ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北

「外島保養院移転予定地」だった
大阪府(旧)泉北郡の地元からの発信

2017年1月28日(土)ハンセン病回復者の体験談を聞いて学ぶ・・和泉市人権文化センターへ

2016年12月08日 08時34分29秒 | 日記


ハンセン病回復者の
体験談から学ぶ
     平成29年(2017年)
[日 時]1月28日(土)午後2時~4時
[場 所]和泉市立人権文化センター3F会議室
[参加費]無料
[申 込]受付開始日:1月5日(水)
     方法:電話/FAX/メール/郵便/事務所にて
※事前申込みなしでも参加可能ですが、準備の都合上ご連絡いただければ幸いです。
※名前を明かしたくない場合は匿名や仮名でご連絡ください。

[内容]
◇「NO!と言える強い心をもつ~ハンセン病問題から学んだこと」
 中学生の作文を題材にした学習ビデオ上映
◇社会復帰した回復者の体験談
【協力】ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北

 平成13年(2001年)にハンセン病国賠訴訟で熊本地裁が、隔離政策等のハンセン病対策が「誤っていた」と判決しました。平成8年(1996年)に「らい予防法」が廃止されるまで、療養所への強制隔離収容が行われましたが、それを支えたのが患者情報を提供した地方自治体及び地域住民でした。ハンセン病問題は、病気への誤解、偏見にもとづく差別問題であり、行政責任とともに、私たちの人権問題として、問いかけています。
 社会復帰して生活しているハンセン病回復者に体験談をうかがい、ハンセン病問題の現在を学びます。


らい予防法廃止20年、国賠訴訟勝訴15年記念企画展「人間回復への道」に近藤さんの形見のハーモニカ展示

2016年10月10日 11時31分56秒 | 日記
11月26日まで
水~金曜日  10時~16時(入館は15時30分)
土曜日    13時~17時(入館は16時30分)
休館日   日、月、祝日、第4金曜日

「関西とハンセン病問題」コーナーに
ハーモニカ、近藤さんの著書、ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北のイベントビラ(近藤さんを迎えて)
青い鳥楽団のハーモニカ奏者伏見次男さんの形見のCD

※伏見さんは、昨年8月に亡くなり、園以外の方でお別れしたのは(三宅2人)
近藤さんの詩の中で「五郎ちゃん」で登場しています。
ペンネームは三重重三、『愛生』、『点字愛生』に多くの作品を残されています。
ふるさとと縁がなくなり、いや切って、どちらから読んでも三重のペンネーム
そこに、深いふるさとへの、家族への思いが秘められている
三重県の方々に伝えたいです。
「青い鳥楽団」のことを世に残したいと言われていました。
青い鳥楽団が演奏したテープがCDにされているのを戴いたので展示しています。
伏見さんのこと、五郎ちゃんのことを伝える人がいない。
少しでも伝えていきます(事務局:三宅美千子)
 

お知らせ『あきの蝶』、『ぼくのハ―モニカ』残部少しあります

2016年10月10日 11時19分26秒 | 日記
「青い鳥楽団」団長だった近藤宏一さんが2007年、スイスでウエルズリー・ベイリーを受賞された記念に、ずっと交流し、お世話になったお礼に
出版した詩集『あきの蝶』、近藤さんをふるさとにお迎えした頃に学校の教材として2004年に刊行した『ぼくのハーモニカ』(近藤宏一さんの半生)です。事務局で資料整理しましたら、ないと思い込んでいたものが少し出てきました。
近藤さんが11歳で大阪の高石市から長島愛生園に入所する時、お父さんが高島屋のバラの包み紙に包まれたハーモニカをそっとカバンに入れておいてくれました。それが彼の人生に深く関わったのです。今でも高島屋の包み紙を見るたびに近藤さんを思い出します。

赤坂台3丁の桜が満開・・桜まつり

2016年04月03日 19時59分13秒 | 日記
今日は、朝から曇りで朝日に映える桜を撮影できなかった
ここでは「福泉園」時代の桜が咲いている

老木の風格があり
太い幹にも新芽が花をつけている
生き続ける生命力
どんな人たちが眺めて来たのだろう
桜に癒された人たち
目をつむって思いをはせる

私がこの場所で知り合った関東の女性
お母さんは「福泉園」で
きっと桜を眺めて
別れた娘を思っただろう

自治会の方々が
ライトアップの準備中である

ここから遠くが見渡せる
望郷の丘(飛び地)はこの先だった

今年になってわかったこと
光明池工事をした中野組
福泉園建設にも関わったと
つい最近わかった
事務局:三宅

1月30日(土)「あん」上映会に協力しました・・・大成功!

2016年02月01日 13時04分27秒 | 日記
資料を150部用意されていたのに足りなくなったそうです。
過去にないほどの大入り満員のイベントでした。あんが如何に好評かわかります。
いつもは、大阪におられる回復者の方をお願いしてお話をお聞きするのに
今日は、交流もちつきの日です。
ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北のメンバーが解説しました。
2015年11月15日、堺市深井にある「ホンダ陶芸」の「可南つちびと展」のイベントライブに
助川ドリアンさんが来阪、個展会場を片づけてのライブでした。可南さんの個展で3度目のライブだったとか。
案内のはがきに『あん」』の作者とあったのですぐに申し込んだのです。
新旧取り混ぜた曲目に今回は「あん」についての語りと朗読。
汗と涙で道化師のお化粧もはげはげです。ライブ後にお話して『あん』にかわいい署名をいただきました。
しんどい立場の人に対するメッセージである詩を唄う。ギターの田村君上手でした。
「ハタ坊のおでん」は、印象的でした。
人生は、おでんのように○、△はあるけど×なない。生まれただけで○、生きているだけで○・・。
{クロコダイルの恋」を買い求めました。嫌われもののクロコダイルにも生きる意味がある!!
「あん」は、多磨全生園を訪ねたドリアンさんが入所者の森元美代治さんと3時間語ったのがきっかけと森元さんから聞いていました。
森元さんは、岡山県長島にあった岡山県立邑久高校新良田教室の一期生(入所者の運動の結果全国でただ一つ作られた高校)。
奈良の交流の家(むすび)で隔年ごとに同窓会をされるので大阪から水ナスもってお会いしに行った2014年5月24日に聞いていた話です。
かねてより交流のある多磨の佐々木松雄さんから「今ロケにきているよ」と映画化のプロセスを知らせてもらってきました。
2015年5月、ハンセン病市民学会で東京に行きましたらドリアンさんからメッセージが寄せられていました。
たしか、カンヌに行かれる時やったと思います。カンヌ映画祭のオープニングで上映されたのです。
この映画は、啓発映画ではありません。
しみじみ登場人物の徳江さんの心情が伝わり、涙してしまいます。
イオンが出資したのですね。私は泉南のイオンモールに見にいきました。
吉井徳江がめげずに進んでいくイメージは星塚敬愛園(鹿児島)の上野正子さんがモデル、社会に出ようと強く思っていた彼女。
上野さんの手記からヒントを得たそうです。
ネットワーク泉北でも有志で彼女を訪ねたことがあります。
彼女はあんではなくてサーターアンダーギーを一緒に揚げさせてくれました。



11月17日の 『朝日』「折々のことば」鷲田清一
「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちには、生きる意味があるのよ 元ハンセン病患者のセリフ」
ある時、ある場所から見つめている者がいるということが、世界を支えている。だれも見なかった、だれも聴かなかったら、世界がかくあるということも、世界が語るということもなかったのだから。命ある者の体験と語り、その一つ一つが世界の存在についての証言である。ドリアン助川原作。河瀬直美監督の映画「あん」から
ちょうど、15日にドリアンさんが朗読した言葉です。

今回、私は、二度目の観賞、よけいに伝わるものがありました。
ちょうど、韓国語の翻訳本がでたところです。
50カ国近くで上映されるのはあっぱれ!気持がいい!
              (三宅美千子・事務局)

2016年1月30日(土)助川ドリアン原作「あん」上映会があります

2015年12月06日 22時42分37秒 | 日記

やり残したことは、ありませんか?
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■映画「あん」
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たくさんの涙を越えて、生きていく意味を問いかける―


「私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。…だとすれば、何かにな
れなくても、私達には生きる意味があるのよ。」


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[日時]2016年1月30日(土)午後1時30分~4時
[場所]和泉市立人権文化センター1階大会議室
    ※参加無料、事前申込不要
[解説]ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北
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[物語]縁あってどら焼き屋「どら春」の雇われ店長として単調な日々をこなしてい
た千太郎(永瀬正敏)。そのお店の常連である中学生のワカナ(内田伽羅)。ある日、
その店の求人募集の貼り紙をみて、そこで働くことを懇願する一人の老女、徳江(樹
木希林)が現れ、どらやきの粒あん作りを任せることに。徳江の作った粒あんはあま
りに美味しく、みるみるうちに店は繁盛。しかし心ない噂が、彼らの運命を大きく変
えていく…
(c)映画『あん』製作委員会/COMME DES CINEMAS/TWENTY TWENTY VISION/MAM/
ZDF-ARTE/2015年/監督・脚本:川瀬直美/原作:ドリアン助川『あん』(ポプ
ラ社)


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[会場]ゆう・ゆうプラザ(和泉市立人権文化センター)
〒594-0023大阪府和泉市伯太町6-1-20
JR阪和線信太山駅から200M
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→詳細はダッシュまでお問い合わせください。
[URL]http://dash-npo.org
[電 話]0725-46-3809
[メール]antispamxinfo@dash-npo.org
※auntispamxを削って送信してください。
インフォ@ダッシュ・ハイフン・エヌ・ピー・オー・ドット・オー・アール・ジー


「青い鳥楽団」の五郎ちゃん逝く(8月16日)涙そうそう

2015年08月20日 14時49分35秒 | 日記
三宅洋介・美千子はお別れに行きました


近藤宏一さんを尊敬し
近藤宏一さんが大好きだった
五郎ちゃんは逝った
10月には納骨堂の前で
ハーモニカコンサートをしようと約束していたのに
もう逝かれた
もっと早く出会って
いろいろいっぱい
いっぱい聞きたかったことが多いの・・・に
五郎ちゃんも同じことを言ってくださった。
青い鳥楽団のことを後世に残したいと
五郎ちゃん

山陽新聞の「青い鳥楽団」連載も近いのに
優しい後見人さんが読んであげたいと
待っていたのに

五郎ちゃんはお通夜も
告別式もいらないと
遺言
私たち夫婦はお別れの対面
お別れに来てくださった介護員さんたち
愛されていたんやね


三重出身
故郷との縁を切って
生涯を療養所で生き抜いた
五郎ちゃん
近藤さんのおかげでいい人生やったと
語る五郎ちゃん
今頃近藤さんと出会い
ハーモニカ握っているかな

連れ合いは近藤宏一さんの形見のハーモニカ
10月にふきます。
五郎ちゃん
聴く側にまわってしまった。


近藤宏一さんの詩



五郎よ
君は暗い瞼のうらに波を描く
ドレミの波を描く
ドレミのミ ミファソのソ
ラミファレ ミドレシ ドミソ
ラミファレ ミドレシ ドミド
 音符の一つ一つはそれじたい点に過ぎないが
それらを一本の線によって繋ぎあわせ結びあわせるとき
それらは波となる
波は生きる 波は呼吸する
暗い瞼のうらにそれは美しい光をにじませる
そして仲間の波と重なり合い もつれあい
やがてそれは心のハーモニーとなる
大きく豊かな放物線の頂点には
はればれとした海のひろがりを
地を這う底辺にかぎりなく深い祈りを
五郎よ
君は波を描く
その波の中へおのれを没入させる
波のなかでほほえみを 泪をしるし
見えない目
萎えた足
萎えた手足
そんなときなんのつまらぬ自己が存在しようものか
五郎よ
君は波の中で生まれかわる

5月19日『毎日』に掲載された「外島保養院の歴史をのこす会」共同代表

2015年06月03日 19時39分58秒 | 日記
写真は、移転予定地に立つ「ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北」の三宅M

初代ネットワーク代表の森田さんが大阪市福島区に帰ってきました。
何かうれしいですね。
ハンセン病市民学会に参加した三宅Y,Mは東京で元青い鳥楽団のメンバーと久しぶりに交流しました。
近藤宏一さん、妹さんが作ってくれた絆を大切にしたいです。
5月には、山陽新聞が青い鳥楽団の取材に来阪しました。
近藤さんきょうだいの通った学校や生家跡を案内しました。

1月24日(土)黄光男さんの語りとコンサートへようこそ(14時~16時)

2015年01月05日 10時18分23秒 | 日記
引き裂かれた思いを歌に
ハンセン病回復者の家族の体験談から学ぶ


 黄光男さんの語りと歌


ビデオ「ハンセン病回復者は現在」上映


黄光男(ファン・カンナム)さんは1歳のときに母と姉がハンセン病を発病し
療養所に隔離され、本人も福祉施設で育ちました。隔離政策によって引き裂か
れたハンセン病患者(回復者)とその家族。黄さんはその経験から音楽によっ
てハンセン病問題の理解と解決をめざす活動を始められました。当日は体験談
をうかがい、歌も披露していただきます。

       2015年)
【日時】 1月24日(土)午後2時~4時
【場所】 和泉市立人権文化センター
(ゆう・ゆうプラザ)1階大会議室
<参加無料><事前申込不要>
和泉市立人権文化センターで行います。


閉じこめられた生命(いのち)  2014年2月
             詩・曲 黄光男
1、それはボクが一歳(ひとつ)の時だった
母は病にかかっただけなのに
その病が家族を引き裂いたんだ
それは「らい」という名の病

そしてボクが暮らし始めたのは
「孤児院」と言う名の新しい家族
みんな優しかった いい思い出ばかり
だけど本当の家族じゃなかった
 
 ※人を犠牲にしなければならい
  国があるとすれば
 それは人を人として認めない
  国でしかないだろう

※※閉じ込められて暮らした人たちは
それをみんな知っているんだ
殺すこともできない
生かすこともできない
閉じ込められた生命(いのち)


2、ボクが9歳(ここのつ)の時だった
初めて出会った 父さん母さん
初めて出会った姉さんたちと
これがホントの家族だったんだと

らい予防法という名の法律が
ボクらの家族を引き裂いたんだ
人を守るための  法律ではなく
国を守るための法律だったんだと
  
※くりかえし
※※くりかえし
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今日は「外島保養院80年忌法要」があり、午後に「外島保養院の歴史をのこす会」が創立しました

2014年09月26日 23時13分57秒 | 日記
午前11時より、中島2丁目の「外島保養院記念碑」前で、法要が行われました。
私は、「外島保養院の歴史をのこす会」として献花しました。

午後2時半から尼崎都アルカイックホテルで近畿・北陸など2府10県の個人・団体が参加して「外島保養院の歴史をのこす会」が立ち上げられました。
共同代表、各府県幹事など役員もきまり、11月8日の幹事会で動き出します。
外島保養院の移転問題を自分たちの地域の問題としてとらえ言い続けてきた「移転していたら犠牲者はなかった」とする私たちの地域の加害の問題。
負の歴史を伝えようとする私たちの地味な活動が初めて大きく取り上げられました。
記者会見もあり、そのような歴史認識や、故近藤宏一さんきょうだいとの交流を10年続けてきた経緯にも触れました。
帰りに人影のない薄暗くなった、記念碑前に立ち寄ってから湾岸線で帰宅しました。


共同代表に決まった 三宅美千子記す