ヒロムミ・マイスターの修業時代

とどのつまり、私事の数々でございます。

出張に行って気づいたこと

2008-06-30 00:38:04 | Weblog
種子島まで出張で行ってきた。
昨年も行ってきれいな星空を見ることができた。
今年も梅雨の晴れ間で夜空はプラネタリウムのようになっていた。
昔から星を眺めることが好きだったので、今年も少しゆっくり見ようと考えいた。
しかし、実際に星空を見上げてみると腕がしびれ出す。
僕にとって見上げる運動は腕のしびれを誘発する格好となる。
これは非常にショックだった。
ゆっくり見上げて何となくぼーっとしようとしていたのに。

でも代わりにぼーっとできる場所を見つけた。
次の朝、誰もいない浜辺まで行った。
そこで、ゆっくりと海を眺めた。
なんだか落ち着いた。

時としてゆっくりと何かを眺めることが重要であることに気づいた。
また、できないことがあってもその代償があることにも気づいた。
夜空は寝ころんでみるしか方法がないけれど、落ち着く方法はほかにもあった。

『ちいさなちいさな王様』

2008-06-12 13:46:19 | 
最近読んでよかったと思う本、それが『ちいさなちいさな王様』です。
このほんの作者はアクセル・ハッケ、挿絵がミヒャエル・ゾーヴァです。
もともと、ミヒャエル・ゾーヴァの絵が好きでこの本を読みました。
ご存知の方も多いかもしれませんが、映画『アメリ』の中に出てくる絵やインテリアのデザインを担当したドイツの絵本作家です。
実際にこの中で描かれているゾーヴァの絵は非常に写実的、しかし、コミカルな感じが心をぐっととらえます。
それ以上に、ハッケの書く本の内容が現代において忘れかけていた何かを思い出させてくれます。

ちいさなちいさな王様は親指ほどしかなく、年を取るだけどんどん小さくなって行きます。
昔は大きかったそうです。
さらに、ものごころついた瞬間は大人であったそうです。
月日とともに体が小さくなっていき、さらに、記憶もどんどんなくなって行っているそうです。
しかし、彼は自分の人生を悲観していません。
むしろ、毎日を楽しんでおり、現実を受け止めています。
そのことを、主人公に切々と説いてくれます。
それが私たちにとって忘れていた何かであったように感じさせられるのです。

ほとんど絵本に近い本なのですが、内容は奥深く、読むに値する本であると思います。
子供がもう少し大きくなったら読み聞かせてあげようと思います。

しびれ

2008-05-18 00:16:34 | Weblog
著者近影


一ヶ月ほど前から左腕~手がしびれるようになった。
少しの間、気づかないふりをしていたのだが怖くなって先週受診した。
職業柄、レントゲンを読める人が周りに多いので、レントゲンをもらって帰り、見てもらった。
大変な問題はないのだけれども、慢性的に続きそうな様子。
キーボードを打つときにもっともしびれる。
なんだかミスタイピングが増えてきた感じもする。

しびれはけっこう不快だ。
痛みは不快要素が主の因子であり、感覚的なものをあまり気にしないという定義を持つ。
しびれの主体も不快のような気がする。
となると、痛みとしびれはカテゴリー的に近いのだろうか。
しびれが出ると支配領域に痛みも出る。
身をもって実感した。
いざ自分の症状として現れてからそんな風に思うようになった。

なにより、年をとった気分になった。

自己解釈では姿勢が悪いまま、PCに向かいすぎたのが悪いと思う。
改善策として姿勢矯正が可能なTシャツを買った。
近頃、スポーツ店で売っているパフォーマンス向上を目的とした製品である。
これが結構優れもので、ねらい通りの姿勢が作れる。
もう一枚買おうと思う。

以前に比べて、自分の身体症状に対して前向きである。
これも年の際なのか、あるいは学問の成果なのか?

「交通安全」、知覧にて

2008-04-26 20:57:53 | Weblog
かなり久しぶりの日記。

妻の実家(鹿児島県)へ帰省してきた。
折角鹿児島に足を踏み入れたのだから、知覧に行かなくてはと思い、実家の車を借りて知覧特攻平和会館を訪ねた。
大東亜戦争末期(あえてそう記載する)に特攻隊の出発基地があった場所である。

特攻平和会館の中を一通り見てまわった。
自衛官の団体と小学校・中学校の団体と一緒になったため混雑していた。
一般的な人は年配の人が多く、「感謝しないとならん」、「生きているだけでもいい」という台詞をどこそこで聞いた。
僕自身も目頭が熱くなり、色々な思いが交錯した。

大体見終わって、入り口付近にあるお土産売り場に行ってみた。
そこに売っていたもの「交通安全」と書かれた自動車用のお守りだった。
これには苦笑するしかなかった。
特攻用の飛行機にも付いていたのだろうか?
ひどく皮肉的で、かなりアホが入っているお土産をさすがに買うことが出来なかった。
かわりに零戦のキーホルダーを買った。

雌伏のとき

2008-01-26 23:46:26 | Weblog
人生にはぐっとこらえなくてはならないことがあるようだ。
挫折というわけではないが、自分の力では変更が効かない、また、その理由に納得がいかない。
さらに、信用していた人から裏切られ、あるいは軽んじられた瞬間、自分の中の何かが変化したのに気付いた。

詳しい内容を書くべきではないが、簡単にいうと昇進のことである。
全く疑いがなかった昇進が突然に断ち切れた。
その選択をしたのは最も信頼していた人だった。
この衝撃は僕の中の何かを変容させた。

自分が自分に課してきた課題は、職場の誰よりも厳しいもので、それを乗り越えてきた。
また、そのことを評価されていると思っていた。
誰にも文句を言わせないように、自分の状態を高めて行っていたつもりであった。
十分に満足できるとは言い切れない、でも、精一杯やったという満足感がある。
これは確かな実感であった。
しかし、突きつけられた現実は僕の解釈では「軽んじられた」というものに他ならない。
そう思うと怒りではなく、沸き起こる情動は失望であった。

そのような状態を自分自身で乗り越えるのは困難である。
今になって少し落ち着いて、省みると僕を慰めてくれた人がいる。
その人たちがいる限り、自分の存在価値があると感じた。
存在価値は自分の中にあるだけではなく、他者の中にもあるのだと強く感じた。
僕が認められなかった理由を忌憚なくぶつけてくれた。
そこでまた、自分自身の何かが変容するのを感じた。
この変容は僕の人生にとって重要な変化であると思う。
一言で、自分自身ですべてが乗り越えられるものではないということである。
人から慰められるとき、それはすべて同情であると思っていた。
自分はケアされていると思っていた。
しかし、それは違った。
僕の変容を望む、他者の意思であり、他者の中の僕の存在意義であった。
そのように感じることで、僕の作り上げてきた無駄な壁が崩れたように思える。

すべての現実を真正面から受け入れることはまだできない。
しかし、自らが変容していく姿を垣間見て、逆境を乗り越えようという前向きな自分を感じて、経験としては良い出来事であったと思える。
崩れ去ったライフプランは建て直しが必要だけれども、腐らずに、拗ねずに行動するのしかないと思う。

僕は一人ではないと実感できた数日だった。
雌伏のときである。
より深く力をためて大きく跳べる様に。
そう思わないとやってられないという本音となかなか前向きに考えられるようになったなぁと言う感慨とがせめぎ合っている。