明日もあなたと手をつなげたら

ここを訪れてくださった方々とつながっていけたらいいなと願っています

「しら?」

2006-07-26 14:26:50 | 子育て親育ち
うちの豆ちゃん(1歳11ヶ月なりたて)に「~かしら?」と尋ねたら「しら?」と答えました。「~ら?」もしくは「~かしら?」あたりだと予想通りなんですが、「しら?」とはまたいかに。文節の区切りがわかってないったらありゃしないですな。おもろいやっちゃとニマニマしてしまう母がここに。しかも「しら?」と言いながら小首をかしげるそのさま。かわゆさも倍増です。もうわたくし、きゅんきゅんとこみ上げてくる嬉しさのあまり、足をジタバタさせてしまうというものでございますです。

現実

2006-07-03 19:26:29 | 石の上にも
先日、「エピソード(1)マザーテレサの言葉」のところで、下のように書きました。

「非力な私には大きすぎることなのかも知れませんが、
 とある現実があります。

 それは、
 涙が止まらないほど悲しくてたまらないようなこと
 なのですが、
 そのような涙を流させていただく機会をいただけたことが
 ありがたいとさえ思えるようなこと
 でもあります。

 ですから
 その『とある現実』と
 その現実が私に与えた、そして与え続けるであろうものを
 表したいのです。」

表すために、エピソードを連ねてきました。ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

さて、今回はその、「とある現実」を書きます。それは、ある女性Aさん(イニシャルも仮名)との出会いから始まりました。

あぁ、書こうと思うだけでも、さまざまな感情が去来し、胸が苦しいです。

Aさんは多少高齢なのですが、お会いしてから気が合って、家族の話を含めた世間話で盛り上がり、もうすぐ2歳になる私の息子のことも、とても可愛がってくださっています。

Aさんは何年も前にご主人を病気で亡くしています。ご主人は息子さんが中学生の頃には発病なさっていたそうです。

まだご主人がご健在の頃の、息子さんが小さいときのお写真を拝見させていただきました。小さい息子さんは、とてもかわいらしく、お手製の洋服を着こなしていました。

そんなある日、私はAさんのご主人がハンチントン病であったことを教えていただきました。そして、息子さんが発病なさりつつあることも。





ハンチントン病を知っていますか?私は初めて知りました。日本ハンチントン病ネットワーク(http://homepage1.nifty.com/JHDN/index.html)では次のように書かれています。

「ハンチントン病(HD)は、脳内の線条体と呼ばれる部分にある細胞が失われることによって、症状が引き起こされる疾患です。通常は中年期(35歳から50歳)の間に発症し、症状は次第に進んでいきます。」

「その三つの症状とは、物事を認識する力(思考・判断・記憶)の喪失、動作をコントロールする力の喪失(不随意運動・飲み込み困難)、感情をコントロールする力の困難(抑鬱・感情の爆発・いらだちなど)です。」

「これらの症状の強さや表れ方は、個人個人によって全く異なっています。病気の終末期になると、食べ物を飲み込めなくなることが大きな問題となり、歩行も会話も難しくなります。しかし、周囲の状況はわかっており、自分の好きなものや嫌いなもの、近しい人と他人の区別もできます。発症してから15年から20年ほどで亡くなることが多いようです。」

「また、この病気のもう一つの特徴は、遺伝子によって次世代に伝わっていくことです。いわゆる優性遺伝ですので、片方の親が発病した場合、子供に伝わる確率は1/2です。子供に対してHDについてどのように伝えていくのかというのは難しい問題ですが、少しずつ段階的に家族で共有していくことが望ましいとされています。」

「多くの場合、最初の兆候が現れて数年間は、自立生活を維持することができます。専門医に相談すれば、それぞれの症状を最小限に抑えるための適切な治療を施してくれます。また、自立生活をできるだけ長く維持するために、そして家族も患者も共にQOL(生活の質)をできるだけ高く維持するために、多くの職種の人たちが最大限の協力をしてくれます。ホームヘルパー、看護婦、保健婦、ソーシャルワーカー、作業療法士、言語聴覚士、理学療法士、栄養士、臨床心理士など、身近な医療サービス・福祉サービスの専門家でチームを組んでもらうことが心強いことです。一緒に支え合っていきましょう。」





つまり、物事を認識する力(思考・判断・記憶)の喪失、動作をコントロールする力の喪失(不随意運動・飲み込み困難)、感情をコントロールする力の困難(抑鬱・感情の爆発・いらだちなど)が進行していく遺伝性の高い病気だということです。

最初おうかがいしたあと、症状を教えていただいたのですが、私の理解は伝聞での理解だったので、生ぬるいものでした。私は、Aさんの明るさに安心し、甘くとらえていた事実も否めません。

後日、息子さんにお会いする機会がありました。たいへん感じがよく、にこやかにご挨拶いただけましたが、明らかに不随意運動が進んでおり、歩くと足がピョコ、ピョコ、と弾みます。私にとっては・・・衝撃でした。





その日から数日、私はさまざまなことを考えました。今でも色々と考えます。私にとって、Aさんは大切なお友だち、どこかしら家族のような感覚のある方でしたので、よけいに。

結婚し子供を産み育てている途中で、ご主人が発病し、その際に初めてその病名がハンチントン病であることを知ったAさん。どんな思いがしただろう。これから病気が進行していくであろう夫を見、息子が発病する可能性が50%以上であることを考え。息子さんはハンチントン病のことを知ったとき、どんなにか衝撃を受けただろうか。ご主人は、発病するかも知れない息子を見ながら、自分の病気がだんだん進行していく事実を、そしてこの世の分別がつかなくなるであろう恐怖を、どうとらえただろうか。あぁ、どうしてこのようなことが。

・・・自分にも息子がいて、その息子がチョコチョコとかわいらしい動きなんかをするので、それを見ていて涙が流れるのを止められませんでした。Aさん夫婦も、こんな時期があったんだろうか。

なのに、Aさんは明るい。息子さんも笑顔を見せてくれる。その裏に流れている涙や隠れている苦しさ辛さを見せつけることなく。

エピソード(3)救い

2006-07-03 04:02:49 | 石の上にも
今回はキリスト教がらみの話がふたつ、利己主義についてがひとつです。





6月12日に「求道者たる私」で、

「なお、ここで抜粋させてもらった三浦先生の『天の国への道』の話(メッセージBOX)は感動したので、そのうちまた書かせてもらおうと考えています。」

と書いたことがありました。

その「天の国への道」の話のなかで三浦先生は、世の終わりは救いなのだと述べられています。なぜでしょうか。それは、理不尽で苛酷な辛く苦しい状況のなか、不条理さに対する憎しみにとらわれ、悲しみに縛り付けられた人びとにとって、それでもこの世で善い行いを積めば、主が見ていてくださるということが、一筋の希望の光となるからです。(そして、自分と異なる環境にある人に対する、やり場のない怒りや羨みもまた、この世の終わりにおいては主によって判断されるのだという思いで消すことができますよね。)

私は幸運なことに、子育てという、私の人生においてこれまでなかったほど、とても贅沢な時間を過ごしています。それでも、人と自分を比べてしまったり、羨んでしまったりすることがあります。そんなとき、ついつい人(たいていは近くにいる夫・・・笑)に当たってしまいそうになるんですが、グッとこらえて、普通でいようと努力してみます。(善いことをしようとすると、頑張りすぎてしまって、反動が我ながら恐ろしいので、しません。)普通でいるのは普通だから、当然誰もホメてはくれないけれど、それも見守られていると思うと、背筋がスッとします。





そしてもうひとつ。救いにまつわるエピソード。

以前、教会の婦人会に参加していたとき、TV番組「世界が100人の村だったら」で奴隷の子供の存在が扱われていたことが話題にのぼりました。私はそれを観ていなかったのですが、新聞のTV欄に書かれていた内容は読んでありました。

ある方(私と同じ年くらいの息子さんがいらっしゃる女性)がおっしゃいました。

「私ね、その番組を観ながら、なんていうかもう・・・(声が震えて涙ぐまれました)、私には何ができるだろうって考えたんです。そのときに、あぁ、私には祈りが与えられているって思いました。それは私に対する救いだと思いました。」

私も、この世で生ずる様々な話を見聞きし、言葉を失うことがあります。わがことのように悔しくて歯ぎしりしたくなることがあります。涙がとめどなく流れてしまうことがあります。拳を固く握りしめてしまうことがあります。声が震えてしまうことがあります。唇を噛みしめてしまうことがあります。

そんなとき、私には何ができるでしょう?

確かに、募金をしたりボランティアをしたりすることができます。だけど、それだけじゃ足りないことが多いです。募金やボランティアをした時点でハイ終わりバラ色の人生お届け完了、というわけじゃありませんものね。もしそうできたら、これ以上にない喜びなんですけどね。そうはいかないところが辛いですよね。それに、自分の基盤をないがしろにして募金やボランティアをすることもできません。どうしても、できる範囲で、という制約がついてまわります。

でも、いつでも、どこでも、何度でも、祈ることはできます。それってすごいことだと思います。だって、私は、自分の幸せを誰かが祈ってくれてると思うと、嬉しくなりますもの。思念には力がある、そう思います。だから祈ることができること、祈ってもらえること、そのどちらも、私に与えられた救いです。






最後に利己主義について。

私は「いい子」でいたくないなぁと思っていました。誰しも、そういうの、ありますよね?偽善っぽくてやだなぁ、「いい子だね」って言われるのってなんかヤダなぁ、みたいな。

だから、徹底した利己主義、面白くて好きです。みんながみんな、自分のことばっかり考えてるっていうの!徹底した利己主義。そして「これ、親切とか言わないでね。だって自分の気持ちがいいからやらせてもらってるんだからさ」とか言うの!

もともと、そういう路線の思考回路が好きだったのに加えて、最近キリスト教へ復活してきたでしょう?そのおかげで、自分のなかの「人のためになりたい」欲求が素直に表現できるようになってきました。その欲求が満たされると幸せだし、しかもそうやって、聖書で勧められていることをやると、結局、世の終わりで(=つまり死ぬとき)評価されるというオマケまでついてくるわけです。なんてオトクな。

エピソード(2)変身してしまう恐怖

2006-06-29 00:30:03 | 石の上にも
今回のエピソードはホラー漫画「姉妹」(楳図かずお著)です。





小学校何年生の頃だったか、「おろち」という題のマンガの単行本を手に取りました。何気なく立ち読み開始。ところが、第一話を読んだ時点であまりに怖くなり、放り出して逃げました。

さてその夜、寝る時分になって、その恐怖が蘇ってきました。怖くて怖くて怖くて怖くて。気持ちが悪くなるくらい怖くて。2階に子供部屋があったんですが、そこに行く階段が若干暗いのすら嫌で、居間のソファーで寝たいと泣いた覚えがあります。

何が怖かったって、身に迫りくる不安感です。もちろん、そこに出てくる怖そうな絵や絵のタッチも恐怖感をあおってたんですが、そこに描かれていた怖い生き物とかが暗闇にいそうで怖いというんじゃありませんでした。そうではなくて、

「ある一定の年齢になったときに、何か別の物へと変身してしまうのではないかという疑い」

がありありと頭をもたげたのです。




時が経ち、今日このブログを書くために、初めてネットで「おろち」「ホラー漫画」あたりのキーワードを入力して検索しました。調べてみてわかったことは、『おろち』というのは短編集であり、幼き私が読んだのは、その第一話の「姉妹」であったということ。

その「姉妹」、楳図かずおのオフィシャルサイトによりますと、

「激しい嵐をさけるため、おろちが立ち寄ったお屋敷。そこには美しい姉妹がふたりきりで住んでいた。姉・エミ17歳、妹・ルミ16歳。だが奇妙なことに、ふたりとも18歳になることを異常なくらい恐れていた。身の毛もよだつような、恐ろしい血筋の家に秘められたナゾとは…?」

なお、「おろち」というのは、各物語を紡ぐ謎の美少女の名前です。物語は、おろちの視点で観察され、掘り下げられ、語られていきます。そして、「わたしはおろち」というのが物語の語り始めにて、決まり文句として使われていたような覚えがあります。

おろちの正体は明かされていませんが、おろちは永遠の命を有しており、不思議な能力も持っています。詳しくは「おろちArchives(http://jcl.rati.info/orochi/)」が参考になるかと思われます。各物語のストーリーもまとめられています。




トラウマにはなった(笑)けど、あの漫画を読んでおいて良かったと思ってます。

この安定した日常というものは、実は細い細い綱渡りであり、けして先は見えていないのだということへの気付きは、たとえばフランツ・カフカや安部公房が描いた世界にも通じていきました。

変身することへの恐怖の重みを知らなかったら、その重責を負っている人のことをわが身のことのように感じられなかったのではないかと思います。

エピソード(1)マザーテレサの言葉

2006-06-26 15:17:08 | 石の上にも
非力な私には大きすぎることなのかも知れませんが、
とある現実があります。

それは、
涙が止まらないほど悲しくてたまらないようなこと
なのですが、
そのような涙を流させていただく機会をいただけたことが
ありがたいとさえ思えるようなこと
でもあります。

ですから
その「とある現実」と
その現実が私に与えた、そして与え続けるであろうものを
表したいのです。

でもそれには、私の中にある複数のエピソードの力が
必要なようです。

だからまず最初に、それらのエピソードを
ご紹介させてください。





今回のエピソードはマザーテレサの言葉。
(言葉をエピソードと呼ぶのはおかしいかな?)







人は不合理、非論理、利己的です。

気にすることなく、人を愛しなさい。


あなたが善を行うと、

利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。

気にすることなく、善を行いなさい。


目的を達しようとするとき、

邪魔立てする人に出会うでしょう。

気にすることなく、やり遂げなさい。


善い行いをしても、

おそらく次の日には忘れられるでしょう。

気にすることなく、し続けなさい。


あなたの正直さと誠実さとが、

あなたを傷つけるでしょう。

気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。


あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。

気にすることなく、作り続けなさい。


助けた相手から、

恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。

気にすることなく、助け続けなさい。


あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。

けり返されるかもしれません。



でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。


気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。


マザーテレサ

寒天わらび餅

2006-06-13 14:52:16 | 食卓
寒天半分+わらび粉半分で寒天わらび餅を作りました!

ダイエットには言わずと知れた寒天。でも寒天でゼリー作ると、プルンというより、どことなくサクサクした歯ざわりになりませんか?

でも私はモチモチプニプニが好き。

そこで、大好きなわらび餅的食感を寒天にミックスしちゃえ!と思い立ち、早速作ってみました。

結果、プニプニした感じもあり、お通じも良くなり、お腹もふくれます。しかも、おそろしく簡単(私でも作れたくらい)。オススメです☆

①寒天を鍋でしっかり煮溶かす。砂糖をちょっぴり入れると風味が良いかも。私は粉末寒天使いました。一袋で 400cc の水とのことだったので、360cc くらいの水にしたように思う。きちんと計っていないので厳密ではないです。砂糖は大さじ1くらいにしておきました。

②火を止め、寒天の鍋に水で溶いたわらび粉を加える。水で溶いたときは、わらび粉が底にたまりやすいので、加える前にかき混ぜましょう。わらび餅粉、私は粉末のを使いました。袋の裏に 400cc で1/2袋分と書いてあったので、300cc くらいの水にしたかな。たぶん。ちなみにわらび餅の粉は近所のスーパーで 105 円だった。セールじゃないのに安い。

③火を付け、中火程度(適当に弱火なんかにもしつつ)で半透明になるまで混ぜ混ぜする。木べらとかでやると本格的っぽいんでしょうが、私はスプーンでやってしまいました。それでもできるわらび餅。

④半透明になってからもちょっと混ぜ混ぜ。いでよモチモチ感!と願いをこめて。根拠はないけど、お餅とかデンプン質のものってってこねるとモチモチするじゃないですか。だから。。。

⑤熱いものOKの空き容器に適当に水を張っておき、鍋から、熱々の寒天わらび餅を流し込む。私は手頃な空き容器がなかった(大きいタッパーは、熱いものを入れるとトロけるものしかなかった)ので、ホーローの鍋で代用しちゃいました。最初に水を張っておくのは、そうしたほうが、くっつかないんじゃないかという予想で。

⑥冷めるまで待つ。冷めたら水から取り出し、包丁で食べやすい大きさに切る。きな粉とか砂糖とかお好みの量をまぶす。きな粉に加える甘みは砂糖でももちろんおいしいですし、はちみつ+きな粉もけっこうおいしかったです。

わらび餅作っていて思い出したこと。あんかけ作ろうとして、みたらし団子を作ってしまったこと。

え?何をしでかしたのか知りたいですか?

片栗粉の量が多すぎて、あんかけが団子になってしまったのですよ・・・。

求道者たる私

2006-06-12 01:52:18 | みことば
ネット上に宗教のことを書くのは気が引けていました。今でも少し及び腰なところがあります。

私の周りでは「え、宗教?」という拒絶反応がしばしば見受けられます。宗教というものの持つ、異質な何かというイメージ。それに対する、なんとなくの恐怖感。信仰を持つ人と持たない人の間に横たわる溝。

私も、中学~つい最近まで教会に行っておらず、その間、キリスト教から離れていましたから、その感覚はすごくよく理解できます。うちの両親や兄二人も、きっと「え、宗教?」的感覚を持っていると思います。うちの家族はいわゆる普通の日本人家庭で、お正月には神社にお参りをし、車を買ったらお祓いを頼み、神社に行けばお守りを買い、お寺に行けば大仏を拝み、お墓はお寺で、という感じです。それはそれで、嫌いじゃないですよ、そういう態度も。うん。

でも私は、そうじゃない。なぜでしょう?よくわからないです。でも、敢えて答えを探すなら、「ここに神さまがいらしたから。」よく登山家の人がおっしゃいますね。「そこに山があったから。」それと同じだろうと、思うんです。

ずっと、自然界における生命の誕生だとか、はたまた人と人の出会いという偶然だとか、そういうものに働く神秘の力がある気がしていました。年を重ねれば重ねるほど、その存在に確信が持てるようになりました。

たぶん人は多かれ少なかれ、そういう神秘の力を感じていると思います。それを表そうとして、歴史上の偉人のみなさまは宗教を作ってきたとも言えるけれど、私は、逆もまた真だと思うんです。神秘の力が人の思考や魂に働いて、宗教ができてきたとも言えるんじゃないかと。

なかには人が「作ろう」として人為的に作った宗教もあって、そういうものは往々にして、宗教という名を隠れみのにした、忌まわしいものになってしまって、罪のない信者の人々の生活をポロポロにしてしまいます。悲しいことです。とてもとても、悲しいことです。これが、冒頭に挙げた、「え、宗教?」という拒否反応の原因の一部であろうと推測されます。

では私の信じるキリスト教も人為的に作られたものに過ぎないのではないのかと問いただされると、答えに窮してしまいます。実際、キリスト教として聖書を使ったとしても、さまざまな信仰を作り出すことができてしまいます。たとえば私が愛読させていただいている栗山教会のサイトで、

「世の終わり、というと恐ろしいイメージを持つ人はたくさんいると思います。また、たちの悪いことに、この恐ろしいイメージを用いて、人を脅かす人がいます。

 神を信じなければ地獄に堕ちるぞ。という人がいます。キリスト教でも、仏教でも、新興宗教でも、人の弱みにつけこんで、脅かして信じさせようとする人は、残念ながら少なくありません。」

と牧師の三浦先生が指摘されているように、「世の終わり」について、聖書の黙示録的部分を断片的に使って、恐怖や脅しで人を支配することもできてしまいます。これは、聖書のメッセージを人為的に利用している例ですよね。(なお、ここで抜粋させてもらった三浦先生の「天の国への道」の話(メッセージBOX)は感動したので、そのうちまた書かせてもらおうと考えています。)

だから、「キリスト教だから全て良いのだ」と断言することはできないです。じゃあなぜ、それでも私はキリスト教を選ぶのでしょうか。

それは、キリスト教になじみがあったからなんです。ただそれだけ?って思われた方、スイマセン(汗)。私が小学生のときに友だちのお母さんが教会に連れて行ってくれていたのです。もしそれがお寺だったら、神社だったら、違う結果になっていたかも知れないです。

私は、それもアリだと思います。私の大好きな敬愛する近所のおばあさまは、浄土真宗を心の底から信じています。その方の姿、私の目にはとても美しく写ります。もともと上品でお綺麗な方なんですが、それに輪をかけて。この点についても、前掲した栗山教会のサイトで、「そうそう、これなのよ!」という表現の仕方がありました。

「この世界には様々な宗教、様々な信仰の形があります。しかし、その違いは、どこから登るかという、ルートの違いにすぎないのかもしれません。」(「平和と愛の内に」より抜粋)

ただやっぱり私は根がクリスチャンみたいで、聖書って深いな~、真実が述べられているな~、と感じいることが多いのです。事実じゃないかも知れない、だけど真実が、そこにあります。

話していて、もしくはTV観ていて、ラジオを聞いていて、本を読んでいて、真実を突くことを誰かが言ったとき、「いいこと言う!」って唸りますよね?そういう、「いいこと」が書かれているわけです。あんな昔に書かれて編纂された書物なのに。しかも、それが現代まで伝えられてきたって、壮大な感じがしますよね。カント大先生が「正しいことは歴史が証明する」と述べていたことを思い出します。

そんなわけで、聖書を読んで、そこに書かれていることを実践すると、私は「私は正しいんだぁ~」って自己満足(笑)に浸り、心の平安を得られるわけです。お祈りして、主からの語りかけを聞いて、主が私とともにいらっしゃることを感じて、温かい気持ちになれるんです。それって、私にとっては、けっこうすごいことなんです。

だから、できるだけ聖書を読んでみてほしいし、いい教会があったら、日曜礼拝に行ってみてほしいと思います。いい教会かどうかは、雰囲気や相性で決めちゃって良いんじゃないかなって思います。私は運良く、良い教会に巡り会いました。強制されないこと。たとえ家族がキリスト教徒でなくても、その家族を大切にすることについて応援してくれること。金銭的な要求をされないこと(あっでも、教会は献金で運営されているので、献金用の袋みたいなのが日曜礼拝の最後に回ってくるでしょう。ドン引きしないでくださいね(笑)!入れられる分があれば入れるくらいで良いらしいです。もちろん、なければないで。)

と、ここまで書いてくるのを読み返してみると、敬虔なクリスチャンだぜ絶好調!って雰囲気ですが、そうじゃなかったときの自分のことも覚えています。だから、洗礼はもう少し先にしようと思います。一過性の熱が冷めた頃にしたいんです。それまで、神さまとお話をしていきたいと考えています。機会を見つけてはお祈りをし、神さまに相談をし、聖書を読み、日曜はできるだけ教会に出向いていきたい、そう思います。

わが息子とおしゃぶり

2006-06-08 23:03:20 | 子育て親育ち
マイハニー(なんのこっちゃ、夫と言え夫と)が息子のために買ってきた初めてのブツはおしゃぶりでした。なぜか色違いで二つも買ってきました。しかもどちらも「おやすみ用」。昼用と夜用で二つならまだわかるのに。ともあれ、おしゃぶりをンクンクしている姿を見たいご様子。というわけで、さっそくうちの息子に与えてみることに。パリパリパリっとパッケージを開き、さぁ!いざ!!

ポト。

「なんですかこれは」という感じで舌で押し戻され、ニュートンの発見した原則に忠実に従い、床にコロンと落ちたおしゃぶり。むざんにも砕けたマイハニーの夢。

その後も機嫌のよいときからエンエン泣いているときまで、あまたの挑戦が繰り広げられましたが(ちょっと嘘。そこまで何度もは試していない。)、うちの息子がおしゃぶりをおしゃぶりとして利用することは、ついぞありませんでした。とはいえ、おもちゃとして認定されているので、まぁヨシということで。

さてちょっと真面目な話。

おしゃぶりについては、賛否両論ありますね。

母乳で育てるならおしゃぶりは使わないほうがいい。(なぜならゴムの感覚に慣れてしまうと困るから。)という話も聞いたことがあるし。

おしゃぶりはぐずぐずに有効なので0歳代なら使うことに問題はない。(むしろ使ったほうが、ぐずぐずに悩むよりママにストレスがたまらず母子ともに笑顔でいられる。)という話も聞いたことがあります。

最近話題の歯並びの話で言えば、指しゃぶりで影響を受けた歯並びよりもおしゃぶりでの歯並びのほうが矯正しづらいと聞いたこともあります。

それから、おしゃぶり(にしろ指しゃぶりにしろ)、一定の時期がきたらやめさせることになるわけなんですが、そのやり方として、取り上げるくらいの勢いで根絶させるやり方もあれば、外に連れ出すなど、気をそらしてやめさせるというやり方もあるようです。どちらかというと、私の性格は後者ですね。でもそれでうまくいかなかったら、いっちょやったるという感じで取り上げるくらいの勢いになるかも。つまり適当。場当たり主義です(笑)。

ところで、指しゃぶりの話になっちゃいますが、小学生・中学生くらいになって、寝るときなど無意識に指しゃぶりに回帰する子供もいるという話を聞いたことがあります。(息子がそうなったら私はどうするんだろうなぁ・・・。息子が感じているであろうストレスの原因解明にそれとなく乗り出す?それともあたたかい目で見守る?

ほいでもっておしゃぶりの話に戻しますが、私はもし次の子ができたら、使わないように仕向けるんじゃないかという気がします。というのも、今回使わないで育てて支障がなかったため、経験したことを繰り返したほうがいいと思うからです。でも、おともだちが使っているのを見て、すごくほしがるかも知れないですよね。そうなったら、買ってあげるんじゃないかな。

自分の才能が怖いわ(笑)

2006-05-22 20:21:01 | 子育て親育ち
息子と一緒におもちゃやさんへ行き、小麦ねんどというものを買い、さきほど制作した彫塑、めんたいこ。

いただいた言葉

2006-05-20 04:53:01 | みことば
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」 コヘレトの言葉 3:11

半年ほど前に知り合った友だちから、昨日もらった言葉。私との出会いについて、こう感じているのだそう。嬉しかったです。