notation

コミケ C78

2010-08-26 00:19:06 | 侃々諤々
 
 
この歳にして初めてコミケに参加しました。

これをこじらせると大変なことになるのは承知の上ですが、見過ごせないですよ、やっぱり。
今回は3日間で56万人動員だそうです。しかし、これは「数」だけが一人歩きするべきではないのです。そういう取り上げ方をするニュースは、わかりやすいニュースであるために数を使うのです。ここを勘違いしないでいただきたい。
「人、沢山行ったんだねぇ」というのも前回までの私の感想でした。しかし、今年は違う。
行ってわかったことが一杯ありすぎて、ツイッターじゃ書ききれないし、流されてしまうのもシャクだということでこちらに残しておきます。

もうね、本当に行って良かった。これだけは本当に。
この現実を知らないとコミケ自体がなんか変な妄想っつうか、都市伝説みたいなものの一部と思われかねないし、多分殆どの人はそう思ってるはず。
「オタクが集まってなんかやってるだけでしょ?」とか「そんなに集まるわけ無いじゃないの」とか「っつうか、オタクってそんなにいるの?」とか「そんなもん、オレには関係ない」かもしれません。殆どの方はそうでしょう。
でもね、違うの、現実にあるの。
現実にあるモノで自分の生活に関係ないモノはいっぱいあるのですが、果たしてそれが本当に関係のないものなのか?と。

なんか、こういう書き方すると「現代思想にかぶれてるだけじゃん」とか「宮台とか東浩紀が好きなんでしょ?」とか思われることも承知です。でも私あんまりその辺読んでません。不勉強です。少しだけ目を通しているというレベル。その辺に明るい方には超陳腐な話しだと思います。本の嗜好はどっちかっつうと自然科学方面です。
いや、そもそも現代思想って何?ってことなんですよ。全ての現代思想家がこぞって「今はアニメを観ないとヤバイ」と云っているわけではないでしょう。たまたまそういう素養を持った現在現代思想家がディアに現れているだけなんだとおもいます。それを取り上げているのは編集側であって、つまるところネタがもうないから広げた裾野がアニメとかだったって事だと思います。見た目にわかりやすいネタとして。ワイドショーの殺人事件と同じで、明日には無き者にされるもの。言ってみりゃ、殺人事件もコミケも普天間もマスコミ的な価値判断からすると同じで、どれだけニュース性があるかと。そのニュース性が最もあるものが今日のワイドショーを飾るのです。で、たまたまわかりやすい突発的な数字を持っているアニメ界隈が最近取り出さされている。翻ってみればそれだけ無視できない、あるいはイヤでも目に入ってくる。
はい、ここ!
イヤでも目に入ってくるということ。
趣味ジャンルと言われるモノが超細分化されて久しい昨今、やはり濃密なものはイヤでも浮上してきます。むしろ、海面が下がったために頭が出ちゃった誰も知らなかった大陸の様な。

コミケというかアニメというか漫画に対して理解する気がない方に響かないことは承知ですし、むしろ反論していただけたら幸いです。
少なくとも「怖い物見たさでもいいからコミケに一度くらいは行ってみようかな」という方の背中は少なからず押すかも知れませんが、そうでない方には(にわか)オタクの戯れ言にしか映らないでしょう。承知の上です。


正直、私、ポッと出のド素人ですよ。
もちろんエヴァンゲリオンは観ていましたし、映画が公開されれば劇場にも毎度行っています。こないだ、コンテ集も全巻買いました。でも、そんなのはアニメ云々じゃなくて国民行事的な意味合いの方が強かった。
2年くらい前から意識的にアニメを観だしたわけですが、その復帰第一弾が「涼宮ハルヒの憂鬱」で、それももちろん後追いで1期のDVDが出きった後にまとめて観たのです。何でそのときにアニメに手を出したのか良く覚えていません。山下監督の「リンダリンダリンダ」のライブシーンを完コピしているアニメがあるという噂から見たのかもしれませんし、鬱陶しいくらい耳にする「ハルヒ」というワードが何なのかを確かめる為だったかもしれません。今となっては。
ハルヒについてはノベルズ版も1巻だけ読んでみました。
先達曰く、ハルヒ以降「ライトオタク」が増えたとのこと。彼等にしてみれば私はウワバミを舐めるだけの輩です。
それだけハルヒはその溝を埋めるエポックメイキングな作品であったのだと思います。ある意味、これがイケルかどうかが試金石。

その後にもぼちぼち観てはいますが、現役の先達にはとうてい敵わないレベル。結局メジャーなものしか観ていません。
ただ、それ以後映画を観る数が激減し、アニメばかりを観ていました。
「化物語」「けいおん!」、「鋼の錬金術師」「図書館戦争」「電脳コイル」「東のエデン」「四畳半神和大系」「荒川アンダーザブリッジ」「さよなら絶望先生」「Angel Beats!」とかそのへん。攻めているとは決して云えません。

そんなド素人であるものの、一度は行ってみたかったコミケ。その念願を遂に果たしました。


きっかけというか、最後に背中を押してくれたのが結構最近出会った友人T君で、小沢会(小沢健二ひふみよツアーの報告会)と称して集まった方で、小沢方面でも相当話し込んだモノの、話していくうちに「アレ?そっちもいけるクチ?」みたいなことになり最終的にはアニメ話にももつれこむという素敵な出会い。その場でもコミケの話しが出てはいたモノの、お互いに牽制状況。
その彼からコミケ開幕前日に「やっぱり行く?」的なメールがあり、想い出したというかこじらしたというか、ぽろっと空いた夕刻にそのまま秋葉原にカタログを買いに赴いたのであります。
※コミケカタログというのは参加サークルの開催日での所在地等がサムネイル入りで載っています。

ここで一つ洗礼があり、コミケ前日の秋葉原でカタログを買うというのは結構な難局だったらしく、正直ナメてました。
アニメイト、とらのあな、K-Booksあたりの秋葉原大手書店は全て在庫切れ。で、片っ端から同人誌ショップを巡り、なんとか入手。多分10件は回ったかと。地下とか異常に間口が狭いビルの一室とかを巡って。オマケとしてよく知らないキャラのクリアファイルもらいました。
そういう洗礼があったからか「もう、行くしかない」テンションに上り詰め、とはいえギッチギチに仕事のスケジュールを入れられていて、なんとか日曜だけ無理矢理空けて友人T君と共に行くことに。
そのカタログですが、まぁ下手なタウンページより厚いわ重いわなんですよ。
後日談ですが、T君とはお互いに「正直行かないだろうなー」とは思っていたとのこと。変な牽制合戦で行くことに。

で、金曜・土曜と2chでの実況スレを観つつじりじりとテンションを上げ、日曜日に至ったのです。
唯一の懸念は、3日目はエロメインだということでした。
私、会社が大崎なので、ビッグサイトへの中継地点ということもあり、金曜・土曜と戦利品を手にした先達をちらほらと見かけていました。正直、その時点ではまだ外部の人間意識で「その紙袋は駄目だろう」という意識。


そして日曜日。
正午に大崎駅でT君と待ち合わせ、ビッグサイトへ。
大崎では既に帰宅組が戦利品を抱えての図。
ツイッターを追いかけると「大井町は地獄絵図、券売機の紙が無くなる」というガセRT祭り。恒例の情報戦ですね。
※毎回コミケでは2chでの情報戦が繰り広げられます。ライバルを少しでも減らすためなのか。ツイッターはガセだらけでした。

電車に乗ってしまえば余裕で座れるし、大井町でも全然乗車してこない。杞憂でした。
しかし、りんかい線国際展示場駅を下車すると、もう世界は一変。


ところで私、前職でBtoBイベント業界にいまして、ビッグサイトはそれこそ月イチで通ってました。駐車票なんて持って無くても強気で無理くり駐車場に突っ込む慣れっぷりでしたよ。
しかし、そのどのイベントとも違う様相。けれど、それをして異様だとは思わず。
この感覚は何なんだろうと思うと、リテラシーの高さだと思うのです。
改札に向かう案内にも忠実に従い、道中も歩きタバコもいない。行く列、帰る列が完璧。逆に言うとシープドッグに追い立てられる羊の群れのような従順さです。
普段、BtoBイベントが行われている有明地域の方が野放図ですよ。これはちゃんと言っておきたい。自分の行動も含め。
BtoB展示会に来る人たちというのある程度時間に余裕のある幹部社員か会社サボリの人たち。正直、そう言う人たちの方がマナーが悪いです。「仕事なんだから、オマエらやっとけ」的な空気感。お客様意識の強さ。まぁ、確かにお客様なんですが、なんつうか、普段もあんたらそんな横柄なの?と思いたくなる態度。
BtoCである場合は激変します。お客様を迎える為にありあまる対応。けれど、その対応はどこか客をナメている。変なバランス感覚です。ブースにいる人たちはもてなすことに慣れ、客はもてなされることに慣れている。
このリテラシー問題については何度か思うところありました。後に記載する総論として思ったこともここでした。後述します。


ビッグサイト到着。
特に入場制限があるわけでもなく、先ずはなんとなく流れに乗って西へ。
最大の懸念事項であった異臭もそれほどのモノではありませんでした。
この西への移動が最大の過ちでもあり、ベストチョイスでもありました。
※ビッグサイトは大きく分けて西1,2と西3,4東1,2,3と東4,5,6という4つのホールがあります。

我々が最初に向かったのは西1,2。
そこでT君と一旦別れ30分間のソロ活動。

「アレ?なにこれ・・・」感が尋常ではありませんでした。BL(ボーイズラブ)と百合(レズ)コーナーでした。
いきなりの洗礼。突然すぎる異文化。暴力的なまでの当然感。避けては通れぬ茨道。むしろ必然。
ここでひるんでは今日という日に「ありがとう」が言えないもったいないお化け。
男性向けエロであれば、そこそこ対応力はありますが、なかなかのハードルの高さ。順応したくても性別という大きな壁。

ぐるっと回ってなんとか女性向けを通り抜けるとそこには大学アニ研の島。一冊購入。
最初の衝撃が強すぎて「けいおん!」もしくは「化物語」に安心感すら覚えました。貫禄とでも言うのでしょうか。

再度T君と合流して流れに乗ってなんだか屋上っぽいところへ。
移動中もリテラシーの高さを感じます。跨げば余裕で越えられるポールを誰1人越えない。


コスプレ広場。
かつて幾度となく静止画で見ていたはずのコスプレ。しかし、それを生身の人間が行っている行為であるということを再認識しました。人間が2次元の模倣をするとかそういう面倒な手続きはそこには無くて、好きだからこの格好をしているという純粋すぎる昇華しまくった人たち。
我々(非オタと思っている全て)が好きな服を着て街を歩く行為とどの辺が違うのか、カッコイイ服を着て街を歩くことで観られることを前提としたのであれば全く同じじゃないか、観られることを目的として、観ることを目的とした人がそこに渦巻いていました。
例えば表参道当たりでメンノンのファッションスナップに撮られることを目的とした人とコスプレにどれだけの違いがあるのか。
「わたしは~、別に~、イイって~、言ったんだけど~」とか言ってる読者モデルとか言って1万部雑誌に載ってる人と覚悟のレベルが違う。
ワンピースのコスプレの人に人だかりが出来ていましたが、正直普通に可愛い人でした。その価値観は恐らくファッション誌と全く同じで、どれだけオシャレな格好をしていてもブサイクはファッションスナップには載らないし、載せたところで売上に貢献しない。だから載せない。
コスプレも基本的に漫画のキャラは美男美女であることが前提であるのですよ。
じゃ、ファッションモデルとレイヤー(コスプレする人)の違いって何?
プロ意識?そのプロって何?金?いや、違う。
ここでもリテラシーの高さを感じます。撮ることを目的とした人は必ず声をかけ、それに応えるレイヤー。

流れに乗って企業ブースへ。
「あぁ、これは確かに展示会の作法だな」と思う一瞬。ここに来て初めて思ったのが、企業ブースの下品さ。その下品さに安心感すら覚えました。これは普段生活している場とあまり変わらない。なんかね、「売る」ことをメインとし過ぎていて、それ以外が感じられなかった。電器屋での感覚に近い。そうじゃなかったのかも知れないけれど、10分そこそこで退散。


そのまま東4,5,6へ移動。
来ました、エロ本祭り。これがコミケかと。臆面もなく、制約無くエロ本(二次元)を立ち読みしまくりました。
で、目の前に作者がいる。
通り過ぎようとすると「お手にとってご覧下さい」と宣う。
彼等は自身の性癖を売り物にしていて、そこに全く悪びれる事がない。これはどういう状況なんだ。
私もその筋はキライじゃないので、好きな絵柄があれば「読ませてもらって良いですか?」と手に取ります。
※手に取る前の声掛けはマナーです。

そこで気付いたのが、半勃起状態であること。
まぁ、エロですから。物理法則ですよ。夏なので薄手のパンツであることが気になります。
ここにいる何万人が総じて半勃起状態。いや、完全エレクトな方もいらっしゃったかもしれません。むしろ過半数かも知れません。
でもね、ここでひるんではいけないのですよ。
「キモチワルイ」の一言で片付けてはいけないのですよ。
そう思う全ての人(非オタの人)に対して「あんただってセックスしてんだろ?ベロベロベロベロ舐めてるんでしょ?」とか思うわけですよ。
漫画の中で「ンギモッヂイイーーーー!」とか言ってるのがキモチワルイとか言ってる人、はいアナタ。
自分がセックスしているときにそんなに理性的なんですか、と。
「いやいや、それを公衆の面前で行うことがね・・・」
はい間違い。ブー。
ここはプライベートなんです。公私が同居する特異な場所なんです。
これをして自無茶苦茶な正当化だと思うんだったらもういいです。観たこともないものを客観視できないことは悪いことではありません、けれどつまらない。
これで友達の大多数を減らしても構わないですよ。

持論ですが、セックスの話しというのは紳士協定があるからこそなんです。セックスの話しで誰かを傷つけるであろう輩とは話をしたくもありません。
誰も傷つけない、大昔からの処世術。公私をどれだけギリギリまで研ぎ澄ませてネタにできるか。
この紳士協定の発展形がそこにあるのです。表現する側は先ず、自分の性癖に蓋をしない。巡る側はここには必ず求めるモノがある。否定はしない。
少なくともセックス描写だけで「キモチワルイ」ものとして欲しくないと切に思います。
全く2次元に興味がないと言う方はいるかもしれません。
でも、実体験上男性に限らせてもらえば漫画でオナニーしたこと無いって人いるんですかね。
あぁ、こういうエロネタを公にすること事態がNGなのか。


とこで、エロ=悪みたいな図式って誰が作ったの?
いや、別に誰がリンゴをかじったのかという犯人捜しをしたいわけではありません。
全面肯定するわけではなけれど、エロとかセックスを頭ごなしにクリエイティブから除外したがる人って信用できないんですよね。
これって欲求としてものすごく正しい方向で、そこ省いちゃったら腐れマダム的無菌室にしかならないと思っています。
アホ映画なんかで見かける異常に綺麗なセックスシーン。あんなもんこそ創作。それやってる人がアニメ批判するって何?それ、同じよ。
例えば文学にしても太宰とか三島とか春樹とかはそこ抜きで何が言えるの?と。
映画にしても人間描こうと思ったらそこ省けないでしょうが。
セックスしたいからバンドやるのと何が違うの?
セックスできないから自家発電しちゃだめなの?


話しが飛びました。すみません。
けれど、コミケの真骨頂ってここなんだなと。


最後に東1,2,3へ。
ここでやっとたどり着けました。
批評の島。
やっとの思いでたどりついた。もう、目につくもの全部買いですよ。
とはいえ、10冊くらいで1万円程度の買い物ですが。
イチイチ素晴らしい言語感覚。
「オタクとは。変態とは。」
「オタク的プロシューマーとは」
評論ものばかりを買ってしまったんですが、これもルーキーたる所以でしょう。
なるべく、木を見て森を見ずに陥らない為なんですが、マクロばかりを分析したがる学者先生にならないように気をつけないと。


今回コミケで使ったのが約1万円。
作家に対してプロ意識の欠如の巣窟だと思う反面、そこで現金が動くということに驚愕しました。
目の前にあるモノが欲しいから金を払うというヤミ市の様な状況。
所謂オタクと言われる人は相当にネットに明るい方ばかりのはずで、需要と供給による物価に対しては相当うるさいはず。にもかかわらず金をその場で払う。1冊に対しては少額(基本単価は500円)かもしれないけれど、あの場に於いてやりとりされた金額たるや。
50万人が1万円ずつ使っても50億。
コンテンツに対して、それが二次創作であったにしてもそれだけの金額が動くということを知らないといけない。
お金を払うという手続きというのは簡単であるように見えて、そこに至る思考回路は凄く複雑だというのは誰でも知っていると思います。
あの場が集団催眠のような状況で、今買わなければいけないという刷り込みがあるのは認めざるを得ない。
しかし、その様な刷り込み短絡的な思考は待って!
確かに、その場所はお祭りではありました。私のようなポッと出の素人が赴き、金を遣うという思考回路、そのバイアス。
そのバイアスを解明しようとは思いません。できる気がしません。


そこにある殆どがエロ漫画だし、エロ漫画売って買って何が楽しいの?って思う方も大勢いるでしょう。
でもね、それだけではない。そこにあるモノがエロ漫画だけではないという意味です。
湾曲した感情論的な話しではなく、ちゃんとそれ以外の人も存在します。数は少ないでしょうが。



チャートでアニソンが上位を独占し、DVDランキングでも同じく。
これは分母(アニメを趣向する人)が増えたということもあるかもしれませんが、そんなもの若干。それまでのユーザー総数がどれだけかはわかりませんが、恐らくここ数年で激増しているコミケ動員は今まで頭しか見えなかった氷山がその姿を露わにした状態では。今ですら一角でしか無いかも知れません。
そもそも、コミケでは金を払うに値すると認められたコンテンツしか生き残ってないし、誰もコンテンツを限定してもいない。
金が払われる前提でしかコミケの場に無いという攻めの状況。
赴くユーザーも金を払うことを前提にしている。
売れてるものが全て良いものだとは思いませんし、それだけを拠り所にすると民放某刑事ドラマみたいな一極集中マスメディア的ゴミの量産となるわけで、非常に難しい塩梅ですが、コミケで云えることは一極に集中していない。一つのキャラだけに依存していない。
場だけがあるのあって、そこになにがあろうと拒まない。メディアの操作が通用しない。自分の目で見たモノしか信用しない。
ものすごく洗練された、あるいは原始的な売買の構造があります。
そこは無視できないのです。
もちろん、オタクの中にも潮流はあるんだと思います。けれどそれは総じて認められない限りその中でのマスには成り得ません。良い悪いに異常なまでに執着した人々の集大成でもあります。
そして、批判されることを前提とした表現。
ライブハウスでなんとなくの演奏をやって身内で盛り上がるのとさほど違いは無いかも知れません。
けれど、私が今回初めて行ったコミケではそういう金銭的打算的な感覚はありませんでした。これをしてやはりプロ意識の欠如かもしれません。けれど、ここで通用しないイコンがどこで通用するのか。



最後に一つ。
先に出たリテラシー問題です。
目的を持った人間はその場に於けるルールを遵守します。
逆に言えば目的を持たない人間のリテラシーの低さ。もしくは浅ましさ。
昨今、この最低限のルール、常識が無くなっていると嘆く人が多い。
のんべんだらりと生活をする人たち、行動に何の目的も持たない人たちの行動の浅ましさ。
これは、自分だけが良ければ良いということの現れでしか無く、それ以外の理由付けができません。そもそも、理由がないからだしね。
コミケにいた人たちが普段どんな生活をしているのかは知る由もありませんが、少なくともあの場に於いては目的を持ち、行動していたのです。
禁止されている徹夜とか、開幕ダッシュとか少なからず傍若無人な人もいたことは知っています。けれど、私がいた現場ではそういう人間は全く見受けませんでした。
もの凄く極端な見解ではありますが、目的を持って行動することの素晴らしさを感じたのです。
ビッグサイト全てが一つの目的のための機能を果たし、それを援護する人たち。
規則に従順であることを賛美しているわけではなく、規則が何のためにあるのかということを理解した上で秩序が保たれているということについてです。
これはどういうことなのかというと、文化祭なんです。少しばかりの違反者はスパイスであって、それが無ければ盛り上がらない。必要悪であって、完璧に秩序絶対主義になると崩壊してしまう危ういバランス感覚。けれど、これは人間が生活していく上で必要なモノなのです。相対的なものであって、端から見れば十把一絡げに見えても、内部的には善悪の基準があると言うことが大事。56万人による世界の縮図。
一つの目的の為に普段全く違う生活をしている人たちが目的に向かって動く。
私たち全てが持っているであろう幸せな体験。
なんだかわからないけれど、今はみんなで一緒に何かをやろうとする行動原理。
アニメとかエロとかを考える前に、先ず、初めて行った感慨はここでした。


これは、これだけは行かないとわからない。
C79かC80では、できればサークルとして参加したい。
外側から観ているだけではいけない。
そのためのアジェンダ設定を早急にせねば。
こういう思考(嗜好)を育むことによってコミケは存続し続けているんだろうな。


行かないでガタガタ言ってる人、行けって。

霞町ファンクが「出れんのサマソニ」に応募中です。

2010-07-06 23:55:06 | 侃々諤々
友人である霞町ファンク(カスミチョウファンク)が「出れんのサマソニ」に応募中です。
投票はこちらからお願いいたします!
携帯からはこちらからです。
※メアドとかの記入は必要ありません。

一日一票。
Macから一票、iPhoneから一票、iPadから一票、iPod touchから一票、携帯から一票、PCから一票。
持てるデバイスの全てを駆使してお願いいたします!


PVは私が撮ってます。
「合成なのね~」と言われますが、歌っている本人以外は全てプロジェクタで投影して1カットで撮っています。
投影している映像も殆どカット繋ぎだけの男前仕様。
かなりローファイな上がりです。



第三京浜 / 霞町ファンク



ひふみよ

2010-07-02 02:22:00 | 
 
 
小沢健二13年ぶりのライブ「ひふみよ」について。

「ひふみよツアー」ではトゥイターでも2chでも感想で演出には触れないという民度の高さというかリテラシーの高さに驚きました。楽しみにしている人をそのままにしてあげるという普通出来ないこと。みんな言いたかったんだと思います。だって楽しかったもの!でもガマンした!

私、自身のディレクタープロフィールの尊敬する人物に「小沢健二」と書いてしまうほどなんですが、今回のツアーで本当にこの人が好きで良かったと思った。
フリッパーズ時代よりも小沢のファーストアルバムで「この人の言っていることは間違いない」と思い、早16年。
媚びるところは媚びるけど、それを隠れ蓑にもせず、媚びを感じさせず、言いたいことは言い切る。反論する人が馬鹿に見えるくらい言い切る。
相変わらず心のベストテン第一位から十位まで。

ライブ会場で売っていた書籍、「うさぎ!」と「企業的な社会、セラピー的な社会」は2セット買ってます。読む用と貸す用。


ツアー終了ということで、感想をアップします。
ネタバレ満載。



私は初日5/18の相模大野(5列目)と6/17(29列目)の浜松に行ってきました。
セットリストは両日とも共通。他の日は多少違うかも。

セットリスト
**********************************************
流れ星ビバップ
 朗読
ぼくらが旅に出る理由
 朗読
天使たちのシーン
苺が染まる(新曲)
ローラースケート・パーク
東京恋愛専科
ローラースケート・パーク
ラブリー(歌詞の練習)
 朗読
カローラⅡにのって
痛快ウキウキ通り
天気読み
戦場のボーイズライフ
強い気持ち強い愛
 MC
今夜はブギー・バック
 朗読
夢が夢なら
麝香
 朗読
シッカショ節(新曲)
さよならなんて云えないよ(メンバー紹介)
ドアをノックするのは誰だ
ある光
時間軸を曲げて(新曲)
ラブリー
流れ星ビバップ

***アンコール***
いちょう並木のセレナーデ
愛し愛されて生きるのさ
**********************************************



相模大野グリーンホール、初日。5列目。ほぼ真ん中の最高の座席。
演奏前、客席に向かって10分前くらいから強いライトが当たり、演奏直前に真っ暗に。
そして「ひー、ふー、みー、よー!」の合図で「流れ星ビバップ」がスタート。
周りの人が立ち上がったのか座っているのかわからないくらいの真っ暗闇。

真っ暗の中で流れる音楽。目の前で演奏しているのだけれど、何も見えない。
見えるのはアンプの光るランプだけ。

1コーラスで音が止まる。
小沢用読書灯の様なものでちらっと顔が見える。
鳴りやまない歓声。鳴りやまない。
で、歌以外の第一声が「はじめられない」。
朗読がはじまる。

その内容は2003年のニューヨーク大停電のときのこと。
停電によってもたらされた『いつも同じ感じで進んでいる世の中の、全然違う世の中がある』があったこと。

『真っ暗闇の中で聞く音楽』について。
『同じ暗闇の中で、同じ音楽を聴いている、同じ気持ちの人たちが居ることを感じる』ことについて。
『もとの生活に戻ったとしても、世の中の裂け目で一瞬だけみたもの、聞いたことは絶対に忘れない』ことについて。
正直、このライブが全編真っ暗だったとしても良いかな、と思いました。
そのくらい、感じることがあった。
感じまくった。

朗読については全く拍子抜けの方々がいたかもしれませんが、私はそういうことなんだ、理解しています。これらは「うさぎ!」で予習済みの方であればすんなりと入ってきた事だと思います。
自分が見聞きしてきて感じたことを来ている人たちに伝えている。
決して上から目線ではなく、共有して欲しいから言っているのだろうな。
「みんな大好きだよー」とか言われるよりも5テラ倍伝わる。
その反応はWebでの反応通りで、ライブが良かったイマイチだったとか言うことよりも、先に書いたリテラシーの高さに通じていると思います。
十分伝わっていたのだと思います。

そして、『同じ暗闇の中で、同じ音楽を聴いている、同じ気持ちの人たちが居ることを感じる』
これが、正にで、そうじゃないこのライブの今の状況ってありえないと。
ここから続く2時間半がその通りの時間だったし、全力で楽しむ用意はできてたし。
それは「懐かしい」じゃなくて、なんとも明文化しにくい、想いのカタマリみたいなものです。
新曲「時間軸を曲げて」の歌詞を引用するならば『ありがとうという言葉で失われしもの』。



1曲ずつ感想を書いていくと本が書けるくらいになるので、ポイントだけ。


先にも書きましたが、私は幸いにも相模大野の初日に行くことができました。
2回目に行った浜松公演との違いは、初日は小沢と客のテンションが高すぎるということ。もちろん良い意味で。
目の錯覚ではなく、節々で小沢が涙ぐんでいる。

全編、大合唱。小沢自身も「歌って!」というジェスチャーで煽るわけですよ。煽るまでもなく大合唱なんですが。この合唱。
あと、決まりものも観客が完全にわかってる。
「プラダの靴が欲しいの~」で「オー!」とか、「バーラーバー」で両手を挙げて左右に振るとか、ドアノックダンスとか。
もう、恥ずかしいとか無いわけですよ。
中年の同窓会と言われたらそう思った方にはそれまでですが、そこまで完璧にみんなが覚えているっていうこと、本当に待っていたんだと言うこと。過去のものでは全然無い。
殆どが事前にアナウンスされていたとおりのヒットパレードであったのだけれど、果たしてこんなにポップでグサグサ来る音楽がどれくらいあるんだろうか。
音楽以外のもの、映画、小説、詩、絵画、写真、彫刻、いろいろひっくるめてもそうありませんよ。
曲順とか、演出とか、ことごとく楽しくて、飽きさせず、立ちっぱなしで終わる頃には足がつりかけました。
終わってからは歌いすぎて喉かれる。

相模大野でとても感慨深かったのは、「強い気持ち強い愛」が終わった後に、ずっとずっと拍手が鳴りやまず、鳴りやまず、その後に小沢が言った『ご無沙汰しております』という一言。
この一言が、待っていた私たちに最大限の感謝を現していたんだろうな、と思っています。
カッコつけた一言でなく、野音フリーコンサートでの「今日は来てくれてありがとう、マジで」でもなく、大人になった分なのか、品が良い。小沢は、本当に育ちが良いんだな、と思った瞬間でもあります。
ひふみよサイトで半ば否定的であったセルフプロデュースへの否定的な態度と照らし合わせたとしても素敵な一言。
朗読で言い続けた価値観の相対性の話しを含んだとしても、誠実な一言。
もうね、この一言が聞けたことが嬉しい。こちらこそ、ご無沙汰しておりました。
浜松会場では、一度聞いているライブだからということもあり、相模大野で残した疑問を確認する目的もあり、かなりしっかり聞くことが出来ました。
朗読も相模大野では若干早口で節々何言ってるかわからないところもありましたが、浜松では読み聞かせるようなスピード。
殆どの方が理解できたんだろうと思います。
朗読は同意が必要ない、世の中の矛盾について否定的であるようで、断言しない、不思議な内容。




で、ポイントの話しです。




今回のライブで既存曲の歌詞をいくつか変えています。
重要な部分だけピックアップしていきます。
これらは、先日相模大野と神奈川県民ホールのライブ後の同士会渋谷(小沢好きが集まって飲んでた)でのアジェンダに乗っ取っています。



■スティーリー・ダン問題
「天使たちのシーン」の歌詞で『真夜中に流れるスティーリーダン、遠い街の物語話してる』という部分がありますが、それを今回は
『真夜中に流れる銀杏並木、この街の物語話してる』に変更しています。
これが一番重要でわかりやすく、全ての朗読とリンクしていて、「うさぎ!」や「企業的な社会、セラピー的な社会」での価値観話ともリンクしています。

ところで、私の小沢最重要曲であるこの曲、ひふみよではフェイクを入れまくりすぎて別の曲になってました。
淡々と綴る愛すべき日常ではなく、愛おしくてたまらないこの大きな世界という歌に変貌を遂げました。




■夢が夢なら問題
「夢が夢なら」のレコーディング版のラストは『行きつ戻りつゆくよ船を』で結んでいるのですが、今回のライブではその節を歌わず。
ヒアリングの結果、どのライブでも歌われていない様です。
これも時間軸の話し。
「夢が夢なら」という歌が割と仏教的というか、輪廻を感じさせるというか、生死感が前面に出ている季節の数え歌なのです。
最後の『行きつ戻りつゆくよ船を』がある場合は『お釈迦様の手のひらの上で回り続ける運命』というLet it beの様なイメージですが、この歌詞を歌わないとすると、方向が定まらない。ベクトル、力点が定まらないのです。
ベクトルをあえて無くしたことにより、力学な感じが無くなって、もっと自由にぼくらは時間を行き来できるという印象。



■感じたかった問題
これも超重要。
「ラブリー」では『それで Life is comin' back ぼくらを待つ』を『それで 感じたかったぼくらを待つ』に変更し、『Can't see the way it's a』を『完璧な絵に似た』に変更。
これはライブ中盤で"みんなで練習を"して(アルバム「球体の奏でる音楽」でそういう曲がありましたが)まで歌いたかったこと。
韻も同じ。
アンコールの2曲目「愛し愛されて生きるのさ」に前にも『それじゃ、感じたかったぼくらを待つ曲をもう一曲』なんつって演奏していました。
果たして「感じたかった」ことはなんだったのか。
まるで、英語みたいな文法。
随分昔に習ったのであいまいなのですが、英語ではifが入るとその後は過去形か過去分詞だったかと。
感じたかったこと、というのは過去形である体でこれから起こることを望んでいるのは文字面のまま。
『感じたかったこと』は『今』のことですね。
時系列がわかりにくくなってますが。



■わかってきてる問題
「いちょう並木のセレナーデ」の最後の『アイム・レディ・フォー・ザ・ブルー』を『わかってきてる』に変更。
『アイム・レディ・フォー・ザ・ブルー』の結びが何故『わかってきてる』のか?
そもそも、ブルーの用意ができてるのは誰だったのか。
自分ではないあなたであったはず。
だったとしたら『わかってきてる?』という疑問形なのでは。
『私』ではない『あなた』に『そろそろわかってきたのね』と言われる。そう言われる気持ち。長い時間をかけて気付いたことを一言にまとめたのでは。
張り裂けそうな想いを歌い上げ、その内側の気持ちを醸成して自分の言葉ではなく『あなた』から言われることの方が幸せなラブソングになるという解釈です。




■我ら時を行く問題
ライブ最後の曲「愛し愛されて生きるのさ」の間奏(語り)部分のラストにある『You've got to get into the groove』が『我ら時を行く』に変更されています。
特殊相対性理論みたいなもんで、時間なんてものはエネルギーの塊で決して一方通行ではない。向かう方向も1方向だけではない。空間も同じ。その一方ではないということに意味がある。
私なりの解釈だと『13年ぶりのライブが過去の焼き直しの様に感じたとしても、そこに戻っているのではなくて、時間というのはルービックキューブの表面にあるいろいろな色の様に同時に存在しているものなんだから、それを否定することなんか全然無い。我々はそんな時を生きている』ということなのでしょうか。
これは小沢健二に限ったことではなくて、全てのファン意識でしょう。
意訳しすぎでしょうか。




□総論
以上のアジェンダを振り返ると、割と全てに共通するのが「時間」の問題。
今回のライブが13年ぶりであるにもかかわらず、後期の曲を殆ど(麝香くらいしか)演奏せず、とにかくピークであった自分の曲を歌いまくっていた。
そして、我々も歌いまくっていた。
自分自身を大衆音楽である、そうありたいという想いが凄く強い。
だからこその選曲。
POPであるということは迎合するということではなくて、もっと沢山の人たちに伝える為の手段というだけでもなくて、純化する程にPOPになっていくのでしょう。
太宰治、村上春樹、三島由紀夫、谷崎潤一郎、岩井俊二、ロバート・アルトマン、ウディ・アレン、カート・コバーン、ジョン・レノン、宮崎駿。
そして、受け入れられる。
まるで、我々の為に準備されたものの様に。

13年は空白ではなくて、醸成期間なんだとか、ただの空白とか言う人もいるかもしれないけれど、そうでななくて、過去と現在は直結しているのですよ。
過去の自分に決別して、成長した気になるって一体何?っつうか、成長って何?切り捨て?そうじゃないでしょ。観てきたモノ、聞いてきたモノ、感じてきたもモノ、全部。
それこそ、その時間をただの経過としたとしたら、オッサンの「昔は良かったねぇ・・」でしかない。流れて過ぎていったものだとしたらそれはとてもつまらない。
今でも、昔でも好きなものは好きだし、その時が無ければ今が無い。今がなければ過去も無い。






彼が世界中を旅行して、いろんな国の音楽を耳に入るまま聴聞き、大衆音楽が同じことを歌っていることを感じ、音楽家として大衆音楽が求めていることを歌う。やろうと思ってもそのまま出来る人はあんまりいません。
馬鹿な人が聞くとただの自己完結した理想主義的なことに思えるかもしれなし、もっと馬鹿な人が歌うと陶酔で何言ってるかすらわからない。
それらと小沢が決定的に違うのが、決して断定はしていないのです。ちゃんと聞くと、不思議に断定がない。「僕はこう思うんだけど、別に強要はしない。どうせわからないでしょ?」っていう距離。
「いちごが染まる」や「シッカショ節」もそう。
まとめてしまってはいけないんだけど、歌詞がよく聞き取れてないので避けたいのですが、印象としてはやっぱり迷いがない。
でも、今となってみれば、小沢が撒いた種を育てて、育て続けているわけで、我々は完全にそっち側なんですよ。未だにその境地には行けてませんが。
誰かの、圧力的な決定に対しても自分自身の嗅覚で判断するということはとても勇気のいることです。
生活の全ての面でそれをやることは難しいですが、根本をそこに置くことがとても大事。

ひふみよツアーでは、主に朗読で『全ての人の幸せなんて相対的なもので、他からなんか言われるとかどうでもよくて、自分が何が幸せかどうかがってことでしょ?』ってことを伝えています。
『完璧な絵に似た』ものは、自分が『完璧な絵』を知っているかどうかということ。それさえ知っていれば商業的絶対主義なんて恐るるに足らずなのです。


少なくともあのライブ会場にいた人たちは楽しすぎる時間を知っている訳です。そこが幸せライン。
そうでなかったとしても、それはその人たちが感じることであって、強要することではない。
個人で完結するんじゃなくて、誰かと共有できること。
キモチワルイかもしれないけれど、本当にそう思った。

ツアー終了後にひふみよサイトに小沢が乗せた文言に新曲「時間軸を曲げて」の歌詞を引用した謝辞が掲載されています。
『ありがとうという言葉で失われしものに誓うよ/磯に波打つ潮よりも濃く我の心はともにある』
一見難解な詩を超意訳すると下記になりました。
『ありがとうという言葉で削られてしまった他にいっぱいあるミネラルみたいな感情の成分を決して忘れない。だからと言って、ありがとうじゃない訳じゃない。それだけで著したくないだけ。/長い時間をかけて岩を穿つ雨垂れよりも、南アフリカの遙かなる断崖絶壁を削り取る力強い海の波よりも、もっと濃密な強い気持ちをあなたに伝えたいのだ』
完全に私見です。



いつもと全然ちがうぼくらの在り方もあって、その世界で同じ気持ちの人がいることを感じる。
人が感動するものは、それほど変わらない。
ぼくらはそれほど違わない。


拝啓
小沢健二様
あなたが撒いた種は、ちゃんと育っていますよ。


そういうことで良いのだと思います。

twitterはじめてます。

2009-09-23 01:50:53 | 映画
twitterやってます。

毎度のスクリーンネームでいます。
面白くなるのはフォローが100人越えてからだとか。

映画【サマーウォーズ(SUMMRE WARS)】T

2009-08-12 00:32:09 | 映画
サマーウォーズ(SUMMRE WARS)
2009
細田守



ほったらかしっぱなしの当ブログでしたが、コレばっかりは言及せざるを得ません。

これは名作!
今年の夏物一点買いは、コレで間違い無しですよ!旦那さん!
キモチワルイくらいのベタ褒めです。
これから鑑賞される方は眉唾でお読み下さい。


細田守監督作品ということで、前作の「時をかける少女」があっての期待値はハンパ無いですが、いや、もう、ねぇ・・・。

今現在、国産で、破壊力というか、瞬発力というか、下手な理詰め抜きとか、邪推を凌駕するとか、そういった本来「作品」が持つべき力を持っている作品って何があるかなぁ・・・と思うと、殆どアニメです。
「涼宮ハルヒの憂鬱」「けいおん!」「EVA 破」あたりはまぁ面白いよねぇ・・・、とか言ってると損しますよ。超私見ですが。

もう、むき出しなんですよ。
楽しい!面白い!好きだ!とかいう感覚。
創っている方々の搾取されっぷりは度外視で。(※その辺もいい加減にして欲しいですが。)

TVドラマの続編の劇場版とかは、もうシネ!マジでシネ!消えて亡くなれ!
バルス!!(※ラピュタ語で「閉じよ」の意味。トルコ語でのBARIS(平和)が語源か)

余談ですが、川崎の劇場を出た足で秋葉原に向かって漫画屋とか、アニメショップとか、フィギュア屋とかを徘徊していたのです。
そこにいるお客さんが、恵比寿の有隣堂あたりにいる死んだ魚の目で何となく流行っているモノを探す目ではなく、確実にハンターの目。
ぽっと出の私がそこにいることが憚れんばかりの静かなる戦場。



少しばかり分析チックなことも綴っておこうと思います。

本作のテーマが細田守監督が言う「家族」と「繋がり」というのは観た方であれば言うまでもないでしょう。方々のインタビューでもそう宣っています。
少なくとも、パルムドールを獲る様な人間の本質に迫るような描写があったわけではなく、万人に受け入れられそうなアカデミー賞のような最大公約数ヒーローもいません。もちろん、日本アカデミー賞を獲るようなメジャー俳優が声の出演をしているわけでもありません。
何故、面白かったのか?

考え込むと『サマーウォーズとは何だったのか?』という昔のEVA特集のスタジオヴォイスの様な疑問が浮かんできます。
いや、焼き付いているシーンを思い返してもストーリーとかテーマとかモチーフとかに対して明文化できそうな感想は無いのです。
「ディアドクター」を観たときのような『あれは「良い意味でいい加減」なことを是とする閉鎖された村社会のお話なんだけど、最後はファンタジーで締めちゃって、なんだか視点がぼやけた映画になっちゃったよね。いや、良い映画なんだけど』といった分析できてんだかどうなんだかわからない映画通っぽい理屈が通用しない。

「サマーウォーズ」に登場する仮想空間OZの世界観にしてはSF側からのツッコミ所満載ですが、それは敢えて物語をシンプルにするための仕掛けの一つだと考えています。現在ある技術の中で、「理解しやすい」「バーチャル」でありつつ「繋がり」を象徴するテクノロジーの選択という解釈で。
「EVA」における「人類補完計画」ではなく、「2001年宇宙の旅」におけるHAL 9000(ディスカバリー号に搭載された人工知能を備えたコンピュータ)であると解釈するのが妥当でしょう。

あるのは「もう一度観たいなぁ」という漠とした感想。
果たして「サマーウォーズ」に何があったのかと聞かれたら「細田演出」のズバ抜け方に尽きるかもしれません。
宮崎駿監督のテーマ(?)である人間嫌いとか、大友克洋監督のパラノイア的な緻密な作画とか、庵野秀明監督の丸出しの自分哲学とか、サマーウォーズ以前の作品を思い起こせば、そこにあるのは何かに向かった表現手法がコンテクストとマッチしてるなぁ、と。
全ての映画はコンテクストの上で、ないしはコンテクストをステージとして踊る人たちというアウトプットだと思っているのですが、それを超如実に顕しているのが本作「サマーウォーズ」なのではないでしょうか。
『「家族」や「つながり」、それをもって僕たちは人を人たらしめる』という出口の表現のために、あえて脚本上はシンプルに組み、表現手法追求しまくった作品結果が「サマーウォーズ」というコンテクストなのではないでしょうか。

ちなみに、コンテクスト、という単語も随分曖昧なのですが、よく「文脈上の共通解釈」という意で訳されます。
でも、もう少し主題とかファクターとかという言葉に近い意味で私は使っています。

何だか分からないけれど感動した、という方が殆どだと思います。
正にその通りで、明文化せずとも、コンテクストから逆算の理解でテーマを肌で感じる。
で、結局何だったの?というのは複雑になりすぎた映画作りへのアンチテーゼの様にも思えますが、それはただの深読みでしょうか。
その最深部にある、言葉では言えない表現を探り当てた映画。
とある映画監督が『テーマ?それが一言で言えれば俺は映画なんて撮ってない』と言っていましたが、その言葉は翻って『映画?一言で理解できるなら映画なんて観ない』ということにもなります。
これは計算で出来ることではありません。もし、出来たとしたらとんでもないことです。
本作は細田守監督が言語化できなかったことを、言語化しないままに私たちが感じることができる作品ではないでしょうか。
シンプルで、逃げも隠れもせず、真正面から面白かった。


面倒なことをグダグダと捲し立てましたが、巡り巡って言葉を探して、結局私が行き着く一言。


良かった、また観たい。





本作とか、昨今の映画とかアニメについてなんやかんやある方、是非ご連絡下さい。
ビール片手に建設的にクダ巻きまくりましょう。