わかばコーナー

やられたらやりかえせ

座間味のじゅうろくにち

2013-03-02 23:10:29 | Weblog


 一月、二月は色々あった。色々した。色々知ったし、色々考えた。だから久しぶりにブログなどをしたためてみる。せっかくなのだから、備忘録。

 やはり忘れられないのは沖縄だ。色々巡ったのだけど、そのうちでもやはり強い印象を残したのは離島だった。慶良間諸島座間味島。那覇から1時間ばかり高速艇で行った距離にある。春から始まる観光シーズンには多くの人がダイビングやシュノーケリングをしに訪れるそうだが、今は2月の完全なるオフシーズン。予約した民宿も宿泊客は僕一人というありさまだった。それでも宿のオーナーは親切にも港まで迎えに来てくれ、屈託のない笑顔で話す人柄に島と宿の選定に間違いはなかったと確信したのだった。
 
 島に着いたのが夕方だったので、夕日を見に浜辺に向かった。座間味近辺は多島海だ。いくつもの島影に沈む夕日の美しさに心震えた。その後、レストランで軽い夕食を済ませ、宿に戻るとスタッフの作業スペースから僕を呼ぶ声がした。なんだと思って振り向くとそこには見知らぬ初老の男と青年二人。オーナーではない。なにか色々広げて二人で飲んでいる。今日の宿泊客は僕一人のはずだし、といぶかっていたが、人の良さそうな「一杯やっていきませんかね」という声で沖縄流「いちゃりばちょーでー(出会えば兄弟)」の飲み会が始まった。

 話してみると、この初老の男はこの民宿の前のオーナーだった。体調が悪く、通院もあるので那覇に引っ越し、親戚である現オーナーにこの民宿を任せているのだという。青年は前オーナーの息子さんだった。「なぜ帰って来たんですか?」そう尋ねると前のオーナーは言った。「明日がじゅうろくにちで帰って来たんだ」

 じゅうろくにちというのは、主に先祖崇拝の沖縄ではポピュラーな、旧暦の1月16日に行われる墓参りの行事だそうだ。お墓の正月、と言われ、死者がめでたく正月を迎える日らしい。全員ではないが、結構な人が店や会社を休んででも実家に帰って墓参りに行くらしい。彼らもそのうちの二人であった。

 酒が進み、じゅうろくにち、だからかお互いの先祖の話になった。僕は華僑なので、中国に居た先祖の話や、沖縄と交流の深かった福建省に行って来たことなどを伝えるととても気にいってくれ、もっとお前と飲みたい、だが酒がない、ご先祖様のお酒をもらいに行こうと言い出した。何事かと思いながらも、前オーナーに附いて外へと出た。外は満天の星!みとれていると前オーナーがさっさと歩けと急かして来る。懐中電灯で暗い路を照らしながら行くと、誰も住んでいない沖縄旧家(と言えば聞こえはいいがその実、あばら屋だ!)に到着した。がらっと障子を開けると大きな祭壇があり、そこにご先祖様の写真が何枚か飾ってあった。また祭壇の横には天皇陛下や総理大臣からの感謝状がかけてあり、よほどの名家なのだと見えた。

 「これこれ、これ、だよ。ご先祖様拝借いたしますよ」とぶつくさいいながら前オーナーは祭壇に奉られていた泡盛の瓶を小脇に抱えながらお辞儀をした。すでに半分ぐらい空いている。すでになんどか拝借しているのだろう。「お前も挨拶しておけ」と言われ、僕もお辞儀した。お酒を頂くのだから、当然、当然。ご先祖様へのご挨拶が終わった後、民宿に戻り、酒盛りの続きとなった。その後、色々と話したのだけど、やはり先ほど見た祭壇の横に飾ってあった総理大臣からの感謝状が気になり聞いた。あの感謝状はどうしたんですか。すると前オーナーは、こう言った。「あれはオジーが戦争で死んだからもらったんだよ」

 前オーナーは祖父の顔を知らないそうだ。写真も残っていない。座間味には祖父や祖母の顔を知らない人が多いらしい。座間味は沖縄戦で最初に上陸戦が行われた島なのだ。上陸戦の前には、こんな何もない島への空襲があった。防空壕へ逃げていた前オーナーの祖父は瓦職人で、少し前に建てたばかりの家が気になり壕を抜け出し見に行ったところに、爆弾投下を浴び、家ごと四散したという。祖母は泣きながら飛び散った肉片を拾い集めたのだというのだから阿鼻叫喚の地獄絵図だ。だが、座間味の地獄はこれで終わらなかった。上陸戦に先立って恐ろしいアメリカーに殺されるくらいならと「集団自決」が至る所で発生したのである。親が子を殺し、子が親を殺すその光景は忘れたくても忘れられないものであったらしい。あるガマ(洞窟)では10数人が並んで首をつり、ある場所では何人もが円陣を組んで軍人からもらった手榴弾を中心にすえ自決した。生き残ったものも後遺症に悩まされるものが少なくないそうだ。前オーナーが言うには近所に住むおばあさんはまったく声がでないのだという。なぜなら集団自決の際、父親に首をカミソリでかっ切られたからだという。一命は取り留めたのだろうが、声帯を傷つけたため、一生声が出ない体になってしまったのだ。こうやって自決した住民は座間味島だけで400人以上、当時の人口の約1/5に達する。自決だけで1/5である。この他、戦死者合わせると人口のうちの多くが失われたことが分かる。祖父や祖母の顔を知らない人が多いのも当然で、その世代だけがすっぽり抜けているのだ。

 なぜ集団自決が始まったのか、日本軍の命令だったという話もあるし、そうではないという話もあるらしい。ただ前オーナーによると、誰の命令であったというよりもそういう考え方に至ってしまう当時の風潮、教育が問題であったということだ。軍民一体となって敵を殲滅すべし、一億火の玉総特攻とは事実戦時中のプロバガンダとして至るところに登場するフレーズだ。民宿の近くにいまもある忠魂碑には「うみゆかば」の歌詞が刻んである。「海行かば 水づく屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ」と刻まれたその碑の前に集まるよう、集団自決の前日に集合命令がかかったのだ。

 そんな戦争の話をその戦争で亡くなられたご先祖様から頂いたお酒を飲みながら聞いているのは不思議な感覚だった。それは話をしているオーナーさんも同じだったようで、「不思議だなー。こんなにこのことを人と話すのははじめてだし、ご先祖様を紹介したのも初めてだしな。じゅうろくにちだからかねー」と言っていた。またそんな話を聞いた翌日、座間味の美しい海を見るのも不思議な感覚だった。そんな悲惨なできごとがあったなんて到底信じられないほど美しいのが座間味の海なのだけれども、酒が抜けてないのか、照りつける南国の日差しにやられたのか、なにか思考が定まらず、地図も見ずにふらふらと歩いていた。すると知らぬ間に誰もいない浜辺にたどり着いた。地図を見るとウユニの浜という場所だった。岩がゴツゴツした印象の浜で沖には遠く渡名喜島が見えた。この浜には僕一人しかいない。ふと、浜に面した岩山に大きな洞穴が口を開いているのに気づいた。僕はなにかに引き寄せられるようにその洞穴へと向かっていた。磯場を渡り、岩場をのぼり、入口から洞穴の中を見た。天窓があるようで中は十分に明るい。中に躊躇なく入った。中はそれほど広くなく、大人なら10人くらいが入れるほどの大きさだった。地面は柔らかい砂地で案外居心地がよい。外の猛烈な日差しから逃れるためにしばらく座っていた。ふと、奥を見ると、奥入口とは反対の方向へ子供がくぐれるほどの小さな穴があいていることに気づいた。穴から光が漏れ出ている。外に繋がっているのだろうか。好奇心の赴くままにその穴をくぐってみた。すると、目の前に海が広がった。ここはどういう場所なのだろう。岩と岩に囲まれた大人が両手を伸ばしたほどしかない本当に小さな浜なのだけど、ここに来るには先ほどの穴をくぐって来るしかない。子供たちの秘密の場所、そんな表現がしっくりする場所だ。また、不思議な事に此処からならば本当に真正面に渡名喜島が見える。また、よく見ると、渡名喜島をまっすぐ見る位置に海へ向かっていくつも飛び石のようなものがある。ここは祭壇なのだろうか。ふと気になってスマートフォンでウユニ浜と調べてみた。祭壇かどうかは分からなかった。ただ、手記らしきものが検索でヒットした。それは、ウユニの浜の今、僕がいる、この洞窟に戦争中に逃げ隠れていた少女の手記だった。自宅が日本軍に接収され、食べ物もなくこの洞窟で何日も過ごし、外で多くの人々の悲惨の死を目の当たりにした少女の手記だった。手記に目を通し、そして海を見た。今は渡名喜島まで船は一艘も見えないが、手記によると、当時はこの島をアメリカの艦艇が、海が見えなくなるほど取り囲んだそうだ。その恐怖やいかなるものだっただろうかと、思いはせるものの、この海の美しさと過去の恐怖のあまりのアンバランスさに現実味がどこまでもなく、僕はとにかく戸惑うだけだった。この少女もこの秘密の場所から艦艇で埋まる海を見たのだろうか。全く想像がつかない。そしてこの洞穴の周りに横たわる人々を見たのだろうか。これも全く想像がつかない。ただ、多分、戦争は本来的に想像を絶することの連続なのだろうとその時思った。

 それにしても不思議な一日だった。オーナーのご先祖様のお酒を飲んでから、ふと気づいたらこの島の過去と向き合っている、そんな一日だった。これもじゅうろくにちという特別な日だったからなのかなと思っている。

ネグレクト

2010-08-01 23:59:45 | Weblog
大阪で育児放棄のニュース。
1歳と3歳の子供が部屋に閉じ込められて死んだ。

ある記事によると、インターフォン越しにママ、ママという助けを求める声が聞こえたのだという。
近所の人の通報もあったそうだが、児童相談所の行動はまた時機を逸したものだった。
母親は責められて当然だが、いくら責めたとしても起きた事件の悲惨さは少しも軽減されない。
また、この母親は自覚と非自覚の間でネグレクトを貫くだろう。
さもなくば罪の意識が自らの精神を破壊することを彼女は本能的に感づいているはずだから。

こういった事件が発生するのは、母子家庭や父子家庭、とにかくなにかが欠けている家庭に多い。
かといえども、いつの時代もなにか欠損している家庭は少なからず存在した。
だけれども、かつては家庭環境の欠けた部分は地域社会がある程度補っていたのだ。

今回のニュースでも児童相談所の行動の遅れが抗議を呼んでいる。
だけども住民は本当に通報するだけでよかったのだろうか。
こんなことを書けばある種の反感を覚える人がいることを私は知っている。
そんなこと現在の社会において誰ができるのか、お前はできるのか、という反応が直ぐさま頭に浮かぶ。

だけども、施政者と被施政者だけで構成される社会に成り果ててしまった日本社会に
どっぷりつかってしまったからこその反応であると自覚しなければならない。
今の日本は個人の上はすぐお役所だ。なにかがあればすぐに通報。地域社会というものが育たずにいる。
都市への一極集中がその流れを加速させているのは確かだ。
となりの人は何する人ぞ、と言われた団地やマンション暮らしに僕らは30年近く慣れきっている。
地域による監視の目があったあの時代はノスタルジーのかなただ。

だけれども、公務員の数が多すぎると言われるこの時代に、
また児童相談所員の数を増やせというのも矛盾した物の言いようだ。
自覚しなければならないことは、地域社会のかつて果たしていた潤滑油が、
まったく枯れてしまって社会全体を構成する歯車がギーギーと悲鳴をあげていることなのだ。
この二人の子供の命は僕らが便利やら効率がいいやらこっちの方が楽やらと
高く築いた相互不干渉の原則の壁の影でひっそりと短すぎる命を終えたのだ。

児童相談所やこの母親を声高に責め立てるだけでは何も変わらない。
今の日本社会の構造欠陥を端的に示す例がこの事件であると思わずにいられない。


上海へ

2009-12-25 02:08:34 | Weblog
明日、朝早く空港へ行き、上海へ飛ぶ。

月の半分は上海で生活するという生活を続けている。
これはこれで旅が好きな僕としてはいいのだけど、
気づいたのは連続性が求められることが日常に結構多いということ。

例えば、運動とか、ゲームとか、会話とか、日記とか、
小説とか、気に入った音楽をきくこととか。
家にためてきた、この生活している北京で続けてきたことが
上海に行く事によって中断せざるをえなくなる。

全部もっていけないからね。
ホテル住まいだし。

もともとザッピングが好きなたちだし、気にする事もないだろう
と思っていたけど、案外こころに来る。

ま、気持ちの持ち様なのかもしれないけれどね。

白昼夢

2009-12-24 01:23:34 | Weblog
google日本語入力という新しいソフトウェアを会社のパソコンにインストールしている。
MS-IMEよりは断然使いやすい日本語入力ソフトウェアなんだろうけど、
自宅のMacにインストールする気にはなれない。
多分、それはあの連想変換という機能のせいだと思う。

連想変換とは、言葉を入力すると、それに続くと思われる言葉をソフトが提示してくれる機能。
携帯電話とかでは普通によくある機能で、打鍵しにくい環境ではとても便利なもの。
だけれども、次に来る言葉を提示されることによって、
なんか書きたい事をパソコンさんに読まれているようでいやだな、と思うのだ。
読まれているというか、それによって影響されて書きたいものが別の物になってしまうというか。

こういうブログなんかは、頭の中に思いついたものを自動筆記的に脈略なく書いているので、
次の言葉の候補を提示された場合、それが本当に自分の頭の中にあったものなのかどうか、
わからなくなってしまいそうだな、と怖い。

連想変換付きIMEをみんなが使いだすと、ことばづかいや文体なんかが、みんな同じ物になっていったりして。
そして、連想変換が更に進化して、貴方の書きたいものはこれでしょ、なんて自動筆記を始める時、
しまいにゃパソコンさん同士が勝手に会話をし始めて、
パソコンさん同士が僕らの将来を案じていろんなことを決めてくれるようになるんでしょうね。

だれにも

2009-12-24 01:17:56 | Weblog
日本語が下手になっている。
さっきもうどんを茹でるの茹でるという言葉が出なくなっていた。
文章をいろいろと書いてると、段々と思い出してくるのだろうけれども、
もっと良い表現があったはずなのに、なんだっただろうか、と思いあぐねることが多くなっている。

本を読まなくなったのもその一因だろうけれども、
仕事で決まった言葉しか使わないのもその原因。
もっと豊かな表現で物を書けたはずなのにと歯ぎしりする思いだ。

だから毎日このブログでなにかしらの文章を書く事にしようと思い、
今日を出発点とするわけだ。


Mixiって

2009-11-22 23:53:58 | Weblog
Mixiが疲れる場所になってしまった。
多分、子供が増えたことと、ゲームができるようになったからだろうけど。
郊外のショッピングセンターのゲームコーナーみたいなイメージ。
人の書いた文章を読んだり、自分が文章を書いたりするのが、ただ、
好きだったのに、Mixiには必要のない飾りが多すぎる。

これからは、こちらに書く方がよさそうだ。
必要のない情報に捕らわれることもないしね。

というわけで、このブログを再開します。




たべたいご飯

2005-12-15 01:55:11 | Weblog
ペリーのいくら丼 06-6211-1123

文革博物館

2005-10-25 15:46:23 | Weblog
巴金さんがなくなった。
中国を代表する文学者だ。その昔、アナーキストでその名を馳せていた。
人間は真に自由にならなければならないと一貫して訴え続けた彼は、
自分の遺骨を東海(東シナ海)に散骨してくれといってこの世を去った。

彼のライフワークとして挙げられるのは、「文革博物館」の建設である。
その昔、上海に作ろうとしていたが、あまりにも「目立ちすぎる」ので、中止されている。

今年に入って広東省のシンセンに民間のものであるが「文革博物館」がオープンした。国内では初めてのものだという。

巴金さんをして「人を獣に変えた」という文革のあの時代。いったいどういったものだったのだろうか。一度博物館に訪れてみたいものだ。

現代中国語における日本「外来語」問題 その3

2005-10-24 22:10:55 | Weblog
日本の近代学者が中国語語彙を西洋文の概念を訳すのに使用する過程について私はずっと興味を持っていた。
このプロセスにおいて、さまざまにバランスをはかり、取捨し、遅々として適当な訳語が見つからないという苦悩があり、そして、頭を振り絞り、ついにひとつの訳語を「吟じ得た」ときの喜びがあり、もちろんあるときには、ひとまずあまり適当でない単語を用いるときの無念もあっただろう。
資料に限りがあるので、このプロセスについて、私は多く知ることができないが、日本の近代学者が西洋文を翻訳したとき、次のいくつかの方法にそれらを大体分けることができることだけははっきりと言えるだろう。

一つ目の方法、それはやはり中国に学ぶことであった。時間の順序で言えば、中国が西洋文化に触れたのは日本よりはるかに早い。7世紀には、キリスト教の宣教師が中国にやってきている。この後、13世紀のマルコポーロ、16世紀のマテオ・リッチ、などはよく知られた古代における西洋文化の使者である。マテオリッチのころ
、西洋の中国語訳の試みがすでに始まっていた。徐光啓とマテオリッチは協力し、ユークリッドの「ユークリッド原論」を翻訳した。これはよく知られたことである。1870年、カトリックの伝教師モリソンが中国に来た。彼は「新約聖書」を中国語に翻訳し、すべての「新約聖書」は1814年に出版された。さらに重要なことは、彼は別に中英辞典を編纂したことである。第一巻は1817年に発行され、辞典は4開本(版型の大きさ)であり、6巻からなり、4595ページ、1823年にすべてが出揃った。

伝教師と中国の協力者が従事した中国語訳作業、特に中英辞典の編纂は、近代日本学者が西洋文の概念を翻訳するさいによい参考となった。彼らは伝教師と中国の協力者の翻訳方法をそのまま踏襲することは少なかったのかもしれないが、これらの先駆者から得たヒントは多かっただろう。日本の現代学者が近代の翻訳作業に触れるとき、往々にして忘れられずに挙げられるのがマリオリッチと徐光啓、モリソンやこれらの先駆者が残した業績である。我々が今日、使用しているいくつかの名詞、専門用語はまさに中国で伝教師と中国の協力者が共同で作り上げた翻訳である。これらの訳語を列挙するのは難しいが、日本の学者の考証によると、少なくとも「数学」「理論」「銀行」「保険」「批評」「電気」といった言葉は、日本の近代学者が中国にすでにあった訳法を踏襲したものである。人々が現代中国語における日本語「外来語」について触れるとき、これらも往々にして「外来語」に含めるが、それは正しくない。

靖国神社

2005-10-17 22:24:36 | Weblog
靖国神社に小泉さん行きましたねー。

感想:
1.お賽銭だすところが可愛かった。
2.普通のおっさんが神社お参りするのと画面上では変わらなかった。普通のおっさんが神社お参りしているところを報道陣が取り囲んで写しているっていうのは、とてもシュールなコントだと思った。

でも、普通のおっさんではなくて、総理大臣だし、あれ普通の神社じゃなくて、靖国神社だから、やはり総理大臣が靖国神社を参拝したっていうことだよね。そう思うと面白くもなんともない。

広島に原爆落とした人を英雄として祭ってる国に対する嫌悪感と
同じものを感じるなー。

それとも国家ってもんはこういうもんなのかなー。