一月、二月は色々あった。色々した。色々知ったし、色々考えた。だから久しぶりにブログなどをしたためてみる。せっかくなのだから、備忘録。
やはり忘れられないのは沖縄だ。色々巡ったのだけど、そのうちでもやはり強い印象を残したのは離島だった。慶良間諸島座間味島。那覇から1時間ばかり高速艇で行った距離にある。春から始まる観光シーズンには多くの人がダイビングやシュノーケリングをしに訪れるそうだが、今は2月の完全なるオフシーズン。予約した民宿も宿泊客は僕一人というありさまだった。それでも宿のオーナーは親切にも港まで迎えに来てくれ、屈託のない笑顔で話す人柄に島と宿の選定に間違いはなかったと確信したのだった。
島に着いたのが夕方だったので、夕日を見に浜辺に向かった。座間味近辺は多島海だ。いくつもの島影に沈む夕日の美しさに心震えた。その後、レストランで軽い夕食を済ませ、宿に戻るとスタッフの作業スペースから僕を呼ぶ声がした。なんだと思って振り向くとそこには見知らぬ初老の男と青年二人。オーナーではない。なにか色々広げて二人で飲んでいる。今日の宿泊客は僕一人のはずだし、といぶかっていたが、人の良さそうな「一杯やっていきませんかね」という声で沖縄流「いちゃりばちょーでー(出会えば兄弟)」の飲み会が始まった。
話してみると、この初老の男はこの民宿の前のオーナーだった。体調が悪く、通院もあるので那覇に引っ越し、親戚である現オーナーにこの民宿を任せているのだという。青年は前オーナーの息子さんだった。「なぜ帰って来たんですか?」そう尋ねると前のオーナーは言った。「明日がじゅうろくにちで帰って来たんだ」
じゅうろくにちというのは、主に先祖崇拝の沖縄ではポピュラーな、旧暦の1月16日に行われる墓参りの行事だそうだ。お墓の正月、と言われ、死者がめでたく正月を迎える日らしい。全員ではないが、結構な人が店や会社を休んででも実家に帰って墓参りに行くらしい。彼らもそのうちの二人であった。
酒が進み、じゅうろくにち、だからかお互いの先祖の話になった。僕は華僑なので、中国に居た先祖の話や、沖縄と交流の深かった福建省に行って来たことなどを伝えるととても気にいってくれ、もっとお前と飲みたい、だが酒がない、ご先祖様のお酒をもらいに行こうと言い出した。何事かと思いながらも、前オーナーに附いて外へと出た。外は満天の星!みとれていると前オーナーがさっさと歩けと急かして来る。懐中電灯で暗い路を照らしながら行くと、誰も住んでいない沖縄旧家(と言えば聞こえはいいがその実、あばら屋だ!)に到着した。がらっと障子を開けると大きな祭壇があり、そこにご先祖様の写真が何枚か飾ってあった。また祭壇の横には天皇陛下や総理大臣からの感謝状がかけてあり、よほどの名家なのだと見えた。
「これこれ、これ、だよ。ご先祖様拝借いたしますよ」とぶつくさいいながら前オーナーは祭壇に奉られていた泡盛の瓶を小脇に抱えながらお辞儀をした。すでに半分ぐらい空いている。すでになんどか拝借しているのだろう。「お前も挨拶しておけ」と言われ、僕もお辞儀した。お酒を頂くのだから、当然、当然。ご先祖様へのご挨拶が終わった後、民宿に戻り、酒盛りの続きとなった。その後、色々と話したのだけど、やはり先ほど見た祭壇の横に飾ってあった総理大臣からの感謝状が気になり聞いた。あの感謝状はどうしたんですか。すると前オーナーは、こう言った。「あれはオジーが戦争で死んだからもらったんだよ」
前オーナーは祖父の顔を知らないそうだ。写真も残っていない。座間味には祖父や祖母の顔を知らない人が多いらしい。座間味は沖縄戦で最初に上陸戦が行われた島なのだ。上陸戦の前には、こんな何もない島への空襲があった。防空壕へ逃げていた前オーナーの祖父は瓦職人で、少し前に建てたばかりの家が気になり壕を抜け出し見に行ったところに、爆弾投下を浴び、家ごと四散したという。祖母は泣きながら飛び散った肉片を拾い集めたのだというのだから阿鼻叫喚の地獄絵図だ。だが、座間味の地獄はこれで終わらなかった。上陸戦に先立って恐ろしいアメリカーに殺されるくらいならと「集団自決」が至る所で発生したのである。親が子を殺し、子が親を殺すその光景は忘れたくても忘れられないものであったらしい。あるガマ(洞窟)では10数人が並んで首をつり、ある場所では何人もが円陣を組んで軍人からもらった手榴弾を中心にすえ自決した。生き残ったものも後遺症に悩まされるものが少なくないそうだ。前オーナーが言うには近所に住むおばあさんはまったく声がでないのだという。なぜなら集団自決の際、父親に首をカミソリでかっ切られたからだという。一命は取り留めたのだろうが、声帯を傷つけたため、一生声が出ない体になってしまったのだ。こうやって自決した住民は座間味島だけで400人以上、当時の人口の約1/5に達する。自決だけで1/5である。この他、戦死者合わせると人口のうちの多くが失われたことが分かる。祖父や祖母の顔を知らない人が多いのも当然で、その世代だけがすっぽり抜けているのだ。
なぜ集団自決が始まったのか、日本軍の命令だったという話もあるし、そうではないという話もあるらしい。ただ前オーナーによると、誰の命令であったというよりもそういう考え方に至ってしまう当時の風潮、教育が問題であったということだ。軍民一体となって敵を殲滅すべし、一億火の玉総特攻とは事実戦時中のプロバガンダとして至るところに登場するフレーズだ。民宿の近くにいまもある忠魂碑には「うみゆかば」の歌詞が刻んである。「海行かば 水づく屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ」と刻まれたその碑の前に集まるよう、集団自決の前日に集合命令がかかったのだ。
そんな戦争の話をその戦争で亡くなられたご先祖様から頂いたお酒を飲みながら聞いているのは不思議な感覚だった。それは話をしているオーナーさんも同じだったようで、「不思議だなー。こんなにこのことを人と話すのははじめてだし、ご先祖様を紹介したのも初めてだしな。じゅうろくにちだからかねー」と言っていた。またそんな話を聞いた翌日、座間味の美しい海を見るのも不思議な感覚だった。そんな悲惨なできごとがあったなんて到底信じられないほど美しいのが座間味の海なのだけれども、酒が抜けてないのか、照りつける南国の日差しにやられたのか、なにか思考が定まらず、地図も見ずにふらふらと歩いていた。すると知らぬ間に誰もいない浜辺にたどり着いた。地図を見るとウユニの浜という場所だった。岩がゴツゴツした印象の浜で沖には遠く渡名喜島が見えた。この浜には僕一人しかいない。ふと、浜に面した岩山に大きな洞穴が口を開いているのに気づいた。僕はなにかに引き寄せられるようにその洞穴へと向かっていた。磯場を渡り、岩場をのぼり、入口から洞穴の中を見た。天窓があるようで中は十分に明るい。中に躊躇なく入った。中はそれほど広くなく、大人なら10人くらいが入れるほどの大きさだった。地面は柔らかい砂地で案外居心地がよい。外の猛烈な日差しから逃れるためにしばらく座っていた。ふと、奥を見ると、奥入口とは反対の方向へ子供がくぐれるほどの小さな穴があいていることに気づいた。穴から光が漏れ出ている。外に繋がっているのだろうか。好奇心の赴くままにその穴をくぐってみた。すると、目の前に海が広がった。ここはどういう場所なのだろう。岩と岩に囲まれた大人が両手を伸ばしたほどしかない本当に小さな浜なのだけど、ここに来るには先ほどの穴をくぐって来るしかない。子供たちの秘密の場所、そんな表現がしっくりする場所だ。また、不思議な事に此処からならば本当に真正面に渡名喜島が見える。また、よく見ると、渡名喜島をまっすぐ見る位置に海へ向かっていくつも飛び石のようなものがある。ここは祭壇なのだろうか。ふと気になってスマートフォンでウユニ浜と調べてみた。祭壇かどうかは分からなかった。ただ、手記らしきものが検索でヒットした。それは、ウユニの浜の今、僕がいる、この洞窟に戦争中に逃げ隠れていた少女の手記だった。自宅が日本軍に接収され、食べ物もなくこの洞窟で何日も過ごし、外で多くの人々の悲惨の死を目の当たりにした少女の手記だった。手記に目を通し、そして海を見た。今は渡名喜島まで船は一艘も見えないが、手記によると、当時はこの島をアメリカの艦艇が、海が見えなくなるほど取り囲んだそうだ。その恐怖やいかなるものだっただろうかと、思いはせるものの、この海の美しさと過去の恐怖のあまりのアンバランスさに現実味がどこまでもなく、僕はとにかく戸惑うだけだった。この少女もこの秘密の場所から艦艇で埋まる海を見たのだろうか。全く想像がつかない。そしてこの洞穴の周りに横たわる人々を見たのだろうか。これも全く想像がつかない。ただ、多分、戦争は本来的に想像を絶することの連続なのだろうとその時思った。
それにしても不思議な一日だった。オーナーのご先祖様のお酒を飲んでから、ふと気づいたらこの島の過去と向き合っている、そんな一日だった。これもじゅうろくにちという特別な日だったからなのかなと思っている。