泡盛なかゆくい

第一期・泡盛マイスターがお届けする、沖縄やアルコールに関する日々雑感。

20110311 徒歩帰宅の記録

2011年03月13日 | その他
いろんなお酒を相変わらず飲み続けていますが、なかなかブログに向き合う気持ちになれないまま、長い時間があいてしまいました。
久しぶりのブログ更新が泡盛や他アルコール類と関係のない内容で申し訳ないと思いつつ、こんな体験をしたことがなかったので、忘れないように残しておこうと思います。オフィスで仕事中に地震に揺られてから、徒歩で帰宅するまでの顛末です。

私の勤める会社は、日本橋浜町にあります。高速道路に隣接するビルで、会議室にいた社員の目撃証言では、高速道路を走るバスがロデオしているかのごとく揺れていたとのことです。揺れが治まると同時にパソコン一式を鞄に詰め、コートを着用。緊急避難場所の浜町公園に移動して、数時間後に帰宅命令がでました。この間に、お互いにフォローしていない妻のtwitterのアカウントを思い出して、公開ツイートでメッセージを送って、なんとか無事を確認。フォローしている友人たちが無事でいることを確認できて、twitterは本当に最後までありがたいインフラでした。部下はSkypeで家族と連絡が取れたみたいで、普段からIPベースのインフラにコミュニケーション機能を移しておくべきだなと痛感しました。

埼玉方面の社員数名と移動を開始。地下鉄が止まっているのはわかっていたので、ひとまず北の玄関口と言われる上野駅を目指すことにしました。道路は車で大渋滞。車よりも徒歩の方が速いほど。上野までの道すがら秋葉原駅に立ち寄るも、JRはまったく動いている様子がなく、さいたま市の自宅まで徒歩で帰宅することをこのあたりから覚悟したかもしれません。コンビニは、パンやおにぎりがことごとく売り切れていました。魚肉ソーセージとチョコレートと飲み物を確保しました。

御徒町付近で自転車屋が長蛇の列。ここで自転車を調達して乗って帰ろうという魂胆に衝撃を受けました。完全に特需です。あちらこちらの路上には誰かの自転車が停められているにも関わらず、誰もそれを盗ろうとしないあたり全体的に余裕が感じられて「まだ日本は大丈夫だ」と思ったり、ファミレスで呑気にお茶をしてる人たちもいて、非常事態な雰囲気はかなり軽減したり。昭和通りを歩く人がすごく多く、ペースが違えば歩きにくいので一本ウラの道に移動して上野駅に向いました。途中、ラーメン屋はいつもどおりに営業していました。携帯電話はまったくつながらず、数少ない公衆電話はもう十数年みたことがない大行列。twitterも更新がうまくできないまま、バッテリーの減りがやけに早く感じられました。

そして上野駅に到着。ここまで日本橋浜町から1時間です。JRは余震の影響を考慮して終日の運休を発表。建物崩落の心配からか、駅構内からも追い出されて寒空の下に。駅近くのコンビニでトイレを借りて、ついでに地図を立ち読みして帰路を確認。埼玉組の一つの関門が、荒川をどこで渡るかです。あまりの距離にメゲそうな気持ちになりました。『東京マグニチュード8.0』というアニメーションを思い出しながら、でも帰るしかないんだよな、と。陽は落ち、すっかり暗くなっているのですが、停電になっていないのが救い。線路沿いに移動です。日暮里で食事を取り、途中でマクドナルドや居酒屋でトイレを借りたりしながら北上を続けました。

普段、会社であまり会話をしない人と「最近ね、こんな風に感じているんだけど」と仕事上の悩みを吐露されたり、ずっと歩きながら会話が続きました。誰かと話をしているとかなり気がまぎれるみたいで、少しずつ痛みの増す足がそれでも一歩一歩と前に出ます。人は独りになったらダメなんだということを実感しました。途切れなく酒をあおりながら歩いていた同僚が荒川を渡る寸前にはぐれるなどのハプニングもありましたが、なんとか日付が変わる前に埼玉に入ることができました。そこから産業道路を目指して進路を変更します。

川口駅で近所の小学校が避難所になっているとのことを知り、休憩で立ち寄りました。体育館に誘導されて毛布をもらって、今日はここで夜を明かすかなと思ったりもしたのですが、座った瞬間に疲れと寒さで身体が震えはじめました。このままジッとしている方が身体に悪いと、パンパンになった足を靴にこじいれて、一緒に帰路を目指していた仲間に「俺はやっぱり歩いて帰る」と伝えました。数名の仲間が一緒に移動するというので、再び寒空の下でとぼとぼ歩きます。バカばっかり言っていた同僚も無口になりはじめ、川口駅まではいた大勢の徒歩帰宅の人たちも、産業道路を北上しはじめたあたりから、まばらになりました。妻が車で迎えに出たとの連絡があり、SMSでお互いの居場所をやりとり。午前1時過ぎに、蕨市を抜けた先のローソンの駐車場で、全員分の温かいお茶を持って迎えてくれました。

そこからは車で仲間の家に一軒ずつ車でまわりました。FM79.5が優しい気持ちになる音楽をひたすら流しているのが印象的でした。最後に一番遠い女性社員を送り届けたあと、急に実家が気になり様子を見に行って建物が無事なのを確認してから、自宅に帰りました。歩行距離だけで約26km。16時半から歩き始めて、家に着いたのが午前2時30分。それでも妻が迎えに来てくれなくて、そのまま歩き続けていたら、まだ辿り着いていないかもしれない時間です。家についてから、テレビでこの地震で壊滅状態の町の様子を目にして半泣きになりながら、足に湿布を貼って服を着たまま布団で横になりました。

埼玉から都内に勤めてもう20年近くになります。
いつか震災で徒歩帰宅をよぎなくされる日がやってくると、ずっと思ってきました。
しかし、それがこの日だとは思ってもみませんでした。
2011年3月11日、とても長い一日でした。
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ニッカウヰスキーの創立当時の写真

2010年12月05日 | スピリッツ/リキュール/ウイスキー/焼酎
母の実家が余市にあったので、自分がまだ小さい頃に、何度か行く機会がありました。

小学3年生の夏休みの長期滞在時、叔父がニッカウヰスキーの余市工場に勤めていたので、夕方に叔父のいる工場に顔を出して、リンゴジュースをごちそうになったりするが楽しみでした。母の実家からニッカウヰスキーまで歩くにはかなり距離があると思っていたのですが、久しぶりに余市に顔を出したら、なんと目と鼻の先だったので、子どもの距離感というのは大人とだいぶ違うんだな、というのを実感した次第です。

ニッカウヰスキーについては、さまざまな情報がネット上にありますので、あえてここで説明するまでもないのですが、創業者の竹鶴政孝さんが居なかったら、サントリーの山崎蒸留所も立ち上がっていなかったかもしれず、日本のウイスキーはもっと違うものになっていたのかもしれません。そして、ニッカウヰスキーが余市で誕生しなかったら、この私もこの世に存在していなかったかもしれない、という事実を、つい先日に知りました。

母方の祖母は余市の生まれで、創業したばかりの大日本果汁株式会社に勤めていました。大日本果汁とは「日」と「果」、つまり今のニッカウヰスキーの前身の会社です。ニッカウヰスキーが何故、大日本果汁という会社だったのか。ウイスキーは蒸留してから出荷まで何年も寝かせなければならず、ウイスキーが熟成するまでの収入源として、余市の名産品であるリンゴを使ってジュースを製造していたからとされています。

祖母はニッカで働いていた際に、私の祖父にあたる男性と出会い、樺太にて結婚式をあげたそうです。そこで母と叔父さんの二人の子どもを授かるも、若くして旦那さんを亡くします。かなりの若さで亡くなったそうで、当然ながら私は一度も祖父とお会いすることもなく、残念ながら顔すら知りません。その後、太平洋戦争が激しさを増してきたのを受けて、樺太から余市に戻り、女手ひとつで気丈ににも二人の子どもを育てたのだとか。昔話を聞けば、祖母は今では想像できないほどの苦労をされていました。

竹鶴さんの妻にリタさんという女性がいました。リタさんは、竹鶴さんのスコットランド留学中に知り合った女性で、周りの反対を押し切って祝福されることなく結婚、誰にも見送られることなく日本に一緒に連れて帰ったそうです。このあたりのエピソードは、「バーテンダー」というコミックスの16巻でも語られていますので、興味がある方はご覧ください。ニッカウヰスキーの敷地内に、旧竹鶴邸があります。私は先日初めて実物を見ることができたのですが、当時にしてはかなりモダンな洋館だったことでしょう。遠い異国から一緒に来日したリタさんのために、竹鶴さんがリタさんの故郷であるグラスゴーの生家を模して建てた家なのだそうです。日本でのリタさんの暮らしは、戦争の影響もあってかなりの苦労があったときいています。

そんなリタさんの暮らしを支えるべくお世話をしていたのが、私の祖母でした。
「え、リタさんって、あのリタさん?」と驚いていたら、叔父や叔母が当たり前のように「そうだ」と言います。

そして、その祖母が先月、90歳で他界しました。

娘である私の母を10年ほど前に亡くし、親より先に逝く子どもはなんと親不孝かと、仕切りに悔しがっていたそうです。
私は、そんな祖母の葬儀で数年ぶりに余市に降り立ち、祖母の人生にまつわるエピソードを知ったのでした。

葬儀がひとしきり終わり、帰り際に駅前にあるニッカウヰスキーに立ち寄りました。歴史館の中に創業当時の写真が飾ってあり、その古い写真の中に、私の母の面影に似た女性がいました。「これがバアちゃんだよ」「本当だ、お母さんにそっくりだ」写真を前に、一緒に葬儀に同行していた父とそんな会話をして、自分がこの世に生を受けたきっかけ、人の出会いの奇跡というのをまざまざと実感したのでした。

先日、喪中ハガキを投函し、今年もあと一ヶ月を切りました。年末年始はカレンダーを見るとやけに短いのですが、ニッカで手にいれたシングルモルトでも傾けながら、静かに過ごせたらと思っています。
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二十年めの萬座

2010年10月10日 | 泡盛
いよいよ我が家の甕で寝かされている泡盛「萬座」は、二十歳になりました。

朝食を終えてから風呂に入って身体を清潔にしてから、いそいそと甕を持ち出して一年ぶりに蓋を開けてみました。
蓋部分の密閉は昨年もうまくできていたようです。やや下がった液面を確認しながら、変わらず芳ばしい「萬座」の香りが立ち上ります。さっそくテイスティンググラスに抜いてみたところ、昨年よりも粘度が増した様子。香りは決して強くないのですが、ちょっと放置してみると、甘いバニラとココア系の香りが強く感じられるようになりました。まずは香りから、最初の20年目の変化を楽しみます。

驚いたのは口に含んだ瞬間でした。衝撃的な甘みがねっとりと舌に絡み付きます。泡盛ってこんなに甘かったっけ?と自分の味覚を一瞬疑うほどの甘み。黒糖とも花蜜とも違う、ウイスキーにもない優しい甘さです。ゆるゆると喉を伝って降りていく「萬座」は、飲みくちにアルコールをほとんど感じることはありません。後からかすかに舌にアルコールがもたらす収れんを感じる程度です。口腔がぽかぽかと温まる感じを楽しみながら「この感動をしばらく楽しめるように」と、例年よりも少し多めに甕から抜くことにしました。

せっかくの20年目を大胆に(といっても、200ml程度ですが)甕から抜いたのには訳があります。

例年悩み続けたこの甕の「仕次ぎ」問題。
今年、20年目にとうとう「仕次ぎ」を行うことにしました。

甕の形状は上の方が口に向かって窄まっているわけですが、上の方まで液体が満たされていれば上下の対流が期待できると言います。区切りのよい20年目で甕の上部に残された空間を、仕次ぎで埋めることができればと考えていました。住職さんのブログ「泡盛周辺学」でも解説されていますが、定期的な仕次ぎはバニリン量増加という効果があると言いますし、次の10年を意識して仕次ぎを決意した次第です。

仕次ぎに用意したのは、萬座43度。カーミヤさんが扱っている○平(まるへい)ラベルの古酒造り用の萬座です。
今日からまた10年仕次ぎなしで泡盛を維持することを考えると、同じ萬座でも枯れた感じのものより、若く力のあるものをと思っていたわけですが、「道の駅おんな」で萬座の品揃えがよかったカーミヤさんであれこれ相談したときに勧められたことで決めました。
20年目の萬座を抜いたあとに、仕次ぎの萬座を注ぎ足し、厳重に封をしたあと私の甕は再び眠りにつきました。

このブログもゆったりと続いて6年目に突入していますが、今日から再び30年目の萬座を目指して、また毎年10月にテイスティングしていきたいと思います。

2009年10月12日のエントリー「十九年めの萬座」
2008年10月12日のエントリー「十八年めの萬座」
2007年10月8日のエントリー「十七年めの萬座」
2006年10月8日のエントリー「十六年めの萬座」
2005年10月8日のエントリー「十五年めの萬座」
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シングルモルトのある風景

2010年09月19日 | スピリッツ/リキュール/ウイスキー/焼酎
ウイスキーの生産量を地域別にみると、第1位はスペイサイドなのだそうです。100%アルコール換算にして、約1.7億リットル。これは地球上で作られるウイスキーの約6割近くになるんだとか。第2位がハイランドで7,600万リットル、第3位がアイラで1,600万リットル。3位のアイラは、スペイサイドの1/10程度しかないことになるわけですね。

それなのにアイラのシングルモルトを前に、私はこの日本からはるか遠くにある、その行ったことのない島に特別な思いを馳せるわけです。特別な観光名所があるわけでもなさそうで、おそらく日本からはいくつかの空港を経由して渡ることができるそのウイスキーの島に、ただ「行ってみたい」「見てみたい」「味わいたい」という欲求にかられているのは、多くのシングルモルト愛好家にとって共通なのかもしれません。この本の存在がそれを証明しているように思います。

DVDブック「シングルモルトのある風景 ―アイラ、それはウイスキーの島」
文 山岡秀雄 写真 渡辺裕之

この「シングルモルトのある風景」では、各蒸留所の主要モルトを紹介しながら、蒸留所をめぐるエッセイが書かれています。また、蒸留所を中心にアイラ島のいろんな景色を眺められるDVDが付いています。映像を見てもやはりアイラ島に行った気持ちにはなりませんが、アイラへ憧れる気持ちをとことんくすぐられる内容になっています。

アイラ島は、地図でみるとエディンバラとグラスゴーを直線で結んで、そのまま西へ移動して大西洋に面したところに位置する島です。ボウモア、ラフロイグ、ラガーブリン、アードベッグ、キルホーマン ...地図にはシングルモルト好きにはたまらない名前が並びます。今年のウイスキーマガジン・ライヴ!では、あざとくもH.I.Sが「シングルモルトの旅」というツアーを準備してチラシを配っていた記憶がありますが、確かスペイサイドとかの蒸留所を巡るだけでアイラ島までは行かない内容でした。ツアーだけで20万円ぐらいだったような。旅先での生活費やお土産代まで考えたら、倍は欲しいところ。時間もお金も、相当に余裕がないとアイラ島には行けないわけですね。

お金を稼いでいるときは時間がない、時間があるときは稼ぎがない、そんなもんですよね。
元気に生きているうちに、アイラ島までぶらりと行ける贅沢ができるようになるといいのですけれど。
それとも簡単に行けない島だから、こんなにまで憧れるのかなぁ。

このブログ「泡盛なかゆくい」をスタートして丸5年が過ぎました。
とびとびで記事がアップされる度に、いつも読んでくださっている方には感謝申し上げます。
ご存じ最近は書く量も減ってしまっていますが、飲む量は減っていないのでもう少し続けさせてください。
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軽井沢高原ビール シーズナル2010 アイリッシュ レッド

2010年09月04日 | ビール
よなよなエールでお馴染みのヤッホーブルーイングが、毎年かわりネタで出してくるシーズナルビール。今年は「アイリッシュレッドエール」と聞いて、わくわくしながら店頭売りを探していました。最近、「よなよなエール」や「東京ブラック」は、ちょっと高級なスーパーを覗くと置いてあったりして、ヤッホーの方も頑張って営業がんばってるナァ~なんて思っていたのですが、この「アイリッシュレッドエール」は、本当にどこを探しても見つけられず、長いこと飲めずにおりました。

とっとと楽天で注文してしまえばいいのにな、と自分でも思っていましたが、まずは試し飲みがしたいという量の購入なら、店頭買いだったりするわけで...とうとう発見したのは、東京駅に隣接する大丸デパ地下のお酒コーナーでした!

アイリッシュレッドエールは、文字通りアイルランドで飲まれていたビールになります。しかし18世紀後半にはポーター人気に押され、さらにその後はスタウト人気に押されて、今は珍しいビールになってしまっているそうです。レッドエールというので、どれぐらい赤い色をしているのかと期待していましたが、どちらかと言えばカラメルの褐色をしたビールでした。見た目どっしりした味わいのビールかと思いきや、フルーティさもホップの風味もよなよなエールよりも軽めに仕上がっています。むしろモルト感を味わうためのビールなのかな?と。シーズナルビールとしての奇抜さを出さずに、落ち着いた大人の味が楽しめるレッドエールを持ってくるあたりが、ヤッホーらしくて嬉しいですね。あまり冷やしすぎないで飲んだほうが、香りをもう少し強調させながら飲めるような気がします。

となると、この酷い暑さが続く今年の夏には、レッドエールではなくて、やはり「オリオン」のようなビールをキンキンに冷やして飲むほうが助かるなぁと個人的には思うのでした。何ヶ月かこの陽気は続くみたいですが、もう少し涼しくなってきたら、また飲んでみるつもりです。今度はもうどこで買えるかわかりましたしネ。
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今帰仁酒造 美しき古里 淡麗

2010年08月01日 | 泡盛
7月は久しぶりの海外出張で一週間ほどワシントンD.C.に出かけてきたのですが、帰国すると同時に梅雨明けで、いきなりの猛暑。身体もへたるわけで、水分補給とばかりに液体をとにかくがぶ飲みしたくなる気候が続いています。ワシントンD.C.も暑かったのですが湿度がそれなりに控えめで、「もわっ」と身体を包み込むような暑い湿気は日本特有だなと、あらためて痛感していました。とても仕事ができる気候じゃないぜ、と思いつつ、なかなか戻らない時差ぼけと疲れとで、ずっと低調なまま7月が終わってしまいました。

先週、会社の仲間と埼玉県川口市にある店で飲もうと待ち合わせをしていました。仲間が出遅れたこともあって、川口駅前でひとり小一時間の時間つぶしをとキョロキョロしたところ、目の前にある「そごうデパート」で沖縄物産展の垂れ幕が!

さっそく催事フロアにあがってみると、こじんまりとした沖縄物産展が。いわゆる「食べるラー油」の各社商品が何種類も置かれていて、これが最新の沖縄流行りもの事情なのかとガッカリしました。この催事を企画した人は、こんなにも「ラー油」だらけの沖縄物産展にしたかったのでしょうか? 泡盛は1社だけ。今帰仁酒造さんだけが出展していらっしゃいました。

今帰仁酒造さんと話をしていて「ごくごくイケる泡盛ないですかね」なんて、その瞬間の自分が欲している状況を語ってしまったら、『美しき古里 淡麗』を勧めてくださいました。『美しき古里 淡麗』は、今帰仁酒造唯一の減圧蒸留の商品とのことで、試飲すると予想よりも華やかで米の甘みをしっかり残しつつも、余韻控えめのサッパリした泡盛でした。まさに大きめのグラスにクラッシュドアイスを詰めて、なみなみと『美しき古里 淡麗』を注いで、エアコンの効いた部屋でがぶ飲みするのにちょうどいい!なんて想像を膨らませました。「今から飲み会なんだよな。ここで買っちゃうと荷物になるな」と思いつつも、720mlで1,000円、一升瓶1,800mlで2,000円だったので、お得な一升瓶を買ってしまいました。

週末の金曜日、汗だくで会社から帰宅するやいなや、ジョッキに氷を詰めこんで満タンに『美しき古里 淡麗』を注ぎます。想像どおり、夏の夜にガッツリと飲むのに実に最適な泡盛です。しかし、30度の泡盛をジョッキ量でがぶ飲みするのは、やはり無理がありました。一週間分の疲れと寝不足感がピークの日でしたので、あっという間に記憶があいまいになって轟沈です。さすがに翌日に残ったりはしませんでしたが、がぶ飲みする度数じゃないな、と久しぶりに反省モードです。

今度は前割り度数を抑えつつ、冷蔵庫で一晩寝かせてから、がぶ飲みを試してみようと思っています。
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マッカラン アンバーリキュール

2010年06月07日 | スピリッツ/リキュール/ウイスキー/焼酎
マッカラン蒸留所が作るリキュール「アンバー」には、2010年2月に開催されたウイスキーマガジン・ライヴで出会いました。

そもそもマッカラン蒸留所がリキュールを作っていたことを知らなかったのですが、イベント会場でtwitterで来場者を探していたところ、「河内屋さんのブースでアンバー飲みました。美味しかった」というつぶやきを発見したのがきっかけです。

河内屋さんのブースに立ち寄ると、確かにそこに琥珀色のリキュール「アンバー」がありました。さっそく試飲させてもらうと、メープルシロップのような甘いフレーバーが口に広がりました。ベースはもちろんマッカランなのですが、メープル以外にも、くるみとナッツの芳ばしさが加わっていて、何とも言えない上品さがあります。聞けば、地元ではフルーツやパンケーキ、アイスクリームなどにかけて食べる方もいるようですが、値段も5,000~6,000円と結構高めなので、好奇心はわかりますが、ちょっともったいないかもしれません。

マッカランとアンバーリキュールで、ラスティネイル風のカクテルが作れるかもしれないなーと想像したりしながら、その後、1本買い求めてみました。アンバーリキュールは、一時期、品薄になっていたようですが、最近はまた入荷しているようなので、今が買いどきかもしれません。

美しいシェイプのボトルを眺めながら、しばらくはストレートでちびりちびりと食後酒として楽しむつもりです。
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蛇口付き五升甕、その後

2010年06月06日 | 泡盛
もう一年ほど前のエントリーに遡りますが「波のうえ」閉店時に店主からいただいた蛇口付き五升甕に、とうとう泡盛を注ぎました。

普段飲みの銘柄で何を入れようと、悩むこと10ヶ月。この甕に実験的な銘柄を入れるのではなく、やはりいつも好んで飲んでいる泡盛を入れるのが正しいだろうと、米島酒造の古酒「美ら蛍」を甕に入れることにしました。五升甕なので一升瓶が5本ほど入るのでしょうが、以前のエントリーにも書いたとおり、沖縄料理屋の棚で油まみれになっていた甕だったという状況を踏まえて、あらためてキレイに洗い直してから、おそるおそる3升ほど入れてみました。

甕の外側は擦って洗えますが、内面は軽くすすぐ程度しかしていません。もともとは「瑞泉8年」が詰められていたわけですが、すすいだあとでも顔を近づけると、中から泡盛のいい香りがほんのり感じられます。まあ、これぐらい薄い香りなら大丈夫でしょう、と「美ら蛍」をひとまず1本入れてみます。甕が大きいせいか、1升瓶をまるごと入れても蛇口の少し上までしか液面があがりません。ここでコックを何回か動かして、パッキンに漏れがないかを確かめてみました。少量をグラスに取ってみたら、ごく小さな得体の知れない浮遊物が交じっています。どうみても高級脂肪酸ではなさそうなので、撹拌してからたっぷりグラス一杯分出してみました。今度は浮遊物が見当たらないのを確認して、残り2升分を注ぎ足して、ひとまず「波のうえ」からいただいた甕の復活となりました。

ついでに、リビングで手軽に取り出せる位置に甕を置こうと、12年もののFAX付き電話器を処分しました。コードレスで通話内容がだだ漏れだったのも昔の機種ならではですが、今やFAXを使う機会が皆無なのと、使うとしてもいまどきロール感熱紙で印刷するのもどうかと思い、小さなコードレスフォンに買い替えてしまいました。古くなったFAX付き電話器は、近所のHARD-OFFに持ち込んだら100円で引き取ってくださいました。

リビングに置かれた五升甕は、妙に存在感があります。
ただ蛇口をひねるだけなんですけれど、甕から泡盛を注ぐという行為は、ちょっと儀式めいて雰囲気がいいものです。
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忠孝の南蛮荒焼甕

2010年05月02日 | 泡盛
久しぶりに昔の沖縄旅行のデジカメ写真を眺めていたら、2007年12月に沖縄本島を訪れたときの写真たちに遭遇しました。勤めていた会社を退職することになって、有給休暇の消化で2週間ほど沖縄に滞在したときの写真たちです。このときは泡盛周辺学の住職さんと、カラカラとちぶぐわ~の長嶺哲成さんが、私をあちこちの酒造所見学に連れていってくださって、泡盛マイスターとして非常に有意義な旅をすることができたのでした。

この写真は忠孝酒造を訪れたときのもの。ご存じの方も多いと思うのですが、忠孝酒造さんは泡盛だけではなく、甕も自前で製造しているという希有な酒造所です。当時のメモには、酒造所のある豊見城の土を使っている、と書き残されていました。収縮性が高い土で、焼く前後で大きさがかなり違ってしまう、という解説を聞きながら、シャッターを押した1枚です。左が成形したもの、右が焼いたものです。まるで五升甕と三升甕の差ぐらいありそうな感じですが、焼きの時点でどれほど縮むのか、というのが非常によくわかる写真です。しっかりと収縮することで、長期保存が可能な漏れない甕が焼き上がるというわけです。

忠孝酒造の甕は、ガス窯で焼かれていました。焼物の窯は、登り窯みたいな壮大なものもあれば、電気窯みたいな個人宅でも扱えるものまであります。見学時のメモによると、泡盛の甕の場合、かなりの高温で焼き締める必要があり、強いては温度の微妙なコントロールが肝要であるため、忠孝酒造ではガス窯を採用している、と書いてありました。

忠孝酒造の南蛮荒焼甕は見た目にも非常に美しく、五升甕などをお店で見かける度に「欲しいなぁ」と羨望の眼差しを向けてしまいます。43度の5年古酒が詰まって、銀座のわしたショップなどで6~7万円で売られているのを見かけます。手に入れるのは、夢のまた夢ですね。

実は、忠孝の一升甕は3つ前に辞めた会社で送別の品でいただいて、そのまま寝かせています。考えてみれば、いただいた当時(2005年)で5年古酒だったので、2010年の今年、とうとう10年古酒になってしまいました。こいつは、まだまだ寝かせておきましょう。


さて、ちょっとした近況になりますが、この写真を撮ったときに辞めた会社に今年の4月1日から帰任いたしました。いわゆる「出戻り」というヤツです。一度は辞めた私を、再び温かく迎えてくれた仲間たちへの感謝はもちろんですが、まさかの不思議な巡り合わせをもたらしてくれる「縁」にも感謝しています。どの会社で働くかではなく、誰と一緒に働くか。その大切さを気づかせてくれた仲間たちに、仕事で恩返ししていきたいと思いながら毎日を過ごしています。
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ダンボール(暖流ハイボール)

2010年03月31日 | 泡盛
ウイスキーのソーダ割り、つまり「ハイボール」がブームになったおかげで、今やお酒のソーダ割りなら、みんな「○○ハイボール」と呼ばれるようになりました。

もともと「ハイボール」の語源は、ウィキペディアによると以下の4つが紹介されています。
1. 開拓時代のアメリカにおいて、蒸気機関車による長距離移動のときに、途中で水の補給のための停車の際、棒の先にボールをつけたものを掲げて合図した。そのときに、ウイスキーのソーダ割りのサービスがあったことから。
2. 同じくアメリカの鉄道で、ボール信号というのが一般的に使用されていた。ボールがあがっていれば進行(go)、あがっていなければ停止(don't go)である。駅員が隣の駅のボール信号を望遠鏡で見ながらウイスキーをちびちびやっているときにボールが上がったら(ボールがハイになったら)列車がくるというのでソーダ水を入れて一気に飲み干して駅に行ったというのが語源という説。
3. イギリスのゴルフ場のカウンターでウイスキーを飲んでいた人が、急に自分の打つ順が来たことを知らされ、慌ててそばにあったチェーサーにウイスキーをあけ飲んだところ非常においしかった。そこに、たまたまハイ・ボールが飛んできたから。
4. 炭酸の泡(玉)が上に揚がっていく様から。
1または2で言及されている「ボール信号」が語源になっているとバーテンダー発祥地(アメリカ)のバーテンダー養成学校では教えている。

2の説などを想像するに、今のようにダイヤどおりにきっちり電車が来る時代じゃないでしょうから、不意にやってきた列車にあわてて喉を潤す列車待ちの様子が目に浮かびます。

さて、泡盛ハイボールですが、瑞泉酒造さんが「ハイサイボール」と名付けて居酒屋などでアピールされているようです。「瑞泉」をベースにしないとハイサイボールを名乗れないのかもしれないですが、なかなかいいネーミングです。一方、神村酒造さんでは「暖流」をベースにしたハイボールを「ダンボール(暖ボール)」と呼ぶそうです。こちらもかなりいいネーミングです。

「暖流」は、バーボン(JIM BEAM)樽で貯蔵した古酒と一般酒のブレンドですので、泡盛の中でもウイスキーのような香りが楽しめます。ハイボールにしたときの味わいは、泡盛の中でもよりウイスキーハイボールに近いのではないでしょうか。

ちなみに先日行ったタイ料理店で、「ドラゴンハイボール」と「ブラックハイボール」を飲む機会がありました。解説がなかったので、面白がって適当にオーダーしてみたわけですが、なんと「ドラゴンハイボール」は、紹興酒のソーダ割り、「ブラックハイボール」はジャックダニエルのコーラ割りでした。紹興酒をソーダ割りにして飲んだのは、生まれて初めてでしたが、紹興酒はやはり普通に飲むのが旨いなぁというのが私の感想です。

ハイボールブームもここまでくると、夏に向けてもっといろんなハイボールが登場しそうな予感です。
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