Here and There

移ろいゆく日々と激動する世界

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2015-03-10 18:49:12 | Weblog

<Profile>

瀬川正仁(映像ジャーナリスト)
ジャン・リュック・ゴダールの『気違いピエロ』を見て映画に憧れたのは中学時代。
大学卒業後、当時、唯一、助監督を採用していた日活撮影所に入所。
しかし、日本映画界はどん底の時代。夢と現実の落差に行き詰まりを感じていたとき、
たまたま出会ったタイ山岳民族のシンプルな暮らしにカルチャーショックを受け、
アジアの魅力にとり憑かれる。以来、フリーの映像作家として、
アジア文化、マイノリティー、教育などをテーマにドキュメンタリーを作り続けている。
作品に、『ミャンマー・チン・巨石をあげて名を遺せ』、『サマリア人3000年の祈り』、
エチオピア・少年は牛の背を渡る、『トルコ・巨大地下都市の謎』(以上NHK)、
学校を元気にした教師バンド(中京テレビ30周年記念番組)、などなど。
2003年より映像製作と平行し、ノンフィクションを執筆。

<主な著作>

2005年、「ヌサトゥンガラ島々紀行」(凱風社)
インドネシア、バリ島からティモール島にかけて浮かぶ小さな島々。
急速に世界が均質化してゆく中、多様な文化や考え方が共存することの大切さを噛みしめたい。

2007年、ビルマとミャンマーのあいだ」(凱風社)
日本ではあまり知られていないビルマの真実を少数民族の状況を中心に描いた、

2008年
、「老いて男はアジアをめざす-(バジリコ)」
すべてを使い捨てる時代。人間をも使い捨てる日本を脱出し、
熱帯アジアで暮らす日本人高齢者の赤裸々な現実を描いた。

2009年、
若者たち-夜間定時制高校から視えるニッポン(バジリコ)」
最後のセーフティネットである公教育の辺境、夜間定時制高校。
そこに通う若者たちの現実を9ヶ月に及ぶ取材と共に描いた。

2010年、なぜ尾崎豊なのか。-明日が見えない今日を生きるためにバジリコ)
26歳で夭折した天才シンガーソングライター尾崎豊。彼の残した詩から
混迷する今を生きるメッセージを探る社会論。

2011年、
「六〇歳から始める小さな」仕事(バジリコ)」
老人大国ニッポン。第二の人生をいかに豊かに生きるか?
28人の人生通して考える。

2011年、
ジアの辺境に学ぶ幸福の質(亜紀書房)」
これまでのアジア辺境取材を通じて感じた思いをぶつけた。
辺境の民、日本人の進むべき道。

2011年、
教育の豊かさ学校のチカラ――分かち合いの教室へ(岩波書店)」
すべての根源にある教育。その大切な教育をいかに良いものにしてゆくのか。
1年あまりに及ぶ取材を通じ、輝かしい成果を上げている教育現場を紹介する。

 

 


多様なキリスト教

2006-05-03 17:09:11 | 多様性

 ここのところキリスト教の周辺が騒がしい。
 古代エジプトのコプト語で書かれた「ユダの福音書」が発見されたり、神の子イエス・キリストがマグダラのマリアの子を生んでいたという仮説「ダビンチ・コード」が映画化されたり、キリスト教の根幹を揺るがすような議論が巷でなされている。もちろん2000年の風雪に耐えてきたキリスト教がそんなことで揺らぐはずはないのだが、私たちが世界標準と考えていることの多くの事象に、欧米のキリスト教的世界観が大きな影響を与えていることを考えると興味をそそられる話題だ。
 そんな中で、4月28日からCS「ナショナル・ジオグラフィック」チャンネルで3夜連続放送された「シークレット・バイブル」は、初期キリスト教の知られざる情報(私が知らなかっただけかもしれないが)を満載し、興味深いレポートになっていた。
 世界最大の宗教キリスト教も、2000年前は当然のことながら新興宗教だった。イエスの死後、キリスト教生成期のローマ帝国の版図には、キリスト教に酷似した新興宗教が乱立し、しのぎを削っていた。中でも新約聖書に邪教として登場するシモン教は、当時、キリスト教以上の人気と勢力を持っていたそうだ。
 また、現在はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つしか認められていない福音書も、キリスト教成立当初は30余りあり、今回発見されたユダの福音書もその一つと考えられている。
 古代エジプトで生まれたという一神教の流れはユダヤ教、キリスト教、イスラム教と受け継がれてゆく。その間、それぞれの宗教はその出自を隠すためデフォルメされ、多くのミッシング・リンクが存在する。
 たとえばキリスト教の創始者であるイエス・キリストは当然のことながら元々はユダヤ人の家に生まれたユダヤ教徒だった。褐色の肌をしたセム系のユダヤ人であったイエス・キリストがいつから白人として描かれるようになったのか、そして、割礼の習慣のあるユダヤ教徒であったキリストの像が、いつから包茎になったのか。以前、劇作家の寺山修司氏が何かの本で書いていたが、たいへん興味深い。
 もちろんイエスの思想はユダヤ教の根幹を否定するもので、全く別の宗教になる萌芽はあったものの、初期キリスト教は多くの点でユダヤ教的世界観を共有していた。そしてキリスト教成立の過程は、このユダヤ教との決別に最大とまではいわないまでも、大きな力点が置かれていたようだ。「ユダの福音書」が正式な教典(新約聖書)からはずされたのもこのような経緯と関係があるようだ。
 この福音書では裏切り者ユダは、実はイエスの最大の理解者で、イエスは最も信頼しているユダに、あえて自分の居場所をローマ軍に密告するように命じ、捕らえられ、虐殺されることによって自分の思想を成就させたと伝えている。
 この記述は、正統教会から異端として退けられたグノーシス派の思想と酷似していることから、今回発見された福音書もグノーシス派のものと考え、ローマの法王庁はあまりまともに取り合っていない。また番組の中でも深入りはしていない。
 しかし、イエス・キリストがユダヤ教を熟知していたこと、布教の対象の多くがユダヤ教徒であったを考えると、イエスががユダヤ教の教典、旧約聖書の救世主観(迫害による死と再生)を自ら演じた可能性は高く、たまたま裏切り者が出たので殺されたというより、イエスが自分の人生を完結させるため、自らの意志でユダに裏切らせたと考えた方が自然であるような気がする。
 一時は正統教会以上の力があったグノーシス派も密教的要素が強かったため信徒の獲得で正統教会に先を越され、異端として歴史の闇に消えていった。
 ナショナル・ジオグラフィック「シークレット・バイブル」は、厚みのある取材で、一神教の雄・キリスト教が、成立当初、多様性を持った宗教だったことを垣間見させてくれた。



二つのフローレス島

2006-04-26 20:14:26 | 多様性

 杉田敦氏の著書「アソーレス、孤独の群島」を読んだ。
  北大西洋のほぼ中央にぽっかりと浮かぶポルトガル領アソーレス諸島。その名を初めて聞いたのは、不思議なことにアソーレスから見ると地球の裏側ともいえる、インドネシアの辺境でかつてのポルトガル植民地だったヌサトゥンガラ諸島を旅していた時だ。フローレス(ポルトガル語で「花」の意味)という島の安宿で隣り合わせたポルトガルの老人がこんな話を聞かせてくれた。
  「ここから見ると、地球の反対側にアソーレス諸島というところがあるんだ。そこにもフローレス(花)という名の島があって、面白いことに、そこも昔は有名な捕鯨の島だったんだ」
  巨大なマッコウクジラを銛で突く勇壮なクジラ漁に魅せられ、足繁くヌサトゥンガラに通っていた私にとって、以来、アソーレスの名は忘れえぬものになった。
 今回、「アソーレス、孤独の群島」を読んで、グローバリズムの辺境にあるこの二つの島の不思議な繋がりを思わずにいられなかった。
 アソーレスの名がスポットライトを浴びたのは、いまから3年前。ジョージ・ブッシュ、トニー・ブレア、ホセ・マリア・アスナール(スペイン首相)、この3人の指導者がアソーレス諸島にあるテルセイラ島に集まり、イラク戦争開戦の密約を交わしたときだ(幸か不幸か、イラク戦争に多大な経済的貢献をした日本の首相は蚊帳の外だった)。
  この会談の三日後、イラク戦争は始まった。美しい自然に恵まれた絶海の孤島に血塗られた歴史が刻まれたのだ。しかし、アソーレスがこうした不名誉な歴史の舞台になったのには布石があった。
 話は再びインドネシア、ヌサトゥンガラに戻る。18世紀から19世紀にかけて、オランダとの戦いに敗れ、香料や白檀など巨万の富を生み出すヌサトゥンガラ諸島の利権をほとんど失ったポルトガルが、最後の砦として死守したのがヌサトゥンガラの東端チモール島だった。ポルトガルはこの東チモールの利権を維持するための交換条件として、第二次大戦中、軍事的要衝であったアソーレス諸島を連合軍の基地として使うことを許可したのだ。
 以降、アソーレス諸島は今回のイラク開戦密約の舞台になったラージェス米軍基地を始め、いくつかの軍事施設を擁する基地の島となったという。それと引き換えに、ヌサトゥンガラの他の地域がインドネシアの一員としてオランダから独立した後も、東チモールは四半世紀に渡ってポルトガルの支配を受け、悲劇の独立戦争を招いたのだ。
 ヌサトゥンガラのレンバタ島では、いまでも生存捕鯨として世界で唯一、勇壮なマッコウクジラ漁が行われている。一方、ポルトガルは1982年、反捕鯨国に転じ、捕鯨基地として栄えたアソーレス諸島は長い捕鯨の歴史に終止符を打った。  


難民のお正月

2006-04-16 22:23:58 | 多様性
 以前、「難民センター閉鎖」のところでも書いたが、日本にはベトナム戦争の落とし子であるインドシナ難民(ベトナム、ラオス、カンボジア)が、1万人余り暮らしている。今日は、そのうちのカンボジア人とラオス人の新年のお祝いの日。 日本は明治5年以来、西暦(グレゴリオ歴)を使っているので、西暦の1月1日が正月にあたるが、世界にはさまざまな暦があり、正月の時期もまちまちだ。
 インドシナ3国のうちベトナムは中国同様、太陽太陰暦の立春が正月(テト)にあたるため、正月は2月前後になるが、ラオスやカンボジアなど仏教国は仏歴を用いていて、ちょうどこの時期が正月になる。ものの本によると、仏歴では太陽が白羊宮にはいった時が新年だそうで、カンボジアではサンカーン、ラオス語ではソンカーンと呼ばれている。この二つの国の人達の祭が神奈川県で別々に開かれ、おじゃましてきた。
 神奈川県は大和に難民定住促進センターがあったせいで全国で最もインドシナ難民が多い県だ。特にカンボジア難民の8割近く(日本で生まれた二世を含めると2000人近く)が、神奈川県内に住んでいる。そのため、正月の祭も盛況だ。すでに定住が始まって27年、暮らしも安定してきているせいか、お祝いも年々豪華になる。今年は本国から僧侶を招いた仏教儀式や古典舞踊、民族舞踊などもあり、500人近い人が狭い会場にやってきた。
 みんな幸せそうだが、実はここに来られる難民は勝ち組とまではいわないが、それなりに日本への適応がうまくいった人たち。多くの難民は生活苦や降りかかる難題に追われ、新年の祭など楽しむ状況にないのも事実だ。
  「私たちはポルポト時代のジェノサイドを体験しているので、日本の暮らしが多少きつくても我慢できるんです。でも若い人たちは大変でしょうね」
 会場で出会った日本生活24年目の難民が言った。
 また、母語教育の普及活動をしている別の難民は悲しそうな表情で話した。
 「私たちはすっかり日本人になったつもりだけど、日本の人はいつまでたっても日本人とは認めてくれない。だから我々は自分の子供たちにカンボジア人としてのアイデンティティをしっかり教えなければならないのです」

 昼食は手作りのカンボジア料理。だが、量が少ない上、料理目当てにその時間にだけやってくる人がいたりするので、瞬く間に皿は空になってしまい、写真を撮っていた私は会費を払ったのに食べられずじまい。
 でも、日本に過剰適応しようとして心の病に陥る外国人をたくさん見てきた私は、それもカンボジアらしくていいのかも、と妙に納得したりして。 

あるミュージシャン

2006-04-10 23:29:10 | 

 重い話題が続いたのでここで、ちょっぴり楽しい話題。
 写真の人物、誰だかわかりますか?

  彼の名はダグラス・ワキウリ氏。この名前を聞いてすぐにわかる人は、ある程度、年配の方かもしれない。
  ワキウリさんはソウル五輪の銀メダルはじめ、'80年代から'90年代にかけて世界の名だたるマラソン大会のタイトルを総なめにした世界的なランナーです。ワキウリさんの国籍はケニア、しかし、マラソン修行を積んだのは日本のSB食品。名匠中村監督の下で、あの瀬古選手らと一緒に育てられ、ケニア人の身体能力と日本人の精神力を持つ男と世界から恐れられた名ランナーだ。
  そんなわけでワキウリさんは日本語がペラペラ。競技引退後、得意の日本語を生かして、ケニアで日本人や英語圏の旅行者たちのガイドや撮影のコーディネーターをしていた。私が知り合ったのも2年前、NHKの仕事でケニアに行ったとき、コーディネーターをお願いしたのがきっかけだった。
 先日、日本電波ニュース社のKプロデューサーからワキウリ氏が日本に来ているという連絡をいただき会いに行った。なんと彼は、日本で音楽活動をするため、これからは日本に住むとのこと。
 実は私も彼の音楽センスと言葉の感覚の素晴らしさには注目していた。彼の代表曲「ガンバレ」は、私の番組の中でも長時間使わせてもらった。この曲は、日本語とスワヒリ語の混ざり合った歌詞で、ロードワークをしているような不思議なテンポの曲だ。貧しさから抜け出そうとに必死に働き続けるケニアの人たち、豊かさを手に入れた後も命を削ってまで働く日本の人たち。二つの国の現実をつぶさに見てきたワキウリさんならではの、両国の頑張って生きる人たちへの応援歌になっている。
  ところでケニアは何でマラソンが強いのか知っていますか?
 貧乏人のスポーツというと、まずサッカーがあげられる。ボールと空き地さえあれば誰でも始められるからだ。しかしマラソンは、ボールさえ買えない貧しい人たちが、身体ひとつで始められる究極の貧乏人のスポーツなのです。そして、貧しさゆえ教育さえまともに受けられないケニアの若者たちが、富と名声を手に入れることのできる最善のスポーツでもあるのです。
 ケニアのスラムにゆくと、明日のワキウリさんやヌデレバ選手を目指し、裸足で道を走り続ける若者たちの姿を見ることができる。身体能力の高さや、足を使わざるをえない生活条件もさることながら、こうしたハングリー精神こそがマラソン王国ケニアを支えているのがわかる。そんなケニアの人たちにとって、ワキウリ氏は文字どおり、偉大なヒーローなのだ。
 CDの売り上げの一部は、ナイロビのスラム、キビラ地区の人たちのために使う予定だということ。ガンバレ!ワキウリ!

ワキウリさんの音楽のオフィシャル・サイト
 http://park8.wakwak.com/~miru/page014.html