New Vinyls!ニュー・ヴァイナルズ

「アートなジャケット」記事と超個人的主観による「アートなジャケット」年度表彰を行うブログです。長期休暇より復活!

第4回ニューヴァイナルズ「アートなジャケット大賞」

2019-12-31 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●2019年度 第4回ニューヴァイナルズ「アートなジャケット大賞」グランプリ

NULBARICH/2ND GALAXY


(総評)
・申し訳無いが、ストリーミング時代にジャケットはどんどん軽んじられている印象。年間を通じてもアートを感じられるジャケットが極端に少なくなってきている。特に洋楽は売り上げもそうだが全く勢いが無い。選考基準の「コマーシャリズムに乗っているもの」も極端に少ない。本来ならビリー・アイリッシュやリゾなどのリード作品の中にジャケット評価が高いものがあってもよいものだが…。(ボン・イヴェールの新作がかすかに良かったか?それでも以前のアルバムには及ばない)喝を入れる為にも今回は邦楽からグランプリを選ばせていただいた。NULBARICHはCM曲の提供や注目度も高くコマーシャリズムにも乗ったし日本語と英語のミックス具合も良い。何より通受けする。(ただアナログ作品で無いのはお許しいただきたいが・・・)完成度の高い楽曲「KISS ME」や「LOOK UP」といった曲調とは似合わない印象だが素材が宇宙でどこかジャミロ的な感触にも近い。裏ジャケが少年の寝入りばな、表ジャケが夢の中の世界と凝っていて面白さも充分。(尚、毎回お伝えしているがこれは権威のある賞でも何でもなく個人の嗜好によって決められておりますので悪しからずご了承下さい)
準グランプリは北欧プログレッシヴ・バンド「フラワー・キングス」の新作を挙げた。これが昔なら間違いなく「ジャケ買い」していただろう。こうしたイマジネーションの膨らむジャケットがもっと欲しいものだ!来年2020年に期待。


●第4回ニューヴァイナルズ「アートなジャケット大賞」準グランプリ

FLOWER KINGS / WAITING FOR MIRACLES


●以下ノミネート作品(順不同)※作品内容は本文をご参考に!

SHELTERS / JUPITER SIDECAR


Sleeping With Sirens / How It Feels To Be Lost White


LANA DEL REY / NORMAN FUCKING ROCKWELL


MONTY PYTHON / MONTY PYTHON’S PREVIOUS RECORD


Off With Their Heads / Be Good


METRONOMY / METRONOMY FOREVER


Remo Drive Natural, Everyday Degradation


Jackie Cohen / Zagg


TYLER BRYANT & THE SHAKEDOWN / TRUTH AND LIES


Connie Constance English Rose


HOZIER / WASTELAND BABY!


以上13作品。





Chick Corea/My Spanish Heart

2019-12-30 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●人の視点とはかくも違うものかと思う。友人と動物園に久し振りに行くと友人は「ナマケモってこんなに動きが速いものかな?」とか「コアラってこんなに走り回るものかな?」と私ならこれっぽっちも疑問に感じない事柄に友人は足を止めている。同様に飲み会では昔の話に花が咲いたりもするがどうも記憶の部分に大きな違いがある。そうなのだ同じ時間を共有していても人は見ている部分が違うからおのずと記憶に差異が出る。つまり人は同じ時代を生きていたとしても、同じ道を歩いていたとしてもまったく異なった人生を生きているのだ。(だから会社の会議などで意見を出し合うことは時として重要だったりもする)
 同様に、人によって価値観もこれまた大きく違う。個人の価値観を相手に要求するのも相当に困難だ。視点が違うからだ。自分の価値観で相手を縛ってしまうのはトラブルの元とも云える。相手を認めるというのは視点を認めることに他ならない。単純な話、身長が違うと見える景色も違ってくる。書店で背伸びをしてみた。高身長の人には什器上の本上部の味気ない白っぽい世界しか見えていないのだ。そして埃だけがやけにクローズアップされる。お店の下段にある商品はとかく見えにくい。特にお年寄りはしゃがみ込むことが出来ないから下段に年寄り向けの商品を置くことはタブーだ。(今後の高齢化社会を考えなくては・・・)逆に子供向けの商品は大人の膝あたりに置くことは鉄則と云える。意外かもしれないかも知れないが、男からみれば女性の頭頂部は気になるが女性はそうでもないかも知れない。逆に女性から見れば男性の鼻の穴、取り分け鼻毛には注意が必要かも知れない。下世話な話だが意外なところに視点の違いが記憶の違いを生んでいるものだ。
 サッカーでもグランドから見れば二次元的に平行に見えるので選手は試合では「鳥観図」という別の能力を要求されている。テレビの放映を見ていればこれは一見簡単なように思えるが、実際に平面にいる選手にはこれが非常に難しい。鳥のように上空からの視点になって「どこに味方がいるか?どこに敵がいるか?どこにパスを通せば効果的か?」というのを測られる訳だ。サッカー界では「視野が広い」とか「展開力がある」とかそういう言葉で代替しているが、ここでも必要なのは人と違った視点を持つことである。さらにサッカーの場合にはその先がある。相手が感じた視点(気持ち)を察してそこに走り込むという洞察力が無いと得点に結びつかない。ここが重要だ。同様に人付き合いに於いても相手の視点や力点に違いを認めつつ、そこに走り込んでやらないといけない。とかく人付き合いとは才能のいるものなのだ。

●リターン・トゥ・フォーエヴァーのところでも既にお話はしたが、チック・コリアだ。年末の大掃除の際にこのジャケットにたまたま目が留まった。久しぶりに聴いてみようかなとCDをかけたはいいが聞き入ってしまった。クロスオーバーやフュージョン(どちらでも意味は同じようなもの)ってジャンルは短命だったけれど、この時代別々に存在していたジャズとロックがお近づきになって生まれたジャンルではある。同じCDを聞くにも視点の違いはここでも音楽の評価を変えてしまう。ジャズ畑から見たチック・コリアとロック畑から見たチック・コリアでは同じ音楽でも全く違う音楽として映ってしまう。
あらためてチックのこの名作を聞くと当たり前に認識していたことが覆る。いつからか「クロスオーバーってこんなもの」と判断していたフュージョン独特のブレイクや節回しが実はスペインやラテン音楽の引用だったと改めて認識した。(すみません今更です)ジャズ畑の人たちからするとそんなの当たり前ということなのだが、ビートルズやオールディーズやそのまた前の時代の音楽の洗礼を受けていない私からすると、クロスオーバーなどは新鮮な音楽だったに違いない。垣根を超えたクロスオーバーという音楽は洗練されて、上辺の美しさや聴きやすさだけを残してヒーリング音楽と合体し、やがては単なるイージーリスニングやムード音楽へと変遷してしまう。(米国ではミドル・オブ・ザ・ロード=MORとして残っているようだが)時代の変化と共にジャンルが消滅した瞬間だ。同様にソウルという音楽はヒップホップやラップという音楽と合体した瞬間にソウルというジャンルを失った。80年代あれだけ隆盛を誇ったブラックミュージックやソウルは何処へ消えたのか?(この論議もまた後日詳しくしたい)今ではすっかりダンスミュージックと合体したことでその実態を失ってしまった。
頑固なように見えて音楽の一スタイルを貫き通すことはジャンルを守ることに繋がり、流行りのスタイルを取り込むことはジャンルの崩壊につながってしまう。「演歌」はいつまでたっても「ド演歌」であることが頑なではあるがジャンルを永らえることなのだ。

チック・コリアはイタリア系スペイン系の血をひくことを1976年のこのアルバムで披露した。くしくも本年「第62回グラミー賞」の「最優秀ラテン・ジャズ・アルバム」部門では、チック・コリア&スパニッシュ・ハート・バンドとしてノミネートされている。「マイ・スパニッシュ・ハート」に端を発した「スペイン魂」は新しいバンドに引き継がれ44年後も脈々と生き続けている。ちなみに私は表表紙のリーゼントのフラメンコ然としたチックより、中ジャケットのロン毛でラテン乗りのどこかのスペイン料理店のおっさん然としたチックの写真が好きである。アートなジャケットにも脱帽。余談ではあるが、このアルバムに巡り合えたのは当時聴いていたロック・ヴァイオリニストであるジャン・リュック・ポンティがヴァイオリンで参加していたのを見つけて聴いてみたからだ。当時他の方の視点とはまったく違った聴き方をしていたのだ。今一度、名作に乾杯!アディオス2019!オレ!

Rick Wakeman/The Myths And Legends Of King Arthur And The Knights Of The Round Table

2019-12-30 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●最近アルバイトの不祥事が続いているが、テレビでの報道に違和感を感じた。
アルバイトが職場の設備や資材、食材を使ったいたずらを動画サイトにアップしたというものだが、それはそれで非常に問題ある行動だが、そもそも会社の運営に問題は無かったのだろうか。社員が常時いたら不正な行動をする者には当然注意を促すであろうし、雇われる側も上司の目を気にして迂闊な行動は控えるものだ。私などは「社員の数が足りていないのでこういう問題が発生してしまっているのではないか」と考えてしまう。もしかしたら会社の人件費削減の為にアルバイト任せになってしまっているのではないのか。そんな時に再教育をしたところでアルバイトにどこまで責任を課すことができるのか?またアルバイトの待遇改善はどうなのか?という疑問だらけの頭になってしまうのだ。

 そしてこの報道だ。「アルバイトの軽率な行動の為に損害〇〇円」これはアルバイトの不祥事に対する緊急研修の為の費用を損害だと表現してしまっている。確かに店舗を休んでの研修は経費も損害も発生するだろう。だが、そもそもそういった教育時間を省いてきた会社側の責任もある訳で平等な見方をすれば、どちらにも責任があったと云える。一方通行の報道は時として間違った判断を引き起こしてしまう。それに今はSNSが発達した時代だから表出してしまっている問題とも云える訳で、昔にはそういったことは無かったのかと云われれば恐らくはあったのだろうし、ただ表面化していなかっただけのことなのである。報道側はいづれスポンサーになってもらわないといけない企業側に忖度して報道をしているようだが、損害という表現は止めた方が良い。「遅れ馳せながら社員研修に費用〇〇円」で充分である。
 ただ不祥事を起こしたアルバイトには言いたい。誰に給与をもらっているのか?ということだ。会社?いやそうではない。お店に来てくれる客がその金の出どころだ。自分たちのしていることが、その客の怒りをかっては自分達の居場所は無い。自分たちの投稿は天に向かって唾を吐く愚かな行動であることと知らねばならない。昔は「ご飯粒を粗末にした者は目がつぶれる」と教えられた。飽食の時代がいつしか貧富の差ばかりあって貧しい時代に逆戻りしている日本経済のことを憂い、若者には再び活気溢れる日本を再興して欲しいものだ。だからこそ会社も目先の利益だけではない(金の亡者たる株主の方向ばかりを向いていないで)ながい経済活動を見据えて運営をして欲しいものだ。分かりやすく言えば「あの会社は年々売り上げも良くて」と聞くと顧客は「俺たちの出費で潤っているのか」と穿った考え方にもなるが「社員教育の行き届いた会社で頑張っている」という評判を聞くと行ってみたくもなるし、応援もしたくなる。人間勝手なものかも知れないけれど、そういうものなのである。

そうこうしているうちに時代は移り変わりレジを自動にするという時代がやってきた。企業は最終的に人はいらないということか?まだレジ操作はお客様に頼らなくてはならないが、そのうちお店の玄関を出た瞬間に持って出た商品は売り上げ計上されてそれが口座より自動引き落としになる・・・そんな時代も遠からずやって来るのだろう。店への搬入だって冷蔵庫と運搬車が直結することで陳列値札など面倒な作業は無くなってこちらでも人間の出来ることはすくなくなってしまう。アルバイトの不祥事がなんて言ってた時代が懐かしくなってしまうのだろうか・・・。(ちなみに聞いたところによると既にアメリカではそういう完全自動化の試みが始まっているそうだ)

●期待を裏切るようで申し訳無いが、自動化とアナログ盤は対極的な位置にある。すべてが人の手を介さなければ成立しない。本当に手間がかかってしまう。しかしながらこの面倒くささがいい。レコードの埃やカビの管理も大変だが何より盤面に針を下ろすことと引き上げることが毎回で大変。例えるなら下の世話をするのは面倒だが犬は可愛いのと似ている。ワンちゃんも亡くなってから思うが大変な世話のことより触れあっていた喜びの方が大きかったのだと。触れて慈しみ愛情をかける事の重要さ-それはここから何千年先の未来にも必要な感覚だと思う。

●アナログ盤の良さは見開きジャケットを楽しむことが出来るところだ。(最近では見開きをゲートフォールドというらしいが、見開きの方がいいと思う)本当に今更で申し訳無いが、LPのことをアルバムというように写真集をめくるような楽しさがある。ましてや音楽と一体化したコンセプトで創られている事から得られる一体感も格別である。後年は経費の関係でこの見開きジャケットは少なくなってしまったが、1975年のリック・ウェイクマンによる「アーサー王と円卓の騎士」のアルバムは外見と中身がまったく違う印象で創られている。表ジャケットは写実的な「エクスカリバー」の写真だが、見開きの中身は両面を使った映画のスクリーンのような大型のイラスト「ランスロットと黒騎士」との戦闘シーンがアニメによって全面再現されている。重要なのはインナーに格納されている全編中世風の文字とイラストで創られた絵本のような小冊子だ。これが相当に優れモノ。サイズはジャケットよりやや小さめだがアーサーの生涯が描かれた叙事詩で絵本として買っても値打ちのあるものだ(勿論英語だが)。本来物語の題材を作品のモチーフにするのが得意だったリックはこの作品に至るまでにヘンリー八世や地底探検と云った物語を音楽で具現化している。ことアーサー王に至っては物語が壮大過ぎてアルバム1枚には収まりきらない(本人談)スケールだが、この題材のボリューム感はそのままアルバムの豪華な内装に反映されている。なのでこのアルバムを一通り楽しむには一定の心構えと時間が必要である。手間暇かかるのである。だがこの中世の世界観にどっぷりはまった時の充実感は大作映画を見た時のそれと似ている。軽薄短小な時代にこうした重厚長大なシロモノは似合わないのだろうが、絵本を見るようにインナーを開き、物語の音楽に想像をかき立てられることの喜びを体験できたことは有難い。現代人には申し訳ないが作者の意図するところに共通点を見出せることの喜びは、同時代性ということは割り引いても創り手と聞き手の意志が共鳴しあっている点での充実感は最高である。「物事を省いて行くことは物事を収束に向かわせること」だと思う。


VARIOUS / 2020 GRAMMY NOMINEES

2019-12-21 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●羽生選手のグランプリファイナルエキシビションを見て息を呑んだ。それまで4回転がどうだとか、ルッツがどうだとか言った外野席を黙らせる一撃はジャンプの回転数なんかじゃなかったからだ。このような感覚を覚えたのは本当に久しい。高橋大輔選手のスケーティング以来だろうか…。今年はその高橋選手の滑りを参考にしたという海外選手も登場した。もしかしたら回転や大技を競う競技とスケートの持つ芸術性を競う競技は別次元で語られるべきものであり、別競技として成立させるべきものなんじゃないかなっと…。いづれ協会も世界もそんなふうに考える時代がやってくるかも知れない。人間の能力とはどこまで限界に近づくんだろう。やがて5回転,6回転と回る時代がやって来るかも知れないが、そこに表現や芸術点が介在する余地はあるんだろうか?
 そしてロシア若手女性3選手の台頭。昨日までジュニアで活躍していた選手達だ。それがまるでトコロテンのようにシニアの世界に押し出されてくる。しかも最強の技と安定感を兼ね備えてだ。日本でも人気のあるザキトワ選手の氷上で見せたあの追われる者の焦りの表情は忘れられない。だがしかし、身体が大きくなる事で無くなる技のキレは浅田真央選手も語っていた通り、誰がでは無く自分との対決でもある。それは別次元の戦いであるからこそ別次元の評価も必要なのだ。回転数論議は若年性論議と似たものがある。身体のハンディを細分化すると柔道やレスリングやボクシングなどの他の競技のようにスケートもこれから細分化の道を選択せざるを得ないだろう。いろんな意味で限界にまで来ている競技だと思われる。ジュニアの選手年齢もどんどん若年化する。誰が6歳の5回転ジャンプを跳ぶというのだ?果たしてそれは人々が見たいジャンプなんだろうか。スポーツは元々身体のハンディを競うものだと誰かが言った。昔のサイズで語るには人間は大きく屈強になり過ぎた。バスケもリンクの高さをもっと上げなくてはならないし、野球だって外野を深く広げなくてはならない。もう昔のサイズでは今の身体能力を語ることは平等では無い。スケートに限らずスポーツ界全体に変革が求められている時代なのだ。
 最後のエキシビション滑者。ネイサンチェンを残してテレビを切った。彼は彼で安定感があって大好きだが、そこにある瞬間瞬間を生きる感動の刹那や儚さ、ひたむきさを感じないのはやはり回転と無関係では無いだろう。(あくまで個人的な主観の入った偏りのある発言はお許しいただきたいが)いや、むしろ羽生選手はエキシビションで回転数の少ないスケーティングを披露すべきだったのかも知れない。私はこのエキシビションのような芸術性も競い合える新しいスケート競技を待っているのかも知れない。そして「それはプロの氷上で。」と反論されるかもしれないけれど、可能ならばザキトワ選手の芸術的な滑りも試合という中で芸術点を争って欲しい気がする。そうすることでスケートの新たな魅力が増大すること間違い無いと思うのだがいかがだろう。

●片や音楽の評価というものは難しい。芸術には基礎点が無いからだ。もともとはレコードやCDの販売枚数が基礎点だったが、それも最近は配信やダウンロード、ストリーミング回数からネットの再生回数まで確固たる評価基準が失われてしまったからグラミー賞にしてもビルボードのランキングにしてもその権威が失墜してしまっている。フィジカル勝負なら話はスポーツ並みに簡単だったのかも知れない。最近の若者は「音楽を持っている」という事は「CDやレコードを持っている」ことではなく、携帯の中に格納していることを「持っている」というらしい。だがアナログ盤や実物のCDを持つことと携帯に存在していることには雲泥の差がある。大袈裟かもしれないが、好きな人の写真だけ持っていることと、その人のすべてを知っていること位の格段の違いがあるのでは無いかとさえ思ってしまう。そういった意味でも音楽のすそ野を広げてきたこれまでの業界の活動と、自ら選んで探しに行かなくてはならない縮小の方向を選んだ携帯音楽とでは進むべき方向が真逆なのだ。

●メーカーの枠を超えてその年に発売された楽曲の中からグラミー賞にノミネートされている代表曲を集めてコンピレートされた「グラミーノミニーズ」が今年も発売される。しかしながら今年も変わり映えしないジャケットの登場だ。何が変り映えしないかって、ジャケットのモチーフである蓄音機の絵柄が毎年変わらないからだ。勿論グラミーのシンボルである蓄音機が描かれているのだから仕方がないが、そもそも上記の様にレコード再生機としての蓄音機が今も変わらずデザインに採用されていること自体がおかしい。デジタルが優位なら「携帯電話」の図柄でいいじゃないか…。厳しいようだが本来のスタンスを忘れて内容も主旨も変わってしまっているものに旧態依然としたデザインだけを残しておいていいものなのか?携帯を燦然と輝かせておけばいいじゃないか。そんな穿った考え方を見透かすように今年のグラミーノミニーズのデザインはどこかデジタルな印象。思えばフィジカルの数値で勝負を競ったグラミー各賞だが、大賞となるといつも肩透かしを食らった。そこには枚数だけでなく芸術性や功労など評価が難しい要素が加わっていつも予想は外れてしまう。ここでも音楽という芸術の評価の難しさが問われてくる。そこはフィギュア・スケートのそれと似た部分もあるのではないか。私は「グラミーがグラミーであった時代」が忘れられない。

TIMES TWO / ×2

2019-05-26 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●「マーケティングだけで音楽を作る」みたいな記事をネットで読んだが、これこそ手段は違うがAIで音楽を作るのと同じ考えだな~なんて瞬間訝ったが、考えてみれば60年代の黎明期から音楽業界はこの「創り込み」を綿々とやって来たじゃないかと。
今もロングランを続けるクイーンの映画にもメンバーとプロデューサーが曲の長さを巡って言い争いをする印象的なシーンがあったが、正にプロデューサーはマーケティングを自らの経験と知識と勘をもって遵守させようとするが、当時のロック歌手はすべからく体制に反した考え方を持っていたから制作側と激突したことはよくあったのだと考える。ましてや一攫千金で成り上がったプロデューサーが相手なら格好の餌食だったに違いない。音楽家からしてみれば「誰の御蔭で飯食ってんだよ」てなもんだ。当時のクイーンでさえマーケティングに迷っていた訳で、ハード路線でデビューしたものの当時流行りかけていたプログレ路線に舵を切ったことも実はあったのだ。恐らく自我が確立したのは「シアー・ハート・アタック」以降では無いかと記憶する。(この辺りの経緯は映画では省かれていて残念だった。しかも彼らに自信を与えたのは他ならぬ日本のファンだったことも・・・)
 このように自作自演する歌手は自分の主義主張を織り交ぜながら路線を決めて行けるが、昔からアイドルやポップス畑の歌手はすべてプロデューサー等制作陣が牛耳っていて自分で路線を決めることは無い。すべてが「創り込み」で出来上がっているものだ。(最近では裏方であるはずのプロデューサーが全面に出てきていることが主流になりつつある)創り込みの一番酷かったのが88年のミリ・ヴァニリ事件だ。本人では無い誰かに歌わせてグラミーまで受賞してしまったのだ(後に剥奪)。創り込みもここまで行くとさすがにやりすぎだ。(フィジカル媒体だけで終わっていればもしかしたら永遠に謎のまま埋もれていた話かも知れないが・・・。恐らく制作陣もそこまでヒットするとは思っていなかったのだろう)

 時を同じくして88年に鳴り物入りでデビューしたタイムズ・トゥ(TIMES TWO)という2人組がいた。路線はアイドル然としていて、衣装もチャラくてとても以前パンクバンドを結成していたような面影は無い。しかしながら、彼らのデビューを紐解くと、きっかけはモータウン・レコードのベリー・ゴーディ社長の甥にあたるロドニー・ゴーディがデモテープをワーナーに持ち込んだのが最初で、しかもプロデュースはグラスルーツやシェールを手掛けたスティヴ・ヴァリとトニー・ペルーソというから驚きだ!しかもバックメンバーには、ギターにダン・ハフやマイケル・ランドゥの名前までが・・・!メンバーのシャンティは1曲を除いては大部分の曲を作曲していて趣味は60年代のポップスターが大好きで、その影響を受けていると云う。通常ならばこれだけ英知が揃えばもっと成功を収めていても不思議ではない。なのに、それなのにである。ブログのテーマは「アートなジャケット」なのに大変申し訳無い、これはセンスのひとかけらも無いジャケットだ。モノクロでちょっとヤバイ印象さえ漂っている。ロゴもいい加減だが、音の方も80年代も後半に入っているのに、この耳障りなエレキドラムは何だろう。本当にこれはどうやって彼らを売り出そうとしたのか。謎は深まるばかりだ。もしかしたら「創り込み」の過程で何かを失敗したのか。マーケティングに於いて安易だったのか。それとも時代が見えていなかったのか・・・。しかしながら配置された曲たちはキラっとした光る何かを持っている。マーケティングに於いて失敗というものは付き物なのだ。(※実際はビルボードのランキングに上がっているので小ヒットとも云えるが、ビッグネームにはなれなかった・・・。)

 時代の流れはたった1曲で変わってしまうこともある。果たしてマーケティング論やAIはそうした未来を予測出来るんだろうか?データとしての過去は上手く操れるかも知れないが、未来を予測して音楽界をリードしていくことはやはり出来ないのでは無いのか。ブレイクスルーするには昔ロック歌手が持っていた「反骨心」こそが時代の壁を切り開くのでは無いのか?石橋を叩いても渡らない会社経営や失敗しないためにどうしたら良いかばかりを考えている社員じゃあるまいし、安全パイな音楽などあまり欲しいとは思わない。だからタイムズ・トゥのような失敗があってもいいじゃないかと思う。

 実は、かくいう私、今もよく彼らのレコードに針を落としている。バブル時代の徒花かもしれないが、クラブの周りに溢れる光や雑踏、そして人々の笑い声、悲しい恋も打ち消していくようなあの華々しい80年代の空気が今こんなにも蘇って来てせつない・・・。最近思うのは情景が浮かんでくるような音楽が少なくなったなぁ~ということ。音楽はイメージの自由度が大切。やっぱり彼らの音楽性って実は正しかったのだと今更ながら思うのだ。


第3回ニューヴァイナルズ「アートなジャケット大賞」(2018.1.1~12.31発売対象)

2019-01-05 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●2019年あけましておめでとうございます。
 昨年もアナログ盤普及にお付き合いいただき誠にありがとうございました。
 アナログ市場「のるか?そるか?」正念場の本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

●アナログ盤の隆盛からかジャケットも相当面白いものがたくさん出るようになってきた昨今ですが、良くも悪くも昨年は年末上映された「QUEEN」に音楽界も映画界も共に蹂躙された感のある年度になってしまいましたね・・・。
この後も、ホイットニー・ヒューストンやマリア・カラスなど重鎮の伝記映画が続くらしいですが、「音楽の伝記映画ならクイーンでしょう!」という代名詞さえ与えられそうな偉業を達成してしまった彼らにご褒美を差し上げない訳にはいかないかも知れません。
(ひっそりと上映されたエリック・クラプトンのドキュメンタリー映画「12小節の人生」はショボすぎて話題の隅にも上がらなかったのが残念ですが、これも一つの人生ですよね。「人間にはタイミングも必要」という・・・。)

●今年は当ブログのカテゴリーの中の「グッド・デザイン・アルバム」の中から対象候補をノミネートさせたかったのですが、残念ながらこのカテゴリーを創ったのが昨年の6月であったことから、それ以前のものは通常のジャンルから選別させていただきました。(あぁ、それと毎度の事ですが、あくまでこの賞は超個人的なものであって公式のものではありませんので、悪しからずご了承くださいませ。勿論お分かりいただいているとは存じますが・・・)


●第3回ニューヴァイナルズ「アートなジャケット大賞」
 クイーン「ボヘミアン・ラプソディ」O.S.T.



※そんな訳で、結果的にこれを除外してしまうと普段から気を付けている「ややコマーシャリズムに乗っているもの」「商業デザインとしても優れているもの」「アートな感性に訴えかけるもの」という選考基準を無視してしまうことにもなりますので、僭越ながら「大賞」とさせていただきました。勿論何の賞金が出る訳でもありませんが・・・。本当に危機的な状況だった洋楽市場に久々のセル売上に貢献していただけたのも大きいですが、何より心をワクワクさせていただいたことが一音楽ファンとして嬉しい限りです!心より「有難う」を言わせていただきたい気持ちです!ジャケットとして特に目新しさも無いのですが、虚空に向けて咆哮する様は忘れていた「何か」を思い出させる感動的なデザインです。映画と共にどうぞ!



●2018年度準グランプリ作品(7作品)

Kodaline / Politics Of Living
☆寸評:アイルランドの国民的バンドの新作!
 感動的動画と共にジャケもインパクト大!


Parcels / Parcels
☆サウンドもちょっとレトロな出来!
 年度後半を引っ張った快作。ジャケも楽しい!


Snow Patrol / Wildness
☆美メロと聞くと懐かしい。壮大なテーマに挑む。
 ジャケもシリアスな出来栄え!◎


Clean Bandit / What Is Love
☆もはやNo.1バンド!
 今回のテーマは「愛」ジャケもgood!


Sea Within / Sea Within
☆プログレ的なアート・ロックを目指す。
 それにふさわしいジャケット。


Ryley Walker / Deafman Glance
☆ロバート・プラントも絶賛!
 難解なジャケットほど人気が出る!


JEAN-MICHEL JARRE / EQUINOXE INFINITY
☆過去のアルバム・キャラを立体再現。
 ジャケットも2種あるのが嬉しい。


Mike Shinoda : Post Traumatic
☆イラストレーターでもある彼の
 盟友を失った悲しみを歌った作品。テーマは「死」




●以下2018年度ノミネート作品(8作品)

Stefan Obermaier - This Vibe
☆エレクトロ関連の音楽はジャケが良い。
 想像力を必要とするからか。


haevn / WhereThe Heart Is
☆CMでのし上がった彼ら!今風か。こちらも
 美しいジャケットで売り込みがウマイ!


SHANNON & THE CLAMS / ONION
☆60年代からインスパイアされたサウンド。
 パンクというには真面目なテーマで歌う。面白い!


THE TEA STREET BAND / FREQUENCY
☆80年代テクノ的な音創り。
 ジャケもデザイン性に富んでいて「正に」という感じ。


ALKALINE TRIO / IS THIS THING CURSED?
☆20年に渡りパンクを歌う男たち。
 懐かしい感じが満載のジャケも◎


PELUCHE / UNFORGETTABLE
☆コラージュ・ジャケットも1枚は選出必要!
 サウンドもボーダレスな寄せ集め感。


STEVE HAUSCHILDT / DISSOLVI
☆アンビエント」というとどうしても
 こうした印象のジャケットになりますね!


PUNCH BROTHERS / ALL SHORE
☆リンゴをかじった部分が波になっている
 ポスター的デザインもGOOD!音も無国籍感!



●以下審査員特別ノミネート作品(4作品)

YES / STEVEN WILSON REMIXES
☆リミックスや再発が多かった昨年!
 ジャケも新作でロジャー・ディーン作!


Black Sabbath / Supersonic Years: The Seventies Singles Box Set
☆メタル系はあまり取り上げてはいないが
 これは中身も充実の再発ボックス。このデザインだけで◎


Jess Glynne Always In Between
☆クリーン・バンディットのフィーチャリング
 ボーカリスト!サッカーゲームの挿入歌でもお馴染み。
 写真にある車や髪の質感がなんともいえない!


BREATH / LET THE CARDS FALL
☆完全に個人的な趣味です。こんなの
 売ってればまず間違いなく「ジャケ買い」



いかがでしたか?お楽しみいただけましたでしょうか。
「ジャケ買い」をお勧めしている私としては珠玉の作品ばかりです。ジャケットとは正に本の表紙の様なものでもあり、表札でもあり、身上書のようなものでもあり、取り扱い説明書みたいなものでもある訳ですが、アーティストの云いたいことや伝えたい気持ちがこもった重要なツールです。
 ジャケットでご興味の湧いた作品があれば、リンクを貼っていますので各ページを覗いていただけたらなぁ~と思います。選外にはなってしまいましたが、ポール・マッカートニーの新作やスウェードの新作など捨てがたいものが他にも沢山ございましたが、今回はこの辺りで失礼させていただきます!

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。




QUEEN/QUEEN

2018-11-24 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●いま菅野仁さん著「友だち幻想」という本が静かなロングセラーになっていると聞いた。
「そもそも友達にどんだけ思い入れあるんだ?」と思う。自分自身友達とは狭く浅く付き合ってきただけに最近の若者の深層心理がよく分からない。むしろ本よりネットで見た蛭子能収さんのメッセージ「群れて得するのは力の強い人だけ」を読んで感銘した。「この人は人の、いや資本主義の、いや人類の性癖についてすごくえぐっている」と・・・。かつていじめにあっていた蛭子さんは煩悶の中で究極の答えを導き出していたのだ。確かに物事の究極を追求すると頂点に立つものに利益が集中するような構造になっているのは確かなようだ。友達、経済、宗教、政治それらはすべからく頂点に利益が集中する構造になっている。何を今更と云いたい人もいるだろうが、意外に原理を知らない人が多いのだと思うし、原理を知れば楽になると蛭子さんもそう云いたいのだろう。人類は民主主義という名の毒でもある多数決原理をもとに動いている。人口問題だって人の多い年代の支持を多く集めれば政治的な票も多く取れるし、商売(経済)だって構成人員の多い人から支持されれば儲かる訳で、少数派はいつも損するものだ。かと云って原理に抗って生きていくのは水を逆に進むように辛い。「水は常に高いところから低いところへ流れるもの」なのだ。だが澱んだ溜まりに渦巻いていて何が悪いとも云える訳で、人々の考え方は徐々に「群れる」ことを廃した新しい観念が必要な時代へ移行しているのだろう。

 実際、テレビでも少数派の人間をやたらクローズアップする番組が増えているのはそうした流れの一環であろう。まともな生活をしていては成し遂げられない特殊な人々がスポットライトを浴びる時代になってきた。一億総平民。一億総平均。昭和~平成的な品行方正で群れることが好きな人々はやがて使うだけ使われて摩耗していく。「あぁ~結婚したい」なんて考えているとここでも平均的なライフスタイルを目指してしまう。それぐらい理想までコントロールされている自分に気が付かない・・・。そもそも結婚とは子孫を残すことが大目的なのだ。人間が死を乗り越えて自分を残そうとするとそれは子供しかあり得ない。「そんなんじゃない。愛があればそれでいいのだ」そういう向きもあろう。が、しかしそれは考えれば考えるほど「未来に残すものを模索する旅になる」のだ。子供でなくていい、形や芸術や生き方を残そうとするからだ。では究極に戻って子供が人類に必要なら、今の婚姻制度や働き方や受け皿や方法、法律を変えていけばいい!いつの世も時代を変えてきたのは少数派だと思う。それがやがて大きな変革につながればいいと思う。

 昔、蛭子さんも投稿していた漫画雑誌「ガロ」をよく読んでいた。その世界観は独特だった。おどろおどろしいとさえ云える空気感があった。世のテレビや映画のヒーロー像みたいなものは頭からかなぐり捨てていた。あの世界観を想う時、今のマンガのヒーロー像は笑止千万である。戦隊ものにしても、なぜ5人で戦わなければならないのか?なぜ、友情を盾に戦闘を挑み続けないといけないのか?絶対に科学的な武器でないと相手を倒せないのか?と謎だらけ?「もう、うるさいからあっち行ってて」という子供たちの真剣な顔を見てはっと気が付いた。「若者を洗脳しているのは他でも無いテレビ番組なんだ!!」と。ちっぽけな正義感やら友情をネタにして子供を虜にしてしまう。そしてそれが多くの日本人の概念を創ってしまっているのでは無いかと。疑うことなかれ!意外にそうした幼少時代の傷跡が社会人になってからも自分を縛っているのでは無いのか?現に正義感や友情の基本をリアルに大人から教えられた訳ではない。「友達を大切に」口で言うが行うは難しである。がしかし子供番組ならいともたやすく「こんな時は友達を助けよう」と解説してくれる。知らない間に我々は「型にはめられている」のだ。もし、友達関係や社会の枠組みに窮屈さを感じている人がいるなら、自分を束縛しているものが何なのか?その正体は何なのか?考えてみるといい。過去の呪縛や着せられた理想からそろそろ抜け出そうでは無いか。自分を大切にするために・・・。

///////////////////

★クイーンに「美ジャケ」無し。(失礼!)
しかしながら、この伝説のデビューアルバムはフレディが生きていた頃のイメージと寸分違わない。「デビューにしてラスト」と云うべき完成度と様式美と理想形を描いている。70年代初頭日本人が最初に愛したバンドは、今やスポーツの現場でたびたび耳にするあの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」そして「ウイ・アー・ザ・チャンピオン」を歌う全世界のアイドル・バンドへ!
多くは語るまい。まずは11月に公開されるクイーンのそっくりさんが登場する彼らの伝記映画「ボヘミアン・ラプソディー」を見てからだ!誰がオペラをロックに取り込もうなどと考えるものか!誰が皆で歌えるロックなんて考えつくものか?個性が無くては逆に阻害された時代に乾杯!彼らの生き様はこんな没個性の時代にこそ真価を発揮するのだ。ハードロックを身上としていた彼らが化粧をしてピチピチのタイツを穿けば誰もが「グラムロックか?」と揶揄した。様々な変遷の上に築いた金字塔は既成概念の破壊の上に成り立っていたのだ。期待。

///////////////////

後日談...

●映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。
恥ずかしながら号泣した。しゃくりあげそうだった・・・。と同時に「僕はクイーンの一体何が好きだったのか?」を想った。
名作「シアー・アハート・アタック」を超えることが出来なかったのは他ならぬ自分自身だったことが恥ずかしい。
自分の音楽遍歴の中でクイーンと袂を分かつことになったアルバム「オペラ座の夜」にまた自分が戻れたような気がした夜だった。

フレディは誰もが通って行く人生の道みたいなものを同じように歩んでいたのだ。それは規模の違いだけ。生意気で何かに怒り、怖いもの知らず。そして夢想家。野心家。彼らの青春時代もまた一般人とさほど大きな違いは無い。やがて少しばかりの成功。そして思い上がり。自惚れ。横暴。自滅。そして落胆の時を迎え、己を知る。思いやりへの帰還はやがて来る終焉の鐘の音。フレディはこのように人が歩いて行く道を当たり前にトレースしていく。誰もが若い時に人生の謎を知り得たらどんなに人生は楽か・・・。

様々なことをこの映画が改めて教えてくれる。彼らの記録。行い。独創性。考えてみれば彼らの到達した領域にまで届いているアーティストは数少ない。数ある記録がそれを物語っている。フレディは45歳の若さでこの世を去って行く。ジェットコースターのような人生を終えたけれど、この後も音楽史に残る名曲たちは、ありとあらゆる事象で聞けるスタンダードとなり、死しても尚、歌い語り続けられる。いわば永遠の命を得ることになったのだから。フレディにとって彼の曲は自分の子供と同じなのだ。彼の残した意志や財団はこれからも生きていく。いやむしろこれが始まりかも知れない。「ショー・マスト・ゴー・オン」なのだ。

追記:
タイトルにもなっている「ボヘミアン・ラプソディ」を聴き直してみて気が付いた(今更だが)。メンバーのロジャー・テイラーもフレディが亡くなってしまった以上、曲の意味は分からないと発言されている。なので自分なりの読み解きになるのだが、大きく分けてこの曲はピアノで始まる美しい哀愁の歌の第一部。二部は曲調をがらりと変えるオペラ部分。そして最後はハードロック調の攻撃的な曲である三部として構成されている。これはフレディが自身の生い立ちを元に書いた戯曲ではなかったのかと。
 それは映画にも登場する自身のインド嫌い。インドから追われて逃げるようにして渡ったロンドン。自身の容姿を含めてそれらを揶揄する人々に向けて「殺してしまいたいほど憎らしい」感情を曲の3部目にハードロックとして荒々しく表現、そして心の中で人を殺してしまった自分に贖罪の意味を込めて歌われる2部のオペラ。確かに神との「許す、許さない」という対話が存在し、物語は1部のあのピアノで始まる母への告白と謝罪へと帰結する。フレディは3部の物語の時系列を全部ひっくり返して曲を構成し直したように思われるのだ(あくまで推測なのだが)。そこに圧倒的な構成力とストーリー性を見出した時「なぜこんなことに気付けなかったのか・・・」と悔やんでみても「オペラ座の夜」以降を積極的に聴いてこなかった時間のロスは帰って来ない。そんなこんなを想いながら2時間半の映画は人生を賭けた自身最大のイベント「ライヴエイド」を迎える。その頃にはご想像通り顔面涙まみれだった。悲しいかな人は独りで生まれて独りで死んでいく。フレディを抱きしめてあげたいと思う心は、自分自身を抱きしめてあげたいという心にも通じる。そして人は過ちを繰り返す。だがそれを乗り越える偉業を目指せばいい。規模の大きさではなく、他人が見た時に素晴らしいと思える何かを目指せばいいのだ。

余 談
 残念ながら音楽で食っていける良き時代は終わった。もう誰もクイーンのような偉業や記録を残せる人たちは出てこないだろう。
一部のアイドルたちを除いては。だがそれでいい。自分にとって最高の音楽と出会えるなら。これからは少数派が生き残る時代なのだから。そうでしょ東郷かおる子さん。NHKのSONGS拝見しました。誰に対しての「ざまみろ」なのかは分からないけれど、充分男社会をぶっ壊した編集長として伝説をあなたも創ったのだから。(最初にクイーンを紹介した記事の中で、ベースのジョン・ディーコンをディーコン・ジョンと誤記してしまったことを除いては「いい仕事してますねー」とミュージックライフの愛読者だった私は感謝しておりますよ。)蛇足だが、まだ映画を見ていない人がいたらimaxシアターでの観覧をお勧めしたい。巨大なスクリーンとサウンドの圧倒感はラスト20分を見る時、その感動は倍増するでしょう。ちなみに隣席で一緒に泣いてくれた女性の方嬉しかった!同時代性とはかくも有難き事なのだ。



Aretha Franklin/Young, Gifted And Black

2018-09-01 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●先日友人と「さすらいのレコードコレクター」なる映画をミニシアターへ観に行った。
ドキュメンタリーだし、1時間そこそこの映画なので人出もどうかなと思っていたがほぼ満席。そこまでコレクターはいないだろううし、皆何かしらの興味を持たないとわざわざこんな映画は見に来ないだろうと思うのだが。そこは1階が喫茶店兼本屋さんという特殊なミニシアターなので、シアター自体のファンも多いのかも知れない。実のところは分からない。
 
 主人公は現役のラジオディスクジョッキーとして高齢ではあるが現役を続行中。仕事と趣味が同一という好々爺なのだが、そのコレクションは天下一品。アメリカンミュージックの黎明期1920年から50年代くらいのレコードを中心にコレクトする。実際に電話を受ければどこでも走って行き、自分自身の目で見て購入してくる。空振りも多いだろう。ドキュメントの中でもそういうシーンが出てくる。映画解説にもあるが、そんな時でも主人公の男は本当に楽しそうにレコードを探す、そして聴く、そして楽しむ。その姿は本当に魅力的!

 見終わってから友人の何人かに「見に行ったらどう?」とお勧めしたが、いずれも反応は上々。中には「ミニ上映会でも開いてみようかな?」なんていう人もいた。映画の中でも「ただ集めているだけなのだが、これはもうヒストリーだ」という解説者の言葉通り、アメリカンミュージックの歴史がアーカイブとして残されている。
 
 人はなぜコレクションしたがるのか?謎は尽きないが、日本でも金沢工業大学や多くのレコードライブラリーが存在することを紹介した。もしかしたら、人は自分自身形あるものだから、形あるものを残したいという基本的欲求があるのでは無いかとさえ思ってしまう。この時代に生きていた証を形として残そうとしているのかも知れない。そう考えるとスマホに音だけ入っていることの何とも味気ないことか。これは年代物の懐中時計とデジタル表示の時計を比べているようなもので、むしろ比較には意味がない、別物と考えるべきなんだろう。私は読後感としてすぐさまあの「サプール」を思い出した。そう、コンゴのオシャレな人々!共通点は「粋」かな。よく「今はものより体験」なんて言葉が経済活動の中でもよく語られ実践されつつある。けれども、踊りつかれた後のように人々はやがて何年後か、何も残っていない自分に気付くだろう・・・。モノを集めるというのは、もしかしたら人や人の心を愛し慈しむことに通じるものでは無いのか。人々が愛するもののすべてを手に入れたいと思うように・・・。

 また、主人公は産業化したロックミュージックやヒップホップを毛嫌いしている。産業化したとは云え、そのレコードで音楽家は生活を営むことが可能になった訳であるし自身もそれを享受しているのだから、一概に産業化は悪いとは言えない。おそらく「魂が無い」ということを伝えたかったのだろう。しかしながら歴史は続いて行き、こんな玉石混交な世の中でも魂のある音楽は現代においても存在するし、そこはお伝えしたい部分でもある。

●そんな訳で前振りが長くなったが印象的な映画であったことをお伝えしたい。そうこうしているうちに容体が不安視されていた巨匠アレサ・フランクリンが亡くなった。前述の映画でも古い音楽が失われていることがひしひしと伝わっていたが、実績のある音楽家が次々に亡くなられている。悲しいが時は残酷だ。
 アレサの曲で取り分け好きな曲は72年の「Daydreaming」になるかな。72年この曲が収録されたアルバム「Young, Gifted And Black」はあまり評価が宜しくない。「Daydreaming」もベスト盤には収録されていない曲だ。それだけ60年代のアレサのゴスペル的な評価が高い訳だが、時代背景も大きく影響している。私の場合は70年代のロックフィールドから80年代のR&Bへ嗜好が移動したので、このアルバムの評価は高め。しかしながら従来からR&Bを志向している方々には明らかにこのアルバムは「著しくロック」していると映る。(バックミュージシャンも所謂クロスオーバー畑の人たちが多い)彼女のロックへの回答がこのアルバムのすべてなのだろう。もちろんアトランティックというレーベルカラーもあろう。だが、私の溜飲を下げたのは93年ペニー・フォードが派手な打ち込みでこの曲をカバーしてヒットさせたことだ。やはりこの曲をいいと思ってくれる人がいたのだと。

追悼の意味を込めて改めて「Daydreaming」を聞いてみる。「あなたの望むものすべてでありたい」と力強く願う歌詞は、出だしの。「Daydreaming」の一語で打ち消されていくアンチテーゼ・・・。「白日夢と共にあなたを想う」なら、以降の歌詞はまったく違った意味になってくる。アレサがさらりと歌唱しているのも意味ありげだ。すべては白日夢のようなものと歌いたいのか、あなたとの逃避行は白日夢のようだと歌いたいのか私には分からないが、見上げた青空の様な景色と表情を刻々と変えるコード進行はドラマティックで泣かせる。ジャケットもカメラ目線や彼女を中心としたジャケット類が多い中で、これはデザインを重視した70年代風ナイス・ジャケットと云える。司会者が大きな声で叫ぶように「アリーサ・フランクリン!」と喝采を贈りたい。「あなたが亡くなってもあなたの音楽はレコードとして永遠に残っていくよ!」

 
 

Kodaline / Politics Of Living

2018-07-07 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●ここのところブログ投稿がめっきり減ってしまった。ネタに困っている訳ではなく、インスタグラムにハマってしまったからだ。歳を重ねると何事にも懐疑的になり、物事をまず否定から入ってしまう癖が抜けない。もしかしたらこの「まず否定」という思考パターンを「まずやってみる」に変更した方がより前向きな人生を送れるのかも知れない。

 何を隠そう、この私も「何がインスタばえか?馬鹿か?飯の写真ばかりアップしてどうすんだ?10年後には何も残っていないよ。時間の無駄無駄・・・」なんて思っていたが、やって見るとこれがなかなか面白い。何がって、まず自分の好きな写真をずっと並べて行くと、不思議と自分というものが見えてくる!つまり自分のすべてがアップされた写真に反映されるから「自分はこんなことが好きで、こんなところに惹かれている人間なんだ。」というのが見えてくる。たかが写真と思っていただが、もしかしたら写真の方が文章よりも飾らない分ストレートに自分自身が表現出来たりするのかも知れない。特別にテーマを設けてやっている場合でも、何となく自分の嗜好が表れてくるのだ。そこには自分の感性、センス、嗜好、癖、そういったものがすべて。もしかしたらブログのように文章で飾り立てることも無く、しかも簡単に自分自身を表現できるのでは無いかなんて思ってしまう。

 このブログのテーマも「アートなジャケット」を求めることからスタートしているからビジュアルという面では共通点がある。音楽のネタでインスタ投稿されている方も沢山おられるが、ここでは何だろう、単純にジャケットだけの投稿っていうのは全く面白味に欠ける。そう、自分自身が表出されていないからだ。ジャケット写真だけなら世の中に掃いて捨てるほど溢れているけれども、自分と音楽の関りを表現した写真は圧倒的に面白い!同じことが風景写真にも云える。綺麗だけの写真なら圧倒されるほどの美写真がプロ顔負け、いやプロも、そして海外に至ってはため息しか出ないような美しい写真が満載なのだ。だが、不思議とそれらには心があまり動かない。感動するけど、綺麗なだけ・・・。そうなる。ヘタすると身近にある何気ない風景や小さなもの、人も含めた生き物の表情、ありきたりかも知れないけれど、そんなものの方に惹かれて行ったりする。写真とは面白いものだね。

●考えればジャケットブログも書きだしてから4年が経過した。特に商売っ気がある訳でもなく、単純にアナログ盤の存在が面白かっただけで続けてきたが、いろんな意味でアナログも定着しつつある。自身も渋谷にこれだけ多くの外国人がレコードを求めて来日してくるなんて想像もしなかったし、ここまでアナログがブームになるとは考えてもいなかった。でもアナログ盤には文頭にあるように「やっている人にしか分からない」面白味はあるものだ。とあるレコード店で、かなりレコード好きの外国人青年が箱の隅から隅まで舐めるようにレコードを探しているのだが、その傍らでブロンドの彼女は相当退屈そう・・・。そのうちお店にある椅子に座ってなにやらスマホを眺めてあくびをしている。通りかかった僕と目があった時にニコリと口元で微笑んで「あれだから困るのよ」と言いたげに彼氏の方をチラっと見た。「亭主の好きななんとか」って云うけれど、彼氏も彼女にアナログの面白さをまず教えるべきかな・・・。でもそれはそれ、自分には自分に合う風景があるものなんだよね。

●そんな訳で言い訳から始まった記事ですが、今は軽いアナログブームだから、かえってジャケットの面白さが多様化してるんだなって、そう思う。悲観することは無い、水は常に高いとところから低いところへと流れるのだ。流れに逆らわずこの流れを自分のものにして行こう。まずは「やってみる」そして「続けてみる」ことだ!
 今年の初めから粒ぞろいのジャケットが発売されているが、その中から今回のアートはこちらだ!
アイルランド出身のコーダライン3年ぶりの新作!まさに「名は体を表す」ジャケットに注目だ!日本人には人気のテレビ番組の挿入歌として有名だが、本国ではナンバーワンを記録している。そのプロモビデオ「オール・アイ・ウォント」は美女と野獣的なテーマで分かってはいるのだが泣いてしまう・・・。部屋に彼らの朴訥とした歌声が流れていることに一種のナルシシズムを感じてしまうのは自分だけか?!8/10発売の新作を期待を持って待て!アナログ盤はブルーカラーのヴァイナルだ!



Hamilton, Joe Frank & Reynolds /Fallin'Love

2018-06-17 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●企業の宣伝にインスタグラムを使いましょう!という講習会があったので参加してきた。
最初は「こんなメシの写真ばかりアップして何が楽しいのか?」と疑問ばかりであったからこそ参加したのだが、これがやり始めるとなかなか面白い。そのうちに「ブログにくだらないことダラダラ書いてるより、リアルな写真の1枚でもインスタにアップした方がより訴えるものがあるかも・・・」なんて思えるようになって来たから不思議だ・・・。

 というのもインスタグラムは、自分の好きな写真をアップしていくうちに自分自身が素っ裸になる印象がある。つまり自分の好きなものだけをデフォルメさせて全陳列することは、取りも直さず自分をさらけ出すことに他ならない。自分のセンス、自分の感性、自分の想像力、自分の知識が写真の一覧に素直に出てしまうからだ。写真好きの方は機材やロケーションはもちろん、究極の写真を求めてしのぎを削っているし、プロ顔負けのそれはそれは美しい写真をアップしている。こういう写真は他に転用される危険性があるのでは?と素人は思うのだが、むしろ使って欲しいというのがインスタグラマーの心情なのだそうだ!

 そうするとセミナーでも言われていたように、同じ志を持つ人々の「いいね!」や御同類の「フォロー」は嬉しい気がするが、企業から来た「いいね!」は確かにどこか嘘くさくて嫌になる・・・。先生曰く「パーティで盛り上がっている最中に企業のチラシを持って飛び込んでいくみたい」なものらしい。ほぼぶち壊しに近い行為なのだろう。企業向けはお断りをしているインスタグラマーが多いのもこういう理由かも知れない。そうなるとインスタグラムは正式な広告は別として、一般的なインスタの企業広告への応用はかなり難しくなる・・・。一般人になりすまして時々企業広告を織り交ぜていくのは至難の業である。結果的にその写真群から人となりを好いていただいて、結果的に仕事に通じるという、永遠の回り道に迷い込むこと間違いなしである。おそらくフォロアーを数千人、数万人創った日には、企業広告のことなどすっかり忘れてしまっていることだろう。
 いやいや、そんなことより「インスタグラムを使って企業広告をしましょう」という企業活動にまんまとハマってしまっている自分自身が情けない・・・(笑)
 
●本日のジャケットは「恋のかけひき」で一世を風靡したハミルト、ジョー・フランク&レイノルズの廃盤アルバム「フォーリン・ラヴ」。特に美しい訳でもなんでも無いジャケットなのだが、いわゆるダンヒル・サウンドの代名詞だった彼らの成功はそれほど長続きしなくて、後続のバンドにどんどん人気を奪われて端に追いやられる事になるのだが・・・。そんな彼らが行った方向転換は「単なるPOPSから大人のAORへの転身」であった。佇まいも大人の正装にして新たなジャンルへの脱皮を図った彼らがそこにいる。いつの世もチャレンジは大切である。この数年後本格的なAORがヒットしていく時代になるのだが、間違いなく彼らの音楽はその先駆けであったし、今聴いても楽しめる内容である。残念ながら今ではCDもレコードも廃盤に。インターネットがあるからこそこんな希少な音楽もネット上から買い求めることが出来る。ネット通販やダウンロード、さらにはストリーミングまで、便利さを追求するにはテクノロジーは避けては通れない・・・。インスタグラムもそんなツールの中の一つとして、良い部分は良いと認めていかなくてはならないのが今の世の中である。だがしかし、常にソフトとハードは両輪であり、流通を支える音楽の中身がつまらないものであれば、流通自体も衰退してしまう訳で、今は流通よりもむしろ音楽の中身が最も問われている時代なのだと思われるのだ。

NICO IBARBURU/ANFIBIO

2018-05-12 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●ミュージック・マガジンを毎月毎月懲りずに買っては舐めるように読んでいる貴方のことを僕は愛おしくて仕方が無い。

「今時、スポーツ新聞買って読んでる奴いるか?」と友人は云ったが、確かにスマホ全盛のこの時代に、スポーツ新聞に載っている記事なんて画面から溢れるほど手に入る(キャッチコピー以外に重要な中身は全くないからだが・・・)。じゃぁ、音楽専門誌やスポーツ新聞は何が良くて麻薬的に買っては読んでいる人がいるのか?とそう問いたい。それは特定のジャンルに特化した情報の深化があるからだろうか。上辺をなぞるならスマホだけで充分だが、特殊なジャンルはそれでは物足りない。

 だがしかし「そこまで専門的な知識など一般の人間には要らない」という意見もごもっともだ。問題はその先だ。上辺をなぞれば、それは「知ったことにはなるが、本当に理解している事にはならない。」つまりスマホに溢れている情報とはスポーツ新聞で云うところの単なる見出し(キャッチコピー)と同程度のものだ。例えば「巨人二連勝!」などという・・・。その存在価値は、飲み屋で話題になった時に同調して頭を振れる程度の知識くらいのものだ。

 もしかしたらスマホが最も危険なのは、その部分か?音楽や文字は安易にデジタル化しやすいが、それは単に何の魅力もない箱にエンタテインメント度を増す為だけの為に組み込まれている客寄せパンダであり、音楽の深化には何の良いこともないということ。毎月ミュージックマガジンを買い求めるマニアの方々はそんなスマホの情報もゲットした上で、更なる情報も得ていくだろうが、置いて行かれるのは一般の方々だ。一般の方により多くの良い音楽を提供できる場があってこそ意義はあるのだが・・・。(音楽とはある意味大衆的な強制力が必要な生き物だからだ!)

 本当にこの世の中には様々な音楽があって、それを知らずに素通りしていくほど悲しいことは無い。だが現実はスマホの氾濫するこの世の中、知らない良い音楽は山ほどあり、それを探し出すのは大海や大宇宙の中から一粒の砂粒を探し出すほど至難の業なのである。こんな情報化の時代なのに情報が情報を殺して行く訳だ!高度成長期の有名な経済学者は云った「マスを増やしパイを広げ、新しいロケーションを創る。それこそが経済原理である。」多くの人にもっと知ってもらう・・・もう今の世では、それは音楽の絶対原理ではなくなっている。ならば、生き残っている専門誌は生き残るために更に何をすれば良いのだろう。情報の深化それは果てしなく奥深く、細くて寂しい奥の細道みたいな世界のような気がする・・・。

 そんなミュージックマガジン・ファンが喜ぶ、ウルグアイの音楽家のアルバム・ジャケットから今日は1枚。あくまでアルバム・ジャケットの紹介なのでアーティストの人となりには触れていないことお許し下さい。知りたければミュージックマガジンの定期購読をお勧めします。(笑)それこそが本当に身に付く知識となるはずです。そんな訳でストリーミングは知っているだけで知識にはならないという側面があることもお知らせしたい訳ですよ。
 ニコ・イバルブルはウルグアイ産ながらブラジルのミナス派のサウダージも持ち合わせており、しかもこのアルバムはアルゼンチンからリリースされております。何とも南米な音楽性はウルグアイの地元音楽であるカンドンベの打楽器的な要素も忘れておらず秀逸。ともすればその打楽器が耳障りだったしますが、本作は立体的な処理もなされており気にならない。大きな世界観の楽曲も収録。そしてジャケット。実はこちらの方が何か分かりません。申し訳無い。意味からしてカエルの卵かな!カエルって太古の昔からその姿はほとんど変わってないんだってね。グリーンとブルーのコントラストが美しい。ジャケ買い派にもおすすめだ!。 




The Doobie Brothers/Takin' It to the Streets

2018-04-22 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●「忖度」という言葉を聞いて久しいが、実はこの忖度、日本を蝕んでいる最大の原因では無いかと考えるようになった。政治の世界だけでなく、身近な会社組織にも「仲良しクラブ&順番制」みたいなぬるま湯体制の中に、正義をも曲げてしまう「忖度」という悪しき慣習が芽生えてしまったのでは無いだろうか? 組織の中で使われる言葉に、通常の営業以外に「組織内営業」という言葉がある。これはあくまで根回しや組織をスムーズに運営する為の手段として認識されているだけで、誰も不正までも許容しろという意味では無いはず。上長に気に入られたいが為に気を遣い過ぎて(忖度して)事の善悪の判断まで歪めてしまっている現状が芽生えてしまっているとするなら大問題である。それがやがて会社組織に蔓延して、そして政治にも蔓延して、国家全体にも蔓延してしまっている。それが今の日本なのかも知れない。

 「政治のことだから雲の上の話」と思いがちな今回の諸問題も実は私たちの身近な問題から派生している所謂日本の国民性に由来していることなのかも知れない。(ゴシップ記事になるが)サッカーの日本代表監督がワールドカップ2か月前に電撃解任された件で、監督に意見をした選手が次々に代表から外されたという事を聞いた。当然戦力として必要な選手は揃えられないばかりかボールひとつ蹴るにも監督の方を向いて蹴らなくてはいけなくなる。これではワールドカップ本戦で上位を狙えるはずもない。レスリングのパワハラ問題もしかり。エンタメもスポーツも会社も経済活動も政治も、どんな世界でも「正しいことは正しい」と云える土壌や受け皿がなくては決して勝てっこない。その根っこの意識を個人単位で持ち続けることは非常に重要である。もちろん代表監督が悪事を働いているという事ではなく、イエスマンばかりではなく、時には反対意見も取り入れて軌道修正しなければならない時はあるということなのだ。それでなくても日本人は慣習性を好み、圧に弱く、変化を嫌う国民なのだから。
 現に国会前で首相更迭を叫ぶデモも起きている。外国人は「日本ではなぜデモや氾濫が起きないのだ?」と疑問に思うそうだ。日本国民はこれまで何に忖度してきたのだろう?不正な忖度の上に何億もの税金が無駄に使われて、そして大切な国会を空転させてしまっている・・・この現実にもう目をそらすことは出来ない。「何をやっているんだ?!」ということだ。これは国民ひとりひとりが最小単位である自分の行動をまず正さなければならない。「忖度撲滅を!」。その第一歩が次の選挙であろう。これまでのような「では誰が次の政権を担えるのか?」なんて悠長な比較票や「まぁ時間稼ぎに」なんていう希望票など、誰に忖度しているのか分からないような「忖度票」を投じている暇はない。日本の未来の為に新たな風を送り込む為に清き一票を投じること。それこそが国民に出来る唯一の発言である。「出る杭は打たれる」という古語を忘れてそろそろ「良い杭はまっすぐ刺さる」(しっくりこないが)みたいな新しいことわざが日本国民には必要な時かも知れない。


●グループを離れてソロ活動を行うミュージシャンが多いが、一度ソロ作品になると「?」となる事がよくある。これは自分が好きなメロディーを自分だけが料理してしまう為に起こる自己満足が原因だと思うのだが。グループに居ては忖度して言いたいことも主張したいことにも遠慮が出るので自由にやりたいというのはあるのだけれど・・・。
 ポピュラー音楽の歴史で見ると結構このグループ活動が良い作品を生んでいたりする。個人の意見のぶつかり合い、そして引き出される偶然の融合、それは常識を超えた化学反応を起こしたりする訳で。特にライヴの演奏などは一発勝負が故に名作と云われる作品が多いよね。ある意味「コール&レスポンス」の奇跡的な融合というべきか。逆にスタジオ録音となると各メンバーの意見の調整と落としどころに苦労して時間だけが費やされてしまう。曲に思い描いている展開が個人によって違いが出るのは致し方ない。ただ「よりよい音」を求める気持ちは同じなので妥協の一歩手前で手合わせを求められることになる。そこがソロアルバムと違ってグループの良いところでもある。個人のアルバムでは欲しい音が必要であればセッション・ミュージシャンを呼んで「こんな風に演奏してくれ」と依頼すればそれなりのものは出てくる。あのスティーリーダンは人気絶頂期にはそういう方法で作品作りを行ってきた。曲を作る段階で、それこそお蔵入りになったボツ曲は山のように発生するのだけれど、多くは封印されてしまう。完成していないという芸術的な観点からだが、そんなボツ曲が「日本盤独自のボーナストラック」として収録されてしまうことがある。果たしてこれは本当に良いことなのかどうか分からない。ファンには嬉しいが単に輸入盤との違いを演出するだけのシロモノだったりすることもあるから聞いてがっかりすることも多いのだ。

 余談になったが、そんなスティーリーダンからギターのジェフ・バクスターやマイケル・マクドナルドをセッションマンとしてでなくメンバーとして迎え入れたドゥービーブラザーズはグループの方向性をここから大きく変化させている。トム・ジョンストンの離脱が引き金となったが、これまで以上に都会的なAORサウンドに変化したにも関わらず大きくファンを逃すことなく「テキサス・ロック」を脱ぎ捨てた。この時期の方向性の決定にはメンバー一同相当煩悶したに違いない。そして過渡期とは云えどもファンならば絶対に外せないアルバム1976年の迷作?「Takin' It to the Streets 」は生まれる。世間一般的にはドゥービーズと云えばその後の78年作「ミニット・バイ・ミニット」や初期作品の名作「キャプテン・アンド・ミー」が挙げられがちだが、この「テイキン~」の出来は素晴らしい!これまでの路線の曲に加え、新しいメンバーによる都会的な楽曲、バラエティ溢れる内容。そして旧イメージの曲をすこし加えて花道を作っている。ファンキーベーシスト、タイラン・ポーターの筆になる曲はほぼスティーリーダンだ。彼らにとってリスペクトすべき存在であり、都会の権化だったのはスティーリーだったのかも知れない。

 そしてジャケットはリーダー然としたパット・シモンズのサングラスに街へ繰り出す皆が映っており、タイトルが示す方向性と合致している。ジャケットが物語っている意思のある1枚だ!彼らのアルバムジャケットはいずれもクエスチョンマークの付く安っぽいものが多い中、前出の「キャプテン・アンド・ミー」や後の「運命の掟」などは捨てがたい。しかしながらそのバックボーンや転換期に於ける重要性でこちらに軍配を挙げたい。(その後、ソロ活動に重点を移したドゥービーズはあえなく解散・・・。やはりそうなるのか・・・。この時期「喧嘩上等」「忖度不要」で創られたアルバム群は音楽遺産に認定ものだ!)

Led Zeppelin / Houses Of The Holy

2018-04-08 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●小磯良平記念美術館で「絵の中の音を聞く」という企画展が開かれている。
このブログとは真逆の視点から企画されている展覧会だが、音と絵の共通項がやはりあったのだと溜飲が下がった・・・なんて感想は端から無い。むしろ入館料200円という安さで美的感覚を刺激できるこの施設のすばらしさと云ったら・・・!
買い物帰りにショッピングバックを下げて来館している主婦や(ネギが袋からはみ出していたり)、子供用自転車に乗ってきた赤い服の女の子(ちなみに子供は入館料100円)、そしておおよそ美術品とは何の関係も無さそうなお年寄りが思い思いの時間を過ごしている。こんなに素敵な美術館って無いなぁ~なんて思ったりした。(そういえば西宮大谷記念美術館など格式張らないプチ・ミュージアムに素敵な美術館が兵庫には多いね。他にも香雪美術館や白鶴美術館、横尾忠則現代美術館など粒揃いの美術館がたくさん!)

 クラシック音楽を愛していた小磯画伯からインスパイアされたこの企画展は神戸にゆかりの画家たちの絵画の中から、いかにも音や会話、雑踏といった事象を想像しやすい絵を選んでの展示会。(普段からもクラシック・コンサートを通じて音と絵のコラボを行っている)絵も音楽も描かれているものや奏でられる音のその向こうにある想像の世界が非常に大切だと教えてくれる。そうした意味では、見慣れた絵や有名な絵で無い方が想像力を掻き立てられるのかも知れないね。今回の企画展もリュートを弾く女性の絵やフラメンコを踊る女性の絵が掲げられてはいるが、西村元三朗画伯の「対話」という絵の様にどこか抽象的で宇宙的で不可解な絵の方が遥かに想像が膨らんでくる。特別にしつらえられた小部屋に座椅子がひとつ、ここにじっくり腰を据えて絵画と「対話」出来る空間までもが用意されているのだ。

 音楽にとって情景を想像できる音楽ほど素晴らしいものはない。音楽が音楽を超えて言葉を語りだす瞬間。また、座して音を聞くことを強要される音楽ほど崇高なものは無い。長らく「ながら音楽」に慣らされた人々は圧倒的な音世界に取り込まれる快感を知らない。つまり現代の音楽とは常にサブ的な存在であり、主役にはなれない存在に成り下がってしまった。遡れば80年代のウォークマンブームやプロモビデオブームからなのかも知れない。確かにコンサートは音楽が主役だと云いつつもビジュアルなくしては語れないし絵画で云うと展覧会に行ったけれど人垣が多すぎて肝心の絵が全く見えない状況に似ている。基本的に音楽は映像とは相いれない世界のものだ。音楽に生命を吹き込むのは映像ではなく、個人の頭の中だけにしかない唯一無二の想像の世界だけなのだ。小磯画伯も音楽の調べの中に自身の絵画へのインスピレーションを模索していたに違いないとそう思うのだ。

 「展覧会の絵」となるとEL&Pの代表作「展覧会の絵」(ムソルグスキー)を想像しがちだが、これではあまりに直球すぎてこの企画展にある「リュートを弾く婦人」と何ら変わらないので、今回は「想像」という部分に重点を置くことにした。レッド・ツェッペリンの「聖なる館」だ。発売された当時「ちょっとファンキーな音作りになったね」とよく分からない印象について語り合ったが、何を隠そう僕らはツェッペリンの前作(Ⅳ)を払拭したくて、そしてその期待以上にツェッペリンはリスナーを突き放してくれた記憶がある。そんな中、唯一僕らを励ましてくれたのがこの素晴らしいジャケット。制作は天才デザイン集団ヒプノシスの手による。このジャケットは、少女たちが同じ方向をむいてどこかに行こうとしているのだろう?「聖なる館」ってどんなだろう?聖なるってどんなだろう?と僕らをジャケットの向こうに誘ってくれる。答えとなるべき見開きの中ジャケットを通り越して、思考は更に更にその先へ行こうとする。そんな空想の宝庫であるこのジャケットは誰もが選ぶベスト・ジャケットであることに疑いの余地は無い。ジャケットという美術が音楽を補完した感のある、正に「アートなジャケット」なのだ。

Guns N' Roses / Appetite For Destruction

2018-03-18 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●アメリカの銃犯罪は終わることを知らない。
武器商人の保護と支持票獲得の為に銃を終わらせることが出来ない腰抜けの政治家が政治をしているからだと云う。代替として「銃は自分自身の身を守る為」という大義名分に姿を変えているが、「武力を武力で以て制圧することしかできないアメリカ」は常に武力で負けたことがないから発想自体に驕りがある。アメリカ映画を見ても最後は核にものを言わせて外敵をやっつけるという貧困な発想ばかりだと笑う者もいる。
 考えてみれば日本の政治家の方が圧倒的に頭脳的だ。豊臣秀吉の時代には農民や一般庶民には銃刀所持を禁止した「刀狩」が既に存在していたし、現在は「銃刀法」によってこれらは規制されている。法治国家にあって自らを守るのは「銃」ではなくて「法」である。アメリカはこれから先も有能な若者たちを銃の犠牲にして「正義」だと言い張れるのだろうか・・・?もう補助金を出しても、一代限りで銃販売業を辞めさせるなど根本的な対策と刀狩が必要な時に来ている。

●銃と云えば、真っ先に思い出すのがガンズ&ローゼズの「Appetite For Destruction 」かな。(勿論ここでいうガンズは銃という意味では無いことを誰もが知っているのだけれど・・・)当初ロバート・ウィリアムズさんによって描かれたこのジャケットは「発禁ジャケット」としてあまりにも有名。このジャケット、女性がレイプされていることを想像するのでダメとされたが、これもアメリカの貧困な発想だ。これには意図があって、女性は人類の象徴として描かれていて、ロボットは科学を象徴している。つまり人間は機械に毒されているのだという事を「破壊の為の食欲」というタイトルに込めたというアクセルやロバートの言葉を借りるなら俄然このジャケットの意味するところは違ってくる。むしろ、武力や暴力やレイプはいけないのだという正反対の解釈になる。スケベなことばかり考えているアメリカ人に物申したいところだ。「そんなことよりもっと大切な事あるだろう?」っていう事だ!
だからこそ、筆者はこのアルバム・ジャケットを「アート中のアート」だと宣言したい。代替ジャケットとして採用されている十字架のジャケットを今からでもこの「発禁ジャケット」に戻してもらって正規のジャケットとして再度使用して欲しいくらいだ。いやいや、それよりアメリカさんに銃の規制を先にお願いしたいが・・・。

Allan Holdsworth/Road Games

2018-02-25 | アートなジャケット(CD&Vinyl)読み物
●地方TV局の番組で円広志さんが町中を取材してまわる番組があったが、番組中で公務員を辞めてイカ焼き屋に転身したおじさんの話が放映されていた。円さんは昔ロックが好きだった店主さんに(店内もギターやらロックの写真で飾られいる)「もっと、ガーと行きいーや。」などとはしゃいでいたが、私は見ていて「何より公務員を辞めてイカ焼き屋か~スゴイじゃん!充分ロックしてると思うけどなぁ~」と思わず漏らしたが、さすが円さん、いみじくも「ん、ロックは形やない、生き方やからね!」と言葉を添えていた。さすがに人生の浮き沈みや酸いも甘いも乗り越えてきた作曲家だけはあると感心した。

 今やそのロックは瀕死の重傷である。
発売されるアルバムも有名無名を問わずほとんど売れない。結果的に、豊作に歓喜して踊りだしたという人間の本能的な部分に訴えるダンスミュージックだけが幅を効かせている。思えば、イージーリスニングやカンツォーネ、果てはカントリーまで、ありとあらゆる音楽がごちゃ混ぜに溢れていた昔が懐かしい。いや、しかし悲しむなかれ「歌は世につれ、世は歌につれ」である。今は今の在り方を尊重すべきである。しかしながら、確かに思想的な部分で云うとロックとは生き方そのものだったのかも知れない。

 かつては音楽で食っていくというのは並大抵のことではなかった。ごくわずかな人々に支えられてきた音楽はレコードが生まれたことにより「音楽でも食っていける」という産業革命的な構造変革を作り出した。そうした意味でロックミュージックという存在は非常に大きかったのかも知れない。まさか、大好きな音楽で生活が営んでいけるなど、昔の人は想像さえしなかったことだろう。それがいつしか、政治にも音楽は関わって行き、遂には「音楽で世界は変えられる」とまで思い込むようになったのである。学生が持つ一種独特の世間に対する反骨心は学生運動やヒッピー、ウーマンリブ、そして戦争反対など、その心のやるせなさを歌で表現しようとしたからだ。そうするとロックは力を持ち、形は変われどロックという生き方や思想に変化していく。若さ故の思い込みはあったにせよ、その「世界を変えてやる」という反骨心だけは何歳になっても失われない。だからこそ、ロックはスタイルではなく生き方なのだ。もう「音楽で世界を変えてやろう」などという馬鹿げた発想の人間はいなくなったが、その世代をロックと共に生きてきた人間は少なくとも「なにかを変えてやる」と今になっても心のどこかにロック魂がくすぶっているに違いない。きっと、そういう方たちには、今一度アナログ盤に針を下ろしてみることをお勧めしたい。きっと若々しかったあの頃が蘇り、もう一度気合を入れ直して残り少ない人生をロックに生きてみたいと奮い立つに違いない。これからの30年かつてのロックはリハビリに非常に役立つのではないかと自分は考えている。

●そうした意味で、かつては外に向いていたロックを箱に閉じ込めて、市場をわずか10%の1に追いやって人々の生き方や産業構造をも変えてしまったスマホは「死の箱」とも云える。(以前にボン・ジョヴィが語っていたことを思い出させる)今やCDショップや書店は簡単に通勤通学帰りに寄れる施設では無くなっている。考えてみれば、あのSONYが作ったウォークマンは同じ箱でも音楽に対する貢献度はまったく違った。異次元であり、市場を拡大方向に導いた「優れた箱」であった。しかしながらスマホは別の次元での商品であり、音楽に対する貢献度は低い。まさに音楽を「客寄せパンダ」に使っているだけのシロモノだ。だが、そうした現実の中でも世界や進化は受け入れていかなくてはならない。これから先、音楽が持ち前の力でどう変化していくのか楽しみではある。もしかしたら、欧米のアナログブームもそうした反骨心から生まれているものかも知れない。前年比200%や300%という倍々ゲームの成長を続ける波の裏側には、音楽に対する人間の本質的な欲求や情熱があるのかも知れない。

●本日の「アートなジャケット」は83年のアラン・ホールズワースのソロデビュー盤です。それまでにソフトマシーンやゴングなどに参加してきた氏が、ビッグヒットを放ったukへの参加を経てたどり着いたメジャー・ソロ・デビュー盤ということになります。これに先立つソロ・アルバム「i.o.u」に関する逸話はファンの間では有名な話であり割愛させていただくが)リズム隊には超絶的フレットレス・ベースプレイヤーのジェフ・バーリンやドラムにチャド・ワッカーマンを従え、スペシャル・サンクスには、あのエドワード・ヴァン・ヘイレンの名前も見られます。そして何より驚くのは、裏ジャケットの本当に見えないような場所に「このレコードはシンセサイザーやキーボードを使用していません。」とこっそり書かれていることです。B面の1曲目を飾る名曲「TOKYO DREAM」はキーボードが鳴っているように聞こえるし、東京のキラキラした夜景が頭の中に浮かんでくるほどドリーミーなサウンドに「この曲どうやってギター1本で弾いているのだろう」・・・当時それは大いなる疑問でした。(今でこそYOU TUBEなどで演奏している姿を見ることが出来るので、その奏法まで露わになりますね。蛇足ですが、アランはその昔在籍していたジャン・リュック・ポンティでバイオリンと同じ旋律とポルタメントをギターでも再現しなくてはならなかった経験が、その後の彼の奏法に影響を与えたのだと思われます。もちろん自身も少しバイオリンを弾きます。)

 そしてイラストはTOM NIKOSEYさんの筆によるものですね。トムさんは当時主にアルバム・ジャケットを手掛けていまして、それまでにもコモドアーズやビージーズ等のジャケットを描かれていましたが、その後ロゴタイプの仕事に転身し商業ポスターでも成功を収め、現在も活躍中の人物ですね。鉛筆書きの下絵に水彩絵具をただ塗っただけのようなアマチュア仕上げですが、どうやら彼は文字の造形の方に強く惹かれたようです。確かにそう思って見ると「ALLAN 」の文字もデザイン性に溢れていますね。才能に溢れた方は自分の欲求の赴くままに自身の可能性を追求して流れていくものなのですね。アランとて同じ自分の道を貫き、昨年2017年にその生涯を閉じています。

ロック魂を創り出してきたアーティストたちも後30年もするとほぼ全員がこの世から消えていく。クラシック音楽が今も演奏され続けているように、ロックも1000年後、スタンダードとして人々に愛され続けていますように。