灯台下暗し -カッターナイフで恐竜を腑分けした記録-

仕事で携帯向けアプリを書いて、趣味で携帯電話を買い、趣味で同人小説を書いて、何もしていません。

ナルシシズムの良否は食欲の過多に似ているという私見

2023-05-04 08:02:08 | Weblog
このブログで突発的に自己愛というかナルシシズムについて記しました。日本語の「自己愛」は使われる場面によって意味が変わる(正反対になることもある)ので、この項では比較的に意味が明確な「ナルシシズム」について記そうと思います。その言葉が意味するものは、他人を尊重しない利己主義・利益独占や自己陶酔だと考えています。

そんなナルシシズムについて批判すると返ってくる、定番のカウンターがあります。利己心も自分を素晴らしいと思う気持ちも全ての人間に備わっている、全ての人間に備わっているものが悪であると見なすのはおかしい、それこそ批判する自分を人間でない神と見なしているのではないか、と。

それはある程度理が通っているのですが、そうではないよと再カウンターを打ちたく、この項を記します。

ナルシシズムの良否、悪に転ずる場面の見分け方は、食欲についてどう考えるかという問題に似ていると考えています。精神科医や心理学者にそのような例えをした人がいませんから、これは素人の私見です。

伺います。あなたは食欲はおありですか? これはほぼ全ての人が持っています。稀に食欲を極度に失う人がいますが、すると生命の危機に瀕して人工栄養に頼ることになります。ですから食欲を悪と見なすことはできないでしょう。

では、これは一部の人を大変に貶める差別的発言となり得るのですが、あなたは肥満していますか? 健康診断において新陳代謝を示す各種数値が異常値を示し、医師より生活習慣の改善を指導されていますか?

社会的には肥満を悪と見なすことは差別ですから、そのようなニュアンスを含めた私が悪いです。しかし医学的には肥満は健康を害している状態であるという判断も事実です。

肥満の何が問題なのか。それはカロリー摂取とカロリー消費のアンバランスが問題です。

標準体重の人も肥満している人も食事をしていることは同じです。しかし、標準体重の人は摂取したカロリーと同程度のカロリーを消費しているため体重の変化が見られないのに対し、肥満している人はカロリー摂取が過剰でカロリー消費が過小であるために脂肪が蓄積したのです。食欲の存在が悪いのではありません。運動とのバランスが悪いこと、一方に偏っていることが悪いのです。偏りという点では、肥満と逆の拒食症による重度な痩せ症も問題です。

ナルシシズムの良否もバランスの問題にある、そういう私見を持ってます。

利己心がない人はいません。自分は素晴らしいと思う気持ちは少しは持たないと精神を病みます。しかし社会で生活していると、他人を思いやることもあれば利益を奪われることもあり、他人に比べて自分が劣っていることを見せつけられることもあります。結果として、得た利益は消えていますし、自分は素晴らしいと思うのと同じくらい自分はみすぼらしいと思わされます。つまらない生活です。え? つまらない? 実はそれが素晴らしいのです。バランスが取れていて周囲の人と共存しているのですから。

悪質なナルシスズムにおいては、自分は利益を得るのに他人には利益を渡さないことに見事成功し、自己陶酔どころか他者からの尊敬さらには崇拝を得て他者には侮辱のみを返すことに見事成功し、ひたすら自分だけが良質なものを得ていきます。夢が叶った生活です。え? 夢が叶った? 周りの人のことを考えていませんし、自分の精神、ひいては魂が醜く崩れていきますよ。

悪質なナルシスズムは肥満と同じ構造を持っていると私は見ています。誰もが持っているはずの利己心や自己陶酔が病的に過多であり、利益の損失や劣等感の受け入れが常軌を逸して過小であり、社会的に良質とされるものをひたすら自分だけがため込んでいる状態。それが悪質なナルシシズムです。それはカロリー摂取が過多で脂肪を蓄積させてしまった肥満と同じ構造と問題を抱えています。

食べるだけ食べてスリムでいられたら素晴らしいですが現実にそんなことはまず起きません。ですから食事はある程度我慢する必要がありますし運動する必要があります。精神も同じです。自分は素晴らしいと思いたいですし他人は馬鹿にしたいですが、すると周囲との関係が悪くなるだけでなく自らの精神が醜く崩れていきます。ですから他人が利益を得ることも自分が劣等感を感じることもある程度受け入れなければなりません。そうして普通の人間になることが飛び抜けた成功はなくとも健康な人間になることの肝なのです。

ちょっと辛い結論ですけど、人間は生きていて楽ばかりではありません。楽ばかりではないと適度に受け入れること。そこが肥満やナルシシズムを回避するための要点であると私は考えています。存在することが悪ではないものも、バランス・釣り合いを失えば悪となり得るのです。
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「自己愛性パーソナリティ障害」は名称変更できないか その2

2022-04-27 08:56:30 | Weblog
僕は以前に『「自己愛性パーソナリティ障害」は名称変更できないか』という記事を書いたことがあります。そこでは「自己陶酔性パーソナリティ障害」がいいと書きました。

僕はこのことに要らぬ拘りを持っており、今になって、上記は少し違うのではないかと感じるようになりました。

「自己陶酔」では、日本語で軽い意味の「ナル」の通り、自己満足という意味になります。誇大型自己愛性パーソナリティ障害に見られる、自己満足では満足できず公的な評価や価値を渇望する点が含まれません。

公的な評価や価値を渇望する点を含んだ名称は何が良いか。

「自己神格化パーソナリティ障害」。これなら公的な評価や価値を含むことを言えます。患者の言動と見比べて、当たらずも遠からずの表現だと語感から感じます。

DSM の日本語訳を素人が変更できると思い込む僕の所業はまさに自己神格化です。お笑い願います。
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追い出されるのは自分であることに気づかなかった人たち - 東京2020開幕によせて

2021-07-22 13:10:55 | 日記
水に落ちた犬を叩くのは恥ずべきこと。それでも、事がここまでにいたり、書くことにしました。

女性蔑視発言を批判され組織委員会の会長を辞任した森喜朗氏。過去にいじめを自慢したことを指摘され開会式音楽担当を辞退した小山田圭吾氏。過去にホロコーストを揶揄する動画を公開したことを指摘され開会式演出担当を解任された小林賢太郎氏。

僕は彼らに共通の傾向を見ます。

永久に自分がルールを決めて裁く側であると意識していること。コミュニティから人を追い出す立場にあると意識していること。自覚しているかどうかにかかわらず、あるコミュニティにおいて自分が「主人」であると意識していること。

自分がコミュニティをまとめる側であると意識することは悪い面ばかりではありません。少数派を優遇しすぎて大多数が不利益を被る逆差別はこれまた問題です。しかし、自分が他人を追い出す側にあると感じたとき、たまに、いや、かなりの頻度で、周囲に対して礼を失した行動に出ます。

女性を馬鹿にしても追い出されるのは女性だと思っていた。障害者をいじめても障害者だから泣き寝入りすると思っていた。ホロコーストを笑いのネタにして世間に向けて高みの見物をできると思っていた。いずれも自分が裁く側だと意識し、裁かれ追い出される側に回ることを意識していませんでした。そして本人にとっては予想外の事態に陥り、追い出されるに至りました。

一つの小話をします。ある男性が言いました。「私を見てください! 女性のようにヒステリックではありませんし、障害者と違って頭脳優秀で身体は健康です。私を世界の舞台に引き上げてください!」 すると世界は言いました。「他人を虐げる人間は舞台に上げられません。スポットライトが当たるのは、貴方が虐げた人間です」 この小話に出てくる男性の滑稽さが分かりますか? それが東京2020の滑稽さの一部です。

滑稽なのは日本だけではありません。IOCバッハ会長も、自分が職を追われるとは考えていないでしょう。いくら報道で批判されても立場が守られている以上痛くない。そう思っているのではないでしょうか。

コミュニティの主人の、コミュニティの主人による、コミュニティの主人のための大会。東京2020は、そういう大会だと思います。

この文を書いた僕は裁かれ追い出される側に回るのか? おそらくそうなることもあるでしょう。そうなったときに痛手を負わないよう自重しようと思います。
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「自己愛性パーソナリティ障害」は名称変更できないか

2019-07-12 09:28:47 | Weblog

誰も読まないブログだから無茶なことを書くんですけどね。

精神障害の「自己愛性パーソナリティ障害」は、今からでも、「自己陶酔性パーソナリティ障害」に名称変更できないでしょうか。

そうしたら「良い自己愛と悪い自己愛」というもったいつけた言い方でなく「自己愛と自己陶酔は違う」と単純に説明できるのに。

これまでに蓄積された文献との断裂が生じるわけですが、患者が増え続けている現状、不適切な名称を使用し続けることの弊害は後になるほど大きくなると思うのです。

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「病んだ自己愛」とは何なのか

2019-05-03 12:31:04 | 日記

しばしば、「自己愛」には「健康な自己愛」と「病んだ自己愛」(あるいは「歪んだ自己愛」)があると言われます。傲慢さや他者からの搾取は「病んだ自己愛」が発端であるとされます。そう言及すると、健康であればいいはずの自己愛がどうして病むのかという議論になります。

僕は、その議論の土俵に疑問を持つのです。僕自身が誇大妄想を内に抱えていた(主治医から「統合失調症ではないけれど辛い時期もありましたね」と言われている)経験を持ちますし、誇大宣伝と他者からの搾取を繰り返す人物を間近に見てきたところから、それはちょっと違うのではないかと。

僕は医療者ではなく患者なのですが、思うところを語りたいのです。

「自己愛」の一つの有り様は、条件が良くなくても自分を大切にできる能力、だと言われています。その能力があれば社会的にうまくいかなくても自分が特別でなくても平穏に生きていけますが、その能力がなければうまくいかないときに自分が発狂するのではないかと感ずるほどに苦しみますし場合によっては自ら命を絶ちます。

その能力がないときに平穏に生きていこうとすれば、自分を育てて耐えられるようにするか、外的条件を良くしなければいけません。自分を育てれば平凡な人物になります(それは素晴らしいことです)。自分を育てず外的条件を良くしようとするとどうなるか。

傲慢さや他者からの搾取は、僕に言わせれば、ひ弱な自分でも生きていける好条件を求める渇望です。自分には特別待遇が与えられてしかるべきと信じて行動するところを「自分を愛している」と解釈されたかもしれませんが、出発点はひ弱さであり、外部にばかり働きかけ、求める分だけ奪おうとするために相手の反応に応じて力を加減する応答性がほとんどありません。

「愛」を定義することが難しいので「愛ではない」ことは証明できません。でも、何かを保護する働きがほとんどないのは見て取れると思います。すると「愛の一つの形」とみなすより「渇望」だとみなす方が、僕には納得がいくのです。

僕自身も心がひ弱なために特別待遇を求め、当然にしっぺ返しを受けました。そのことを反省していると述べて、この自己顕示欲に満ちた文章を終えます。

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自己愛性パーソナリティ障害者は悪人か? という問いへの素人考え

2018-07-22 11:20:48 | Weblog

僕は専門的に心理学と精神医学を学んだことはなく、むしろ現在進行形の患者なのですが、楽になりたくていろいろと読みました。そこで、一応は、自分なりの立場もできていたりします。

僕自身が患者ですが、周囲の困った性格の人に苦しめられた経験も相当あります。そこでネットで似た状況に合った人の述懐を読んだりすると、自己愛性パーソナリティ障害者は悪人か? というテーマが広く共有されていることが分かります。悪人ではないという記事に対して悪人だという反論が多数あり、大勢としては悪人として認識されていると見ていいでしょうか。

そこで書籍を読むと意外と違う説明を見たりします。岡野健一郎「自己愛的(ナル)な人たち」には、自己愛性パーソナリティ障害者について「厚皮のナルシシストもその多くは、対人関係に必要な敏感さを、通常、無事取り戻すのである。」という、被害に遭った人なら「何も無いところから格差を作り出して他人を支配するのが自己愛性人格障害者だ!」(あえて旧名)というそれこそ憤怒が起きそうな記述があり、その後の章でサイコパスに言及しています。ただし、この本は DSM-5 から反社会性パーソナリティ障害の診断基準を引用した箇所では、幼少時の行為障害が認められなければ反社会性パーソナリティ障害と診断されないという、後に述べますが重要な箇所が意図してかしないでか省かれています。また、孫引きになりますが、町沢静夫「自己愛性人格障害」には「クーパーによれば、カーンバーグ的な積極的あるいは外向的自己愛性の病理は、反社会性人格障害と境界性人格障害であろうと述べている。」(p.41)という記述もあります。

この差はどこから生まれるのか。

ここで、先にポンと提示した反社会性パーソナリティ障害について触れます。診断基準を丸コピーはしません。Wikipedia に記載された反社会性パーソナリティ障害の診断基準を参照願います。要は、サイコパス・ソシオパスを診断する公的な基準です。

この中で、現在の行動を描写する診断基準Aにおいて、7項目中3項目以上当てはまれば条件を満たすとされています。頭をひねると気づくのですが、実は法律に定めた犯罪を犯しているという項目を除いても、他の項目の組み合わせにより条件を満たすことができるのです。

サイコパスというと殺人者というイメージが流布していますが、研究によれば、必ずしも刑法に定められた犯罪を犯しているわけではありません。実利を得るのが目的なので、その手段が民事ですめば犯罪歴もつかずむしろ好都合、という考え方もあります。実際にサイコパスの心性を持ちながら社会で成功している人物も多数います。周囲がそのような人物を反社会性パーソナリティ障害の基準を満たすと認識していないケースは多々あるでしょう。

ただし、反社会性パーソナリティ障害には、適用に大きな障壁があります。15歳未満の時期に行為障害、言うなれば非行歴がなければ反社会性パーソナリティ障害という病名をつけてはいけないとされています。子ども時代をうまくやりおおせた人間は、その後に何をやっても、反社会性パーソナリティ障害の診断はつかないのです。そのような人物はおそらく自己愛性パーソナリティ障害と診断されるでしょう。岡野健一郎「自己愛的(ナル)な人たち」が診断基準の引用においてこの点に触れなかったのは、よく言って方便、悪く言えば嘘をついたと見ていいでしょう。

ネットでの自己愛性パーソナリティ障害者による被害の報告を見ると、悪辣なケースが多いです。成人してから恋人・結婚相手として関わったケースが多いので生育歴は分かりませんが、生育歴が判明しているケースでは15歳未満での行為障害が推察されるケースも散見されます。

ここまで来て、僕の立場を述べます。現在においては、2つの課題により、反社会性パーソナリティ障害と診断されるべき人物の多くを周囲が自己愛性パーソナリティ障害者だと認識している、と考えています。

  • 15歳未満の時期に行為障害が認められなければ、その先一生、反社会性パーソナリティ障害と診断されない、という DSM の診断基準の課題
  • 触法行為がなければ反社会性パーソナリティ障害ではなく自己愛性パーソナリティ障害だと見なす、世間の認識の課題

きつい言い方になりますが、反社会性パーソナリティ障害の診断をもっと積極的に行うべきではないか。僕はそう思います。

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怖い実験

2017-12-24 11:29:05 | Weblog

ここ最近、ある心理学実験を思いつき、ほくそ笑んでいました。

まず、複数の被験者に集まってもらい、お互いの前で自分の意見を主張してもらいます。政策や男女差別への認識など党派の違いにより嫌悪感が生じる議題は避け、人の性格に対する意見など軽い議題で語ってもらいます。そして、被験者には他の被験者に対して、主張の是非はさておき、相手が「重要な場面で誠実に発言する人なのか」を判断してもらいます。

それと平行して被験者に心理テストを受けてもらいます。「自分の業績は評価されているか」「世間には上手に世を渡る人が多い」などの項目に回答してもらいます。

心理テストで計りたいのは、自分の業績・重要性を過大に評価し、他社の業績・重要性を過小に評価する心理状態である「自我肥大」です。「自我肥大」は、精神科の臨床上、自らの利益のために嘘をつくことに良心の呵責を覚えない心理状態として知られています。ただ臨床上の経験談では心理学実験として弱いので、先行研究論文があることが望ましいです。

この実験で何が分かるか。他人からの「重要な場面で誠実に発言する人である」という評価と「自我肥大」に正の相関があれば、被験者達は嘘をつくことに良心の呵責を覚えない人間を信頼していると分かります。信頼されるのは正直者なのか嘘つきなのかという問いに、思考実験ではなく、実地の答えが出ます。

僕は先行研究の知識が足りませんし実験の細かいテクニック(バイアスの避け方、等)も知りません。大学で心理学を専攻している方がいらしたら、この思いつきを利用していただいてかまいません。実施の報告も要りません。ご自由にお使いいただけませんか。

と思ってほくそ笑んでいたのですが、もし、世の中では嘘つきの方が信頼されているという実験結果が出たら、私たちは次の日からどのように生きていけばいいのでしょう?

よくないものは、見えない方がいい。そのことに気づいて怖くなりました。

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若い人が信頼する人は、信用できないな

2017-10-01 12:24:18 | 日記

挑発的なタイトルで始めましたが、若い人が信頼するとはどういうことか、から説明していきます。

あるとき Twitter で、「社会には年をとっても馬鹿な人間がたくさんいます。みなさん、ご健闘を」と書いたつぶやきがたくさんの「いいね」を集めていました。

若いみなさんは、このつぶやきを見て、いいことを言った、とか、この人は優秀なのだろう、と思ったでしょう。否定的に捉える人は少ないのではないでしょうか。

僕は、こういう物言いをする人が嫌いなんです。

その理由は、「優秀である」ことと「優秀と評価される」ことのギャップにあります。

みなさんが、自分が優秀であると感じるときや、他人を優秀と認めるときは、どんな言動を見たときですか。その中で、他人の至らなさを指摘する言動は大きなウェイトを占めていないでしょうか。

他人を低く見る態度で得られる有能感を、ちょっと否定的に見た考え方として、心理学には「仮想的有能感」という言葉があります。その言葉を作った論文の PDF から、ちょっと長くなりますが、引用します。

現代の若者には「馬鹿だといわれたらどうしよう,『負け組』になってしまったらどうしよう」という「不安」が自らの内側にあるために,先に相手に「バカ」「負け」と攻撃して「自分はそうじゃない」と確認しようとするのだという。そのような他者の能力の軽視が実は自分の仮の有能感を回復させることに繋がっているように思われる。先(引用注: 引用箇所より前の箇所)に述べたように現実的な有能感が十分に得られないことで人は無意識的に他者軽視を通じて有能感をえようとしているのかもしれない。しかし,そこで得られる有能感は所詮,真実でない,仮想的な有能感なのである。
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/7530/1/KJ00004191127.pdf

つまり、他人を低く見ることは、本人に能力がなくてもできるんです。

上の論文では、本人が有能感を感じているかどうかを問題にしていました。僕が周囲を見ていると、若い人たちの間では、他人を評価するときにも「他人がバカに見えているか」を基準に優秀だと認めていないか、という疑いが拭えないんです。こうなると、他人が認めているわけですから、有能感は「仮想」ではなくなります。でも、裏付けがなくても持てる感覚ですから、信じて付き従うと大変な目に遭うこともあります。

ここまでは「プラスマイナス0」の話でしたが、明らかな「マイナス」に至ってしまう場合もあります。

心理学では、実態を超えて自分の存在が優秀で尊いと思い込んでいる事態を表す「自我肥大」や「誇大自己」という言葉があります。それが病気として扱われるときは「自己愛性パーソナリティ障害」という病名がつきます。ネットにはその患者の被害者が多くいて、「自己愛」で検索すると多数の怒りと愚痴と嘆きが出てきます。

そのような心理状態に陥った人は、「自分は優れている」「周囲は無能で卑しい」「私は被害を受けている」というストーリーを真顔で語ります。それは病気の症状であって、現実を反映していない妄言です。

それがどうした? と思われるかもしれませんが、問題があります。「自我肥大」「誇大自己」の心理状態は、自分の利益のために嘘をつくことに良心の呵責を抱かない性格特性と直結しているのです。

病的な嘘つきがどれほどひどいか、という話は、電子書籍ですが「虚言癖、嘘つきは病気か」(著:林公一)という本を参照願います。

周囲が無能で被害を受けていると語る人の中には、自分の利益のために嘘をつくことに良心の呵責を抱かない人が紛れ込んでいます。しかし若い人は、周囲が無能で被害を受けていると語る人を見るといいことを言う人だと評価します。つまり、いいことを言う人だと評価されている人には、嘘つきが紛れ込んでいる恐れが十分にあるんです。このことの怖さが分かりますか?

40 歳を過ぎたおっさんの経験を言わせてもらえれば、自他共に優秀だと認められた人の中には他人を裏切って平気な人が大勢いました。周囲から信用されていない人は、そんなに他人を裏切りません。世の中は皮肉なものです。

「現実に優秀な人もいるのにね。バカが好きなのかwww」という意見があるのは承知しています。現実に優秀な人がいることを否定しません。でも、クズが周囲を騙していたことを、僕はたくさん経験したんです。

若い人から信頼を集めていると聞くと、最上の人間か最低の人間かのどちらかだろうから、しばらくの間は距離を置いて様子を見たい。おっさんは、そう思うようになりました。

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善良な人間と邪悪な人間がいるという世界観はサイコパスも使う

2017-09-03 11:35:04 | Weblog

僕は専門的に心理学と精神医学を学んだことはありませんし、胸の内で「あんにゃろめー」と恨んでいる相手が客観的にサイコパスやソシオパスに相当するのか教えてくれる人はいません。ただ、本を読んでいて思うことがあるので書きます。

サイコパスないしはソシオパス(以降「サイコパス」に統一します)について知りたいときにまず読むべき本である、マーサ・スタウト「良心を持たない人たち」には、サイコパスに対処するためのルールの一番目として、「1 世の中には文字通り良心のない人たちもいるという、苦い薬を飲みこむこと」を挙げています。自分の利益のために手段を選ばない人に相対峙して敗れた後の苦い思いがよく出ています。

ただ、出会った当初はともかく、いろいろ起きた後で振り回されている状況においては、事はそう単純ではなくなります。

誰もが「サイコパスが起こした」と認める事件、北九州監禁殺人事件の Wikipedia での記述を読むと、既に中心人物の行状が明らかになった後の周囲の行動について、平静に考えれば不可解な点があると指摘されています。

この事件の死亡者は他者から見て不可解な行動(「詐欺の指名手配で逃亡しているXやYの居場所等を警察に伝えて、逮捕させることはできなかったのか」「Xから酷い虐待されているのに、何故、逃げずにXの言いなりになったのか?」「Xから握られた弱みは、Xから酷い虐待を受けながら殺されるほど深刻なことだったのか?」「夫がいる身にも関わらず娘、又は姉の交際相手と肉体関係を持ったのは何故か?」等)がいくつかあるが、死亡者の場合は「死人に口なし」として行動心理を本人から聞き出せず不明なままとなっている。
(引用注: この後に生存者が語った事情が記されています)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%9B%A3%E7%A6%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E6.AD.BB.E4.BA.A1.E8.80.85.E3.81.AE.E8.A1.8C.E5.8B.95.E5.BF.83.E7.90.86

中心人物は、人格がどうであろうと、行状だけ見たら、もうアウト。彼が犯罪者であることはとっくに分かっているのに、周囲が誰もそのことを言えない。周囲は、彼を犯罪者ではないと思っていたのか、思っていたけど恐怖で言えなかったのか。それは、はっきりとは分かりません。

犯罪者が犯罪を犯すのか、犯罪を犯したら犯罪者なのか。僕がその区別を教えてもらったのは田中久美子「記号と再帰」からです。『たとえば物語論ではトドロフ[110]は、登場人物を「である」と「する」の二種に分類しており、たとえば、殺人者の描き方としては「殺人者であるので人を殺す」と描く場合と、「人を殺すので殺人者」と描く場合の二種類の描き方があるという[70]。』
(ここで[110]は Tzvetan Todorov. The Poetics of Prose. Cornell University Press, 1977. [70]は Sky Marsen. Against heritage: Invented identities in science fiction film. Semiotica, Vol. 152, pp. 141-157, 2004. 僕はどちらも読んでいません。)

これのどちらが正解と言うことはありません。どちらにも欠点はあります。「殺人者であるので人を殺す」という認識の方は、殺人者でないと思われた人が殺人を犯した場合に心に混乱が生じます。

サイコパスは、犯罪(あるいは犯罪的だが法に触れない行為)を行った後に、自らを、犯罪を犯すような人間ではなくやむにやまれぬ事情があったと周囲に信じ込ませようとすることが指摘されています。先ほどのマーサ・スタウト「良心を持たない人たち」にも、その記述があります。

二五年にわたって被害者からの話をきいてきた現在では、サイコパスがなぜ同情を買うのが好きなのか、私にはとてもよくわかる。その理由は、善良な人たちが、かわいそうな人間にたいしては、殺人をも見逃しがちだからだ。そのため、ゲームの続行を望むサイコパスは、同情を誘うような演技を繰り返す。

行状だけを見たら、もうアウト。それを、自分は善良な人間であり事情があったのだと信じ込ませて逃げおおせる。それがサイコパスの生き延び方です。

やむにやまれぬことがある、という見方は、たとえば、尊属殺人でも執行猶予判決の余地を残すべきという判決が下った栃木実父殺し事件の経緯を読むと、必要だと痛感します。でも、乱用は困るんです。

世界観を変えればサイコパスによる洗脳から逃れられるだなんて保証できません。ただ、「サイコパスという良心を持たない人間がいる」という認識は、サイコパスが周囲に信じ込ませる「自分は善良な人間であって本来なら犯罪を犯さない」という認識と相似していて、違う目線で見るには「犯罪を犯せば犯罪者」という立場に立つこともできます。その点が、精神医学の「サイコパス」という診断には、全体から見たら些細な課題がある、と僕は思います。

なお、北九州監禁殺人事件の教訓の一部を引用すると、犯罪者であるとする見方の「犯罪者の企図に気づく目を養うこと」と、犯罪を犯せば犯罪者とする見方の「不審な出来事は警察に通報すること」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%9B%A3%E7%A6%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E4.BA.8B.E4.BB.B6.E3.81.AE.E6.95.99.E8.A8.93 があり、どっちの見方もやっぱり必要なんですね。

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統合失調症の素因は未開社会では生存に有利に働いたかもしれない

2017-06-25 14:32:12 | 日記

僕は心理学・精神医学を学んだことはなく、むしろ精神科の患者で他人より病んだ精神の持ち主なのですが…… 自分が楽になりたくて精神医学の一般向け解説書を読むと、いろいろ思うことも出てくるわけです。それと、自分の経験を話したい気持ちがありまして。

統合失調症は素因、分かりやすく言えば遺伝が大きく関わっていることが分かっています。すると多くの人が考えるはずです。どうしてそんな遺伝子が残っているの? と。

中井久夫「最終講義」は統合失調症が精神分裂病と呼ばれていた当時の著作ですが、そこにも「もし、分裂病が太古からあったものとすると、どうして今日まで残っているのか、分裂病になりやすい人は淘汰されて残らないはずではないか、という疑問があるでしょう。」(p.90)とあります。そこには中井氏なりの仮説が述べられています。

そこに、現代の精神医学の潮流から全く外れており顧みられることのない一文があります。「私はひょっとすると、分裂病は特に幼児期あるいは青年期のマインド・コントロールに対する防衛という面があるのではないかと思っています。」(p.93)

この一文が無視されるのは、一つには、患者の家族に汚名を着せる恐れがあるためです。現代の精神医学では、まず患者に病院に来てもらわなければ治療できず、そのためには家族を味方につけなければならないので、家族を責めることを徹底的に避けます。発育環境によって生じる「愛着障害」を、あえて、先天的な(つまり親に責任がない)「発達障害」と診断して患者家族を引き留める、という事態もあるくらいですし。それと「マインド・コントロール」の定義も曖昧です。研究者によれば「このような破壊的カルトのマインド・コントロールを一言でいえば、それは、ボトム・アップとトップ・ダウンの二種類の情報を統制することによって、個人の精神過程および行動の完全なコントロールをもくろむものといえる。」(西田公昭「マインド・コントロールとは何か」p.60)という定義もありますが、それと同じなのかも分かりません。問題だらけの一文です。

でも、これを念頭に他の解説書を読むと、繋がっているのではないかと思うことがあります。

岡田尊司「統合失調症」では、未開社会での統合失調症患者への治療が解説されています。そこでは、土着のシャーマンが、患者の身内が正しくない行動をしたため超自然的な力が封印を解かれたと説明し、患者の身内すべての者が治療に関わるように説得します。(p.205)

そんなので統合失調症が治るわけがない、と笑うかもしれませんが、驚くなかれ。そのような「治療」を受けた患者の回復は現代の治療より早いことが確認されています。原因がでたらめでも、結果オーライ。

現代でも、患者を無下に否定しない対話を重ねることで薬物治療の必要性を減らす「オープン・ダイアローグ」という治療法があり、薬物なしで統合失調症の初期の患者を回復させる治療法が患者を「教育」していないというのは面白いところです。「精神病患者は知的に劣った人間である。知的に劣った人間には教育が有効である。よって精神病患者には教育が有効である」という三段論法は近代以降のものです。そこに落とし穴はないのかな、と言い出すと話を広げすぎですね。ごめんなさい。

さて、ここで中井氏の著作に戻ると、このような社会なら統合失調症の遺伝子を持つことは生存に有利ではないかと思えるのです。

多くの人がマインド・コントロール的扱いを受けた際に精神を操られていくのに、そこで統合失調症を「発症できる」人はシャーマンによるドクターストップがかかり周囲の振る舞いが矯正されて本人は短期で正常に復帰できるとしたら。

この状況なら統合失調症の素因が明確に社会的利益をもたらします。

しかし現代は「精神病患者には教育が有効である」という社会です。統合失調症に陥れば相手が「いかようにでも教育してよい」権利を得て、患者は生殺与奪を握られます。そこで、社会的に有利だった特質が不利な特質に変わったわけですね。

これは一般向け解説書を二冊つなげただけで、証拠は何もありません。でも、与太話としては十分に面白いと自負しています。

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