青虫

2009-10-17 03:38:48 | 日記
働いている職場の屋上には、庭のような広場がある。
そこの周りには椅子が置いてあり、煙草を吸ったり雑談をしたりすることができようになっている。
15cmくらいの段差で不自然にならされた土とコンクリートは、本当は境目なんてないくせに、区切られている。
見える景色もビルばかりで空気さえも汚れているように感じた。


そんな救いようのない場所で煙草を吸っていたら、僕ら側に青虫が這っていた。
青虫の背中は秋の紅葉に擬態化したような美しい赤で、腹は春の瑞々しい葉のような青だった。
この生き物は元々這って進むようにできていると思っていたが、ぐいぐいっと筋肉を収縮させ二三回進むとコロッと横に回ってしまう。
進むのはあまり得意ではないらしい。
はてさてこの子はどこに行きたいのだろうか?
おそらく土のあるほう、木々の生えている場所に行きたいのだろう、と考えてみる。
しかし、そこに行くには15cmの段差を越えなくてはならない。
平地を進むのもままらないこの生き物がとても登れるとは思えない壁だ。
この子は誰かに踏みつぶされてしまうか、どこにも辿り着くことのないまま朽ちるだろう。
なにかやりきれない気持ちになる。
目的地と思われる土のほうに僕が運ぶことを考える。見えざる手。
でも、不自然な庭を作るための農薬が彼をまた殺すだろうと思いやめた。

行き場のない現状。
ユートピアだと思っている場所。
否定された未来。

この青虫に自分と社会と未来を見立てた僕は、きっともう駄目なのだろう。





恋は百色

2009-09-15 00:45:16 | 日記
新しいことを受け入れる余裕がないのか、本も全く読めず、聴きなれた音楽ばっかり。100sばっかり聴いてる時点であうあうでした。

まあ、そうゆうときもあるさ。きっと大切なことです。


スピッツとかミスチルが好きな人が懐かしいと言ってゆずを聴いちゃうような感覚(偏見でーす。どーもー。こんにちは、こんばんわ。)でさっきsinger songerの初花凛々を聴いた。
んで、歌詞見たら「百色の歌」って書いてある。

細野晴臣さんの「恋は桃色」!!

そーいや、百年を「ももとせ」って読む。

もしかしたらこの百色とかけているのかもしれない。と気づいて思わず、にんまり。
いや、ほんとのとこは知らんけど。
でもさ、そしたら、恋って色とりどりで素敵だなあ、と思えて少し幸せな気分になるじゃんすか。

ついでにこれまた勝手な想像だけど
百って昔の人にとってはほとんど無限に近いニュアンスで使われてたんじゃないかなあ。
昔の人にとって百年っていったら人の寿命を遥かに越えていて、そのくらい長い生きしたいっていう理想の数だったのかも、と考えたから。

そしたら、今度は恋は今までの道(今の自分全部って意味ね)と解釈できて面白い。


偏見くんが初めて出てきた記念すべき日記ですた。

女の子はかまってちゃんかな?
かわいい、かわいいよかまってちゃんと偏見くん!!

なんか疲れているみたいなのでおやすみなさい。
でも、ちょっと気に入ってしまったよ。

女の子~ノルウェーの森

2009-09-13 00:59:19 | 日記
こないだの日記(?)と同じアルバムのネタで大変恐縮なのですが、また100sで思ったことです。


先日、書いたdvdは世界のフラワーロードだったんだけど、その中の曲で「モノアイ」ってのがある。

この曲を聴いていて、「かわいいなあ。」「こんな女の子がいたらいいなのなあ。」なんて、気持ちの悪いこと思っていたわけです。
そういえば僕は昔っから、音楽の女の子に恋をしまっくていた。
曲自体はそんなにすきじゃなくても女の子としてその曲が好きっだったりとかいっぱいある。
たとえば、advantage lucyってバンドの「when i'm sleeping」だとか、
もっとまともな女の子だったら矢野顕子さんの「presto」って曲が凛としててかわいいなあとか。
逆にナンバーガールの「manga sick」みたいな子は嫌だなあとかとか。

で、そんな風に僕が思うのは、人が現実よりも想像にリアルを感じるからだと思う。
祭りは準備が一番楽しいというように、恋愛は片思いのときが一番幸せと思うように、人にとってのリアル(にしたいもの)ってのは想像(妄想)なのだと。
つまり理想的な恋愛は妄想にしかない。(あ、mannga sickだ。。まあいいや)

だから、いつか音楽のような女の子の恋愛を小説かなんかで書いてみたいなと思ったのです。


したら、村上春樹さんの「ノルウェーの森」!!思い出した。
ああ、と思った。
ノルウェーの森を村上さんは100%の恋愛小説と言っている。
そーいや、beatlesのほうの歌詞の中で彼女とsex出来なかった。(いろんな説があるようだが)

また、前のネタと少し被る。
プラトニックラブというのが日本は大好きらしいが、
あれはプラトンが恋人(男)とホテルに入ったが手を出さなかったというエピソードを聞いて誰か(誰だか忘れた。)「これこそがプラトニックラブだ。」といったらしい。
日本ではプラトニックラブ=理想的な恋愛とされている。

ともかく村上さんのノルウェーの森では、直子と僕がsexをしないことで理想的な恋愛に昇華した。


なるほどーって思ったのでした。ちゃんちゃん。





どうでもいいということ。

2009-09-05 01:09:06 | 日記
100sのアルバムにdvdの特典が付いてることに気づく。
最近、懐かしい曲を聞きまくってるのでちょっと興味を持った。

んで、見た。


そーいえば前に映画を一人で観に行ったとき、上映までの待ちの時間 本を忘れた僕は暇を持て余していたため音楽に集中することにした。
耳から入る言葉は満たされたけれど、目が暇だった。
そんとき思ったのが、五感の多くは目からの情報なわけで想像の多くも自然 ヴィジュアル的になる。
ならば自分の見ているものはなんだろう?と考えてみた。
視界を少し分解すると焦点の合っている場所と合っていない場所。
多くの場合焦点は人に合っている。
その時も知らない人がたくさん通っている中「かわいいな、あの子。」「面白そうなひとだな。」「趣味は合わないけど、こーゆう人と仲良くなれたら自分の幅が広がりそう。」などなど思い人を見ていた。
じゃあ、焦点の合っていない場所はどうなのかと考えると、多くの部分がそれなわけで。情報量としてどちらのほうが多いかと言われれば焦点外なわけです。
俯瞰的にみても人よりも圧倒的に無生物。
まあ、どちらを見るべきかはわからないけれど 少なくとも人以外の存在を無視するわけにはいかんと思ったわけです。
んで話は戻り、なぜ目が暇だったのかといえば視界の情報と自分の思考がコヒーレントではなっかたから。
つまり自分の問題だったわけです。
当り前のことを知るのにわざわざこんな遠回りをしたわけです。


僕は極度に記憶力がない。
ときどき本気で自分は軽度のアルツハイマーなのではないかと疑ってしまう。


そうそう。100sのdvd。

今日散歩をしているときなんだか疲れた気分になって馬鹿になりたいなあなんて思っているときにそのdvdを見つけた。
さっき話したように視界の多くは厳格な自然であり、穴ぼこ人間ではないわけです。
でも、多くの場合不完全さに人は惹かれる。それはコヒーレントだから?イメージ的には孔に電子が落ち込むほうが納得できるけど矛盾するな。まあいいや。

んで、そのdvdの内容は人ひと人なわけです。
つまりくっだらなくて安心してしまう。くだらないのは大好物です。


思ったことはたくさんあったはずなのにもう忘れている。
覚えているのはサージェント・ペーパズ・ロンリー・ハーツ・クラブとアビイロードのオマージュだなくらい。あとは横断歩道にも意味がたくさんあるなとか。人の歴史だとか。モノアイってカメラのことかとか。断片的。

ちょっと思い出してきた。

街に凝縮された人々をみて希望なんかないよ、と思っている自分に、希望はここにあるといわんばかりの映像。
結局、希望はあるかどうかわからないものなので、「ある」としても「ない」としてもどちらでもよい。
なぜなら結果を知ることはないからだ。


それでも僕が希望はないと信じることにしたのには多少なりとも根拠がある。
希望と夢や目的はよく混同される。言葉は誘発されるから。
たとえば希望、願い、目的、予想と連鎖したとしたとする。
んで、完全な予測は少なくとも今は不可能なので予想は否定されることがある。
言葉の連鎖は可逆と考えると予想の否定は希望は否定となり落胆するだろう。
希望=予想でないに関わらず。
ならば希望がなくても ま、いいかと思うのです。
それで「ま、いいか」の大切さ知る。

んで、「ま、いいか」は「馬鹿なこと」と自分の中で繋がり、人になり、さっきのdvdになり希望の矛盾となる。でも、まあいいか。



話はまたまた変わり、そのdvdを見る直前 馬鹿なことしたいと考えていたその瞬間に悪友から電話がかかってきていた。
かけ直してみると「今から大阪に行こうぜ」とか意味不明なことをほざいてた。
夜中の11時過ぎですよ?
でも、馬鹿なことしたい気分の僕は、明日仕事にも関わらず、行く気満々になった。
近くまできたらまた電話すると言われた。

したら、例のdvdを見ていたら電話に気付かず。
着信から20分後に電話すると、もう通り過ぎたとのこと。
ま、いいか。







IDEAを読んでて・・

2009-08-27 03:15:45 | 日記
IDEAという雑誌の336号を読んでて思ったこと。

初っ端から書こうとしていることから逸れるが、IDEAというスペルを見たとき「なるほど。アイデアってイデアのことか!」と思った。
イデアといえば、プラトンのイデア界。理想的世界。
想像的という意味では合致してるけど、今のアイデアのニュアンスとはかなり変わっているな。
ともあれ調べてみると、やはりアイデアの語源はプラトンのイデアらしい。


まあ、こんなことを書こうとしているわけではないので今度言及することにする。

んで、本題。
この本の後半に「来るべき マンガタイポグラフィ 研究のために」というコラムがある。
そこではマンガにおけるタイポグラフィの変遷などが論じられているのだけれど、
これがおもしろい。
前から、吹き出しの外によくある手書き風の文字を見て「うまいなあ」と思っていたが、吹き出し内の文字もすごいですがな。
マンガは一つのコマの中にダイアローグとモノローグが存在することが多々あるので、それぞれ区別するためにフォントを変える必要があったのだろう。
でもそれだけじゃない。思っていたよりもマンガの中のタイポグラフィはアイデア満載だった。
例えば会話文ならアンチゴチ(もしくは明朝体)、モノローグならタイポス(マンガのモノローグ文のために開発された書体らしい!)、ナレーションや強調語句にはゴシック体、電話音声を表現するためのスーシャB(斜体風にデザインされた写植書体)、等々。
時には一つの吹き出し内でもフォントを変えたり、場面にあったフォントを駆使し読者が気付かないくらい自然に伝えたいことを表現している。すごい!!!

で、これを読んでいるときに「小説ではなんでフォントがずっとかわらないのだろう」とふと思った。
そういえば昔読んだ「草の花」(福永 武彦著)では手紙の部分とリアルタイムの部分で書体が違ったな。
あまり覚えていないが手紙部分は少し細かった記憶がある。
こうやって区別しているのかあ、と思った。

昔は行間がある程度決まっていたのでどれもこれもけっこうぎっしりしていたが、今では緩和され装丁家によっては行間をかなり空ける。
昔でも行間を空けていた本もあったけど・・
たとえば、夏目漱石の「吾輩は猫である」(装丁:橋口五葉)は行間をふんだんに設けている上に、サイドの空白もかなりある。
当時はそれをみてどこの新聞社も「豪華本」と評したらしいが、今見ても旧かなづかいにも関わらず読みやすい。
行間をちゃんととることでルビがたくさんあっても(ほとんどの漢字にルビがついている)ごちゃごちゃしないし、ページをめくるテンポもよいからかな?
まあとにかく読みやすい。


話が逸れた。
んで、言いたいことは今は行間を十分にとることが許されているのだから、小説でも文字の書体や大きさをもっと大胆に変えて良いのではないか、と思ったわけです。
あと、経験上モノローグの多くの場合自分の中でしゃべってるのは一つではない。
複数の自分の思考やマンガのように会話と思考の同時表現だって、ルビができるんだからできるだろ。
小説において研究すべきとことはたくさんあるだろうけど、タイポグラフィこそを早急にすべきなんじゃないかな、と編集者でもなんでもない一般庶民が思ってしまったわけです。

長々と繋がりの乏しい話を書いてきたけど、そんだけです。

まあ、こんなことを言っている自分もこの文章を書いてて一回もフォントを変えてないのだけれど・・・


ついでに、フォントと書体って同じ意味の言葉をごっちゃに使ってしまってごめんさい。
もう直すのがめんどくさいのでそのままにしておきます。