ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

「ひろかずのブログ」終了

2021-10-24 10:53:17 |  ・コーヒーブレイク・余話

    「ひろかずのブログ」終了

 退職してから3年目の20066・14、下のような「ひろかずのブログ」第1号を発信しました。

 写真もない、そっけない短いブログでした。



 ・・・昼から、「ブログに挑戦してみよう(NHK)」を参考に、悪戦苦闘の末ブログを立ち上げました。よろしくお願いします。

 当面、「まち歩き」で、見たこと感じたことを投稿します。今日はその1です。・・・(創刊号より)

             ありがとうございました

 退職後、2年間は若い学生に交じり、ある大学で英語を勉強しました。

 3年目から目標が無くなりました。

 そのため、何となく始めたブログでした。

 でも、約15年も続けることができましたきました。

 その間たくさんの重なった記事も掲載しましたが、きのうで5671号になりました。

 そろそろ善意の押し付けを終わらねばなりません。

 今日のこの記事を最終号にします。



 「ひろかずのブログ」では、皆さんに地域の歴史を中心として、いろいろな話題を提供したというより、私の方が地域のことをいろいろ知ることができました。

 そして、この地域が大好きになりました。

 長い間、お付き合いくださいましてありがとうございました。お礼申し上げます。



 *急にやることがなくなると「ぼける」といいます。

 幸い、私の休眠中のブログ「ひろかずの日記」がありますので、それを利用して私の日記(生きた証)を短く記録することにします。当面は、フェイスブックを発信していますのでそれを転載します。またまた善意の押し付けです。

 *写真:荒井の浜風公園の夕日

 



 

コメント (7)
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加古川町旧鳩里村探検(60) 北在家(12) 鶴林寺の鐘楼

2021-10-23 12:41:58 | 加古川町(旧鳩里村)探検

       鶴林寺の鐘楼

 鶴林寺の朝鮮鐘の説明を、まずしなければならないのですが、尾上神社の朝鮮鐘からはじめます。

 世阿弥作の謡曲「高砂」に、「高砂の松の春風吹き暮れて、 尾の上の鐘も響くなり」と尾上の鐘を描いています。

 尾上神社(加古川市尾上町)の鐘がそれです。

 鐘の表面に飛天と楽器、上部には天蓋(てんがい)を浮き彫りにした珍しい朝鮮鐘です。

 この鐘には、顕宗二年(朝鮮の年号・1011)の銘があるので、尾上神社の鐘もこの頃、つまり朝鮮の高麗時代に作られたものと思われます。

 この鐘は、何時どのような経緯でもたらされたのかは分かっていません。

 また、現存する「朝鮮鐘」の多くは、鎌倉時代から南北朝期の「倭寇」の活躍した時代にもたらされたものといわれています。何時のころから尾上神社にあるのかも分かりません。

 朝鮮の高麗時代(日本の平安時代の中期から、南北朝時代にあたる)、仏教は政府に保護され大いに栄えました。

 しかし、次の李氏朝鮮の時代(南北朝時代から明治の中ごろまで)仏教は徹底して弾圧され、多くの寺院は破壊され、朝鮮鐘も潰されてしまいました。その結果、朝鮮鐘は、朝鮮でも数は少なく貴重なものになっています。

 兵庫県には、この珍しい朝鮮鐘が二つも伝わっています。

 もう一つは、鶴林寺の鐘です。

 鶴林寺の朝鮮鐘についての説明が少なくなってしまいましたが、尾上神社に比べて少し小ぶりで、模様はありません。

 この朝鮮鐘についても詳しいことは分かっていません。

 鐘楼は、応永14年(1407)の建立で、その後江戸時代に修理されていますが、形式は建設当時の形式を残してるそうです。(no5671

 *写真:鶴林寺の朝鮮鐘の鐘楼

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加古川町旧鳩里村探検(59) 北在家(11) 北在家「四つ堂」の阿弥陀如来

2021-10-22 11:10:20 | 加古川町(旧鳩里村)探検

   

    北在家「四つ堂」の阿弥陀如来

 集落の中心にお堂があります。

 「四つ堂」といいます。

 阿弥陀如来が祀られています。

 木造阿弥陀如来は、平成2年に市指定文化財に指定されました。

 このお像は緊迫を施し、定印を結ぶ座像です。

 優雅な相好、全体に針のある整った体躯。

 一部に残る美しい模様等が見られます。

 平安時代の藤原彫刻の典型的な面影をのこし、堂々としています。

 他の部分はかなり剥げ落ちが激しくなっています。頭部は後世に補修されています。

 座高137センチメートルの仏様です。

 今日の報告も『加古川街実記(山脇重弘著)』をお借りしました。(no5670

 *写真:平安時代の阿弥陀如来が安置されている「四つ堂」

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加古川町旧鳩里村探検(58) 北在家(10) 松野家の門前の稲荷社

2021-10-21 16:33:10 | 加古川町(旧鳩里村)探検

     松野家の門前の稲荷社

 松野家の前にいなり神社があります。

 説明がないので、近くの人も「どうしてここにあるのか?、そのいわれは?」等は、だんだん分からなくなっているようです。

 この稲荷社は、明治初期に鶴林寺にあった神社ですが、の神仏分離のためで、鶴林寺から移されることになりました。

 松野家が譲り受けて邸内に勧請していましたが、お参りする人が多いので塀を下げて神社が道に出るようにされました。 

 常夜灯に宝暦七年(1757)別府浦多木氏の石碑があります。(no5669

 *『加古川街実記(かこがわまちじっき)(山脇重弘)』より

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加古川町旧鳩里村探検(57) 北在家(9) 鶴林寺に残る秀吉の禁制札

2021-10-20 08:37:18 | 加古川町(旧鳩里村)探検

    鶴林寺に残る秀吉の禁制札

 時代は戦国時代の終わりの頃、天正6年(1578)です。

 東播磨地方が、信長・秀吉の支配に入るか、それとも中国地方に勢力を持つ毛利の勢力下に入るかを決する戦が、加古川地域で展開されました。

 当時、東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下でした。

 加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏のみが、秀吉方に味方していました。

 しかし、野口・神吉・高砂・志方城の結束は強く、三木方に味方したのです。

 秀吉は、勢力を持つ寺院等も調略しました。

 一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺にあります。内容は、次のようです。

        鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる

     軍勢が一般人に乱暴を働くこと

     陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること

     田畑を荒らすこと

     これらに違反するものは速やかに厳罰に処す

         天正六年三月二五日  筑前守(*秀吉のこと) 

 秀吉は、鶴林寺の調略に成功し、鶴林寺を攻撃しないことを約束しました。

 そして、四月・三木攻は野口城の戦闘から始まりました。

 結果、野口城、そして共に戦った教信寺は全焼し、寺そして宝物等のほとんどは焼失し、略奪にあいました。

 一方、鶴林寺は攻撃から守られ寺院および多くの宝物を今日に伝えています。(no5668

 

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加古川町旧鳩里村探検(56) 北在家(8) 高砂線野口駅

2021-10-19 08:23:52 | 加古川町(旧鳩里村)探検

   高砂線野口駅

 ・・・
 別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の月でした。
 現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線がありました。
 別府鉄道の主な役割は、別府にある多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。
 最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。
 しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。
 モータリゼーションの波で乗客は激減し、さらに同59年月、土山駅での貨物取り扱いの停止が決定的な打撃になり、高砂線と同じ昭和59年に、63年の歴史を閉じました。(no5667

 *写真:野口駅(電車が停車しているのが別府鉄道)

 列車とポプラの木の間に高圧線の鉄柱がありますね。そのあたりに現在の加古川市役所が建設されています。

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加古川町旧鳩里村探検(55) 北在家(7) 国鉄(現・JR)高砂線は北在家を走る

2021-10-18 07:35:58 | 加古川町(旧鳩里村)探検

       国鉄(現・JR)高砂線は北在家を走る

 私の小学校時代は、昭和20年代の最後の頃にあたります。

 その頃、夏には学校から高砂の浜へ海水浴に出かけました。

 高砂線は、子供の声であふれかえっていました。

 私にとって高砂線は、浜に続く思い出がつまった鉄道でした。

 高砂は戦前から多くの工場が進出し、高砂線はお客だけでなく、貨物も大いに利用されていました。

 高砂線は、大正3年播州鉄道高砂線として開通しましたが、経営難のため大正9年に播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年、国鉄に買収されました。

 昭和36年頃から、海岸は埋め立てられ、海水浴場は姿を消した。そして、急速なモータリゼーションによりアッという間に貨物・乗客とも急減しました。

 その後、膨大な赤字が重なり、高砂線は昭和59年10月30日廃止になり、線路跡の大部分は、道路として利用されています。

 加古川東岸の養田(加古川市尾上町養田)の山陽線と平行している場所に、線路跡が一部そのまま残っている。

 高砂線は、北在家を走り、鶴林寺の駅がありました。

 現在、鶴林寺公園の一角に機関車が保存されています。(no5666

 *写真:鶴林寺公園に保存されている機関車(夕日の中の機関車:きのう5時ごろ撮影)



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加古川町旧鳩里村探検(54) 北在家(6) 鶴林寺の建築と太子信仰

2021-10-17 08:18:15 | 加古川町(旧鳩里村)探検

       聖徳太子について

 英雄とか、天才とか、偉人とか呼ばれて、多くの人々の心をひきつけてやまない人物というものが、歴史上にはしばしなその名を刻んでいます。

 もちろん、その人物が実際その人が魅力あった人物であったかという実像の問題も重要ですが、それ以上に多くの人々から魅力ある人物像の出現が希求された結果として、後からつくられた「像」がままあります。

 このことにも目をむけなければなりません。

 聖徳太子もまた例外ではありません。

 今日まで、つづくその評価をおおく支えてきたものは、太子の没後大勢の人々から偉人の存在が求められて続けれられて歴史の集積であり、そうした人々の要求を承けて、新たな人物像が歴史の集積ではなかったでしょうか。

聖徳太子は「救世観音」であるというのも平安時代の人々により作り出された像の一つです。

 この時代は、律令制の崩壊の時期でした。社会構造が大きく変化した時代です。

 太子を霊験化することにより新たな存立基盤を迫られた僧侶の作り出した物と推測されます。

     鶴林寺の建築と太子信仰

 復習しておきます。

 鶴林寺は、四天王寺は、もっぱら学問であった方隆寺と異なり、鎮護国家としての役割の外に、悩める人々の救済を展開(実践)することに力を注いだ寺院でした。

 四天王寺は、もちろん聖徳太子の建立になる寺で、その救済事業は聖徳太子への信仰と重なります。

 特に鎌倉時代~室町時代は、あい次ぐ疫病と転変地異による混迷の時代でした。人々は、まさに、末法の世の到来のようでした。人々は救済を神・仏に求めました。

 このような状況下で四天王寺の救済のはたした役割は大きく、人々を救う聖徳太子と観音菩薩を重ねたとしても不思議ではありません。

 四天王寺と救済事業が重なる時、観音菩薩の化身として太子が救済者として歴史に登場しました。

 太子は、まさに救世観音(ぐぜかんのん)と偶像化されたのです。

 寺の中心として、当然のごとく「太子堂」が建立されました。

 時代は、鎌倉・室町時代へと続きます。中世(鎌倉・室町時代)は飢饉・戦乱・天変地異等の時代でした。

 人々は、ますます太子に救済を願いました。鶴林寺は、この地方の「太子信仰」の中心の寺となりました。

 当然、太子信仰に支えられた人々は、その浄財を鶴林寺に寄贈しました。

 鶴林寺には、すばらしい室町建築がたくさんありますが、これらは、太子信仰に支えられた浄財により建立されたのでしょう。(no5665

 *国宝:鶴林寺本堂

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加古川町旧鳩里村探検(53) 北在家(5) アイタタの観音さま

2021-10-16 06:44:25 | 加古川町(旧鳩里村)探検

 前号で「鶴林寺」の、聖観音いついて少しだけ紹介しましたが、『ふすさとの民話(加古川青年会議所)』で、「アイタタの観音さま」として知られているこの聖観音を紹介しされています。

 転載させていただきます。

       民話:アイタタの観音さま

 鶴林寺の観音堂に金色さんぜんと輝く観音様がおまつりしてありました。

 お身たけ1.1メートル、重量は105キロあって、そのお姿の神々しさと美しさは、お参りに来た人をひきつけずにおかないほどでした。

 それにもまして、この観音さまは閻浮檀金(えんぶだごん:注)の光を放つ黄金仏(おおごんぶつ)と言われていました。

 これを聞いたドロボウが、この仏さまを盗み出し、鋳つぶして売れば一辺に千万長者になれるだろうと悪い考えをおこし23人の仲間と共に、ひそかに観音堂に忍び込んで、まんまと盗み出しました。

 そこで見つからないように船に乗せて淡路島まで運び出し、七日七夜「タタラ」にかけて鋳つぶそうとしましたが、とうとうダメでした。

 そこでドロボウはたいへん腹をたてて、力まかせにハンマーで腰のあたりをなぐりつけると「アイタター !」と言われたのです。

 驚いた泥棒は、もの言うような仏さまは、どんな罰をあてるかもしれないと、大いに恐れをなして、もとどおり観音堂へ返しにきたと言われています。

 それから、誰云うとなく「アイタタの観音さま」と呼んで、一層親しまれるようになったということです。

 *(注)閻浮檀金:仏語で、閻浮樹の下にあるという金塊。または、閻浮樹の林を流れる川の底に産する砂金。また、広く、良質の金をいう。no5664

 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所文化研究委員会)

 *写真:アイタタ観音(インターネットより)

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加古川町旧鳩里村探検(52) 北在家(4) 鶴林寺の仏たち

2021-10-15 06:34:57 | 加古川町(旧鳩里村)探検

   鶴林寺の仏たち

 鶴林寺には、多くのすぐれた仏教彫刻が伝えられています。主な仏像を紹介しておきましょう。

 その中でも最古のものは「あいたた観音」(写真)の異名を持っている聖観音立像です。

 この観音様は、白鳳期(大化の改新~奈良時代以前)の貴重な仏様ですが、鶴林寺が白鳳期からあったという証拠にはなりません。

 いつの時代か、どこからか持ち込まれたと思われます。

 鶴林寺には、このほかに平安時代にさかのぼる次の諸像があります。

   ① 木造十一面観音立像(重文)  平安中期

   ② 木造釈迦三尊像(重文)    平安末期      

   ③ 木造四天王立像(重文)    平安末期

   ④ 木造阿弥陀如来坐像(県指定) 平安末期

   ⑤ 木造恵便法師坐像       平安末期

   ⑥ 木造菩薩像頭部        平安末期

 ②・③は太子堂本尊、④は常行堂本尊として祀られていました。

 藤原様式をしめす平安末期の諸像が多いのですが、これらの仏像こそ創建以来の諸尊であったと思われます。(no5663

  *『加古川市史(第一巻)』参照

  *写真:鶴林寺(法蔵館蔵)

 

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加古川町旧鳩里村探検(51) 北在家(3) 文献史料からみる鶴林寺

2021-10-14 06:50:19 | 加古川町(旧鳩里村)探検

    鶴林寺(3)

     文献史料からみる鶴林寺

 鶴林寺は国宝の本堂・太子堂をはじめとする文化財の宝庫であることはいうまでもありません。

 主要な建造物のほとんどすべてが国または県の文化財に指定されています。

 建築物以外でも、その種類が多種多様であることは驚きです。

 ところが、鶴林寺が伝えてきた文献史料は、古くても中世(鎌倉・室町時代)に遡るもので、その数も37点にすぎません。

 そして、鶴林寺文書には著しい特色があります。

 年代のもっとも古い文書は、鎌倉後期の文永五年(1268)の寄進状ですが、「縁起の伝える鶴林寺は聖徳太子建立」のことが出てきません。

 ふつうですと鶴林寺ほどの大寺院に伝わる文書では、皇室をはじめとする中央の貴族層か、将軍家か管領・守護クラスの上層武士層との結びつきが何かあるはずですが、鶴林寺文書にはそれを示す文書は全くありません。

 数の上で圧倒的に多いのは越生・梶原・菅野・舟橋・新野辺・長田など市の周辺部に本拠をもつ土豪武士たちによる寄進で、しかもその多くはそれほど広大な土地の寄進ではなく、せいぜい一段か二段という面積でした。

      鶴林寺・太子信仰により支えられた寺

 塩田浄観が寄進した、合計一町八反二十代と珍しく大きな寄進があるぐらいです。

 この塩田浄観は、印南郡の土豪と思われる人物です。

 鶴林寺に残る文書や建築物などから鶴林寺が最も栄えたのは鎌倉・室町時代と思われます。

 国宝の本堂も室町建築です。

 前回も述べたくように、鎌倉・室町時代は飢饉・天変地異、それにうち続く戦争の時代でした。

 この時代の人々は、観音の化身であるとする聖徳太子に救いを求めました。

 『加古のながれ』(加古川市史編さん室)もこの時期、一方で強訴・逃散、土一揆をおこすような人びとが大勢いたと同時に一方では塩田浄観のような富裕な豪族がいたが、鶴林寺は、主に多くの庶民の「聖徳太子信仰」によって強力に支えられていた寺院であったのではないかと石田善人博士の意見を紹介しています。(no5662

 *写真:国宝・鶴林寺本堂

 

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加古川町旧鳩里村探検(50) 北在家(2) 鶴林寺は四天王寺から勧請

2021-10-13 07:36:56 | 加古川町(旧鳩里村)探検

   鶴林寺(2)

    鶴林寺は四天王寺から勧請

 前号で「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と書きました。

 では、鶴林寺はいつ、だれが創建したのかということですが、これも『加古川市史(第一巻)』から一部を引用します。

 ・・・・

 鶴林寺は、もと「四天王寺聖霊院」と称し、養老二年(718)には身人部春則(むとべはるのり)が本願となって一大殿堂を建立し刀田山四天王寺と寺号を改めたと伝える。

 身人部は、播磨の在地土豪らしい。その時期を平安後期と推測している。

 その理由は、当時の伽藍配置が平安中期以降あらわれる天台寺院に共通している。・・・

 まとめます。

 ① 元の鶴林は、養老二年(718)、身人部春則が建立した。

 ② その殿堂を刀田山四天王寺と寺号とした。

 ③ 鶴林寺の伽藍配置は平安後期のものである。

 

 四天王寺について、少し思いきったことを書いてみます。

「歴史は、そこまで語っていない」といわれる方も多いと思うが、そんなことを想像します。

     四天王寺・救済事業・聖徳太子、そして太子信仰

 四天王寺は、もっぱら学問であった方隆寺と異なり、鎮護国家としての役割の外に、悩める人々の救済を展開(実践)することに力を注いだ寺院でした。

 四天王寺は、もちろん聖徳太子の建立になる寺で、その救済事業は聖徳太子への信仰と重なります。

 特に、承和年間(834848)は、あい次ぐ疫病と転変地異による混迷の時代でした。人々は、救済を神・仏に求めました。

 このような状況下で四天王寺の救済のはたした役割は大きいものでした。人々を救う聖徳太子と観音菩薩を重ねたとしても不思議ではありません。

「太子信仰」という場合、いろいろに解釈されますが、ここでは聖徳太子は観音の化身であり、貧しい者を救う仏であるとします。

 四天王寺と救済事業が重なる時、観音菩薩の化身として太子が救済者として歴史に登場しました。

 太子は、まさに救世観音(ぐぜかんのん)と偶像化されたのです。

 鶴林寺は、四天王寺から勧請された寺であったのです。

 寺の中心として、当然のごとく「太子堂」が建立されました。

 時代は、鎌倉・室町時代へと続きます。中世(鎌倉・室町時代)は飢饉・天変地異の時代であり戦乱の時代でした。

 人々は、ますます太子に救済を願いました。

 鶴林寺は、この地方の「太子信仰」の中心の寺となりました。(no5661

 *写真:兵庫県下で最も古い木造建築・鶴林寺太子堂

 

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加古川町旧鳩里村探検(49) 北在家(1) 鶴林寺は聖徳太子の創建ではない しかし・・・

2021-10-12 08:12:08 | 加古川町(旧鳩里村)探検

     鶴林寺(no1)・なぜ鳩里村? 

 復習です。

 明治221日に粟津村・木村・友沢村・稲屋村・北在家村・備後村等の村々が合併して加古郡鳩里村となりました。

 では、どうして鳩里村(きゅうりむら)という名称なのでしょう。

 これは、この地域に名刹、鶴林寺があったためです。

 鶴林寺は、「斑鳩寺(はんきゅうじ)」とも呼ばれていました。

 そのため「鳩」の一字をとって村の名称(鳩の里:鳩里)としました。

 その鳩里村も、大正4年3月20日、加古川町(かこがわちょう)に編入し、行政地名から消えていきました。

 そんな鳩里地区の歴史探検を鶴林寺から始めましょう。

       鶴林寺は聖徳太子の創建ではない しかし・・・

 旧鳩里村北在家は、鶴林寺について書くことを若干ためらっています。

 鶴林寺やその檀家の方、そして加古川市観光協会等から、お叱りが聞こえてきそうです。

 加古川市の歴史の一番よりどころは、『加古川市史』です。

 『加古川市史』で鶴林寺のか所を執筆されたのは神戸大学で長く教鞭をとられた(故)石田善人先生です。

 石田先生は、鶴林寺について『加古川市史』に「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と書いておられます。

 しかし、鎌倉時代以来、鶴林寺のはたした役割は、あまりにも大きかったことを最初に書いておきます。

  

以下の説明は『加古川市史』からの引用です。

・・・鶴林寺は、その縁起によれば用明天皇二年(587)聖徳太子が秦河勝に命じて、ここに三間の精舎を建立し、高麗の僧恵便(えべん)を住持せしめ、百済の日羅(にちら)も当寺に住んだと伝える(鶴林寺縁起)。 *用明天皇:聖徳太子の父

 「刀田山」という珍しい当寺の山号は、百済に帰国しょうとする日羅を聖徳太子が神通力で田に刀を林立させて妨げ、怖れをなした日羅に帰国を断念させたことによるという。 寺院の縁起にはあまり似つかわしくない説明をしている。

 用明天皇二年といえば聖徳太子は十五歳ばかりのころだから、幼児から聡明をもって聞こえた太子にしても、大和から遠いこの地(加古川)に伽藍を建立させたとは思えない。

 ・・・中略・・・

 現在の鶴林寺の寺域からは、飛鳥時代はおろか奈良時代にまで遡りえる古瓦は全く発見されていないが、このことは現在の寺域には奈良時代には寺院が存在しなかったことを示している。(『加古川市史・第一巻』より)(no5660

 *写真:鶴林寺山門

 

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加古川町旧鳩里村探検(48) 粟津(21) 粟津弥生遺跡(2)

2021-10-11 06:48:20 | 加古川町(旧鳩里村)探検

    粟津弥生遺跡(2)

     次回から北在家探検に

        出かけましょう

 

 「加古川町旧鳩里村粟津探検(no2)」で「粟津弥生遺跡」を紹介しました。

 少し復習をしておきます。

 この遺跡は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。

 調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。

 

 この遺跡を紹介して後、『粟津遺跡調査報告書』(2020:加古川市教育委員会)がインターネットにあることを知りました。

 場所は、「ひろかずのブログ・旧鳩里村粟津探検(no2)」で確かめてください。「報告書」には、調査地点の写真がありましたので、付け加えておきます。

      次回から「加古川町旧鳩里村北在家探検」をはじめます

  「粟津探検」は不十分でしたが、次回から「旧鳩里村北在家」を探検します。北在家の資料・昔の写真をおもちの方ぜひご一報ください。no5659

 *写真:粟津遺跡の発掘現場

     

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加古川町旧鳩里村探検(47) 粟津(20) 南粟津:加茂神社 

2021-10-10 06:13:11 | 加古川町(旧鳩里村)探検

       南粟津:加茂神社

 粟津地区の南部は加古川駅に近く便利な地域です。

 それに、加古川中央線(鶴林寺の北を走る東西の広い道路)が開通しました。

 農地は、住宅地、商業地と猛烈な勢いで都市化が進み、人口も増加し粟津は適切規模をこえるまでになりました。そして、粟津の南部は南粟津町内会を結成しました。

 そして、新しい町のシンボルとして、加茂神社を創設しました。

 加茂神社の説明の前に摂、境内社、境外社を整理しておきましょう。

   ◇摂社・末社◇

 現在は、摂社・末社に関する規定は特にありません。

 が、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社が最も高くそれに次いで摂社そして末社の順とされていました。

 そして、本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境内外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社といいます。

 

   加茂神社は、昭和57年に創設

 南粟津の加茂神社は、もともと粟津神社の境外摂社でしたが、昭和57年(1992)、南粟津町内会の人たちで社殿が増設され、玉垣が整備されました。

    祭神:別雷命(わけいかづちのみこと)

 鳥居をくぐって、正面が加茂神社であり、西側に「加茂神社跡」の石柱があります。

 この場所に加茂神社の元となった粟津神社の境内外摂社がありました。

 現在、加茂神社の境内社としては、太神宮が祀られています。「太神宮」は、伊勢の国に鎮座する神宮の祭神です。no5658

 *写真:南粟津加茂神社と加茂神社の元になった摂社の場所に建てられた碑

 

 

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