やっせんBO医

日本の教科書に記載されていない事項を中心にした個人的見解ですが、環境に恵まれず孤独に研鑽に励んでいる方に。

臨床医における非認知能力

2016年05月05日 06時26分11秒 | 医学・医療総論
 働きアリは働き者である。イソップが仕立て上げた話はともかく、自分の体の何倍もあるエサを抱え、せっせと巣に運ぶアリを見て驚嘆した覚えのある者も少なくないだろう。勤勉であることを教え込む絶好の材料とされたのも無理はない。かつてそのような賞賛すべきアリを弄びその慎ましやかな暮らしに甚大なる災厄をもたらしたことを今になって悔いているのだが、ここで紹介したいのは、実は働きアリといえども怠け者もいるらしい、という話である。

 すなわち、働きアリのなかで本当に熱心に働いている(?)のは20%にすぎず、60%はほどほど、残りの20%は遊んでいるというもので、これを「働きアリの法則」とも称するらしい。これだけでも興味を惹かずにいられない事実であるけれども、さらにこれを“真の”働きアリ集団とすべく、怠けアリを排除あるいは優秀なアリばかり集めてみるとどうなるか。結局、それでも上の比率(2 : 6 : 2)の集団になってしまったとのことだ。残念な結果ではあるものの、かつてあるプロ野球チームが金にものをいわせてスタープレイヤーばかり集めたにもかかわらず期待外れの成績に終わった、というのもこの類だったかもしれない。

 ところで、これを教育の世界に当てはめてみると、連想される現象がある。たとえば、高い倍率を突破した優秀な学生ばかりであるはずの大学においても、その少なからぬ人数が落ちこぼれてしまう、というのはよく耳にするところだ。これは日本に限った話ではないらしく、米国のハーバード大学とハートウィックカレッジ(大学進学適性試験における数学の点数はハートウィックカレッジの上位3分の1の学生とハーバードの下位3分の1の学生とでほぼ同じ)の学位取得率を比較したところ、両者に差はみられなかったという。つまり、学位を取得し卒業できるか否かは、数学をはじめとする認知能力の高さよりも、クラス内の相対的な自分の順位と関係していた。卒業後の研究業績についても同様の結果が得られており、これらの事実は、人が自己評価を下す際、世界の人すべてとではなく身近な人間と比較する傾向があることを示しているのだという(クーリエジャポン 2014年8月号)。要するに、無理をして有名校に入ってもそこで自信をなくし成績が低迷するくらいなら、そこそこの学校でトップになったほうが自己肯定感を育むばかりでなくいい結果につながることもあるという話だ。古来、朱に交われば赤くなると言われ、孟母三遷の故事もことあるごとにもち出されてきたのだが、人が周囲の環境から受ける影響のされ方というのはどうやら一様ではないらしい。むしろ偉大な業績を上げたような人物はしばしば恵まれない環境に育っている。皆がうらやむような境遇に身を置くことができたからといって、それが本当に能力を活かせる場所とも限らないという、考えてみれば当たり前の話ではあるけれども、そのことを忘れて不合理な判断をしていないか、いちど振り返ってみるのも無駄ではないだろう。

 とはいえ、学歴が人生を大きく左右すると信じられている社会であれば、少しでも“いい学校”に入れてあげたい、と思うのが親心だろう。小学校どころか、幼稚園受験さえあると聞いてばかばかしいと感じたとしても、将来の可能性を狭めてしまうかもしれないと思えば多少の無理はしてしまうのだ。いい大学を出なければ食べていけなくなると脅したりすかしたりしながらわが子をお勉強だ、お受験だと駆り立て、進学のために無駄なくお膳立てされた道を歩むことを強制する。結果として似たような境遇でものの感じ方も大きく違うところのないクラスメートばかりなら、同じ尺度で競争するにはうってつけである。背景の異なる人間の気持ちを推し量り多様な意見にも心を開く、あるいはその中から合意をつくり上げるという経験には乏しくなってしまうかもしれないが、それは質のそろった労働者を大量生産するうえで効率がよく、産業界からの要請にも応えるシステムであった。かくして子供たちは就職に有利な学歴をめざして試験に明け暮れる毎日を過ごすことになったのである。

 ともすると、いわゆる「良い子」より、性格は悪くてもテストでいい点を取ることの方が世間で「勝ち組」として生きていくには大事だ、というしたり顔の現実主義が幅をきかせ、そんな風潮に追い詰められている親にすれば、薄っぺらな正論など唾棄すべきものとも映っているだろう。そこで抜け落ちてしまうものに気を配る余裕などあるはずもなく、ペーパーテストで測れるような国語や算数などの能力(認知能力)をいかに高めるかが最大の関心事であるに違いない。ところが、このところその風向きが変わり始めているようなのだ。その拠りどころになっているのは2000年にノーベル経済学賞を受賞した米シカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授をはじめとする「非認知能力」の役割を強調した研究である。この「非認知能力」とはたとえば、根気よさ、自制心、好奇心、良心、気概、自信、まじめさ、といったもので、心理学者が称するところのパーソナリティー特性と同じものだというから、気質、つまるところ“性格”といってもよいだろう。これが単に道徳的に望ましい、あるいは社会を安定的に維持するうえで期待される態度を決定づける、というだけではない。学歴、労働市場での成果(賃金など)、犯罪をも含む人生の結果に広く影響を与えるというのだ(ポール タフ 成功する子 失敗する子―何が「その後の人生」を決めるのか 英治出版 2013年)。

 これまではただしつけの問題としてかたづけられがちであったかもしれない。しかしながら、IQや学力の高さだけが人生の成功をもたらすわけではないということがエビデンスとして語られるようになったいま、子どもにとって重要なのはいかに多くの情報を脳に詰め込むか、だけではなく(あるいはむしろ)、上述のような資質の発達をいかに支援することができるか、だろう。その形成には幼年期が重要であるとはいえ、その後も高めていくことは不可能ではなく、とくに職場で責任をもって働くことがその向上に役立つという。このことは研修医を含む人材育成においても示唆を与えてくれるのだ。

 実際、臨床の世界も他の職業と同じように、ただ単に専門知識、技能が優れてさえいればそれでいいというわけにいかない。医療は患者・家族との良好な関係のうえに行なわれ、かつ、他の医師や多くの職種との連携が求められるからだ。ところが、そのような場面で欠かせないものは、小中学校から医師免許取得に至るまで幾度となく繰り返された試験ではほとんど問われることがなかった。結果として、これに関わる資質において問題を抱えた人間が混じっていることがあるようだ。これは自分のことを棚に上げるようでかなり居心地の悪い話になるけれども、アスペルガー的素因を持つ医師がまれではないと指摘されることもあるし、パーソナリティ障害の傾向があったとしても小さい頃から頭がよく、ちやほやされていたりすると歪んだ認知が修正されないまま大人になってしまう、ということもあるのかもしれない。

 よって、臨床研修の目標の一つ、“医師としての人間性の涵養”は、ただ形式的に掲げられているものではないことがわかるだろう。居心地のいい研修医部屋に籠りきりで、知識の吸収に専念していれば済むというのでは学生時代と何ら変わるところはない。自分を変え、医師として成熟するためにはどこにあるべきか、研修病院を選ぶにしても表面的な条件に惑わされず、飛び込んだらあとは地道にやり抜くこと。これが、この世界の入り口で迷っている若者へのメッセージである。 (2016.5.5)

この世界で生きていくということ

2016年02月07日 05時53分06秒 | 医学・医療総論
いままさに診療報酬改定の議論が行われ、少なからず報道もされている。とはいえ、現場の末端で日々走り回っている者にとっては、月々決まっただけの給金が払い込まれてさえいれば、自分に直接かかわりのなさそうなことまで考えている暇などないというのが現実かもしれない。しかしながら、医療が国の意向に沿って動かされる業界である以上、その行方はそれぞれの将来をも大きく左右しうることを忘れてはいけない。若い人ほど注目しておいて欲しいと思う。

実感しにくいかもしれないが、われわれは一般の民間企業や自営業とは異なる土俵で仕事をしている。それは医療が基本財であるという特殊性によるもので、国が責任をもって提供しなければならないもの(憲法第13条、第25条)という位置づけにあるからだ。だからこそ、医療機関の収入は患者の自己負担のみならず、診療報酬という形で国によって保証されている一方で、民間病院といえども各種の法律をはじめとする数多くのルールの中で活動しなければならず、ことあるごとにチェックもされる。市場に多くを委ねている一般企業とは自由度がまるで違うのだ。

よって、そのルールが変更されることの意味は決して小さいものではない。とりわけ、病院収入のみならず患者の自己負担にも直結し、したがって受療行動にも影響しうる診療報酬の改定は、社会保障審議会医療保険部会及び医療部会、そして中央社会保険医療協議会の審議を経るとはいえ、基本的には厚生労働省の思惑通りに決定される(新井裕充 行列のできる審議会―中医協の真実 ロハスメディア 2010年)。そして、そこには国が医療をどのように変えようと考えているのか、将来像が織り込まれていることも意識しておく必要があるのだ。

そこに読み取るべきメッセージについてはすでにあちらこちらで解説されているけれども、その背景に、医療費を抑制するという国の断固たる意思があるというのは周知だろう。上述のとおり日本の医療サービスにおいては公定価格が決められており、それを国民皆保険制度が支えているのだが、すべてを保険料負担分だけで賄っているわけではない。国民医療費約43兆円(平成26年度予算ベース)のうちの約11兆円(26%)は国庫負担である(財源構成比;厚生労働省「国民医療費」による)。一般会計予算100兆円弱(平成27年度一般会計予算は96兆円余)のうち、年金・医療・生活保護などを含む社会保障関係費が31兆円(32.7%)を占め、いろいろやかましく言われることの多い公共事業6兆円と比べてもずっと多いことがわかる。国の財政状況がきわめて厳しいことも毎度聞かされているとおりだ。これから日本の経済規模が拡大するどころか縮小することも予想されているなかで、国・地方あわせての長期債務残高が1000兆円を超えていると言われれば、たしかにこの国が破綻に瀕していると感じずにはいられない。経済学者がいくら大丈夫だと太鼓判を押したところで、不安を拭い去ることなどできないというのも正直なところである。

そうはいいながら、基本財たる医療を経済状況、あるいは国の台所事情にそのまま連動させるべきなのかは別の話である。医療費が諸外国に比べかなり低く抑えられているのは医療従事者の犠牲の上に成り立っているからこそだと指摘され、実際、先進諸国に比べれば医師や看護師が圧倒的に少ないと言われている(上昌広 首都圏の医療が崩壊の危機 医師不足深刻で中東並み 解消と逆行する厚労省の詭弁 Business Journal 2015.11.1 http://biz-journal.jp/2015/11/post_12185_3.html)。しかも、2025年に団塊の世代がすべて75歳以上の後期高齢者となり、2010年に比べ約760万人増の2179万人へと爆発的に増える見通しであるという。恐ろしいことに増加分だけで現在の愛知県の人口を上回るのだ。国民医療費のみならず介護・年金などを含む社会保障関連費はますます膨らむであろうことは容易に想像されるけれども、一定のレベルを維持するためには当然必要とされるコストではないだろうか。

現状でさえ人手が足りないうえに、生産年齢人口がすでに減り始めている中で医療・介護従事者を増やそうというのも並大抵のことではないはずだ。現状維持どころか医療崩壊さえ囁かれているのが現実である。これに対し、10年以上もまえから財布のひもを締めるのに懸命である国は、カネをつぎ込み人に対する手当てを厚くするかわりに効率的に医療を提供する体制づくりに余念がないように見える。平均在院日数を減らし、在宅医療を充実させれば病床数は少なくて済む、というが果たしてうまくいくだろうか。技術革新に多くを期待できない労働集約型産業である医療の分野で労働生産性を挙げるのは容易ではない。受け皿として期待される在宅医療・介護にしても家庭の介護力や地域の力は低下しているうえに、費用負担が入院の場合より増えるとなれば、本人はともかく家族がすんなり受け入れないだろう。退院調整に振り回され、多くの時間を費やすようになってすでに久しいのである。

日銀が物価を2%上昇させると言い、消費税も上乗せされる中で、診療報酬が上がらないとすれば、多くの病院では収入が実質的に減らされることになる。その中で黒字を確保しようとすれば、とるべき手段の第一はコストカットであるに違いない。人件費率(人件費/医業収益)が50~60%とされている一般病院では、ひたすら忙しくなったとしても一律に給料を上げられるとは限らず、貢献度に応じてメリハリをつける傾向が強まるのではないだろうか。これは国のレベルでも同様で、国民医療費の内訳を費用構造からみても人件費が約20兆円を占めている。これからの高齢化社会において専門医ばかりでは金がかかる割に効率も悪いというので、現在15万人いる臓器別専門医を減らす方向で動き始めているようだ。それで適正な数にならなければ、診療報酬で誘導するというのが国のこれまでのやり方であったのも知られた話だろう。国が地域医療ビジョンという形で管理を強めようとしているのも間違いないようだ。

今病棟を走り回っている新人たちが中堅となる頃に日本の医療はどのような姿になっているのだろう。米国流の経済原理が席巻しているかどうかはともかく(堤未果 沈みゆく大国アメリカ 逃げ切れ!日本の医療 集英社新書 2015年)、おそらく現在の単なる延長ではない。歯科や法曹界の例もある。後悔しないためにどちらに向って進むべきか、将来ある人に安易に助言することも控えなければならないが、サルトルの有名な言葉を掲げておく。「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ。」 (2016.2.7)

臨床医における問題解決の基本(第5部)

2015年07月26日 15時28分04秒 | 医学・医療総論
10.問題の検証

     問題点の感知と整理
      ↓
     診断(問題の分解→仮説の設定→問題点の原因特定)
      ↓
     治療(問題点の解決策の決定→解決策の実行)
      ↓
     問題の検証

 患者の問題を解決するそれぞれの段階に不確実性が存在している。そして誤謬を排除し尽すことはきわめて困難だ。したがって、医師個々人の間に能力の差があるのは否定できないものの、行なうべきことをきちんと行なえば、あるいは最善をつくしさえすれば最適の結果が保証されるとはとうてい言えないのである。

 問題解決の中心となるのは診断をつけることであるけれども、多くの場合、この「診断」は当該の病態をとりあえず矛盾なく説明できる「仮説」であるとみなさなければならない。よって、経過中には「仮説」に一致しない事柄に注意深くある必要がある。また、実際の臨床の過程はこれまで述べてきたように理路整然と段階を踏んで進行することは少ない。それぞれの段階をいったりきたりして検討を重ねることが求められる(診療のスパイラル)。

 これは経験に大きく左右される部分もあり、たとえば心不全患者で利尿が500ml得られたにもかかわらず改善がみられないのはおかしい、などというのは教科書に書かれてはいないがマネジメントの上では大事なことだ。このような理学所見や検査結果の解釈など、知識のみでは克服できない壁が存在しているかもしれない。とすれば、教科書や文献の検索のみでは解決しない問題があることを認識し、あらゆる機会を捉えて貪欲に経験する姿勢は、特にプライマリケア医にとっては重要であろう。

 また誤謬を起こしやすい状況というのは、その渦中にいる時には気づかないものだ。特に何となく引っかかるものがありながら日常の忙しさにかまけてなおざりにしていることもあるだろう。そのようなものを定期的に既往歴や検査結果などから始めてもう一度チェックしつつ振り返ってみるのも有用である。見逃していた所見はないか、目立つ所見にとらわれすぎていないか、あるいは、過去の同様な対象に対してうまくいったからと盲目的に同じ解決法を適用しただけで、実はよりよい方法があるのではないか、などなど。

 さらに近視眼的に物事を断片的に捉え解決するのではなく、患者の状態を大局的に全体として見ることも大切である。人間は個々のパーツの寄せ集めではない。ある一つの問題だけを解決しようとしてもうまくいかない、というのはたとえて言えば、ルービック・キューブの一面の色を合わせても、全ての面が合うとは限らないようなものだ。これは集中治療を要する患者の場合には特に大事なことで、例えば人工呼吸管理を要する患者の場合、気道内圧が上がれば心・腎機能にとっては不利に働く、など並行して行なう治療が両立しがたいこともまれでない。分解された要素を改めてそれぞれの関係を考慮に入れてまとめあげる能力が必要である。意外なことに、これは臨床の現場に限ったことではない。分子生物学の発展を背景に分析的手法が最も力を発揮すると思われがちな基礎医学の分野でも、そのような方法論でシステムを丸ごと把握するのは難しいことが認識されるようになり、マイクロアレイ法や、プロテオミクスなどのように網羅的に生命現象を理解しようという試みが広がりつつある。

 臨床の側から見た最終的な検証手段は病理解剖である。不幸にも亡くなった方に対しては、可能な限り剖検をお願いする。結果は全国集計され医学の発展に貢献できるという面のほかに、自分が行なってきた判断が正しかったのか、監査してもらうという面もある。臨床診断と剖検診断の不一致率はおおむね10~40%で、このような不一致に関する数値はこの数十年間でほとんど改善していないという。自分の診療を見直す貴重な機会になるに違いない。





11.おわりに

 ここでは、患者に直接関わる範囲での問題解決の方法論に限定して述べた。専門病院の診察室に現れる患者はそこにたどりつくまでにすでに診断が確定されているか、あるいは、様々な検査結果がそろいお膳立てされていることがほとんどであるために、そこから先のプロセスはあらかじめパターン化されたもので間に合うことも多く、あえて意識する必要などないかもしれない。むしろ目の前にいる患者がどの領域の分野の病気であるかさえわからないところから始まるプライマリケアに携わる医師こそ、日常的に問題解決能力を問われざるを得ないのである。そして、大まかでも問題解決の手順の全体を見通すことができれば、ここまでの段階なら当院で対応できる、などと自分の守備範囲を描きやすくなるだろう。

 しかし、これまで述べてきたことから明らかになったように、科学の一分野としての医学を基にした問題解決は有用ではあるものの限界もある。医学の進歩・科学的知識が未だ不十分であるのは言うまでもなく、例えばまず原因を明らかにする、という原則にしろ、実際には、膠原病や特発性間質性肺炎などのように疾患の原因が不明である場合も少なくない。診断がついたとしても根本治療が不可能な場合もけっしてまれではないし、引き起こされた病気が既に不可逆的であることもある。医学自体が実践を旨としている以上、科学的根拠があるわけではないまま経験的に行われてきた手技も多い。今どき外傷の消毒など治癒機転を阻害するためやらないのだそうだ。診断の論理自体が無謬性を保証するものではないことも既に述べた。

 科学的に理解された世界は何らかの形で一般化された法則からなる世界である。例えば疾患概念というものはいわば最大公約数的なものなので、典型的症状が全てそろう、という方がむしろ少ない。特殊性の科学である医学においては個体差が常につきまとう。また周知のように、方法論としての要素還元主義も根源的な問題が指摘されてきた。つまり分解された要素をもう一度組み立てなおしても全体になるとは限らないのだ。さらにカオス理論が明らかにしているように、どれほど精緻な理論であったとしても測定感度に限界があれば、将来を予測することはできない。「ラプラスの悪魔」は初期値と法則さえわかれば世の中の全てが決定されると主張したが、現実にはありえないのである。

 このように科学的であればすなわち間違いがない、ということではなく、科学がいくら進歩しても必然的に不確実な状況にさらされ続けているのだとすれば、そのような状況下にあっても合理的に判断しようと知恵を絞るのが人間である。例えば判断の基準としてミニマックス、マクシミン、あるいは期待効用値を計算し最も効用の高いものを選択する、などの方法が提出されてきた。とはいえ実際の適用はそれほど単純ではない。効用値を数字で示すのが困難であるというのはもちろん、例えば、治療前に99%の確率で成功するとされた治療法であれば当然のように選択されるだろうが、実際その治療を行なったところ死亡してしまったという場合、予想された範囲内とはいえその当人にとっては正しい選択であったと言いがたい。このような事前と事後の乖離は埋めがたく、医師と患者の間には深淵が横たわっていると述べざるを得ないのである。

 しかしそもそもわれわれは合理的に問題を解決できるのであろうか?ここには「人間とは理性的動物である」と言われ、理屈でわかればそれにふさわしい行動をするはずだ、などという思い込みがあるけれども、実際の現場を知る者であればそのように楽観的にはなれないだろう。常に合理的に判断するのはきわめて困難で、人間には本来そのような能力は備わっていないのではないかとさえ思われる。個々の症例をあとから振り返り種明かしをされればごく単純なことであったとしても、現に診療のプロセスにどっぷり浸かっている者にとってはそうではない。どの所見が真の答えの手がかりになり、あるいはただ偶然そこにあるだけの所見であるのか事前にはわからないのだ。また全ての症例でエビデンスを確認しつつ診療するなどというのは不可能だろう。しかも医療資源が質的にも量的にも十分とはいえない今の日本の医療環境である。過労と医療ミスの間の関係は国内外の報告で明らかとなっており、医療従事者が心身状態を良好に保つことの重要性は以前から指摘されているにも関わらず未だに状況は改善していないのだ。

 以上実地診療の場での問題解決の方法論を検討してきた。その過程には原理的に一定の誤謬が入り込むことが避けられない。むしろ多くの不確実性にも関わらず臨床の現場ではおおむね正しく診断しマネジメントできているのは驚くべきことである。コンピューターによる診断支援がいかに進んだとしても医師の診療過程における思考を全て代行してくれるなどというのは不可能であろう。個々の医師による裁量の範囲は依然として残り、それゆえにこそ診療技術の向上に努力し続けなければならないのである。





参考文献

1. 福井次矢、奈良信雄編. 内科診断学. 医学書院、2000. 診断に関する最も包括的な教科書。
2. 熊本大学医学部臨床実習入門コースワーキンググループ編集委員会編. クリニカルクラークシップ・ナビゲータ. 基本的臨床能力学習ガイド. 金原出版 2002. 本来は医学部学生のための教科書であろうが、初期研修医にも役立つ。特に「臨床問題解決技法-問題志向型システム」の項は必読。
3. PA Tumulty (日野原重明、塚本玲三訳). よき臨床医をめざして:全人的アプローチ. 医学書院、1987. 全人的医療を徹底した医師として著名な著者によると、臨床医とは病気を診断し治療することを本来の任務とする人ではない。臨床医とはその本来の任務として、人間が病気から受ける衝撃全体を最も効果的に取り除くという目的をもって病む人間をマネージする人である、という。
4. SDC Stern, AC Cifu, D Alfkorn (竹本毅訳). 考える技術. 臨床的思考を分析する. 日経BP社 2007. ベイズの定理を適用した診断のプロセスを丁寧に解説している。
5. 福岡伸一. 生物と無生物のあいだ. 講談社現代新書、2007.
6. 高橋昌一郎. 理性の限界. 講談社現代新書、2008.
7. 平田オリザ. わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か. 講談社現代新書、2012.
8. 柳瀬睦男. 科学と宗教における生命観. 岩波講座 転換期における人間 1生命とは 岩波書店 1989. 医学のもつ意味を整理するために。 (2009.3.24、2015.7.26改訂)

臨床医における問題解決の基本(第4部)

2015年06月14日 10時57分27秒 | 医学・医療総論
8.問題の解決策の決定

    問題点の感知と整理
     ↓
    診断(問題の分解→仮説の設定→問題点の原因特定)
     ↓
    治療(問題点の解決策の決定→解決策の実行)
     ↓
    問題の検証

 得られた情報を適切に評価し、疾患の原因ないし病態を特定することができたら、それに基づいた解決策の決定へと進む。いくつかの現実的に実行可能な方法の中から最善のものをエビデンスに基づいて選ぶのが基本だ。当然ながらその際には、病態生理的な配慮や、併存疾患・合併症などを踏まえておく必要がある。例えば、肺癌患者の治療方針決定において押さえるべきは組織型、病期、PS (performance status)の三つで、非小細胞肺癌の2B期、PS1なら手術療法の適応、となるけれども、肺気腫を合併し肺機能が不良である場合、手術は難しい。

 ここで、根本的治療を行なうとはすなわち、ある症候・疾患の「原因」ないしは「過程」に介入することを意味する。腫瘍の切除など原因そのものを取り除くことができればそれがもっとも望ましいに違いない。病態生理が解明されているものでは、それに基づいて治療法を検討するのが自然な流れだろう。かつて、心不全では心臓の収縮力低下が原因であるという想定のもとに、強心作用を有する薬剤が頻用されていたのはその1例である。しかしながら、この考え方は必ずしも結果を保証するものではなかった。臨床試験において、強心薬治療は長期予後を改善させるどころかむしろ悪化させ、逆に心筋収縮を抑制するβ遮断薬が長期予後を改善させたのだ。このように病態生理的な推論のみでは治療法の選択を正当化できないことが明らかにされ、現在では臨床試験に基づいたエビデンスが重視されているのは周知のことと思う。

 さらに実践としての医療においては、純粋に医学的観点のみから意思決定を行なうことができないことも少なくない。エビデンスの裏付けを持つ治療を提案しても、患者が理解ないし協力できない、あるいは宗教的信念などの理由から妥協せざるを得ないこともあるし、家族はもちろんのことその他の介護者の意向にもしばしば左右される。結果として対症療法ないし緩和ケアが行われるにしても、それは必ずしもその疾患を治癒せしめる根本的治療法がない場合とは限らない。確立されている“標準治療”が選択されないこともありえるのだ。たとえばⅣ期非小細胞肺癌において、約6-10か月の生存期間中央値を化学療法で1-2か月ほど延長させることが期待できるとされるが、そう説明された側の受け取り方はさまざまだろう。多少長く生きても入院期間が延びるだけで、むしろ体力が低下し有意義に過ごすことのできる時間は逆に短くなるとすれば意味がない、ととらえる患者もいる。医学的な結果以上に、患者・家族の満足・納得感に重きを置こうとするNarative-based Medicine(NBM)という考え方が広まりつつあるゆえんである。

 それ以前の問題として、医学に精通しているわけではない者に対してどのように説明するかも無視しえない。同じリスク情報を示していても表現の仕方により、異なって理解されることもあるのだ(枠組み効果)。

 もちろん、経済的な理由から治療を断念する患者・家族も少なくない。治療方針決定の場面における金銭的負担という要素も決して小さくはないのだ。その占める比重は近年ますます大きく、高額な医療を受けられるのは生活保護者のみという皮肉な結果を招いている。生命は宝、地球より重い、としばしば唱えられるけれども、だからといっていくら費用がかかっても構わない、というわけにもいかない。今や限られた医療資源をどのように分配するか、という観点からその治療の費用対効果について検討することも求められる時代である。これは国全体の医療行政にも関わっており、たとえば英国では科学的に有効性が証明されるだけでは充分とみなされない。新規の分子標的薬でも、その効果の大きさがコストに見合わないとの理由で承認されなかった例もあるようだ。

 意思決定にはその地域の医療特性も複雑にからみ合い、今ここでの最善の治療がその他の地域や時点でも最善であるとは限らない。ある疾患に対しては放射線療法が効果と副作用の面から医学的に最適であるとされていたとしても、そのために毎日遠方の専門病院まで通院することなどできるはずもないだろう。この狭い国土においてさえ、医療へのアクセスが劣悪な地域は今なお多数残されているのだ。




9.解決策の実行

    問題点の感知と整理
     ↓
    診断(問題の分解→仮説の設定→問題点の原因特定)
     ↓
    治療(問題点の解決策の決定→解決策の実行)
     ↓
    問題の検証

 ここまでくれば決められた方針を粛々と実行に移すのみである。とはいえ、自らの技量と利用できる医療資源の範囲で対応できる症例ばかりとは限らない。患者をしかるべき専門病院に紹介しなければならないこともあるだろう。これはプライマリケア医にとってしばしばかなりのストレスになるものだ。その場で直ちに判断しなければならないような症例、たとえば急性大動脈解離の診断はついたが血圧が低めで状態が不安定である場合、Stanford A型の急性大動脈解離は可能ならば手術したほうが予後はよいとは誰しも知るところだが、心臓外科のある専門施設に搬送するには2時間はかかるとしよう。搬送途中で血圧のコントロールが困難となり急変するかもしれないし、運よく送り届けられたとしても結局、手術は行なわず保存的に治療することになるかもしれない。それなら無理して転院させないほうがましだ、などとさまざまに逡巡するのだ。いずれかの方法を選択しなければならないけれども、実際に選択したものはその結果が明らかになる一方で、その時に選ばれなかった方を実際行なっていたらどうであったかは永遠に不明である。この観測の非対称性がある場合には一般に「保守性」をもたらすと言われている。つまりどちらを選択したほうがよいかわからない場合には、不確実性のより少ないほうが選ばれやすい。確率に基づいた選択を行なう場合には冒険をさけることになりがちであり、決断に偏りをもたらすことがありうるのだ。すべてがそろった環境にあれば、このような困難があることなど想像すらしにくいことかもしれない。そして、この連携こそ、効率的かつ適切に医療を提供すべく国が強力に推し進めようとしているものだけれども、ここに述べたようなことを克服する工夫も必要になるだろう。 (2009.3.24、2015.6.14改訂)

臨床医における問題解決の基本(第3部)

2015年05月12日 04時54分55秒 | 医学・医療総論
5.問題の分解

    問題点の感知と整理
      ↓
    診断(問題の分解→仮説の設定→問題点の原因特定)
      ↓
    治療(問題点の解決策の決定→解決策の実行)
      ↓
    問題の検証

 ここでは前の段階で明らかになったそれぞれの問題点をさらに分析していく。問題が複雑であれば、より小さく単純な要素に分解することで、解決しやすくなることが少なくない。この際、「モレなくダブリなく(MECE :Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)」系統的に考えることができれば理想的だ。例えば、胸痛が問題となっている場合、胸壁、神経、心臓・血管系、肺、食道などと解剖学的に分類すれば考えやすいし、また発熱患者なら、病態生理を加味して、感染症、腫瘍、膠原病・免疫疾患、・・・などとなるだろう。このような考え型の枠組み(フレームワーク)を用いた思考法はしばしば非常に有用であり、普段からこのように考える癖をつけておくとよい。

 そこで、あらかじめ最初にチェックする所見や検査項目を自分でまとめておくと、特に時間の余裕がない救急の場面で役立つ。例えば低ナトリウム血症なら、SLEEP(SIADH、Loss of water、Endocrine(drugを含む)、Edema、Pseudohyponatremia)などと覚えておけば、よくみられる疾患を見落とすことなくチェックできる。頭痛患者であれば眼圧、項部硬直の有無、側頭動脈・副鼻腔の圧痛を忘れずに確認する、などと決めておくのだ。見逃してはならない疾患にとくに注意すべきなのは言うまでもない。

 特徴的な所見の組み合わせがそのまま診断に結びつくこともある。機械的に適用するわけにはいかないけれども、昔からトリアスなどという形でまとめられてきたものがその例だ。その他、それぞれ無関係に見えても重要な手がかりになりうるものがある。たとえば肺に陰影があり、腎機能の悪化をきたしているとすれば診断の範囲をかなり狭めることができるだろう。検討すべき範囲を可能な限り絞り込むことがここでの重要なポイントである。そのためには情報を獲得する努力を惜しんではならないのだ。教科書で鑑別診断のリストをしらみつぶしにチェックするという方法もあるとはいえ、全ての症例でこれを行なうのは非効率的あるいは壮大な無駄である。そして疾患の頻度と重症度を考慮しつつ、きわめてまれな疾患は緊急性がないかぎり後回しにしてよいことが多い。ここで覚えておいて損のない格言に次のようなものがある。「ある症候がある特定の稀な疾患でよくみられるものだとしても、実際にはたびたび遭遇する疾患の非典型的な症候である可能性のほうが高い」。

 判断の誤りを最小限にするためには、胸痛イコール心筋梗塞などとはじめからパターン化された対応ではなく、鑑別診断を考えながら対応することが重要である。とはいえ、残念ながらこれですべてがうまくいくとは限らない。典型的な症状でなければ、しばしば鑑別リストから漏れてしまうことに注意が必要だ。例えば急性心筋梗塞でも右肩のこりや頭痛を主訴として来院することがある。このように教科書にも記載されることのまれな所見から診断するのはきわめて難しいというのは容易に想像できるだろう。そもそも鑑別診断のリストに含まれてさえいないものを診断できるはずがない。また、人間の記憶力には限界もある。病態生理的にたやすく連想しにくい検査所見であったりする場合、それ単独では疾患名を想起することさえなく、その他の所見や時間経過などの情報をあわせて検討することが絶対的に必要である。ところがその診断に必須の検査が通常の診断論理では行なわれることがないものでありうる。血管内リンパ腫におけるランダム皮膚生検などは最たるものだろう。すると、ある程度想像力を働かせ、可能性が低いとしても丹念に検討していくしかない。普段から過剰とも思える程度に網羅的に検査を行なっておく、という対策もありえないことではないけれども、それが実際どの程度役立つのか疑問である。危険因子のある男性高齢者が狭心痛を訴え心電図変化を伴っていれば心臓カテーテル検査を行うことも許容されるだろうが、では、それ以外の患者ではどうか。可能性が非常に低くても重大な結果をきたしうるため全例に施行するという立場もありえるとはいうものの、可能な限り何らかの根拠があるものに限定する、と考えるのが一般的だろう。

 その意思決定には検査の侵襲性や手技の専門性も大きく関わってくるのは言うまでもない。いわゆる専門医の場合、限られた分野に思考を集中すれば済み、またあらかじめある程度の診断がついた状態で紹介されることが多く、このようなジレンマに苦慮するのはむしろ地域医療の現場なのだ。プライマリケアの最前線においては典型的な症状は少ない傾向にあることも指摘されており、特に高齢者では特定の臓器を示唆する症候は少なく、しばしば非特異的である。最近元気がない、などといった非常にあいまいな訴えの場合には網羅的にチェックせざるを得ないけれども、全身状態が不良であったり、認知症で検査に非協力的である、などといった理由で十分に検討できない場合もまれでないところに難しさがある。




6.仮説の設定

    問題点の感知と整理
      ↓
    診断(問題の分解→仮説の設定→問題点の原因特定)
      ↓
    治療(問題点の解決策の決定→解決策の実行)
      ↓
    問題の検証

 以上のように分解され絞り込まれた問題点をそれぞれうまく説明する診断仮説を考える。経験のある医師ならば患者の医療面接を行ないながら、並行して複数の診断仮説を頭の中に思い描きつつ、さらにより突っ込んだ病歴を聞きだし、検査計画を立てるだろう。この仮説を導き出す思考過程として上記のようにフレームワークなどを利用して筋道立てて進めることもある一方で、多忙な現場ではより直感的に行なわれる部分も多くヒューリスティックと呼ばれる。認知心理学的にはこのとりあえずの診断をこれまでの経験(そういえば以前、似たような患者がいたな…)や、パターン認識(満月様顔貌→クッシング!)などで思いつくとされており、さらにこれらの診断仮説を意識的にまとめあげるアブダクションという思考法もしばしば用いられる。これは、①ある症状、検査所見が認められる、②その症状、所見はOOという病態(疾患)があるという(診断)仮説を採用すると最もよく説明できる、そしてそれを同程度うまく説明できる説明は他にない、③したがって、OOという診断仮説は恐らく正しい、という段階を踏んで推論される。すなわち、「A(仮説として挙げられた疾患、診断名)ならばB(症候、検査所見など)である。」という命題があって、Bという手がかりが得られた場合、Aを推論によって導くのだ。AとBが一対一で対応するような特殊な例であれば(一種の同義反復ないし理論的同一視)、診断はいたって簡単である。腎不全では血清クレアチニン値が高値である、とかアミロイドーシスならば病理検査でアミロイド沈着がみられるというように病理学的所見が疾患概念の基礎にあるような場合や、奇形・動脈瘤など解剖学的に診断される疾患もここに含まれる。患者側からみると、診断のイメージはこのようなものだと思う。

 とはいえ、残念ながらこのような幸運な例ばかりではない。このアブダクションという推論(「Aという疾患ならばBという検査所見が得られるはずである。ここでBという所見が得られた。従ってAという仮説は正しい。」)は仮説設定のためには確かに有効な方法であるけれども、論理的に考えると必ずしも正しい推論であるとは言えないのだ。たとえば、胸痛を訴える患者で、「心筋梗塞ならば心筋由来のCKが上昇するはずである、実際検査してみると確かにCKが上昇していた、従って、この患者は心筋梗塞である」という推論は正しいだろうか。少し考えてみると心筋由来のCKは心筋炎でも上昇するので常に正しいとは限らないことに気づく。これは論理学の分野では後件肯定の誤謬と言われ、誤った推論として古来知られていたものである。さらにAならばBであるという命題自体、確実性に乏しいことがほとんどだ。たとえば、心筋梗塞ならば胸痛が出現する、というのがふつうであるものの、胸痛をきたさない心筋梗塞もまれではない。

 そこで実践の科学としての医学は、ここに確率を持ち込んだ。すなわち、ベイズの定理を適用して、検査前の疾患の確率(オッズ)と検査の尤度比から疾患の存在確率を導き、その検査後確率が一定以上あれば、その疾患の可能性が高いと考えるのである。特に検査前の段階で診断の確信が持てないような場合に行なった検査結果は大きな意味を持つ。例えばやや非典型的な症状で来院した胸痛患者における心電図がそうだ。一方で、喫煙歴のある糖尿病患者が締め付けるような胸痛を訴え、それが1時間続き冷汗を伴っているとすれば、検査前から急性心筋梗塞が非常に強く疑われるので、心電図所見の如何にかかわらず循環器専門医にコンサルトしなければならないのである。

 当然のことながら、その適用が困難な場合も決して少なくない。確率を用いて診断するには、その前提として確率現象を生み出す「枠組み」を明らかにしておかねばならないとされる。すなわち「鑑別診断のリストなど起こりうるできごとを列挙したもの」(標本空間)と「それぞれの起こりやすさの度合い」(尤度)が必要で、このうちどちらが欠けていても従来の確率法則を適用できないのだ。ところが、たとえ鑑別診断リストに漏れがないとしても、検査前疾患確率はしばしば不明である。文献にて確認できなければ一般人口での有病率を使用するとされているものの、有病率が非常に低い(稀な疾患である)場合には、検査前に絞り切れずにいると、いかに感度・特異度が高い検査で陽性になったとしても、検査後確率はやはり低いままである。

 また、次に利用される推論としては、当然陽性(場合によっては陰性所見)となるべきBという手がかりが得られなければ、Aという診断仮説は誤っている(反証される)、と演繹する方法である。例えば胸痛を訴える症例で、心筋梗塞を考えたが、経過中に心筋由来のCKが上昇しなかった、という場合、心筋梗塞はほぼ確実に否定されるだろう。その感度が100%である検査が陰性であれば、その疾患は否定されることになる。ただしこのような推論では、その疾患ではない、とは言えるが、疾患を診断することはできない。むしろ診断を絞り込む方法と考えたほうがよいだろう。

 医学的所見のほとんどはそれ単独では確実性に欠ける非特異的なもので、ゆえに診断はそれらの所見を精妙に組み合わせたうえに築かれる。ベイズの定理を適用するにしても一筋縄にはいかない。従って、ある疾患が否定的であると考えられても、まったく捨て去ることはせずに物事を進めていかなければならないこともある。肺炎と考えた症例が抗生剤治療で改善したとしても、陰影が残存し肺胞上皮癌でないと言い切れないのであれば、退院後もX線で陰影の消失を確認するまでフォローするくらいの慎重さが求められるのである。




7.問題の原因特定

    問題点の感知と整理
      ↓
    診断(問題の分解→仮説の設定→問題点の原因特定)
      ↓
    治療(問題点の解決策の決定→解決策の実行)
      ↓
    問題の検証

 以上述べてきたように診断をつける思考過程は決して単純なものではないが、多くの場合、病歴のみである一定の範囲に仮説を絞り込むことができる。そして認知心理学的にはいくつか(一度におよそ7個以下)の候補を念頭に置きながら、支持する病歴や身体所見、逆に否定する根拠がないかを確認しながら進んでいくという(仮説演繹法)。このプロセスは診断基準が存在する場合でも省略できるわけではなく、病理組織検査のようなgold standardとしての検査にせよ100%信頼できるわけではない。臨床的に矛盾する点があれば、再検討することが必要だ。

 ここである疾患概念は理論的仮説の体系であり、現実の疾患のより抽象化された概念であるということに注意しておく必要がある。言い換えれば、個々の特性を無視したところに成立しているので、ぴったり全ての所見が教科書通りであるとは限らない。したがって、典型的所見がそろっていない場合でも、安易に新しい疾患概念を作り出そうとするのではなく、まずは既存の疾患のバリエーションとして理解するのが妥当であることが多い。
 
 確定診断をつける、それは、その基礎にある病態を推測するための原点であり、これこそが本質的問題といっていい。高血圧を主訴に来院した患者でも、副腎に腫瘍がみられたなら降圧薬のみで済むというわけにはいかないだろう。また、ある診断を下してそれで終わりということでもない。診断が正しければ、その疾患の病態生理(=基本原理、公理)から演繹的に(合理的推論によって)多くの具体的所見が説明できるはずである。もしできなければ、その診断が間違っているか、あるいは把握されていない問題点(偶然、他の病態が併存しているなど)があるのか、改めて検討しなければならない。文献やこれまでの報告例と比較することが必要だ。
 
 むろん、ただ一口に診断といっても、いくつかのレベルがありえる。つまり呼吸困難の原因が心不全である、と診断したとしても、血行動態的に心係数が低いこともあれば高心拍出性かもしれない。心機能低下の原因は収縮不全か拡張不全か、また基礎疾患として解剖学的に大動脈弁閉鎖不全が認められたとすれば、それが動脈硬化性のものか感染性心内膜炎による急性のものかで対応は大きく異なる。電気生理学的には心房細動があるかもしれないし、高心拍出性ならビタミンB1欠乏症や貧血の有無を検索すべきだろう。その増悪因子が感染であることもあれば、その他のストレスであるかもしれない。同じ疾患でも重症度のみならず病態などそれぞれの患者ごとに差異があり、それを踏まえた上で次の段階に進まなければならないのだ。

 このように診断が確定されればそれに従って治療方針の決定に進むことになる。しかしながら、特に救急の場面では余裕をもって検査を積み重ねることができない。ポイントを押さえた病歴聴取と身体所見だけで急性心不全と判断し、検査結果が明らかになる前に治療を開始しなければならないこともありえる。一方、急性心筋梗塞やくも膜下出血などは典型的症状であれば検査を行なわずとも診断可能であり、仮に検査で異常がみられなかったとしても、完全に否定されるまではその疑いを捨ててはいけない。逆にそのような疾患を念頭に置きながら心電図所見や頭部CT画像を読みとることで診断精度を高めることもできる。また、診療所のようなプライマリケアの第一線の現場では全ての患者に対しはじめから検査を尽くすことは時間的、物理的環境による制約があり、現実的でない。そのような場合、経過観察や診断的治療という選択をすることもあり、後日治療に対する反応や時間経過という因子を含めて最終的に診断することになる。

 さて、ここで、しばしば意識されていない前提について触れておきたい。それは「あるひとつの病態では一つの原因がある」ということだ。これは単一病因説といわれるもので、特に急性疾患に当てはまる。何らかの症状がある場合、偶然的要素がなければそれに対するある一つの病因があって、その病態を形づくると考える。たとえば、ここに発熱患者がいたとして、その診断は肺炎である、あるいはリウマチ性多発筋痛症である、などと診断するわけだが、特別な所見がなければ両者の合併があるとは通常考えない。逆に言えば可能なかぎり単一の病態として考えるというのが基本である。“臨床的なセンス”というものがもしあるとすれば、このことが一つの要素になるかもしれない。プレゼンテーションの場であれこれの事実を脈絡もなく羅列されると、この主治医は患者の病態を把握できていない、と判断されることにもなるだろう。

 この単一病因説、というのはある意味で極めて効率のよい考え方ではあるものの、それによって見逃される面もあることに注意が必要だ。コッホは感染症の病因として細菌の存在それ自体が決定的であると主張したが、ペッテンコーフェルはそれに反対し、衛生環境などの要因も極めて重要であることを力説し自らコレラ菌を飲んだのである。肺炎患者がいて、肺炎球菌が原因(起炎菌)であるとしても、論理的因果関係は単純でない。免疫抑制状態にあるものや摘脾の既往があれば無視しえない要因であるし、たまたま風邪をひいていれば先行するウイルス感染が影響したと考えられる。あるいはショートステイ先で慣れない介護者が食事の介助をしていて誤嚥させたのかもしれず、さらに、ショートステイをしていたのは家庭の不十分な介護力による、・・・などと因果の網の目は複雑に絡み合っており、必要に応じて食事介助の方法や介護についても検討を広げなければならないこともあるだろう。医療現場では便宜上肺炎球菌を病因として抗生剤治療を行ない、それでその肺炎は一応改善したとしても、実際には解決されていない問題も意識されずに残されたままあるかもしれないのである。

 最近では生活習慣病など慢性疾患の重要性が高まっており、それらにおいては病因をただ一つに求めることができないことが多い。そこでこの単一病因に代わって、疾患の発症に関連するリスク因子という考え方が一般化しており、多重リスク要因の複合による発症確率モデルが提唱されるなど、病気を実体としてとらえるというより関係論的にとらえるようとする努力もはらわれているのだ。 (2009.3.24、2015.5.12改訂)