仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

わたくしといふ現象

9999-12-31 23:59:59 | ※ 表紙写真
  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  一つの青い照明です

  (あらゆる透明な幽霊の複合体)

  風景やみんなといつしょに
  せはしくせはしく明滅しながら 
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です

  (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

  これらは二十二箇月の
  過去とかんずる方角から
  紙と鉱質インクをつらね

  (すべてわたくしと明滅し
   みんなが同時に感ずるもの)

  ここまでたもちつゞけられた 
  かげとひかりのひとくさりづつ 
  そのとほりの心象スケツチです

  〈宮澤賢治「序」(『春と修羅』)より〉

※ 最近、コメント・トラックバック荒らしが多いので、一度こちらで確認させていただいています。ご了承ください。


【最近発表した書きもの】

「中国における神仏習合:六朝期江南における原型の成立と展開」(2013年度皇學館大学研究開発推進センター神道研究所公開学術シンポジウム「東アジア及び東南アジアにおける神仏習合・神仏関係」)『皇學館大学研究開発推進センター紀要』1号、2015年
・中国六朝の江南地方において、政治・社会・経済的な混乱状態のなか、非業の死者を救済しようとする中国宗教の伝統的課題、死者の現実世界へのコンタクト、不老不死への希求などが交錯し、在来信仰や道教と密接に関わりつつ、神身離脱・護法善神の神仏習合形式が構築されてゆく過程を跡づけた。


「放光菩薩記注釈」小林真由美・北條勝貴・増尾伸一郎編『寺院縁起の古層:注釈と研究』法蔵館、2015年
・成城大学民俗学研究所の共同研究の成果として、醍醐寺本『諸寺縁起集』の注釈を行った。筆者の担当した「放光菩薩紀」は、これまでほとんど研究が進んでいなかったが、遼の『三宝感応要略録』や、敦煌文書にみえる宝誌関係資料の接合であり、背景には宝誌信仰や観音・地蔵を治水神と崇める中国的信仰があることなどを明らかにした。



「日本列島の人びとと自然:伝統的農村風景を疑う」
歴史科学協議会編『歴史の「常識」をよむ』東京大学出版会、2015年
・昔話「桃太郎」の初期形態を手がかりにしながら、現在、緑豊かな山林に囲まれたものと考えられている日本列島の伝統的な農村景観が、実際は低植生の柴草山に覆われていたことを、環境史・環境文化史の成果から論証してゆく。また、そのような記憶が忘却され、なぜ緑豊かな里山という幻想が生み出されるのかを問う。




「〈串刺し〉考:〈残酷さ〉の歴史的構築過程」(第4回環境思想シンポジウム講演)
『人と自然(安藤百福記念自然体験活動指導者養成センター紀要)』4号、2014年
・『日本書紀』以降に度々現れる、動物を串刺しにする描写は、中世以降の仏教による思想的誘導を通じ、アプリオリに残酷なものだと認識されているが、もともとは動物に宿る精霊を他界へ送り返す祭儀の作法であり、動物に対する最も丁重な扱い方だった。人間が「自然」と信じる自らの感性が、実は歴史的・社会的に構築されたものであることを、上記の事例を手がかりに考えた。




「語ることと当事者性:災害における言説の暴力性と宗教者の役割」(龍谷教学会議第49回大会シンポジウム「宗教者の役割:災害の苦悩と宗教」報告)
『龍谷教学会議(龍谷教学会議研究紀要)』49号、2014年
・東日本大震災を受け、災害の現場、災害後の現場で宗教者はいかなる役割を果たすべきか、浄土真宗本願寺派の教学研究の場で問題提起。筆者は「語ることと当事者性―災害における言説の暴力性と宗教者の役割―」と題する報告を行い、被災した人々の心を周囲の言説がいかに傷つけてゆくか、宗教者がそれに対しいかに自覚的になり対抗しうるかを考えた。


「環境/言説の問題系―〈都邑水没〉譚の成立と再話/伝播をめぐって―」
『人民の歴史学』199号、2014年
・後漢から六朝の時代にかけて、中国江南地方で成立・展開した〈都邑水没〉譚が、他の洪水多発地域や少数民族文化圏、そして朝鮮半島や日本列島に伝播してゆく過程を跡づけ、当初重点が置かれていた危険感受性・避難瞬発力の醸成から、物語的面白さや、地域の人々が抱く自然環境への心性を反映するメディアとして拡大/形式化してゆく様子を考察した。



「人外の〈喪〉:動植物の〈送り〉儀礼から列島的生命観を考える」
『キリスト教文化研究所紀要』32号、2014年
・共生的と評価されることの多い日本列島の文化においても、当然のごとく、その衣食住の維持のために多くの動植物が殺戮されてきた。列島では、そうした動植物の喪葬をどのように行い、またそれを支える心性は、古代から現代に至るまでどのように変遷してきたのか。見逃されることの多い歴史事象を渉猟し、ステレオタイプの日本的生命観を再考する。



「浮動する山/〈孔〉をめぐる想像力:鰐淵寺浮浪山説話の形成にみる東アジア的交流」
三浦佑之責任編集『現代思想』12月臨時増刊号/総特集「出雲」、青土社、2013年
・中世の出雲鰐淵寺は、『出雲国風土記』に載る国引き神話を、「インドの霊鷲山から漂い出た山がスサノヲによって島根半島に繋ぎ止められた」との物語へ再構成した。このモチーフは中国杭州の古刹霊隠寺に起源し、梵僧・白猿・洞窟からなる豊かな伝承世界を有していた。この物語は、いつ、どのようにして日本へ将来され、鰐淵寺にまで至ったのか。忘れられた入宋僧覚阿の事跡を通じて考察した。 ※ 訂正表あり



「あるささやかな〈水災〉の痕跡:四ッ谷鮫ヶ橋とせきとめ稲荷をめぐって」
上智大学文学部史学科編『歴史家の窓辺』上智大学出版、2013年
・「帝都三大スラム」のひとつに数えられる四ッ谷鮫ヶ橋は、縄文期の入り江に由来する低湿地が、社会的に自己実現した姿であった。近世末期から近代にかけて、鮫ヶ橋に住む人々が経験した〈水災〉の様子と、湿地の不衛生に由来する病害を防ぐとされたせきとめ稲荷の由来を、可能な限りの史資料を渉猟して描き出した。実証主義に抗う「可能性を叙述する歴史学」の試み。



「〈荒ましき〉川音:平安貴族における危険感受性の一面」
三田村雅子・河添房江編 源氏物語をいま読み解く4『天変地異と源氏物語』翰林書房、2013年
・『源氏物語』宇治十帖は、宇治川の川音に関する記述を多く載せるものの、そのほとんどが不快や恐怖で彩られている。自然科学的には、水の音は人間に快適なものとして感受されるというが、なぜ宇治十帖では、それとは正反対の表現がなされているのだろうか。平安時代における宇治川の洪水をめぐる感性史・心性史を志向するとともに、平安貴族の日記類から洪水に関係する記事を抜き出し、「洪水の契機をどのように認識しているか」という危険感受性の一面を描き出した。



「野生の論理/治病の論理:〈瘧〉治療の一呪符から」
『日本文学』62巻5号、2013年
・下記「歴史叙述としての医書」の姉妹編。二条大路木簡に見出された瘧病除去の一呪符の起源を中国医書に探り、孫思�『千金翼方』に基づくとする定説を否定したうえで、疫鬼に対しその天敵に当たる神霊を呼び出して撃退するという形式の呪言がどのように形成されたのかを、医書・本草書・道教経典を著した六朝初期の道士たちの山林修行にまで遡って論じたもの。併せて、『源氏物語』若紫巻において、瘧に悩む光源氏が北山へ登り、海景を想う意味についても明らかにした。



「担い手論の深化/相対化」(神道宗教学会第65回学術大会シンポジウム「神々の神仏関係史再考」コメント)
『神道宗教』228号、2012年
・パネリストの各報告にコメントを付けつつ、〈神仏習合〉という宗教現象を僧侶の実践の問題として捉えなおすこと、列島固有という狭小な文脈ではなくアジア的観点から照射しなおすことを提案した。




「歴史叙述としての医書:漢籍佚書『産経』をめぐって」
小峯和明編 アジア遊学159『〈予言文学〉の世界』勉誠出版、2012年
・現在、歴史学者の〈科学的〉監視のもとに置かれている歴史は、前近代においては、より豊かで多様な相貌をみせていた。例えば、中国から日本に伝わった医書のなかには、過去を根拠として未来を予想し、現状への対処法を提示する〈歴史叙述〉を持つものもあった。漢籍佚書『産経』を題材に、未来を志向する歴史的言説の可能性を探ってゆく。



「環境と災害の歴史」
北原糸子他編『日本歴史災害事典』吉川弘文館、2012年
・環境史の視座から災害を捉えた概説。他の項目との差別化を図りつつ、開発に伴う二次災害や獣害の問題に特化して述べた。突然の依頼を受け極めて短い期間で執筆したもので、もう少し熟成期間が欲しかったと悔いが残る。




「禁忌を生み出す心性」
上杉和彦編 生活と文化の歴史学1『経世の信仰・呪術』竹林舎、2012年
・人間はなぜ禁忌を生み出すのか。タブーという用語の検討、人類学や精神分析学に跨る研究史の整理から始め、様々な歴史資料の分析から分節と実体化の実践プロセスを浮き彫りにする。





「神禍をめぐる歴史語りの形成過程:納西族〈祭署〉と人類再生型洪水神話」
『アジア民族文化研究』11号、2012年
・中国雲南省納西族の祭祀〈祭署〉と、その起源神話や関連経典の分析から、中国少数民族が広く共有する洪水神話の意味、その歴史的起源について明らかにした。六朝の仏教・道教において流行した洪水による終末説が、説話化、民間伝承化を通じて少数民族の神話にまで至る。納西族固有の問題としては、今後、東巴教と道教との関係においても論及する必要があろう。



「過去の供犠:ホモ・ナランスの防衛機制」
『日本文学』61巻4号、2012年
・書く前から評判の悪かった、昨年11月日文協大会シンポ報告の活字化。東日本大震災後に噴出した転換論的言説情況は、激甚災害後にみられる太古からの繰り返しであり、現状のストレスに対する〈糸巻き遊び〉的な防衛機制に過ぎないとの内容。




「先達の物語を生きる:行の実践における僧伝の意味」
藤巻和宏編『聖地と聖人の東西:起源はいかに語られるか』勉誠出版、2011年
・鹿島徹さんの〈物語り論的歴史理解〉を、東アジア史の枠組みで実証したもの。以前から神仏習合研究のなかで触れていた修行テキストとしての僧伝の使用を、ホワイトの"practical past"の概念と絡めて明らかにした。




「〈負債〉の表現」
渡辺憲司・野田研一・小峯和明・ハルオシラネ編『環境という視座:日本文学とエコクリティシズム』勉誠出版、2011年
・2010年1月に開催された国際シンポの記録。下記「御柱」「草木成仏」の総論。





「草木成仏論と他者表象の力:自然環境と日本古代仏教をめぐる一断面」
長町裕司・永井敦子・高山貞美編『人間の尊厳を問い直す』上智大学出版、2011年
・日本天台の主張になる、草木発心修行成仏説の概要。






「『日本書紀』と祟咎:「仏神の心に祟れり」に至る言説史」
大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社、2011年
・以前、『アリーナ』5号(2008年)に書いたもののリライト版。






「樹霊はどこへゆくのか:御柱になること、神になること」
『アジア民族文化研究』10号、2011年
・下記、『諏訪市博物館研究紀要』5号に掲載のものの増補版。






「鎌足の武をめぐる構築と忘却:〈太公兵法〉の言説史」
篠川賢・増尾伸一郎編『藤氏家伝を読む』吉川弘文館、2010年







「生命と環境を捉える〈まなざし〉:環境史的アプローチと倫理的立場の重要性」
歴史科学協議会編『歴史評論』728号、校倉書房、2010年







「樹霊はどこへゆくのか:御柱になること、神になること」
諏訪市博物館編『諏訪市博物館研究紀要』5号、2010年







「神仏習合と自然環境:心性・言説・実体」
水島司編『アジア遊学』136号/環境と歴史学、勉誠出版、2010年







「鎮魂という人々の営み:死者の主体を語れるか」
中路正恒編『地域学への招待 改訂新版』角川学芸出版、2010年







「神を〈汝〉と呼ぶこと:神霊交渉論のための覚書」
倉田実編『王朝人の婚姻と信仰』森話社、2010年







「〈神身離脱〉の内的世界:救済論としての神仏習合」
上代文学会編『上代文学』104号、2010年

「ヒトを引き寄せる〈穴〉:東アジアにおける聖地の形式とその構築」
古代文学会編『古代文学』49号、2010年
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2017年度(第4期第3回 通期26回) 日本宗教史懇話会サマーセミナーのご案内

2017-07-20 09:27:46 | ※ 告知/参加予定
以下、ぼくが呼びかけ人を務める日本宗教史懇話会サマーセミナーのご案内です。今年は関東、福島いわきでの開催となります。貴重な仏像の拝観、古文書の閲覧のできる機会も設けましたので、どうぞふるってご参加ください。
なお、申込〆切は1週間ほど延長の予定です。リンク先の申込フォームからお申し込みください。

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2017年度の日本宗教史懇話会サマーセミナーの開催について、ご案内を申し上げます。本会は、日本宗教史に関心のある研究者諸氏が、それぞれの専門とする時代や学問分野、世代を超えて自由に参加し、研究発表を通して、真摯な議論や交流を行う場として、毎年夏期に開催を重ねてまいりました。
第4期の第3回目となる本年度は福島県いわき市で開催いたします。今回も前回と同様日程を1泊2日としました。研究発表5本と、福島相馬地域の真宗移民の歴史・民俗、東日本大震災後の状況を記録した青原さとし監督のドキュメンタリー映画『土徳流離』の上映会・見学会を予定しております。
常連の皆さまはもちろん、初めての方も大歓迎です。多くの方にふるってご参加いただきたく、ご案内申し上げます。

◎呼びかけ人(第4期)
堀  裕 菊地大樹 北條勝貴 井上智勝 藤本 誠 徳永健太郎 安藤 弥 小林奈央子 佐藤文子 福島栄寿 上島 享 平野寿則 大田壮一郎 川端泰幸 苅米一志 真木隆行 伊藤幸司 細井浩志
◎今年度事務局(開催地世話人) :井上智勝、遠藤潤、菊地大樹、徳永健太郎、藤本誠、北條勝貴
〒108-8345 東京都港区三田2-15-45 慶應義塾大学文学部 藤本誠研究室内

◆日 時 : 2017年8月27日(日)~28日(月) 1泊2日
◆会 場 : かんぽの宿いわき
 〒970-0103 福島県いわき市平藤間柴崎60
 TEL:(0246)39-2670

◆日 程 (予 定)
《初日》8月27日(日)
12:20 受付 / 12:45 開会挨拶
12:50 研究報告① 本郷真紹氏(立命館大学)「古代国家法会の再検討」
14:10 研究報告② 芳澤元氏(明星大学)「再び足利義満の出家と受戒について」
15:30 休憩
15:40 研究報告③ 井上智勝氏(埼玉大学)「日本ヒトガミ信仰論再考―儒教祭祀の視点から―」
17:00 研究報告④ 畔上直樹氏(上越教育大学)「近現代神社聖地論の変遷にみる神道環境主義の歴史的形成過程(仮)」
19:00 夕食(懇親会)
※夕食後に、青原さとし監督『土徳流離』(ショート・バージョン)の上映会を予定しています。
《2日目》8月28日(月)
08:50 研究報告⑤ 遠藤潤氏(国学院大学)「柳田国男「神道私見」再考―初出時の文脈を読み直す」
10:10 見学会説明(西岡芳文氏による関連報告を含む)
11:10 閉会挨拶
11:30 見学会出発
・白水阿弥陀堂、長福寺(東日本大震災で被災した木造地蔵菩薩坐像)、如来寺(貴重な文書拝観あり)、専称寺(東日本大震災で被災した本堂・総門の状態や文化財保全のための復興工事状況の見学)など(調整中です)
17:00 解散予定(いわき駅)

◎研究会参加費(宿泊費・食事代等込)
全日程(初日午後~2日午前)参加:一般14,000円/ 学生10,000円
※ 部分参加の場合はお申し込み時、あるいは別途メール等で事務局までお尋ねください。
◎見学会参加費(研究会と別料金、一般・学生共)
2日目午後: 5,000円(昼食費・交通費・拝観料等)
※ ただし、見学会のみ参加人数に上限があります。上限になり次第、締め切らせていただきます。
・見学会も含む全日程参加の場合、一般19,000円/学生15,000円
【参加申し込み方法】
こちらのリンク先へアクセスし、必要事項を記入してお申し込み下さい。

◎申し込み締め切り=2017年8月1日(火)必着
【参加費の納入方法】
・事前に振り込みでお願いいたします(恐れ入りますが、振込手数料はご負担下さい)。
・お手数ですが、必要事項をご記入の上、下記の方法により8月1日(火)までにお振り込みください。
・部分参加の場合は、事前に振込金額を事務局までご確認ください。
・なお、領収書につきましては、サマーセミナー当日に受付でお渡しいたします。
<ゆうちょ銀行の口座をお持ちの場合(ゆうちょ銀行間でのやりとり)>
口座記号番号 12180-94357171 加入者名:安藤 弥(アンドウ ワタル)
※ATMで操作し上記口座へお振り込みできます(月3回まで無料)。
<他社銀行の口座から振り込む場合>
店名二一八(にいちはち)口座番号9435717(←最後の1がなくなります)
加入者名:安藤 弥(アンドウ ワタル)
※ 各社ATMで操作し上記口座へお振り込みできます(要手数料)。
<銀行口座を持たず、郵便局窓口で振り込む場合>
口座記号番号 12180-94357171 加入者名:安藤 弥(アンドウ ワタル)
※「電信払込み請求書・電信振替請求書」というA4の用紙に記入して窓口でお手続きください。
※ 振替口座ではないので「振込取扱票」による入金不可。

◎お問い合わせ(変更・キャンセル連絡を含む)
・お申し込み後のご変更やキャンセルについては必ず8月7日(月)までにご連絡ください。それ以降の変更やキャンセルの場合、規定の料金を請求させていただきます。
[連絡先]事務局:藤本誠(E-Mail)fujimoto@flet.keio.ac.jp
【電話】090-1658-8679 (携帯) 03-5418-6432(研究室)

◎交通手段と所要時間(参考)※かんぽの宿いわきHPより転載
・車でお越しの場合
 常磐自動車道・磐越自動車道いわき中央ICから:国道49・6号経由で約17km(約25分)
 仙白方面よりお越しのお客様は、いわき四倉ICより約10km:県道35号線経由
・電車でお越しの場合
 JR品川駅から:特急で約2時間25分(常磐線)
 JR東京駅から:特急で約2時間15分(常磐線)
 JR上野駅から:特急で約2時間(常磐線)
 JR郡山駅から:普通電車で約1時間30分(磐越東線)
・高速バスでお越しの場合
 JR東京駅八重洲南口から約3時間 
※およそ、11:30までにいわき駅に到着していれば間に合います。
※当日、いわき駅から 11:50頃 および 12:20頃の2回、会場へのバスが出ます
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ウィンター・カウントから

2017-05-29 01:32:13 | 議論の豹韜
この土日は学会などもろもろあったが、仕事が終わらず自宅を出られなかった。月曜の概説「歴史学の歴史」の準備と、概要提出の〆切が迫った古代文学会シンポジウム報告の準備、および学会や校務の細々した作業だが、それらを通じて、それなりに思考も深められてよかった。
シンポのテーマは、ヴァリアントを並存させる古代的エピステーメーを問うという大変なもので、一応セミナー委員の意向を考慮し、ぼくは「宇宙を渡る作法―パースペクティヴィズム・真偽判断・歴史実践―」というタイトルを出した。まだ、海のものとも山のものともつかない状態だが、まずは、パースペクティヴィズムを通したシャーマニズム論の再検討を進めなければならない。神話の語り、文字の出現による変質、文字表記・書承に対する忌避伝承、論理学の成立などが主要な内容になってくるので、なんとなく概説「歴史学の歴史」とも重なる。
この概説、明日は、古代オリエントにおける文字記録の開始からアウグスティヌス『神の国』、オットー・フォン・フライジング『年代記』までを一気に語り倒すが、準備段階でいちばん気を惹かれていたのは、参考資料として掲出する北米ラコタ族の年代記「ウィンター・カウント」だったりする。ラコタ語では「ワニエトゥ・ウォワピ(waniyetu wowapi)」というが、「ワニエトゥ」は「最初の雪から最初の雪まで(すなわち冬)」、「ウォワピ」は「平らなものに書かれたり描かれたりしたもの」を意味するらしい。すなわち、毎冬、1年に起きた部族にとって忘れがたいイベントをひとつ、絵文字1文字にして描き連ねてゆくものである。その年は同事件で呼称されるというから、古代世界に普遍的にみられる以事紀年、大事紀年の一種といえるだろう。
この写真は、1860年代、モンタナ領ヤンクトナイ・バンドのローン・ドッグ(Lone Dog)という人物が所持していたもので、バッファローのなめし革に、1800〜1871年までの71年間に及ぶ出来事が記録されている。中心から渦巻状に連ねられた「歴史」は、まさに円環的時間認識を図示するかのようだが、始点は終点と一致はしない。その意味でウィンター・カウントは、ラコタ族が歴史記述を通じて直線的・不可逆的時間認識に至る、過渡期の産物なのかもしれない。
東アジアの歴史叙述は、獣の肩胛骨や亀甲に刻まれた甲骨卜辞に由来するが、そこには動物霊への信仰が潜在していた。文字は、動物霊の示す卜兆を介して出来するもので、すべて人間の恣意のみによって生じるわけではない。ウィンター・カウントの絵文字の持つ意味は口頭によって伝承されたはずだが、それは必ずや何らかの神霊によって支持されていたに違いない。しかし果たしてその神霊は、口頭の言葉に宿るものだったか、それとも文字に宿ると考えられたものだったか。中島敦「文字禍」が思い出されるが、あれも文字表記忌避伝承の一種といえるものの、口承への注意に欠ける点が不満だ。
パースペクティヴィズムのもとでは生じえない神話の真偽判断は、恐らくは文字の導く論理的思考によって実現される。文字の持つ呪術性に幻惑され、口承から抜け落ちてしまうものがあるのだ。理論的枠組みとしては予見しうるのだが、果たしてどの程度実証できるか、そのあたりが鍵になりそうだ。
ちなみにウィンター・カウントについては、スミソニアン博物館が、西暦のもとに複数のそれを対照して確認できるデータベースを公開している。ちょっと設計が古いようだが、観ていると時間を忘れる。
ほんと、いいな(http://wintercounts.si.edu/flashindex.html)。
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シンクロニシティ

2017-05-23 01:28:52 | 書物の文韜
写真は、昨日の講義終了後、上智の購買で手に入れた本たち。シンクロニシティについては、まあ科学的に考えるよりも妄想したほうが面白いので、「ほんとにあるんだな!」と思っておくことにする。というのは、昨日の講義「歴史学の歴史:メタヒストリーによる俯瞰と展望」で年代記の発生過程を論じる際、起居注の起源ともいうべき甲骨卜辞を久しぶりに扱ったのだが(まあ史料はこれまでの自分の研究から抽出してきたもので、自分自身の勉強にはなっていないのだけれど)、その数十分後に購買で椿実の新刊を見つけることになったのだ。椿実は、中井英夫や吉行淳之介の盟友たる幻想文学の書き手であり、日本神話の研究者でもある。とくに、東大の修士論文が東大本『新撰亀相記』の研究であることからも分かるように、卜占に対して造詣が深く、氏文の現場から原古事記の存在を追求したひとでもある。2002年に心筋梗塞で亡くなったが、この本は1982年に刊行された『椿実全作品』の「拾遺」という位置づけで、今年の2月に限定1000部で出版されていたようだ(すべてナンバー入りで、手に入れた本は603番)。2月に出ていたのならもう少し早く目に触れてもよさそうなものだが、卜占の講義をしたあとに出逢うというのは、やはり何かの縁か。
椿については、世紀が変わる前後、卜占の研究を集中的にやっていたときに、故増尾伸一郎さんから教えてもらった。増尾さんはほんとに文学青年で、研究に関することはもちろんだけれど、それ以外の文学全般、思想、マンガなどに関する知識が並外れていた。確か、エリアーデの『ホーニヒベルガー博士の秘密』の話をしていたときだったか、「折口もそうだけどさ、日本にもね、神話研究しながら、その関係の小説書いていた人がいるんだよ」と教えてくれたのだ。いま考えると、ちょうど椿実が亡くなった頃だったのかもしれない。ぼくの卜占研究は、殷代以前から少数民族、日本のそれにまで及ぶ通史的なもので、その実践を通じて生まれる歴史叙述に注目した厖大な内容だったが、寄稿予定だった論集が出なくなってしまい、宙に浮いた形となった。その後、老舗の出版社が選書として引き受けてくれたのだが、ぼくの怠惰、渡り鳥的性格(研究対象を変えて回る)が災いして未だに脱稿できていない。「ちゃんと書け!」といわれているのだろうか。先週も小峯さんと増尾さんの話をしたばかりだったので、ちょっと背筋が伸びた。

川田順造の『レヴィ=ストロース論集成』も、そうした意味では感慨深い書物。なんと、ぼくの肉食忌避慣行を決定づけた論考、「狂牛病の教訓:人類が抱える肉食という病理」が採録されている。いままで『中央公論』のコピーを大事に持っていたが、これで、書物の形でいつでも読み返せる。ほかにも、「論」というより、実際に彼に師事した川田さんの、愛しさと尊敬に溢れた「想い出」が詰まっていて涼やかだ。月曜は、自分の来し方を振り返る巡り合わせになっているのだろうか? 死亡フラグでないといいけれど。
「キーワードで読む中国古典」の最新刊は、『治乱のヒストリア:華夷・正統・勢』。渡邉義浩「華夷について」、林文孝「正統について」、伊東貴之「勢について」という3つの主要論考は、それぞれ50ページ余りに及ぶ決定版。ワクワクする。

いい買い物をしたので、自分の研究もがんばらないとな。
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上智大学文学部主催・ジャパノロジーシンポジウム「開かれたジャパノロジーの可能性」

2017-03-04 00:00:00 | ※ 告知/参加予定
東日本大震災以降の日本の政治・経済・社会・文化のありようをみると、かつて真剣に議論されていた地方分権の強化、道州制、首都移転などの問題提起は影を潜め、中央化・画一化が急激に進行している。グローバリゼーションの概念は空回りし、内向きに閉じたなかでの幻想の平穏、まやかしの幸福感が蔓延しつつある。メディアは国権を批判することを止め、テレビには自画自賛の「日本礼讃」番組が横行している。人々は〈日本〉に関心を持ち、〈伝統〉に目覚めたかのようにみえるが、それはステレオタイプの虚構の再生産でしかない。1933年、国際連盟脱退後の日本社会には、「勤勉な日本人」「世界に冠たる日本文化」「世界で活躍する日本の偉人たち」といった言葉が溢れたが、それは帝国日本の国際的孤立を隠蔽する言説に過ぎなかった。福島や沖縄を切り捨てて他者に目を閉じ、ヘイトスピーチ的攻撃性が蔓延する現在も、その時代と類似する危機的な情況にあるのではないか。
上智大学のジャパノロジーでは、これまで、ステレオタイプの〈日本〉を相対化し、新しく多様な〈日本〉を再発見し、創造することを目指して、各種シンポジウムの開催やカリキュラム構築を行ってきた。その方向性は、現代と切り結ぶ人文の学として、未だ有効性を保ちえているだろうか。本シンポジウムでは、教育イノベーション・プログラム「比較日本文化研究(ジャパノロジー)における領域横断型人文学プログラムの開発」の3年間を振り返って成果と課題をまとめ、現代社会を批判的に捉えるジャパノロジーの可能性を、教育と研究の両面からあらためて問うこととしたい。具体的には、本学教員がこれまでの取り組みを具体的に振り返り(大塚報告)、留学生の観点からみたジャパノロジーへの関心や現実を俯瞰したうえで(山内報告)、招聘報告者の山崎雅弘氏、野田研一氏により、ジャパノロジーの歴史が孕む問題性、未来が内包する可能性を提示していただき、意見交換を行う。
日本研究に関心を持つあらゆる人々に、議論の輪に加わっていただきたい。

【報告者】
大塚寿郎(上智大学文学部長、英文学科) / 山崎雅弘(文筆家、近現代戦史研究家) / 山内弘一(上智大学大学院文化交渉学専攻主任、史学科) / 野田研一(立教大学名誉教授、アメリカ文学・環境文学研究)

【ディスカッサント】
長尾直茂(上智大学文学部国文学科) / 寺田俊郎(同哲学科) / ドゥッペル・メヒティルド(同ドイツ文学科) / シュワルツ・ロール(同フランス文学科) / 北條勝貴(同史学科)

【タイム・スケジュール】
13:00  開場
13:30  開会挨拶・趣旨説明
13:40  報告① 大塚寿郎
     「上智大学文学部ジャパノロジーコースの成果と課題」
14:00  報告② 山崎雅弘
     「政治に従属した戦前の日本研究とその反省」
14:20  報告③ 山内弘一
     「中国人留学生(大学院)の研究テーマとジャパノロジー」
14:40  報告④ 野田研一
     「〈異化〉の思考運動としてのジャパノロジー」
15:00  休憩
15:15  パネルディスカッション
     「研究・教育のツールとしてのジャパノロジー」
16:15  閉会挨拶

※ 当日は北門が閉鎖されていますので、正門よりお入り下さい。
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第26回/トランス・スピーシーズ・イマジネーション

2017-02-26 06:39:24 | ※ 四谷会談
このあいだ迎えたばかりと思っていた新年も、すでに1/6が過ぎようとしています。年度末も近付き慌ただしい毎日ですが、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。2017年第1回目の四谷会談をお届けします。

今回のテーマは、「トランス・スピーシーズ・イマジネーション(Trans-Species Imagination. 以下、TSI)」。人間が、自分を他の生物種と転換させる想像力で、前近代社会や民族社会に活発な心性としてみられるものです。いま、世界は独善的な力に覆われ、そのために多くの分断を生じつつありますが、TSIは、自分と他者、ヒトとノンヒューマンを交感可能な位置におくことで、ヒト至上主義、人間のうちに働く独善的傾向を抑制してきたと思われます。世界各地の神話や伝承に残る異類婚姻譚などは、その活動の痕跡でしょう。現代世界に生きるわたしたちは、他者に対する想像力を高めてゆくためにも、このTSIをみなおしてゆく必要があるのではないでしょうか。

ちょっと難しい御託を並べましたが、楽しんでお聴きいただけましたら幸いです。

《第25回 収録関係データ》
【収録日】 2017年1月25日(水)
【収録場所】 上智大学7号館9階北條研究室
【収録メンバー】山本洋平(司会・トーク:英米文学・環境文学)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世­史)/佐藤壮広(トーク:宗教学・宗教人類学)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部)/北條勝­貴(技術・トーク:歴史学・­東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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上智大学文学部史学科主催・文化財レスキューシンポジウム「歴史・文化の脱中央化へ向けて」

2017-02-19 12:40:20 | ※ 告知/参加予定
以下、数年かけて準備してきたシンポジウムのご案内です。いよいよあと1週間、万障お繰り合わせのうえご参加ください。

2011年3月の東日本大震災によって、東北地方太平洋側の各地は甚大な被害を受け、それに伴い多くの博物館・文化財収蔵庫などが損壊・流失する事態となった。同年6月、東北学院大学博物館は、国の被災文化財等救援委員会からの依頼を受け、宮城県石巻市鮎川地区における被災文化財の一時保管施設となって、瓦礫よりの文化財の救出・損傷程度の確認・洗浄・修復・保管作業を担うこととなった。作業は、同大学の学生ボランティアによって支えられてきたが、幾つかの大学にも応援要請があり、上智大学でもこれに協力し、2011年7月から2013年3月までの1年半ほどの間に、全参加学生の20%に及ぶのべ100名以上を送り出した。洗浄・修復を終えた被災資料は、2015年2月に石巻市教育委員会へ返却されたが、東北学院大学博物館では、その後も、地域における被災資料の展示、訪れた人たちからの聞き取り調査を継続して行っている。
本シンポジウムは、このような文化財レスキュー事業がひとつの区切りを迎えたことを記念し、上智大学の同事業への関わりを振り返りつつ、災害と歴史・文化の関係を考える場として、また種々の困難な現実に対し、文化財や歴史を扱う研究者が果たすべき役割を問う試みとして企画された。東日本大震災によって、東北や北関東を中心とする地域の歴史・文化は、物的な意味でも精神的な意味でも、巨大な喪失を抱え込むことになった。震災直後から列島中で巻き起こった絆と復興の大合唱は、それまで東北を植民地化してきた政治・社会・経済のあり方に反省をもたらすかにみえたが、2016年現在、被災地域には惨事便乗型資本主義が横行し、震災前には盛んであった地方分権の議論はかき消えて、政治・経済の東京一極集中、国権の強化が日に日に顕著になってきている。福島や沖縄の惨状を挙げるまでもなく、人々の心性も地方の切り捨てへ向かい、ステレオタイプの〈日本〉文化が醜い自画自賛とともに喧伝されるなかで、本来は豊饒かつ多様であった地域の歴史・文化の画一化、空洞化が進行している。こうした惨憺たる現状を前に、文化財や歴史を学ぶ学生や研究者は、一体何ができるのだろうか。
歴史学の世界では、2000年代に入った頃から、主にアメリカやカナダ、オーストラリアなど、国民国家と先住民族との軋轢を内包する各地において、社会に開かれた意見交換を通じ公正な歴史の構築を目指す、〈パブリック・ヒストリー(public history)〉の試みが盛んになってきている。日本では、夭逝した歴史学者 保苅実が〈歴史する(doing history)〉こと、すなわち多元的な歴史の交渉を通じて新たな歴史を生み出すクロス・カルチュラライジング・ヒストリー(cross-culturalizing history)を強調したことについて、アートの分野からの接近も多くみられる。このような傾向は、歴史学の生産物にとどまらない〈歴史〉という物語り/物語り行為が、多様な価値観どうしの軋轢を生じる契機・接点であるとともに、さまざまな学術、芸術の意見交換の場として重要な意味を持つことをも明かしている。本シンポジウムも、パブリック・ヒストリーの概念・方法を活用しつつ、文化財レスキュー授業の過程・結果を手がかりに分野を超えた議論の場を作り出し、歴史の可能性を拡大することを目指してゆきたい。

【招聘報告者】
加藤幸治(東北学院大学・同博物館、民俗学) / 池田敏宏(公益財団法人 とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター、考古学) / 飯田髙誉(インディペンデント・キュレーター、森美術館理事)
【ディスカッサント】
上村崇(福山平成大学、哲学・倫理学) / 佐藤壮広(大正大学他非常勤講師、宗教学) / 丸井雅子(上智大学総合グローバル学部、考古学) / 北條勝貴(上智大学文学部、歴史学)
【タイム・スケジュール】
9:00 開場
9:30 開会挨拶
9:35 本日のスケジュール / 午前の部:学生シンポジウム・経緯の説明
9:40 報告① 東北学院大学学生有志「現在の鮎川と文化財レスキュー活動」
10:20 報告② 上智大学卒業生有志「文化財レスキュー活動を振り返って」
10:50 報告③ 上智大学学生有志「いま、私たちに何ができるのか」
11:20 ディスカッション(~12:00)
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13:30 午後の部:シンポジウム趣旨説明
13:40 報告① 北條勝貴「文化財レスキュー活動と災害経験 ―上智大学学生ボランティアと災害をめぐる想像力―」
14:10 報告② 加藤幸治「語りのオーナーシップで作り伝える“くじらまち”―大学生と取り組む被災地での移動博物館活動の現場から―」
14:50 報告③ 池田敏宏「東日本大震災復興支援埋蔵文化財調査参加記 ―福島県に出向して―」
15:30 報告④ 飯田髙誉「危険の分配 ―芸術作品が炙り出す非対称性―」
16:20 パネル・ディスカッション「歴史・文化の脱中央化へむけて」
17:25 閉会挨拶
17:30 閉会

※ 当日、会場前にて、文化財レスキュー企画展「博物学者ロイ・C・アンドリュースがみた100年前の鮎川」(東北学院大学生企画)を開催致します。
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南相馬小高地区:白鳥をみる

2016-12-24 06:21:11 | ※ 独歩考
昨日はまず、下記の公開セミナー「ヘイドン・ホワイトの今」に参加。どうしようか最後まで迷っていたのだが、主催の岡本充弘さんからダメ押しがあり、何だかコメントを求められそうな雰囲気だったので、9月にこちらのパブリック・ヒストリー・シンポに出ていただいた義理もあり、顔を出させていただくことにした。もちろん、もともと内容に関しては、万難を排して出席すべき性格のものなのだ。会場へ行くとすぐ鹿島徹さんにお会いできたので、その後ろの隅の方へ座ろうとすると、「そこじゃ主催者に失礼だよ、心当たりがあるでしょ」とラウンド・テーブルに着くことを促された。仕方ないので鹿島さんの隣へ腰掛けたが、終始彼と意見交換をしながら報告を聞くことができたので、これはかえって僥倖だった。

報告は、上村忠男さんの「ヘイドン・ホワイトと歴史の《喩法》」、そしてカレ・ピヒライネンさんの「On the ethics and politics of historical representation」。上村さんのお話は、ご自身がホワイトに関心を持つようになった経緯から、最終的に彼も注目するヴィーコの〈詩的知恵〉、言語における神話の発生作用ともいうべき起源の知恵を解き明かすものだった。ヒピライネンさんのお話は、過去の再現前化をめぐる倫理の問題をナイーヴに扱い、かつ表象されたものが生み出す諸効果への責任を訴えかけたもの。上村さんには、まず、〈詩的知恵〉が、例えばレヴィ=ストロースの〈野生の思考〉とはどう異なるのか、歴史叙述が民族誌研究を参照しなかったために現在の停滞を招いているのではないか、倫理の欠落を生じているのではないかとの質問を。また〈詩学〉の用法に関して意見を求められたので、単なる形式作法の問題ではなく、解釈の多様化を要請しアプリオリな理解を批判する詩的エクリチュール、バシュラールの詩学などの系譜に連なるものだろうとコメントした。また全体討論では、ピヒライネンさんの質疑応答の際に「歴史学無用論」が飛び出したので、「歴史を現在に従属させ、現在の正当化のために利用しようとする目的においては、確かに歴史学の存在意義は危うい。しかし逆に、そうした現在を批判する学として、過去の多様性を実現してゆく学としては有用であり、倫理性を発揮しうるのではないか」との質問をした。あまり生産的な議論を起こすことはできなかったかもしれないが、鹿島さん、内田力さんら議論巧者が揃っていたので、大いに刺激を受けた。歴史学者/歴史哲学者らの間で、このような諸命題が活発に意見交換できる日が来るとは、20年前は考えもしなかった。ありがたいことだ。

シンポの終了後は、文化財レスキュー関係の打ち合わせを経て(学生たちが、本当によくやってくれている)、眠る暇もなく福島、相馬・小高へ。南から攻めていた独歩考を、北からのルートに変えてみたのだが、いつものように大した目標はなかったところ、前日鹿島さんから、とてもいい契機をいただいたのだ。そこでまずは駅前の大通りを西進、日本国憲法の実質的な起草者である、鈴木安蔵の旧宅へと向かった。彼は治安維持法の第1回の適用者でもあるのだが、なんと鹿島さんの母方のお祖父様に当たられるのだという(驚き!)。小高に行く話をしたところ、「偶然なんだけど…」と、その旧宅が、震災・原発事故により崩壊寸前に放置されていることを伺ったのだ。不思議な縁を感じ、「では、様子をみてきます」とお答えしたのだが…。周囲の家々はどんどん取り壊されていて、新しく建て直されているものもあるにはあるが、大部分は更地になったり、あるいはソーラー・パネルへと姿を変えている。管理に当たっていた林薬局のシャッターが、強風に煽られて空しい音を立てるなか、日本国憲法が空洞化されようとしている現在を、これほど象徴的に表している光景もあるまいと、寒々とした気持ちになった。
詳しくはまた動画をアップしたいと思っているが、そのあとは、重い気分で金性寺、貴船神社、相馬小高神社=小高城と歩いて回り、最終的には村上海岸方面へ。巨大なダンプがひっきりなしに通り、大規模に堤防工事が行われている海岸へ次第に近づくと、恐らくかつては水田や宅地が広がっていたであろう低湿地に(やはり潟化している?)、何か点々と白いものが…。「まさか」と思ってよくみると、なんと、かなり大きな白鳥の群れが、広範囲にわたって展開している。関東から東北にかけての太平洋側には、冬期湛水水田に白鳥の飛来がみられることは知っていたが、ここで出会えるとは思っていなかった。つい昨日、今井知樹監督の映画に触れて渡り鳥の話をしていたばかりだったので、これにも不思議な繋がりを感じ、少々心が軽くなった(でも彼らは、自分たちの越冬地が、汚染されていることを知らないのだよなあ…)。

それにしても、この広大な景観を覆う喪失感は、いったいいつ払拭されるのだろうか。ダンプのけたたましい走行音、舞い上がる砂塵は、何か、復興の活気とは異質な足音を響かせているようだった。聖夜のライトアップとは対照的な帰宅困難区域の暗闇も、強く印象に残った。

ところで、気になることがもうひとつ。白鳥の越冬地から、広範囲に展開している防波堤工事の現場を突っ切り、津波・原発事故後放置されている村上城跡の付近まで行ってみたのだが、その南側、字としては入羽和形の辺りに、何らかの化学プラント的なものがみえた。煙突があり、水蒸気らしきものが排気されている。帰宅して検索してみたが、引っかかってこない。Googleでは、航空写真ではもちろん映っているものの、mapには記載がない。さらに調査してみると、「南相馬市災害廃棄物の減容化処理等業務用地」であることが分かった。すなわち、放射能汚染されたものも含む災害廃棄物を破砕処理、ガス化溶融処理などし、容積を減らすための施設であるようだ。周囲の井戸水の水質調査報告書もみつかり、概観したところ大きな問題はないようなのだが、そもそもこの存在が伏せられているのが気になる。
防波堤工事には、常磐道方面からひっきりなしに巨大なダンプがやって来るのだが、入羽和形の方へも多少のダンプの往復があった。破砕処理が必要な廃棄物が常時施設へ搬入されることはあるのだろうが、フレコン入で仮置きされるべき破砕物が、そのまま埋め立てに使用されることなど、あるのだろうか。また、工事現場に囲まれ巨大なダンプが通過する情況で、白鳥越冬地は適切に保護されているのだろうか。一定の除染はされているはずだが、周囲にはかなりのゴミがあり、汚水の溜まっている情況も確認されたので、白鳥に何らかの危険が及ぶ可能性は拭いきれない。
杞憂であればいいのだが、いろいろ疑問が生じたので、福島県環境創造センターの、野生生物共生センターへ問い合わせてみよう。
なお、恐らくは工事現場を監視循環している車だと思うのだが、ぼくが村上城跡へ来るまでの間、何度か脇を通り過ぎて注意を向けている印象があった。プラントの写真を撮っているときも、高台に車をこちらへ向けて停めており(周囲には関係の施設が何もなく、こちらを監視するために停車しているとしか思えなかった)、歩き出すと、後ろから横を通り越して去って行った。危険であることを警告するためかもしれないが、付近には津波慰霊碑などもあり、立ち入り禁止措置は採られていない。ほんと、いろいろ気になる。
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平塚らいてうの「太陽」

2016-11-29 11:52:28 | 議論の豹韜
ちょっと気になることがあって、不勉強をさらしながらも書いておく。平塚らいてうの有名すぎる『青鞜』創刊の辞、「元始、女性は実に太陽であった」なのだが、この「女性」は誰を念頭に置いているのかということだ。あまりものごとを深く考えていなかった頃は、単に古代の女性全般を曖昧に指しているのかな、という程度に解釈していた。しかし、自分なりに日本近現代史を整理してゆくようになって、これはやっぱりアマテラスだよなあ、しかも時代情況を明確に反映して…と考えるようになったのだ。
上記の有名な冒頭の一文のあとには、「私どもは日出ずる国の東の水晶の山の上に目映ゆる黄金の大円宮殿を営もうとするものだ。女性よ、汝の肖像を描くに常に金色の円天井を撰ぶことを忘れてはならぬ」といった記述もある(何となく『霊異記』みたいだけど)。これが何を指すかも議論があり、近年は仏教、禅の思想などの影響も指摘されているが、太陽をめぐる観念複合もアマテラスの平塚的表現かもしれない。
近現代史研究者には自明のことだが、1882年、明治天皇を担ぎ出した伊勢派の前に出雲派が敗退し、明治初年まで神道・国学の支配的学説であった平田国学はもちろん、顕幽論さえもが公式に否定された。神道の最高権威は平田国学の奉じるオホクニヌシではなく、皇祖神アマテラスへと確定されてゆくことになったのだ。我々などは、これを境に忘却の彼方へ消え去ってゆく近世的神話世界に宗教的な豊かさ、多様性をみるのだが、1911年に『青鞜』を起ち上げた平塚らには、かかる江戸時代的国学こそ自分たちを縛る旧弊の象徴であり、新たに近代国家大日本帝国の価値の源泉となった女神アマテラスこそ、女性を解放する光そのものにみえたのかもしれない。このあたりのことは、牟田和恵さんの指摘しているような、平塚が最終的に国権へ吸収されていってしまうことと、何らかの繋がりがあるのではなかろうか。
まだ本当に不勉強でこれから調べねばならないと思っているのだが、初期社会主義者たちのパブリック・ヒストリー的位置づけとも関わってきそうだ。
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第25回/『キタキツネ物語』からみる民族学的想像力

2016-11-03 21:18:04 | ※ 四谷会談
これも気候変動の影響でしょうか、近年、夏から冬にかけての変化が急激すぎる気がします。秋の余韻を楽しむ暇もなく、東京では54年ぶりの11月の初雪となりました。ずいぶん久しぶりの配信となりましたが、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

今回は、すでにfacebookページにて掲載をしておりました、『キタキツネ物語』を題材に、1970年代後半〜1980年代前半の社会・文化に、民族学的想像力が大きく作用していたのではないかという仮説を提示します。これはいいかえれば、異文化への意識、他者への意識が、自己に対する批判的なまなざし、自文化の価値を相対化するまなざしを醸成していた時期ともいえます。現在の自画自賛情報の垂れ流しによる閉塞状態を打破するための、考えるヒントになっていればいいのですが…。
また今回からは、上智大学学部3年生の松本満里奈さんにも、議論の場に加わっていただきました。日本女性史を猛勉強している、期待の学生です。まだちょっと、「おじさんたちが寄ってたかって若者に教示する」という歪な構造になっておりますが、いろいろかき回してもらえるといいなあと思っています。

以上、またお楽しみいただけましたら幸いです。

《第25回 収録関係データ》
【収録日】 2016年11月3日(木)
【収録場所】 上智大学7号館9階北條研究室
【収録メンバー】山本洋平(司会・トーク:英米文学・環境文学)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世­史)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部))/松本満里奈(トーク:歴史学・日本古代女性史)/北條勝­貴(司会・技術・トーク:歴史学・­東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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