犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

湯川秀樹著 『旅人』より その2

2014-10-10 23:20:09 | 読書感想文

p.131~

 物理学をやるようになってからも、私は仕事が順調にゆかない時など、しばしば絶望的な厭世観におそわれたことがある。ヨーロッパの理論物理学者で、自殺した人が何人もいることを知った。その気持はよく分るような気がした。しかし、私は自分が自殺したいとまで、思ったことはない。

 私の中には、人類に対する、社会に対する、あるいはその社会の構成分子であるところの家族や、知人や、若い研究者たちに対する、責任感がある。この責任感は、人間の空しさとか、社会が必然的に持っている矛盾に対する嫌悪とは、一応別個に存在するらしい。それは「ギブ・アンド・テイク」ではなしに、たとえ受け取るものはなくとも、与えなければならないという義務感のようなものである。

 科学に対する信頼によっても、しかし私の厭世観はとり除けなかったばかりか、むしろ反対に、科学的な自然観の中に、厭世観を裏づける、新しい要素さえ見出すことになった。けれども、そんな心理的な状況下でも私を支えて来たものは、自分の創造的活動の継続の可能性であった。もし、その源泉が枯渇したらどうなるか。私の手の内は、もう切り札を持たないカードの群れである。


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 「事故で亡くなった犠牲者にはどんな夢があった」というお涙頂戴のストーリーは、暗くて湿っぽい現実の行き止まりを打開する一番安易な方法ですが、この虚構の限界は簡単に見抜かれます。多くの犠牲者について、次々とストーリーが連発されると、その生命と死はただの情報となり、中身は軽くなるものと思います。

 この世の中の常として、光が当たるところは誰にも見えやすく、光が当たらないところは見えないものですが、今回の「明るいニュース」によって空気が一変したことは、人間の軽さを見るようで釈然としません。そろそろ悲惨なニュースには飽きてきた頃だったと、そこまで露骨に態度に表すのは下品なことだと思います。

 御嶽山の過酷な状況の中、行方不明者の捜索にあたっている方々は、地位も名誉も求めず使命感だけで現場に向かっているものと思います。この精神はノーベル賞よりも立派である等と言えば、小学生の道徳かと笑われるでしょうが、この逆説的な道徳の基礎が脆弱な社会の精神は、安っぽいものにならざるを得ないと思います。

湯川秀樹著 『旅人』より その1

2014-10-09 23:15:41 | 読書感想文

p.122~

 少年が、当然一度はつき当たるべき暗礁――人生とは何か? という問題を、私に向って提起した者は、たしかにトルストイだった。今では「人生論」の中に、何が書かれていたか、具体的には思い出すことも出来ない。改めて、読んで見ようとの思わない。が、私もまた考え始めたのである。「人生とは何か?」と。

 少年期のこのような思考の第一の段階は、人間には悩みがあると、気づくことである。次には、自分の心の中から、悩みをとりあげて見るようになる。意識的に自分の悩みをとりあげて見る時、その少年は自分の内部だけでなく、この世の中に、この世の中のありとあらゆる人の内部に、悩みのあることに気づいているのである。


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 今回の日本人3氏のノーベル物理学賞受賞について、文系人間の私には青色発光ダイオードの何たるかはチンプンカンプンですが、同じ日本人として誇らしく思います。また、例によって受賞者の謙虚なコメントにも唸らされますし、中村氏だけは歴代の受賞者と雰囲気が異なるのも面白いです。

 しかしながら、今回の「日本列島が歓喜に沸く」「お祭りムード」については、私はとにかく割り切れない思いが強いです。それは、前日までどのマスコミも御嶽山の噴火のニュースに多くの時間を割いていたのが、突如として消えてしまい、まるで犠牲者や行方不明者まで一挙に消えたような感じを受けたからです。

 テレビに映るコメンテーターの表情を見ると、御嶽山のニュースの時には厳しい表情を意図的に作っていたことや、「本当は明るいニュースのほうが楽でいい」という本音が垣間見えて、マスコミが作る世の中の空気は本当に軽くて残酷だと思います。暗いニュースは、今回はちょうど賞味期限切れだったという話です。

(続きます。)

京都・舞鶴高1殺害捜査検証

2014-08-16 23:34:31 | 国家・政治・刑罰

平成26年8月14日 京都新聞ニュース『状況証拠、なぜ崩壊 京都・舞鶴高1殺害捜査検証』より


 京都府舞鶴市で2008年5月、東舞鶴高浮島分校1年の小杉美穂さん=当時(15)=の遺体が見つかった事件で、殺人などの罪に問われた男性(65)の無罪が確定した。最高裁は「男性と被害者を見た」とする目撃証言など京都府警の積み重ねた状況証拠を否定した。なぜ立証は崩れたのか。当時の捜査員への追跡取材や記者の取材メモを基に捜査を検証した。

 ある捜査員は捜査時期が司法制度改革の過渡期だった点を指摘する。「昔は心証を得るため面割りの前に1枚だけ見せることもあった。証拠開示請求の仕組みが整ったからこそ、弁護側が証言の変遷に気付いた」。逮捕された男性は取り調べで美穂さんのポーチの色や形を詳述し、府警は「秘密の暴露」とみて状況証拠と据えた。しかし、最高裁は捜査員の誘導や示唆があったと判断した。

 府警幹部は、男性の取り調べを振り返り「供述の矛盾を突いて有罪に持ち込めると考えていた」と打ち明ける。弁護側は逮捕直後、取り調べの可視化を求めていた。別の幹部は「当時、否認事件は録音録画していなかった。裁判で誘導と認定されたことは厳粛に受け止めねばならない。ただ、誘導の有無を後に検証するために録音録画は必要だった」と話した。「やるべき捜査はやり尽くした」。そう語る捜査員は多い。だが司法は捜査に疑問を呈した。


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 現代の刑事司法のシステムにおいて、死者を除き論理的に考え得る最大の犠牲者は、「冤罪事件の被害者遺族」だと思います。これは、刑事裁判が被害者やその家族のために存在するのではなく、被害者は刑事裁判の当事者ではないことからの帰結です。自らの意思を差し挟める立場になく、かつ蚊帳の外に押し出され、自分の人生の全てが他者に翻弄されて狂わされるという意味で、システムが生み出した最大の犠牲者であることは明らかだと思います。

 冤罪事件において、その責任者や悪者を探す努力は徒労に終わるものと思います。誰も殊更に無実の者を陥れようと画策したわけではなく、捜査官が被告人に個人的に恨みがあったわけでもありません。それぞれが与えられた職務に取り組み、これを誠実に履行した末の合成の誤謬です。警察や検察、被告人や弁護人、裁判所にはそれぞれの立場や都合があり、論理があります。このぶつかり合いの部分が、冤罪事件の厳しい事後処理を生じさせています。

 これらに対して、裁判の当事者に含まれない「冤罪事件の被害者遺族」には、そもそも立場というものがなく、都合も論理もなく、自由意思による選択の場面がありません。予めシステムで定められた他者に翻弄され続け、右往左往するだけです。そして、ひとたび「適正な裁判をお願いしたい」との希望を述べるや否や、「被害感情によって適正な裁判が損なわれてはならない」という論理が刑事司法の主宰者の側から飛んできます。これは、完全な見下しの視線です。

 そもそも民主主義における国民は、一人一人が法制度や社会制度のあり方を考え、疑問を持ち、勉強すべきものです。しかしながら、刑事司法制度が被害者に求めてきたことは、この国民の普遍的な権利の行使すら妨げ、「必要なのは心のケアである」として勉強や疑問を封じ、参政権に基づく社会運動を感情論であると断じ、愚民化政策と同根の視線を向けることでした。そうであれば、その蚊帳の外の者に対しては、最後まで責任を負うのが筋だと思います。

日航機事故から29年

2014-08-14 22:58:51 | 時間・生死・人生

平成26年8月13日 産経新聞ニュースより

 昭和60年、520人が死亡した日航ジャンボ機墜落事故から12日で29年となり、墜落現場となった群馬県上野村の御巣鷹の尾根では、遺族らが雨の中、慰霊登山に臨んだ。夜にはふもとの「慰霊の園」で追悼慰霊式が開かれ、関係者が犠牲者の冥福を祈った。

 日航によると、慰霊登山を行った遺族は前年より4家族52人少ない68家族226人。事故で義弟の加藤博幸さん=当時(21)=を亡くした小林邦夫さん(53)は「ここに来ると改めて命の大切さを痛感する。事故を語り継いでいかなければ」と話していた。

 慰霊登山に参加し、「昇魂之碑」に花を手向けた日航の植木義晴社長は「二度とこうした事故を起こさないと安全の誓いを報告した。8月12日は日本航空にとって安全の原点。社員全員で心を一つにして安全を守っていきたい」と述べた。


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 マレーシア航空機の消息不明と今回の撃墜事件、台湾のトランスアジア航空機の着陸失敗事故、アルジェリア航空機の墜落事故と続いていますが、それぞれの事故はそれ自体が絶対的な歴史的事実であり、その被害と運命も絶対的である以上、これらを比較することは無意味だと思います。一瞬はどの時間軸においても一瞬であり、この一瞬が永遠であることを想起すれば、何十年という時の経過について、何らかの感慨を生じることもあり得ないだろうと思います。

 私は臆病者ゆえに飛行機が苦手で、飛行機に搭乗して降りられなくなる瞬間を迎える度に、哲学的思考に襲われます。私は、自分の乗る飛行機は落ちないことにしていますが、このような心の持ちようは、全ての飛行機事故の乗客と同じです。寸分も違わないことが自分でわかっています。人間がすることに絶対はなく、安全神話は無意味であり、ひとたび乗ってしまったら終わりです。人間には未来のことはわからず、過去に戻ることもできません。瞬間が存在するだけです。

 私は確かに、自由意思によってその飛行機に乗りました。飛行機が苦手だという理由で出張を断るなど、この社会では通用しませんので、飛行機に乗ることを選んだ以上はある種の決断をしています。私は来週の今頃のことを考えながら、実は私には来週が存在しないかも知れないと気づいています。また、「この飛行機は落ちる気がする」と言って直前に搭乗をやめて実際に落ちなかったときの決まり悪さを恐れ、生命の重さという価値を確かに後回しにしています。

 私が乗った飛行機が落ちていないのは、単なる運です。この生身の生命が360度の空中の物体の中で浮いていること、その状況には絶対に抗えないこと、この物体に現に命を預けて命を握られていること、数時間前に戻れるなら何でもすること、助かるならば全財産を捨てても構わないこと、その唯一の願いが不可能であること、墜落直前の飛行機の中での人間の思考は、いかなる哲学者が研究室で考える論理よりも哲学的であると感じ、厳粛な気持ちになります。

裁判員裁判判決、最高裁で破棄 大阪寝屋川女児虐待事件

2014-08-01 22:16:18 | 国家・政治・刑罰

平成26年7月24日・25日 MSN産経ニュースより

 大阪府寝屋川市で平成22年、当時1歳の三女に暴行を加えて死亡させたとして傷害致死罪に問われ、いずれも検察側求刑(懲役10年)の1.5倍にあたる懲役15年とされた父親の岸本憲(31)と母親の美杏(32)両被告の上告審判決で、最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は24日、裁判員裁判による1審大阪地裁判決を支持した2審大阪高裁を破棄、憲被告に懲役10年、美杏被告に同8年を言い渡した。

 「量刑は直感によって決めれば良いのではない」。女児への傷害致死罪に問われた両親の上告審で、求刑の1.5倍の懲役15年とした裁判員裁判の結論を破棄した7月24日の最高裁判決。裁判長を務めた白木勇裁判官は補足意見で、評議の前提として量刑傾向の意義を裁判員に理解してもらう重要性を指摘し、「直感的」評議を戒めた。裁判員の「求刑超え」判決が増える中、厳罰化への一定の歯止めともなりそうだ。

 「1審の判決は感情的なものだとしか思えなかった。法律家としては見直されて当然だと思う」。判決後、岸本美杏被告の弁護人は、量刑を懲役15年から同8年に減刑した最高裁の判断をこう評価。別の弁護人も「市民感覚が反映されるのは想定の範囲内だが、量刑判断にあたって何の基準もないわけではない」と話した。


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 裁判員の責任と言えば、「人を裁くことの重さ」「被告人の人生を左右することの重さ」ばかりが強調されますが、これは法律実務家の鈍った感覚からの結論です。本当の重さは、被告人側のみではありません。この事件に即して言えば、1歳8ヶ月で一生を終えた女の子の人生の意味、その存在の重さがあります。これは、多数の事件の裁判を経て免疫の生じた法律実務家には、職業病として見えなくなってしまう部分です。

 人が社会人として世の中に出て、ひとたび組織の論理に従うようになれば、肩書き・役割・立場・建前といった束縛から自由に思考することは困難です。その意味で、今の時代、分別のある社会人が費用対効果やら予算の制約やらに捕われることなく「命とは何か」「罪とは何か」といった哲学的問題と真摯に向き合うことができる場面は、この裁判員制度がほとんど唯一のものなのではないかとの感を持ちます。

 裁判所がその責任において審査し、候補者の中から選んだ裁判員には、人格や倫理観への信頼が担保されているはずです。そして、この悲惨な事件を前にして、人間の欲望や業、さらには子供は親を選べないという不条理な真実をも含め、裁判員の方々は恐らく人生を賭けて悩み、考えに考え抜いて、求刑の1.5倍という決断を下したものと思います。このような決断は、生半可な覚悟でできるものではありません。

 もちろん、このような裁判員の決断は、従来の裁判のあり方や権威主義への批判を含むものです。しかしながら、このような視点自体が専門家の職業病からの一つの解釈であり、裁判員制度の意義を無にしてしまうものと思います。今回の最高裁判決が結果的に同じものだったとしても、裁判員の判断に「直感的」とのレッテル貼りをする裁判官の補足意見に対しては、最高裁の言葉はこの程度のものかと思います。

兵庫県の号泣県議

2014-07-29 22:30:24 | 実存・心理・宗教

平成26年7月24日 週刊朝日dot.より

 衝撃の号泣会見で渦中の人となった野々村竜太郎前兵庫県議(47)。一連の騒動を新聞やテレビが取り上げ、インターネットが“増幅装置”となって、いまやお祭り騒ぎの様相になっている。賛否はネット上だけでなく、話題性にあやかろうとする便乗商法にまで広がる。

 政治家をモチーフにしたユニークなお菓子の製造販売で知られる「大藤」(東京都荒川区)は「号泣饅頭」の構想を練りながら断念。同社の大久保俊男社長が言う。「パッケージは野々村氏の似顔絵で、饅頭に押す『59』(号泣)の焼き印を頼む段階までいったのですが、『兵庫県民の中には恥じ入る声もあり、それで商売をするのはどうか』と社内で反対の声があがり、発売に至りませんでした」。

 一方、時事ネタTシャツを専門に取り扱うアパレルメーカー「ジジ」(同武蔵野市)は会見直後の今月4日に「ヒステリック野々村Tシャツ」(税込み3132円)を発売。デザイナーの菊竹進氏によると、ぜひ商品化をとのリクエストが寄せられたという。「2週間で約250枚売れ、今年の売り上げナンバー1の小保方Tシャツに迫る勢い。ただ、西宮市民の方から励ましの電話がある一方、『品のないひどい商品だ』と苦情も届いています」。


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 野々村元県議は日本中を笑いの渦に巻き込んだ芸人のように言われ、一躍時の人に祭り上げられましたが、私は全く笑えませんでした。そうかと言って、彼の犯した不正に単純に怒ることもできず、具体的に判明した事実に心から呆れることもできません。本人の言動よりも、これを受け止める世の中の笑いの空気や、悪ふざけが過ぎる匿名の反応に対して、何となく薄ら寒いものを感じただけです。

 誰の心の中にも、狂気というものはあると思います。私の中でも、ある時には心の奥深くで息を潜め、ある時には爆発寸前で留まり、いつも狂気は存在しています。今回の号泣釈明会見について、心理学者が「意図的な演技である」と評論していましたが、科学の分析はこの程度なのかと思います。見栄も恥もなく、外面も取り繕わず、計算高くもない演技が存在し得るというのか、科学の分析は腑に落ちません。

 この情報化社会では、腹黒い人物や巨悪の狡猾さについて、国民レベルとして人々の目が肥えていると思います。そして、野々村元県議の政治家としての資質の点についても、世論の共通了解のようなものは成立していたと思います。私も仕事柄、本当に悪辣な人物を山のように見てきましたが、野々村県議は単なる世渡り下手であり、不器用さをこじらせた結果、狂気が顔を出した程度の話だと思います。

 実際に野々村元県議の会見の聞いてみても、「少子高齢化問題を解決すべき」等の内容は至って普通だと思います。選挙の投票日前日の候補者の絶叫演説と大差ないとも感じます。結局のところ、複雑なシステム下において大きな志は荒唐無稽に至りやすく、実務的な些事を軽視すると痛い目に遭うものの、些事が膨大に過ぎて人一人の人生が終わってしまう苛立ちがあり、私はそこに狂気の引き金を見ました。

北海道小樽市 ひき逃げ死亡事故 その2

2014-07-21 22:08:16 | 国家・政治・刑罰

平成26年7月20日 毎日新聞ニュースより

 北海道小樽市で女性4人が飲酒運転のレジャー用多目的車(RV)にひき逃げされ、3人が死亡、1人が重傷を負った事件から20日で1週間がたった。繰り返された飲酒ひき逃げ事故の悲劇。2003年に次男を亡くし、事故撲滅と厳罰化を求める運動に取り組んできた北海道江別市の主婦、高石洋子さん(52)は「またしても尊い命が失われた。海水浴場では運転前にアルコール検査するなどの対策を図るべきだ」と訴えている。

 高校1年だった高石さんの次男拓那(たくな)さん(当時16歳)は03年2月12日午前4時50分ごろ、新聞配達中にRVにひき逃げされ死亡した。道警の捜査で、運転していた男は飲酒していたことが判明したが、逃走後の逮捕だったためアルコールが検知されず、飲酒運転が立証されなかった。道交法違反(ひき逃げ)罪などで起訴された男の判決は、懲役4年の求刑に対し懲役2年10月だった。「人を車で殺害してなぜこんなに罪が軽いのか」。高石さんは絶望感に襲われた。

 法体系に疑問を抱いた高石さんは「飲酒・ひき逃げ事犯に厳罰を求める遺族・関係者全国連絡協議会」の共同代表に就任し、署名運動や講演に取り組んできた。運動が実を結び、客に酒を提供する行為も処罰対象となり、今年5月には悪質な運転の罰則を強化した「自動車運転処罰法」が施行された。危険運転致死傷罪の適用範囲も拡大。飲酒などの発覚を妨げる行為への罰則も盛り込まれた。しかし、悲劇は再び起きてしまった。

 「自分たちが活動を続け新法も施行されたのに、いまだに飲酒事故がなくならない。悲しくてしょうがない」と高石さんは肩を落とす。だが「軽い気持ちで飲酒運転をするドライバーは、突然、理不尽に家族を失うつらさを考えてほしい。今回の事故で失われた命と未来のために、飲酒事故の悲惨さを決して風化させてはならない」と力を込めた。


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(その1からの続きです。) 

 人の命の重さには右も左もありません。しかし、国家刑罰権を積極的に発動し、罰を重くする考え方は、リベラルな思想の対局に置かれます。そして、保守派による権力に対抗する単語は、「命を守れ」に決まっています。かくして、「命」という単語はリベラルな有識者の側に置かれ、これに対抗する者は「命」という単語を構造的に奪われ、厳罰派として右側に誘導されます。

 「厳罰化という言葉ではなく適正化と言ってほしい」との被害者からの真摯な訴えは、私もこれまで何十回も耳にしました。私も昔からそう思っています。しかし、この声がマスコミに届くことはなく、被害者遺族はあくまで厳罰を求め、冷静な有識者がこれを諌めるという構造は変わりません。ここでは、単語の印象を含めた一種の印象操作が行われているとの感を強くします。

 保守とリベラルの対立構造、国家権力と国民の人権との対立構造において、犯罪被害者は構造的な谷間に落ちています。リベラルな思想からすれば、厳罰の要求は右寄りですので、「命を守れ」と言われてもこれに与することができません。ゆえに、マイナスイメージのある「厳罰化」という単語をあえて使わなければならなくなります。これは、裏返しのステマのようなものです。

 遵法意識とは、正確に言えば「法律を守る意識」ではなく、「法律があろうとなかろうと自らの行為の結果を想像でき、結果的に法律を守っている意識」だと思います。そして、この逆の意識は逆の結果を生みます。マスコミには、「適正化」という単語が無理なのであれば、せめて「重罪化」に改めてほしいと思います。罰の厳しさではなく、命を奪う罪の重さが問題だからです。

北海道小樽市 ひき逃げ死亡事故 その1

2014-07-16 23:03:00 | 国家・政治・刑罰

平成26年7月14日 朝日新聞デジタルニュースより

 北海道小樽市銭函3丁目の市道で、女性4人がひき逃げされ死傷した事件で、小樽署は7月14日、札幌市西区発寒11条4丁目、飲食店従業員海津雅英容疑者(31)を道交法違反(ひき逃げ、酒気帯び運転)と自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死傷)の疑いで逮捕し、発表した。「酒を飲んで運転し、人をはねて逃走した」と容疑を認めているという。

 「朝からビーチにいた。ビーチで酒を飲んだ」。札幌近郊にある人気のビーチ近くで女性4人がひき逃げされ、3人が死亡し、1人が重傷を負った。北海道警小樽署が道交法違反(ひき逃げ)などの疑いで逮捕状を請求した札幌市の30代の男は、調べに対し、そう話しているという。現場は、最寄り駅や国道からビーチへ向かう狭い通り道だった。


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 「飲酒運転をしてはならない」ということは、法律の規定がいかなるものであろうと、人間ならば当然理解できるはずのことです。飲酒運転をしてはならないのは、当たり前ですが、法律で禁止されているからではなくて、事故を起こして人の命が奪われてしまうからです。この基本の部分は、法制度や社会政策を論じるうえで、いかに強調してもし過ぎることはないと思います。

 言葉は抽象的な概念を実体化し、構造を作ります。特に、マスコミで繰り返し述べられている言葉は、特定の意志を帯びて一人歩きせざるを得ません。「厳罰化」という単語がどのように一般化したかは定かではありませんが、この単語は「罪と罰」「法律要件と法律効果」のうちの後者にのみ言及されています。罪の軽重の話はそのままに、罰を重くするという意味を与えられます。

 罪の重さを語らずに罰の重さを語ることは、自らの行為そのものの善悪ではなく、行為の結果としての損得の論理に流れます。事故で人の命を奪う危険が高まるからではなく、法律で罰せられるから飲酒運転を控えるということです。この論理は、「ばれなければいい」「事故を起こさなければいい」という方向に必ず流れます。こうなると、何のための法律なのか論旨不明になります。

 そして、「厳罰化を求める被害者遺族」という報道のされ方は、すでに善悪ではなく損得の論理に覆われている場所では、特定の政治的主張であるとの解釈を受けざるを得なくなります。すなわち、事態は元に戻らないにもかかわらず、報復感情の充足としての復讐の欲求が語られているという解釈のされ方です。ここでは、「厳罰化」という用語の印象が非常に大きいと思います。

(続きます。)

池袋脱法ハーブ暴走事故

2014-07-08 21:27:10 | 国家・政治・刑罰

平成26年6月24日 MSN産経ニュースより

 6月24日午後8時前、東京都豊島区西池袋1丁目の路上で、乗用車が歩道に突っ込んで暴走し、歩行者を次々とはねた。警視庁池袋署によると、7人が負傷しそのうち20代の女性が死亡、女性2人、男性1人がそれぞれ重傷を負った。池袋署は同日、自動車運転処罰法違反(過失傷害)の疑いで、埼玉県吉川市高久の飲食店経営、名倉佳司容疑者(37)を現行犯逮捕した。

 池袋署によると、「脱法ハーブを吸ってすぐ後に車を運転して人をはねけがをさせたことに間違いありません」と容疑を認めている。同署は正常な運転ができない状態だったとみて詳しい経緯を調べる。車は歩道を数十メートル走行し、ポストをなぎ倒しながら人をはね、電話ボックスに衝突して停車した。近くの交番の警察官が駆け付けると、意識がもうろうとした状態だったという。


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 刑法理論において「合法・違法・脱法」の区別は最重要であり、脱法行為はあくまで違法ではありません。近代刑法の大原則である罪刑法定主義により、あらかじめ法で規制されていない薬物を使用しただけでは犯罪にならず、国民は国家権力による刑罰権の濫用に怯えることなく、安心して脱法ハーブ等の薬物を使うことが可能となります。これが刑法の自由保障機能の帰結でもあります。

 刑法の謙抑性の要請は、ある程度の数の被害者が発生することを黙認せざるを得ません。すなわち、社会全体にとってやむを得ない犠牲だということです。権力を監視すべき国民は、刑罰によって犯罪が抑止される点に安心するのではなく、脱法行為によっては逮捕・起訴されない点に安心すべきだという理論です。ここは国民の実感とずれており、かなり目線が高いと思います。

 「脱法ドラッグ」の名称は「危険ドラッグ」に変わるとのことですが、遅きに失したとは言え、意味のある施策だと思います。そもそも最初の名称が「脱法ハーブ」に収まっていたのは、法の網を巧妙に潜り抜けていることを明確にしてしまっており、刑法の自由保障機能が裏返っています。すなわち、一般庶民ではなく、法の抜け穴を意識的に探す者が相手方になっています。

 薬物犯罪はもとより「被害者なき犯罪」と称され、個人の愚行権・堕落の自由の保障の問題とも相まって、反権力の理論が強いところだと思います。ここでは、「被害者なき」と言いながら被害者が生じる可能性について、当然予期されつつ切り捨てられています。人の命が失われる可能性が当然予期されながら、それが黙認されたことにより、被害者は法に見殺しにされたのだと思います。

東京都議会のセクハラやじ問題

2014-07-01 23:36:17 | 言語・論理・構造

平成26年6月25日 MSN産経ニュースより

 東京都議会のセクハラやじ問題で、塩村文夏都議(35)が6月24日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で会見した。23日に鈴木章浩都議(51)=都議会自民党会派を離脱=が一部のやじを認めたものの、別のやじ発言者は不明のままで、このまま名乗り出ない場合、名誉毀損罪などで告訴する考えを示した。

 108人の外国メディアが出席した会見。その中で、男性ジャーナリストから名誉毀損罪や侮辱罪での告訴を考えているか問われ、塩村氏は「(発言者は)1人ではなかったので、名乗り出てきてほしい」とした上で「(法的対応を)排除はしない。最終手段と思っている」とし、名乗り出てこない場合には告訴も辞さない考えを示した。やじについては「早く結婚しろ」と発言した鈴木氏のほか、「子供を産めないのか」などがあったと指摘されている。


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 人が男女差別に敏感であるという場合、その敏感さには大きく分けて2種類のものがあると思います。その1つは、「人間は自分が生まれて来るときに人種も性別も選べない」という諦念から発するものであり、存在の謎の前には謙虚であらざるを得ないという確信から生じるものです。私自身は哲学的な思考の癖を持っていることもあり、この意味の差別については非常に敏感です。あらゆる差別は不条理であり、あってはならないと思っています。

 男女差別への敏感さのもう1つは、差別発言への敏感さです。この文脈では、「現代社会は女性の権利が侵害され続けており、男性全体の意識改革を要する」という主張をよく耳にします。私自身は男性ですので、このように言われると正直非常に苦しいです。男性に生まれてしまった者は、好むと好まざると女性を差別する地位に置かれており、ただ生きているだけで罪を犯しているという苦しさです。これは、単純な自責の念には収まりません。

 私はこれまでの就学先や職業柄、周囲には「女性の権利の尊重を標榜する男性」が数多くいました。私はその方々から「あなたは女性に対する人権感覚が鈍すぎる」「同じ男性として恥ずかしい」等との叱責を受けて、釈然としなかったことを覚えています。その先輩の論理が、あまりに「男性である自分を責める自虐の恍惚感」に満ちており、それが他の男性を責める正義感に転化していることに対し、宗教的な原罪の欺瞞性を感じたからでした。

 私は、第1の意味の差別に敏感ですので、「子供を作る・作らない」という議論自体にも違和感を覚えています。このような視点は親の側の一方的な論理であり、生まれてくる子供の側の論理をここまで無視できるのかと驚く気持ちが大きいからです。結局、差別や平等という概念を論じる時には、「人間は自分が生まれる時には何も選べない」という単純な真実から離れてしまえば、話は例によって政治的な主義主張で終わるのみだと思います。