それから14年後に、諸事情があってやっと口を開いて語るほど、その天国のすばらしさを人間のことばでは表現できなかったのではないでしょうか。それは、あまりにもすばらしかったからです。その経験はパウロにとって生涯忘れることができなかったものとなったことは間違いありません。

●「私はキリストにあるひとりの人(パウロ自身)を知っています。この人は十四年前に―肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、―それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。― パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」(2コリント12:2~4)。 

●「私達は、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(2ペテロ3:13)。 

●「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 」(ピリピ人への手紙3:21)。
 

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★皮の衣を着せてくださった神

2007-08-16 | 「神の愛について」

     
    
●「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:6,7)。

●「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3:21)。


冒頭に記した二つのみことばは、創世記3章の出来事の中に書かれてあるものですが、今日はこのみことばを中心に少し考えてみたいと思います。創世記というのは、家に譬えると「玄関」のようなもので、旧約新約聖書66巻の「入り口」のようなものです。家に入る時には玄関から入らなければなりません。裏口や窓から入ることも出来ますが、通常は玄関から入ります。それから、創世記というのは、いろいろなことの「初め(起源)」について書いてあります。最初が分からないと、その後を読んでも、なかなか理解できないのです。ですから、創世記には、「宇宙の起源」「地球の起源」「生命の起源」「人類の起源」「結婚の起源」「人類の罪の初め」「罪の贖いの黙示(予告)の初め」「言語の起源」「文化の初め」「民族の初め」「選民イスラエル(ヘブル民族)の初め」など‥‥etc。

さて、神様は最初に人間を創造されて、すばらしいエデンの園に住まわせてくださいました。「エデン」とは、「喜び」「歓喜」「楽しみ」などの意味があることばです。アダムとエバさん夫婦は、エデンの園で神様との親しい交わりを喜び、平和と満足を味わい、愛と光といのちに満ち溢れたすばらしいところであったのです。そこには、憎しみや戦争もありませんでした。当然、人殺しもありませんでした。妬みや悲しみもありませんでした。苦しみもありませんでした。死もなく、涙もありませんでした。空虚な気持ちとか、孤独を感じることもありませんでした。神様が、人間が生きるために必要なすべてのものを満たしてくださっていたからです。エデンの園は、ほんとうにすべてが満たされたすばらしいところでした。神と人との間に何の隔たりもなく、幸いに交わることができたのです。

ところが、創世記3章に入ると、人類のすべての悲しみと苦しみと混乱の根源である罪が入って来たのです。アダムとエバは、禁断の木の実を食べて神に反逆し、罪を犯してしまいました。これが人類のすべての不幸の始まりとなったのです。罪の結果、彼らがもった最初のものは、羞恥心と有罪感であったのです。これが、神のいましめに背いて、善悪の知識の木の実を食べた悲しい結末であったのです。次に、彼らは自分たちの裸をおおうために、「いちじくの葉」をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作ったことでした。このいちじくの葉は、朝早く取った時には、新鮮で、みずみずしく、美しく見えたかもしれませんが、太陽が昇ると、その太陽の熱でしおれ、夕方になった頃にはもう枯れてしまっていたに違いありません。

これらの事実は、人間の自己義認を示しており、また、自らの罪を覆うための人間のあらゆる努力がいかに空しいものであるかをよく示しています。人間が作り出した世界中のあらゆる宗教も、哲学も、その裸の恥(人間の罪)を覆うことはできません。どんなに難行苦行を積み重ねて修業してみても、認罪の意識を取り除くことはできないのです。人間はみな自分の羞恥心と有罪感をおおい隠そうとして、高度の学歴と教養を身に着け、道徳的にも努力をしますが、それは、一時的には役立つかのように見える「いちじくの葉」のようなものなのです。いちじくの葉は、夕方にはもう枯れてしまい、役に立たなくなってしまうのです。あなたが、今、一時的に満足しているあらゆるものは、人生の夕方には、枯れてしまう空しいものとなるのです。
 
しかし、この創世記3章には驚くべきことが書かれているのです。すでに、罪を犯した人類に対する神の救いのご計画が記されているのです。神は人を誘惑した蛇(サタン)に対して「わたしは、おまえ(サタン)と女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫(キリスト)との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼(キリスト)のかかとにかみつく。」(創世記3:15)と宣言しました。神は、驚くべきことですが、罪に対するさばきとともに、救いのご計画を啓示されたのです。これは、神の救いに対する最初の約束なのです。ここで、「女の子孫」というのは、ヘブル語の原語では複数ではなく、「単数」になっているので、メシア、すなわち、キリストを示しています。ここに、キリストよるサタンへの勝利が示されており、キリストの福音が予表されているのです。

「おまえ(サタン)の頭を踏み砕き」は、サタンとその力に対する完全な勝利を表しています。敵の頭を打ち砕くならば、それは致命的なものとなります。しかし、それに対して、「(キリストの)かかとにかみつく」は、相手に激しい苦痛を与えるものとなっても、それは、致命的なものとならないことを示しているのです。「キリストのかかと」と「悪魔の頭(かしら)」との比喩的表現は、キリストが十字架の死ののちに復活されることに対して、悪魔は最後には、決定的にうち滅ぼされてしまうということを示しています。この3章には、神のさばきと、人間が神に背いた結果、罪がこの世に入って来たことを示していますが、同時に、神の愛と慈しみが記されており、神の恵みがすでに記されていることは驚くべきことではないでしょうか。

さらに、もう一つの驚くべき神の愛と哀れみが記されています。それは、冒頭の二番目の聖句です。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」というこの短い聖句に神の限りない深い哀れみと、キリストの十字架による救いのご計画が暗示されているのです。つまり、アダムが自分で作った手製の衣(いちじくの葉をつづり合わせたもの)に代えて、神は、アダムとエバのために、皮の衣を作って、着せてくださったのです。そして、特に注目していただきたいのは、皮の衣を作るためには、どうしても動物を屠って、血を流す必要があったということです。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とありますが、これは、こののち数千年後に成就するキリストの十字架の贖いを予表しているのです。
 
神が人に与えた皮の着物は、日が昇ると枯れてしまうような一時的な衣ではなかったのです。神が与えた衣は、血を流すことによって得た皮の衣であったのです。これは、キリストの十字架の贖いの血を信じるすべての者に与えられるキリストの義の衣を表しているのです。イエス・キリストの義の衣を着せられたクリスチャンたちはそ恵みをどんなに感謝しても、し過ぎることはないのです。私たちが自分で正しいと思ってした行いも、聖よい神の御目からご覧になると、汚れた(不潔な)着物のようであると聖書は厳粛に告げています。あの預言者イザヤも召された時に言いました。「ああ。私は、もうだめだ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と。

●「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。」(イザヤ書64:6)。 

●「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ書61:10)。

●「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 」(ガラテヤ書3:26,27)。

●「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。』 」(ルカの福音書15:22)。
 

この放蕩息子の父親のように、愛に満ち給う神は、永遠に有効な「一番良い着物」を用意して、あなたが、罪を悔い改めて神に立ち返るのを待ち望んでおられるのです。その永遠に有効な一番良い着物とは、イエス・キリストが十字架でご自身の血を流して贖いのみわざを成し遂げてくださったことを信じることによって、あなたにも与えられるのです。私が若い時、聖書に精通したある先輩の兄弟が、「聖書は、旧約新約合わせて、1,189章あるけれども、人類の罪がなかった時代は最初の2章だけです。3章から罪が入って来て、全人類は死の恐怖の奴隷になっています。聖書には3章から、ずっと、目に見えない黒い線(人類の罪)が引かれています。しかし、同時に赤い線(キリストの十字架の血)も引かれているのです。」と。あなたは、どう思われますか。

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★救われるために何をするか

2007-08-10 | 「信仰と救いについて」

               

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)。 
 
冒頭に記した聖句にありますように、聖書が語っていることは、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。」ということです。ここで言っている「救い」というのは、この世の多くのご利益宗教が説いているものとは、全く違います。病気からの救いのことではありませんし、貧困からの救いのことでもありません。また、人生のいろいろな悩みや苦しみからの救いのことでもありません。ここで言っている「救い」は、人類が神に罪を犯して神から離れた結果の罪の生活と、死と死後の永遠のさばきからの救いを意味しているのです。ですから、これは、あなたも含めて「すべての人」と関係があるのであり、「私には関係ないですよ」とは言えない重大な真理なのです。

ある方からのご質問ですが、「友人のクリスチャンに勧められて聖書を読み始めたのですが、聖書の中で、救われるためにはどうしても知らなければならないる必要不可欠な真理は、一体何なのでしょうか?」という丁寧な文面のメールでした。聖書は単なる道徳の書でもなく、文学の本でもなく、歴史の本でもなく、また宗教の教典でもありませんから、これは的を得た大切な質問であると思います。文章の書き方や文面から、人生を真摯に真面目に考えていらっしゃる方であるとの印象を強く受けました。聖書は、多くの重要な真理を教えていますが、救われるためにどうしても知らなければならないこととして、以下のような真理(事実)を選んで記しましたので、どうか、ご自分に当てはめて吟味なさってください。

【1】まことの神は唯一であられます。
聖書は、神は唯一であることを断言しています。聖書の記述は明確であり、ここに曖昧なことは一つもありません。真理は一つなのです。これは、人間の考えではなく、唯一の神がご自身で啓示なさった真理なのです。

●「神は唯一です。」(テモテ第一2:5)
●「わたし(God)は初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。」(イザヤ書44:6)。
●「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメ。 」(Ⅰテモテ6:15,16)。
●「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。 」(イザヤ書45:22)。


【2】神は天地万物の創造者であり、また、神ご自身の愛の対象として人間をご自身に似せてお造りになられました。
人間は、けっしてアメーバーから進化した偶然の産物ではありません。もし、そうであれば、人間が生きる意味も目的も真の希望もないことになります。聖書の記述は、この点に関しても明瞭です。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。
●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)
●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 」(創世記1:27)。


【3】人間は神の権威に反抗して、罪人となりました。
ある人は、「私は、神に反抗などしていない。神を馬鹿にするようなことも言っていない。」と言います。でも、あなたは、今まであなたを生かしてくださった神を無視した生活をしたことがないでしょうか。親を無視している子どもがいたとしたら、それは、大変な親不幸です。でも、あなたを生かしてくださっている神を無視して生きることは、もっと大きな罪ではないでしょうか。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず‥‥」(ローマ人への手紙3:23)。


【4】それゆえに、人間と神との交わりが断絶してしまったのです。
人間は、真の神を礼拝し、交わる代わりに、木や石や金銀で作った偶像を拝むようになり、真の神の代用品として、生きている人間や動物、その他いろいろなものを拝む対象としているのです。肉体的には生きていても、神から離れた人間は霊的には死んでいると聖書は語っています。

●「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:2)。

【5】人間の罪の結果は死(死後のさばき)です。
これは、だれも認めたくないことだと思います。恐ろしいからです。でも、聖書は厳粛にそのことを告げているのです。どんなに否定しても、真理は変わることはありません。他人が極悪非道な犯罪を犯した場合、その人は当然、さばかれるべきであると人は考えます。しkし、人は自分のことになるとそれを否定したいのです。正義の神の前に、人間の罪がさばかれるのは当然であはないでしょうか。

●「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)
●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。
●「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。‥‥そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:15)。


【6】神は、罪人である私たちのために、救いの道を備えて下さいました。
神は正義の御方であると同時に愛の神ですから、あなたが、必ず来るこの御怒りを逃れるために、救いの道を備えて下さったのです。愛なる神は、ご自身の御子イエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。‥‥私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。
●「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(Ⅰテモ1:15)。


【7】イエス・キリストは、あなたがその罪から救われるために、この世においでになられれ、罪のない聖よいご生涯を送られましたが、罪を犯した全人類のために十字架に掛かられ、身代わりとなって神の刑罰を受けて死んでくださり、墓に葬られましたが、三日目によみがえられました。
それでは、あなたは、救われるために何をしなければならないのでしょうか?上に記した聖書の事実(真理)をそのまま信じ、受け入れることです。そして、イエス・キリストが、あなたを愛され、あなたの罪のために死なれたこと、葬られたこと、三日目に目に見える栄光の体で死者の中から復活された救い主であることを個人的に心から信じることです。それ以外に救いの道はないと聖書は断言しています。

●「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネの福音書17:3)。
●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。
●「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16:31)。
●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。
●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。


ですから、あなたが心からご自分の救いを望まれるのであれば、神の御前に跪いて次のように真剣にお祈りしてみたらいかがでしょうか。神は真実なお方ですから、必ず、その祈りを聞いてくださいます。
===「神様、この罪人の私をあわれんで下ださい。キリストは私の罪を十字架ですべて背負って私の身代わりとしてご自分の御血を流して死んで下さいました。また、死後三日目に、死者の中から復活されたことも心から信じます。どうか、私の罪を赦して下さい。そして、聖書の約束通りに、信じる者に永遠のいのちを与えて下さい。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。」===
 
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★四つの福音書について

2007-08-04 | 「聖書について」

  暑中お見舞い申し上げます。みなさん、お元気でお過ごしでしょうか。 
さて、最近聖書を読み始めたばかりの一青年から、次のような質問のメールをいただきました。「新約聖書の初めに、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書という四つの福音書がありますが、どうして、福音書が一つではなく四つあるのですか?それから、四つの福音書の内容で、互いに矛盾すると思われる記事もあるように思いますが、これをどのように理解したらいいのでしょうか。」というようなご質問の内容です。できるだけ難しいことは省いて、自分が理解している範囲内で、できるだけ簡潔にお答えしたいと思います。

 適切かどうか分かりませんが、一例を挙げますと、私たちが、家族や友人の一人を他人に紹介する場合、いろいろな紹介の仕方があると思います。例えば、その人の職業や職場における仕事の内容、その人の家柄や生い立ち、その人の人柄とか性格的な面、または何かの特別な能力や趣味など、いろいろな側面がありますから、紹介の仕方も人によって当然違って来ると思います。四つの福音書は、それぞれ、取税人、医者、漁師など職業の違う四人の記者によって、イエス・キリストのご生涯を記録したものですが、同じ出来事でも、類似している表現の箇所もたくさんありますが、全く同じ表現で書かれている箇所は、ほとんどありません。また、四つの福音書は、それぞれ違う視点からイエス・キリストのご生涯を紹介しているのです。

 また、「四つの福音書の内容で、互いに矛盾すると思われる記事もあるように思いますが、これをどのように理解したらいいのでしょうか。」とのご質問にお答えしたいと思います。これも、例えて申しますと、どこかである事件が起こった場合に、四人の新聞記者が現場に駆けつけ、取材した場合に、その四人の記者の記事が、一字一句全く同じ表現で、内容も全く同じということはまず考えられないことです。それぞれの記者は、その事件を記事にする場合、どこに強調点を置くかは、微妙に違って来ると思います。同様に、四福音書において矛盾と感じられる箇所も、けっして矛盾ではなく、それぞれの記者の強調や視点が違うということが言えるのではないかと思います。それでは、四福音書を、それぞれ比較対照して、それぞれの特徴などを見てみましょう。
 
【1】マタイの福音書について。
(1)記者は、取税人マタイです(9章9節)。当時、取税人という職業は、ローマ政府から、ユダヤ人から税を取り立てる仕事のために使役されていて、同胞のユダヤ人からは、売国奴のように言われて嫌われていたのです。マルコ2:14では、マタイは「レビ」と呼ばれています。彼は、主イエス様から、「マタイ」と名づけ直されたようです。取税人という侮蔑的名称が、「神の賜物」を意味するマタイという使徒的名称に変えられたことはすばらしいことです。
(2)この書の使命:「メシヤ、また王としてのキリスト」を表すことです。
(3)このマタイの福音書は、元来は特に「ユダヤ人」が用いるために書かれています。それで、この福音書には、しばしば、旧約聖書からの引用が多いのはそのためなのです。
(4)この書の特徴の一つは、「成就」という語が度々出て来ることです。旧約聖書の預言がキリストによって成就したことを示すために、旧約から引用されている聖句は、60箇所以上もあります。
聖書を初めて、手にして、「さあ、これから聖書を読むぞ!」と意気込んで、読み始めたものの、冒頭からイエス・キリストの系図なるものが、長々と書かれていて、手鼻をくじかれた気分で、うんざりしてしまう方も多いと思います。でも、これも、旧約聖書のメシヤについての預言の成就として書かれているもので、どうしても欠かせないものなのです。
(5)ですから、ある人たちが言っているように、四福音書に不一致や不調和というものはありません。それぞれが、特殊な目的のもとに書かれているのです。それぞれ異なった方面から主イエス・キリストを描写しているのです。繰り返しますが、マタイの福音書は、「王としてのキリスト」を描いているのです。

【2】マルコの福音書について。
(1)この福音書の記者は、使徒の一人ではなく、使徒の同労者の一人であったマルコによって書かれています。彼は、使徒12:12にあるように、マリヤ(新約聖書には数人のマリヤが出て来ますから混同しないでください)の息子であって、ある程度豊かな生活をしていたと思われます。彼は、幼名をヨハネと言い、のちにマルコと改名したのです。彼は、使徒ペテロに導かれて、回心した者と考えられています。彼は、ペテロの道ずれとなって、その語ったところを記録したのです。マルコは、恵まれた環境の中で、慈愛深い母のもとで温室の花のように育ったのですが、厳しい困難に会うと挫けてしまうところがあったようです。パウロの伝道旅行に随行したのですが、その困難に耐えることが出来ず、伝道の第一線から退いて、エルサレムの母の家に帰ってしまったのです(使徒13:13)。その間の消息は不明ですが、マルコは、もう一度、主の憐れみによって信仰が回復させられ、その尊い働きに用いられたのです。主は、一度失敗した者をも、さらに砕いて用いてくださるのです。もし、主が彼を再び、彼を立たせてくださらなければ、今日の「マルコの福音書」もなかったことになるのです。
(2)この書の使命:「神の僕(しもべ)としてのキリスト」を表すことです。
(3)この書は、元来ローマ人のために書かれたものと信じられています。ですから、旧約聖書からの引用が、きわめて少ないことに気づきます。ユダヤ人の言語が説明されています(3:17。5:41。7:11、34。14:36)。
(4)この書の鍵になることばは、「すぐに」「ただちに」(翻訳によって多少、表現が異なります)ということばが頻繁に出て来ます。1章だけでも、10回くらい出て来ます。それは、何故かと言いますと、僕(しもべ)は、休む暇もなく、主人の御こころを行い、その命令を忠実に実行することにあるからです。
(5)この書の特徴は、いろいろありますが、「系図」がないことです。僕(奴隷:slave)には、系図は必要ありません。マタイでは1章に、ルカでは、3章にキリストの系図が書かれています。また、誕生と幼少の頃の記録が全くありません。もちろん、これらは重要な事柄ですが、僕を述べるにに必要なものではありません。神の子イエス・キリストであり、「神のしもべ」であるお方は、1章の冒頭から休みなく働いておられる姿が出て来るのは、印象深いことです。

【3】ルカの福音書について。
(1)この福音書の記者は、ユダヤ人ではなく異邦人であり、ギリシャ人であったと思われます。ルカは教育のある人で、医者を職業としていました。彼がパウロの同労者として最初に記されてあるのは、使徒16:10です。ルカは、一人の医者として、人間を温かい目で見ていることを示す箇所が随所に出て来ます。この福音書の記者ルカは、「使徒の働き」と共に、最初は、たった一人の友人テオピロに宛てて、書いたのです。たった一人の人間のために、彼は多くの時間を割いて、綿密に調べてこれを書き上げたのです。
(2)この書の使命:「完全な人間としてのキリスト」を表すことです。ルカは、キリストの神性について語ると同時に、キリストが人間であることを力説しています。この福音書に示されている主のご性格は、きわめて人間的であり、「神の子」であると同時に、「人の子」であったのです。
(3)4章1~13節にあるように、悪魔の誘惑を受けられました。「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)とある通りです。ですから、イエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。どうか、この大切な真理を肝に銘じて記憶してください。
(4)ルカの福音には、イエス様が御父に祈られた姿が、他の福音書に比べて、頻繁に出て来ます。主が、そのご生涯において、すべての時間を神に対して、絶対的な信頼をおいて生きられたのです(3:21、5:16、6:12、9:18,29、11:29、22:41~44)。主イエス様は「祈りの人」であったのです。
「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ、切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(22:44)。この時、すなわち、ゲッセマネの園における祈りの時、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけたのです。ここにも、人間としてのイエスが十分に示されています。 

【4】ヨハネの福音書について。
(1)この福音書の記者ヨハネは、漁師であったのです。多分、漁師の親方の子であったと思われます(彼の父には、雇い人がいました。マルコ1:20)。その母サロメは、財産をささげて主に仕えた婦人たちのうちの一人です。この事実と彼がエルサレムに自分の家を持っていたということから考えて、彼がかなり豊かな暮らしをしていたことが明らかです。ヨハネの性格は、気性が荒く、せっかちで、気が変わりやすい人であり、「雷の子」と呼ばれたのですが、主の恵みによって変えられ、思慮深い愛の使徒に変えられたのです。ライオンが羊のようになったのです。これは、主の恵みのみわざです。
(2)この書の使命;「神の御子であるキリスト」を表すことです。
このヨハネの福音書は、霊感によって書かれた書簡の中では、最後のもので、書かれた時は、主が昇天してから、50年は十分に経過していました。この書は、聖書の中では、最も奥行きを持ったものであると言っても過言ではないと思います。ヨハネは、主の使徒たちの中では一番長命だったのですが、彼は、福音書の他に、ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと、ヨハネの黙示録を書いていますが、主が彼の長命は、そのための主のご計画であったのではないかと思われます。
(3)この書の鍵のことばは、「信じる」ということばです。多分、私の記憶違いでなければ、100回前後、「信じる」ということばが出て来ます。
一体、何を信ずべきなのでしょうか。それは、人であるイエス・キリストの神性を信じることです。
(4)この福音書には多くの特色がありますが、この書には、キリストがなされた奇蹟(神の御子としてのしるし)の中から、7つだけ選ばれて記録されてあり、それぞれにみな霊的な意味があります。それらがキリストの神性を明らかに示していることは確かです。
(5)他の三つの福音書は、一般的には「共観福音書」と呼ばれていますが、このヨハネの福音書は、それらの福音書と比べて、内容が深く霊的で特別な福音書と言えるかもしれません。いずれにしても、この書が書かれた目的は、はっきりと書かれています。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書21:30,31)。 

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。


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★老後への人生設計

2007-07-25 | 「聖書と人生」

      

●「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。‥‥私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るので。 ‥‥それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうし て私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:4~12)。 
  
 旧約聖書のこの詩篇90篇は、モーセの神に対する祈りのことばですが、ここには、永遠の神の前には、人間の一生とは何と儚いものであるかということが記されています。永遠の神の前には、、千年でさえも一瞬のうちに過ぎ去ります。また人生を花に譬えていますが、花はどんなに美しく咲いても、必ず枯れてしまいます。そして、枯れる時には、あっという間に枯れてしまうので、人生も草花のようであるというのです。しかし、人間と花の違いは、花は散って終わるけれでも、人間は死で終わるのではないということです。必ず、神の前に出なければならないときが来ることを教えています。

 人間は、今どんなに若く健康な人も、必ず年を重ねて、老後を迎えます。私は、幼少の頃の数々の思い出も、少年時代のことや青年時代に過ごした日々を昨日の出来事のように思い出すことが出来ます。でも、あっと言う間に、もう60代半ばを少し過ぎた年齢になってしまいました。モーセは、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。」と言っていますが、この詩篇は、約三千年前に記されたのですが、医学が進歩した今日と当時と比較しても、人間の平均寿命は、それほど変わっていないことが分かります。ですから、「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。」と、モーセは祈っています。

 自分の生涯の日を正しく数えることは誰にもできません。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道者の書3:2)とあります。また、「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)というみことばもあります。それゆえ、「正しく数える」とは、神が人生のすべてを支配しておられ、一人一人の人間の命を握っておられるという事実を知って、神の前に自分の罪を悔い改めて、神の救いを受けて、日々、神に感謝し、信頼して生きて行く謙虚な人生のことを言っているのです。人間は神を知って、初めて「自分の人生の日を正しく数える」ことができると言えるのです。

●「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」(詩篇71:9)。

●「神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。 」(詩篇71:17,18)。


 これは年老いた信仰者の祈りです。老化現象とよく言いますが、これはかなりの個人差があり、一般的には決定的なものはないようです。一応、年齢的に見ると、ある調査では、自らの老いを自覚するのは60~69歳の方で38%、80歳以上で54%、85歳以上になっても自分は中年だと思っている人が37%もいると言いますから驚きます。「老醜」ということばを聞くことがあいますが、あまり好きなことばではありません。これは、必ずしも身体的な衰えの醜さを指すのではなく、心の中にある醜さを指す場合が多いようです。残された生涯も長くないという自覚から、物へ執着が強く表われて来るものと思われます。
 
●「わたしに聞け、‥‥。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。 」(イザヤ書46:3~4)。  

 この記事は、直接には神がイスラエルの民に、偶像の神々ではなく真の神に最後まで信頼するように勧めているところですが、現代の私たちにも語っていることばです。人は、いろいろと老後の心配をしますが、ほんとうに神を信頼する人生を歩んでいるなら、老後の心配はいらないのです。人が老い、死に向かって行く時、お金は頼りになりません。真に信仰に立つ人は、老いの淋しさはあっても、物に頼ることをしないで、ただ、ひたすら神に頼り、神のために生きる人生の幸いを知っているので、益々、輝きを示して行くことができるのです。老後の孤独と不安から私たちを解放して、喜びと希望を与えてくれるのは、神様だけです。

●「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」(詩篇92:14)。

 神に信頼する人生の幸いがここにあります。たとえ、体は衰えても、その内側は霊的ないのちの喜びにあふれて、みずみずしく、生き生きしてしているというのです。神のために豊かに実を結ぶ、祝福された幸いな人生です。今、若い方も必ず、人は老いるときが来ます。そして、人は、若い時の生き方、心の持ち方が中脳にセットされていて、老人になった時に、それが繰り返し出て来るのだそうです。つまり、若い時の生き方が善良であれば、年老いても、好かれる老人になり、反対に意地悪で、強情、自己中心な老人は、若い時にも、やはりわがままな人生を送った人であり、若い時の生き方は、老後に必ず出て来るというのです。

 今回のテーマから脱線しますが、世界の長寿国について、ある本に大変興味深い事が書かれていました。ロシア連峰のコーカサス地区、エクアドルのアンデス山中、ネパールのヒマラヤ山中に、120~130歳の年齢の人が多いそうですが、これらの長寿の人々には、三つの目立った特長があるのだそうです。「摂取カロリーが低いこと。肉体労働に従事していること。しかも、老人は一族の長と考えられていて、人々から尊敬されていること。」だそうです。お年寄りが無価値と考えられている所では、彼らは老衰が早く、気難しい態度になり、病気にもなりやすいと言うのです。日本でも、百歳以上の長寿者の家庭は、例外なくお年寄りが大切にされていると言われています。何か、考えさせられることですね。

●「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテ4:6~8)。

 これは、青年時代にキリストを信じて、その後、生涯の間キリストの福音を大胆に宣べ伝え、信仰を全うして人の殉教直前のパウロのことばです。死を迎えようとする人の臨終のことばですが、死に対する微塵の不安も恐れもない彼の心中が記されています。彼は、信仰のために多くの迫害や試練も通りましたが、充実感に満ちて老後を迎えたことが分かります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道者の書12:1)とありますが、若い日に、神を信じることができたら、一番幸いです。もちろん、テモテのように幼い時から聖書に親しむ機会が与えられた人は、更に幸いです。しかし、ヨハネの福音書3章に登場するニコデモのように、老人になってから、キリストを信じて救われる人もいます。

 最悪なのは、年を取っても、まだイエス・キリストを信じて救われていない方です。なぜなら、死が直前に迫っているからです。そして、聖書によれば、死後には決して救われるチャンスはないのです。どうか、一刻も早く、キリストの福音を信じて、救われ、神に仕える生涯を歩み、そして死後にも永遠に希望のある天国に入る方となって下さい。先日、北海道のHで聖書から「永遠のいのち」について語っていましたが、98歳のお婆さんが出席されていて、真剣に聖書に耳を傾けていたのを見て驚きました。あなたにも、まだ、救われるチャンスは残されています。「余生」とは、”余った人生”と書きますが、神が与えたいのちに、余った人生などはないのです。神に立ち返って、有意義で希望に満ちた生涯を全うしましょう。

●「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 」(2コリント4:16~18)。


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★神がいるなら、どうして!?

2007-07-17 | 「人生の試練と逆境」

 この世の中には、何か不幸な出来事に遭遇したり、大惨事や災害で犠牲者が出たりすると、必ずと言っていいくらい、「神がいるなら、どうしてこんなことが起こるのか!」と言う人がいます。また、戦争やテロや繰り返される国家間の争いや殺戮によって、どれだけ多くの人々が傷ついたり死んで行っていることでしょう。最近は、特に目を覆いたくなるような悲しい事件が多発しているのを見ると、「神がいるならどうしてこんな事態を許されるのか。一体どうしてこんな非情なことが起こるのか。」とお考えになる方がいても不思議でないかもしれません。私も、若い頃、人生についていろいろと考えましたので、この世の中に、こんなに矛盾があり、悩みと悲惨なことが満ちているのに、と反発を覚える方のお気持ちが分からないわけではありません。
 
 しかし、どうか冷静になってお考えになってみてください。「神がいるならば‥‥。」ということばの背後には、「この世の中には正義の神がいるはずである。」また、「その神は愛の神であるはずである。」との思いが、人間の心の奥底のどこかにあるからこそ、そのようなことばが出てくるのではないでしょうか。もし、全く神など存在するはずがないと信じきっているのであれば、完全に無視すればいいわけですが、不幸なことが起こった時だけ、何故か「神」を持ち出して来て、「神がいるなら、どうしてこんなことを許されるのか!」と言うことばを発するのです。ところが、平和で平穏な日々を送っているときには、神のことなど気にもかけず、口にもせず、もちろん、その平穏な日々を神に感謝することもしないのです。

 あなたは日常の生活の中で、自分の心臓が動いていることを感謝したことがあるでしょうか。また、水や空気があり、食べ物が与えられていることを当然と思っていないでしょうか。綺麗な花が咲いているのも、必要な時に天から雨が降り、植物を成長させてくださるのを感謝したことがるでしょうか。自分の体に目や鼻や耳があり、手や足があり、それらの器官が多様な働きをしていることを当然と思っていないでしょうか。いや、あたが今日生かされていること自体、当たり前のように思っていないでしょうか。この地球上の様々な自然界の営みや、美しい山や川を見て、また、広大な星空を仰いで感動することがありませんか。静かに沈んでいく美しい夕陽を見て感動することはありませんか。でも、あなたはその時、それらを創造された神に感謝したことがあるでしょうか。

 ある本によると、太陽は毎秒、石油数百万トン相当のエネルギーを放射しているそうです。そして、一年間に日本に降り注ぐ太陽のエネルギーで、日本人1億2千万人が1千年間も生きられるのだそうです。この地球全体に注がれる熱量がどれくらい膨大な量であるかは、想像もできないほどです。しかし、太陽の熱や光が豊かに惜しみなく注がれていても、それを何かで遮れば光や熱は届かなくなります。それと同じように、神の愛に対して人が心を閉ざすならば、神の愛は人の心に届きません。神のご本質は愛であると聖書は教えています。もし神の愛を感じないとすれば、それは人間の不信仰によって、無限に注がれている神の愛を遮っているからなのです。神から全人類へのラブ・レターとも言うべき聖書は、人間に対する愛が満ち満ちています。

●「天の父(神)は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書5:45)。

●「神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。‥‥確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒の働き17:25~28)。


 人間の様々な不幸や悲劇や災難の個々の一つ一つの事例について、その原因とか理由などを説明することは、私にはできませんが、人類に苦しみや不幸が入って来た根本的な原因は、人間が神(創造者)に対して背を向け、神から離反しているためであると聖書は語っています。神が人類の始祖であるアダムとその妻エバを創造された時に、神はふたりをエデンの園に住まわせました。「エデン」とは、「歓喜」とか「楽しみ」という意味であり、そこにはどんな不幸も悲しみも涙もなかったのです。神と人との平和な交わりがあり、自由と平和と愛と喜びが満ちたすばらしい世界であったのです。もちろん、人と人の間に争いも憎しみもありませんでした。神は人が住むために必要なものをすべて備えてくださり、人が生きるために完全に整った環境があったのです。

 しかし、やがてこの平和な愛に満ちた世界に罪が入って来ました。最初に、アダムとエバが禁断の木の実を食べ神に罪を犯したのです。創世記3章にその罪が世界に入って来た経緯が書いてあります。その罪の結果は、すぐに表われました。まず、夫婦の間に亀裂が生じ、互いに自分が犯した罪について責任転嫁している姿があります。この3章に、初めて”苦しみ”ということばが出て来ます。人が罪を犯す前のエデンの園には、”苦しみ”はなかったのです。罪の結果、女は苦しんで子を産み、男は苦しんで額に汗して食を得なければならなくなったのです。4章に入ると、今度は兄弟間の間に妬みと争いが生じ、ついに兄のカインが弟アベルを殺すという殺人事件まで起こってしまったのです。家庭内の殺人事件は、最近に始まったことではなく、この時から既にあったことなのです。

 人類の罪の歴史は、その時から延々と今日まで続いているのです。そのために今の世界にも、様々な不幸なできごとが起こっています。これは神の責任ではありません。人間の責任なのです。子供が自分を愛情をもって育ててくれた両親に感謝もせず、親を無視し、反抗するならば、それは親不幸というものです。それと同様に、神が大きな愛を注いで人間を生かしてくださっているのに、その神を無視して自己中心の生活をして生きるならば、神に対する罪なのです。何か不幸なことや災いや悲しいことが起こるとすぐ神の責任にすることは大きな間違いなのです。神の恵みがなければ、あなたは、ただの一秒も生きることができません。それなのに、それを当たり前のように考えて生きることが罪であると聖書は教えています。神に対する不信仰は、親不孝よりもはるかに悪いことなのです。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 」(ローマ人への手紙1:20~23)。

●「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。 また、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」 (ローマ人への手紙3:12~18)。


 神の存在は、被造物によって明らかに認められることです。その神を無視し、神の代用品としてさまざまなものを拝む(偶像礼拝、)という愚かなことを人間は繰り返して来ました。約2.000年前に書かれた新約聖書は、このように人間の罪を断罪しています。今日も、このみことばのとおりのことが起こっています。私たちには、何の弁解の余地もありません。しかし、それでも、神は罪を憎んでも人を憎むことをせず、神に背を向けている人たちを愛してくださっているのです。そして、神から離れて生きるならば、苦しみと不幸しかないことを分からせようとされているのです。人間は、不幸のどん底に落ちないと本心に立ち帰ることがないということが多いのです。神は、ご自身の愛のゆえに、人が苦しみの中を通ることを許されることもあるのです。

●「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これも、あれも神のなさること。」(伝道者の書7:14)。

●「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 」(詩篇119:71)。


 一般的には、苦しみは不幸と考えるのが普通ではないでしょうか。でも、この詩篇の記者は、苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでしたと言っています。”苦しみ”の一面は、実は神の愛と恵みの発露でもあるのです。ルカの福音書15章の放蕩息子は父親から離れて、放蕩三昧の生活をして、飢えと苦しみと孤独のどん底の中で、自分の罪を認め、悔い改めて父親のもとに帰って来ました。父親は、息子が離れて行くのを止めさせることも出来たのですが、敢えてそうはしませんでした。その息子の自由意志に任せたのです。しかし、その息子がいない間、父親は断腸の思いで息子の帰りを待っていました。それが、父親のわが子に対する愛なのです。自ら自分の間違いに気づいて帰って来るのを、父親は一日千秋の思いで待ち続けたのです。神の私たちに対する愛も同様なのです。

●「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で、彼らの耳を開かれる。」(ヨブ記36:15)。

 このみことばをよく注意して読んで下さい。「神は悩んでいる者をその悩みから助け出される。」とは書いてありません。神は、人を「悩みの中で」救い出されるのです。悩みや苦しみがないと、人はなかなか自分の人生の意味や目的などを真剣に考えようとしないのではないでしょうか。「これを信じれば、病気が治ります。」とか、安易に約束する宗教がたくさんありますが、聖書の神は苦しみや悩みの現実の中で、人生を深く考えさせ、神に立ち返らせてくださる真実の愛を持って愛してくださる方なのです。

 ヨハネの福音書9章の記事ですが、イエス様が道中で、生まれつきの盲人をご覧になられました。それを見た弟子たちは、イエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と尋ねました。その時、イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のみわざがこの人に現われるためです。」と、驚くべきお答えをなさいました。そして、その盲人の肉眼はイエス様の奇蹟よって開かれ、また彼の霊の目も開かれました。ゆえに、この世界の人類の不幸の根源は、人類の始祖によって罪が入って来たのですが、人間の個々の不幸が、必ずしもその人々の個々の罪によるものであると考えてはなりません。「あの人にあんな不幸があるのは、彼が罪を犯したからだ。」などと軽々しく言ってはならないのです。 

 また、ルカの福音書13章で、イエス様は次のように言われました。「‥‥シロアムの塔が倒れ落ちて、死んだあの18人は、他のだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と警告なさいました。この災難は、エルサレム近郊のシロアムの池のあたりにあった塔が、工事中の偶発的事故か、または何か別の原因で倒壊したために多数の人が災難に会い、亡くなったという痛ましい出来事です。今日も、多くの不慮の事故や突然の災難で、多くの人命が失われることがありますが、だからと言って、その災難に遭遇した人が、他の人よりも多くの罪を犯したということではありません。すべての人は悔い改めなければ、神の裁きを受けるのです。

 神様の愛は、すべての人に注がれています。そして、神の究極的なご計画は、人間の神に対する不信仰の結果である罪と死(永遠の滅び)から、人類を救うことにあります。そのために、神はご自分の御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、人間の罪の身代わりに十字架につけてくださり、三日目に復活させてくださったのです。何という驚くべき神のご愛ではありませんか。愛の神に背を向け、罪の生活を続けて「神などいない。この世界のどこに愛があるのだ!」言っている人は、土に深い穴を掘って、その中に入り、その穴の上にふたをして、「太陽の光など何も見えないではないか!」と言って不平を言っている人に似ていると思いませんか。あなたは、どうでしょうか。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(1ヨハネ4:10)。
  
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★人間は神のロボットではない

2007-07-09 | 「聖書と人生」



●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたち彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

 
 神は、人間を土地のちりから造られたと聖書は明確に教えています。ある方はこれを神話のように言いますが、霊感によって記された聖書の記事のすべては、永遠不変の神の真理であり、私はこれをそのみことばの通りに信じています。そして、神は、ちりを取り、ご自身に似せて形造り、息(霊)を吹き込まれると人間は生きものとなったのです。ここに人間の尊厳性と共に脆弱性(もろさ)が見事に描き出されています。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。」(伝道者の書12:7)とあるように、人がちりから出てちりに帰ることは聖書に書かれていますが、さらに人間の体で必要とする成分が土の中に含まれていることも、非常に興味深いことではないでしょうか。

神の「息」とは神の「霊」のことであり、人間は動物とは違い、霊的な存在として造られたのです。神の霊が与えられたことによって人は生きるものとなったのです。人が「生きる」ということは、ただ単に動物のように生存することではありません。そして、この神が与えられた霊こそが、神を敬い、神を慕い、神と交わり、神を礼拝し賛美する思いを人間の心の中に与えているのです。また、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3:11)と聖書は言っていますが、これこそが人間にだけ与えられた神の賜物なのです。動物は、本能によっていろいろなことをしますが、人間のように未来のことや永遠のことを考えることはありません。

それでは、どうして神は人間にこの霊を与えられたのでしょうか。それは、神と人間が何の妨げもなく親密な交わりを持つためであり、これは神が人間を愛の対象(または、パートナー)として創造されたことを示しています。そして、神は決して強制的に神を敬うような人間を造られたのではありませんでした。ロボットは、人間が自分の思う通りにコントロールでき、あやつることができるのですが、神は人を創造された時に、決してロボットのようには造られなかったのです。もちろん、神はそのようなロボットのような人間を造ることは出来たと思います。もし、そうすれば、今日だれ一人として神に逆らい、神に背を向け、自分勝手な罪の生活をすることはなかったでしょう。しかし、神の英知に満ちたご計画は人間の考えに比べてはるかに勝っているのです。

では、神はどうしてそのように人間をロボットのようにお造りにならなかったのでしょうか。これは、少しお考えになればすぐに分かることではないかと思います。あなたも、私も人間はだれ一人として自分はロボットのようにはなりたくないと考えると思います。もしそうであるならば、そこには何の心の交流もつながりもなく、ただ言いなりに動く機械的な服従があるだけではないでしょうか。そうであるならば、そこには、愛情も、意志の疎通も、愛の交流も存在しないことになります。ところが、ロボットでなく人間であれば、たとえまだ物事がよく分からない幼児であったとしても、親の言うことを理解して、何かごく簡単な行動をしただけでも、親にとっては、どんなに嬉しいことでしょう。そこには、必ず、喜びがあります。

たとえ、それが大人から見たら取るに足らないことであっても、とにかくその小さな心で自分の意志で理解して、自分から行動して親の要求に応えたのです。そこにこそ、本当の心のつながりと愛の交流が生まれるのではないでしょうか。このように考えてみますと、人間でさえそうであれば、まして神が人間を造られた時、ロボットのように造られなかった理由を知ることができると思います。機械的な服従ではなく、神のみ言葉に対して、自分がどう判断して従うかを神は人間に要求され、またそれをご覧になっておられるのです。ですから、神は人に自由に選択できる「自由意志」を与えられたのです。人間は神のロボットではなく、自由意志が与えられているということは、本当にすばらしいことなのです。是非、人間に与えられたこのすばらしい特権についてお考えになってください。

ですから、人は自分の心で、霊で、はっきり真の神様のみこころを判断して、神を認め従うべきなのです。ところが、残念なことに人間はこの神を認めることも、信じることもできないくらい遠く離れてしまったのです。その上、神ならぬ神々(偶像)を作り出して、それを拝むに至っては、正義なる真の神様がその不従順な人間を、激しい裁きをもって報いられたとしても当然のことではないでしょうか。例えてみますと、もし、人間にコントロールされるロボットが隣家の玄関のガラスを割ったとします。でも、その自由意志のないロボットには、その責任を問われることはありません。しかし、自由意志を持った人間がキャッチボールをしていて、隣家の窓のガラスを割った場合は、当然責任が問われ、その償いをしなければなりません。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:14)。
 

しかし、神は正義であられると同時に愛の神であるのです。神にとって、どうしてご自分の造られた人間が滅びることを願っておられるはずはありません。一日も早く、一人でも多く救われることを望んでおられるのです。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストをこの世に全人類の救い主として遣わしてくださいました。イエス・キリストは神に人を近づけるために、天から来られたただ一人の救い主です。キリストは心から人々と愛と憐れみを示され、悩める者や病める人々に救いの御手を差し伸べられ、また、盲人の目を開けたり、死人をよみがえらせたり、その他多くの数えきれないほどの奇蹟を行って、ご自身が神の御子であり、救い主であることをはっきりと証明されたのです。また、恵みに満ちたことばと共に、権威と力に満ちたことばも、数多く語られました。

イエス・キリストのなさった多くの恵み深いみわざを見て、砂糖に蟻が群がるごとくに、人々はキリストのあとに従ったのです。しかし、彼らの求めていたものは、罪と死後の裁きからの救いではなく、この世的な救い(一時的なこの世の幸福)であったのです。そして、イエス・キリストは、その生涯の最期の33歳の時に、十字架に架かって、全人類の罪の身代わりとなって死んでくださり、墓に葬られたのですが、死後三日目に復活されて墓から出て来られたのです。これは、人類の歴史上、最も驚くべき奇蹟であり、これを通して、キリストが神の御子であり、神と等しい方であることをはっきりと示しています。この御子イエス・キリストを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちを受けることができるのです。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

キリストの大きな愛があなたに強く迫っています。今日も、キリストはあなたの心に語り続けています。キリストは、ある時、ユダヤ人に向かって「ああ、‥‥わたしは、めんどりがひなを集めるように、あなたがたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、それを好まなかった。」(ルカ23:37)と言われましたが、これは現代の私たち一人一人にも語っておられる警告のことばです。神の審判がいかに厳粛で厳しいものであることを知っているからこそ、真剣に私たち神から離れている者たちを神の怒りから救おうとして招いておられるのです。どうぞ、あなたもその心の耳を開いて、キリストの招きに応じてください。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

●「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたし(キリスト)のところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ14:6)。
 

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★真理の側に立つ決断を!

2007-07-02 | 「聖書と人生」




 ●「ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そして、ついにその声が買った。ピラトは彼らの要求どおりにすることを宣告した。」(ルカの福音書23:23,24)。
  
 人はだれでも、毎日いろいろな場面で物事を判断し、選択したり決断したりしながら生きています。しかし、人間は一生のうち右か左か、重大な決定を迫られる岐路に立つことがあります。イエス・キリストを十字架刑に処すと判決したローマの総督、ポンテオ・ピラトの場合もその重大な立場に立たされました。当時イスラエルはローマの支配下にあり、ローマ政府の派遣した総督によって統治されていました。イエス・キリストは、この地上で完全無欠の聖よい正しい生活をしていました。ですから、当時のユダヤの腐敗した宗教家たちにとっては、キリストはけむたい存在であり、彼にに対する妬みもあったのです。彼らはキリストの正義と聖よさの前には決して立ち向かうことが出来ないのを知っていましたから、策略をもって、キリストを落とし入れようと企んだのです。

 ピラトは原告のユダヤの祭司長や長老たちが口々に不利な証言を申し立てているのに、一言も弁明しようとせず、じっと立って表情一つ変えずに、狂いたけっている群集とは全く対照的な柔和な姿の被告(イエス)見て、不思議に思い、非常に驚いたことが聖書に記されています。そして、ピラトは直感的に、この人は善人であると分かったのでしょうか。ピラトは、イエスを何度調べても罪(ローマの法律における罪)を認めることはできませんでした。ピラトはイエス様の無罪を認めながらも、自分の任地であるユダヤの有力者たちの機嫌を損ねては、自分に不利になると思い、自己保身のために妥協案を出したのです。それは、「キリストと当時の評判の囚人バラバとどちらを赦してほしいか。」というものでした。それは祭りのたびに群集が願い出る囚人一人を総督が赦免する慣例になっていたからです。

 ピラトは、これならさすがの群集もイエスの釈放を要求するに違いないと考えました。バラバとは、その当時名前を聞いただけでも恐ろしがるほどの凶悪な罪人であったからです。しかし、ピラトの予想に反して、群集はバラバの釈放を求め、イエスを十字架に付けるように要求したのです。人々は全く罪のない聖よく正しいイエス・キリストではなく、罪人の中でも極悪な犯罪人を釈放するように望んだのです。イエスが罪のないお方であり、当然、十字架の刑などに処すべき方ではないと分かっていながら群集は、なおもピラトに対し、イエスを十字架につけることを要求し続けたのでした。そして、イエスを有罪者として扱い、祭りの特赦でイエスを釈放しようと考えたピラトの計画は完全に失敗しました。

 ピラトは、とうとう自分の意志に反して、イエスを釈放したいとの思いがありながら、自分の地位や名誉や立場を守るために、また、人を恐れてイエスを死刑にする宣告を下してしまいました。ピラトは、自分の利益と一致するなら喜んでこの世的な正義を行おうとしましたが、大きな犠牲や損失が伴なうなら止めるという態度を取ったのです。そして、彼がいつも自分自身に問う質問は、「私の義務は何か。正義は何か。」ではなく、「私の利害関係は何か。」であったのです。ピラトはこの事件後、間もなくあれほど執着していた地位から追放されて、やがて自殺をして果てたと伝えられています。これは、私たちに対する大きな教訓ではないでしょうか。彼の魂は永遠に救われる機会を失ってしまいました。

 しかし、一見矛盾するように見えるこの出来事の背後に真の神様の愛に満ちた救いのご計画が織込まれていたのです。つまり、イエス・キリストは、バラバの身代わりになっただけでなく、歴史上のすべて人類のの罪を負って、十字架で身代わりに死んでくださったのです。あなたは、「私はバラバのような極悪な者ではない。バラバよりは善人だ!」と考えてはいないでしょうか。聖書は「すべての人は罪を犯したので。神からの栄誉を受けることが出来ない。」(ローマ人への手紙3:23)と厳粛に告げています。神は天からこの地を見おろして「彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐れ果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩篇14:3)と言っておられるのです。
 
 話は少しさかのぼりますが、ピラトは群集の激しい憎しみにたじろぎ、なすすべを失っていた時、彼の妻から使いがやって来て「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しい目に会いましたから。」(マタイの福音書27:19)と警告しました。ピラトの心はこの言葉によって、ますます当惑しました。彼は職務上、公正な裁判をすべきでしたのに、内心臆病な彼は、群集を敵に廻すことにも躊躇して、とうとう「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」(マタイの福音書27:22)と叫んだのでした。ピラトはなおも、「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」と叫んだのですが、もはや群集の声には勝てませんでした。彼は、良心の声を無視して、悪を赦して、真理を罰することに妥協してしまったのです。

●「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」(マタイの福音書27:22)

 さて、このピラトの口から発せられた「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」ということばは、すべての時代のすべての人々に投げかけられた厳粛な問いなのです。ピラトが民衆に尋ねたこの質問は、私たち一人一人に対する大切な質問でもあるのです。あなたも、私も一人も逃れることのできない重大な質問です。これは、私たちの永遠を決定する重大問題なのです。この質問に対する答え如何によって、私たちの運命が決定されると言っても過言ではないほど厳粛で、重要な質問なのです。ピラトにも良心があったのです。しかし、彼は良心に従ったのではなく、民衆の声に従ってしまいました。ピラトは最終的に、もう永遠に取り返しのつかない決断を下してしまったのです。あなたは、イエス・キリストにどのような態度を取られるでしょうか。
 
 真理を真理として受け入れることこそ、純粋な本物の信仰なのです。たとえ、自分にとって、不都合なことも不利なことも、真理はどこまでも真理です。真理とは、ものごとの真の姿を表すものです。だれも、真理を変えることはできません。また、それを覆い隠すこともできません。イエス・キリストを信じたら「出世できるだろうか。」とか、「結婚できるだろうか。」とか、「金儲けができるだろうか。」などと、打算が入って来ると、純粋な正しい信仰をもつことができないと思います。あなたの心の中で、良心の声とサタンの声が戦っています。どちらの声にあなたは従うでしょうか。あなたの罪のために十字架にかかって身代わりに死んでくださったイエス・キリストを信じて永遠の滅びから救われて下さい。どうか、あなたの目先のことではなく、永遠を考えて正しい決断をなさってくださいますように。
 
●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(1コリント2:4,5)。

 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

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★ある方の質問へのお答え 

2007-06-25 | 「キリストの復活」

 みさなん。お元気でお過ごしでしょうか。最近、私のブログの記事を読まれたある方(Mさん)からメールをいただきました。初めにこの方を簡単にご紹介しますと、Mさんはクリスチャンの両親の元に生まれ育ち、幼いころから教会に通い、聖書に書かれていることはすべて事実だと信じていたそうです。ところが、Mさんは成長するに従い、いろいろと疑問が増えて来たそうです。そして、聖書に書かれていることがすべて事実であるとすれば、つじつまが合わないことが多過ぎると思うようになり、ついに信仰を捨ててしまったそうです。しかし、信仰を捨ててからもさらに疑問は増える一方であるというのです。今は教会とはまったくお付き合いがなく、両親とも絶縁状態だということです。それで、だれにも相談する方がおられないので、私のサイトを見て、ご相談くださったというのです。真面目なご質問なので、私も真面目に誠実にお答えしたいと思います。

 ====さて、最初に申し上げておきたいことは、すでに本人のご意志で、ご質問の内容をブログに公開してくださって答えてくださってもよろしいですということですので、ご了承下さい。編集の都合上、Mさんのご質問の要旨を簡略にまとめて書きますが、私の復活に関する記事を読まれての疑問(質問)を書かれたものです。その疑問点の要旨は、復活したイエスが姿を見せたのは、自分の弟子たちやマグダラのマリア、そして500人のクリスチャン(兄弟)など、イエスの「信者」だけではありませんか。なぜ復活したイエスはポンテオ・ピラトのもとに現れなかったのでしょうか。他に、イエスを裁いた大勢の人々、処刑に携わったローマの兵士など、そういう信者でない「否定派」の人々の前に現れなかったのは何故ですか。復活したイエスが会ったのは自分の信者だけで、否定派の人々前に現れていないのは矛盾していませんか。

 それに、イエスが昇天するまで40日も地上にいたのに、その間、イエスは一体何をしていたのでしょうか。そんなに長い間地上にいたなら、否定派の人々にも多くの目撃証言があるはずです。もしも、大勢の群集の前で死刑になった人が蘇って街を歩いていたら、誰もがびっくり仰天するはずです。ピラト本人も復活したイエスに会っていたか、少なくとも復活の噂は多くの人から耳にしていたはずです。イエスの復活の話は、「信者だけ」によって作られた話としか思えません。もし真実なら、信者でない否定派の人々の前にも現れているはずです。否定派の前に現れなかったのはおかしいと思いませんか。‥‥‥概要は、大体このようなご質問でした。====

 お答えする前に、まず、これはあくまでも信仰の問題であり、信じるか信じないかは、全く本人の自由であり、これはだれからもその自由を拘束されるものではないということをご承知下さい。私は、どなたとも論争したりするのを好みません。私は、聖書は100%神が啓示された神のことばであると信じる者として、聖書の真理の福音を確信してブログによって発信しています。私は自分が確信していないことを他人に伝えたり、発信するつもりはありません。もし、私が神の真理でないことを、神からのメッセージであるかのように伝えるなら、真理を曲げて伝えることになりますので、私は神に敵対する大嘘つきということになります。ですから、私はあなたに対しても、自分の意見ではなく、聖書に基づいてお答えしますので、ご理解下さい。

【1】まず、最初に知っていただきたいことは、聖書には実際にあった事実をすべて記している書物ではありません。神が記述する必要があると認めたことだけを記しています。
★聖書には次のような聖句があります。

●「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書き記すなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネの福音書21:25)。 
 イエス様がこの地上で行ったことを全部書き記したなら、世界中の図書館を集めてもその記録した書物を入れることはできなかったと思います。ここでいう「世界」は何を意味しているか、私は分かりませんが、この聖書記者が言わんとすることは理解できるはずです。この記述は大袈裟に書いたものではなく、その通りであると私は信じています。ですから、聖書に書かれていないことは、起こらなかったという結論にはなりません。復活後、イエス・キリストは、主に弟子たちに会ったことを記録していますが、その他の人に会わなかったというように断言するのは間違いであると思います。

【2】イエス様の弟子たちや主に従っていた女たちは「肯定派」であり、ポンテオ・ピラトや、ローマの兵士たちを「否定派」という分け方は果たして正しいでしょうか。私はそのようなことは聖書に根拠がないと思います。

 イエスを裁いたローマ総督ピラトは、三度も「この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。」(ルカの福音書23:4、15、23)というようなことを言って、彼は何度もイエスを釈放しようと努めています。けれども、彼は自分の今の地位や立場を失うのを恐れ、自己保身のために、イエスを十字架につけるように要求したユダヤ人たちの圧倒的な声に敗北し、妥協して良心の呵責を感じながら、彼は「イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた」(ルカ23:25)のです。ピラトは、イエスの復活を否定していたわけではなく、肯定していたわけでもなく、ある意味で、ユダヤの宗教的なことなどに関してはどうでもよかった「無関心派」であったと言っていいでしょう。現代も大部分の人はそうではないかと思います。

 また、イエス様の12弟子たちやその他の弟子たちは、最初からイエスをキリスト(罪からの救い主)と信じていたわけではありませんでした。その中には、イエスを裏切ったイスカリオテのユダもいました。12弟子も、イエス様の計り知れないみ心とご計画によって選ばれたのですが、最初から信者(クリスチャン)であったわけではありません。イエス様が、弟子たちに、ご自身の十字架と復活について予告された時に、イエスの側近の一人であったペテロは、イエス様を引き寄せて、いさめ始め「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(マタイ16:22)と語っているのです。もちろん、ペテロはその少し前に「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)と告白しています。
 
 しかし、彼は正しい意味で理解して告白したのではなく、ただ単に、ローマ帝国の支配からユダヤを解放するメシヤとして認めたに過ぎないのです。他のユダヤ人も、キリスト(救い主)については、殆どがその程度の理解しかありませんでした。ですから、キリストが、ご自身の十字架の死と復活について予告された時、ペテロはその直前の信仰告白とは裏腹に、非常に驚いたわけです。他の弟子たちも、同様でした。イエス様は、三度も予告されたのに、キリストの復活など信じている弟子は一人もいませんでした。イエスが逮捕された時は、弟子たちは、「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」(マルコ14:50)のです。もし、ほんとうに信じていたら、なぜ逃げる必要があるでしょうか。ですから、彼らは、最初はあなたが言うところの「信者」(肯定派?)ではありませんでした。

 また、実際に、イエス様の十字架の死後三日目の復活された時に、弟子たちが復活を信じていたなら、早朝に墓に急いで、イエスの復活を待っていたはずですが、弟子の中でだれひとり、信じている者はいなかったので、日曜日の朝、墓に急いだ者は皆無だったのです。複数の女たちが、日曜日の早朝、イエス様のご遺体に防腐のために油と香料を塗りに行ったのですが、墓からイエス様のご遺体が無くなっているのを知らせた時も、弟子たちは最初は、なかなか信じようとはしませんでした。あなたは、すでに聖書を何度も読まれたと思いますので、いちいちその箇所を示しませんが、お分かりのことと思います。ですから、このような弟子たちは信者(クリスチャン)であり、肯定派ということが正しいでしょうか?詳細について書くスペースがありませんが、弟子たちが真の意味で信者になったのは、キリストの復活があって、その後の聖霊降臨によって、真に信じる者と変えられたのです。

【3】あなたが言うところの最大のの「否定派?」は、実はユダヤ人の指導者たちであり、彼らがイエスを妬み、憎しみを抱き、十字架に付けたのです。

 そして、その先頭に立って、イエスに反対し、信者を迫害していたのは、有名なあのサウロ(のちのパウロ)であったことはあなたもご存じのことと思います。あなたは、「イエスが昇天するまで40日も地上にいた」と書いていますが、これは、ルカが書いた使徒の働き1章3節にはっきり記されていますね。あなたは、そのルカが書いた「使徒の働き」を信じてそれを引用されたのだと思いますが、その同じ「使徒の働き」の9章をご覧下さい。そこには、キリストに猛烈に反対し、クリスチャンを迫害していた最大の敵とも言えるパウロに、栄光の姿の復活のキリストが現れているのです。

 そして、パウロの人生はこの時から一変して、キリストの迫害者から、キリストを大胆にべ伝えるキリストの伝道者に変えられたのです。そして、新約聖書の手紙は、「ローマ人への手紙」から始まって、「ユダの手紙」まで全部で21ありますが、その中の少なくとも13は、パウロが書いたものです。ヘブル人への手紙の著者は明確でありませんが、おそらくパウロであろうと思われます。もし、そうだとしたら、14はパウロが書いたことになります。もし、復活がないとしたら、これをどのように説明できるでしょうか。ですから、あなたが言うところの「否定派」に、復活のキリストが現れなかったというのは、事実ではありません。私は、キリストの復活を示す証拠を一つ上げなさいと言われたら、躊躇せず「パウロ」の名前を上げると思います。

【4】「イエスが昇天するまで40日も地上にいたのに、その間、イエスは一体何をしていたのでしょうか。」というご質問ですが、聖書にはっきり書かれています。
 
●「イエスは苦しみを受けた後、40日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒の働き1:3)。

(1)弟子たちに、未来の神の国のことを語っていました。
(2)何度も弟子たちに現れて、数々の証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されました。なぜでしょうか。少なくても三回も、弟子たちに復活について予告したのに、全く覚えてさえいなかった鈍い弟子たちです。ですから、繰り返し繰り返し、現れてご自身が生きていることを彼らに示す必要があったのだと思います。一回か二回現れても、弟子たちの中に「いや、あれは幻に過ぎなかったのだ!」と言う人が現れるかもしれません。ですから、彼らに強い確信を持たせる必要があったのだと思いますが、いかがでしょうか?

 前途多難なその後の、使徒たちの歩みを考える時に、そのような強い確信はどうしても必要であったのではないでしょうか。弟子たちに、そのような確信を持たせ、訓練するためには、40日でも足りないくらいです。そして、その昇天の10日後に、あの聖霊降臨(ペンテコステ)があったのです。聖霊に強められた使徒たちは、人を恐れず、益々大胆にキリストの復活を宣べ伝えたのです。あなたが信じて引用された使徒の働きの中で、使徒たちが宣べ伝えたメッセージの中心のテーマは、「キリストの復活」です。もし、キリストの復活がなかったとしたら、どうしてそのように殉教するまでに、福音を証しできるでしょうか。弟子たちは、その後の働きと寿命は違いますが、みな殉教して行ったのです。

【5】「イエスの復活の話は、信者だけによって作られた話としか思えません。」と、あなたは言われます。

 しかし、イエス様が復活について語ったとき、弟子たちのうちだれ一人として、信じていなかった彼らが、どのようにして、そのような「作り話」を考え、そのウソだと分かっていることのために、命を捨てるまでに、熱心になれるでしょうか。もし、あなたがその立場だったら、その嘘と分かっていることのために、命をを賭けるほどに熱心に伝道できるでしょうか。復活を信じない方が、信じるよりも、はるかに多くの矛盾を抱え込むことにならないでしょうか。私個人のことを言えば、キリストの復活は、自分の信仰において、何の妨げにも躓きにもなりません。却って、キリストの復活がないと仮定したら、多くの矛盾点が出て来て空しくなるばかりです。書けばきりがありませんが、要するに、これは信仰の問題であり、否定したい人は、どんな理由でも持って来るのです。

【6】「なぜ復活したイエスはポンテオ・ピラトのもとに現れなかったのでしょうか。」とのご質問ですが、現れたか現れなかったか、私は分かりませんが、現れないとしても何の矛盾もありません。
 
 イエス・キリストは、復活されたあと「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(マルコの福音書16:15)と、弟子たちに命じられたのです。全世界にキリストの十字架と復活の福音が宣べ伝えられることはが、キリストの求めておられることです。なぜ、ピラトに現れる必要があるでしょうか。ピラトに何度か現れたとしても、ローマ総督の彼が世界中に伝道に出かけたことをあなたは想像できますか。人間は、自分に関心のないことや都合の悪いことは、賄賂を使ってでも、その真理を曲げようとするのです。マタイ28章を読むとそのことが分かります。

 あなたは、「信仰を捨ててからもさらに疑問は増える一方である。」とおっしゃっておられます。神を信じるのを止めて、心が平安になったという人に、私は会ったことがありません。益々、不安と恐れとが増すばかりです。そして、人生に絶望的になってしまう方が多いのです。どうか、あなたの人生は、あなた自身がお決めになられるのですが、素直な気持ちで、聖書のみことばを受け入れ、イエス様を信じて、神に立ち返ってくださることを切に望みます。私は、この文章を纏めるのに多くの時間を費やしました。どうか、その時間が無駄にならないことを祈ります。神様は、あなたのことを忘れずに愛していますよ。私があなたにお会いしたのも、神様の導きかもしれません。どうぞ、主の恵みを無駄にしないでくださいますようにお祈りしています。
(尚、このお答えに納得がいかなければ、再度ご質問くださっても結構です。何度でもお答えいたします。今のところ、そのような再度のご質問はございませんが・・・・。)

●「もし、私たちがこの世にあって、キリストに単なる希望を置いているだけなら(復活を信じないなら)、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15:19)。  

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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