秋のはじめの頃、ある機会でたまたま会った女の子がいた。
大学生くらいかな、と歳を聞いたらなんと16歳の高校生だと言うので(!)、自分としては珍しいけれどランチに誘ってみた。
最近の、しかも都会育ちの女子高生となんてまともに話したこともないから話が噛み合うものだろうかと思っていたけれど、素朴で物静かな、とてもいい子だった。
私は人からお誘いを受けてもなかなか腰の重いタイプなので
「いいんですか?ぜひ!」
と即答してくれたことも 「人間できてるいい子やな!」 と感心してしまったし
「今日はたくさんお話してもらって本当に嬉しかったです。。」
なんて夕方別れ際に言われた日には、もう神々しさすら感じてしまった。危うく抱き締めたくなるくらいかわいい子でした。
たった1日だけ少しの時間を過ごして、きっともう二度と会うことはない。
それって不思議だなぁと思う。
お互いにどこかにはいて、それぞれの過去とそれぞれの人生があって、私の時間の中にもう彼女はいないけれど、記憶としての彼女はここにある。
彼女の時間の中に私がどのくらいの印象でどんな風にいたのかも私には知りようがなくて、その面影がどこで薄れていつ消えてしまったのかも、もうわかることはない。
昔はさっきまでここにいたはずの人が容れ物だけになって、そして物理的にも消えてしまうことが一番の不思議だと思っていたし、消えるってどういうことだろうとひたすら疑問に思っていたけれど、今は物理的には消えていない人達の時間がただ私からは見えない場所で続いているということの方が不思議だと思うようになった。
私の記憶の中のその人はもうその人ではないけれど、かといってその人以外の人ではないし、そうしてその人が生きてきて出会ってきた人達の記憶の分だけその人がいるって、物凄い数の分身の術みたい。
自分に置き換えてみると私以外の人の中にも私がいて、じゃあ本物の私は今この瞬間ここにいる私だけかと言われると、息をひとつ吸うたびに私は変わっていっているし、目の前にいる人が違えばそこにそれぞれの私がいると思う。
そしたら私自身ですらもうどれが本物かなんてわからなくて、どの範囲までを私と言うべきかも難しくて、存在なんてものは常にその陰を濃くしたり潜めたりしている何か残り香みたいなものでしかないんだなぁって気がする。
触れているはずの形でさえ、手を離した瞬間にはもう 「印象」 っていう名前の、形のないものと等しいんじゃないかとすら思う時もある。
そうしたらもう、捕まえた、なんて思っていることが勘違いすぎて馬鹿馬鹿しい。
離れていかないで、なんて望むこと自体がナンセンスだし笑えてくる。
望むようになんてできるわけないよ。
どれだけ大切なものだとしても、ただもう今ここでたまたま香ってくれているだけの時間でしかないのに。
そういえば話してくれたハロウィンの約束は楽しかったかな? とふと彼女のことを思い出して、ぽわりとふくらむシャボン玉みたいに心が少し柔く形を持った感じがした。
今私が浮かべるあの子はもう厳密にはあの子じゃないけれど、この世界のどこか、その香りを今一番強く感じる場所にいるはずのあの子が、どうかずっと元気でいてほしいと思う。
すずらんが揺れるみたいに笑う、かわいいかわいい子だった。
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