今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

あきれたぼういずと川田義雄「楽しき南洋」を聴いて

2010-12-25 07:50:42 | その他
あきれたぼういずと川田義雄「楽しき南洋」
(オフノート/華宙舎 OK-1 2枚組全27曲 3500円)
監修:瀬川昌久、解説:瀬川昌久、佐藤利明ほか
http://diskunion.net/jp/ct/detail/IND6257

あきれたぼういず。
名前ぐらいは知っている。

グループで、ギターや何やら楽器を賑やかに演奏し、浪曲やら当時の人気曲を歌い、
言葉のやりとりやコミカルな演奏や替え歌、モノマネ、パロディ等、ありとあらゆる芸をぶち込んだ
ボーイズ芸を行った、伝説的存在。

メンバーも
川田晴久
・・・美空ひばりの師匠格、兄貴分で灘康次(モダンカンカン)の師匠。
♪地球の上に朝が来る~ その裏側は夜だった~

益田喜頓
・・・東宝ミュージカルの大番頭的存在で裏主役。
テレビドラマや映画でも活躍したベテラン名脇役。
随筆家としての顔もあった人。
函館出身でその後は半世紀以上浅草在住、晩年帰郷。

山茶花究
・・・「夫婦善哉」ほか東宝映画の名脇役で森繁劇団の副座長。
病床へ見舞いに訪れた森繁の手を掴んで一言「シゲちゃん、一緒に行こう」という逸話。
遺骨は高野山へと納められたらしい。

坊屋三郎
・・・TVCM「クイントリックス」の出演でも有名。
生涯現役でひとりボーイズ芸にこだわり、舞台に立ち続ける。
晩年はNHKドラマへも顔出しが多い。
清川虹子の後を追うように急逝。

と、知っていることだけ綴ってみた。
(記憶違い、認識違いがあるかもしれないが、その辺は御容赦を)
坊屋は、晩年のテレビ出演でクイントリックスCM(このCM、久世光彦のアルバイト演出だったそうだ)を再現している姿などをリアルタイムで触れることが出来た。
飄々としたトボケた感じが印象に残っている。
他の面子は後追いで映画やテレビドラマ、書籍で知った。

ただ、写真やそれに触れた文章等は目にしているが
"あきれたぼういず"を観たり聴いたことは無かった。
不思議なまでに縁が無かった。
いや違う、何となく食指が動かなかったのだ。
浪曲テイストという部分に引っかかっていたのだろうか・・・。

ところが最近、ふと、この新たに発売されたアルバムの存在を知って
「ジャケットも凝っているし、気合入れて作っているのではないか」
「初復刻音源多数!これはトンでもなく意義のある事では?」
と、ムクムクと持ち前の好奇心が頭をもたげ「欲しい!」
気がつけば手許にあった。

驚いた、腰を抜かした、目がテンになった。
何じゃこりゃ。

最初に
"言葉のやりとりやコミカルな演奏や替え歌、モノマネ等、ありとあらゆる芸をぶち込んだボーイズ芸"
と書いた。それも簡単な気持ちでサラッと。
これがいかに難しいことであるか、まともに考えていなかったことを反省。

これはプロの仕事だ、それも卓越したセンスの持ち主による・・・。
今日、ボーイズ芸を行う人が殆ど見受けられないのも納得。
出来ない。
音楽にある程度精通していて、演奏も出来て、笑いのセンスがあって、歌も得意。
それでいて、泥臭くない。スマートで都会的。

こんなことを平然とやってのける人たちがいたとは信じられない。
まして、日本で。
しかも、70年前に
さらに、レコードで。

「私は舞台の人間、ステージの人間」と公言。
スタジオ収録(レコード、ラジオ、CDほか)とナマ(観客の前で披露)
だとここまで違うか、というぐらい出来が違う人が、今も昔もいるが、このCDではそれが無い。
いや、実際のステージは観ることが叶わないから、そんなことを安易に断言してはいけないが充分すぎるほど、クオリティが高い。

「レコードという媒体で、笑わせよう・楽しませよう」
というしっかりとした考えが、おそらくあるのだろう。
聴いていて楽しいし、笑える、面白いのだ。

モノマネ、パロディの類は本当に面白いものであれば元ネタを知らなくても楽しめる。
そのことも判った。

演奏の質も極めて高い。
コミックな演奏もジャンジャンこなしている。
当時のレコード収録の技術だから、全て生演奏で一発収録。
それでこの出来。
もっとも、あきれたぼういずら本人たちが演奏していた可能性は少ないが・・・。
70年以上前の日本のミュージシャンたちの演奏レベル、決して低くなんかない。
古いが、新しい。

さらには解説書が、かなりしっかりした一読に値する立派な仕上がり。

歌詞(というより台本といった方がいいか)も、すべて聞き取り作業によって活字化。
やろうと思えば、ネタを再現できるのだ。
川田晴久(当時は川田義雄)の「踊る電話口」「声楽指南」なんて、一部ネタを現代向けに入れ替えるなりすれば
今でも立派に新作落語の古典として通用するのではないか?

1曲1曲詳しい解説も付いている。
佐藤利明の解説は小林旭、クレイジーキャッツ、日活映画関連・・・など、ありとあらゆるところでその名前を目にするが、どれも一定の質を保っている。
ここでの解説は特に気合いが入っており、もはや一冊の書籍として発売出来るレベルになっている。本領発揮という言葉が脳裏に浮かぶ。

あきれたぼういず及び川田晴久(義雄)系グループについて何も知らなくても、この解説書を読めば一丁前の知識が付く(と思う)。
ディスコグラフィーも掲載されていて、どの歌がどの復刻盤に収録されているかまで表で掲載。
かゆいところに手が届く。

CDの音質もしかり。
戦前・戦中・戦後のSP盤復刻音源が、ものによっては歌詞の聞き取りはおろか「ほぼノイズ」と言いたくなるような音質粗悪な状態のものもあることを知る身には驚きの高音質。
当時の録音技術の関係で一定以下の低い音は録音されなかった(出来なかった)という話が実証されている。

それにしても・・・。
今でもブッ飛んでいるよう聴こえる、この"あきれたぼういず"。
70年以上前に、人気グループだったとは、何だか信じがたい。
でも事実なのだし、こうやって音源が遺っている。
こういう忘れ去られた、埋もれている昭和の遺産は私が想像してる以上に多いのだろう。
その遺産が手軽にこうやって聴ける・・・。
まるで夢のようなCDアルバムだ。
しかもシリーズもので、今後もこういう埋もれた遺産をバンバン復刻していくという。
嘘のようだが、本当の話。
世の中、まだまだ捨てたものじゃない。

オフノート様及び関係者一同様、良いアルバムを有難う。

2010年12月16-17日 徹子の部屋・追悼特集

2010-12-13 17:00:43 | その他
国民的長寿トーク番組「徹子の部屋」の膨大なライブラリーの中から、今年亡くなった著名人の在りし日の出演VTRを放送しながら、故人を偲ぶ、年2回企画されている追悼特集が今週・木曜と金曜に放送されます。

今日は追悼番組という番組が地上波において、まったく放送されなくなり、多大なる功績を遺した人であってもまったくなされない哀しい事態が続いています。
今回の特集も、本来ならば、それぞれ単体で放送されてもしかるべき人なのですが、世知辛い世の中、放送されるだけで有難い、としなければならないのでしょう。

12月16日(木)放送分
池部良、石井好子、谷啓、つかこうへい

12月17日(金)放送分
小林桂樹、長岡輝子、南美江、パク・ヨンハ


放送時間:午後1:20~1:55。

http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

シャンソンの女王・石井好子を想う

2010-12-12 21:40:32 | その他


どういう訳か、いま無性に石井好子が知りたい、観たい、聴きたい。

私はずっと石井好子の歌が苦手だった。
あの音程をやや無視した歌い方がどうにも受け付けなかった。
高英男に惚れ込み、深緑夏代に唸りながら、どうにも石井好子だけは駄目。

ただ、その風貌からタダモノでは無い、傑物であることはわかっていた。
エッセイも何冊か持っている。
手許に残っていないものや図書館で借りて読んだものも含めれば10冊前後は目を通している。
それでも歌は受け入れられなかった。

いや、そうでは無い。
4年前、NHKホールのパリ祭へ行った際に聴いた「アンジェラスの鐘」
圧倒的貫禄、美しいステージング。
それは、それは見事なもので、彼女こそシャンソンの女王というべきだった。
音程がどうとか、声の伸びがどうとか、そんな問題は小さいものに感じた。
だが、隣で観ていたオヤジの舌打ちに
これは駄目なものなのだ、私の震えは間違いなのだ
と思ってしまった。
そして、記憶ごと封印してしまっていた。

なぜ、そんなことを思い出したか。
石井好子の死だ。

私は彼女の訃報を知り、嘘だ、と叫んだ。
不死鳥のような石井好子が2008年頃から体調を崩していたことは知っていた。
2009年のパリ祭で挨拶だけに登場した石井好子は、石井好子であったが
激痛に耐えながら、華麗に振舞っていることがカメラの上からはハッキリと読み取れた。

もう長くない・・・
そう思いながら、心のどこかで石井好子は復活を遂げる。
彼女はそういう人だという想いもあったのだ。
だから、嘘だ、と叫んでしまった。

苦手だ、と言いながら少しだけは映像が手許にあった。
若い頃の歌声も40曲前後は手許にあった。

茫然としながらも、歌声をまず聴いた。
若い頃の歌は、私にはまだ良いとは思えなかった。
シャンソン歌手として大々的に売り出す前の飛び切り若い頃の歌声は別だったが・・・。

そして、近年(晩年になってしまった)の石井の映像を観た。
私の不明を恥じた、何と素晴らしい歌声なのだろうか。
シャンソンというジャンルを超え、見事なまでの石井好子の世界がそこにあった。

トーク番組で話している内容も含羞がある。
高英男が名流婦人と石井のことを絶賛していたが、まったくだ。
上辺だけじゃない、建前ではない、真実の重みがそこにある。

そして、手許に残っているエッセイを読んだ。
今さらながら、サイン本を持っていたことに気付く。
やはり面白い、そして含羞がある、ユーモアがある、凄みがある・・・。

失ったものの大きさを感じてならなかった。

そして、改めて石井好子について知っていることを思い出していった。
あの独自の歌唱法は、フランスなど外国で活躍した際に身に着けた
外地向けの歌唱法であるということ。

一部では音痴といわれていたが、音大出身であり、元来堂々たる譜面通りの歌唱が出来る
人であったこと。

長く唄うために常に健康管理に気を配り、70前後から歌唱法を変えていたこと。

それまで知ってはいたが、肯定材料に到らなかったことがすべて肯定材料へとなっていった。

何という傑物だったのだろうか・・・。

そして先日、石井好子を特集した10分番組がNHKで放送されているのを観た。
10分で足りるような人ではないが、比較的よくまとまっていた。
番組でオランピア劇場での公演の様子が放送された。

脳天を直撃するような歌声だった。
気品と貫禄に満ちた姿に私はまたも言葉を失ってしまった・・・。

こんな素晴らしい歌い手がいたのか。
やっと出た言葉はこれだった。

叶うならば、もう一度石井好子の舞台をじっくりと観たい。
遺された、かつての舞台の映像を観たい。

数年前には判らないことでも今ならば理解できることがいっぱいあるはず・・・。

そんなことを日々思っている。

高英男の「オペラ座のダンサー」

2010-12-04 18:59:01 | 高英男
私は高英男(シャンソン歌手)が好きで、好きで、生涯追い続けたいと思っています。
また、それに値するだけの方だとも・・・。

その高英男さんの歌で、絶賛されているレパートリーのひとつに「オペラ座のダンサー」という歌があります。

舞台が命、華麗に翔んで回ることにすべてを懸けていた天才ダンサー。
ある日もっと高く翔ぼうとして、倒れた。
もう翔ぶことは出来ない。
それまで惜しまぬ拍手を与えていた人たちは消え、新聞の切り抜きだけが残った。

ある日、もっと高く翔ぼうとした彼は屋根の上から飛び立ち・・・果てた。
人はオペラ座を通るとき、幻の中に踊っている彼の姿を見ることだろう・・・

(注:私的概要につき、正しい訳ではありません)

いつだったか、他のシャンソン歌手が歌うのを見たことがありますが、別段心に残る作品では無かったのですが、果たして高さんが調理するとどうなるのか。
歌い終え、舞台に倒れ落ちる演出もあると知り、なおのこと・・・どうしても観て聴いてみたい高さんの1曲でした。

それが先日、機会があって「第39回パリ祭(2002年)」の映像を見るチャンスがあり、観ていたところ、ステージに高さんが、まるでヨーロッパの老芸人のような雰囲気と姿で登場し、この歌を歌っていたのです。

実に素晴らしく、想像を遙かに超えた舞台がそこにありました。



高英男、当時82歳。
「歌っている」というものではなく、歌と歌い手が一体化した、歌を超えたものになっているのです。高英男の世界、というのでしょうか。
高さんならではの解釈、長く真摯に歌い続けたものでも達することが難しいのではないか、と感じました。これが年輪・・・いや、神がかり的なものすら感じました。

でも、決して枯れてはいないのです。
ロウソクの炎・・・そんな妖しさが脳裏に浮かびました。

高さんという人は年齢によって、歌の印象がドンドン変わっていく人で、50代の頃の歌と70代の歌は同じ歌でも、まったく違う歌のように聴こえるのです。
50代ならではの歌、70代だから歌える歌と・・・。

これは80代に達したからこそ歌える歌、といえるでしょう。
勿論、60代のときに歌ったオペラ座、70代のときに歌ったオペラ座も素晴らしかったと思うのです。ですが、この82歳の絶唱もまた素晴らしいものでした。

もうひとつ感じるのが、高さんが何より舞台に立って歌うことを愛していたこと。
表情のひとつひとつから、単なる愛想では無い、心底・・・の想いが見て取れました

歌というものは不思議です。
声がよく出ている、音程が正確・・・そういう歌が人の心に必ずしも響くわけでは無いのです。
老いというものを逆手に取り、その状態でベストな歌を届ける・・・。
かつて「歌い手に必要なものは技術。自分の力を見極めて忠実に努力すること」と高さんは発言していますが、その言葉が当てはまる、このステージ。

芸人・高英男、ここに在り。
叫びたくなります。

生のステージでこの歌を観たかった。チャンスが巡って来なかったのが残念です。

1980年代以降の高さんの歌声はソフト化されていない。
(2000年放送の30分番組が限定販売されていたらしいのですが現在はそれも完売している様子)

・・・これは実に勿体無いことだと思います。
60代、70代、80代・・・の高さんの歌声もまた素晴らしいものであるだけに、パリ祭の絶唱などを集めて、アルバムを作ってもらえれば多少音質に難はあれども、どれだけ素晴らしく、意義のあることだろうとしみじみ思います。

「オペラ座のダンサー」、ソフト化を強く希望します。
叶わぬ夢・・・なのでしょうか。

おしらせ

2008-02-22 22:22:16 | その他

本家をこちらへ移動致しました。

http://hakozsito.exblog.jp/

以後、更新は極力上記のブログで行いたいと思います。 このブログは今後避難用として使用します。

函館のシト


記念アルバム発売

2007-12-20 20:21:43 | その他

久々の更新ですね(大汗)


当ブログでも取り上げたことのある、歌手の三浦洸一さん。
本年めでたく歌手生活55周年を迎えられました。
(来年2008年にはレコードデビュー55周年であります)

それを祝し、ビクター創立70年記念行事の一環として、本年12月27日に2枚組のCDアルバムが発売されることに相成りました。

本当にめでたい、素晴らしい事です。
(本来ならば、当の昔に行われていなければいけないことではありますが…)

そこで当ブログでもこのアルバムが少しでも多く皆様の御手許に行くことを祈って、何曲かご紹介したいと思います。

三浦洸一55周年記念アルバム
2007年12月27日発売
発売:ビクターエンターテインメント
VICL-62687~8(2枚組/全55曲+1)
価格:3800円

Disk1
1さすらいの恋唄
作詞:吉川静夫 作曲:吉田正
三浦洸一の記念すべきデビュー曲。
時折「デビュー曲は『落葉しぐれ』」と紹介されることがありますが誤り。
昭和28年5月発売。

2哀愁のガス燈
作詞:坂口淳 作曲:吉田正
第2弾シングル。
(三浦センセ本人も)よく言われる「第2弾が『落葉しぐれ』なんです」、コレ誤りです。
後のフランク永井を彷彿とさせる都会派ムード歌謡。
昭和28年6月発売。

3落葉しぐれ
作詞:吉川静夫 作曲:吉田正
第4弾シングル(第3弾は久慈あさみとのデュエットで「天城月夜」)
秋を代表する名曲で、三浦洸一の名を一躍広めた大ヒット曲。
昭和30年大晦日の第6回NHK紅白歌合戦に、この曲で初出場。
歌手の島倉千代子さんもこの曲が大のお気に入りで、レコード会社の壁を乗り越えて吹き込みやコンサートで1年間歌ったこともあるとか。
昭和28年9月発売。

6弁天小僧
歌舞伎「与話情浮名横櫛」(お富与三郎)を題材にして作られた「お富さん」(春日八郎)の空前の大ヒットを受け、ビクターでは歌舞伎「青砥稿花紅彩画」(白波五人男)を題材にしたこの歌「弁天小僧」を発売。
柳の下にドジョウはまだおり、見事に大ヒットとなりました。
この時期、当時の人気芸能雑誌「明星」のグラビア企画で弁天小僧に扮した三浦さん。このことは忘れられないと、よくテレビ等で語っています。

8あゝダムの町
作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正
黒部ダムの建設作業員を歌った1曲。
前奏・間奏部分にある"ジャジャジャーン"という音、これは「ダムでの工事の音を何とか表現したい」という、作曲した吉田正の希望でグランドピアノの弦を叩いて出した音だとか。グランドピアノをダメにした甲斐があって、この歌は見事ヒット。
黒部ダムの作業員も好んで愛唱していたという話も聞きます。
昭和32年4月発売。

12踊子(朝日放送版)
13踊子

三浦洸一のヒット曲中のヒット曲。
古巣のビクターに復帰後、ヒットがなかなか出ないのを見かねた吉田正が「あなたには才能がある。僕のところの歌手でよかったらあなたの曲をドンドン歌わせなさい」
と一言。その、吉田門下生による渡久地メロディを吹き込んだ第一弾がこの唄でした。独特のメロディに、伊豆の踊子を題材にした美しい詩、三浦洸一の端正な歌唱が相成って、現在まで残る名曲が誕生。三浦洸一の代名詞ともいえる曲となりました。朝日放送「ホームソング」として発表後、レコード化。今回はその朝日放送で流れていた音源も収録。ワカッテル人の仕事です。
昭和32年発売。

20釧路の駅でさようなら
作詞:吉川静夫 作曲:豊田一雄
片面はフランク永井「こいさんのラブコール」、両面見事に大ヒットとなりました。
1番の歌詞に"挽歌の街ににじむころ"というものがありますが、これは当時のベストセラー小説「挽歌」(原田康子)が釧路を背景に描かれたことから、こういう歌詞となりました。
国鉄(JR)・釧路駅ホームでは、昭和33年から平成2年までの長きに渡って三浦さんの歌声が列車の出発時に流れていたことも知られています。
なお平成18年からは、「釧路湿原」のヒットで、釧路とは縁深い歌手・水森かおりの歌声で復活し、流れています。
昭和33年7月発売。

Disk2
6桜の園
作詞:喜志邦三 作曲:大野正雄
朝日放送「ホームソング」の1曲。
「春の唄」「踊子」などの作詞でも知られる詩人・喜志邦三の筆による詩は
格調高く、文芸歌謡の三浦洸一ならではの名曲。
放送で流れたのは昭和34年、レコード化は翌35年。

21悲しみの季節
作詞:福本義人 作曲:松本薫
昭和40年代前半の懐メロブームで、三浦さんにもお呼びの声が多数。
そんな中、当時流行のカレッジ・フォークに挑戦したのがこの曲でした。
三浦洸一の持ち味がカレッジフォークのメロディにマッチした佳作です。

22ちぎれ雲
作詞:荒木とよひさ 作曲:吉田正
三浦洸一歌手生活30年記念曲。
この歌を引っさげて、全国寺院巡りキャンペーンをしたことも当時話題に。
なぜ寺院かと言いますと、三浦さんは寺院の子であることからです。
流行歌の歌い手の場合、全盛期以後の歌は顧みられることが大変少ないので
この復刻は本当に嬉しく、有意義なモノだと思います。
昭和57年発売。

23孤独の椅子
作詞:吉川静夫 作曲:吉田正
2007年現在では、最後のシングル曲です。
昭和62年発売。


懐かしの女優さん・その1

2007-08-08 17:02:20 | その他

私の好きな女優さんに武智豊子さんという方がいます。

ガラガラ声でチャキチャキした、小柄のお婆さん。一度観たら忘れられないインパクトを持った、味のある名脇役でした。

 ところが、です。本当に沢山のテレビ/映画などに出演しているのにも関わらず、ネットでまったく情報が無い!

これは、イカーン(By笠智衆) という訳でアレコレ調べてみました。


武智豊子(武知杜代子)
1908~85年
本名:細江ふじ(旧姓:阿久津)

明治41年8月25日生まれ。
下谷で生まれ育った、チャキチャキの江戸っ子。
関東大震災で下谷高女を中退して、大正14年、曾我廼家五九郎一座に入座し、浅草で初舞台。

その後、ムーランルージュ新宿座などを経て、エノケン(榎本健一)一座に移り、人気が爆発。
その人気は凄まじく、東京六大学に「武智豊子親衛隊」(つまりオッカケ団体です)が発足したほど。また、女エノケンとも称され、一時は自分の一座を持っていた。

昭和9年には「エノケンの青春酔虎伝」(PCL、現・東宝)で映画デビュー。以後150本以上の映画に出演している。

テレビにも積極的に出演し、代表作は「お笑い三人組」「チロリン村とくるみの木」「怪獣ブースカ」「忍者ハットリ君」などがある。また「無敵超人ザンボット3」では声優にも挑戦し、好評を博している。


昭和46年には、左卜全「老人と子供のポルカ」に対抗して、上田吉二郎とのデュエット曲「上吉・豊子のハレンチ・アモーレ」を発表。この曲はカルト・コミックソングとして現在も愛好するものは多く、CD化もされている・

昭和52年には姓名判断で武知杜代子に改名した。
翌年、心筋梗塞で3ヶ月入院してからは大事をとり、冬の仕事は断り休養するようになったもの、「仕事で死ねたら本望」が口ぐせでコンスタントにテレビ・ラジオ・映画・舞台に出演していたが、昭和60年7月14日、仕事先の北海道・釧路空港で心臓発作のために倒れ、入院。当初は1週間程度の入院で済むはずだったが、同18日に容態が急変、心不全のため死去。享年76。

最後の仕事は、NHK特集「The Day その日~1995年日本(4)~ 旅路~あなたの老後はだれがみる~」で、同年9月2日に遺作として放送された。

私生活では、昭和6年にレコードディレクター・細江徳二氏と結婚し、二女を儲けるが37年に死別。地続きの家で、次女家族と共に暮らしていた。
晩年は孫と遊ぶのが楽しみの一つで、仕事の休みの合間に(長女家族が住む)テキサスまで孫、ひ孫の顔を見に行くこともよくあった。

喜劇人仲間からは「オッカサン」の愛称で親しまれた。

身長約150cm・体重32kgという小柄な体格で自動ドアの前に立っても開かないのが悩みのタネだった、トレードマークのガラガラ声は舞台でノドをつぶしてしまった産物だったというエピソードが残っている。



晩年自身を振り返り、こんなことを言っている。
「アタシャ運がいいんですよ。何の苦労もなく売れたもんね。警官の給料が35円のとき、300円貰ってたんだよ。千円の時もあったねえ。でも毎日柳橋で芸者遊びしたり、ダンスホールに通ったりして、いつも300円ぐらい借金があったよ」

この武智豊子という女喜劇役者に再びスポットが当たることを祈ってやみません。
武智さんについて、御存知の方、どんな小さいことでも構いませんので、御一報頂ければ幸いでございますm(__)m


御知らせ

2007-07-21 19:21:47 | その他

7月23日(月) NHK-BS2 PM7:45~8:32
蔵出しエンターテインメント「ビッグショー」は

"高英男 わが夢は雪の彼方に"

が放送されます。
高さんの歌う映像は、コレを見逃せば今度はいつ観る事ができるかわかりません
(最悪の場合、訃報の際にチラッとワイドショーで流れる『かも』という悲惨な事態も充分考えられます)

御興味のある方、ぜひ予約録画/視聴を!

シャンソン「ロマンス」から、日本のスタンダードソング「雪の降る町を」まで、たっぷり12曲を歌っているそうです。


NHKビッグショー 服部良一 栄光の旋律

2007-06-05 07:49:06 | その他

毎週、月曜7:45~8:30の時間にNHK-BSで再放送中の『ビッグショー』
詳しい事はウィキペディアを参考にして頂くとして・・・

6月4日の再放送は『服部良一 栄光の旋律』(1976年6月20日放送)
ということで、服部良一は勿論豪華な顔ぶれが服部メロディを披露していた。
その豪華出演者はというと・・・

・藤山一郎
・淡谷のり子
・高 英男
・木の実ナナ
・ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
・高松しげお&熊倉一雄&藤村有弘&宮本悦朗
・玉置宏(司会)
・服部克久(編曲担当)


以上の面々。ちなみに演奏は小野満とスウィング・ビーバーズ。
藤山センセや淡谷センセの動く姿は地上波だと、もうテレビ東京ぐらいでしかお目にかかれない気が…。
マイ・フェイバリット・シンガー&アクトレス/高英男さんなんて貴重も貴重。
アクトレスとしてだとゴケミドロでいつでもお逢いできますが(^^ゞ

曲目は
1雨のブルース(淡谷のり子)
2花の素顔~山のかなたに~丘は花ざかり(藤山一郎)
3落葉の巷/三人のスリの唄(高 英男)
4山寺の和尚さん(高松しげお&熊倉一雄&藤村有弘&宮本悦朗)
5東京ブギウギ(木の実ナナ)
6ホームラン・ブギ(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)
7夜のプラットホーム(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)
8夢去りぬ(高 英男)
~銀座カンカン娘(木の実ナナ)
 ~懐かしのボレロ(藤山一郎)
  ~銀座セレナーデ(藤山、ナナ、高)
9別れのブルース(淡谷のり子)
10青い山脈(全員)

3の歌は高英男さんのコンサート/リサイタルでは欠かせない1曲で、スリシリーズと称して、「一人のスリの歌」(三木鶏郎作詩・曲)など一緒に披露するとか…。
それにしても、あのアクションは越路吹雪「人生は過ぎ行く」も真っ青。

ちなみに高英男の回のビッグショーは奇跡的に現存している様子。
再放送が楽しみですねえ。

4の四人組は一体どういうキャスティングなんでしょうか(笑)
一応・・・宮本悦朗さんは元・クールファイブの、あのテカってる方です。
でも前川清と同い年

5、8の木の実ナナのはじけっぷりはさすが「ショーガール」であります。

6、7のダウン~、こういう試みは面白いです。なかなか観れるものでは無いですよね。撮影の仕方も凝っていて楽しめました。

ひとつ・・・気になったのはカンペ。
2のときの藤山センセと8の「夢去りぬ」を歌っている高さんはあきらかに手に何か持ってます。天下の藤山センセもこのことには甘いんですね(笑)

※今も昔も、歌い手は大ヒット曲でも無いと歌詞を覚えていないというのは変わらないようです、最近は舞台上にあるモニターに歌詞が出ます)

フィナーレの合唱ですが
藤山、ナナ、高さんの歌声が響く、響く(^^ゞ
藤山センセは勿論マイクは胸の位置であります。
ちなみにマイクから遠い淡谷センセの歌声はどこからも聴こえて来ません。
それにしても、この合唱になると藤山センセは本当に水を得た魚状態ですね。
さすがは「上野最大の傑作」の異名は伊達ではありません。
当時65歳、まだまだ健在でありました。

視聴後、横で観ていた我が父は「死んだヤツばっかりじゃねえか」と暴言を吐いたが、故人は藤村有弘(82年没)、藤山一郎(93年没)、服部良一(93年没)、淡谷のり子(99年没)と四名。以外と(?)少ないです。

この『ビッグショー』の再放送は今年の1月から始まったのですが、私は住居の関係上(アンテナが建てられない)観る事が出来ず、今回からやっと観る事が叶いました。
森繁、藤浦洸、古賀政男、ディック・ミネ

ウィキペディア放送リストとNHKアーカイブス放送番組検索を照らし合わせてみると、欠落が非常に多い特に74~75年は殆ど現存していない・・・
完全に残っているのは79年(~3月)までという哀しい現実。
「テープは当時高価な上、複雑なな権利関係上、残すに残せなかったんだ。だからベテラン=保存 若手~中堅(当時)=使い回しという形にしたんだな」
と一瞬、私なんぞは思ってしまうが、どうも違う御様子。
何しろ春日八郎、三橋美智也、村田英雄、フランク永井の回が残っていない。
メインが複数回ある、ちあきなおみ、倍賞千恵子、岸洋子、由紀さおり、伊東ゆかり、藤圭子、布施明、堺正章、内山田洋とクール・ファイブ・・・といった面々は1本も残っていない。
本当に勿体無い、惜しい。

…とはいえ、闇の世界で歌手Cの回は出回っている噂は聞くし、他の歌い手でもファンの間で案外秘蔵している方は多い気がしないでも無く。
お持ちのファンの方、録画テープをお持ちでしたら、
どうぞNHKへ寄付をお願い致しますm(__)m


対談 コミック10年選手(フランキー堺 楠トシエ)

2007-02-09 17:38:43 | 昭和の名歌手たち


フ=フランキー
楠=楠トシエ

週刊明星(昭和36年11月12日号)
対談 コミック10年選手 フランキー堺・楠トシエ

水のんでリサイタル
フ:この間の、あなたのリサイタル。大成功でおめでとう。
楠:ありがとうございます。前の晩には、とうとう一睡もしなかったわ。
フ:どうして?
楠:ミュージカルの稽古で徹夜になっちゃったの。では本番いきましょうってのが、開演十五分前。「もうお客さん入ってますよ、早くしてください」なんて・・・(笑)
ですから、ごはんも食べずに、水を舞台のそでへおいといて、ハイ、つぎ、ハイ、なに、つぎ・・・・・・。頭もクシャクシャだけど、とにかく出りゃいいんだからって、それでやっちゃった。
フ:そんなだったの。たいへんだったなァ。
楠:水だけで一日もたせちゃったけど、人間て、意外ともつのね(笑)
フ:好評だったんでほんとよかった。
楠:まるでお子さまの集まり、会場のアナウンスが、「トイレは、廊下をつき当ってどちら・・・」なんてのばかり(笑)
でも満員で二千六百人の客席がぎっしり・・・・・・。切符が足りなかったんだから、嬉しかったわ。
フ:それは感激だよな。ところでビン(楠トシエのニックネーム)ちゃんは、もう何年になる?
楠:十年だわ。
フ:そうかおたがい、十年になるかね。ぼくがドラムをはじめたのが十八。そして映画を最初にとったのが昭和二十八年ですから・・・ね。
楠:もう、すごく撮ったでしょう?
フ:七十本くらいかな?
楠:七十本。じゃあ何から何でも分かっちゃうでしょう。自分が主役やってると、気持ちいいだろうな。そんなのやってみたいわ、チキショー(笑)
でも、あっという間ね、十年なんて・・・・・・。
そのわりに、苦しかったことは思い出せない。楽しかったことやうれしかったことばかり。人間がおめでたいせいかしら(笑)
フ:おたがいにね(笑)

ラッキーボーイ
楠:あたし、フランキーさんをはじめてみたときは、太鼓たたきながら、途中で「セ・シ・ボーン・・・・・・」なんてやってたわ。それがとても面白くって・・・・・・。
フ:とにかく、卒業試験の最中の日劇のステージに出てましたからね。昭和二十八年ですよ。
楠:へー、学校では、何やってたの?
フ:法学部。
楠:ホーガク?ヒエーッ(笑)間違わないでいったら、いまごろ何になってたかしら?
フ:だいぶ、ホーガク(方角)がちがっちゃったからね。ハハハ・・・・・・
楠:学校とお仕事じゃ大変でしょう。
フ:そのころから、カケモチやってた。試験と日劇のカケモチ(笑)
午前中に試験うけて、午後はステージで太鼓たたいてる。そして夜は試験勉強・・・・と使いわけてた。
楠:アルバイトとしても最高よね・
フ:そうだな、いちばん最初は学生の手慰みみたいだったけど、ゲイ・スターズに入ったとたんに、三万円の給料だから・・・・・・
楠:アーラ、すごいじゃない。
フ:それは基本の給料だから、ステージへ出ると、分けまえがつく。
楠:一流のバンドへ入ったから、幸せなのよ。あたしなんか、日劇へ出たとき、八百円だもの、日給が・・・・・・。憎いわね、まったく(笑)
フ:税務署のかた、いないでしょうね、ここには(笑)
そういう点ではたしかに恵まれていたね、ぼくは・・・・・。
楠:ドラムはいつから?
フ:その前、学校の演劇部にいたんですよ。十八ぐらいのとき。そのころ、芦原英了さんがやっている『白鳥の湖』の第一回公演に出たんだ。
楠:(スットン狂な声で)ハクチョー・・・(笑)
何やったのオ?
フ:お盆もって、赤いカツラつけて・・・・・・。廷臣ってわけさ、小牧さんと貝谷さんが合同でやったでしょう。
楠:あれ、見に行ったわ。
フ:ワルツやって、踊って疲れて、お酒でも飲もうってんで、パッパと呼びにくると、出ていくのが、あたし(笑)
[すましてお盆を捧げて、踊りながら近づくゼスチャーに、爆笑]
楠:それ、フィルムに撮っときたかったわねえ。
フ:ちょうどそのころ、友だちと、何となくドラムを叩いてみようかというんで、はじめちゃったのが、そもそも・・・・・・なんだ。
楠:それが、そもそも・・・・・・だから、ツイてたのね。
フ:たしかに、ラッキー・ボーイだったかもしれない。二十六年に卒業して、その翌年には『世界大戦争』を撮った松原宗恵監督が、いきなりぼくを主役にしてくれた。『青春ジャズ娘』・・・・・チエミちゃんと一緒ですよ。
楠:そして、いい奥さんをもらっちゃうし・・・・・・。確かにラッキーだわ(笑)

長女はワリが悪い
フ:おたくは、ムーランが最初でしたね。
楠:それがひどいものよ、あのころは。私なんか気が短いから、しょっちゅう、ケンカしてた。剣劇とストリップだから、アタマへきてたのよ。なにしろ「専門は?」と聞かれると「クラシックです、シューベルト」なんていってたときだから(笑)
フ:その前は何を。
楠:あたし、のど自慢学校の先生してたの・
フ:こりゃいいや(笑)
楠:ラジオの『のど自慢』が人気があったから、学校もはやっちゃってね。四百人くらい生徒がいたわ。そこの学校の先生が家に下宿してたもんだから、その先生の助手になったのが最初よ。
フ:ゴキゲンだね。
楠:なにせ、生徒は年上か同い年の人が多いから、遊ぶほうが多いわけ。だけど、だんだん、こんなことをやっていてもうだつが上がらないと思い出してね。
ところが、その年のクリスマス・イヴの日にボーナスと給料をぜんぶ、持ち逃げされちゃったのよ。泣くにも泣けないし、「チクショー、自分が舞台でうたったほうがいいや」と思って、ツテをさがしてムーランへ行ったのよ。
フ:学生にファンが多かったものね、あのころのムーランは。
楠:ちょうど訪ねて行った日に、歌い手が胃ケイレンかなにかで倒れちゃったのよ。そこで「あんた、なにが歌える?」「あたし、シューベルト」(笑)
フ:困ったろう、向うは・・・・・・。
楠:でも、なんかやれるだろうっていうから、『ヘイヘイ・ブギ』と『水色のワルツ』をピアノに合わせてやったら「イケるイケる」というので、そのまま寄ってたかって、タヌキみたいなお化粧されて(笑)、さっそく舞台へ出されちゃった。
フ:いつごろ?
楠:二十五年の五月だったわ。ところが間もなくポシャっちゃって、浅草へ流れて花月劇場。そこもポシャっちゃって、NHKのユーモア劇場に拾われたの。そのころ三木(鶏郎)さんと知り合って、あとずうっと因縁があるわけよ。
フ:日曜娯楽版がうけてたね。
楠:あのころ、はじめてほんとのコミック・ソングというものを知ったわ。そして、今度はコマーシャル・ソングでしょ。
フ:そういうものがやれるってことは、しっかりとした技術をもってるからですよ。勉強はどのようにやったの?
楠:独学よ。学校の先生は音楽学校へ行ったら・・・・・っていってくれたけど、あたしは洋服屋の娘でしょ。親が許してくれないのよ。お勤めして、お金を家へ入れろ・・・・・・ってわけ、けっきょく泣きの涙で、一晩バタバタやって、音楽学校へ行きたいって騒いだけれどやっぱりダメ。五人兄妹の長女だから諦めちゃった。
フ:そう、長女なの。ぼくも長男だ。
楠:わりがわるいわ、長女って(笑)

肌の感じが・・・・・・
フ:しかし、コマーシャル・ソングが当たるってことは、たいへんなことだよ。ちっちゃな赤ん坊みたいな子が、回らぬ舌で歌ってるもの。
楠:けっしていい加減には歌えないですね。
フ:あなたの聞いてると、ほんとは一生懸命なんだが、その一生懸命らしさが、やたら表へ出ていない。あのおおらかな感じって、いいですよ。すごくチャーミングだな。
楠:はじめは、コマ・ソンなんて、ちゃんとした歌い手がやるもんじゃない・・・・・なんて思っていましたけど、やってみれば大変なの。
フ:コマーシャル・ソングというのは、一種のコントですよ。長く書けば一篇のドラマになる内容を、短くたたみこむとコントになるように、コマーシャル・ソングも、内容をもっている。しかも同じ歌が、歌い手によってガラッと変わっちゃうんだ。あれは、人(にん)によるもんですよ、楠さんの人(にん)が、コマーシャル・ソングを当てさせたんだ。
楠:やっぱりヒットすると嬉しいわ、ひょっとすると、コマーシャル・ソングのおかげで、来年、外国へ行かないかって話がでてるの。
フ:そりゃいい。はじめて?
楠:あたしって、外国はぜんぜん。地方へもあまり行かないんです。ほとんど東京ばかりだから・・・・・・。行くときは、仕事を離れて遊んできたいわ。
フ:それがいいよ、ぜったい。
楠:フランキーさんなんか、モテるでしょう、あちらで・・・・・
フ:モテない、モテない(笑)
何しろ、「きみは、もっともティピカル(典型的)日本人である」なんていわれたもの。典型的な日本人の顔らしいな。目は吊り上ってるし、四角い顔して、鼻がアグラかいてから(笑)
楠:あたしなんか、どうかしら?
フ:アノネ(と、調子をつけて)あなたは、ブルターニュ、フランスの・・・。
楠:あら、フランス・・・・・・
フ:うん、肌の感じなんか・・・
楠:(派手に)ギャアーッ(悲鳴を上げ)だめよォ(笑)
フ:肌にさわったことはないけどさ(笑)、フランスのブルターニュ地方の女の子の感じ。可愛い感じだ、ホント・・・
楠:きょうは、いったい何の日。こんなこといわれたの、初めてだわ(笑)

お互いが愛し合って
フ:こんど、『南の島に雪が降る』と『世界大戦争』を撮り終ってから、ドイツで合作テレビを作ってきたけれど、いま世界の焦点になってる西ベルリンであちらの青年と話してみると、つきつめたところは、実に簡単なことなっちゃうんだよね。つまり、まず隣の人を愛していこう、ということなんだ、それ以外に世界の平和を保つ道はない。
そうして日本へ帰ってきてから『世界大戦争』を見たんですが、この仕事をさせてもらった意義を、しみじみと感じましたね。
ぼくたちが、今、いちばんやらなくてはならないことは、お互いが愛し合って、平和のために大きく叫ぶ・・・・・・こういうことを、もっと積極的にやらなければいけないってことですね。
楠:そうだわ、ほんとね。
フ:これからも、そういうテーマを、ぼくは一貫して仕事の上で表していきたいね。
楠:いったい、こんど戦争が起ったらどうなるんでしょう。逃げるったって逃げられないでしょうね。
フ:とにかく、みんなと一緒にいたいよ、一人でも多くの仲間と・・・。
どうせ死ぬなら、こういうふうに(手を大きく広げて肩を組むポーズ)みんな一緒に・・・・・・さ。
楠:一人ぼっちじゃ淋しいわ。このまえの戦争のときも、空襲なんかひどいとき、いつ死ぬか分からないと思って、肌着だけは、ぜったいにきれいにしていたわ。モンペはいて、真っ黒けな顔してたけど。
フ:そういうとき、いちばん考えることは、せっかく、いろんな仕事をやってきたのに、これがぜんぶ灰になるのかな、ということだね、おれが死んだあと、惜しいことをしたなと考えてくれる人が、ひとりもいなくなるなんて淋しいからな。
楠:それにつけても恋人がほしいな。恋人もなるべく多勢いたほうが、にぎやかでいいでしょうから・・・・・・(笑)

楠ビンちゃんの経歴はあまりよくわかっていないので、興味深かったです。
よくムーラン入りは24年と見かけますが、ここでは25年5月とハッキリ行ってますし。
浅草にもいたことがあるというのも初耳、のど自慢の先生というも・・・。