・<ZERO>から響く声

曲を書いて、歌を歌って、たまにLIVE。
シンガーソングライター箱崎恭子の日常やら何やら。

すずらんの香り

2015-11-10 13:03:56 | 思うこと



秋のはじめの頃、ある機会でたまたま会った女の子がいた。
大学生くらいかな、と歳を聞いたらなんと16歳の高校生だと言うので(!)、自分としては珍しいけれどランチに誘ってみた。

最近の、しかも都会育ちの女子高生となんてまともに話したこともないから話が噛み合うものだろうかと思っていたけれど、素朴で物静かな、とてもいい子だった。
私は人からお誘いを受けてもなかなか腰の重いタイプなので


「いいんですか?ぜひ!」


と即答してくれたことも 「人間できてるいい子やな!」 と感心してしまったし


「今日はたくさんお話してもらって本当に嬉しかったです。。」


なんて夕方別れ際に言われた日には、もう神々しさすら感じてしまった。危うく抱き締めたくなるくらいかわいい子でした。





たった1日だけ少しの時間を過ごして、きっともう二度と会うことはない。
それって不思議だなぁと思う。

お互いにどこかにはいて、それぞれの過去とそれぞれの人生があって、私の時間の中にもう彼女はいないけれど、記憶としての彼女はここにある。
彼女の時間の中に私がどのくらいの印象でどんな風にいたのかも私には知りようがなくて、その面影がどこで薄れていつ消えてしまったのかも、もうわかることはない。

昔はさっきまでここにいたはずの人が容れ物だけになって、そして物理的にも消えてしまうことが一番の不思議だと思っていたし、消えるってどういうことだろうとひたすら疑問に思っていたけれど、今は物理的には消えていない人達の時間がただ私からは見えない場所で続いているということの方が不思議だと思うようになった。


私の記憶の中のその人はもうその人ではないけれど、かといってその人以外の人ではないし、そうしてその人が生きてきて出会ってきた人達の記憶の分だけその人がいるって、物凄い数の分身の術みたい。

自分に置き換えてみると私以外の人の中にも私がいて、じゃあ本物の私は今この瞬間ここにいる私だけかと言われると、息をひとつ吸うたびに私は変わっていっているし、目の前にいる人が違えばそこにそれぞれの私がいると思う。

そしたら私自身ですらもうどれが本物かなんてわからなくて、どの範囲までを私と言うべきかも難しくて、存在なんてものは常にその陰を濃くしたり潜めたりしている何か残り香みたいなものでしかないんだなぁって気がする。
触れているはずの形でさえ、手を離した瞬間にはもう 「印象」 っていう名前の、形のないものと等しいんじゃないかとすら思う時もある。


そうしたらもう、捕まえた、なんて思っていることが勘違いすぎて馬鹿馬鹿しい。
離れていかないで、なんて望むこと自体がナンセンスだし笑えてくる。

望むようになんてできるわけないよ。
どれだけ大切なものだとしても、ただもう今ここでたまたま香ってくれているだけの時間でしかないのに。







そういえば話してくれたハロウィンの約束は楽しかったかな? とふと彼女のことを思い出して、ぽわりとふくらむシャボン玉みたいに心が少し柔く形を持った感じがした。

今私が浮かべるあの子はもう厳密にはあの子じゃないけれど、この世界のどこか、その香りを今一番強く感じる場所にいるはずのあの子が、どうかずっと元気でいてほしいと思う。




すずらんが揺れるみたいに笑う、かわいいかわいい子だった。






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期間限定

2015-10-23 13:06:34 | 日常



期間限定で少し新しいことをやってみようと決めました。

その準備からもう予想以上の初めてに出くわして、小さいけれどいろんな体験やいろんな新しい人に会います。


そのペースにちょっとびっくりしてたらもう秋になってしまった。

秋ですって、奥さん!



慌ただしい日々だけど、毎日凄く楽しいです。
嬉しくて、胸がぎゅーってなるくらいに幸せ。


「こんなことくらいで… フッ、待て待て…」


と冷静に思うのに、やはり胸の高鳴りにつむじから足の指先までぐるんと包まれてしまって


「あぁ、もうほんとにどうしよう………!!!」


と、思わず床でごろごろ悶絶したりしています。

こういうの幸せって呼ぶんじゃないかしら!



















自分が好きだと思っていたこと、やりたいと思って決めたはずのことも、実はそれが誰かにわかりやすいとか、証明できるとか自慢できるという風な埃が積もっていつしか一体化した塊みたいになってしまっているんだなぁって、なんだか最近とても実感しました。

私は自分が好きなことを自分でわかっている方だと思っていたけど、全然違った。


「私はこれが好き!!私は今これを一番欲している!!」


って自信満々に思っているんだけど、いろんなことを調べたり自分の気持ちが変化していくのをゆっくり待ったりして少しずつ埃を払っていくと、自分の本当の気持ちは全然違うものだったりする。


それも少し前の自信満々度からすると えーーーっ! ってくらいに驚くのだけど、そうして


「あぁ、2ヶ月もかかってやっと辿り着いた。今の私の本当はこれだ。。。」


とようやく辿り着いて嬉しかったりほっとしたのも束の間、今度は凄く不安になったりする。
なんていうか、自分の本当の気持ちを知ってしまったことの心細さ?
それとも本当の気持ちを知ったと思って決断をしたからこその責任? なのかな?


気持ちっておもしろいな。

つくづくそう思いながら、また幸せの絶頂に悶絶したりしています。 忙しい!




あまりの心身の慌ただしさに慢性蕁麻疹と診断されました。身体は正直。

もう2ヶ月半くらい経つのにあまりに酷くて薬を飲んでもなかなか引かないものだから、追加で胃潰瘍の薬を出されて


「胃潰瘍の薬なのに!? って思うかもしれないけど効くから、騙されたと思って飲んでね」


と言われて飲んだら、本当に効きました。


「胃潰瘍の薬なのに!?」


と、相変わらずキャラの立った皮膚科医に渾身のドヤ顔で3回も前もって言われて知っていたはずなのに、やっぱりびっくりしました。

今はだいぶ落ち着いてほっとしてるけど、少し前までの私は胃潰瘍の薬がないとそりゃあもうたいへんなことに。
胃潰瘍じゃないのに。やっぱ世の中ってちょっと変かも!





















最近はひょんなことから異国の地のストレンジャーとメールをしています。
受信箱に(1)と見つけた時の嬉しさは言葉にならなくて、その短い英文を何度も読んで呟いては、不思議な気持ちを噛み締めたり。

昨日まではその存在が私の世界ではないに等しかった人たちが、今日の私をいろんな気持ちにさせてくれる。



帰り道、ポケットからいつ貰ったのかわからない飴玉が出てきて、食べたら全然美味しくなかった。

狭い日常からの出口はそんなところにもポトリと落ちてる。





自分ってよくわからないくせに、そうそうこれよね、思い出した、みたいな気になるからまたおかしい。

私がわかってることなんて、本当は全然わかってない。
飛び込みたい気持ちと不安な気持ちがマーブル模様の津波になって押し寄せて、こんなに心細いことなんてそうそうないなって思うのに、どこかでわくわくして胸がジャンプし続ける。


ジャンプしてたらどこに行けるかなんてどうでもよくて、ただもうジャンプが楽しくて仕方なくて、にやにや転がり続けている日々です。





きっとあっという間に冬が来る。












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鈴の音

2015-08-19 17:12:15 | 思うこと



夏が勝手に来て、あっという間に過ぎていきます。




私の小さな夏休みは、先月までその声も知らなかった小さな子が鈴の鳴るような声で私の名前を歌ってくれて
いつの間にかお姉ちゃんになってしまったもうひとつの鈴と重なって、不思議で不思議で仕方ない時間をくれた。


賑やかに甘いものを食べてパジャマ姿でコーヒーを飲んでいたら、キッチンに立つ私の大切が前触れもなくふと、もう15年も前のある夏の記憶の話をし始めた。

それは私には当たり前に消えない夏の痕で、けれど無関係な彼女はとっくに忘れていたらいいなぁとずっと願っていた記憶でもあったから
まだそこにもあったんだねって思ったら、ありがたさと同時にやっぱり申し訳ない気持ちになった。

だけどこの申し訳ない気持ちをきっと愛とか幸せだとか呼んだりするんだろうと、コーヒーの丸くなった味の奥でぼんやり思った。





この曲を聴いていたら、そのそれぞれの記憶とか時間とか、15年前の私たちと今の二人が入り混じるような感覚とか、その間に起こった全部とか
あの時には想像もできなかったような小さな鈴たちが目に見えていることとか、私の脚に巻き付いてくる温度とか

彼女が毎年必ず、感心するほど必ず重ねてくれる言葉やメロディーがうわっと覆い被さってきて
にやにや笑いっぱなしの夏だったのに、今になって突然泣いた。




音楽は本当に凄いですね。しかしなんかこの曲凄いタッグだなぁ。。。




ハナレグミ / おあいこ








人の点と点が何気ない日々に突然歩いてきた交通事故みたいにぶつかって、そこへの意味や理由は全てが違っていて、自分のそれがどういうことかもわからなければ、誰にも説明なんてできるわけがなくて。

誰かはそれを気のせいとか間違いだとか、或いは気付きもせずに通り過ぎたりするんだろうし、別の誰かはそれを幸福だと言ってみたりする。


あまりにささやかに変化していく間違い探しのような日々は、絶対に戻らない一瞬で埋め尽くされていて、それってなんか凶器みたいなんだけど
そこで会ったあなたが今の私を確かに生かしているし、膨張した中身に張り裂けて、もうこれ以上は無理だと思わせたりもする。


膜の上から撫でている気になる呼吸は涙が混ざると焼け焦げたみたいに肺を痛くさせて


「あぁ、、生きているってこういう痛みを感じることなのか…」


と、馬鹿のひとつ覚えの感動に立ちすくむ。








この夏、たまにプールに行っていて、一月前には息切れしてしまって50mがやっとだったクロールが2時間泳げるようになりました。

こんなすぐ傍にも知らなかった自分がいる。
とても静かな気持ちになるし、会えて嬉しい。



今年の夏はびっくりするくらいに静かであっという間で、少し楽しくて、少しふつう。去年の5倍くらい笑っている。

ふつうの強さほど安心できるものはないのだなぁ、と感心します。そして、静かなものはやっぱり性に合っている。








すごく好き。













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願いごと

2015-06-09 00:27:18 | 日常



最近何が楽しい? とか、最近何に悩んでる? とか、お互いにポツリポツリ話しただけで凄く元気になれる。

なんだろう。友達って凄く不思議にうれしいものだ。







何かを 「大好きだ」 って思える感覚もそう多くはなくて貴重だけど、どうやら両想いであるらしい、と思えることも胸がくすくすするくらいにうれしい。

好きな人に真っ直ぐの気持ちで笑って会えることがどんなに贅沢なことかと思います。


両想いって自分一人じゃ成り立たないし、関係を繋いでいくには二人の努力と二人の向き合う決意が必ず必要になる。こればかりは一人分じゃどうにもできない。


「あなたの為なら努力できるよ」


と言ってもらえる幸福は、欲しいと思えば簡単に手に入るようなものじゃない。





ずーっとずーっと笑った顔だけ覚えていてほしい。

相変わらずかわいい彼女を見ながら、そんなことを思っていました。


そうしてずーっとずーっとこの子が笑っていられますように。

どうかずっと、できれば生涯、大きな悲しみから守られますように。



その為にも私もたくさん笑っていなきゃな! って思えた時間でした。


自分がうんと幸せでいて、お返しをしたい人が何人もいる。

幸せという名前じゃ呼べないときにも、その時の手触りを味わいたい。






「楽しいね」 って微笑み合って、同じ時間を生きていられる贅沢な幸福。



世界や人生をこの身体と心全部使って、もっとうんと愛したいな。

人やものの間にある世界を満たしている空気の分子みたいなものを、もっと見られるようになりたい。








なんか馬鹿みたいだ

2015-06-02 13:16:01 | 思うこと



最近、池田晶子さんの言葉が好きです。



池田さんの凄いところはやっぱりシンプルで言葉自体はわかりやすくて、私たちにも理解できるサイズに言葉を削ぎ落としてくれているところ。
だけどてのひらサイズのりんごみたいなその言葉を覗き込んだら、そこに世界がいくらでも広がっている。


彼女の生き様からしても、きっと頭がよくて哲学がよく理解できる人には邪道だとかいろいろ言いたくなる面があるのだろうとは思うのだけど、難しく思えることをポップにして多くの人が触れられるものにできる、それは凄い才能だしとてもかっこいい。

ジャンルに関係なく幅の広い音を出しているミュージシャンにも言えることだけど、難しいことはいくらでもできる人が出すシンプルな音にこそ肌が粟立つ感覚があることに通じている気がします。




池田さんの著書で一番好きになれそうな予感がする 「残酷人生論」 が今とても欲しいのだけど、小さな本屋さんには彼女の本自体あんまり置いていなくて、本屋さんに行く度にゆっくり探しています。

本ってあの実物を手に取ってパラパラめくって中を少し眺めて、そのサイズや重みを感じながら 「よし、買おう!」 と思うときがわりと一番 「私とあなたが出会った」 感があって幸せな瞬間なんじゃないかと思うので (それはきっと私が読書家ではないからだろうな 笑)、だからネットで本ってまだ買ったことがないのです。


本屋さんでお目当ての本を探しながら、結局それが見つかっても全然違う本を読み耽ったり連れて帰ってしまう楽しさも凄くしあわせ。










私にはこの足があるから、望むなら今すぐどこにだって行ける。

自分が今ここにいるのは、ただ私がここにいたいからでしかないのに。



何もいらなかった広さ故の狭さから抜け出して、さまざまな名前がくれる居場所の限りなく窮屈な幸福を手にした後に、そのことの意味を舌で転がす飴玉みたいにずっと確かめている。

その味が何かを知ることが目的なわけじゃなくて、だけど知りたくて確かめている時の存在やその舌触りを、繰り返し繰り返し確かめている。
確かめていることをただひたすらに確かめている。



何かになりたいとか、自分にできることは何もないとか、嘆いているのはその時を持つ苦しさから逃げたいだけの言い訳だ。
いつかそんな日が来たとしても、自分は何者でもないとその場所でだって必ず知ることはわかっているのに。それが唯一の希望なんだということも。

その苦しいばかりの真実を、カーテンの裏に隠しながらただ嘆いて見せていたいだけだ。

今手にあるものへの愛を口にしながら、だけど本当はそんなものただの揺れるカーテンでしかないって、そんなことは考えなくてもわかっている。



それはただそれぞれの時間でしかない。
自分じゃない誰かの、自分には永遠に触れ得ない誰かの、ただここにある時間そのもの。


嘆くだけ嘆いて、抱けるだけ抱いて、忘れないなんて未来に濁す余裕も捨てて、今ただこの飴の感触を確かめること以外に最初からここには何もない。

溶けていく飴玉のかなしい丸みやあどけなさに、涙するなんてもったいない。









葉擦れの音が私を迎えに来て、どこか遠い世界へさらっていく。



どこか、は、ここ。


世界のすべて。






願わくばここが、あなたも生きる世界でありますように。



ただの揺れるカーテンが眩しくて言葉にならなくて、だから、なんか馬鹿みたいだ。