私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

プルーデンス(prudence)を持たない男

2024-04-20 10:28:20 | 日記
前回のブログ記事の終わりに
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エンタメ映画製作者として、ノーラン監督には思う通りに創作する基本的な権利があります。しかし、もし、この映画の描くオッペンハイマーが、真実のオッペンハイマーに近いとノーラン監督が思っているのだとすると、これは致命的な「読み違い」である可能性があります。その可能性を強く示唆するのは、真面目なオッペンハイマーの伝記に必ず登場する人物であるランズデール(John Lansdale) がノーラン監督の『オッペンハイマー』には出て来ない事です。実在した人物があれほど多数登場するのに、ランズデールは出て来ません。
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と書きました。ランズデール(1912年~2003年)は、陸軍大佐として、米国の原子爆弾製造計画(マンハッタン区計画)の防諜機関の主任を務め、オッペンハイマーとその妻キティを徹底的に詰問し、調べ上げた人物です。

 N. P. ディヴィス著『ローレンスとオッペンハイマー』(菊池正士訳、タム・ライフ・インターナショナル、一九七一年) という本があります。原著は1969年に英国で出版されました。訳者の菊池正士(1902年〜1974年)は日本の原子物理学の大先達です。この訳書から、オッペンハイマーについての極めて興味深い一節を引用します:
「オッペンハイマーが政府秘密について口が固くなかったと言った者はこれまでただの一人もいない。しかし、オッペンハイマーと長く付き合った者なら誰しも経験したことだが、ランズデールもこの男がプルーデンス(prudence)というものを持っていないことを発見してまったく頭に来る思いをした。正常な人間ならば、世の中でやっていくため、あるいは少なくとも落後しないための賢明な兵法にしたがって、ニッコリするか顔をしかめるか、はねつけるか誘いこむか、人を押しのけるか譲るか、反応の仕方の見当がつくものだ。そだてられ方の欠陥から、この適応性を身につけそこなったオッペンハイマーは、それを、彼自身が案出した知的・道徳的・審美的規範で置きかえたのだ」

 上の引用は拙著『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』(ちくま学芸文庫、2022年)の310頁から転載しました。訳者の菊池正士の訳文が見事なので、原著の原文(p157)も引いておきます:
  Nobody at all has ever said Oppenheimer did not keep a still tongue in his head about government secrets. But like everyone else who dealt with him at length, Lansdale had made the exasperating discovery that he had no prudence. Normal people can be counted on to smile or frown, snub or invite, elbow or yield in accordance with a sensible strategy to get on in the world or at least not drop back. Deprived of this orientation by a defective education, Oppenheimer replaced it with an intellectual-moral-aesthetic criterion of his own devising.

  これは著者デイヴィスがランズデールから直接に聞いたことを書き下ろしたものと思われます。プルーデンスいう言葉は、慎重、思慮深さ、を意味しますが、また、抜け目のなさ、ずる賢さの意味もあります。形容詞はプルーデント(prudent)、プルーデンシャル(prudential)。米国でおそらく最大の保険会社に「プルーデンシャル」という会社があります。私たちは人生を安全に送るために、世の中の規範、世の中の価値に逆らうことなく、慎重に、忖度して、あるいは、計算高く生きる、それを、プルーデントに生きる、というのです。カナダの高名な作家が「芸術家はプルーデントでない生き方をするものだ」と発言したことがありました。
 もし、ロバート・オッペンハイマーが「謎」に見えるならば、「プルーデンス」はその謎を解くキーワードの一つでしょう。オッペンハイマーの著作や講演で、私が知る限り、彼はこの言葉を悪しき意味でしか使っていません。パッシュやデ・シルバなどの諜報員たちがオッペンハイマーの現実感覚の、信じがたいまでの不用心さ、子供っぽさに驚いた時、彼らはこのキーワードを知らなかった故に「謎」を間違って解いてしまいましたが、ランズデールは「謎」を正しく解いたのでした。
 オッペンハイマーを貶める為にストローズが仕組んだ「オッペンハイマー聴聞会」はノーラン監督の映画『オッペンハイマー』の見せ所の一つですが、ランズデールは出て来ません。実際には、ランズデールはオッペンハイマー弁護の強力な論陣を張ったのです。参考までに、ランズデールについての英文ウィキペディアの記事から、関係部分をコピーします:
Lansdale testified at a 1954 Atomic Energy Commission hearing on behalf of Oppenheimer, who was threatened with loss of his security clearance because of Communist associates. A seasoned trial lawyer, Lansdale was not intimidated by AEC lawyer Roger Robb's prosecutorial tactics, and his combative replies contrasted sharply with Oppenheimer's own sheepish answers to Robb's questions. Lansdale felt that Oppenheimer was a loyal American citizen and was outraged by his treatment.

私たちも、この謎解きのキーワード「プルーデンス」を意識して、オッペンハイマーという人間の理解を試みなければなりません。しかし、「育てられ方」が間違っていた結果として彼は「プルーデンス」に欠けていたのでしょうか? 「オッペンハイマーがこうした生き方を選んだのはもっと積極的な信念からだったのでは」と私には思われてならないのです。奇矯唐突に響くかもしれませんが、私は、ロバート・オッペンハイマーとアルベール・カミュには重要な共通点があると考え始めています。次の記事でそのことを論じます。

藤永茂(2024年4月20日)

オッペンハイマー産業、オッペンハイマー現象

2024-04-18 11:07:53 | 日記
 2004年12月、三交社からノーマン・フィンケルスタイン著立木勝訳の『ホロコースト産業  同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたちが出版されました。その数年前、私は、カナダで原著に接して強い衝撃を受けました。ナチスによるユダヤ人の受難「ホロコースト」と原爆受難の「ヒロシマ・ナガサキ」は、私の一生を規定する二つの決定的な出来事です。

 「オッペンハイマー産業」という言葉を使うことは適当か。ハリウッド映画産業は歴とした営利行為ですから、そして、今度の米国映画『オッペンハイマー』についてしきりに騒ぎ立てている多数のユーチューバーたちの行為も、詰まるところ、営利行為ですから、「オッペンハイマー産業」という言葉は成り立つと考えてよいのでしょう。しかし、何故こうした「産業」が成り立つのかをあれこれ考えているうちに、私の想いはノーマン・フィンケルスタインが持ち出してきた「ホロコースト産業」に舞い戻り、さらに、大昔の1985年にフランスで公開され、1995年に日本でも公開されたクロード・ランズマンの映画『ショア(SHOAH)』(上映時間9時間30分)を一生懸命に視聴し、その後に行われたランズマンと高橋哲哉とのテレビ対談に聞き入った頃の思い出にまで遡りました。細かいことは忘れてしまいましたが、一つ強烈に頭の中に残っているのは、対談の中で「日本人は中国で重大な残虐行為を犯したのに、ヒロシマ・ナガサキの後は、ケロッとして、まるで被害者であるかの様に振る舞っている」とクロード・ランズマンが言い放って、「ヒロシマ・ナガサキ」を一刀両断に片付けてしまった事でした。

 米国映画『オッペンハイマー』に話を戻します。NHKによる二つのクリストファ・ノーラン監督のインタビューを掲げますので興味のある方は見て下さい:


始めの番組の取材記者の杉田さんによるとノーラン監督はインタビューの中で「どう考えるべきかを観客に押しつける映画は、成功とは言えない」と話していたそうですが、私には、これは大変自己矛盾した言明の様に思えます。この映画を見た人の多くは「オッペンハイマーはこういう人間だったのか」と可成りはっきり考える様になっただろうと思われるからです。

 ヒロシマ原爆投下成功のニュースがロスアラモスに伝えられ、研究所の講堂に集まった大勢の所員たちが足を踏み鳴らしてオッペンハイマーの登場を迎える場面があります。オッペンハイマーは、まるで勝ち誇ったボクサーの様な身ぶりで現れ、「日本人のお気に召さなかったのは確かだ(the Japanese didn’t like it)」と発言して大喝采を浴びます。この記述は、ノーラン監督が映画製作の原典としたバード・シャーウィンのオッペンハイマーの伝記の316頁にありますが、その次の317頁には、ナガサキ被爆の惨状を知ったオッペンハイマーはnervous wreck に陥ったとFBIの要員が報告したことが記されています。米口語では「神経がまいって虚脱状態になる」という意味です。しかし、オッペンハイマーがこうなったという事は映画では報告されていません。これがノーラン監督の手法です。グローブス将軍が、面と向かって、オッペンハイマーをwomanizerと呼ぶ場面、恋人のタトロックがオッペンハイマーを idiot と罵る場面、これらもノーラン監督の創作に違いありますまい。この二対の人間関係を伝記的によく調べれば、こんな事はまずあり得なかったことが分かります。

 エンタメ映画製作者として、ノーラン監督には思う通りに創作する基本的な権利があります。しかし、もし、この映画の描くオッペンハイマーが、真実のオッペンハイマーに近いとノーラン監督が思っているのだとすると、これは致命的な「読み違い」である可能性があります。その可能性を強く示唆するのは、真面目なオッペンハイマーの伝記に必ず登場する人物であるランズデール(John Lansdale) がノーラン監督の『オッペンハイマー』には出て来ない事です。実在した人物があれほど多数登場するのに、ランズデールは出て来ません。次回はこの事を中心にして、もう少し、「オッペンハイマー産業」「オッペンハイマー現象」について考えてみたいと思います。

藤永茂(2024年4月18日)

映画『オッペンハイマー』に物申す

2024-04-11 21:04:33 | 日記
クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』はハリウッドの映画ファイナンス及び製作会社アトラス・エンターテインメント(Atlas Entertainment)の製作によるエンタメ映画です。エンタメは我々にとって必要なもの、例えば、日本の老人にとって、歌舞伎『勧進帳』などエンタメの最たるものと言えましょう。エンタメとしては、今回の『オッペンハイマー』は大変見事な成功を収めています。アカデミー賞やユーチューブでの騒ぎ方を見ていると、「オッペンハイマー現象」という言葉、あるいは「オッペンハイマー産業」という言葉を私は使いたくなります。
昨年の広島原爆記念日に私は「日本映画『広島』と米国映画『オッペンハイマー』」と題するブログ記事をアップしました:


米国映画『オッペンハイマー』の日本での一般公開に先立って、カナダ在住の息子から送られて来たものを私はこれまでに三回見ましたが、この大評判の映画に対する私の見解は、基本的には、今も変わっていません。
 お話作り、作り話、でっち上げ、などという日本語があります。英語では、Story making, made-up story, fabrication などがこれに当たるでしょう。「人それぞれのオッペンハイマーがある」とよく言われます。映画『オッペンハイマー』のオッペンハイマーはクリストファー・ノーランさんのオッペンハイマーであり、アトラス・エンターテインメント社のファイナンスに十分の考慮を払った見事な作り話です。具体例を幾つか提示しましょう。これは伝記作家の誰もが直面する史実の取捨選択の問題とは、いささか、別であることに注意して下さい。

 先ず、映画の冒頭の「毒注入リンゴ事件」。初の留学先の英国ケンブリッジ大学で実験物理学者パトリック・ブラッケットの指導を受けますが、オッペンハイマーがあまりにも不器用なので、ブラッケットはオッペンハイマーにつれなく当たります。それに恨みを抱いたオッペンハイマーは、皆が、丁度その時ケンブリッジを訪れていたニールス・ボーアの特別講義を聴きに実験室から出かけて行った後、ブラッケットのデスクの上に置いてあったリンゴに毒薬を注入し、それから皆の後を追って、ボーアの講義に出席して、それから宿所に帰ります。翌朝ベッドで目が覚めたオッペンハイマーは、前日の自分の恐ろしい行為を思い出して、慌ててブラッケットの実験室に駆けつけると、そこにボーアがやって来ていて、ブラッケットと会話を交わしながら、デスクの上の毒入リンゴを取り上げて食べようとするところでした。間一髪、オッペンハイマーはボーアの手から、リンゴを奪い取って、屑箱に投げ捨てます。画面に緊張が走る一瞬です。
でも、これはデッチ上げもよいところの作り話です。実際にあった事件は次の様なものです。1926年5月、米国のハーバード大学時代の旧友二人(Edsall, Wyman) が英国を訪問しているのを機会に、三人で地中海のコルシカ島に旅行に出かけ、10日ほど山野を跋渉して楽しみますが、次にサルディニアに旅行する前夜になって、オッペンハイマーは、突然、ケンブリッジに帰ると言い出します。「ブラッケットのデスクの上に毒薬を注入したリンゴを置いて来たので、どうなったかを確かめなればならないから」というのが理由でした。驚く友人たちを後に残してオッペンハイマーは一人でケンブリッジに帰ってしまいました。ブラッケットの身には何事も起こっていませんでした。事件の真相は今日まで誰にも分かっていません。映画では、危うく、毒入りリンゴを食べそうになったニールス・ボーアに勧められて、オッペンハイマーはドイツのゲッチンゲン大学のマックス・ボルンのもとに移ることになっていますが、これも多分作り話です。記録によると、オッペンハイマーがブラッケットの所にいた頃、ボルンが一度ならず招待講義に訪れていて、オッペンハイマーは直接ボルンと話をしてゲッチンゲン大学への移住を決めたというのが史実と考えられます。

 次に原子爆弾のテスト爆発によって地球の大気全体が原子核の連鎖反応を起こして発火炎上するかもしれないと恐れたオッペンハイマーがアインシュタインに相談を持ちかける話も作り話(made-up story)です。この話題については、『ウィキペディア(Wikipedia)』に詳しい解説がありますので興味のある方は読んでください。映画の初めの部分から出発するこの作り話は、しかしながら、この映画の背骨と言っても良いほどの「仕掛け」になっていることに注意して下さい。フィルムメーカーとして、この仕掛けを思いついた時、ノーランさんは「しめた!これで行こう!!」と思ったに違いありません。つまり、アラモゴルドでの最初の核爆発以来、あい続いた水爆爆発によっても地球大気の核連鎖反応で地球全体の即時炎上はスタートしなかったが、オッペンハイマーの原爆開発によってスタートした全世界の核軍備の連鎖反応は現在も刻々と進行していて、地球全体の炎上終焉の時が近づいているという地獄図の表示がノーランさんのグレートアイディアだったのだと私は考えます。

 映画の始まりから間もないところで、ルイス・ストローズがプリンストン高等研究所の所長の地位をオッペンハイマーにオファーする場面があります。ストローズがオッペンハイマーに提供する予定の高等研究所所長の部屋を案内していると、その窓越しに、所内の広い庭園内の池の縁を散歩しているアインシュタインの姿が見えます。ストローズが「アインシュタインさんに紹介しましょう」と言うと、オッペンハイマーは「いや前からよく知っているから」と答えて一人ですたすたとアインシュタインのところに行き、何やら会話を始める。暫くすると、二人に歩き寄ろうとしていたストローズをまるっきり無視して、アインシュタインは沈鬱な面持ちで通り過ぎて行ってしまいます。二人は何を話し合っていたのか?この自分の悪口ではなかったのか?「疑心暗鬼を生ず」とはまさにこの事、この時点からストローズのオッペンハイマーに対する憎しみがじわじわ増殖を始めます。アインシュタインの暗い表情の理由が明らかになるのは映画の終わりに近いところです。

 この映画の主役はオッペンハイマーとストローズの二人です。ストローズは、全くの私的怨恨から、公人としてのオッペンハイマーを“殺し”、自らも、ワシントンの政治権力闘争の渦の中で“殺されて”しまいますが、オッペンハイマー殺しのためにストローズが組み上げた「オッペンハイマー聴聞会」でのやり取りは、日本人観衆にとっては分かりにくいでしょうが、米国では歴史的有名人であるこの二人を知っている米国の観衆にとってはすごく面白い映画画面の連続であろうと思われます。しかし、ここでも作り話の振幅は甚だ大きい。実際にオッペンハイマー聴聞会で行われたやりとりを知りたい人は、幸いに、『In the matter of J. Robert Oppenheimer  USAEC』(The MIT Press, 1971)というオッペンハイマー聴聞会に関する決定的出版物がありますので参考にして下さい。誰が何を問いただされ、何と答えたか、質疑の詳細なトランスクリプトを主体とする、小さい活字でぎっしり千頁の大冊です。

 ジーン・タトロックとオッペンハイマーとの恋愛関係の描写は、エンタメとしてのハリウッド映画の製作技法として、映画のプロの目には上乗の出来上がりなのでしょう。しかし、これをこの二人の人間の関係の伝記的描写として見るならば、深刻な問題があります。
 この映画が倫理規程としてR(restricted)として指定される内容の映画構成を採用したノーラン監督の意図は何処にあったのか。米国では罵りや苛立ちの表現として「fuck」という言葉が日常的によく使われる様ですが、米国の映画では、この言葉が2回以上使われるとR指定されるのだそうです。この映画では、私が聞き取っただけでも、たしかに妻のキティーが2回この言葉を吐き捨てる場面があり、ストローズも「fucking」と発語する場面があります。三度四度と繰り返し現れるタトロックとオッペンハイマーのヌード・シーンも、勿論、この映画のR指定を保証します。ノーラン監督にこの映画の商業的価値を高める計算があったとしても、何の不思議もない、何の非難にも当たらない事でしょう。しかし、これが、クリストファー・ノーランさんの「オッペンハイマー」であり、この映画の観客が、これをオッペンハイマーの伝記として受けとるとすれば、ここには看過することのできない問題があります。

 オッペンハイマーがパーティでタトロックを見染めてから間もなく、オッペンハイマーの私室で性行為が始まります。一休みの折に、タトロックはオッペンハイマーの本棚から、ヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギータ』の原書を引っ張り出して、たまたま開いた頁の一箇所をオッペンハイマーに翻訳させます。そこには「I am become death. Destroyer of worlds.」と書いてありました。これは、今では、トリニティ・サイトで最初の原子爆弾が爆発した時、オッペンハイマーが口にした言葉だということになってしまっています。(この I am は I have と同じだそうです。)ノーランの『オッペンハイマー』では、キノコ雲の盛り上がりを前にして、ロバート・オッペンハイマーは「I am become death, the destroyer of worlds.」と呟き、そばにいた弟のフランク・オッペンハイマーは、ただ一言、「It worked 」(うまくいった)と発します。これは全くノーランさんの作り話、それも捻り過ぎの作り話で、実際には、プルトニウム原爆の最初の爆発の時に、兄のロバートが発した唯一の言葉として,弟のフランクが、この「It worked 」を伝えているのです。ロバート・オッペンハイマーのその瞬間の思いは、正にこの一語に尽きたでしょう。

「I am become death, the destroyer of worlds.」という言葉の真意を少しでも多くの人々に理解してもらうためにオリジナルの発言の全体を以下に掲げます:

  A few people laughed, a few people cried. Most people were silent. I remembered the line from the Hindu scripture, the Bhagavad-Gita; Vishnu is trying to persuade the prince that he should do his duty, and to impress him, takes on his multi-armed form and says, “Now I am become death, the destroyer of worlds.” I suppose we all thought that, one way or another.
「僅かな人々は笑い、僅かな人々は泣いた。ほとんどの人々は黙っていた。私は、ヒンズー教の聖典バガヴァド・ギータの一行を思い出した。ヴィシュヌは、王子がその義務を果たす様に説得を試み、王子を威圧するために、自らは、多数の腕をもつ姿に変身して、「今や我は死となれり、世界の破壊者となれり」と語る。私たちの誰もが、あれこれ何らかの形で、そうした想いを抱いたものと私は推測する」

 この発言はオッペンハイマーの死の2年前の1965年に米国の放送会社NBCが制作したドキュメンタリーに記録されたものです。老オッペンハイマーの伏し目気味の面立ちが印象に残ります。

 ロバート・オッペンハイマーの伝記は多数出版されていますが、最も分厚く詳しいのは次の2冊です:
*Kai. Bird and M. Sherwin 『The Triumph and Tragedy of J. ROBERT OPPENHEIMER』(722頁、2005年)
*Ray Monk 『INSIDE THE CENTRE, The Life of J.ROBERT OPPENHEIMER』(825頁、2012年)
ノーランの映画『オッペンハイマー』はバードとシャーウィンの本に基づいたことになっていますが、お話しした様に、忠実ではありません。バードとシャーウィンの本に欠けていて、モンクの本にある重要な議論もあります。それは1960年のオッペンハイマーの次の発言です。これは原爆キノコ雲を前にしてオッペンハイマーが自分と同化していたのは王子アジュナであったことを示しています:

  If I cannot be comforted by Vishnu’s argument to Arjuna, it is because I am too much a Jew, much too much a Christian, much to much a European, far too much an American.
「ヴィシュヌがアジュナに与えた理屈では私の気持ちが楽になれないとすれば、それは、私があまりにもユダヤ人、それにもまして余りにもキリスト教徒、ヨーロッパ人、とりわけ余りにもアメリカ人であるからだ」

この言葉は、晩年のオッペンハイマーが、原爆製造もヒロシマ・ナガサキの壊滅も、「ギータ」によっては正当化出来ない事を自覚していた証拠だと言えるでしょう。

 ところで、米国人のオッペンハイマー像に大きな影響を与えているかも知れない出版物として、一冊の漫画本を紹介します。長いタイトルです:
*『fallout : J. ROBERT OPPENHEIMER, LEO SZILARD, AND THE POLITICAL SCIENCE OF THE ATOMIC BOMB』(2001年秋)
6人の著者の共同作、名前は省略します。

 この漫画本の中程に、KENなにがしがオッペンハイマーのそばに立って「Now we are all sons of bitches」と呟いている絵があります。これは、モンクの本にはなく、バード/シャーギンの本には、トリニティの原爆テストの責任者ケネス・ベインブリッジが爆発テスト成功の後のオッペンハイマーと目があった時に呟いた言葉として記されているだけです(p309)。しかし、これには興味深い後日譚があります。
 トリニティの原爆テストから21年後, ベインブリッジは次の様に回想しています:「爆風が通過してから、私は伏せていた地面から立ち上がって、オッペンハイマーや他の人たちに爆縮法の成功のお祝いを言った。最後に私はロバートにこう言った。「Now we are all sons of bitches」。何年もたってから、彼は私の言葉を思い出して、手紙でこう書いてきた。「我々は君の言ったことを、誰にも説明する必要はない」。私は彼がこう言ったことをいつまでも大切にしておこうと思う。どういうわけか、この言葉を、その背景の前に正しく置くことも、全体を考えて解釈することも出来ず、また、しようともしない妄想家連中がいるが。1966年のこと、オッペンハイマーは私の下の娘に向かってこう言った。「お父さんの言葉が、実験の後で誰が言ったことよりも良かったのだよ」」。オッペンハイマーは、それから間もなくの1967年2月18日夕刻、62歳10ヶ月の生涯を閉じました。

 ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた伝記や芸術作品は無数にあります。ここでは、もう一つだけ追加しておきます。Peter Sellarsが台本を書いたJohn Adams のオペラ『DOCTOR ATOMIC』、私としては、ノーラン監督の『オッペンハイマー』より、このオペラの方を好みます。このオペラのエンディングが凄い。よく耳をすますと「みずをください、みずをください、みずをください、・・・」という日本語が聞こえてきます。観客の何人がそれを聞き取るでしょうか。

 映画『オッペンハイマー』をめぐる騒ぎ方は異常です。「ホロコースト産業」という言葉がありますが、私は、それに連想して「オッペンハイマー産業」、あるいは、「オッペンハイマー現象」という言葉を思い浮かべてしまいます。次回はそれについて考えてみます。

藤永茂(2024年4月11日)

パレスチナは自由になるだろう。Palestine will be free.

2024-03-10 16:12:46 | 日記
以前から、私はインドのArundhati Roy の大ファンです。ガザ紛争についての彼女の発言を翻訳します:


**********(翻訳始め)

西側世界で最も裕福で最も強力な国々、自らが現代世界の民主主義と人権への献身の炎の守護者だと信じている国々は、ガザでのイスラエルの大量虐殺に公然と資金を提供し、是認を表明している。ガザ地区は強制収容所と化してしまった。まだ殺されていない人々は餓死に瀕している。ガザのほぼ全人口が避難を余儀なくされている。彼らの家、病院、大学、博物館、あらゆる種類のインフラは瓦礫と化した。彼らの子供たちは殺害された。彼らの過去は蒸発してしまった。彼らの行末は見通し難い。

世界の最高の裁判所が、ほぼすべての指標が大量虐殺の法的定義を満たしていると考えているにもかかわらず、イスラエル国防軍兵士たちは、ほとんど悪魔の儀式のように見える行為を寿ぐ嘲笑的な「勝利ビデオ」を公開し続けている。彼らは、この世には自分たちの責任を問う権力は存在しないと信じている。しかし、彼らは間違っているのだ。彼らと彼らの子供たちは、自分たちがした悪行の亡霊に取り憑かれることになるだろう。彼らは、世界が彼らに対して感じている嫌悪感と憎悪感を抱えて生きなければならないだろう。そして、いつの日か、この紛争のどちらの側を問わず、戦争犯罪を犯した者が裁判にかけられ、罰せられることを願う。しかし、アパルトヘイトや占領に抵抗することで犯された犯罪と、アパルトヘイトや占領を強制するで犯された犯罪との間には同等性がないことを、絶えず、忘れないようにしよう。

言うまでもなく、人種差別はあらゆる虐殺行為の要の石である。かつてナチスがユダヤ人の人間性を剥奪したのと同様に、イスラエル国家の最高幹部らのレトリックは、イスラエルが建国されて以来、パレスチナ人の人間性を剥奪し、害獣や昆虫に喩えてきた。あたかも邪悪な血清は決して消えず、今はただ再循環されているかのようだ。「Never Again」という力強いスローガンから「Never」が取り除かれてしまった。そして私たちに残るのは「(Again)また」だけである。

Never AgainであるべきものがAgainになってしまった。

世界で最も裕福で最も強力な国の国家元首であるジョー・バイデン大統領は、米国の資金提供がなければイスラエルは存在し得ないだろうに、イスラエルの前では無力である。まるで扶養されている側が扶養する側を好き勝手に引き回しているようなものだ。見ていると確かにそうなっている。 ジョー・バイデンは老いぼれた子供のようにカメラに映り、アイスクリーム・コーンをなめながら停戦についてもぐもぐ何やらつぶやいているが、イスラエル政府と軍当局者は公然と彼に盾付き、自分たちが始めたことを終わらせると誓っている。自分たちの名においてこの虐殺に反対する何百万ものアメリカの若者の票の流出を阻止するために、カマラ・ハリス米国副大統領は停戦を呼びかける任務を背負わされているが、その間にも、大量虐殺を可能にする億超の米ドルが注入され続けている。

そして我々インドの国はどうしているか?

我が国の首相がベンヤミン・ネタニヤフの親しい友人であることはよく知られており、彼の同情がどこにあるかに疑問の余地はない。インドはもはやパレスチナの友人ではない。爆撃が始まると、何千人ものモディ支持者が、民主党支持者として、ソーシャルメディア上にイスラエル国旗を掲げた。彼らはイスラエルとイスラエル国防軍に代わって最も卑劣な偽情報の拡散に協力した。インド政府は現在、より中立的な立場へと後退したが、我々の外交政策の見事な所は、我々が同時にどんな側に立つことをやってのける事であり、ジェノサイドに賛成したり、反対したりすることもやってのけるということだ。しかし、インド政府は、次のことを明確に示している、つまり、いかなる親パレスチナ抗議活動参加者に対しても断固として抑圧行動に出ることを明確にしている。

そして今、イスラエルの大量虐殺を支援するために、米国はそれが豊富な余剰を持っているもの、つまり、武器や資金を輸出する一方で、インドは我が国が豊富に余剰を持っているもの、つまり、イスラエル国内で労働許可を与えられなくなるパレスチナ人労働者に代わるものとして、失業中のインド貧困層を輸出している。それはどのような人々か。(その中にはイスラム教徒は居ないと私は推測する。)戦争地帯で生命の危険を曝すことをも厭わない人々。インド人に対するイスラエル人の剥き出しの人種差別も我慢しようと思うほど追い詰められている人々。こうした事は、その気があれば、SNSで見る事が出来る。米国の金とインドの貧困が組み合わさってイスラエルの大量虐殺戦争機構の潤滑油になっているのだ。何という恐ろしい、思考を絶した、恥辱であることか。

パレスチナ人は世界で最も強大な国々と対峙し、同盟国からも事実上孤立させられ、計り知れない苦しみを味わっている。しかし、彼らはこの戦争に勝利を収めているのだ。彼ら、ジャーナリスト、医師、救助チーム、詩人、学者、広報担当者、さらには子供たちさえも、世界の他の人々にインスピレーションを与える勇気と尊厳を持って行動してきた。西側世界の若い世代、特に米国の若いユダヤ人の新世代は、洗脳とプロパガンダを看破しており、アパルトヘイトと大量虐殺の真相を認識している。西側世界で最も強力な国の政府は、その尊厳を失い、彼らが持っていたかもしれない尊敬を、またしても、失った。一方、ヨーロッパとアメリカの路上に繰り出した何百万人もの抗議者たちは、世界の未来への希望である。

パレスチナは自由になるだろう。

**********(翻訳終わり)

アルンダティ・ロイさんはみなさんご存知でしょう。ブッカー賞を受賞した彼女の処女作『小さきものたちの神』を私も愛読しました。

ところで、最近、私は、もう一人、素晴らしい女性を“発見”しました。国際政治通の人々から笑われる事になりましょうが、私のような日本の一般の庶民には耳新しい名前でしょう。ナレディ・パンドール(Naledi Pandor),現職は南アフリカ共和国・国際関係・協力大臣、70歳です。ハーバード大学で学んだ経験もあるこの女性は、今、イスラエルによって暗殺される危険に曝されています。次の機会にお話しします。


藤永茂(2024年3月10日)

映画『パラダイス ナウ (PARADISE NOW)』

2024-02-24 18:29:36 | 日記
 World Socialist Web Site というサイトがあります。その主宰者と思われるDavid Walsh (DW) がパレスチナ人映画監督Hany Abu-Assad (HAA)をインタビューした記事が出ました。興味深い内容ですので訳出します。

Paradise Now のフィルム: Hany Abu-Assad

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デイヴィド・ウォルシュ
2024年1月24日



ハニ・アブ=アサドの写真

ハニ・アブ=アサド(Hany Abu-Assad)は1961年ナザレ生まれのパレスチナ系オランダ人映画監督である。これまでに数々の長編、ドキュメンタリー、短編映画を監督した。アブ=アサド監督が初めて国際的に注目されたのは2003年トロント国際映画祭で上映された『ラナの結婚式(Rana's Wedding)』によってであった。この作品は
2003年のトロント国際映画祭で上映された。パレスチナ人の自爆テロ志願者を描いた『パラダイス・ナウ(Paradise Now)』(2005年)は、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、同賞を受賞し、また、同部門でゴールデングローブ賞を受賞した。

彼の最も優れた出来の作品の一つが、複雑な政治的道徳的問題に巻き込まれていくパレスチナ人の若いパン職人(アダム・バクリ)を描いた2013年の映画『オマール(Omar)』だ。若いパン職人は複雑な政治的・道徳的問題に巻き込まれていく。この作品はカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。トロント国際映画祭でも上映され、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた。

我々は2013年9月にオマールの映画評の中で次の様に論評した:

イスラエルとヨルダン川西岸地区(ナザレ、ビサン、ナブルス)で8週間にわたって撮影されたアブ=アサド監督の映画は、真実の特徴をすべて備えている。緊張感があり、正直で、演技が美しい。通りや家々、屋根の上を追いかけられるオマールのシーンは、興奮と恐怖に満ちている。彼のナディアに対する愛情、そしてナディアの彼に対する愛情は説得力がある。ルバニーが初めて隙間のある歯並びのスマイルをオマールに投げる時、我々も彼と一緒にそこにいる。
この映画は、イスラエルの支配下にあるパレスチナ人が、個人的にも社会的にもほとんど不可能な状況に置かれていることを指摘している。監督が会話の中で説明してくれたように、強烈なプレッシャーの下で、友情や人間関係は変化し、悪化し、正反対になってしまう。オマールは、この悲劇的な状況を親密で具体的な細部にわたって活写している。

その際、ハニ・アブ=アサド監督のインタビューもした。

アブ=アサド監督は、次のドキュメンタリー映画『Ford Transit』(2003年)と『The Idol』(2015年)を監督した。『The Idol』は、アメリカのタレント番組の中東版である『アラブ・アイドル』のセカンド・シーズンで優勝したガザ難民キャンプ出身の20歳のウェディング・シンガー、モハマド・アサフを描いた映画、また
『Mountain Between Us』(2017年)はイドリス・エルバとケイト・ウィンスレット共演の映画、そして最近では『Huda's Salon』(2021年)の監督も務めている。

先日、ビデオ通話で話を聞いた。

デビッド・ウォルシュ:私たちは恐ろしい、悲劇的な出来事の最中に話をしています。ガザの状況について、あなたの感情的、知的、芸術的反応は?

ハニ・アブアサド:感情的には、もちろん、苦しんでいる人間がいると私はいつも心をかき乱されるのを感じます。パレスチナやイスラエルだけではありません。アフリカが苦しんでいるときも、ウクライナが苦しんでいるときも、ロシアが苦しんでいるときも、私はそう感じます。アメリカ合州国でも人々は苦しんでいる。例えば、アフリカよりはマシにしても。アメリカにはあまりのも多くの不公平があります。

だから、感情的には、私たちがいまだに弱者を守らないシステムの中で生きていることに怒りを覚えます。つまり、私たちはいまだにジャングルの中で生きているのであって、そこでは、強者が我々の生活の活殺を握っていて、私たちを殺したり、空腹にさせたり、与える金を減らしたり、保健医療制度を破壊したりしようと決めたら、彼らはそれを実行するし、我々はそれに忍従しなければなりません。私は激しい怒りをおぼえます。

理性的には、私は楽観主義者です。世界のいたるところで、ほとんどの人々が社会には真の変革の必要があると覚っていると私は感じています。うわべだけの変化ではありません。今のシステム全体が腐敗し、不正で、腐っています。

理性的に考えれば、私たちの生活における最大の問題は気候であり、環境破壊、私たちの生存に是非とも必要な自然の破壊です。

その次は軍産複合体で、莫大な資金が兵器に費やされています。信じられない金額です。なぜか?それで大金を稼げる人がいるからです。それは理由と呼べるものじゃない、この地球という惑星を恐らく千回も破壊できる兵器をつくるなんて。

だから、私たちには完全な変化が必要なのです。私は、ガザの事もあって、その変化がやって来つつあると認識しています。ガザは明確な事例です。それは一つの混乱した状況などではありません。

ガザに住む人々の70%は、ガザ周辺地域からの難民です。彼らは、あるいは彼らの両親や祖父母は、他の場所から立ち去る事を強制されて、この狭い土地に住まわされた。彼らは、最初、そこを巨大な難民キャンプとし、後には強制収容所にした。なぜ強制収容所というのか?それは、200万人もの人々を囲い込み、彼らの生活のすべてをコントロールし、いつでも好きなときに爆撃できるのであれば、それは強制収容所というものです。他の人たちは "野外刑務所 "だと言うが、私はそれよりもひどいと思う。

ガザに住む人々のほとんどは難民であり、自分たちの問題の解決を望んでいる、すでに75年も続いている問題です。彼らは、この特殊な牢獄、強制収容所で20年間暮らしてきた。人口の70%は16歳以下で、何の罪もない無邪気な子どもたちなのです。

それにも拘らず、アメリカ政府とイスラエル政府は、ガザの事態が明らかにジェノサイドであるのに、それを否定している。これを否定することは、ホロコーストを否定するようなものです。その証拠は有り余るほどある。これらの政府のように、もしあなた方が、これがジェノサイドである事を否定すれば、あなた方が腐敗し、反動的であることが全く明らかになります。それ以外の言葉はない。

例えば、ウクライナについては分裂があった。人々は違う面を見ることが出来た。複雑な問題ではあるが、誰もアメリカ政府を信用してはいない。

ガザに関しては、分裂はほとんどない。アメリカでは60%の人が停戦に賛成している。若い世代では、それよりずっと高い。アメリカ人の20パーセントが戦争継続を望み、20パーセントはどう考えていいかわからない。イスラエル支持のプロパガンダが最も強いアメリカで、この話です。

アメリカで、一つの問題でこれほど意見が固まったことはありません。

つまり、事態は明確なのです。1789年のフランス革命でバスティーユが陥落した時に起こったことと同じだ・・・ガザは現代のバスティーユです。たしかに多くの血が流れるだろうが、現代のバスティーユは陥落しつつあり、その後では、多くのことが変わることになるでしょう。

また、アメリカの現政権はとても愚かしい。悲しいことだが、とても愚かだ。そして、イスラエル政府はもっと愚かだ。危険で、そして、愚かだ。1789年にフランスで起こったこととまったく同じです。変革が近づいている。そして、我々は、より良いシステム、より良い世界を見ることになる、それは確かです。ジャン=ジャック・ルソーはバスティーユより以前に、すでにそのようなビジョンを持っていた。だから、より公正な世界を実現するために、我々は実際に新しいジャン=ジャック・ルソーを必要でとしています。

これが私の知的現実感覚であり、私は楽観的です。芸術的な観点から、私に出来ることは、私たちが将来どのようなシステムを望んでいるのかを考え始めるよう、人々に働きかけることです。今のシステムはまったく機能していない。私は、考えることを奨励する映画を作るつもりですが、私は答えを持ってはいません、私は哲学者ではなく、一人のアーティストです。

DW:ガザの人たちとは連絡を取っていますか?

HAA:はい、そうです。私はガザで『アイドル』という映画を撮りました。その映画に登場する少年は当時10歳で、最近家族全員が殺されました。彼の家族全員が最近殺されました。祖父、祖母、叔父、叔母、いとこ・・・。
彼は1年前に脱出して、もうすぐ20歳になる。彼はロンドンで勉強しています。ガザで52人の家族を失った。この映画に登場する別の少年も家を失い、彼はテントで暮らしている。別の映画監督と一緒に、食料や衣類を送ったりして、人々を助けようとしています。食料や衣服を送っていますが、それさえもとても難しい。完全な包囲状態だ。進行していることは犯罪行為です。私は『アイドル』の撮影をガザで行ったので、ガザの人々をたくさん知っている。毎日、彼らは泣き叫んでいる。私はここで安楽に暮らしているが、彼らが助けを求めて叫んでいるのを聞くと・・・。その一方で、彼らは信じられないほど勇敢な人々でもあります。彼らは人間性を失っていない。あなたは、2005年のニューオーリンズのハリケーン・カトリーナを覚えていますか? 社会システムが崩壊したとき、人間性は一部損なわれた。人々は互いに撃ち合い、盗み合うようになったのでした。ガザでこんな事はあり得ない。ほとんどの人が互いに連帯団結している。信じられないような人間性の例だ。このような暗い時代には、私たちは人間性を保たなければならない、それが生き残る唯一の道です。

DW:1948年、そしてそれ以降、あなたのご家族はどのような経験をされましたか?

HAA: 私の家族の一部はシリア、レバノン、ヨルダンに逃れました。私の肉親、父と母は、ナザレの教会に逃げ込みました。有難いことに(Thank god)イスラエル人は教会に敢えて踏み込もうとはしなかった。私も彼らと同じようにナザレで生まれた。彼らは多くの土地を失いましたが、家は失いませんでした。

DW:ナザレで育ったのはどんな感じでしたか?

HAA:とても好きでした。映画館はひとつ、通りもひとつ。とても社交的で忙しい生活。たくさんの子供たちがいて、遊んでいました。何でも一緒にやった。今は、ナザレの子供たちも、みんなiPhoneに夢中だ。ちょっとかわいそうな気がする。私たちはいつも外で遊んでいた。新しい世代は、それなりに、違うやり方で、コンテンツを作るのに忙しいのでしょう。私たちは身体的にお互い執着し連携していたのでした。

私は幼い頃に、私たちが占領下にあることを覚りました。イスラエル軍は、私たちが寝ている所に踏み込んできて、私たちが持っていない武器を探した。父がマットレスの下に銃を隠していると思い、私を起こしたのです。これが正常なことではないと覚ったのです。私はヨーロッパに留学した。勉強するため、私はヨーロッパに行ったので、占領下での経験は、2回取り調べを受けただけで、他の人たち程ひどくはなかった。私は飛行機工学を学び、エンジニアとして2年間働きました。

DW:映画監督になったきっかけは?

HAA: 実は偶然、ガザ出身の映画監督、ラシード・マシャラウィに出会って、彼のアシスタントになったのです。彼から映画の作り方を教わったわけ、ガザ出身の人に教わるなんて皮肉なものですね。それでガザが大好きになった。

ナザレでは映画館で映画を観ていましたが、当時はまだテレビが無かったので、オーディオ・ビジュアルなメディアを初めて体験したのが映画館でのことで、私はたちまち魅惑されてしまった。その頃からずっと映画製作者になりたいと思っていました。その後、『カッコーの巣の上で』を観たとき、これは感動的なメッセージだと思った。人は変革のために戦い、たとえ死んでも、その精神は永遠に生き続ける。このメッセージは強烈なものでした。もし不正があるならば、どんな事があろうと、不正を変革するために闘わなければならない。こうした映画を作りたいと思ったのです、人々を励ますために、死ぬためではなく、不正と闘うために。

DW:ナザレではどんな映画を見て育ったのですか?

HAA:小さい頃は、エジプト映画やインドのハリウッド風映画、トルコの映画。それからハリウッド映画も。最初に見たのはサム・ペキンパーの西部劇でした。

DW:現在の状況に話を戻します。今は確かに楽観的になる理由があります。ガザをめぐる大規模な抗議行動は、歴史上最大規模であり、世界的に見ても多様性に富んでいる。しかし、私たちは野蛮さを過小評価したくはない。資本家たちにとってもはや“超えてはならない一線”はない。ジェノサイドはもはや国策だ。

HAA:しかし、彼らは負けている。最も極端な例はナチス・ドイツです。彼らは負けた。現代では、ナチズムやファシズムが勝利することはありえない。ガンのようなもので、生き残ることはできない。自滅的なものです。

DW:私たちがやらなければならないことが沢山ある。人々はイスラエルと米国を非常に敵対視している。しかし、問題の原因やなすべきことが明確ではありません。

HAA: 大規模な抗議行動、ボイコット、彼らの懐を痛めること。西側諸国の権力者が気にしているのは、自分たちの懐だけだ。

DW:イスラエル人による芸術家、ジャーナリスト、詩人、知識人の殺害は、しばしば非常に意図的なものです。このような犯罪の目撃者となりうる人々を意図的に殺害しています。

HAA:これは明らかなファシズムのケースですが、それで事がうまく運ぶかなと、私はいつも自問しています。ヨーロッパでもアメリカでも、ガザについて真実を語ったり、真実だと信じていることを語ったりした人を罰する。なぜそうした人々を罰するのか?人々は停戦を望み、大量虐殺だと考えているだけだ。

しかし、アーティストや子ども、女性を殺すことで、戦争を続ける人たちは何か得をしているのだろうか?こんなことをすればするほど、彼らは民衆の支持を失う。彼らは自分たちが墓穴を掘っていることに気づいていない。彼らは世界という文脈の中で、普通の人々と共に生きてはいない。だから、武器があれば犯罪で罰せられる事から逃れられると思っている。

DW:あなたはハリウッドの商業映画界で、ゴールデングローブ賞を受賞し、アカデミー賞に2度ノミネートされた経験がおありだが、どんな感じでしたか?

HAA:あの頃は時代が違いましたよ。今は、どんな反対勢力に対しても、以前より、遥かに攻撃的になりました。より厳しく処罰されるでしょう。私の場合は、もし私が口を閉ざさなければ、私のキャリアを終わらせてやると、彼らに警告されました。それは脅しだった、言ってみれば、隠れた脅迫でした。「有名人にも、金持ちにもしてやるよ、だが、イスラエル批判はやめろ・・・」とね。

DW:実際にあったのですか?

HAA:ええ、ありましたよ。間接的にではありましたが、あらゆる方面から。このことを伝えに来た人は“友人”として言っているというのです。これは他の人たちが私について言っていることだと、彼は言うのです。例えば、私のエージェントにも、"彼がやめないなら、我々はどうすればいいかわかっている "と告げました。

私は商業映画製作でベストを尽くしました。誰にしても100パーセントのコントロールができるとは思っていません。ハリウッドの誰もがシオニストではないし、愚かな戦争主義者でもありません。

DW:2013年、あなたは私にこう言いました: “資本主義はますます攻撃的になっている。彼らは一般世論をコントロールしている。芸術についての世論を含めて、つまり、誰がインで誰がアウトかということを。この事はオルタナティヴシネマであっても当てはまる。資本主義はそのマージンをコントロールし始めている。
現在の状況はどうですか?

HAA:悪くはないですね。私は間違っていなかったと思いませんか?多くの点で状況は悪化したとは思いますが、でも希望は持っています。オルタナティブな配給、オルタナティブな映画製作があるから、私は楽観的なのです。彼らが全力でコントロールしようとしても、イスラエルに対する南アフリカの大量虐殺の起訴状を読む弁論人たちのような反対勢力は存在します。1500万人が観たイスラエルに対する起訴状。もし10年前に、このようなことが起こりうるとあなたが私に言ったとしたら、あなたの頭はおかしいと私は言ったでしょうよ。

DW:あなたは、今、何か映画を撮ろうとしていますか?

HAA:何か書こうとはしているけれど、ガザで起きていること、人道的な問題で頭が一杯です。別の映画監督と一緒に、ガザで、人々に食事を与えることができるキッチンを開こうとしているところです。そこで人々を励まし、多くの人と話をしようとしています。映画の仕事をしようと努力はしているけど、難しいですね。

このように話す機会を与えてくれてありがとう。勇気ある仕事に感謝しています。

DW:あなたと同じように、私たちも戦えば変化が訪れるという確信を持っています。

**********(翻訳終わり)

私はDVD『パラダイス・ナウ(PARADAISE NOW)』の英語版を入手しました。日本語版は高価でしたから。各地の公共図書館からの貸し出しが可能であることを願っています。はっきりした英語字幕がついています。読み損なったら、一時停止して読むといいでしょう。この映画は2005年のワーナーブラザーズ製作で、アカデミー賞を受賞し、西欧の他の知名の映画賞も獲得したのですから、NHKによる放映も可能と思われます。適当に連絡してくだされば、私的にお貸しすることも許されると考えます。
 パレスチナ人の若者サイードは胴体に爆発物を巻きつけてイスラエルの大都市テルアビブに潜入し、十人ほどのイスラエル軍兵士が乗っている市の乗合バスに乗り込んで、自爆して果てます。彼が十歳の時、父親は、イスラエルの呵責なきジェノサイド的政策の重圧に耐えられず、パレスチナ同胞を裏切り、銃殺されました。しかし、サイードの自爆は、単に、父親の、家族の汚名を濯ぐための英雄的行為として描かれているのではありません。この映画は、人間の愛についての映画です。人と人との愛について語っているのです。筆舌に尽くし難い残酷な境遇の下にあって、パレスチナの人々がどんなに美しく強くお互いを愛し合っているかを描いた映画です。これがパレスティニアンという人間集団であるならば、最終的には、勝利はパレスティニアンのものでなければなりません。そうでなければ、我々人間の行先は、全く、「お先真っ暗」です。

藤永茂(2024年2月24日)