働きアリは働き者である。イソップが仕立て上げた話はともかく、自分の体の何倍もあるエサを抱え、せっせと巣に運ぶアリを見て驚嘆した覚えのある者も少なくないだろう。勤勉であることを教え込む絶好の材料とされたのも無理はない。かつてそのような賞賛すべきアリを弄びその慎ましやかな暮らしに甚大なる災厄をもたらしたことを今になって悔いているのだが、ここで紹介したいのは、実は働きアリといえども怠け者もいるらしい、という話である。
すなわち、働きアリのなかで本当に熱心に働いている(?)のは20%にすぎず、60%はほどほど、残りの20%は遊んでいるというもので、これを「働きアリの法則」とも称するらしい。これだけでも興味を惹かずにいられない事実であるけれども、さらにこれを“真の”働きアリ集団とすべく、怠けアリを排除あるいは優秀なアリばかり集めてみるとどうなるか。結局、それでも上の比率(2 : 6 : 2)の集団になってしまったとのことだ。残念な結果ではあるものの、かつてあるプロ野球チームが金にものをいわせてスタープレイヤーばかり集めたにもかかわらず期待外れの成績に終わった、というのもこの類だったかもしれない。
ところで、これを教育の世界に当てはめてみると、連想される現象がある。たとえば、高い倍率を突破した優秀な学生ばかりであるはずの大学においても、その少なからぬ人数が落ちこぼれてしまう、というのはよく耳にするところだ。これは日本に限った話ではないらしく、米国のハーバード大学とハートウィックカレッジ(大学進学適性試験における数学の点数はハートウィックカレッジの上位3分の1の学生とハーバードの下位3分の1の学生とでほぼ同じ)の学位取得率を比較したところ、両者に差はみられなかったという。つまり、学位を取得し卒業できるか否かは、数学をはじめとする認知能力の高さよりも、クラス内の相対的な自分の順位と関係していた。卒業後の研究業績についても同様の結果が得られており、これらの事実は、人が自己評価を下す際、世界の人すべてとではなく身近な人間と比較する傾向があることを示しているのだという(クーリエジャポン 2014年8月号)。要するに、無理をして有名校に入ってもそこで自信をなくし成績が低迷するくらいなら、そこそこの学校でトップになったほうが自己肯定感を育むばかりでなくいい結果につながることもあるという話だ。古来、朱に交われば赤くなると言われ、孟母三遷の故事もことあるごとにもち出されてきたのだが、人が周囲の環境から受ける影響のされ方というのはどうやら一様ではないらしい。むしろ偉大な業績を上げたような人物はしばしば恵まれない環境に育っている。皆がうらやむような境遇に身を置くことができたからといって、それが本当に能力を活かせる場所とも限らないという、考えてみれば当たり前の話ではあるけれども、そのことを忘れて不合理な判断をしていないか、いちど振り返ってみるのも無駄ではないだろう。
とはいえ、学歴が人生を大きく左右すると信じられている社会であれば、少しでも“いい学校”に入れてあげたい、と思うのが親心だろう。小学校どころか、幼稚園受験さえあると聞いてばかばかしいと感じたとしても、将来の可能性を狭めてしまうかもしれないと思えば多少の無理はしてしまうのだ。いい大学を出なければ食べていけなくなると脅したりすかしたりしながらわが子をお勉強だ、お受験だと駆り立て、進学のために無駄なくお膳立てされた道を歩むことを強制する。結果として似たような境遇でものの感じ方も大きく違うところのないクラスメートばかりなら、同じ尺度で競争するにはうってつけである。背景の異なる人間の気持ちを推し量り多様な意見にも心を開く、あるいはその中から合意をつくり上げるという経験には乏しくなってしまうかもしれないが、それは質のそろった労働者を大量生産するうえで効率がよく、産業界からの要請にも応えるシステムであった。かくして子供たちは就職に有利な学歴をめざして試験に明け暮れる毎日を過ごすことになったのである。
ともすると、いわゆる「良い子」より、性格は悪くてもテストでいい点を取ることの方が世間で「勝ち組」として生きていくには大事だ、というしたり顔の現実主義が幅をきかせ、そんな風潮に追い詰められている親にすれば、薄っぺらな正論など唾棄すべきものとも映っているだろう。そこで抜け落ちてしまうものに気を配る余裕などあるはずもなく、ペーパーテストで測れるような国語や算数などの能力(認知能力)をいかに高めるかが最大の関心事であるに違いない。ところが、このところその風向きが変わり始めているようなのだ。その拠りどころになっているのは2000年にノーベル経済学賞を受賞した米シカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授をはじめとする「非認知能力」の役割を強調した研究である。この「非認知能力」とはたとえば、根気よさ、自制心、好奇心、良心、気概、自信、まじめさ、といったもので、心理学者が称するところのパーソナリティー特性と同じものだというから、気質、つまるところ“性格”といってもよいだろう。これが単に道徳的に望ましい、あるいは社会を安定的に維持するうえで期待される態度を決定づける、というだけではない。学歴、労働市場での成果(賃金など)、犯罪をも含む人生の結果に広く影響を与えるというのだ(ポール タフ 成功する子 失敗する子―何が「その後の人生」を決めるのか 英治出版 2013年)。
これまではただしつけの問題としてかたづけられがちであったかもしれない。しかしながら、IQや学力の高さだけが人生の成功をもたらすわけではないということがエビデンスとして語られるようになったいま、子どもにとって重要なのはいかに多くの情報を脳に詰め込むか、だけではなく(あるいはむしろ)、上述のような資質の発達をいかに支援することができるか、だろう。その形成には幼年期が重要であるとはいえ、その後も高めていくことは不可能ではなく、とくに職場で責任をもって働くことがその向上に役立つという。このことは研修医を含む人材育成においても示唆を与えてくれるのだ。
実際、臨床の世界も他の職業と同じように、ただ単に専門知識、技能が優れてさえいればそれでいいというわけにいかない。医療は患者・家族との良好な関係のうえに行なわれ、かつ、他の医師や多くの職種との連携が求められるからだ。ところが、そのような場面で欠かせないものは、小中学校から医師免許取得に至るまで幾度となく繰り返された試験ではほとんど問われることがなかった。結果として、これに関わる資質において問題を抱えた人間が混じっていることがあるようだ。これは自分のことを棚に上げるようでかなり居心地の悪い話になるけれども、アスペルガー的素因を持つ医師がまれではないと指摘されることもあるし、パーソナリティ障害の傾向があったとしても小さい頃から頭がよく、ちやほやされていたりすると歪んだ認知が修正されないまま大人になってしまう、ということもあるのかもしれない。
よって、臨床研修の目標の一つ、“医師としての人間性の涵養”は、ただ形式的に掲げられているものではないことがわかるだろう。居心地のいい研修医部屋に籠りきりで、知識の吸収に専念していれば済むというのでは学生時代と何ら変わるところはない。自分を変え、医師として成熟するためにはどこにあるべきか、研修病院を選ぶにしても表面的な条件に惑わされず、飛び込んだらあとは地道にやり抜くこと。これが、この世界の入り口で迷っている若者へのメッセージである。 (2016.5.5)
すなわち、働きアリのなかで本当に熱心に働いている(?)のは20%にすぎず、60%はほどほど、残りの20%は遊んでいるというもので、これを「働きアリの法則」とも称するらしい。これだけでも興味を惹かずにいられない事実であるけれども、さらにこれを“真の”働きアリ集団とすべく、怠けアリを排除あるいは優秀なアリばかり集めてみるとどうなるか。結局、それでも上の比率(2 : 6 : 2)の集団になってしまったとのことだ。残念な結果ではあるものの、かつてあるプロ野球チームが金にものをいわせてスタープレイヤーばかり集めたにもかかわらず期待外れの成績に終わった、というのもこの類だったかもしれない。
ところで、これを教育の世界に当てはめてみると、連想される現象がある。たとえば、高い倍率を突破した優秀な学生ばかりであるはずの大学においても、その少なからぬ人数が落ちこぼれてしまう、というのはよく耳にするところだ。これは日本に限った話ではないらしく、米国のハーバード大学とハートウィックカレッジ(大学進学適性試験における数学の点数はハートウィックカレッジの上位3分の1の学生とハーバードの下位3分の1の学生とでほぼ同じ)の学位取得率を比較したところ、両者に差はみられなかったという。つまり、学位を取得し卒業できるか否かは、数学をはじめとする認知能力の高さよりも、クラス内の相対的な自分の順位と関係していた。卒業後の研究業績についても同様の結果が得られており、これらの事実は、人が自己評価を下す際、世界の人すべてとではなく身近な人間と比較する傾向があることを示しているのだという(クーリエジャポン 2014年8月号)。要するに、無理をして有名校に入ってもそこで自信をなくし成績が低迷するくらいなら、そこそこの学校でトップになったほうが自己肯定感を育むばかりでなくいい結果につながることもあるという話だ。古来、朱に交われば赤くなると言われ、孟母三遷の故事もことあるごとにもち出されてきたのだが、人が周囲の環境から受ける影響のされ方というのはどうやら一様ではないらしい。むしろ偉大な業績を上げたような人物はしばしば恵まれない環境に育っている。皆がうらやむような境遇に身を置くことができたからといって、それが本当に能力を活かせる場所とも限らないという、考えてみれば当たり前の話ではあるけれども、そのことを忘れて不合理な判断をしていないか、いちど振り返ってみるのも無駄ではないだろう。
とはいえ、学歴が人生を大きく左右すると信じられている社会であれば、少しでも“いい学校”に入れてあげたい、と思うのが親心だろう。小学校どころか、幼稚園受験さえあると聞いてばかばかしいと感じたとしても、将来の可能性を狭めてしまうかもしれないと思えば多少の無理はしてしまうのだ。いい大学を出なければ食べていけなくなると脅したりすかしたりしながらわが子をお勉強だ、お受験だと駆り立て、進学のために無駄なくお膳立てされた道を歩むことを強制する。結果として似たような境遇でものの感じ方も大きく違うところのないクラスメートばかりなら、同じ尺度で競争するにはうってつけである。背景の異なる人間の気持ちを推し量り多様な意見にも心を開く、あるいはその中から合意をつくり上げるという経験には乏しくなってしまうかもしれないが、それは質のそろった労働者を大量生産するうえで効率がよく、産業界からの要請にも応えるシステムであった。かくして子供たちは就職に有利な学歴をめざして試験に明け暮れる毎日を過ごすことになったのである。
ともすると、いわゆる「良い子」より、性格は悪くてもテストでいい点を取ることの方が世間で「勝ち組」として生きていくには大事だ、というしたり顔の現実主義が幅をきかせ、そんな風潮に追い詰められている親にすれば、薄っぺらな正論など唾棄すべきものとも映っているだろう。そこで抜け落ちてしまうものに気を配る余裕などあるはずもなく、ペーパーテストで測れるような国語や算数などの能力(認知能力)をいかに高めるかが最大の関心事であるに違いない。ところが、このところその風向きが変わり始めているようなのだ。その拠りどころになっているのは2000年にノーベル経済学賞を受賞した米シカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授をはじめとする「非認知能力」の役割を強調した研究である。この「非認知能力」とはたとえば、根気よさ、自制心、好奇心、良心、気概、自信、まじめさ、といったもので、心理学者が称するところのパーソナリティー特性と同じものだというから、気質、つまるところ“性格”といってもよいだろう。これが単に道徳的に望ましい、あるいは社会を安定的に維持するうえで期待される態度を決定づける、というだけではない。学歴、労働市場での成果(賃金など)、犯罪をも含む人生の結果に広く影響を与えるというのだ(ポール タフ 成功する子 失敗する子―何が「その後の人生」を決めるのか 英治出版 2013年)。
これまではただしつけの問題としてかたづけられがちであったかもしれない。しかしながら、IQや学力の高さだけが人生の成功をもたらすわけではないということがエビデンスとして語られるようになったいま、子どもにとって重要なのはいかに多くの情報を脳に詰め込むか、だけではなく(あるいはむしろ)、上述のような資質の発達をいかに支援することができるか、だろう。その形成には幼年期が重要であるとはいえ、その後も高めていくことは不可能ではなく、とくに職場で責任をもって働くことがその向上に役立つという。このことは研修医を含む人材育成においても示唆を与えてくれるのだ。
実際、臨床の世界も他の職業と同じように、ただ単に専門知識、技能が優れてさえいればそれでいいというわけにいかない。医療は患者・家族との良好な関係のうえに行なわれ、かつ、他の医師や多くの職種との連携が求められるからだ。ところが、そのような場面で欠かせないものは、小中学校から医師免許取得に至るまで幾度となく繰り返された試験ではほとんど問われることがなかった。結果として、これに関わる資質において問題を抱えた人間が混じっていることがあるようだ。これは自分のことを棚に上げるようでかなり居心地の悪い話になるけれども、アスペルガー的素因を持つ医師がまれではないと指摘されることもあるし、パーソナリティ障害の傾向があったとしても小さい頃から頭がよく、ちやほやされていたりすると歪んだ認知が修正されないまま大人になってしまう、ということもあるのかもしれない。
よって、臨床研修の目標の一つ、“医師としての人間性の涵養”は、ただ形式的に掲げられているものではないことがわかるだろう。居心地のいい研修医部屋に籠りきりで、知識の吸収に専念していれば済むというのでは学生時代と何ら変わるところはない。自分を変え、医師として成熟するためにはどこにあるべきか、研修病院を選ぶにしても表面的な条件に惑わされず、飛び込んだらあとは地道にやり抜くこと。これが、この世界の入り口で迷っている若者へのメッセージである。 (2016.5.5)