三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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文字と映像による記録・事実の伝達

2024年02月27日 | 海南島史研究
■文字と映像による記録・事実の伝達   海南島近現代史認識の過程で■

                              佐藤正人
■聞きとりの意味と方法
 日本政府・日本軍・日本企業は、アジア太平洋地域における国家犯罪・侵略犯罪を隠しつづけている。
 日本人は、侵略犯罪者・戦犯ヒロヒトを、アジア太平洋戦争後も、天皇としつづけた。植民地機関の職員、日本軍の兵士、侵略企業の職員として、アジア太平洋の各地で、多くの民衆を殺傷した日本民衆は、日本敗戦後に帰国して、過去の犯罪を隠しつづけた。
 日本政府・日本軍・日本企業の国家犯罪・侵略犯罪にかかわる証拠文書は多くは焼却・廃棄されたか隠されたままである。したがって、その歴史的事実を解明するためには、犠牲者、加害者、目撃者からの聞きとりが重要である。
 聞きとった証言を歴史的事実確認の証拠とするためには、史料批判(信憑性の検証)が必要であるのは、文書史料と同じである。
 聞きとりは、歴史的事実を解明するうえで重要な作業だが、証言=事実、とすることができないのは当然である。聞きとりの内容の真実性をたしかめるために、他の証言や文献資料や実物資料、状況資料(当時の社会・経済関係、当時の地形・自然環境、当時の生活状態)との照合も可能なかぎり、おこなわなければならない。
聞きとりは、証言者と聞きとり者との共同作業である。一回だけの聞きとりは限界がある。
 わたしたちは、二〇〇八年八月までに、文昌市重興鎮排田村・白石嶺村・昌文村・賜第村、文昌市羅豆郷秀田村、文昌市抱羅鎮石馬村、文昌市南陽鎮老王村・托盤坑村、定安県黄竹鎮大河村、瓊海市九曲江郷波鰲村、瓊海市北岸郷北岸村・大洋村、瓊海市九曲江郷坡村・長仙村・南橋村・佳文村・鳳嶺村・官園村・戴桃村、瓊海市陽江鎮覃村、瓊海市烟塘鎮大溝村・書田村、瓊海市潭門鎮潭門村九所村、瓊海市新市鎮南城園村、瓊海市参古郷上坡村・外路村、瓊海市大路鎮川教村、万寧市石城鎮月塘村、万寧市東澳鎮豊丁村、万寧市南橋鎮田公村、万寧市龍滾鎮、万寧市和楽、万寧市烏場、万寧市北大鎮中興、儋州市中和鎮東坡村、儋州市長坡鎮呉村、陵水黎族自治県后石村・三十笠村、陵水黎族自治県陵城鎮南門嶺、瓊中黎族苗族自治県湾嶺鎮烏石、瓊中黎族苗族自治県黎母山鎮黎母山村・榕木村、瓊中黎族苗族自治県吊羅山郷、五指山市水満郷、楽東黎族自治県仏羅鎮仏羅村、東方市感城鎮長坡村、三亜市羊欗鎮妙山村、海口市永興鎮、海口市咸来鎮美村・美桐村・昌洽村・美良村・丹村、海口市三江鎮上雲村・古橋村・東寨村・演州村・福内湖村、海口市長流鎮儒顕村、海口市東山鎮儒万村、三亜市田独鎮「朝鮮村」……など海南島の各地を訪ね、住民虐殺の目撃者や幸存者から話しを聞かせてもらい、それを文字と映像で記録してきた。
 わたしたちは、同じ地域をくりかえし訪問し、同じ人びとにくりかえし話を聞かせていただくようにしてきた。そして、そのたびに新しい事実を知り、あいまいであった点を明確にすることができた。
 証言を聞き記録することは、侵略と抵抗の史実を探求するとともに、その史実の史料を創出することでもあった。
 日本では、加害者が証言を拒否しているが、証言拒否もまた、ひとつの証言の方法である。

■動画による記録
 わたしたちは、二〇〇三年春から、記録映画の制作をはじめ、二〇〇三年七月に、『海南島で日本人はなにをやったか! 日本軍の海南島侵略と抗日闘争① “田独鉱山・「朝鮮村」”』(二三分)を試作し、二〇〇三年一〇月に『日本は海南島でなにをやったか』(三分)を試作したあと、二〇〇四年春に、最初のドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 六〇年前は昨日のこと』(六五分)を完成させた。
 いちれんのドキュメンタリー制作の過程で、わたしたちは、聞きとりのありかたを検証するとともに、動画による記録の意味を分析しつつその方法を模索してきた。
 文字や絵による記録と静止画(写真)や動画という映像による記録とは、相互に補いあうものであるが、もちろんそれぞれが独自の役割をもっている。
 海南島で証言を聞かせてもらうときにビデオカメラを使いはじめた二〇〇一年一月からの数年間は、そのことの意味の大きさを明確に自覚しておらず、それまでの文字と写真による記録との質の違いをあまり重視していなかった。
 撮影しつつ発問し、発問しつつ撮影するという作業の意味を論理化しなければならないと気づいたのは、二〇〇三年春以後であった。

■写真による記録
 日本軍が海南島に奇襲上陸してから六八年後の二〇〇七年二月一〇日に発行した写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』は、終わっていない全世界的規模の民衆闘争の時代を、海南島という地域に限定して写真と証言(ことば)で記録し伝達しようとするものであった。
 ことばと写真は、記録する手段であるとともに、伝達する手段である。
写真と証言(ことば)は、相互に補いあって、事実を伝達してくれる。
写真は、ことば(文字)で表現できないことを伝達してくれる。
 写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』制作の過程で、わたしたちは、歴史認識と歴史叙述の手段として、写真の役割が大きいことを再確認した。
証言者は、ことばだけでなく、その姿と表情で証言する。
 写真を撮影し、選択し、編集していく作業は、写真によって歴史を叙述していく作業である。
 証言(ことば)を聞きとり文字で記録するとともに、映像で記録し、ことばと映像で史実を明らかにし、それを伝達していくことがたいせつである。

■文字と映像
 二〇〇四年四月に最初のドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 六〇年まえは昨日のこと』の日本語版を、七月に朝鮮語版を、一二月に漢語版を完成させたあと、わたしたちは、二〇〇五年秋にドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』の制作をはじめた。 最初のシナリオ草案の最終部分は、つぎのようであった。

 「南方」の島に強制連行された朝鮮人  グアム島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島……の朝鮮人。
 地図 現在のアジア太平洋地図アジア太平洋戦争期のアジア太平洋地図 。
地図 アジア太平洋戦争期のアジア太平洋地図→グアム島、トラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、ペルリュー島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島、硫黄島……。 
 映像 朝鮮人徴兵。
 ナレーション 朝鮮人は、日本軍基地造成のために、海南島よりさらに「南方」のトラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、マキン島、タラワ島などに強制連行されました。
 その地で、日本軍敗退時に多くの朝鮮人が、餓死、「戦死」させられました。 
獄中者を「南方」の島に送って強制労働させる策動は、一九三九年秋から、日本で始められていました。
 一九四三年まで朝鮮人獄中者の「南方派遣」が強行されなかったのは、日本政府・日本軍が朝鮮人の反抗を恐れたためだと思われます。
 軍隊内反乱を恐れていた日本政府が、朝鮮人に対する徴兵制を公布したのも「南方派遣報国隊」策動がはじめられたのと同じ一九四三年春でした。
 映像 ペルリュー島の朝鮮人犠牲者追悼碑(写真)。
 映像 グアム島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島……の当時の状況(写真)。 
 ナレーション 日本軍基地造成のために、トラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、マキン島、タラワ島などに朝鮮人が強制連行され、日本軍敗退時に多くの朝鮮人が、餓死、「戦死」させられました。
 映像 窪田精『トラック島日誌』。窪田精『流人島にて』 。
 ナレーション 「治安維持法」違反で横浜刑務所に入れられていた窪田精さんは、一九四二年三月に、「第五次トラック島図南報国隊」として、五〇〇人余りの受刑者と六〇人あまりの看守と共に、トラック島に向かう船に乗せられました。同じ船に、七〇〇~八〇〇人の「朝鮮人軍夫」も乗せられており、受刑者のなかにも朝鮮人がいたといいます。
 映像 トラック島。北川幸一『墓標なき島 ある受刑者の“戦争”』 。
 ナレーション トラック島に送られた受刑者や朝鮮人は、日本海軍の飛行場作りをさせられ、厳しい労働やアメリカ合州国軍の爆撃により殺されました。
三重県安芸郡美里村の村議Aさんは、当時トラック島に行った刑務官の一人でした。
 映像‥ウォッチェ島。
 ナレーション 「ウオヂェ赤誠隊」がウォッチェ島で海軍の飛行場基地を完成させたあと、一九四二年七月に、朝鮮人が軍属としてウォッチェ島に送りこまれ、道路建設などをさせられました。
 映像 「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」。 
「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 七三〇〇名(「タラワ」「マキン」両島に於ける玉砕者約一二〇〇名を含む)と推定せられ其の外行方不明七三五名を出せり」。
 テロップ 『第八六回帝国議会説明資料』一九四四年一二月、朝鮮総督府鉱工局勤労動員課、一六八葉)。
 ナレーション 一九四三年一一月に、マキン島とタラワ島の日本軍が、アメリカ合州国軍の攻撃によって壊滅しました。このとき、日本軍に使われていた朝鮮人労働者のうち、一二〇〇人が死んだといいます。  
 これは、そのことを当時の日本の議会に報告する朝鮮総督府の文書です。
 映像 テニヤン島。
 テロップ 一九四五年七月二四日、USA軍上陸時、朝鮮人二七〇〇人、日本人一万三〇〇〇人がいた。

 一九四三年九月三〇日に、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍の中枢は、「千島、小笠原、内南洋(中、西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む区域」を「絶対国防圏」(「帝国戦争遂行上、太平洋及印度洋方面に於て絶対確保すべき要域」)として設定した。しかし、一九四四年一二月に、「絶対国防圏」東端のマキン島とタラワ島の日本軍が、アメリカ合州国軍の攻撃によって壊滅した。一九四四年一二月末の朝鮮総督府文書『第八六回帝国議会説明資料』には、
 「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」のうち「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 七三〇〇名(「タラワ」「マキン」両島に於ける玉砕者約一二〇〇名を含む)と推定せられ其の外行方不明七三五名を出せり」
と書かれている。
 このことを、ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』で示そうとして、前記のようなシナリオを書いたが、このような説明的なことは、映像で伝達する必要がないと判断し、すべてを削除した。

■ドキュメンタリーのみが伝達する内容
 主として動画を編集して制作するドキュメンタリーと文字史料(聞きとりの文字記録をふくむ)・文献を分析して書く論文とは、それぞれの伝達内容が異なる。
両者が単独では伝達できない内容を、写真集ではいくらかは伝達できるが、その質は異なる。
 わたしたちは、ドキュメンタリーのみが伝達しうる内容を表現する方法を、ドキュメンタリーを制作していく過程ですこしづつ学習していった。
 わたしたちが留意したのは、できるだけ映像そのもので表現することであった。説明的になることを避けるために、ナレーションやテロップを簡潔にし、観る人が記録された映像の断片ひとつひとつに表現されている事実を認識しその歴史的意味を考える「動機」をもつことを期待してドキュメンタリーの編集をすすめた。
 わたしたちは、映像の選択・時間設定(テンポのとりかた)に多くの時間を使った。
 ドキュメンタリーという報告物を制作するために、わたしたちは、それまで撮影した映像を前提としておおまかな構成を決め、シナリオ草案を書きあげ、シナリオの各パートごとに三秒間から数分間のクリップを一〇〇個ほどつくり、それを編集していった。
 そのさい、わたしたちは、ひとつの場面のクリップを三秒にするのか五秒にするのかを決定するのに数時間討論したこともあった。
 一日に数十個のクリップを編集していけば、計算上は一か月ほどで一時間のドキュメンタリーを制作できるが、実際にはその一〇倍ほどの時間が必要であった。
 また、できるだけ文書を画面にださないように工夫したが、たとえば、金慶俊さんの戸籍簿の
 「一九四三年十一月一日午後十一時三十分南支那海南島白沙県石碌朝鮮報国隊隊員病舎ニ於テ死亡京城刑務所長朝鮮総督府典獄渡辺豊届出同年十二月二十四日受附」(原文は、「元号」使用)
という部分は、とりこんだ。
 この文書は、「朝鮮報国隊」ということばが記されている数少ない公文書のひとつである。
 わたしたちは、この文書の画像に、「金慶俊さん(一九一五年一〇月一六日生)の戸籍簿」というテロップをつけ、石碌地域の映像とソウルで話を聞かせてもらうことができた金忠孝さん(金慶俊さんの甥)の証言映像とを合わせて三二秒ほどのクリップをつくり、
 「金忠孝さんの叔父金慶俊さんは、「朝鮮報国隊」に入れられ、海南島に強制連行され、石碌で亡くなりました。二八才の誕生日の一か月後でした。妻の裵鳳業さんとのあいだの金忠萬さんは生後七か月でした」
というナレーションを入れた。
 
■映像による証言内容の伝達
 ナレーションをいれず、証言者の声以外の現地音を絞りきって、映像のみによって証言内容を伝達することを、わたしたちは試みた。
 それは、映像が伝達しうる内容を表現する究極の方法なのだが、そのためには、その原映像が、そのような試みに耐えうる質をもつものでなければならない。
 そのような映像を記録することは、撮影技術とは無関係のことであって、それが可能な「場」に撮影者(記録者)がいることが決定的な条件である。同時にそのような「場」は、撮影者が撮影を中止すべき「場」でもある。

■対象と自己の関係
 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』で、わたしたちは、一九四五年五月二日に日本兵によって命を奪われた月塘村の人びとの生と死の軌跡をたどろうとした。六〇年を越す歳月のかなたで、ある日突然いのちを奪われた、いまは不在の人たちの生と死を、どのように映像で表現するのか、どうしたら、映像で表現できるのかを考えつづけながら。
 殺害現場、墓地の映像では、殺された人たちのそれまでの生を表現できない。あの時まで、人びとが呼吸していた月塘村の大気や、浴びていた光を撮影する方法を、わたしたちは模索した。殺された人びとのそれまでの生を表現できなければ、その死の重さを、意味を表現できないと思いつつ。
 その模索の過程で、わたしたちは、ドキュメンタリーで表現できるのは、表現しなければならないのは、対象そのものではなく、対象と自己の関係ではないかと考えはじめた。
 おそらく、対象と向き合う者のありかたによって、映像としての対象が規定されるのだろう。
 死者の生と死の軌跡を映像化しようとするとき、対象は直接的な映像としては実在せず、ただ関係においてのみ「実在」するのではないか。

■月塘村へ
 わたしたちは、一九九八年夏に、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(一九九五年八月)によって、月塘村虐殺のことを知った。
 二〇〇二年春にはじめて万寧市万寧鎮に行き、地域の日本軍犯罪史と抗日反日闘争史を研究している蔡徳佳さんに会った。
 蔡徳佳さんは、
 「万寧市北部の六連嶺地域は、抗日武装部隊の根拠地だった。侵略と抵抗の歴史を統一的に具体的に追及しなければならない」、
と言った。わたしたちは、これから、共同作業が実践的にも思想的にも可能となる道を求めていきたいと話しあった。
 蔡徳佳さんは、万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(『万寧文史』第五輯、一九九五年七月)を寄贈してくれた。
 そこには、月塘村虐殺にかんして、蔡徳佳さんが林国齋さんと共同執筆した「日軍占領万寧始末❘❘製造“四大屠殺惨案”紀実」と、楊宏炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・二一”惨案」が掲載されていた。
 二〇〇五年秋、わたしたちは、蔡徳佳さんに紹介されて、万寧市内で、朱進春さんから話を聞かせてもらった。当時八歳だった朱進春さんは月塘村に侵入してきた日本兵に銃剣で八か所刺されながらも生き残ったが、その後、村人に「パァタオ(八刀)」と呼ばれたという。
 わたしたちが、はじめて月塘村を訪れたのは、二〇〇七年一月一七日であった。この日朝、わたしたちは、月塘村に生まれ万寧市内に住んでいる朱深潤さんに月塘村につれて行ってもらった。この日、わたしたちは、自宅で朱学平さんから、あの日のことを聞かせていただいた。
 その四か月後、五月に、わたしたちは、再び月塘村を訪ねた。
 わたしたちが、朱学平さんから、瀕死の妹の朱彩蓮さんを抱えて「坡」まで逃げたことを聞いたのは、朱学平さんにはじめて会った日だった。その後、五月に再会し、一〇月はじめから一一月上旬にかけて月塘村に毎日のように行って、なんども朱学平さんに会った。
 二〇〇七年一月には、わたしたちには月塘村虐殺にかんするドキュメンタリーを制作するという発想はなかった。
 五月に、月塘村で朱進春さんや朱振華さんなどと話し合っているとき、いっしょにドキュメンタリーを制作しようということになった。数日後、わたしたちは、その準備作業として、月塘村の風景の撮影を始めた。
 月塘のそばの太陽河ぞいの三叉路にカメラを固定し、遠景を撮影していると、遠くから鍬をかついだ人が歩いてきた。その人が近づいてくるのを撮影しつづけた。その人は、朱学平さんだった。畑から帰る途中だということだった。
 その後も、このような偶然の出会いが何度となくあった。
 何度会っても、朱学平さんは、笑うことがなかった。
 その朱学平さんを見ているとき、しばしば、わたしたちは、一九二六年一月に、四歳のとき、日本の三重県木本町(現、熊野市)で父裵相度さんを虐殺された裵敬洪さんのことを思った。
 裵敬洪さんは、
 「父が殺されてから、わたしは心の底から笑ったことは一度もない」
と言っていた(金靜美「白いトックがふみにじられていた 裵敬洪さんの記憶より」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』二〇〇二年一一月)。

■ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
 わたしたちは、朱学平さんが自宅や虐殺現場で証言する映像に、つぎのようなナレーションをいれた。

 朱学平(チュシュエピン)さんは、
 「わたしは、一二歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。わたしだけが生き残った。母、兄の朱学温(チュシュエウェン)と朱学敬(チュシュエジン)、姉の朱彩和(チュツァイホ)、叔母二人、いとこ二人、そして六歳だった妹の朱彩蓮(チュツァイリェン)が殺された。
わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。
 血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。      
 村はずれに隠れた。
 半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火にあっていたが、骨になりきっておらず、く さっていた。
 まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(ワンニン)から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
 その五年前の一九四〇年一一月二八日に、父の朱開廉(チュカイリェン)が、近くの東澳(トンアオ)村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃たれて殺されていた」
と話した。

【写真】朱学平さん

■朱彩蓮さん
 わたしは、朱学平さんの妹、朱彩蓮さんを、映像で表現したいと考えた。もちろん、朱学平さんの記憶のなかの朱彩蓮さんを撮影することはできない。しかし、朱彩蓮さんを記憶している朱学平さんを撮影することはできる。
 わたしは、思い切って、朱学平さんに、あの日朱学平さんが朱彩蓮さんを抱いて逃げた「坡」まで行きたいと言った。
 朱学平さんは、「坡はすっかり変わってしまった」とだけ答えた。
 その数日後、わたしは、朱学平さんと、「坡」に向かった。その道は、以前にも歩いたことのある道だったが、朱学平さんといっしょに歩いていると、見知らぬ違う道のように感じた。
 以前行った地点を通り越して、道がなくなったところをさらに一〇〇メートルほど行ったところで朱学平さんは立ち止まった。すぐそばを太陽河が流れていた。
そこで、朱学平さんは、つぎのように話した。

 「あのとき、わたしは、妹を抱いて、前を走っていく人について、逃げた。
妹が痛いというと、いったん下におろし、また抱えて走るようにして逃げた。 
雨が降りそうになったので急いだ。ここまで逃げてきて隠れた。ここには一〇〇人あまりが隠れた。
 あの日、午後三時ころだったと思うが、大雨が降った。夜には止んだ。
ここにはすぐには食べるものがなかったが、まもなくさつまいもを探して掘って煮て食べた。鍋は、‘坡’に住んでいた人に借りた。水は太陽河から汲んできた。 
 妹は、三日後に死んだ。
 妹は、なにも食べようとしないで、水だけ飲んで死んでしまった。妹は、ただ、痛い、痛いと言って、水だけを欲しがった。
妹のからだは、年寄りに助けてもらって近くに埋めた。いまでは、どこなのかはっきりしない。
 叔父(朱洪昆)が日本兵に一〇か所あまり刺された。からだに虫がわいて、何日もしないうちに死んだ」。

【写真】太陽河・牛

 こう話したあと、朱学平さんは、樹と草の茂みに入って行った。そして、とつぜん泣き出した。
 そのあと、朱学平さんは、仕事があると言って、一人で家に帰って行った。
 岩場の多い太陽河が、光って流れていた。太陽河沿いの細い道を下流に進んでいくと、銀白色のススキが風に大きく揺れていた。すぐに道が川辺をはずれ、ビンロウジュの畑にでた。
 夕方、帽子を返しに、朱学平さんの家に行ったが、朱学平さんはいなかった。連れ合いさんが、
   「午後、坡から戻ってから、夫はずっと泣いていた」、
と話した。

■歴史叙述・記録・映像
 ドキュメンタリーは、記録であるとともに、歴史叙述である。
 ドキュメンタリーのシナリオは、ことばによる記録と歴史叙述だが、文章形式のことばだけによる記録・歴史叙述とは違い、影像による表現を前提としている。
 ドキュメンタリーシナリオという形式での記録・歴史叙述は、撮影してきた映像および撮影しようとする映像に規定されるが、同時に、撮影できない映像をも前提としなければ、書きあげることができない。
 ドキュメンタリーのシナリオは、証言を文字で記録しているという意味では記録であるが、映像を前提とし数百個のクリップを編集しているという意味では歴史叙述である。
 わたしたちにとって、『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書くということは、歴史を認識すると同時に歴史を叙述するということだった。
 ナレーションという形式の歴史叙述を書くためには、依拠する文献史料の史料批判を厳密におこなわなければならないのは当然である。
 ナレーションは、現在の証言映像に示されている過去の歴史的事実、現在の廃墟の映像に示されている過去の歴史的事実をことばによって「解説」するものであり、文献史料と影像史料を結びつける役割を果たすものである。

■史料としての映像記録
 ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』は、二〇〇一年一月以後に撮影した一〇〇時間近い原映像を編集したものである。その構成を決定し、シナリオを書く作業は、文字による歴史叙述の場合と方法的には同じ作業であった。
 撮影を開始したときには、自覚していなかったが、「朝鮮報国隊」について語る証言者や「朝鮮報国隊」にかかわる現場を撮影することは、「朝鮮報国隊」にかんする史料を創出することであった。
 ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』のシナリオを、わたしたちは、海南島と韓国で撮影した原映像と日本内閣文書・朝鮮総督府文書・日本軍文書などを史料として執筆した。
これまで、わたしたちは、「朝鮮報国隊」に入れられ、生き残って故郷にもどることができた人たちから、韓国で話を聞かせてもらうことができた。そのうち、証言している映像の公開を承諾してくれた人は、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんであった。わたしたちは、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんを何回も訪ねた。
 その証言を記録した映像は数十時間だが、そのうち、ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』で紹介できたのは、五分ほどであった。したがって、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんの証言の史料としてのドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』の役割はきわめて限定的である。
 「朝鮮報国隊」にかんする文書史料は、ほとんど公開されていない。
わたしたちが撮影した映像史料を検討することなしに、これからは、「朝鮮報国隊」にかかわる日本の侵略犯罪事実を明らかにしていく作業はほとんど進展しないだろう。
 「朝鮮報国隊」にかんする史実探求においてだけでなく、国民国家日本の海南島侵略犯罪にかんする史実探求においても、わたしたちが撮影してきた証言映像・現場映像は、その史実にかかわる史料となっている。

【写真】「朝鮮村」
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海南島近現代史研究会第27回定例研究会 蒲豊彦報告

2024年02月25日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2024年2月17日に開催した海南島近現代史研究会第27回定例研究会での蒲豊彦さんの報告の要旨です。
 

 庶民の記憶と民衆史
           蒲豊彦

 日本では現在、小学6年生から歴史を学び始めるようだが、そこに登場するのは、中学、高校を含め、ほとんど有名な事件や人物に限られるだろう。また歴史にたいする興味やイメージを形作るうえで大きな影響があると思われるNHKの「大河ドラマ」も、主人公はほぼ有名人である。歴史を理解しようとするとき、有名な事件や人物が基本になるのは疑いないが、その歴史がつまり「歴史」である、と思い込むことは避けたい。そのような考えは、その対極にある普通の人の歴史や生活には意味がない、という勘違いにつながる可能性があるからだ。以下では、私の著書『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』(名古屋大学出版会、2020年)と『三竃島事件-日中戦争下の虐殺と沖縄移民』(共著、現代書館、2018年)をおもな材料として、庶民の歴史を研究する方法の一例を紹介してみたい。
 まず、『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』は、中国南部いわゆる華南の地域社会の歴史を解明しようとしたものである。なかでも広東省の東部沿海部に焦点をあてた。このあたりの農村部は、かつてしばしば特徴的な姿をしていた。村は散村ではなく家々がびっしりと集まり、そこには同族を主とする人々が暮らし、村の周囲は土塀で囲まれ、住民たちは武装していた。それはおもに盗賊対策だったと思われるが、その武力を使って近隣の他村と頻繁に武力衝突を繰り返し、多くの死者を出していた。これが華南の地域社会の大きな特徴であり、いわばその基本構造をなしていた。 
 この構造は、16世紀の中ごろ(明の中期)から徐々に形成されはじめ、20世紀の中ごろまで続く。
 ところがその間、中国では、明、清と王朝が入れ替わり、さらに辛亥革命を経て、中華民国、中華人民共和国(1949年成立)へと移った。ここで、きわめて重要な事実が明らかになる。この時期を通してほぼ400年間、華南の地域社会で同じ基本構造が続いていたということは、中国全体が大きく変化しているにもかかわらず、華南ではそれとはまったく別の歴史が同時に存在していたことになるのである。このもう一つの歴史を「歴史の底流」と呼びたい。これまで研究者は、華南のこの底流の存在を明確に認識することがなかった。
 このもう一つの歴史を理解するためには、農村部を中心とする地域社会の様相を独自に時期区分しながら調べなければならないが、史料の欠如という大きな問題がある。日本の場合は、前近代においても各地方の古文書がわりあいよく残っているようだ。しかし中国では、ごく一部の例外を除き、そのようなものはないといってもよい。そこで、様々な細々した漢文史料を寄せ集めて利用することになるが、『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』では、それに加え、それらとはまったく性格の異なる史料を使用した。キリスト教の宣教師が残した書簡や報告書などの文書群である。1840年のアヘン戦争以降、欧米の宣教師が大挙して中国へ入りはじめ、各地で大量の文書を作成して母国のミッション本部に送り、現在も教会の資料館や大学図書館等に保存されている。
 そうした宣教師文書を判読、整理すると、通常の漢文史料には現れない様々なことが見えてくる。たとえば広東東部の場合、19世紀の中ごろから20世紀初頭までの間に、入信者が急増した時期が2回あったことが明らかになる。最初は1870年、次は日清戦争(1894~95年)の直後から19世紀末にかけてである。宣教師文書を使ってさらにその原因を探ると、その時期、社会情勢の変化にともなって住民が大きく動揺していたことがわかる。つまり、地域社会の動向が宣教師文書のなかに記録されているのである。また、1894年には香港でペストが大流行し、さらに広東の沿海各地にも伝播したが、広東東部では1899年を境にして感染が新しい地域に拡大し、特殊な住民運動を引き起こした。これらはいずれも、従来の漢文史料ではうかがい知れなかったことである。
 『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』では、以上のようにして約400年間に及ぶ華南地域社会のもっとも基本的な歴史を描いた。それは次のように整理することができる。まず、明の中ごろから次第に同族が集住しはじめ、清初には隣村との武力衝突が本格化し、このころまでに地域の基本構造が出来あがった。そして日清戦争期に戦争、ペストそのほか各種の社会不安が重なるなかで、住民の間に自助、互助的な組織活動が発展する。住民のそうした社会運動の一つの帰結が、同地域で近現代史上最大の事件となる1920年代の農民運動だった。
 ただし、以上の歴史叙述には大きな限界があり、ほとんど個人を登場させることが出来なかった。そもそも宣教師の文書には中国人信者の個人的なことはあまり出てこない。広東東部にかんしておそらく唯一の例外は、アメリカ人女性宣教師のアデル・M・フィールドが残したPagoda Shadows(1884年)という書物である。これは『私がクリスチャンになるまで-清末中国の女性とその暮らし』(東方書店、2021年)という邦題で私が翻訳しているが、フィールドが聞き取った中国人女性信者の人生や暮らしが細かく記録されている。たとえば「快」という女性は幼かったころ、町へ出かける父親に、三日間、ミカン畑の小屋に泊まり込んで見張りをするよう言いつけられた。ところが三日目の夜、恐くてついに我慢できなくなり、母が待つ家に駆け戻ってしまう。フィールドは、どきどきしながら父親の帰りを待つ少女の心情を、きわめて丁寧に書き留めている。この地域で、住民が実際にどのように日々を過ごしていたのかは非常に重要な問題であり、このようなものも地域研究に積極的に利用すべきだろう。
 文書による記録が少ない庶民史のような分野では、フィールドも行った聞き取り調査がやはり欠かせない。そうした方法を本格的に使おうとしたのが『三竃島事件-日中戦争下の虐殺と沖縄移民』である。本書のテーマは戦争だが、戦闘の経緯だけでなく、三竃島と沖縄双方の住民の暮らしにも留意した。たとえば、たくさんの子どもを抱えたある家族は、少しでも生活の足しにしようとして、本来は海軍へ納めなければならない米を島外から密航してくる中国人に売っていた。日本軍に見つかれば双方ともに大変なことになる行為である。しかし生活のために危険を冒す家族があり、他の沖縄移民もそれを黙認していた。また、日本兵に捕まった老人と小さな子どもを、移民の少女たちと一人の日本人軍曹が一緒になってこっそり逃がしたことがあった。これも発覚すればただではすまされない。
 『三竃島事件』は日本海軍よる三竃島占領と、その後の沖縄移民の状況を整理する目的で始めた研究だったが、1945年に日本軍が撤退したあとの三竃島についても調査した。その結果、三竃島はその地理的な位置のために、国民党軍が台湾へ逃れるための撤退センターとして利用され、戦後も住民に大きな犠牲を出したことが明らかとなった。これは、沖縄が現在まで置かれ続けている状況と非常によく似ている。こうして、日本海軍による三竃島占領だけでなく、三竃島と沖縄という二つの島をつなぐ、より基本的な歴史を描くことが出来た。
 歴史にかんする本を出版するのは、第一に、事実を整理して記録するためだが、読者のことも考えるべきだろう。読者が興味をもって読むためには、たんなる事実の羅列ではなく、上述のような事件や生活の細部を書き込み、できるだけ目に見えるようにその時代を再現することが必要だと思われる。

(以上は海南島近現代史研究会第27回定例研究会で報告した内容を整理したものである)
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海南島近現代史研究会第27回定例研究会 佐藤正人報告

2024年02月24日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2024年2月17日に開催した海南島近現代史研究会第27回定例研究会での佐藤正人の報告の要旨です。

■主題報告  日本が侵略した地域の民衆の記憶、侵略国家の民衆の主体変革■   
    日本国家が侵略した地域における侵略犯罪の歴史は厳密に記録され伝承されなければならない。
    その歴史記述の正確さを保証する、侵略国家日本の民衆の主体のありかたを考えたい。

(一) 国民国家日本の民衆の歴史認識・行動(事実を明らかにする=歴史的責任を自覚する)。

(二)  国家謝罪・国家賠償(国民国家日本政府に侵略犯罪の諸事実を細部まで正確に明らかにさせ、公表させ、謝罪させ、責任をとらせ、
   賠償させる)。
        侵略。虐殺。日本軍隊性奴隷。

(三) 実証的民衆史(事実)。思想。  民衆の歴史・民衆の歴史認識。
        生き方。責任。道徳。
    民衆運動としての歴史認識・民衆運動のなかでの歴史認識・民衆運動深化のための歴史認識。

(四) 世界史   時間(すべては、現在・昨日のこと)・場(地域)。
    北アフリカ史。南アフリカ史。アラブ史。北アジア史。南アジア史。北太平洋史、南太平洋史。北大西洋史。南大西洋史。ヨーロッパ
   史。北「アメリカ」史、中部「アメリカ」史。南「アメリカ」史。
    個人史のなかの世界史・地域史のなかの世界史
    現在の、日常のなかの世界史。 侵略の世界史 ⇔ 抵抗の世界史。
      
(五)時代 過去、生きている時代(わたしが。われわれが)
   13世紀
   14世紀
   15世紀 大西洋奴隷貿易開始。
   16世紀
   17世紀
      1622年「インディアン戦争」(アメリカ合州国植民地戦争)開始→1890年
   18世紀
   19世紀 ベルギー、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ポルトガル、スペインによるアフリカ大陸分割(植民地化)開始。
      1895年:フランス領西アフリカ
      1898年9月2日:オムダーマンのたたかい マフディール。マフディー戦争
   20世紀
      1904年に、アフリカ南部のナミビア(1884年にドイツが領土化)で、ヘレロ民族がドイツの侵略に抗して烽起したとき、ドイツ
     軍は、ジェノサイドをおこない、ヘレロ民族の8割を殺戮あるいは餓死させた。
      1905年~7年、タンガニイカ民衆(マトゥンビ民族、エンギンド民族、ボゴロ民族、エンゴニ民族ら)が開始したマジマジ烽起の
     時、ドイツ軍、10万人を越える民衆を虐殺。          
      1906年から朝鮮民衆、独立戦争(義兵戦争)開始。日本軍は、義兵の根拠地と判断した村落を襲撃し村人を殺害。朝鮮駐箚軍
     司令部『朝鮮暴徒討伐誌』に、1906年~11年間に日本軍・憲兵・警官が殺害した義兵は1万7779人と書かれている。
      1914年~1918年 世界戦争(1) 
      1919年の朝鮮の三・一独立運動のとき、日本政府は、軍隊・警察を増強し民衆殺傷      
      1937年~38年、ヴィーンヌィッヤ(ウクライナ)でソ連NKVDが1万人以上の民衆を虐殺
      1937年~38年、ソ連で「大粛清」。NKVD(ソ連内務人民委員部部)の1953年統計報告によれば、1937年に政治囚77万9056
     人・死刑者35万3074 人、1938年に政治囚583,326 人・死刑者32万8618 人。
      1937年12月、南京で日本軍が大虐殺
      1939年2月10日、日本軍海南島奇襲上陸開始
      1939年~45年世界戦争(2)
      1939年9月1日、ドイツ軍ポーランドに侵入
      1939年9月17日、ソ連軍ポーランドに侵入
      1940年4月~5月、NKVDがカチンの森でポーランド将兵ら2万人以上を虐殺
      1940年9月27日:日独伊三国防共協定調印→1943年10月13日伊王国独に宣戦
      1941年6月22日:ドイツ、ソ連侵略戦争(バルバロッサ作戦)開始・ソ戦(大祖国戦争)開始→1945年5月9日:ドイツ無条件
     降伏(ソ連の死者2660万人、2015年にロシア国防省発表の公式の推算では、犠牲者数(2660万人、約1200万人の兵士が戦死・
     未帰還、民間人約1460万人がドイツ軍の占領地で死亡・未帰還・飢餓や疾病などで死亡)。
      1944年6月6日:アメリカ合州国軍・イギリス軍ノルマンディ上陸開始
      1944年6月6日~8月30日 ハレマンディ
      1948年:パレスティナでナクバ開始
      1950年:朝鮮戦争開始
      1965年10月~1966年3月 スマトラ島、ジャワ島、バリ島で、インドネシア国軍・国軍に軍事訓練をうけていた民間の「警防
     団」などが、共産主義者、華僑らを集団大虐殺。死者50万人?~300万人?
      1988年3月16日:ハラブジャ虐殺(青酸ガス爆弾によるイラン政府のクルド人虐殺。死者3200人~5000人)
   21世紀
      2023年10月~現在 シオニスト国家政府・国軍・警察、パレスチナでパレスチナ人3万人殺害。

   空爆の時代  南京・成都……爆撃。 クラスター爆弾(ラオス爆撃)。 北朝鮮爆撃。ベトナム爆撃(北爆)。
          ガザ・ウエストバンク爆撃。

(六)シオニスト国家(イスラエル)のパレスチナでの残虐な侵略犯罪
        ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)・ナクバ(パレスチナ人虐殺)
   イギリス国家の侵略犯罪
   ドイツ国家の侵略犯罪
   日本国家の侵略犯罪

   1898年9月2日 マフディ戦争 オムダーマンのたたかい
   1939年2月~1945年8月 国民国家日本政府・軍・企業が、海南島で侵略犯罪
   1948年 シオニスト国家(イスラエル)がパレスチナで残虐な侵略犯罪を実行
       ナクバ  パレスチナ人の村をシオニストの軍隊が500以上破壊・占領し、パレスチナ人を追放し、地名を変更。
   1987年6月28日 サルダシュㇳ  死者13人、住民12000人の8000人が被害。
   1988年3月16日 ハラブジャ  死者3200~5000人、負傷者7000~10000人

   朝鮮で
     済州島四・三虐殺(1948年4月~1949年5月。犠牲者3万人~6万人。
     聞慶虐殺(1949年12月24日。韓国陸軍第2師団第7中隊第2小隊第3部隊による住民虐殺。住民88人を射殺)
     韓国の獄中者を韓国政府・軍。・警察が大虐殺(「補導協会員大虐殺」。遺族会は114万人が虐殺されたと報告
     居昌・山清・咸陽虐殺(1951年2月7日、9日~11日。韓国陸軍第11師団による住民虐殺)
     老斤里虐殺(1950年7月。アメリカ合州国陸軍第7騎兵連隊、約300人を射殺。)
     韓国政府・韓国軍、ベトナムで大虐殺。 1966年1月23日~2月26日にかけて韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)は南ベト
    ナムビンディン省タイソン県タイビン村(当時の名は平安を意味するビンアン村)15集落の村民1004人虐殺(ベトナム戦争後、
    栄光を意味するタイビンに変えた)。 2月26日に猛虎部隊、ゴダイで住民380人をすべて虐殺。1968年2月12日に、韓国海兵隊
    第2海兵旅団(青龍部隊)第1大隊、フォンニィ・フォンニャット村で村人76人虐殺。2月25日に韓国海兵隊、ハミ村で子ども・女性・
    老人135人虐殺。

(七)平和・戦争
   パクスロマーナ
   パクㇲブリタニカ
   パクㇲアメリカーナ
   日本の平和(日本国憲法。第一章「天皇(1條~8條)」を前提として第二章「戦争の放棄(9條)」)

(八)海南島で
   万人坑・千人坑・強制連行  石碌鉱山、港、鉱山 「朝鮮村」
   住民虐殺 沙土・月塘村
 
(九)コミューン、ソビエト、起義
   1848年:パリコミューン
   1917年:ソビエト
   1927年11月~1928年2月:海陸豊蘇維埃(海陸豊ソビエト)
   1927年12月11日から3日間:広州起義・広州公社(広州コミューン)

(十)ナショナリズム
   インターナショナルリズム

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『日本軍‘慰安婦’被害者 金玉珠 口述資料集』(韓国挺身隊研究所編、2022年12月刊)について

2024年02月23日 | 日本軍隊性奴隷
■『일분군‘ 위안부’ 피해자 김옥주 구술자료집 』한국정신대연구소 엮음 , 한국 여성인권진흥원 간,  2022년12월(『日本軍‘慰安婦’被害者 金玉珠 口述資料集』韓国挺身隊研究所編、韓国女性人権振興院刊、2022年12月)について■       金靜美
 
 1923年大邱で生まれた金玉珠(キム オク チュ)さんは、17歳の時に、海南島につれて いかれました。「食母」として仁川に行くことに応じた金玉珠 さんは、仁川から船に乗せられ、上海、香 港をへて、着いたところは海南島でした。 じぶんを入れて5人がいっしょに海南島に 連れていかれたといいます。 
 この本は、金玉珠さんに話を聞いた4回の 一問一答式の全記録です(面談者は、4回と もチョチェ ヘラン)。 
 さいしょに話を聞いたのは、1996年11月3 0日で、当時住んでいた江原道麟蹄の自宅だ ったそうです。 
 1999年に出版された『증언짐 강제로 끌 려간 조선인 군위안부들 証言集 強制 的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(第3 巻、韓国挺身隊研究所・韓国挺身隊問題対 策協議会編、ハンウル、1999年10月)には、 金玉珠さんの証言が収録されていますが、 面談者が整理したもので、今回の一問一答 式の証言は、その原型となるものです。 
 金玉珠さんがいた慰安所の屋号は、海口 の‘エビス’だったそうです。道を挟んだ 正面に軍の基地があり、時計塔が見えたと いいます。 
 金玉珠さんの記憶は、とても正確で、時計塔があり、日本軍の基地があった場所は、 海口の中心街の中山路です。 
 わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにす る会・海南島近現代史研究会の海南島「現地 調査」で、海口の中山路に何度か行きました。 そのうちの1回は、佐藤正人が行程計画を 立案・調整し、ともに参加した2002年10月 の紀州鉱山の真実を明らかにする会として は第5回目の海南島「現地調査」で、韓国挺身 隊研究所と共同でおこないました。 
 このとき、金玉珠さんがいたという‘エ ビス’を探して、当時の建物が残る中山路 を歩きましたが、特定できませんでした。 その「現地調査」について、佐藤正人・金 靜美が共同執筆した、「海南島における日 本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働― ― 2002年10月海南島「現地調査」報告― ―」は、『2002년 국외거주 일본군 ‘위안 부’피해자 실태조사 2002年 国外居住日 本軍‘慰安婦’ 被害者実態調査』(2002年1 2月、韓国女性部刊)に収録されています。 
 今回の『口述資料集』には、佐藤正人は、 「海南島戦時性暴力被害訴訟」1、2を、 金靜美は、「女性たち、日本軍占領下の海南 島で」を書きました。 金玉珠さんは、日本敗戦の翌年、陰暦9 月に船に乗り、日本を経て釜山に着きまし た。故郷に戻ってからの生活は、“ことば にできないほどの苦労”だったといいます。 麟蹄からナヌムの家に移り、2000年1月16 日、病のため亡くなりました。77歳でした。

      ………………………………………………………………………………………………………………………………
  以上の文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』68号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』23号合併号(2023年10月10日発行)に掲載したものです。
    
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログに昨日(2024年2月22日)掲載した「女性たち、日本軍占領下の海南 島で」は、한국정신대연구소 엮음『일분군‘ 위안부’ 피해자 김옥주 구술자료집 』(韓国挺身隊研究所編『日本軍‘慰安婦’被害者 金玉珠 口述資料集』、韓国女性人権振興院刊、2022年韓国女性人権振興院刊)の巻末に付録として掲載された金靜美「일본군 점령하 하이난다오(海南島)의 여성들」の日本語版です。
      ………………………………………………………………………………………………………………………………
■付記
 『일분군‘ 위안부’ 피해자 김옥주 구술자료집 』の巻末には、付録として金靜美「일본군 점령하 하이난다오(海南島)의 여성들」とともに佐藤正人「하이난다오(海南島) 전시 성폭력 피해 소송」が掲載されています。その原文(日本語)は、つぎのとおりです。

◆海南島戦時性暴力被害訴訟◆ 
 ◆訴訟開始
 住んでいる村に突然侵入してきた日本軍によって、少女の時に日本軍隊性奴隷とされた黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さんは、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人は、2001年7月16日に、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、訴状を東京地裁にだしました。
 この年11月に、黄有良さんが、東京地裁で開かれた第1回裁判(口頭弁論)で「意見」を述べました。
 その後、原告が出席しないまま裁判が続けられましたが、2005年3月の第9回裁判の場で、原告の林亜金さんと海南島史研究者である張応勇さんが、2006年3月の第14回裁判の場で、原告の陳亜扁さんが証言しました。

 ◆一審判決
 2006年8月、5か月ぶりで再び来た原告の陳亜扁さんが見まもるなかで、東京地裁民事24部の裁判官(矢尾渉、梶智紀、亀村恵子)は、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を認定しながら日本政府を免罪し、「原告らの請求をいずれも棄却する」という不当判決をだしました。
 原告と海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団は直ちに控訴し、中国人戦争被害賠償請求事件弁護団は、海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と共同抗議声明をだし、中華全国律師協会・中華全国婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会は共同抗議声明をだしました。

 ◆『日軍侵陵暴行実録』
 2001年7月に黄有良さんらが日本の裁判に、日本人弁護士24人を代理人として訴状を出す6年半前、1995年2月に発行された『日軍侵陵暴行実録』(政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『陵水文史』第7輯)に掲載されている黄有良口述・胡月玲整理「一位“慰安婦”的血和泪」には、
    “黄有良さんの村(架馬村)から40メートルの地点に日本軍は軍営を作った。
   日本兵30人あまりが駐屯した。
   その軍営を拠点にして日本軍は、近くの黎族の村を襲撃し、多くの人を殺し、女性に暴行した……”
と書かれています。
 黄有良さんら8人の原告に危害を加えたのは、海南海軍第16警備隊加茂分遣隊、保亭派遣隊、藤橋派遣隊などに所属する日本兵たちでした。
 海南海軍第16警備隊に所属する日本兵は、1945年には「朝鮮村」でおおくの朝鮮人を虐殺していました(当時の第16警備隊司令は、海軍大佐能美実)。海南警備府第16警備隊が軍事支配しようとしていたのは、ほぼ現在の三亜市、保亭黎族苗族自治県、陵水黎族自治県に相当する地域でした。
 陳亜扁さんが最初に被害を受けた場所は、海南警備府第16警備隊所属祖関守備隊の兵舎(あるいはその周辺)だったと思われます。

 ◆加害将兵の所属部隊と氏名
 日本政府は、アジア太平洋各地で侵略犯罪を直接実行した犯罪集団の部隊名・指揮官名・将兵名をほとんど明らかにしていません。海南島における侵略犯罪の場合も同じです。
 8人の原告を襲ったのは、日本海軍海南警備府第15警備隊の南林地域、保亭地域、加茂地域、祖関地域、田仔地域駐屯部隊の将兵の将兵でした。
 藤橋分遣隊などの構成員にかんして、これまでわたしたちが公開されている旧日本軍文書(『海南警備府戦時日誌』、『海南警備府戦闘詳報』など)のなかで発見できたのは、つぎのような、わずかなことだけです。

 1944年4月の藤橋分遣隊指揮官は、兵曹長横山壽。1944年5月の藤橋分遣隊指揮官は、少尉寺角八十一。当時の藤橋分遣隊部隊員数74人、准士官以上2人、下士官兵37人、巡査補35人。藤橋分遣隊警察隊員数8人、巡査6人、巡査補2人。
 1944年4月の保亭派遣隊指揮官は、少尉寺角八十一、同年5月の保亭派遣隊指揮官は兵曹長横山壽。
 1944年4月の加茂分遣隊指揮官は、二曹田中勝次郎、同年5月の加茂分遣隊指揮官は一曹野尻竹次郎。
 1944年4月、5月の什令分遣隊指揮官は、上曹東川七之助。
 1944年4月・5月の藤橋分遣隊指揮官と、保亭分遣隊指揮官は、入れかわっていますが、兵曹長横山壽や少尉寺角八十一が指揮官であった時期に、黄有良さんは、1944年4月、5月にも、藤橋の「慰安所」に監禁されていました。

◆二審開始
 2007年5月15日に、東京高等裁判所で「海南島戦時性暴力被害訴訟」の二審の審理が開始され、9月25日に第2回裁判、10月18日に第3回裁判が開かれました。
 2008年1月15日午後2時から、東京高裁818法廷で、高裁4回目の裁判が開かれました。この日、黄有良さんが海南島から来て証言しました。

◆証言する黄有良さん
 黄有良さんの証言を傍聴しようとして、この日東京高裁前には、100人以上の人が集まりました。50枚ほどの聴券が抽選で配られました。
 黄有良さんは黎族で、漢語を話しません。法廷では、黄有良さんの話す黎語を、海南島から同行してくれた胡月玲さんが漢語に通訳し、それを徳永淳子さんが日本語に通訳しました。
 胡月玲さんは、「一位“慰安婦”的血和泪」を書いた人です。
 黄有良さんは、低い声で、静かに、日本軍が何をやったのかを語りました。

◆ハイナンNET
 2005年3月16日に林亜金さんと張応勇さんが東京地裁で証言する1か月ほど前、ハイナンNET(海南島戦時性暴力被害者への謝罪と賠償を求めるネットワーク)が組織されました。
 黄有良さんが高裁で証言した2008年1月15日の夕刻、ハイナンNETは報告集会を開きました。
 傍聴できなかった人もふくめ70人あまりが参加したこの集会に来てくれた黄有良さんは、
    「日本政府はきちんと謝罪し、わたしたちの‘潔白’を証明すべきだ。
     こんなに多くの人がわたしたちを支援しているのを知ってうれしい」、
と穏やかな表情で語りました。

◆原告林亜金さんと証人張応勇さん
 2005年3月15日の「海南島戦時性暴力被害訴訟」の東京地方裁判所での第9回裁判で原告林亜金さんと証人の張応勇さんが証言しました。
 証言の前々日、弁護団と支援者が集まった席で、マスメディアに写真取材を認めていいかどうかなどが議論になったとき、林亜金さんは、「ウェイダー」と言いました。「ウェイダー」は、「恐れることはなにもない」という意味の黎語です。
 林亜金さんと張応勇さんが、東京地方裁判所で証言した2日後、2005年3月18日に、東京高等裁判所で、中国人「慰安婦」裁判第2次訴訟の控訴審判決が出されました。この判決を、林亜金さんと張応勇さんは傍聴しました。郭喜翠さんと侯巧蓮さんは、1996年2月に、被害事実の認定と、日本政府の公式謝罪と賠償を求めて提訴していました。控訴審判決は、原告が1949年から中華人民共和国政府のもとに生活しているにもかかわらず、1952年に蒋介石政権との間に締結された「日華平和条約」にもとづいて、原告の損害賠償請求権の放棄を認定する不当判決でした。
 侯巧蓮さんは、1999年5月に亡くなられました。
 東京地方裁判所で証言してから9か月後の2005年12月28日朝5時に、張応勇さんが亡くなられました。

◆陳金玉さん
 2004年9月に、原告の黄玉鳳さんが亡くなられました。
 2007年5月に、東京高等裁判所第21民事部(渡邊等裁判長)で二審の「海南島戦時性暴力被害訴訟」口頭弁論が開始されました。このときの「事件名」は、「日本軍によって「慰安婦」とされた中国海南島の被害者が日本政府に対して謝罪と名誉回復並びに損害賠償を求めた控訴請求事件(海南島戦時性暴力被害賠償請求事件)」でした。
 2007年9月に第2回口頭弁論、2007年10月に第3回口頭弁論、2008年9月に第6回口頭弁論が開かれました。
 2008年12月に第7回口頭弁論が開かれ。原告の陳金玉さんが証言しました。
 陳金玉さんの証言を傍聴しようとして、朝9時半までに、裁判所前に、100人以上の人が集まりました。しかし、証言がおこなわれる東京高等裁判所424号法廷の傍聴席には42人しか入ることができず、抽選からはずれた人たちは傍聴できませんでした。  
 弁護団は、あらかじめ東京高等裁判所第21民事部渡辺等裁判長に大きな法廷を使うことを要請していましたが、裁判長は許可しませんでした。
 陳金玉さんは黎族で、漢語を話しません。法廷では、陳金玉さんの話す黎語を、海南島から同行した陳厚志さんが漢語に通訳し、それを徳永淳子さんが日本語に重訳しました。
 陳金玉さんは、静かに、日本兵から加えられて危害について語り、そのときこころとからだに受けた、いまも癒されることのない傷について話しました。
 証言をはじめてからまもなく、陳金玉さんは、涙声になり、話しができなくなり、10分ほど休廷しました。
 証言のおわりに、陳金玉さんは、被告席に座っている3人の日本国の代理人の方を向いて、日本政府に歴史を直視し事実を認め謝罪し賠償することを求めました。
 その3年10か月足らずのちの2012年9月22日に陳金玉さんは亡くなられました。

 ◆二審判決、そしてその後
 2009年3月26日に、東京高等裁判所第21民事部は控訴人らの請求を棄却するという判決をだしました。同日、直ちに、海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団が連名で、つぎのような声明をだしました。その要旨はつぎのとおりです。

   本件は,中国海南島において,旧日本軍(主として海軍)が中国人の少女を強制的に拉致・監禁し,継続的かつ組織的に戦時性奴隷とし
  た事案である。
   本判決は,「本件被害女性らは,本件加害行為を受けた当時,14歳から19歳までの女性であったのであり,このような本件被害女性らに対し
  軍の力により威圧しあるいは脅迫して自己の性欲を満足させるために陵辱の限りを尽くした軍人らの本件加害行為は,極めて卑劣な行為で
  あって,厳しい非難を受けるべきである。このような本件加害行為により本件被害女性らが受けた被害は誠に深刻であって,これが既に癒さ
  れたとか,償われたとかいうことができないことは本件の経緯から明らかである」(判決書28頁)と認定している。
   本件被害の質的側面においてもPTSDはもとより「破局的体験後の持続的人格変化」も認定している(判決書30頁)。
   以上の事実認定を踏まえ,国家無答責の法理を排斥したうえ民法715条1項を適用し控訴人らの損害賠償請求権を認めた。
   アメリカ連邦下院における対日謝罪要求決議の外,カナダ,オランダ,EU議会,国連人権理事会,国連自由権規約委員会,ILO条約勧告適
  用専門家委員会等々で解決を求める決議がなされている。このように国際社会は,被害を受けた女性の尊厳と人権の回復のための真の措置
  をとるよう日本政府に強く迫っている。
   国内においても宝塚市,清瀬市,札幌市に続いて福岡市議会において3月25日解決を求める決議が賛成多数で可決された。
   このように解決を迫る世論は国内外を問わず高まっている。
   日本政府は,本判決で厳しく認定された加害の事実と深刻な被害の事実を真摯に受け止め,被害者一人一人が納得するように謝罪をし,そ
  の謝罪の証として適切な措置をとるべきである。

 2010年3月2日 最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)、「海南島戦時性暴力被害賠償請求事件」上告を棄却し上告受理申立を不受理とする決定。海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声明。
 2010年9月8日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告譚亜洞さんが亡くなられました。
 2012年9月22日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳金玉さんが亡くなられました。
 2013年10月17日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告林亜金さんが亡くなられました。
 2014年6月19日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告鄧玉民さんが亡くなられました。
 2017年5月11日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳亜扁さんが亡くなられました。
 2017年8月12日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」最期の原告黄有良さんが亡くなられました。

◆張応勇さん
 1993年に張応勇さんは、海南島の保亭黎族苗族自治県の県道工事で働いていた朴来顺さんに出会いました。
 朴来順さん(1912年生)は、朝鮮人で、1941年に日本軍にだまされて中国につれてこられて「慰安妇」にされ、1942年に海南島に連行されていました。1945年8月に日本が投降したあと保亭に留まり、1994年に病死しました。
 1994年5月に張応勇さんは、南林郷羅葵村委会什号村に住む林亚金さんを始めて訪ねました。このころから張応勇さんは、保亭黎族苗族自治県とその周辺地域で日本軍の性奴隷とされていた人からの聞き取りと記録を熱心に始めました。
 保亭黎族苗族自治県の保亭の自宅を突然訪問し、保亭文史資料工作委員会主任であった張応勇さん(1940年生)にはじめて会ったのは、2002年3月でした。
 2002年10月に、金靜美さんとわたしは、朴来順さん(1912年生)について、くわしく話しを聞かせてもらいました。
 張応勇さんは、
  「日本の罪悪史を調査していて、朴来順さんのことを知った。
   国籍も中国に変えないでいるのに、なぜ故郷に帰らないのか、知りたいと思った。
   最初は、なにも話してくれなかった。なんども訪ねて、世間話だけして、帰ってきた。
   病気になって、“わたしはもう死にゆく身だから、みんな話してあげよう”といって、ようやく、1994年秋ころからすこしづつ話しを聞か
  せてもらうこができた。
   故郷に帰りたかったら、領事館を通じて話をしてあげようと言ったが、“ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬ”といった」
と話しました。
 朴来順さんが保亭の病院で亡くなったのは、韓国と中国が国交を樹立してから3年後の1995年でした。
 2003年7月に、わたしたちは、張応勇さんに、朴来順さんが死ぬときまで住んでいたところ(保亭亭県公路局宿舎)に案内してもらいました。

◆朴来順さんの墓
 2000年3月に、金靜美さんとわたしは、保亭に行き、朴来順さんの墓を訪ねました。
 保亭県公路局が建てた墓誌には、「生於一九一二年卒於一九九五年」、「祖妣韓国僑工来順朴氏墓」と刻まれていました。朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海南島北部の海口につれてこられ、海口の「慰安所」にいれられ、1943年1月に、海南島南部の三亜紅沙の「慰安所」に移されました。日本敗戦後も故郷に戻らず、保亭県の公路局で働き、1995年に亡くなり、保亭郊外に埋葬されました。
 2004年2月に、わたしたちは、朴来順さんの故郷、慶尚南道咸安を訪問しました。朴来順さんの家のあった場所は空き地になっていました。

◆海南島に連行され「慰安婦」とされた朝鮮人女性と台湾人女性
 朴來順口述・張應勇整理「我被騙逼當日軍“慰安婦”的經歴」〈『鐵蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行實錄――』下,海南省政治協商會議文史資料委員會編,1995年〉、牛泊「北黎日軍“慰安所”簡況」〈政協東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』8、1993年3月〉、戴沢運「日軍的慰安所」〈政協昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6、1997年1月〉、戴沢運「日寇鉄蹄残踏昌感見聞」〈政協東方市文史委員会編『東方文史』10、1999年12月〉などの記述を総合すれば、海口、三亜、北黎、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人である。調査をすすめれば、この数はさらに増えるかもしれない。
 1945年に「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原留次によれば、飛行場近くにあった「つばき荘」という名の「慰安所」には、朝鮮人女性15人が「収容」されていたといいます(楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年)。
 2003年春に、わたしたちは、慶尚南道生まれの朴来順さんが2年7か月間入れられていた紅沙の「慰安所」跡を訪ねました。
 子どものころからその近くに住んでいた蘇殷貞さん(1931年生)は、
   「建物は三つあった。一般兵士は土日、将校は金曜日に来た。一般人はそこに入ることもできなかった。朝鮮人の女性は、白い服を着て
  いた。長いスカートだった。(チマ・チョゴリの絵を書いて見てもらうと)。これだ。こんな服を着ていた。朝鮮人の女性たちは髪が長かった。日本人は髪が短い。“アリラン”は聞いたことがある」
と、話しました。幼いときに蘇洪槙さんは、朴来順さんを見かけたことがあったかもしれません。
 朴来順さんは、故郷にもどることなく、1995年に海南島で病死しました。おなじ「慰安所」に入れられていた台湾の盧満妹さん(1926年生)は、謝罪と賠償を求めて、日本国を被告とする裁判闘争を1999年にはじめました。
 2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷で盧満妹さんは、
   「看護婦にならないかと騙されて、高尾から軍艦で海南島に連れていかれ、紅沙の「慰安所」に入れられた。そこには30人あまりの女性
  が入れられており、30人が台湾人で、朝鮮人女性や日本人女性もいた」
と証言しました。
 盧満妹さんは2011年8月に亡くなられました。

      ………………………………………………………………………………………………………………………………
 以上の海南島戦時性暴力被害訴訟にかんする報告の前半は、海南島近現代史研究会『会報』創刊号(2008年2月10日発行)に掲載したもので、後半(「原告林亜金さんと証人張応勇さん」以後)は、2022年10月に書いたものです。   佐藤正人
      ……………………………………………………………………………………………………………………………… 
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女性たち、日本軍占領下の海南島で

2024年02月22日 | 海南島
■女性たち、日本軍占領下の海南島で■
                    金靜美

■はじめに
 海南島で、日本軍がいたときのことを覚えているか、と尋ねるわたしたちに、黙ったままで身じろぎもしない女性にであった。
 ある村では、日本軍の「慰安婦」にされた女性に話を聞くことができる、といわれたが、
 その女性を訪ねなかった。その女性がみずからわたしたちと会うことを望んだのではないようだったからだ。
 わたしはその場にいなかったが、ある海辺でであった女性に話しかけると、砂浜にうずくまったまま、しずかに泣いていたという。
 
 海南島だけではないが、日本が犯した侵略犯罪は、ことばでは表現できない。
 日本軍占領の時代を経験した海南島でであった女性たちのさまざまな表情を、わたしは、表現することばを持たない。
道行く人たち、三輪車や二輪車の運転手たちをはじめ、わたしたちがおおくの人たちの助けを得てであった海南島の人たちの声を、わずかでも伝えたい。
 この稿では、海南島でであった女性たちの証言、女性たちにかんする証言を中心に書き記そうと思う(註1)。

■八所
 東方市八所(パソ)は、海南島西部の海に面した町である(註2)。
 日本の植民地下にあった朝鮮の刑務所から、獄中者が、8次にわたって「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」として海南島に連行されたが(註3)、その上陸地はおもに八所であった。
 わたしたちがはじめて八所港に行ったのは1998年6月27日であった。
 そこには、日本軍が「監獄」として作ったという建物や、「日軍侵瓊八所死難劳工紀念碑」(1994年12月、建立)があった。
 すぐ近くの海沿いに養殖場があった。そばにいた人に聞くと、エビをはじめ魚の養殖場を作る工事中に、おおくの人骨が埋められていることがわかり、その人骨を集め、「万人坑」をつくったのだという。
 八所港の「万人坑」には、石碌鉱山ー八所港間鉄道工事、八所港湾工事に働かされていた朝鮮人、台湾人、インド人、香港人、大陸から連行された中国人など、無念に亡くなったおおくの人たちが埋められた。
 石碌鉱山の鉄鉱石掠奪のため、日本窒素は、①石碌鉱山の鉱石採掘施設、②石碌鉱山から八所港(積み出し港)までの鉄道、③八所港の港湾施設、④発電用ダムと発電所を建設しようとした。
 そのための労働力として、1941年9月に、3000人以上の中国人が、上海から貨物船で八所港に運ばれた。上海からのわずか1週間の船旅の途中で、数十人もの人が死亡し、海南島に到着した人たちは、「過半数が痩せ細った、一見して病人を思わすような身体つき」であったという。その後、劣悪な宿所に住まわされ、厳しい労働を強制されて、病人、死者が続出し、「約半年の間に、この上海苦力はその半数近くが死んだ。逃亡者も相次いだ」という。3000人のうち、1945年1月の石碌鉱山全面操業停止時に残っていた人はわずか300人ほどだったという(註4)。

 1941年12月8日のアジア太平洋戦争開始後まもなく、日本軍は香港を占領し、同年12月29日に軍政をしいた。日本軍政下の香港から、1942年2月13日に香港を出港した日本船で、483人の「苦力」が八所港に上陸し、つづいて2月末までに、第2、第3船によって、1509人が到着し、さらにそれ以後毎月、1000人から1500人が到着したという(註5)。
 この人たちは、八所港湾工事、石碌までの鉄道建設、石碌での採鉱、などで酷使された(註6)。
 海南島の日本窒素関係の工事を担当したのは、西松組であった。日本軍・日本窒素・西松組は、暴力をつかって労働者を働かせた(註7)。『西松組社内報』1943年1月号には、この時点での死者は3158人(そのうち中国人労働者は2528人)であったと書かれている(註8)。
 1924年生まれの崔能は、1942年2月、合記公司香港事務所の募集に応じて海南島にいき、石碌鉱山の発電所で働いた。崔能は、「あすこには、強制的に連行された者が七千人もいた」、「鉄鉱石を掘る現場は重労働だったからたくさん死んでいった」、「日本軍は……病人や怪我人でも働かせようとした」と証言している(註9)。
 北黎特務部労務主任岡崎四郎の記録では、1943年10月の「石碌鉄山従業員」は、「日本人日窒社員及び西松組従業員」3000人、「台湾事務員及び労務者」600人、「広東、香港労務者」20000人、「現地海南島徴用労務者」22000人、計45600人であったと書かれている(註10)。
 日本窒素は、1926年以降、朝鮮で、大規模水力発電所や肥料工場、油脂工場、化学工場、火薬製造工場、大豆調味料製造工場などを経営し、朝鮮の資源・労働力を掠奪していた(註11)。朝鮮に基盤をおく日本窒素は、海南島での事業にも、朝鮮人を働かせた。1942年から石碌で働いていた張達雄氏は、次のように証言している(註12)。
   「19歳の1941年末、京城商科学校にいて、卒業を3か月後にひかえて就職活動をしていたとき、日本窒素で社員を募集しているという
    広告を見て応募した。合格後にソウル駅からわけのわからないまま、北から強制徴用者を乗せてきた汽車に乗って釜山にいき、日本、
    台湾をへて海南島に行った。海南島では、はじめ石碌で鉱石を運ぶ仕事をしたが、あまりにつらくて北黎に逃げた。捕まって西松組
   で働くことになり、また石碌で今度は監視や警備の仕事をした。日本窒素が石碌で経営していた農場の警備などもした」。

  石碌鎮西方十数キロメートルの叉河鎮で1924年に生まれた黎族の林亜政氏は、村の近くを通る石碌鉱山ー八所港間の鉄道工事をおこなう労働者の監督をする日本軍の通訳をした。

 林亜政氏は、
   「日本軍は村の住民の家をこわし、その材料で近くの高台に兵舎をつくり、その下方の労働者の宿舎を監視した。宿舎のそばに物品を
   売る配給所があった。イギリス人、インド人、台湾人、朝鮮人、上海からきた人など、たくさんの人が働いていた。宿舎は別々で、配
   給所も、朝鮮人の配給所、インド人の配給所など別々になっていた」
とのべている(註13)。

 石碌鉱山開発のために日本海軍は「巨額の投資」をおこなったが、1944年5月中旬に鉱石を積んだはじめての船が八所港から日本に向かったあと、10月24日に最後の船が出るまでに、日本に運ばれた鉄鉱石は、約37,5000トンのみであった(註14)。
 その後、アメリカ合州国軍の攻撃が激化し、海上輸送が不可能になったので、日本海軍は、1945年1月に、石碌鉱山に操業中止命令をだした。 このとき、「石碌開発関係の邦人」は4000人以上であり、そのうち「軍籍のある者」500人あまりが陸軍に現地召集されて、海南島対岸の雷州半島にいったという(註15)。
 石碌の鉄鉱石を日本に運び出そうとする日本軍と日本窒素・西松組によって生命を奪われた人びとの名はほとんど明らかにされておらず、その数もはっきりしていない。日本敗戦時に日本窒素海南事業本部総務部次長であった河野司は、「犠牲人柱」の数を「数万」としている(註16)。日本軍と日本窒素が37,5000トンの鉄鉱石を日本に送り出すために「数万」の人の生命が奪われたのである。その人たちの遺体は、「万人坑」に捨てられた。
 1965年に、「石碌鉱山万人坑」近くの公園の高台に、「石碌鉄鉱死難労工紀念碑」が建てられた。

【写真】日軍石碌鉄鉱死難労工紀念碑(1998年6月27日撮影)

 日本大蔵省が1947年に出した極秘文書には、
   「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年より終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、文字通り熱帯の暑熱と戦ひ、マラリヤ、赤痢、コレラ等恐る可き熱帯地特有の悪疫と戦ひ、更に奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千年来中国政府及び島民が夢想だにしなかつた程急速度に各種の近代的技術と資材に依る産業開発を実行した。……七年間に生れ変つた海南島が建設されたのである」、
   「占領地七年の行政成績は島民に取つて必らずしも不満足なものではなかつた」
 と書かれている(註17)。

【写真】移築された「監獄」として使われたという建物(2015年3月30日撮影)

■2015年3月30日 八所で
 2015年3月30日、わたしたちは八所を訪ねた。
 「監獄」として使われたという建物は、移築されていた。
 その区画の入り口には、「侵華日軍侵瓊八所死難労工監獄 厳禁破壊違法必究 東方市文体局 2013年12月」の看板があった。
 「日軍侵瓊八所死難劳工紀念碑」は、壊され、残骸が砂に半ばうずもれ残っていた。以前の場所には、ホテル、マンションが建ち、まだ工事中のところもあった。

■2015年11月20日 八所で
 2015年11月20日、わたしたちは、紀州鉱山の真実を明らかにする会として第28回目、海南島近現代史研究会として第16回目の海南島「現地調査」の3日目で、八所にいた。
 八所鎮八所村委会で、日本軍占領下のことを知っている人がいると聞き、そこの職員の案内で、八所村を訪ねた。

 張老桃さん(92歳 2015年当時)は、八所の港湾建設現場でしごとをした。
   「朝鮮人といっしょにしごとをした。いっしょにご飯も食べた。朝鮮人はやさしい。朝鮮人の軍人もいた。レールを運んでいた。きついしごとをしていた。重いので‟アイヨーサ、アイヨーサ”と声かけあって運んでいた。‟たいへんですね“というと、‟たいへんだけど、やらなければいけない”と言っていた。
    ‟メシタベル。モッテコイ。キモノ。アカイ。シロイ。クロイ。ブタニク。ニワトリ。サカナ。フルサト。アナタ。ワタシ“。朝鮮人なのに、日本語をしゃべっていた。
    妹妹よ、と話しかけてきた。
      ‟わたしは朝鮮人。日本人につかまって連れてこられた”。
     朝鮮人は日本軍人と服装がちがう。朝鮮人は、しごと服。いろいろな服。
    朝鮮人はしごとの行き帰りに列を作っていた。朝鮮人は、レールを運ぶ。鉱石を運ぶ。なんでもした。
    何千人もの労働者がいた。中には、おおぜいの大学生がいた。‟わたしたちは上海の大学生です。捕まってこっちに連れてこられた“と話していた。大学生は注射をされてすぐ死んだ。死体は焼いた。扇動して抗議活動をすることを恐れて。見て涙がぼろぼろこぼれた。泣いたらあんたにも注射をする、と脅かされた。
    八所の港で。隣の工場で。万人坑のところで。魚鱗河のところで。注射をした。
    労働者に水を運んだり、食事のしたくをして、一日5毛もらった。レンガを運ぶときは1元。
    ホンコンの労働者のために水運び、食事のしたく、掃除をしたときは、お金はもらわなかった。
    ホンコンの労働者のひとつのグループの隊長は、病気になって、日本人は火の中に入れた。何人もで担いで、火の中に入れた。
    ‟隊長さん、あの人たちはあなたをどこに運ぶのですか”と聞いたら、‟知らない”。逃げて、また捕まって、火の中に入れられ、それを何回もしてとうとう出てこられなかった。見て泣いた。
    宿舎でしごとをしていたが、そこから見えた。ホンコン人が何人くらいいたかわからない。
    じぶんの責任は、何十人の世話。食事は2人か3人でいっしょにつくる。ふたつの大きな鍋でつくる。材料は日本の軍人が運んできた。
    そのころの港はアタマしか見えない。アタマばっかり。上海、ホンコン、朝鮮人、インド人、アメリカ人英国人、台湾人。労働者はみんな別々の宿舎。長い部屋。いい宿舎も、悪い宿舎もある。日本軍の話をよく聞く人は、よい宿舎に入れる。
    日本軍に抗議をするために、工具を隠し持って捕まった。ホンコンの夫婦で別々の監獄に入れられた。夫婦には娘がひとりいた。この子は子どもだから、育てたいというと、だめだ、悪い人間の子どもは悪い人間になるといって、どこかへ連れていって殺した。
    日本軍のいうことを聞かない労働者はトラックに載せて川辺に連れていって、穴を掘らせて軍刀で殺して穴にいれた。
    毎日家から通った。14歳から21歳まで。さいしょは港で砂やレンガを運んだ。少しお金をもらえたので、このしごとをした。16歳か17歳のころ、食事の世話に変わった。砂やレンガは宿舎を作るために運んだ。完成したあと、食事の世話のしごと。
    さいしょ、台湾人が来た。最初、宿舎を作るのも台湾人。ホンコンや上海から来た人は、港のしごと。船から降りるのは見ていない。
    この村から働きに行った人もとてもおおい。附近の人はみんな八所に働きにいった。
    日本が降参して70年たった。20歳のとき、日本が降参した。日本軍がいなくなったが、なぜいなくなったかわからなかった。
    (「監獄」といわれる建物は?)死んだ労働者を焼いて、灰を置いていた。箱に入れてあった。たくさんあった。監獄を作る必要はない。いうことを聞かなかったらすぐ殺すから。前に紀念碑があったところには、骨がいっぱいあった。骨はむき出しで、歩くと骨を踏んだ。死体を捨てるのを見た。
    (日本敗戦後)労働者は自動的に解散した。放置された。ほおっておかれた。食べるものもなくたいへん。周辺の村に住みついた人もいる。この村に住みついた人もいる。
    朝鮮人とは仲がよかった。名前は知らない。いろいろな年の人。青年、中年。大人」。

 張仁常さん(90歳 2015年当時)も八所の港湾建設現場で働いた。
  「朝鮮人、アメリカ人もいた。とてもおおい。
   朝鮮人は男も女もいた。女の人はしごとをしない。きれいなかっこうをしている。女の人だけで小さな部屋に住んでいた。朝、散歩をしていた。掃除をしていて、‟日本娘よ、汚いからこっちにこないで“というと、‟ちがう、朝鮮人”と言った。
   上海の労働者は大学生がおおかった。皮膚病にかかっている人がおおかった。注射をされてこうなったと話していた」。
     【写真】張仁常さん

■2014年11月1日 東閣鎮南文村で
 南文村で出会った符祝霞さん(75歳 2014年当時)から話を聞いたあと、伯母がうたっていたという唄をうたっていただいた。30何年か前に亡くなった(2014年11月当時)伯母がいつもうたっていて、覚えたという。
   「6台のトラックが兵隊を運んできた。男は先に逃げた。女性は子どもを抱いて、ものをかついで、どうしたらいいのか。コメとか食べ物はぜんぶ焼かれてしまった。食べ物はない。
    日本軍が敗退して帰るとき、それを見ながら、この唄が出てきたと聞いた。
    日本軍が剣をかざして自分を空に放り投げて突き刺そうとしたが、母が、シンシャン、ひざまずいて何度もお願いして自分は助かった。母は良民証がなく、父は、共産党員だった」。
     
   日本自从文昌驻
   没有足迹到昌洒
   谁料去年十二月
   从清澜他来六车
   一直行至敦乐城
   到了敦乐就停车
   大人小孩皆逃命
   逃到远处无粮食 
   逃回家也是死定
   有些人
   担得住粮食抱不住儿
   妻唤夫
   你到底等不等? 
   骂一句就戳心窝
   米糠皆烧没粮食 
   这下饿着母子了 
   只剩下房屋墙头未塌

   日本は文昌から
   足音もなくしずかに昌洒にきた
   意外にも去年の12月
   6台のトラックで清瀾(註18)からやってきた
   まっすぐ敦楽城に行き
   敦楽で停車した
   大人も子どもみんな命からがら逃げた
   遠くまで逃げたが食べものはない
   家に戻れば死ぬ定め
   食べものを持てば
   子どもを抱いて逃げられない
   妻は夫をなじる
   あなたは何をしてるのか
   胸をたたいてののしっても
   米ももみもみんな食べものは焼かれてしまった
   こうして母子は飢え
   家は壁だけのこっている

■2015年3月30日 海頭鎮南港村で
 李春寿さん(90歳、1926年生)
  「付近の家はぜんぶ、日本軍の指揮部として取られてしまった。
   日本軍が来てから、農耕もできない、生活も安定しない。人をおおぜいつかまえて、日本軍のしごとをさせる。少し大きな人を見つけたら、つかまえてしごとをさせた。
   橋をつくるしごと。そこで使う木材を運んだ。監督は日本人だ。
   ここに日本軍の基地があった。司令部はここにあった。
   妓女館は司令部のところにあった。鉄条網の外側だが、村すべてが日本軍の司令部だった。
   6、7人の女性がいた。臨高(註19)から連れてこられた女性。
   当時の村の人口はおよそ40世帯。二つの道路があったが、一軒をのぞいて、両側の家をぜんぶ壊した。家を壊して、炮楼建設の材料に使った」。

■2015年4月1日 屯昌県南坤鎮で
 梁月花さん(81歳、1933年生?)
大人の人から売春の女と聞いて、住んでいるところを見に行った。
女性は臨高から連れてこられた、とみんな話していた。近くに井戸もあった。日本軍がいなくなったあと、女性たちは行方不明になった。人数はわからない。見たことある」。

符玉波さん(86歳 2015年当時)
   「日本軍はたくさんの人を殺した。たくさんの人が穴を掘って殺されるのを見た。おおぜいで、何人かわからないほどだ。よその村の人が殺されるのも見た。いまはその上に家が建っている。
    日本軍が来たばかりのころ、家はぜんぶ焼かれた。
    日本軍の建物をつくる工事をする人のなかに、黒人がいた。頭に布を巻いていた。 (朝鮮人ということばを聞いたことがあるか?)朝鮮人ということばは知らない。
    黒人は監督もするし、しごともする。監督は、軍服を着ていた。
    “日本娘”がいたのは知っているが、何人いたか知らない。街を歩いているのを見た。きれいな服を着ていた」。

 朱月英さん(48歳、1966年生)
   「(レンガの壁の家)“リーペンニャン日本娘”が住んでいた。小さいころから母からよく聞いた。“リーペンニャン日本娘”も、この井戸の水を使いに来ていたという。井戸はもっと小さく、水も上の方まであった。桶を投げてそのまま水を汲みあげることができた。
    (池のすぐそばの建物)この近辺は人が殺された場所。母が話していた。母はいま78歳」。

■2015年4月2日 屯昌県屯城鎭大同村で
 韓玉花さん(84歳 2015年当時)
   「いうことを聞かない人を水につけて殺した。みんなを集めて、殺すのを見せた。わたしも見た。通訳の名前は、リョウバイ。日本語の通訳。通訳はこわい。
    何人かの女の子といっしょにしごとをした。大同での道路工事で、木とか草を刈るしごと。そのとき、わたしが1節、また別の子が1節、それぞれ順に作ってみんなでしごとをしながら歌った。
    日本軍が聞いてもここのことばはわからない」(註20)。
                         【写真】韓玉花さん
   村里甲叶叫啰啰
   一半牛头半镰刀
   一半镰刀割青岭
   一半牛头赶干粮
   去到半路就闲晚
   去到工地身走斜
   拿点稀饭打到洒
   穿件衣服撕到烂

   村の甲長に大きな声で呼ばれた
   村の人たちは半数づつ鎌と刀を用意した
   鎌で山の木と草を刈った
   刀でしごとをした
   遠いしごと場についたら遅いといわれた
   からだが地にへばりつくようにはたらいた
   水がおおい粥をおなかにいれた
   着ているものは破れている

■2016年4月26日 昌江黎族自治県重合村で
 符永令さん(82歳 2016年当時)
   「母は子どもがいなくて、わたしを養女にして育てた。
    日本軍のしごとには、かならず一家族一人が出なくてはならなかった。わたしは幼かったが、母は年寄りなので、かわりに出て、温泉のところでしごとをした。少し大きい人は、草刈り。温泉とか炮楼のあたりで。わたしは、まだ小さかったので、草刈りをした草のあとかたづけ。草を拾い集めて捨てる。草刈り、片付けが終わったあとは、サツマイモを炊いて、食事のしたくをして家に帰った。
    兵士はおおぜいいた。基地の中には入ったことはない。
    (ある日のこと)しごとが終わったあと、男の人は帰して、女性だけ残した。4人の少し大人の女性4人を裸にして一つの部屋に入れようとしたが、その人たちが、子どもたちに、あなたたちはぜったい離れないでいっしょにいて、そしたら日本兵は悪いことができないから、というので、子どもたちは、その女性たちのそばを離れないで、ずーといっしょにいた。日本兵は怒って、鉄の棒で大人の女性を殴り、部屋に追い入れようとしたが、みんな入ろうとしなかった。
    (日本軍のしごとに出て)食事もないし、金ももらわなかった。殴られなかっただけ、よかった」(註21)。

■2017年5月3日 文昌市錦山鎮東山村で
 上東山村の自宅前広場の木陰で、韓裕豊さん(1926年3月生)に話を聞かせてもらうことができた。
   「近くに日本軍は望楼をつくった。高かった。屋根にトタン板がはられていた。
    望楼からすこし離れたところに日本軍の兵舎が2か所あった。そこは市場の前だった。偽軍の建物もあった。慰安所もあった。
    慰安所には女性が10人あまりいた。その女性たちは、ときどきいなくなって、よそに行って、また戻ってきた。日本の服を着ている人がおおかった。膨らんだ布の飾りを背中につけていた。海南島の服を来ている人が2人いた。
    慰安所の女性とは話したことはなかったが、慰安所で働いていた人から、慰安所の女性たちは、近くの日本軍の軍営を回っていると聞いた。海南島の服を着ている人は、舗前(註22)の人だと聞いた。
    慰安所は、もとは民家だった。新しくつくった家ではなかった」。

■2017年5月6日 文昌市昌洒鎮東坡村で
 東坡村の黄良波さんは、つぎのように話した。
   「日本軍が来たとき、7歳だった。
    日本軍は村の近くに飛行場をつくろうとしたが、工事を始める前に日本軍は敗けた。
    子どものとき日本語学校に2年間通った。2年たったら日本軍が敗けていなくなった。
    先生は5人いた。高松先生と島津先生は日本人、黄循生先生と黄良友先生はこの村の人、林道欽先生は台湾人だった。
    日本軍が飛行場をつくろうとしたことは、林道欽先生から聞いた。
    むかしの村の家は丈夫な硬い材木でつくられていた。日本軍は村の家を壊して軍営をつくった。わたしの家も壊されたので、近くの福架村の親戚の家に移らなければならなかった。
    日本軍は軍営の真ん中に望楼をたてた。
    村の家を壊し兵舎や望楼をつくったのは、よその村の人たちだった。日本軍はすこし離れた村の甲長に命令して、その村の人を働かせた。兵舎や望楼を設計したのは日本軍   だった。
    日本語学校の建物も日本軍は新しくつくった。日本語学校の工事も村人がやった。
    日本軍が来る前は祠堂で子どもたちが勉強した。
    近くの文東中学校の敷地から日本軍に殺された人の遺骨がたくさんでてきたことがあった」。

 黄良波さんの連れ合いの何金英さん(83歳)は、そばで話しを聞いていて、つぎのように話した。
   「兵舎の工事に来ていた若い娘が日本兵に交代で強姦されて殺されたことがあった。
    慰安所に近づいて中をみようとしたら、慰安婦の女性に水をかけられたことがあった。
    村の人が慰安婦のことをよく言ってなかったからだと思う。子ども心にそう感じた。
    わたしはこの村の日本軍の兵舎をつくるときレンガなどを運んだ。子どもも大人もたくさん働いていた」(註23)。

■おわりに
 2001年7月16日、「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人が日本国を提訴した(註24)。
 8人の原告は、全員が亡くなった。
 8人の原告は、無言の数知れない海南島の女性たちを代弁していた。

註1 わたしたちは、2018年10月の紀州鉱山の真実を明らかにする会としては第33回目、海南島近現代史研究会としては第20回目を最後に、海南島には行くことができていない。
 わたし自身は、2016年4月22日(農暦3月16日)~5月5日(農暦3月29日)の紀州鉱山の真実を明らかにする会としては第29回、海南島近現代史研究会としては第16回目を最後に、海南島には行っていない。
 本稿での証言は、他のわたしの海南島関係論文との内容的な重複を避けるため、註11と註12の張達雄氏と林亜政氏のもの以外は、2010年代の海南島「現地調査」で得たものである。
 しかし、ここで紹介するのは、残念ながら、ごく一部である。
 海南島で証言してくださった方がた、わたしたちを支えてくださった方がたに、この場を借りて、感謝します。
註2 八所は、1939年7月8日、日本軍に占領された。石碌は、1940年3月15日に日本軍に占領された(八所港務局〈港史〉編写組編『八所海港史』海南人民出版社、2000年発行と思われる、179頁)。
 在海口日本総領事館警察署が発行した『治安月報』1942年4月分に、「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山」と書かれている。
 「田独鉄山」は石原産業が、「石碌鉄山」は日本窒素が「経営」していた。
 石原産業の経営者だった石原廣一郎は、日本軍が海南島に奇襲上陸してから2か月後の4月に、日本海軍の部隊に護衛され、海南島の田独村などを回った。
 石原は、1945年12月末から1948年12月末までA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘禁されていたが、そのころ書いたと思われる「回顧録」の「海南島資源調査」と題する部分で、つぎのように語っている。
    「海口に新たに台湾銀行支店が昨日開設せられたので、ここに立寄った。
     ……昨日開店したばかりであるが昨日一日中に預金が三、四万円あった。
     その預金者は慰安婦のみであるという話を聞いた時、当地占領後わずか二ヵ月に過ぎないが早くも慰安婦が来て……。
    帰りに街を注意して見ると、各所に慰安所という看板が上がっていることに気付く。
    慰安婦は……日本人、朝鮮人、台湾人などであって……」。
註3 「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」は、第1次が1943年3月30日に出発、文書で確認できる最後の第8次が1944年1月にソウルの西大門刑務所を出発した。     
 「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」については、以下の論文を参照した。
 ・金靜美「日本占領下の海南島における強制労働――強制連行・強制労働の歴史の総体的把握のために――」①・②、『戦争責任研究』27・28、日本の戦争責任資料センター、2000年3月・6月。
 ・金靜美「일본점령하 중국海南島에서의 강제노동」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와  在日同胞』、ソウル大学校出版部、1999年8月。
 ・金靜美「海南島の場合(とくに「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について)」(2000年5月24日、ソウルでの第9次国際歴史教科書学術会議第3主題「日本에 있어서의 過去清算問題」における報告(「日帝期의 強制連行 問題에 関하여」のなかで)。『各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題』国際教科書研究所、2000年5月。
 ・金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月。
 ・金靜美「国民国家日本の他地域・他国における暴力――海南島の場合――」、『東北亜歴史의 諸問題』(南陽洪鍾泌博士定年退任記念論叢)、2003年10月。
 ・金靜美「海南島からの朝鮮人帰還について――植民地国家からの出国、国民国家への帰還――」、『解放後中国地域韓人の帰還問題研究』、国民大学校韓国学研究所、2003年11月28日。
註4 八所での日本海軍や日本窒素・西松組の暴行、労働者の状況や闘いについては、前掲『八所海港史』15~38頁、参照。
註5 河野司編著『海南島石碌鉄山開発誌』石碌鉄山開発誌刊行会、1974年、223~225頁。
註6 同前、231頁。
註7 王瑾「礦工血泪 石碌鉄礦労工的悲惨遭遇紀実」、および、李玉親・趙志賢整理「石碌鉄礦労工悲惨遭遇実録」、海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 日軍侵瓊暴行実録』続、海南出版社、1996年。および、趙志賢整理「日軍侵占昌江及其暴行」、政治協商会議海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6、1997年。
 関松瑶「日本侵瓊時期石碌鉄礦労工状況簡介」(政治協商会議広東省昌江県委員会文史資料組編『昌江文史』2、1987年9月)には、1943年秋に、広州出身の労働者2人が逃亡しようとして捕えられ、みせしめのため、おおくの労働者の前で首を切られた、という証言が記されている(45頁)。
註8 玉城素他『産業の昭和社会史』12(土木)、日本経済評論社、1993年、190頁。  
 西松組(現、西松建設)がアジアの各地でおこなった非道行為については、中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会編刊『歴史に正義と公道を』1998年、参照。
註9 石田甚太郎『日本鬼 日本軍占領下香港住民の戦争体験』現代書館、1993年、25~27頁、および小林英夫『日本軍政下のアジア 「大東亜共栄圏」と軍票』岩波書店、1993年、8~12頁。
 合記公司は、日本海軍特務部管轄下の「募集機関」であった。合記公司香港事務所からは、海南島の田独鉱山、三井倉庫、台湾拓殖会社にも労働者が「供出」された(前掲『海南島石碌鉄山開発誌』228頁)。
註10 前掲『海南島石碌鉄山開発誌』239頁。
註11 日本窒素が朝鮮でおこなったことに関する研究はあるが(姜在彦編『朝鮮における日窒コンツェルン』不二出版、1985年、など)、海南島でおこなったことに触れている研究はない。堀和夫は、その論文「日本化学工業と日本窒素コンツェルン 個別資本と植民地経済」(『朝鮮工業の史的分析』有斐閣、1995年)で、「日本帝国圏における日窒」を論じているが、「日本帝国圏」とされていた海南島で日本窒素が日本軍と共におこなったことを全く無視している。
 「8・15」の後、朝鮮から日本に引き揚げた日本窒素の幹部たちは、日本九州の水俣工場の経営権を握った。かれらはその工場から水銀の入った毒水を流し続け、海を汚染し、水俣湾地域の民衆を「病気」にし、殺害した(原田正純『水俣病』岩波書店、1972年。岡本達明・松崎次夫編『聞書水俣民衆史』一~五、草風館、1990年、など参照)。
註12 1998年8月17日に、ソウルで筆者が聞く。
  張達雄氏は、1998年1月~2月に、50余年ぶりに海南島を再訪した。
註13 1998年6月29日に、筆者を含む紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーが、林亜政氏にその自宅で話を聞いたあと、近所の兵舎跡、宿舎跡、配給所跡に案内していただいた。
註14 前掲『海南島石碌鉄山開発誌』212頁。
註15 同前、559頁。
註16 同前、560頁。
註17 大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査(海南島篇)』1947年、7、212頁。
註18 海南島東海岸北部にある港町、清瀾に、日本軍の台湾混成旅団が、1939年2月23日に上陸した(『陸軍省大日記』、「陸支受大日記「密」第52号 海南島攻略戦 登號作戦」1939年自8月16日至8月21日)。
註19 1939年4月16日、日本軍は臨高近くの新盈港に上陸し、翌18日、臨高を占領した(海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 ―日軍侵瓊暴行実録』海南出版社、1995年、755頁)。
 直後から日本軍は、臨高に日本軍基地の建設をはじめ、治安維持会を組織し、日本語学校などを作った。
 わたしたちがはじめて臨高に行ったのは、2002年3月31日だった。
 日本軍が作った日本語学校に行った後、海南海軍特務部で通訳として働いた林吉蘇氏(1925年生)から、日本軍が、新盈、臨高、那大などに「慰安所」を設置したことを聞き、日本軍が作った望楼や「慰安所」を確認した。その後も数度、臨高、新盈を訪ね、日本軍が上陸した地点などを確認した。
 註3であげた金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月、参照。
註20 海南島の言語は、地域によってことなる。先住民族は、漢族によって、「黎族」となづけられたが、彼らの言語も、地域によってちがう。海南語でも、北部と南部ではことばが通じない。
 韓玉花さんたち女性が、日本軍によって強制的に労働させられながら、一節づつ即興でうたったという唄は、抵抗歌ともいえる。
 韓玉花さんがうたってくれた唄は、あとから、わたしたちに同行していた南海出版社の何怡欣さんが漢字に書き起こし、呉雪さんが送ってくれた。符祝霞さんの唄も、南海出版社の人が漢字に書き起こし、漢語に翻訳してくれたものである。
註21 邢越さんは、海南島で、海南語と漢語を日本語に通訳してくれる、海南島近現代史研究会の会員である。海南島南部で生まれ育った邢越さんは、海南島北部のことばが聞き取れない、と話す。
 「黎族」「苗族」の村に行ったときは、「黎語」や「苗語」を、若い人たちに漢語、いわゆる「普通語」に通訳してもらい、さらに、邢越さんが日本語に置き換えた。
 証言を聞くとき、証言者の言語を直接理解できないということは、ひとえに証言に接する側の怠慢であるが、その「怠慢」を克服するのはむずかしい。
 海南島各地で、邢越さんだけでなく、証言の理解において、おおくの人たちの助けを得た。同行者に漢語が流暢にできるひとがいないときには、あるときは、中学生、高校生にも協力してもらった。証言を漢字で書きとってもらって、それを読んだ。
わたしたちの海南島での調査は、行く先ざきで出会ったおおくの人たちの協力で成り立ったものである。
註22 舗前は、1939年5月2日、日本軍によって占領された(海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 ―日軍侵瓊暴行実録』海南出版社、1995年、755頁)。
註23 2017年5月、上東山村の韓裕豊さん、東坡村の黄良波さんの証言は、佐藤正人の紀州鉱山の真実を明らかにする会として第31回目、海南島近現代史研究会として第18回目の海南島「現地調査」報告から引用した。
註24 「海南島戦時性暴力被害訴訟」については、本書『일본군´위안부`피해자 김옥주 구술자료집』(韓国挺身隊研究所編、韓国女性人権振興院、2022年12月)に収録されている佐藤正人の「海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表)」、および「海南島戦時性暴力被害訴訟1・2」を参照してください。
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海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表)

2024年02月21日 | 日本軍隊性奴隷
1995年8月 張応勇「日軍“戦地服務隊”中的黎族婦女」、政協海南省保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編9(紀念抗日戦争勝利
     50周年)。
2001年11月 小野寺利孝弁護士らが、初めて海南島を訪問し、日本軍に性暴力をうけた被害者から話を聞かせてもらう。
2001年6月 小野寺利孝弁護士、中野比登志弁護士、坂口禎彦弁護士、杉浦ひとみ弁護士が海南島を訪問し、原告となる8 人の方たちに会い、
     2日間、話をきかせてもらう。
2001年7月16日 日本軍隊性奴隷とされた黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞
     さんら8人が、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに
     対する損害賠償」を求めて訴状を東京地方裁判所に弁護人を介して出す(「海南島戦時性暴力被害訴訟」開始)。
      海南島における日本軍性奴隷は、「慰安所」に入れられた女性もいたが、各地の村落に侵入した日本軍の小隊が、「駐屯所」に
     独自につくった監禁所に拘禁された女性もいた。裁判の原告の8人は、すべてそのような村の少女だった。張応勇さんは、海南島で
     少女たちは「戦地服務隊」(あるいは「戦地后勤服務隊」)に入れられたと言っていた。
     ◆参照:朴来順口述、張応勇整理「不堪回首的往事 一個“慰安婦”的自述」、政協海南省保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作
      委員会編『保亭文史』9、1995年8月。張応勇「日軍“戦地服務隊”中的黎族婦女」、『保亭文史』9、1995年8月。
2001年11月28日 東京地方裁判所で第1回裁判(口頭弁論)。原告黄有良さんが証言。
2002年3月13日 第2回裁判(弁護団、第2次準備書面をだす)。
2002年5月21日~27日 弁護団、海南島訪問(原告の法廷での証言に代わるビデオ収録を目的)。
2002年6月19日 第3回裁判(弁護団、第3次準備書面で、“国が戦後の回復措置を執るべき義務の根拠、戦後の回復措置を採らないままの
     放置が原告らにどのような被害を与えたか”を明確に示す)。
2003年12月 原告の譚玉蓮さんが亡くなられた。
2004年2月19日 原告の意思を受けて訴因を変更(戦後だけでなく、戦時中の日本軍の加害行為そのものの責任も追及するため)。
2004年9月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告黄玉鳳さん逝去。
2005年2月16日 ハイナンNET(海南島戦時性暴力被害者への謝罪と賠償を求めるネットワーク)創立
2005年3月16日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告林亜金さんと証人張応勇さん、第9回裁判で証言。
       証言の前々日、弁護団と支援者が集まった席で、マスメディアに写真取材を認めていいかどうかなどが議論になったとき、
      林亜金さんは、「ウェイダー」と言った(「ウェイダー」は、「恐れることはなにもない」という意味の黎語。
       林亜金さんと張応勇さんが、東京地方裁判所で証言した2日後、2005年3月18日に、東京高等裁判所で、中国人「慰安婦」裁判
      第2次訴訟の控訴審判決が出された。この判決を、林亜金さんと張応勇さんは傍聴した。郭喜翠さんと侯巧蓮さんは、1996年
      2月に、被害事実の認定と、日本政府の公式謝罪と賠償を求めて提訴したが、侯巧蓮さんは1999年5月に亡くなられた。
       控訴審判決は、原告が1949年から中華人民共和国政府のもとに生活しているにもかかわらず、1952年に蒋介石政権との間に
      締結された「日華平和条約」にもとづいて、原告の損害賠償請求権の放棄を認定する不当判決だった。
2005年4月 担当裁判官3人のうち裁判長ら2人の裁判官が突然交代。
2005年6月15日 第10回裁判(裁判官交代後、初めての口頭弁論。新しい裁判官が、弁論中に居眠り)。
2005年7月20日 第11回裁判  裁判官の意識を変える必要があるため、原告陳亜扁さんと、日本の海南島侵略の歴史を追究している
     在日朝鮮人金靜美さんを証人申請。
2005年9月28日 第12回裁判  ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(証拠用要約版、紀州鉱山の
     真実を明らかにする会制作)を、「海南島戦時性暴力事件、甲第33号証」として法廷で上映。
2005年11月9日 第13回裁判  裁判官は、原告陳亜扁さんの証人申請を受理したが、金靜美さんの証人申請を却下。
2005年12月28日朝5時 張応勇さんが亡くなられた。
2006年3月8日 第14回裁判(原告陳亜扁さんが証言)。
2006年3月22日 第15回裁判(結審)。
2006年8月30日 東京地方裁判所(裁判長矢尾渉、裁判官梶智紀・亀村恵子)不当判決(「主文 1原告らの請求をいずれも棄却する、 
     2訴訟費用は原告らの負担とする」)。
      一審判決を出した東京地方裁判所民事24部は、日本軍の犯罪事実を具体的に明確に認定ながら、原告の名誉回復と日本政府の
     謝罪と国家賠償請求を棄却した。矢尾渉裁判長は、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を明確に認定しながら、司法の
     正義を守ろうとしないで、日本政府を免罪し、原告の請求をすべて棄却した。原告・弁護団直ちに控訴。
      中国人戦争被害賠償請求事件弁護団・海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団共同抗議声明。中華全国律師協会・中華全国
    婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会共同抗議声明。
2006年12月 この月発行された『軍縮問題資料』(軍縮市民の会・軍縮研究室発行)に、坂口禎彦弁護士の「中国人慰安婦訴訟・海南島
     事件」掲載。
2004年9月 原告の黄玉鳳さんが亡くなられた。
2007年5月 東京高等裁判所で「海南島戦時性暴力被害訴訟」口頭弁論開始。
2007年9月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」第2回口頭弁論。
2007年10月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」第3回口頭弁論。
2008年5月 東京高等裁判所で、「海南島戦時性暴力被害訴訟」第5回口頭弁論。
2008年9月 東京高等裁判所で、「海南島戦時性暴力被害訴訟」第6回口頭弁論。
2008年12月 東京高等裁判所で、「海南島戦時性暴力被害訴訟」第7回口頭弁論。原告陳金玉さん証言。
2009年3月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」東京高等裁判所判決。控訴棄却。原告、上告。
2010年3月2日 最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)、「海南島戦時性暴力被害賠償請求事件」上告を棄却し上告受理申立を不受理とする
     決定。海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声明。
2010年9月8日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告譚亜洞さんが亡くなられた。
2012年9月22日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳金玉さんが亡くなられた。
2013年10月17日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告林亜金さんが亡くなられた。
2014年6月19日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告鄧玉民さんが亡くなられた。
2017年5月11日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳亜扁さんが亡くなられた。
2017年8月12日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」最期の原告黄有良さんが亡くなられた。

                                佐藤正人 作成
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帝国主義諸国の侵略犯罪史における海南島侵略犯罪 年表(抄)

2024年02月20日 | 海南島近現代史文献・年表
■帝国主義諸国の侵略犯罪史における海南島侵略犯罪 年表(抄)■

1492年 コロンブス船団大西洋往復 → インディヘナ虐殺、資源掠奪。
1592年~93年 壬辰倭乱。 1597年~98年、丁酉倭乱。
1602年 オランダ東インド会社、ジャワ島に。オランダのインドネシア植民地化開始。
1609年 薩摩軍、奄美・琉球国に侵入 → 幕府、琉球国を薩摩藩の「所管」とする。薩摩藩、奄美を直接支配。
1637年12月~38年4月:島原・天草烽起。籠城した37000人死亡。
1643年 ヘナウケの戦い。 1669年 シャクシャインの戦い。
1763年~65年 ポンティアック戦争(アメリカ北西部先住民諸部族が連合して、白人侵入者と戦う)。
1776年7月4日 アメリカ合州国独立宣言 → 先住民織の大地にたいする大規模侵略開始。
1789年 フランス革命。クナシリ・メナシの戦い。
1828年~32年 「ブラックウォー」(タスマニア人虐殺)。 1876年5月 最後のタスマニア人死亡。
1840年~42年 アヘン戦争。
1857年~59年 インド大反乱(第一次インド独立戦争)。
1869年9月 日本政府、アイヌモシリを日本領土とし「北海道」と名づける。
1872年10月 「琉球藩」設置(第1次琉球処分)。 1879年4月、「琉球藩」を「沖縄県」に(第2次琉球処分)。
1873年3月 オランダ、アチェ王国侵略開始(1904年、アチェ王国滅亡)。
1874年5月 西郷従道(「台湾蕃地事務局都督」)が指揮する日本軍が台湾に侵入。住民虐殺。
1875年9月 日本小型砲艦「雲揚」、朝鮮の首都に近い江華島海域に侵入。
1876年2月26日 朝日修好条規(조일수호 조약。江華島条約)調印・発効。
1884年~1885年 清フランス戦争( → 1887年 フランス領インドシナ)。
1889年2月11日 「大日本帝國憲法」発布(1890年11月施行)。1890年10月、「教育勅語」発表。
1890年12月28日 ウンデットニーの虐殺(USA軍第7騎兵隊、サウスダコタ州スー族大虐殺)。
1894年7月 USAの侵略集団が「ハワイ共和国」樹立宣言(10月に日本政府が承認)。
1894年~95年 朝鮮日本戦争(甲午農民戦争)→ 清日本戦争。 1894 年11月 旅順大虐殺。
1894年12月28日 全琫準、淳昌で日本軍に逮捕されソウルに。 1895年4月23日 全琫準ら処刑される。
1895年4月 「日清講和条約」締結(台湾、澎湖列島、遼東半島を日本領土とする)。
1895年5月 日本軍、台湾侵入開始。以後、長期に台湾民衆を殺害。
1896年8月 フランス、メリナ王国(マダガスカル)「併合」。 USA、ハワイ「併合」。
1898年12月 USA、スペインに2千万ドル支払い、プエルトリコ、フィリピン、グアム島を植民地に。
1900年~1901年 義和団戦争(日本、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、USA、イタリア、オーストリア・ハンガリー
     〈8か国〉軍隊が連合して清国に侵入)。
1905年 日本、独島・カラフト南部・遼東半島南部(「関東州」)・「満鉄附属地」を領土とする。
1905年~08年 ドイツ軍、タンガニイカで大虐殺。
1906年 日本占領下の大韓帝国で、反日義兵が中心になって独立戦争開始。
1910年8月 日本帝国、大韓帝国を日本領土とする。1910年9月 日本政府、朝鮮総督府設置。
1915年 日本、「南洋群島」を植民地とする。
1918年~22年 シベリア侵略戦争(日本・イギリス・アメリカ合州国・フランス・イタリア・カナダ)。
1919年3月~5月 朝鮮で、3・1独立運動。  5月~6月 中国で、5・4運動。
1919年3月22日 日本軍、イワノフカ村虐殺(アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)。
1919年4月 イギリス軍、アムリットサル虐殺。
1930年10月~31年5月 台湾の日本軍と警察、烽起した霧社の民衆を殺戮。
1931年9月18日 日本関東軍、中国東北部侵略開始。  1932年3月1日「満洲国建国」。
1936年7月~39年4月 スペイン市民戦争。
1937年7月7日 日本、中国への全面的侵略開始。
1937年12月 日本軍、南京大虐殺。 日本海軍将兵、三灶島(三竈島)に侵入(民衆虐殺)。
1938年2月22日 陸軍特別志願兵令公布(「勅令」)。 2月26日の『朝鮮総督府官報』に掲載。
1938年2月~1943年8月 日本陸海軍航空部隊、重慶・成都・蘭州……爆撃。
1938年9月 台湾総督府、「海南島処理方針」作成。
1939年2月10日 日本陸海軍海南島に奇襲上陸。 2月~11月 日本海軍海南島で「Y一作戦」(地域住民虐殺)。
1939年9月1日 西からドイツ軍がポーランドに侵入。 9月17日、東からソ連軍が侵入。 分割占領。
1939年9月1日 朝鮮総督府、「朝鮮人労務者募集並渡航取扱要綱」を出す(「募集」方式の朝鮮人強制連行開始)。
1939年11月10日 朝鮮総督府、「朝鮮民事令」改悪。 → 1940年2月「創氏改名」実施。
1940年2月~4月 日本海軍海南島で「Y二作戦」(地域住民虐殺)。  1941年2月~3月 「Y三作戦」。
1940年7月 関東軍防疫部、関東軍防疫給水部に改編(関東軍防衛給水部本部の通称:満州第731部隊)。
1940年10月27日 日本軍1644部隊、寧波市でペスト蚤散布。
1941年7月28日 日本陸軍第25軍約4万人、海南島楡林港からベトナム南部・カンボジア)に侵入。
1941年8月 日本海軍海南島で「Y四作戦」(地域住民虐殺)。 海南島澄邁県沙土・定安県黄竹鎮で住民虐殺。
1941年11月~42年1月 日本海軍海南島で「Y五作戦」。  1942年6月 「Y六作戦」。
1941年12月8日 海南島三亜港をでた日本軍、コタバル奇襲、アジア太平洋戦争開始。
1942年2月 日本軍、シンガポールで華僑大虐殺。
1942年6月5日~7日 日本海軍、ハワイ西北のミッドウェーのUSA軍を攻撃。大敗。
1942年8月7日 USA軍、ガダルカナル島に上陸開始 → 日本兵2万5千人戦死・餓死・病死。
1942年11月~43年4月 日本海軍海南島で「Y七作戦 1期」(海南島東北部住民虐殺)。
1943年3月30日 第1次「南方派遣朝鮮報国隊」ソウル出発 → 海南島へ。
1943年4月~5月 日本海軍海南島で「Y七作戦 2期」(海南島東部の住民虐殺)。
1943年5月12日 USA軍、アッツ島上陸開始。 5月29日、日本軍壊滅(日本兵2千6百人あまり死亡)。
1943年6月 「Y七作戦 3期」(海南島西北部の住民虐殺)。
1943年7月23 日 海軍特別志願兵令公布(「勅令」)→ 朝鮮人、海軍特別志願兵に。
1943年9月8日 イタリア、「連合軍」に全面降伏。
1943年11月21日 USA軍、現キリバス共和国のマキンとタラワに上陸。11月22日、マキンで日本軍壊滅(日本兵約500人死亡。
     朝鮮人軍属数百人のうち生存者104人)。11月23日、タラワで日本軍壊滅(5000人近い日本兵、軍属、朝鮮人軍属死亡。
     朝鮮人軍属生存者百数十人。マキンとタラワで朝鮮人約1200人死亡。
1943年12月から1年間断続的に  日本海軍海南島で「Y八作戦」(地域住民虐殺)。
1944年3月~7月 「インパール作戦」で日本兵約5万人死亡。
1944年4月 朝鮮人にたいする徴兵検査開始。  1945 年1月 台湾人にたいする徴兵検査開始。
1944年6月15日 USA軍、サイパン島への再上陸開始。 7月7日、日本軍壊滅。
1944年7月24日 USA軍、テニアン島への上陸開始。 8月3日、日本軍壊滅。
1944年10月10日 USA軍、沖縄大空襲(十・十空襲)。 1945年3月2日、沖縄本島大空襲。
1944年11月~45年8月 「松代大本営」建設工事。
1944年12月 日本海軍海南島で「Y九作戦」(地域住民虐殺)。
1945年1月4日~6月~  ルソン島戦(フィリピン人犠牲者110万人)。
1945年2月3日~3月3日 マニラ大虐殺(フィリピン人市民約10万人が死亡)。
1945年2月19日~3月17日 硫黄島戦(日本側死者2万人余、USA側死者6821人)。
1945年3月10日 東京大空襲、12日名古屋大空襲、13日大阪大空襲 、17日神戸大空襲、5月29日横浜大空襲。
1945年3月26日 USA軍、沖縄慶良間諸島の慶留間島・座間味島などに上陸。「沖縄戦」開始。
1945年3月26日 慶留間島で53人、「集団自決(強制集団死)」。4月2日 読谷村チビチリガマで強制集団死。
1945年4月12日 佐世保第8特別陸戦隊、海南島楽会県互助郷を襲撃(被殺者777人、幸存者337人)。
1945年4月27日 沖縄阿嘉島で日本軍、朝鮮人軍夫約10人虐殺。
1945年4月30日 ヒトラー自殺。 5月7日 ドイツ無条件降伏。
1945年5月2日 海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊、万寧市月塘村を襲撃。犠牲者190人。
1945年6月13日頃 沖縄で日本海軍大田司令官自殺。6月22日頃、日本陸軍牛島司令官自殺。
1945年7 月30 日 海南警備府第15 警備隊舗前守備隊、文昌市秀田村を襲撃(被殺者140 人、幸存者56 人)。
1945年6月27日~8月20日 沖縄久米島で日本軍、住民虐殺(朝鮮人谷川昇〈本名不明〉の家族7人を含む)。
1945年8月6日・9日:アメリカ合州国政府・軍、広島・長崎に原爆投下(14万人・7万4千人殺害)。
1945年夏 日本海軍海南警備府第16警備隊の兵士ら、「朝鮮報国隊」の朝鮮人を虐殺。
1945年8月14日:日本無条件降伏。 8月15日「大東亜戦争終結ノ詔書」NHK放送。
1946年4月 海南島から朝鮮へ「帰還船」出港→釜山へ。
1946 年5月~49年3月 朝鮮人23人・台湾人21人、「戦犯裁判」で処刑。
1946年11月3日 最悪の戦犯を日本国民統合の象徴とする「日本国憲法」公布(1947年5月3日施行)。

                               佐藤正人 作成
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「海南島月塘村の朱学平さんのこと」

2024年02月19日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会第27回定例研究会(2024年2月17日に開催)への海南島からのメッセージのなかで林彩虹さんは、「万寧月塘村の「三・廿一」惨事の生存者である朱学平さん」について語っています。
 海南島近現代史研究会は、月塘村虐殺62年後の2007年に、生き残った人びとの証言を、村人のみなさんの助けをかりて、50日間記録し、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』制作しました。
 以下は、そのドキュメンタリーのうち、朱学平さんにかかわる記録の個所です。

Ⅰ、月塘村 
 映像:月塘村への道
 表題:海南島月塘村虐殺
 ナレーション:1945年5月2日の明け方、まだ暗いうちに、日本軍は、この道を通って月塘(ユェタン)村に侵入してきました。
 影像:月塘
 テロップ:月塘
 ナレーション:むかしは、月塘村の中心は、月のかたちをしているこの大きな池のそばにありました。
 映像:アジア太平洋地図→海南島全図→万寧→月塘村

Ⅱ、証言                     
 映像:朱学平さん(自宅で、殺戮現場で、月塘村の道で)
 テロップ:朱学平さん(1933年生)
 テロップ:ここから 腸が出ていた
 テロップ:私は 柱の影に隠れていたので 助かった
 テロップ:朱学平さんの家の土台石
 ナレーション:朱学平(ジュ・シュェピン Zhu-Xueping)さんは、
         「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。
        わたしだけが生き残った。母、兄の朱学温(ジュ・シュェウェン Zhu-Xuewen)と朱学敬(ジュ・シュェジン
        Zhu-Xuejing)、姉の朱彩和(ジュ・ツァィホ Zhu-Caihe)、叔母2人、いとこ2人、そして6歳だった妹の
        朱彩蓮(ジュ・ツァィリェン Zhu-Cailian)が殺された。
         わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ
        生きていた。血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が
        降った。村はずれに隠れた。半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火にあっていたが、
        骨になりきっておらず、くさっていた。まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(ワンニン
        Wanning)から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
         その5年前の1940年11月28日に、父の朱開廉(ジュ・カイリェン Zhu-Kailian)が、近くの東澳(トンアォ 
        Dongao)村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃たれて殺されていた」
     と話しました。
 影像:畑からの帰り道、クワをかついで遺骨が埋められたと思われる場所に近づく朱学平さん
 影像:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
 テロップ:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
 ナレーション:朱学平さんは、
          「日本軍が負けていなくなってから、遺骨を探した。遺骨が埋められたと思われる場所をなんども
       掘って探したが見つからなかった。焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う」
    と話しました。
 映像:朱学平さんのむかしの家の跡
 テロップ:日本軍が襲撃した朱学平さんの家の土台石
 テロップ:むかしの家の門の跡を示す朱学平さん
 影像:その向かいの朱開琨さんの家の跡
 テロップ:朱学平さんの家の向かいは朱開琨さんの家だった  土台石が残っているだけ

Ⅸ、朱彩蓮さん                    
 映像:瀕死の妹、朱彩蓮さんを抱いて逃げた道を62年後に歩く朱学平さん
 テロップ:妹を抱いて逃げた道を歩く朱学平さん
 映像:「坡」で話す朱学平さん
 テロップ:妹は、近くに埋めた
 テロップ:妹を抱いてここまで逃げてきた
 テロップ:妹は、近くに埋めた
 テロップ:妹は ただ 水だけを欲しがった
 テロップ:妹は静かに目を閉じ、死んでしまった
 映像:朱学平さん 樹と草の茂みのなかで
 テロップ:ナグゥサン(ひどい) ナグゥサン  思い出す。悲しい ホレン(可怜)
       食べるものも着るものもなかった   土の上に麻の袋を敷いて、蓑をかけて寝た
 テロップ:ここで何か月も暮らした  捨てられているサツマイモのくずを探して食べた   ひとりで何年も暮らした  
       怖かった 思い出すと涙がでてくる
 映像:「坡」を去る朱学平さん
 映像:太陽河
 テロップ:太陽河 2007年11月
 映像:太陽河の水辺に映る揺らめく太陽→遠景
 テロップ:朱学平さんは、瀕死の妹にこの河の水を汲んで飲ませた
 映像:牛と太陽河
 テロップ:月塘村と その農地と 入会地は太陽川の 北側の台地にある

■『海南島月塘村虐殺』新版(海南島近現代史研究会 2008年制作)■
 Ⅰ、月塘村  Ⅱ、証言  Ⅲ、「要求日本国政府賠償請願書」 Ⅳ、戦犯を「象徴」とする日本国で  Ⅴ、海南島における
 日本軍の住民虐殺  Ⅵ、月塘村追悼碑  Ⅶ、要求賠償  Ⅷ、掲碑儀式  Ⅸ、朱彩蓮さん
 
 構成・シナリオ:佐藤正人  編集:佐藤正人 小谷英治 金静美
 翻訳:林彩虹 佐藤正人 金静美  撮影:小谷英治 佐藤正人  ナレーション:崔文子
 協力:月塘村のみなさん 蔡徳佳 朱学基 朱振華

 『海南島月塘村虐殺』のシナリオ全文は、海南島近現代史研究会のウェブサイトに掲載してあります。
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海南民众们致于海南近现代史研究会的致信的

2024年02月18日 | 海南島近現代史研究会
■2024年2月17日に開催した海南島近現代史研究会第27回定例研究会への海南島からのメッセージ■

 邢越

  海南島近現代史研究会 各位同仁:
  海南島近現代史研究会将于2024年2月17日在大阪召开海南島近現代史研究会第27次定例研究会了,我在中国的海南岛,虽然不能亲临大阪参加大会,但是,我衷心祝愿本次大会顺利召开,并希望研究会在新的一年取得新的研究成果!



 林彩虹

  大家好,我是一位出生於1987年土生土長的海南本地人,名字叫林彩虹,相信大家可能也有所听闻过,我是在2006年一次乘坐公交车上偶然遇到佐藤先生的,當時我在車上聽到佐藤先生跟一位翻译蒙古人在說日語,当时我就很奇怪心里在想「怎么这种普通的公交车上会出现日本人」,因为好奇心原因所以鼓起勇气用日语问「你们是日本人吗?」,就这样的一句简单的问候让我认识了佐藤先生,然后我们在公交车上用简单的日语跟中文交流之后,当时佐藤先生跟我介绍了他海南的目的,给了我一些资料,还问我之后能不能有机会给他们当翻译,然后互相留了联系方式,虽然在这之前我有学过一年日语会说一点,但是说到当翻译我心里完全沒底,害怕自己不能勝任這份工作,但是很幸运佐藤先生会说一些中文,所以沟通交流起來就没太大阻碍。从那之后佐藤先生他们每次来海南做调查之前都会提前联系我告诉他们的行程,来海南之前佐藤先生都会做好行程表,令我极其佩服的是几位日本学者非常敬重历史,穿着朴素、省吃俭用、工作起来一丝不苟,接触过最多的是佐藤先生,刚开始觉得佐藤先生很严肃,但接触下来后觉得他很慈祥、和蔼可亲、平易近人、
  对待工作非常严肃认真、对我这个后辈也非常照顾,在我眼中他很像一位慈祥的老父亲。其次是金静美女士,性格非常开朗,偶尔喜欢开玩笑,同样对待工作也非常认真。还有小谷英治先生、齐藤日出治先生都非常和蔼可亲,他们对待历史的态度令我敬佩!
  每次他们到达海南先找好宾馆后,接下来我就陪同他们按照行程表去各个村庄,做实地调查、采访去过的村庄的各位幸存者,我們从幸存者們口中听闻到日军当年对他们所做的各种各样灭绝人性的暴行,簡直惨不忍睹,访问过很多村庄与许多的幸存者給予我极其印象深刻的是万宁月塘村「三·廿一」惨案中的幸存者朱学平先生的阐诉,还有月塘村的其他村民们,大家一听说有日本民间学者要过来调查当年日军侵略月塘村的事迹,大家都表示非常高兴,也非常热情积极配合,也许我跟他们都是同乡万宁人的缘故大家交流起来也特别的顺畅,大家毫无保留的对我阐述了当年的遭遇。我记得当时访问朱学平的时候,他的眼中带着泪花声音哽咽的对我诉说,他那时才12岁,当天清晨日军突然闯入他家,二话不说见人就杀,母亲、哥哥朱学温和朱学敬、姐姐朱彩和、2个姑姑、2个表弟,还有6岁妹妹朱彩莲都被杀害了,妹妹当时被日军刺伤肚子,肠子都流出来了但当时还没死,全家唯独他很幸运瘦小的身躯躲在柱子后面没被发现所以才逃过一劫,等到日军走了之后他赶紧跑出来确认家人们的情况,其他8位亲人已经全部被杀死,唯独6岁的妹妹朱彩莲还有一口气在,他就赶紧抱起满身是血的妹妹逃离现场,害怕日军再次来袭,当时的他即害怕日军的再次出现又担心妹妹的身体情况,一个12岁的孩子抱着满身是血垂死的妹妹跑去山坡上的灌木丛中隐藏起来,当时天还下着大雨,似乎老天都在为他们可怜的遭遇感到哭泣,当时的妹妹口中一直说口渴想喝水,朱学平就去旁边的太阳河打水给妹妹喝,但很不幸没多久妹妹也死了,他当时把妹妹的尸体埋在了附近的山坡上,9位親人在同一天慘遭日軍殺害,父亲也是在三年前的一天去东澳村买鱼的路上被日军开枪杀害死的,一夜之间全家都被日军杀害,房子也被日军烧毁了,就连亲人们的遗体也被大火给烧尽了,我当时看到朱学平边哭边对我说,希望日本政府能为他们当年所做的一切公开于世,对中国、还有千千万万的民众们公开道歉与赔偿,当时的我听到这些内心感到非常的震撼久久不能平复,觉得自己全身都被怒火点燃了,心情格外悲伤和沉重,既难过又气愤,即为他的遭遇感到可怜难过的同时又对日军的当年所犯下的罪行直到如今都没给大家一个交代而感到愤怒,对于我们80后的这一代人,距离战争的硝烟已经过去久远,我们对战争的了解少得可怜,以前,我对日本的了解就是日本人很坏,他们侵略中国,是不可饶恕的罪人 .而我也了解过日本民族本来也是一个善良的民族,但是由于这些统治者的误导,野心,使得中国遭遇了前所未有的劫难,而他们日本人民的生活也很苦,可见战争对于胜利或是失败的国家都是一种深深的无法磨灭的伤害,自己都不敢想象当时的他还有其他的千千万万的同胞们是怎么熬过来的,这种残酷的遭遇对于一个12岁的孩子来说得留下多大的伤痛与心理阴影!
  之前因为种种原因很多年都没能和佐藤先生们取得联系,直到去年的9月份通过一位海南老乡的帮助下才取得联系,我从佐藤先生口中听说朱学平先生在2011年已离开了人世,当时我一听到这个消息时为他感到惋惜,临死之前都没能等到日本政府的道歉,不知道他们死的瞑不瞑目,他们这些幸存者也渐渐的离开人世,在此我真的很希望日本政府能够尽快早点正视这段历史,面对事实,为当年所犯下的错误买单!除了朱学平還听说了其他幸存者们的惨遇,其中还有一位当时年仅10岁的朱进春,他家六口人也是在当天全部被日军杀害,他自己也被日本刺了8刀没死幸存了下来,还有的被日軍用刺刀刺穿腹部,腸子都流出來了的等等遭遇!访问完后海南近现代史研究会对月塘村的幸存者们的闡述过程作成DVD放映给大家看,海南近现代史研究会还给月塘村“三·廿一”惨案遇害的同胞们募捐筹款建立了一座纪念碑,名字是“三廿一惨案纪念碑”,纪念碑上刻着所有当天遇难者的名字,关于建立这座纪念碑的意义是想让所有人铭记、正视这段历史,让日本政府能够重新审视当年的所作所为,尊重历史,修正历史!
  听说日军当时在海南实行惨无人道的“三光”(烧光、杀光、抢光)政策,肆意杀戮无辜民众,制造一桩桩骇人听闻的惨案、血案。日军屠杀人的手段极端残忍,有活埋、斩首、抛撒、集体枪杀、放狗咬、钉四肢等多种手段。为了寻欢作乐竟然让村民们做(四脚牛)让他们骑、强征慰安妇,各种各样毫无人性的丑恶暴行让人无法原谅。
  虽然我是一位土生土长的海南本地人,在我的印象里有听长辈们说过以前日本侵略中国的手段与其经历,能夠逃过日军的魔掌活下來的就算是非常幸运了!自从我跟佐藤先生他們去各个地方做完实地调查,听完幸存者們的诉说后,心里久久无法平静!作为任何的一位正常人都不能容忍与原谅日軍當年的所做所为,极其恶劣、毫无人性!
  在此我希望今后世世代代的子孙们要以此谨记,勿忘历史、铭记历史!永远生活在一个没有战争、和平相处的美好世界里!



 梁昌寳

  尊敬的佐藤正人先生、以及其他的“”海南近现代史研究会”的主将们,你们辛苦了!
  你们这几十年以来,对二战期间外来侵略者在海南岛犯下的罪行的研究,可以用以下成语来形容:孜孜不倦、一丝不苟、认真负责、不远万里、不知疲倦、细致入微、真实可靠、不畏压力、几十年如一日、持之以恒、坚韧不拔永不言弃……。用多少词语赞美你们,都不为过。我作为海南人,深受感动!并从内心对你们表示感谢。之前没有人这样做过,不知有没有后来者。
  收集、走访、整理、研究、作成资料是花费时间、消耗精力的,你们不是海南人,也不是中国人,却为海南岛付出了那么多,消耗了你们的宝贵人生。海南人应该给你们颁发奖状。  
  祝愿你们都健康长寿,有精力继续研究。
非常感谢你们。
                        2024年2月15日



 陈北崗  中国海南省陵水县英州镇大坡村

  尊敬的佐藤正人先生和金静美女士:
  2023年11月22日,我们到日本歌山县海南市专门拜访了您二位,通过和您们面对面做了为时不长的交流,我们由衷地向您们二位表示敬佩和感激。因为您二位为了调查研究和记录第一手日军二战侵略中国海南省的罪行,不辞劳苦,自费来海南数十次,城市和村镇角角落落都留下了您们的足迹,造访了为数不多的战争亲历受害者(大多数已离世)和他们的遗属,留下了非常珍贵的史料和图片,我们很惭愧地说中国方面还没有任何政府部门和学者对此付出那么多的时间,经历和心血。
  当今的世界处于新的动荡时期,俄乌战争,巴以在加沙地区的战火,每天无辜平民百姓和军人失去了宝贵的生命,大家都希望世界安定,减少和免除战争。我们根据您们给我们的部分资料,在我们的纪念园筹划建立了二战日军侵略海南罪行展,来参观的民众络绎不绝,他们认为作为侵略国的有良知的日本国民,确有“知耻者近乎大勇”的正义感,两国国民都应该以史为鉴,教育当代的民众和下一代,正常维护两国人民的友谊,和平共处,发展日中邦交正常化。
  最后我们以一句:“山川异域,日月同天”结束我们的发言稿。
  目前我们正在联系和安排佐藤先生和金女士再一次访问海南,给海南陵水华中师范大学附属中学陵水分校师生做一次演讲,并由海南电视台对二位做一次专访。时间尚未确定,请二位静候我们的通知。如果这次贵近代史研究会会议有影像记录,请电邮我们一份不甚荣幸。

      四野解放海南研究会会长:黄星星 秘书长 陈北崗 
                              2024年2月16日
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海南島近現代史研究会 第27次研究会例会

2024年02月17日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会 第27次研究会例会■
 19世紀中叶以来、日本在亚洲太平洋各地进行侵略戦争、不断把阿伊努莫西里(「北海道」)、奄美、琉球、台湾、萨哈林岛南半部、朝鮮、中国東北部・蒙古東南部、「南洋群島」、海南島等地占据为自己的領土。
 日本政府迄今仍隐瞒对这些国家的犯罪歴史,他们既不想为侵略犯罪行为进行謝罪道歉,也不想对当年的犯罪责任人进行惩罚,更不想为他们重大的犯罪行为去承担相应的賠償。
 2020年2月8日召开的海南島近現代史研究会第25次研究会例会的主題是「侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争」,2022年8月21日召开的海南島近現代史研究会第14次総会・第26次研究会例会的主題是「民衆的歴史研究・歴史認識・事実的伝達」。
 2022年6月左右以来,因为新型冠状病毒肺炎的伝染急速扩大,所以计划于2022年8月21日召开的海南島近現代史研究会第14次総会・第26次研究会例会,不得已又再次延期至2023年2月。然而,进入2023年以后,由于新型冠状病毒肺炎的流行更加严重,所以计划于2月召开的第14次総会・第26次研究会例会又延期至8月。
 思考从2020年2月8日以来,历时3年半的巴勒斯坦、乌克兰……以及民衆的日常生活和斗争,于是把2023年8月26日召开的海南島近現代史研究会第14次総会・第26次研究会例会的主題,变更为「日本所侵略地域的民衆記憶、侵略国家民衆的主体変革」。
 2024年2月17日将召开第27次研究会例会。其主題与第14次総会・第26次研究会例会相同,即「日本所侵略地域的民衆記憶」。
 在海南島近現代史研究会迄今为止的研究集会上,还没有重复过相同的主題。
 但是,在犹太复国主义者国家(以色列)正在巴勒斯坦进行残酷的侵略犯罪的当下、考虑这个主題务必涉及且深究,所以,决定专心致志于这个相同的主題。

 时间:2024年2月17日 下午0時30分開場、下午1時10分開会
 地点:国労大阪会館 2階第1小会議室 大阪市北区錦町2  JR大阪環状線天満駅北口
 参加費・資料费:500日元(会員免费)

 主題:日本所侵略地域的民衆記憶、侵略国家民衆的主体変革
 ■主題報告  日本が侵略した地域の民衆の記憶、侵略国家の民衆の主体変革   佐藤正人
   日本国家在所侵略地域上的侵略犯罪的歴史务必周密地记录下来并传承下去。
  要保证歴史記述的正確性,要考虑侵略国家日本民衆的主体的思想形态。                                       
 ■主題報告  庶民的記憶和民衆史                      蒲豊彦
   世界上大多数都是普通人。但是,人们理解其生活和人生,乃至探寻其中真谛的努力是远远不足的。下面
  把中国史和三竃島史的研究作为題材,试探民衆史之課題。
 ■海南民众们致于海南近现代史研究会的致信的   邢越 林彩紅 梁昌寶 陳北崗
 ■討論  关于认识日本的国家犯罪的事実的民衆的方法
 ■关于海南島近現代史研究会第21次(查明紀州鉱山真相之会的第34次)的海南島「現地調査」

              海南島近現代史研究会  http://hainanshi.org/
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海南島近現代史研究会 第27次研究会例会

2024年02月17日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会 第27次研究会例会■

  19世紀中叶以来、日本在亚洲太平洋各地进行侵略戦争、不断把阿伊努莫西里(「北海道」)、奄美、琉球、台湾、萨哈林岛南半部、朝鮮、中国東北部・蒙古東南部、「南洋群島」、海南島等地占据为自己的領土。
  日本政府迄今仍隐瞒对这些国家的犯罪歴史,他们既不想为侵略犯罪行为进行謝罪道歉,也不想对当年的犯罪责任人进行惩罚,更不想为他们重大的犯罪行为去承担相应的賠償。
  2020年2月8日召开的海南島近現代史研究会第25次研究会例会的主題是「侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争」,2022年8月21日召开的海南島近現代史研究会第14次総会・第26次研究会例会的主題是「民衆的歴史研究・歴史認識・事実的伝達」。
  2022年6月左右以来,因为新型冠状病毒肺炎的伝染急速扩大,所以计划于2022年8月21日召开的海南島近現代史研究会第14次総会・第26次研究会例会,不得已又再次延期至2023年2月。然而,进入2023年以后,由于新型冠状病毒肺炎的流行更加严重,所以计划于2月召开的第14次総会・第26次研究会例会又延期至8月。
  思考从2020年2月8日以来,历时3年半的巴勒斯坦、乌克兰……以及民衆的日常生活和斗争,于是把2023年8月26日召开的海南島近現代史研究会第14次総会・第26次研究会例会的主題,变更为「日本所侵略地域的民衆記憶、侵略国家民衆的主体変革」。
2024年2月17日将召开第27次研究会例会。其主題与第14次総会・第26次研究会例会相同,即「日本所侵略地域的民衆記憶」。
  在海南島近現代史研究会迄今为止的研究集会上,还没有重复过相同的主題。
但是,在犹太复国主义者国家(以色列)正在巴勒斯坦进行残酷的侵略犯罪的当下、考虑这个主題务必涉及且深究,所以,决定专心致志于这个相同的主題。

 时间:2024年2月17日 下午0時30分開場、下午1時10分開会
 地点:国労大阪会館 2階第1小会議室 大阪市北区錦町2  JR大阪環状線天満駅北口
 参加費・資料费:500日元(会員免费)

主題:日本所侵略地域的民衆記憶、侵略国家民衆的主体変革
■主題報告  日本が侵略した地域の民衆の記憶、侵略国家の民衆の主体変革   佐藤正人
  日本国家在所侵略地域上的侵略犯罪的歴史务必周密地记录下来并传承下去。要保证歴史記述的正確性,要考虑侵略国家日本民衆的主体的思想形态。                                       
■主題報告  庶民的記憶和民衆史                      蒲豊彦
  世界上大多数都是普通人。但是,人们理解其生活和人生,乃至探寻其中真谛的努力是远远不足的。下面把中国史和三竃島史的研究作为題材,试探民衆史之課題。
■海南民众们致于海南近现代史研究会的致信的   邢越 林彩紅 梁昌寶 陳北崗
■討論  关于认识日本的国家犯罪的事実的民衆的方法
■关于海南島近現代史研究会第21次(查明紀州鉱山真相之会的第34次)的海南島「現地調査」

            海南島近現代史研究会  http://hainanshi.org/
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「「反日」掲げ爆弾投げた日本人…49年たっての自首、死に際に残した言葉」

2024年02月16日 | 抗日・反日闘争
「The Hankyoreh」 2024-02-13 11:12
■「反日」掲げ爆弾投げた日本人…49年たっての自首、死に際に残した言葉
 日本の戦犯企業に対する「爆弾テロリスト」の生と死

【写真】東京の警察署前に貼ってある桐島聡の指名手配ポスター=東京/EPA・聯合ニュース

 「最期は本名で迎えたかった」。
 1970年代、「爆弾テロ」という日本の過激派武装闘争で世間を騒がせた「東アジア反日武装戦線」の組織員だった桐島聡は、指名手配から49年たって自首を選んだ。胃がんを患い、死をわずか4日後に控えた時点だった。事件当時21歳の大学生だった桐島は、「内田洋」という偽名で半世紀にわたる逃避生活をする間に70歳の老人となった。神奈川県鎌倉市のある病院に入院していた彼は、先月25日、病院関係者に自分が「桐島聡」であると知らせ、警察に通報するように頼んだ。自首の理由は、偽名ではなく自分の本名で死にたいということだった。
 「内田」という偽名を捨てた桐島は、先月29日に息を引き取った。日本の警視庁公安部は、彼が死亡する直前、医師の立ち会いのもと短い取調べを行った。桐島はその場で「(1970年代に犯した)事件について後悔している」、「他の組織員とは一切連絡せずにずっと一人で暮らした」と供述したという。
 警視庁は正確な身元を把握するために、桐島のDNAを複数の親族と照合した。結果は予想通り「親族関係であることに矛盾なし」というものだった。警察はより確実な物証を得るため、今月2日に桐島が住んでいた神奈川県藤沢市の自宅を捜索しノート1冊、証明写真、財布、月給明細書などを確保した。自宅からは半世紀前の武装戦線と関連した物品は出てこなかった。
 桐島は49年前、「日本帝国主義反対」を掲げて爆弾テロを行った東アジア反日武装戦線の組織員として活動した。この団体は、日本の植民地の責任を強く求め武装闘争に乗り出した、日本でも非常に異例な組織だ。強制動員被害者賠償問題によって韓国で「戦犯企業」と非難される三菱重工の東京本社ビルを、1974年8月14日に爆破した。8人が死亡し、376人もの人が負傷した。彼らはテロから1カ月後に発した声明で「三菱は、旧植民地主義時代から現在に至るまで、一貫して日帝中枢として機能し、商売の仮面の陰で死肉をくらう日帝の大黒柱である」と明らかにした。彼らの爆弾テロは、1975年5月に主要組織員らが逮捕されるまで、三井物産、大成建設など日本の「戦犯企業」へと続けて拡大した。組織員らは大学生や会社員など平凡な人たちだったため、さらに衝撃を与えた。
 桐島は1975年4月、東京の銀座にあった韓国産業経済研究所の爆破事件に関与した疑いで指名手配された。同研究所は1966年、日本生産性本部の傘下機関として設立された。武装戦線は、同機関が戦犯企業に韓国に関する情報を渡す拠点だと判断した。朝日新聞は「(桐島は)この事件への関与は否定し、他の爆破事件の関与を示唆した」と報じた。しかし、桐島が死亡したことで正確な事実関係は明らかにできなくなった。
 桐島の存在が世の中に知られると、世間の関心は彼が半世紀近い歳月をどのように生きたかに集中した。彼は指名手配の期間の多くを神奈川県藤沢市に暮らし、近くの土木会社に勤めた。日本各地に写真と共に「身長は160センチ、ひどい近視、唇が分厚く大きい」という人相が説明された手配リストが貼られたが、東京からさほど離れていない首都圏で平然と暮らしていたのだ。
 ただ、身元を確認しなければならない携帯電話、健康保険証、運転免許証などは所持していなかった。通帳を作ることができなかったのか、現金だけを使うなどアナログな生活をしてきたものと推定される。約1年前に胃がんの診断を受けたが、健康保険の恩恵を受けることができず、まともに治療を受けられなかったことが分かった。居住していた家もかなり劣悪だった。3坪ほどの大きさの部屋にはろくな家具もなく、使い捨ての弁当の容器などでいっぱいだったという。
 だからといって、桐島の人生が完全に孤立していたわけではない。家の近くの行きつけの飲み屋の関係者は、日本のメディアに「桐島は音楽、特にブルースが好きだった。うちの店でライブをする時は最前列に座って楽しんでいた」と証言した。銭湯の店主も「よく笑い、親切な人だった。悪い人には見えなかった」と話した。
 このような事実が知られ、桐島が自分の属していた武装戦線の1974年の教本を参考にしたのではないかという指摘も出ている。教本には爆弾製造だけでなく組織員の行動方針などが出ている。その中には「居住地で極端な秘密主義、閉鎖主義はむしろ危険だ。表面上は極めて普通の生活人として活動すること」などが記されていた。
 桐島の登場に非常に当惑したのは警視庁公安当局だ。時事通信は、「桐島は『国外に逃避した』という有力な情報があった。(公安当局は)正直日本にはいないと思っていたが、神奈川県に住んでいた。当局の大失敗」だと伝えた。これに先立ち、共犯である企業爆破事件の容疑者2人が国外に逃亡したことが確認された。しかし、容疑者らが逃亡したことで桐島は永遠に手配から逃れられなくなった。共犯の国外逃亡によって桐島の時効が停止となったからだ。
 桐島の親族は遺体の引き取りを拒否した。この場合、死亡した地域の地方自治体が火葬した後、無縁仏として寺に埋葬することになる。
 桐島の自首と死亡の火の粉は思いがけないところに飛んだ。今月1日、殺人未遂で指名手配中の暴力団幹部が匿名の通報で3年6カ月ぶりに長野県で逮捕された。今回捕まったのは警察が貼った指名手配ポスターで桐島の左隣にいた人物。日本の新聞やテレビなどは、桐島の顔が載った指名手配ポスターが連日報道されその隣りの人物も自然に露出した結果だと指摘した。日本の警視庁幹部はAERAに「指名手配された容疑者は大半が一般市民からの通報で捕まる。この逮捕は『桐島容疑者』のニュースが大きく報じられたことと関係が強い」と述べた。

東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-02-12 18:50
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「場所奪われた水曜デモ、来週はどこへ?」

2024年02月15日 | 日本軍隊性奴隷
「The Hankyoreh」 2024-02-15 08:32
■[フォト]場所奪われた水曜デモ、来週はどこへ?

【写真】14日昼、第1635回日本軍性奴隷制問題解決のための定期水曜デモが、ソウル鍾路区の旧日本大使館前の平和路で開かれた。参加者たちが日本政府の公式謝罪と法的賠償を求めてスローガンを叫んでいる=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社

 「歴史を否定する勢力は日本の極右勢力と連帯し、水曜デモを妨害したうえ、この平和路(ピョンファロ)で水曜デモが行われないことを望みながら、今も持続的に私たちを妨害し、脅迫しています」。
 第1635回日本軍性奴隷制問題の解決に向けた定期水曜デモが14日昼、ソウル鍾路区(チョンノグ)の旧日本大使館前の平和路で開かれた。今回の水曜デモは、韓国YMCAの活動家たちが日本YMCAの活動家たちと共に行った。しかし来週の水曜デモは、ソウル鍾路区の旧日本大使館前の平和の少女像の近くで開催できなくなる危機に瀕している。これまで極右団体が平和の少女像近くの集会申告を先取りしてきたが、21日付の集会申告の内容を見ると、彼らが最初から付近一帯の(先着順の)集会申告の上位を独占したためだ。
 極右団体の場所先取りは2020年5月から現在まで続いている。正義記憶連帯の理事長を務めたユン・ミヒャン議員の後援金流用疑惑が浮上してから、極右勢力の団体が平和の少女像一帯に対する集会申告を始めた。正義記憶連帯はこれまで平和の少女像前の集会場所を取り戻せずにいる。14日の警察庁の集会・行事表によると、国民啓蒙運動本部が12時から13時までテラロッサ前の歩道に集会申告をした状態だったが、テラロッサ前の通りにはユーチューバーとみられる市民1人がいただけだ。正義記憶連帯側は警察に実質的な集会主催者らに場所の確保を保障してほしいと求めている。

【写真】平和の少女像の周りに警察の柵が幾重にも設置されている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】第1635回日本軍性奴隷制問題解決のための定期水曜デモが平和の少女像から遠く離れた場所で開かれている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】聯合ニュース本社の前で、ある団体が南山の慰安婦記憶の地の撤去を求めている。この場所は母親部隊が水曜デモの中断および平和の少女像の撤去を求める集会を開くと申告していた=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】第1635回日本軍性奴隷制問題解決のための定期水曜デモが、旧日本大使館前の平和路で開かれている。水曜デモは2020年夏から平和の少女像からますます遠ざかり、現在サマーセット・パレス・ソウルの入り口で開かれている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】第1635回日本軍性奴隷制問題解決のための定期水曜デモが、旧日本大使館前の平和路で開かれている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社

キム・ヘユン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-02-14 21:04
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「オランダ控訴裁、イスラエルへのF35部品輸出停止命令 地裁判断覆す」

2024年02月15日 | 国家・社会
「AFP」 2024年2月12日 21:02 発信地:ハーグ/オランダ
■オランダ控訴裁、イスラエルへのF35部品輸出停止命令 地裁判断覆す

【写真】戦闘機F35。ドイツ・ベルリン近郊で開かれた航空ショーで(2022年6月22日撮影、資料写真)。(c)Tobias SCHWARZ / AFP
【写真】戦闘機F35。デンマーク空軍基地で(2023年12月1日撮影、資料写真)。(c)Bo Amstrup / Ritzau Scanpix / AFP 

【2月12日 AFP】オランダの控訴裁判所(高裁)は12日、イスラエルがパレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)で使用するF35戦闘機の部品輸出をめぐり、差し止めを請求していた人権団体からの抗告を認めて地裁判断を覆し、すべての部品の輸出と輸送を停止するよう国に命じた。
 F35部品の供給をめぐっては、複数の人権団体が、イスラム組織ハマス(Hamas)との衝突でイスラエルが犯している国際法違反に加担することになると主張し、差し止めを求めていた。
 控訴裁はオランダ政府に対し、今回の判断から7日以内に「最終目的地をイスラエルとするF35部品の輸出と輸送をすべて中止する」よう命じた。
 オランダの倉庫に保管されているF35部品は米国が所有しており、既存の輸出合意に基づき、イスラエルを含むパートナーに輸出されている。
「これにより、オランダはガザにおける戦争人道法の深刻な違反に加担している」と人権団体は訴えていた。
 ハーグ(The Hague)地裁は昨年12月、部品の供給は主に政治的な決定であり、裁判所が干渉すべきではないと判断。
 またオランダ当局は、部品供給を取り仕切っているのは米国であり、オランダに介入権限があるかどうかも不明だとの認識を示していた。
 今回の控訴裁の判断について、上訴した人権団体の一つのPAXオランダ(PAX Netherlands)は「前向きな判断に大きな手ごたえを感じている」とコメントした。
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「群馬の「朝鮮人追悼碑」撤去を北朝鮮が非難 復元を要求」

2024年02月10日 | 国民国家日本の侵略犯罪
「聯合ニュース」  2024.02.06 08:21
■群馬の「朝鮮人追悼碑」撤去を北朝鮮が非難 復元を要求
【ソウル聯合ニュース】日本による植民地時代に徴用された朝鮮半島出身者を追悼するために群馬県立公園「群馬の森」(高崎市)に設置されていた朝鮮人追悼碑を県が撤去したことについて、北朝鮮の朝鮮中央通信は6日、「ファッショ的な暴挙を敢行した」と非難した上で、碑の復元を求めた。

【写真】1月29日、朝鮮人追悼碑の撤去作業の様子=(共同=聯合ニュース)

 朝鮮中央通信は論評で、碑の撤去は「強制連行の直接的被害者とその子孫の傷を再びえぐる容認できない反人倫的な蛮行」で、日本の過去の罪を否定し植民地統治を美化するものと指摘。「犠牲者を追悼し、犯罪に対し賠償を行い、過去の不幸が繰り返されないようにすることは、加害側の法的義務で当然の道理」とし、群馬県に対し「直ちに追悼碑を復元しなければならない」と迫った。
 この碑は朝鮮半島と日本の歴史の理解と友好促進のため、日本の市民団体が2004年に設置した。
 群馬県は14年、碑の前で開かれた追悼式典で参加者が「強制連行」に言及するなど政治的発言をしたとして設置許可を更新しなかった。市民団体は県を相手取り訴訟を起こしたが、22年に最高裁で市民団体の敗訴が確定。県は今年1月末、行政代執行により碑を撤去した。


「中央日報日本語版」 2024.02.05 10:35
■朝鮮人追悼碑撤去に日本議員「本当に良かった」…徐坰徳教授「歴史学べなかったため」

【写真】群馬県高崎市「群馬の森」公園内にある「朝鮮人追悼碑」。イ・ヨンヒ特派員

 右翼性向の日本の女性議員が最近群馬県の朝鮮人労働者追悼碑が撤去されたことをめぐり「本当に良かったです」という反応を見せたことに対し、誠信(ソンシン)女子大学の徐坰徳(ソ・ギョンドク)教授は「歴史をまともに学べなかったため」と批判した。
 徐教授は5日、フェイスブックに「過去に韓服姿の女性を嘲弄し大きな物議を醸した日本の自民党所属杉田水脈議員が自身のSNSに群馬県の朝鮮人労働者追悼碑撤去記事を添付しながら『本当に良かったです』と支持の立場を明らかにした」としてこのように明らかにした。


 

続けて「(杉田議員は)日本国内の他の朝鮮人労働者や慰安婦を賛える記念物も撤去されることを望むと書いた。『日本国内にある慰安婦や朝鮮半島出身労働者に関する碑や像もこれに続いてほしいです』『嘘のモニュメントは日本に必要ありません』と主張した」と伝えた。

彼は「こうした発言は日帝強制動員と日本軍慰安婦の加害の歴史全体を否定する妄言。日本の共同通信も杉田議員の今回の投稿に対し歴史修正主義やレイシズムをあおる言説だと叱咤した」と指摘した。

徐教授はまた「だから幼い時からの歴史教育が本当に重要だ。日本の加害の歴史をまともに学ばずに育ったので杉田議員のような人が出てくる」と批判した。
 その上で「杉田議員は今後歴史勉強もしっかりし痛切に反省した上で心からの公開謝罪を必ずしなければならないだろう」と付け加えた。
 杉田議員は「新しい歴史教科書を作る会」で活動しながら慰安婦の強制性を否定するなど右翼性向が強い人物として知られる。2016年に国連女性差別撤廃委員会に参加した際に韓服姿の女性を皮肉る投稿をSNSに上げた事実が明らかになり、昨年日本法務省傘下組織から人権侵害で注意を受けたりもした。


「The Hankyoreh」 2024-02-05 09:42
■朝鮮人追悼碑撤去に「他の碑も早く撤去を」発言の自民党杉田議員に批判殺到
 自民党の杉田水脈議員、SNSに「慰安婦・徴用工碑も撤去を」 
 投稿に対し「差別あおり、歴史修正扇動」との批判も

【写真】群馬県は朝鮮人強制動員犠牲者追悼碑の撤去を先月29日から始め、今月3日午後にすべて終え、工事期間中閉鎖していた「群馬の森」公園を再び開園した。県は追悼碑を粉々に砕くかたちで撤去し、物議を醸した。上の写真は撤去前、下は現在の公園の姿/聯合ニュース

 群馬県が朝鮮人強制動員犠牲者の追悼碑を粉々に破壊するかたちで撤去を終えたなか、自民党の右翼性向の議員が「本当に良かった」と投稿し、日本内の他の朝鮮人関連追悼碑も「撤去できればいい」と主張した。
 自民党の杉田水脈議員(衆議院)は3日、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に群馬県の朝鮮人追悼碑撤去の記事を引用して「本当に良かったです」とし、「日本国内にある慰安婦や朝鮮半島出身労働者(強制動員)に関する碑や像もこれに続いてほしい」という考えを明らかにした。
 さらに、日本が朝鮮半島に対して犯した過ちを記憶するために作った別の記念物を次の目標として提示した。杉田氏は京都府に作られた「日帝強制労働朝鮮人労働者像」の写真4枚をアップし、「この写真は、京都にある徴用工像。韓国のものより先に建てられました。私有地ということで撤去できない状態です。これも早く撤去できればいいのですが」と述べた。杉田氏が指摘した追悼像は、2016年に韓国労総と民主労総が京都の丹波マンガン鉱山に建てた「日帝強制労働朝鮮人労働者像」だ。当時、韓国の二大労総は強制動員労働者の人権蹂躙(じゅうりん)の実態を知らせ、被害者の名誉を回復するためにこの銅像を建てた。現在、ソウル、仁川、慶尚南道、済州などにも同じ労働者像が設置されている。
 杉田氏のこのような投稿は、日本の歴史的過ちを否定しようとする自国内の右翼団体を扇動し、さらなる撤去運動を起こそうとする意図とみられる。実際、右翼団体は日本各地で朝鮮人追悼碑の撤去を要求する運動を進めている。群馬県の追悼碑撤去を成し遂げた右翼団体「そよ風」は、東京都の横網町公園にある「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」の撤去を求め、毎年集会を続けている。この追悼碑は1973年に建てられ、東京都の所有となっている。右翼団体の反発の影響などで、小池百合子都知事は2017年から朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を送っていない。

【写真】自民党の右翼性向の杉田水脈衆議院議員は3日、自身のSNSに群馬県の朝鮮人追悼碑撤去の記事を載せ、「本当に良かったです」とし、日本国内の他の朝鮮人関連追悼碑も「撤去できればいい」と発言した=SNSよりキャプチャー//ハンギョレ新聞社

 杉田氏の発言をめぐり、日本国内でも懸念の声が出ている。共同通信は「歴史修正主義やレイシズム(人種差別主義)をあおる言説で、強い批判を招きそうだ」と伝えた。SNSでも「差別発言を繰り返す杉田議員が群馬の森追悼碑撤去を機会とし、韓国人・朝鮮人労働者慰霊碑への攻撃を示唆(している)」との書き込みが上がってきている。
 群馬県は朝鮮人追悼碑の撤去を3日午後にすべて終え、先月29日に閉鎖した「群馬の森」公園を再び開園した。県は、2004年にこの追悼碑を建て管理してきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好の追悼碑』を守る会」が開いた追悼式で「強制連行」という発言が出て、右翼団体が反発するなど政治的議論になったとし、追悼碑の撤去を強行した。
東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-02-04 19:51


「聯合ニュース」 2024.02.02 15:50
■群馬の「朝鮮人追悼碑」撤去 韓国市民団体が非難声明=「歴史を否定」
 金泰均
【ソウル聯合ニュース】群馬県が日本による植民地時代に徴用された朝鮮半島出身者を追悼するために県立公園「群馬の森」(高崎市)に設置されていた朝鮮人追悼碑を撤去したことについて、韓国の市民団体「歴史正義と平和な韓日関係のための共同行動(韓日歴史正義平和行動)」は2日、「追悼碑を強制撤去したのは日本の強制動員の歴史を否定する行為」と非難する声明を出した。

【写真】1月29日、群馬県立公園「群馬の森」で朝鮮人追悼碑の撤去作業が行われている=(共同=聯合ニュース)

 声明は「追悼碑には日本の植民支配・強制動員の歴史を反省し繰り返さないという決意が込められていた」として、「群馬県は歴史の前に恥じなければならない」と指摘した。
 碑は日本の市民団体が2004年に建てた。群馬県は14年、碑の前で開かれた追悼式典の参加者が「強制連行」に言及するなど政治的発言をしたとして設置更新を不許可とした。団体は県を相手取り訴訟を起こしたが、22年に最高裁で団体の敗訴が確定。群馬県は今年1月末、行政代執行により碑を撤去した。


「The Hankyoreh」 2024-02-02 07:49
■群馬県、「強制動員朝鮮人犠牲者追悼碑」をがれきの山に
 朝日新聞、ヘリコプターを飛ばして確認

【写真】「群馬の森」公園に朝鮮人強制動員犠牲者追悼碑があった場所にがれきが積まれている。SNSでは群馬県が追悼碑を粉々にする方式で撤去したことについて、「ひどすぎる」などの批判の声が高まっている=朝日新聞の動画よりキャプチャー

 群馬県高崎市の「群馬の森」公園にある朝鮮人強制動員犠牲者追悼碑(「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑」)が3日間で完全に撤去された。コンクリートで作られた追悼碑の円形の土台と碑石が砕かれるなど損傷が大きかった。
 朝日新聞は1日、「31日午前、朝日新聞社がヘリコプターで上空から現場を確認したところ、朝鮮人追悼碑があった場所はすでに更地になっていた」とし、「トラックやショベルカーなどが入って新しい土で埋め戻す作業がされていた」と報じた。
日本の群馬県の「群馬の森」公園にある朝鮮人強制動員犠牲者追悼碑の様子=キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社
 朝日新聞が公開した動画によると、追悼碑が撤去の過程で多く損傷されたことが確認できる。直径7.2メートルの円形の土台と碑文が貼られていた横4.5メートル、縦1.95メートルのコンクリート石碑は粉々に砕かれ山積みになっていた。「記憶 反省 そして友好」と書かれた金属製のプレートなどは、追悼碑を建てて管理してきた日本市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」(守る会)に渡された。
 動画を見た守る会側は、同紙に「平和を愛する人たちの良心が、ずたずたにされた思いがする」とし、「こうも無残な姿、残骸をみて、何ともいいようがない。県のやり方には憤りを感じる」と反発した。守る会は撤去が終わった後、追悼碑の状態などを調べ、今後どのように対応するかを検討する予定だ。
 ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)でも県が追悼碑を粉々にする方式で撤去したことについて、「他の所で再建できるよう配慮する最小限の良心もなかった」、「ここまでするとはひどすぎる」などの批判の声が高まっている。
 群馬県は東京ドームの5.6倍の大きさの公園を全面閉鎖し、29日から追悼碑の撤去を始めた。県は2004~2012年の市民の会の追悼式で「強制連行」という言葉が出て右翼団体が反発するなど、政治的議論を呼んだとし、これは「政治的行事をしない」という約束を違反したものだと主張。これを理由に同年7月、追悼碑設置許可の延長を拒んだ。市民の会は訴訟を起こし、1審では勝訴したが、最終的に敗訴した。県は昨年4月、これを根拠に追悼碑の撤去命令を下したが、市民の会がこれに従わなかったため、行政代執行に乗り出した。
東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力: 2024-02-01 22:13


「中央日報日本語版」 2024.02.02 06:55
■群馬県、朝鮮人追悼碑を粉々に…「良心がずたずた」

【写真】群馬県高崎市「群馬の森」公園内にある「朝鮮人追悼碑」。イ・ヨンヒ特派員

 群馬県が高崎市の県立公園「群馬の森」にあった日帝強占期朝鮮人労働者追悼碑をついに撤去した。コンクリートで作られた構造物は細かく砕かれてがれきになった。
 1日、朝日新聞によると、県当局は先月29日に追悼碑を撤去する行政代執行工事に着手して前日撤去を終えた。
 朝日が前日午前、群馬の森の上空から撮影した写真を見ると、追悼碑があった場所は更地に変わった。
 朝鮮人追悼碑は直径7.2メートルの円形の土台の上に設置されて、高さ4メートルの金色の塔が並ぶようにして立てられていた。県は公園を全面的に閉鎖して一般市民の出入りを徹底的に統制した後に重装備でこれを壊した。
 トラックと重装備が土をならす光景と碑石の土台の部分と推定されるコンクリートの残骸が山積みになっている様子が確認された。追悼碑の円形の土台と碑石は粉々に砕かれていた。
 県の朝鮮人追悼碑は日本の市民団体が韓半島(朝鮮半島)と日本の間の歴史を理解して両国の友好を増進するために2004年に設置された。
 碑石の前面には「記憶 反省 そして友好」と日本語・韓国語・英語で記され、裏面には「朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する」と刻まれている。県は先月29日、追悼碑から金属製の碑文などを取り外し、市民団体「追悼碑を守る会」に返却した。
 朝日によると、「守る会」関係者は撤去写真を見て「平和を愛する人たちの良心が、ずたずたにされた思いがする」と話した。あわせて「追悼碑は群馬の良心ともいえるもので、亡くなった人たちの追悼の墓標。それを権力が取り除くというのは許されるのだろうか」とし「こうも無残な姿、残骸をみて、何ともいいようがない。県のやり方には憤りを感じる。県が大罪の歴史を残してしまい、大変残念」と話した。
 団体は12日に公園が開放されれば現場を訪問した後、今後の活動方向を決める方針だ。
 これに先立ち、県は2012年に追悼碑の前で開かれた追悼式典で参加者が「強制連行」に言及した点を問題視して設置許可更新を拒否し、その後最高裁判所は地方自治体の処分が適法だという判決を確定した。県は朝鮮人追悼碑を撤去してほしいという要求に市民団体が応じないため、行政代執行を通じて撤去することを決めた。市民団体は県が正当な理由もなく追悼碑の撤去を始め、撤去方法についてもきちんと公開しなかったとして批判した。
 一方、Googleマップでも追悼碑関連の位置情報が消えたことが分かった。この日基準で、Googleマップで群馬の森がある場所を拡大して、日本語で「群馬県朝鮮人追悼碑」と検索バーに入力しても何の情報も出てこない。従来は群馬の森の中に「朝鮮人追悼碑」という名称で碑石の位置が表示されていた。


「The Hankyoreh」 2024-02-02 06:44
■[特派員コラム]「朝鮮人追悼碑」撤去が意味するもの

【写真】群馬県の県立公園「群馬の森」にある強制動員朝鮮人犠牲者追悼碑は、直径7.2メートルのコンクリートの円形台の上に幅4.5メートル、高さ1.95メートル大の碑石と高さ約4メートルの金色の塔で構成されている=高崎/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 20年間、群馬県高崎市にある県立公園「群馬の森」で韓日友好の象徴となっていた強制動員朝鮮人犠牲者追悼碑が撤去された。
 群馬県は公園を全面閉鎖した中で、1月29日に追悼碑の撤去を始めた。取材が封鎖されると日本のメディアはヘリコプターを飛ばした。朝日新聞が31日に上空から撮った映像を見ると、追悼碑があった場所は空き地になっていた。直径7.2メートルの円形台座と碑文が設置されていた幅4.5メートル、高さ1.95メートルのコンクリート碑石は細かく砕かれ、うずたかく積まれていた。「記憶 反省 そして友好」と書かれた金属材質の碑文などは取り外し、追悼碑を建て管理してきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」に渡された。
 円形の台座と碑石を容赦なく壊したことをみると、県はこの追悼碑がどんな意味を含んでいるのか理解していなかったという気がする。空にまっすぐ伸びた高さ約4メートルの金色の塔と後ろのコンクリート碑石は、縦に大きな穴が空いている。この穴は朝鮮半島に向いている。群馬という見知らぬ地で犠牲になった朝鮮人の魂だけでも故郷に帰ってほしいという気持ちを込めたものだ。円形の台座には、道を見失わないようにと羅針盤が描かれている。撤去前の追悼碑の取材過程でこの話を聞いて、悲しくもありがたい気持ちでしばらく朝鮮半島の方を眺めた。
 日本の敗戦から50年の1995年、群馬の市民たちは自力で朝鮮人犠牲者を調査した。日本による植民地時代、朝鮮半島から群馬県の鉱山や軍需工場に強制的に動員された朝鮮人は約6千人余り、このうち300~500人余りが命を失ったと推定される。日本の市民たちはこの痛みを記憶し、未来に進むために2004年4月に朝鮮人追悼碑を建てた。
 日本の植民地支配と侵略戦争を謝罪した「村山談話」(1995年)、植民統治に対する痛切な反省・謝罪に言及した小渕恵三元首相(1937~2000)と金大中(キム・デジュン)元大統領(1924~2009)の「韓日パートナーシップ宣言」(1998年)は、日本の地方自治体が所有する公園に県議会の満場一致で朝鮮人追悼碑を建てる力になった。
 今回の追悼碑撤去は、強制動員被害者など歴史問題を強引に片付けてしまった尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領と岸田文雄首相の関係改善が、韓日友好どころか「歴史の抹消」を煽っていることを明確に示している。2004~2012年の間に追悼式で出た「朝鮮人強制連行」発言で右翼団体が反発し、論議が大きくなったからといって追悼碑を壊してしまうとは、話にならない。
 日本による植民地時代の朝鮮人動員の強制性は、日本政府も国際機関で認めた内容だ。2015年7月、当時の駐ユネスコ日本大使は、日本が近代産業施設を世界遺産に登録した当時のユネスコ会議で「1940年代、一部の施設で多くの韓国人やその他の国民が本人の意思に反して動員され、過酷な条件で強制的に労役した」と明らかにしたことがある。
 状況がそうであっても韓国の尹政府は「韓日間で必要な疎通をしている」という言葉だけを繰り返した。これに対し、群馬県の山本一太知事は「(韓国など)外交ルートで何も来ていない」とし、上川陽子外相は「自治体の決定事項」としてコメントを回避した。そして3日間で追悼碑は消えた。
キム・ソヨン東京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-02-01 18:40


「聯合ニュース」 2024.02.01 14:38
■韓国・済州道知事 群馬県との交流協議見合わせ検討=「朝鮮人追悼碑」撤去で
【済州聯合ニュース】韓国南部・済州道の呉怜勲(オ・ヨンフン)知事は1日、群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」にある朝鮮人労働者追悼碑の撤去を巡り、同県と推進中の友好交流に関する実務協議を見合わせるべきか悩んでいると明らかにした。

呉怜勲・済州道知事(同道提供)=(聯合ニュース)≪転載・転用禁止≫
 呉知事は、碑の撤去作業が始まる直前の先月26日に群馬県を公式訪問していた。
 昨年8月に群馬県の関係者らが済州を訪問したことへの答礼訪問だったが、碑の撤去時期と重なったことで不適切だったと批判されている。
 済州道の関係者は「訪問日程を調整する際には追悼碑の撤去計画を知らなかった」として、訪問の目的は自治体間交流だったと強調した。
 呉知事は今回の訪問で、群馬県の山本一太知事らに撤去問題について「韓日両国の関係が安定的に発展できるよう政務的に考慮してほしい」と述べ、穏便な対応を要請した。
 その上で、済州道は群馬県と観光を中心とした交流協力を拡大する実務交流協議書の締結を予定通り進めた。
 群馬の追悼碑は朝鮮半島と日本の歴史の理解と友好促進のため、市民団体が2004年に建てた。「朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する」などと記されている。
 群馬県は14年、碑の前で開かれた追悼式典の参加者が政治的な発言をしたとして設置更新を不許可とし、先月29日に撤去作業を開始した。
 日本による植民地時代には、約6000人の朝鮮半島出身者が群馬県の鉱山や軍需工場で労役を強いられた。韓国国家記録院の名簿によると、済州島出身の徴用者は1万人に上る。


【写真】群馬県高崎市の「群馬の森」にある朝鮮人追悼碑(資料写真)=(聯合ニュース)


「The Hankyoreh」  2024-02-01 09:55
■[社説]「記憶・反省・友好」を踏みにじる群馬県の強制動員追悼碑撤去

【写真】群馬県が強制撤去する前に「群馬の森」公園にあった強制労働朝鮮人犠牲者追悼碑=群馬県/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 2004年4月、日本の市民たちが群馬県にある「群馬の森」公園に「強制動員朝鮮人犠牲者追悼碑」を建てた。碑石の前面には「記憶 反省 そして友好」という文言を韓国語、日本語、英語で記し、裏面には「朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する」という文章を刻んだ。日本による植民地支配と、戦時下に軍需工場や鉱山などで働かされて亡くなった朝鮮人を哀悼して歴史の過ちを反省し、韓国と日本の友好を増進しようとする努力によるものだった。
 群馬県は29日、この碑石の強制撤去作業に着手した。2012年に追悼式である参加者が「強制連行」に言及したことを、右翼団体が「政治的行事」だとして問題にし、当局がこれを受け入れ、設置延長を許可しなかった。市民たちは、碑を守るために10年以上追悼式を行わないなどして努力したが、日本の裁判所は設置延長の不許可を合法と認定し、群馬県はこれを根拠に撤去命令を出し執行に着手した。
 背景には、2010年代初めの安倍政権期によりいっそう強まった右傾化の流れがある。歴史の教訓を省察し韓国と日本の未来を指向しようとする市民の結実を暴力的に壊している群馬県の今回の撤去が、日本の様々な地域に建てられた朝鮮人強制動員追悼碑に対する脅しと破壊の合図になることを懸念せざるをえない。
 ただし、日本社会で撤去反対が続いていることに希望がみえる。市民たちは追悼碑の前で抗議集会と夜通しの座り込みを行い、芸術家たちも撤去反対を要求する4300人あまりの署名を集め、群馬県に提出した。朝日新聞も30日の社説で「戦前の日本を美化する風潮が強まるなか(…)(群馬県が)歴史改ざんに手を貸すことにもなる。きわめて危うい事態だ」と指摘した。群馬県は今からでも、市民の良心の声に耳を傾け、恥ずべき危険な行為をやめることを望む。
 苦々しいのは韓国政府の態度だ。外交部は「両国間の友好関係を阻害しない方向で解決されることを期待する」という反応だけだ。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は、強制動員に加害した日本企業に免罪符を与える「第三者弁済」で歴史問題を消し去り、徹底的な無関心で対応している。韓国と日本の真の友好と協力を妨げる右傾化に、韓国政府がよりいっそう明確に声を出し要求しなければならない。韓国政府は、追悼碑を守るために取り組んでいる韓日両国の市民に対して恥ずかしくないのか。
(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-01-30 18:32


「The Hankyoreh」 2024-02-01 09:25
■ドイツの歴史学者「朝鮮人追悼碑の撤去、日韓関係の故意的な棄損」
 オンラインで「撤去反対」署名運動

【写真】群馬県の「群馬の森」公園にある強制動員朝鮮人犠牲者追悼碑=高崎/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 ドイツの歴史学者が、日本の群馬県で撤去が進められている朝鮮人強制動員追悼碑について、撤去の中止を求めるオンライン署名運動を行っている。
 日本史を研究するボン大学のラインハルト・ツェルナー教授は、1月27日にオンライン署名サイト(Change.org)を通じて、「群馬の森」公園に設置された「追悼碑」の撤去に反対する署名活動を始めた。この署名には31日午前までに390人が参加した。
 ツェルナー教授は、署名活動を始めた理由について「大衆の追悼は上から命令できるものではなく、社会のあらゆる層が参加するプロセスだ。群馬県は、追悼と和解の重要性・必要性に対して、ただちに公開討論を行うよう求める」と書いた。さらに、「このように合意もなく追悼碑が撤去されることは、日本が歴史的責任を否定し、日韓関係を故意に損ねる行為とみなされるだろう。今なお終わっていない日韓和解のプロセスでも、今回の追悼碑の撤去は深刻な打撃になる」と続けた。ツェルナー教授は日本軍「慰安婦」問題の研究など韓日関係にも精通していることで知られる。
 ツェルナー教授はこの日の毎日新聞インタビューでも「森を封鎖し、まったく平和的なメッセージを込めた追悼碑を取り壊す映像は、私を傷つけます」とし、「日本の評判を傷つけるでしょう」と述べた。数日間で数百人が署名に参加したことについては、「この問題が国際的に認知されているという重要な証拠」だと述べた。
 群馬県は、1月29日から県立公園「群馬の森」を閉鎖し、2004年に建てられた強制動員朝鮮人追悼碑の撤去を開始した。コンクリート壁についていた追悼碑の象徴である「記憶 反省 そして友好」と書かれた前面の碑文と、「かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する」という裏面の碑文がすべて除去された状態だ。この碑文は、追悼碑を建てて管理してきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」に渡された。守る会は追悼碑の再建を含め、どのように活用するかを議論する予定だ。追悼碑の撤去は11日まで続けられる。
 日本政府は、追悼碑の撤去は地方自治体の問題だとして立場表明を避けている。林芳正官房長官は、29日と30日の定例記者会見で追悼碑撤去に関する質問が相次ぐと、「地方自治体の決定事項であり、最高裁判所において判決が確定した事案であると承知しており、政府としてコメントすることは差し控えたい」と述べた。
東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-01-31 18:43


「The Hankyoreh」 2024-01-30 07:38
■[現場から]群馬県、フェンスで隠して「強制動員追悼碑」撤去…一言も言えない尹政権

【写真】群馬県は29日午前、高崎市にある県立公園「群馬の森」の裏門に縦2メートル、横20メートルの大きなフェンスを新たに設置して誰も接近できないようにしたうえで、強制動員され犠牲となった朝鮮人の追悼碑の撤去作業を始めた=高崎/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 29日午前、群馬県高崎市にある県立公園「群馬の森」の裏門には、縦2メートル、横20メートルの大きなフェンスが新たに設置されていた。その横には公園を取り囲むように鉄条網の垣根も新たに作られた。この日から始まる「強制動員朝鮮人犠牲者追悼碑」の撤去作業の現場にメディアと市民が接近するのを防ぐための群馬県の苦肉の策にみえた。撤去が始まる現場には数人の韓日の取材陣が集まっていたが、フェンスのせいで公園には入れなかった。追悼碑の撤去に使われるクレーンなどは前日の夜、奇襲的に公園に設置された。
 しっかりと準備を終えた群馬県は、20年間にわたって韓日友好の象徴的な役割を果たしてきた追悼碑の撤去作業を開始した。県の都市整備課の担当者は午前9時40分、碑の前で「これから行政代執行法の規定に則り、撤去および原状回復代執行を実施する」と述べた。取材用のヘリコプターを飛ばしていた毎日新聞の動画を見ると、県職員たちが碑の大きさを測る様子が確認できる。追悼碑は直径7.2メートルのコンクリートの円形の台の上の横4.5メートル、縦1.95メートルの碑石と、高さ約4メートルの金色の塔からなる。撤去は来月11日まで約2週間にわたって行われる。同期間には市内バスも「群馬の森」停留所には停車しない。
 追悼碑を建て、管理してきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会(以下「守る会」)」の藤井保仁事務局長(74)は「県も恥ずかしいことだと思って、隠して撤去するのではないか」と話した。藤井さんは「追悼碑の撤去は日本の犯した加害の歴史を消し去ろうとする行為だ。碑が撤去されても歴史を記憶、反省し、友好関係を作ろうとしてきた精神は受け継がれていくだろう」と強調した。林芳正官房長官は29日、碑の撤去について「群馬県がそのように判断したもの」として答弁を避けた。

【写真】群馬県立公園「群馬の森」にある強制動員朝鮮人犠牲者追悼碑=高崎/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 日本の市民社会は撤去に強く反発している。前日の28日午後には、日本全域から集まった数百人の市民が追悼碑の前で抗議集会をおこなった。一部は徹夜で座り込みもおこなった。彼らは「追悼碑の撤去は『朝鮮人強制連行はなかった』という右翼団体の歴史否定論に加担するもの」と批判した。日本の芸術家たちも、4300人あまりの賛同者を集めた追悼碑撤去反対の要望書を、26日に群馬県に提出した。
 SNSでも「#群馬の森朝鮮人追悼碑撤去反対」のハッシュタグを付けた抗議が続々とアップされている。撤去反対に積極的に取り組んでいる翻訳家のウエダユウスケさんは「山本一太(群馬県)知事は観光だとかで韓日は交流すべきと言いながら、友好を象徴する追悼碑は撤去するという、矛盾した行動を自ら取っている」と述べた。

【写真】群馬県の市内バスに、「朝鮮人追悼碑」撤去作業の行われる来月12日午前8時までは「群馬の森」停留所に停車しないとの案内が貼り出されている=高崎/キム・ソヨン特派員

 追悼碑の撤去の動きが強まったのは、安倍晋三元首相の政権復帰で日本の右傾化の流れが本格化した2014年からだ。県は、2004~2012年の市民の会の追悼式で「強制連行」という発言がなされたことに右翼団体が反発するなど、政治的な問題になったとし、「政治的行事を行わない」との約束に違反していると主張した。県はこれを理由として2014年7月、追悼費設置許可の更新を認めなかった。市民の会は訴訟を起こし、一審では勝訴したものの、最終的に敗訴した。県はこれを根拠として昨年4月に追悼費撤去命令を下し、市民の会が従わなかったため、この日、行政代執行を開始した。
高崎/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-01-29 17:29


「聯合ニュース」 2024.01.29 16:07
■群馬の「朝鮮人追悼碑」撤去始まる 韓国外交部「友好関係阻害しない解決を」
 金泰均
【ソウル聯合ニュース】群馬県が29日、日本による植民地時代に徴用された朝鮮半島出身者を追悼するため、県立公園「群馬の森」に設置されている朝鮮人追悼碑の撤去を始めたことについて、韓国の外交部当局者は記者団に「両国の友好関係を阻害しない方向で解決できることを期待している」との立場を改めて示した。

【写真】群馬県高崎市の「群馬の森」にある朝鮮人追悼碑=(共同=聯合ニュース)

 別の外交部当局者は23日に「韓日間で必要な意思疎通を行っている」として、同様の立場を表明していた。
 群馬県はこの日から来月11日まで碑の撤去作業を行う。
 碑は市民団体が2004年に建てた。日本語と韓国語、英語で「記憶 反省 そして友好」と刻まれている。碑の背面には「朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する」などと記されている。
 群馬県は14年、碑の前で開かれた追悼式典の参加者が政治的な発言をしたとして設置更新を不許可とした。団体は県を相手取り訴訟を起こしたが、22年に最高裁で団体の敗訴が確定した。


「中央日報日本語版」 2024.01.29 07:15
■日本市民「朝鮮人追悼碑の撤去は蛮行」

【写真】群馬県高崎市「群馬の森」公園内にある「朝鮮人追悼碑」。イ・ヨンヒ特派員
 「群馬の森公園内工事のため群馬の森は閉園となります。期間 自令和6年1月28日午後5時30分至令和6年2月12日午前8時00分」。28日午後、群馬県高崎市にある「群馬の森」公園。入口には公園の一時閉鎖を知らせる立て看板が置かれていた。公園を閉鎖する理由は公園内に設置されていた「朝鮮人追悼碑」撤去作業のためだ。
 翌日から始まる撤去工事を控え、この日追悼碑の前には撤去に反対する市民団体のメンバーら100人余りが集まって最後の追悼会を開いた。追悼碑を設置して管理してきた日本市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の石田正人代表(71)はこの日の行事で「この碑は歴史の生々しい証拠であり、日韓友好の象徴」としながら「県が市民の反対にもかかわらず、強制的に追悼碑を撤去するのは歴史に背を向ける蛮行」と声を高めた。
 縦1.95メートル、横4.5メートルの大きさでの追悼碑の前面には「記憶 反省 そして友好」という文面が日本語・韓国語・英語で記されている。裏面には「朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明」するという内容が刻まれている
 追悼碑が建てられたのは2004年。当時市民団体が日帝強占期の朝鮮から渡ってきた労働者の記録を調査し、当時群馬県内の鉱山や軍需工場などに動員された朝鮮人労働者が約6000人余りだったことを明らかにした。このうち約300~500人が命を失ったと推定された。市民団体は彼らを悼むために追悼碑を建設し、群馬県と「追悼碑の前で政治的集会を開かない」という約束を交わした。
 だが2012年の追悼行事で、ある出席者が「強制連行」に言及したことが問題になった。追悼碑の設置に反対してきた地域の極右団体はこの発言が「日本政府の見解と異なる政治発言」としながら県に撤去を要請し、県はこれを受け入れて2014年設置許可の更新を拒否した。市民団体はこれに従わないで提訴したが、2022年最高裁は設置更新を許可しない地方自治体の処分が適法だという判決を確定した。
 これに対し県は公園を全面閉鎖して追悼碑を撤去する行政代執行を実施する。日本全域に150カ所を超える朝鮮人関連の追悼碑があるが、地方政府が直接撤去に出たのは今回が初めてだ。
 この日の追悼式には右翼団体のメンバーが集まり、大声を出して妨害してにらみ合いが起きた。物理的衝突を防ぐため、警察約200人が動員された。
 撤去が始まった後も、市民団体は引き続き反対活動を行っていく考えだ。石田代表は「追悼碑の撤去に対して、韓国人と韓国政府も関心を傾けてほしい」と話した。
 撤去反対の動きは日本国内に拡散している。26日には追悼碑の存続を求めるアーティストが市民4300人分の署名を集めて県に提出した。


「中央日報日本語版」 2024.01.29 08:16
■「追悼費 撤去するな」と書かれたプラカードを持っている日本市民

【写真】28日、群馬県高崎市の「群馬の森」公園で市民が「追悼費 撤去するな」とか書かれたプラカードを持っいている。


「中央日報日本語版」 2024.01.27 10:20
■日本市民団体「群馬県、朝鮮人追悼碑を撤去しないで…歴史に背を向ける蛮行」
 日本市民団体が日帝強占期の朝鮮人労働者追悼碑を撤去しようとする群馬県当局に「歴史的事実に背を向ける蛮行」だとして撤去の中止を求めた。市民団体「強制動員真相究明ネットワーク」は26日、声明を発表し、「群馬県が追悼碑の撤去を代わりに執行するのは『強制連行はなかった』という歴史否定論者の嫌悪発言と嫌悪犯罪に加担することだ」と主張した。
 市民団体は「碑文には問題がなく、追悼行事も開かれていない」とし、にもかかわらず群馬県当局が碑石を撤去すれば法の趣旨に背く暴挙になると訴えた。そして「日本政府の歴史認識にも合致する文言がある追悼碑を強制撤去することこそ公益を毀損する」と強調した。
 群馬県当局は高崎市県立公園「群馬の森」にある朝鮮人追悼碑を12月までに撤去してほしいと市民団体「追悼碑を守る会」に要求したが、撤去されなかったため、29日以降に市民団体の代わりに撤去すると通知した。
 群馬県当局は29日-来月11日まで公園を閉鎖して撤去を進める方針だ。東京新聞によると、撤去に必要な費用は約3000万円という。
 追悼碑は日本の市民団体が朝鮮半島と日本の歴史を理解し、相互友好を増進させるために2004年に建てた。碑石の前面には「記憶、反省そして友好」と韓国語・日本語・英語で刻まれ、裏面には「朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する」という内容が記されている。
 これに先立ち2012年、群馬県当局は追悼碑の前で開かれた追悼行事で参加者が「強制連行」に言及した点を問題にして設置許可を更新しないことにし、日本最高裁は自治体の処分が適法だという判決を確定した。
 強制動員真相究明ネットワーク側は碑石の文言は植民地支配に対する反省とお詫びを表明した1995年の村山談話など日本政府の従来の歴史認識を反映していて、設置当時には群馬県議会が全会一致で賛成したと強調した。
 撤去に反対する芸術家らも追悼碑を存続させるべきだという約4300人の署名を集め、この日、群馬県に提出した。朝鮮人二重差別問題を扱った映画の監督、飯山由貴氏は記者会見を開き、「撤去が市民の表現の自由を奪い、朝鮮半島にルーツを持つ人々を傷つける可能性がある」と述べた。共同通信によると、署名には日本の有名ポップアーティスト奈良美智さんも参加した。


「The Hankyoreh」 2024-01-26 11:19
■[ルポ]撤去危機の群馬「朝鮮人追悼碑」…「韓日友好20年の象徴、なぜなくすのか」
 
 撤去を決定した群馬県に行ってみると

【写真】強制動員された朝鮮人犠牲者追悼碑を建て管理をしてきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の石田正人さん(71)が24日、「群馬の森」公園にある追悼碑について説明している=群馬/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 今月24日に訪れた、群馬県高崎市にある「群馬の森」公園。東京ドームの5.6倍の広さで、群馬の市民の憩いの場であるこの公園は、「朝鮮人強制動員」問題を巡る群馬県と地域の市民団体間の衝突で微妙な緊張感に包まれていた。これを表わすかのように、裏門の前には「工事のため1月28日午後5時30分から2月12日午前8時まで公園を閉園する」という内容の案内板がぽつんと立てかけられていた。市民が頻繁に訪れる広々とした公園が2週間ちかく閉鎖されるという異例の状況を迎えることになったのだ。
 公園の裏門から入って3分ほど歩くと、2004年に群馬県と地域の市民団体が力を合わせてようやく作った「群馬県朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑」が目に入った。群馬県は公園を閉鎖する期間に、建てられてから20年になるこの追悼碑を撤去する方針だ。日本全域に少なくとも150カ所以上の朝鮮人関連追悼碑があるが、地方自治体が直接撤去に出るのは今回が初めてだという。碑に刻まれた「記憶 反省 そして友好」という文字が悲しく見えた。
 この追悼碑を建てて管理をしてきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の石田正人さん(71)は「県が撤去に使う重機を持ち込むために木を伐った。ここまでしなければならないのか、本当に怒りが湧く」と語った。追悼碑は直径7.2メートルのコンクリートの円形台の上に、横4.5メートル、縦1.95メートルの大きさの碑石と高さ約4メートルの金色の塔で構成されている。空にまっすぐ伸びている塔と後ろの碑石は、縦に大きな穴が空いている。石田さんは「この穴は朝鮮半島に向かっている。群馬で犠牲になった朝鮮人の魂だけでも故郷に帰れたら、という気持ちが込められたもの」だと述べ、「撤去の過程で追悼碑は壊されるだろう」と憂いを見せた。

【写真】群馬の市民の憩いの場である「群馬の森」公園の裏門前には「工事のため1月28日午後5時30分から2月12日午前8時まで公園を閉園する」という内容の案内板が立てられている。県はこの期間に朝鮮人強制動員犠牲者追悼碑を撤去する方針だ=群馬/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 碑文には、日本が犯した植民地支配と侵略戦争を謝罪した「村山談話」(1995年)と、韓日関係の新しい道しるべとなった金大中(キム・デジュン)元大統領と小渕恵三元首相の「韓日パートナーシップ共同宣言」(1998年)の精神が反映されている。碑石の前面には「記憶 反省 そして友好」という文字がハングル・日本語・英語で書かれており、裏面には「かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し(中略)過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する」と書かれている。
 追悼碑が群馬県所有の公園に建てられることになったのは、29年前の1995年に遡る。日本敗戦50年を迎え、群馬の市民たちはこれまで放置されていた朝鮮人強制動員犠牲者などを調査するために「戦後50年を問う群馬市民行動委員会」を設立。群馬の鉱山や軍需工場などに朝鮮半島から強制的に動員された朝鮮人被害者は約6千人余りだと調査によって知られた。このうち300~500人余りが命を失ったと推定される。日本の市民たちは彼らの苦痛を悼み、未来に進むために追悼碑を「建てる会」を作った。在日コリアンも「総連」「民団」という分断と理念の壁を乗り越え、この運動に参加した。

【写真】強制動員された朝鮮人犠牲者追悼碑は、直径7.2メートルのコンクリートの円形台の上に横4.5メートル、縦1.95メートルの大きさの碑石と高さ約4メートルの金色の塔で構成されている=群馬/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 追悼碑を作る過程は当然容易ではなかった。市民たちは碑文に「朝鮮から強制的に連行」、「過酷な労働と悲惨な生活環境」など、より明確な表現を入れたかった。保守色の濃い群馬県は容易に応じなかった。長い調整の末、現在の文言に決まった。韓日友好の堅固な土台となった村山談話と、群馬県出身の小渕元首相が築き上げた「韓日パートナーシップ共同宣言」が基本的な骨組みになった。2001年6月、県議会の満場一致の同意を得て、この碑の設立が決まった。その代わり、保守世論を考慮して碑の前で政治的行事は行わないことにした。市民たちは少しずつお金を集め、2004年4月、今の位置に碑を建てた。除幕式には県と県議会、日本市民、在日同胞が大勢参加した。
 撤去の論議が始まったのは、第2次安倍内閣が発足した2012年からだ。「新しい日本を考える群馬の会」などの右翼団体が、2004年の除幕式から毎年行われてきた追悼式の新聞記事を調べ、発言者の表現一つひとつを問題視した。例えば「戦争中に強制的に連れてこられた朝鮮人がいた事実を記憶することが重要だ」などの発言が攻撃の的になった。右翼は「強制連行」は日本政府が認めていない内容だとし、追悼碑を作る際の「政治的行事を行わない」という約束を破ったと主張。そのため市民の会(「守る会」)は2013年から追悼式もできずにいる。2014年4月、「追悼碑10年許可」を延長しなければならない時期が近づくと、右翼はより露骨に動いた。
 東京都横網町公園にある「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」などの撤去を主張し続けてきた日本の右翼団体「そよ風」が提出した群馬県への追悼碑撤去請願を、2014年6月、自民党議員が多数だった県議会が採択する。待っていたかのように県は7月、追悼碑設置期間の延長不許可を決めた。その時から激しい法廷闘争が始まった。2018年の一審の前橋地裁では「守る会」が勝った。2021年、保守色の強い東京高裁で判決が覆された。市民の逆転敗訴だった。この判決は2022年の最高裁までそのまま維持された。県は昨年4月、追悼碑撤去命令を下すに至る。故・安倍元首相が始めた村山談話の毀損など「過去の歴史を消す」作業が日本最高裁の公認を受け、群馬県によって施行されているかたちだ。

【写真】強制動員された朝鮮人犠牲者追悼碑を建て管理をしてきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の代表らが24日午後、群馬県庁の記者室で記者会見を行っている=群馬/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 「守る会」は最後まで抵抗している。追悼碑撤去命令に反発して取り消し訴訟を起こし、来月7日に最初の弁論期日が決まった。集会、記者会見、声明書発表などを行い、連日世論に訴えている。だが、県はものともせず、今月29日から来月11日までの間に撤去するという「代執行命令」を「守る会」に送った。撤去に必要な費用約3千万円を徴収すると圧力もかけている。
 「守る会」で法律対応を担当している下山順弁護士は「追悼碑の撤去命令の取り消しを求める訴訟の1次弁論が決まったにもかかわらず、県が撤去を強行するのは暴挙だ」とし「右翼団体の要求を受け入れて追悼碑が撤去されるのは歴史的な退行だ。これが成功事例になり、日本各地にある他の追悼碑も攻撃の対象になりうる」と批判した。
 韓日関係にも悪影響を及ぼすものとみられる。「守る会」の藤井保仁事務局長(74)は「この追悼碑は過去の歴史を反省する中で日韓の友好を約束したシンボル。群馬県がこれを壊すということだ。歴史は消したからといって消されるものではない。追悼碑が撤去されたとしても、守る会は最後まで活動する」と強調した。
高崎(群馬)/キム・ソヨン特派員
韓国語原文入力:2024-01-26 08:40


「聯合ニュース」 2024.01.23 17:07
■群馬の「朝鮮人追悼碑」撤去危機に「友好関係阻害しない解決を」 韓国外交部
 金泰均 
【ソウル聯合ニュース】日本による植民地時代に徴用された朝鮮半島出身者を追悼するため、群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」に設置されている朝鮮人追悼碑が撤去の危機に立たされていることについて、韓国の外交部当局者は23日、記者団に「韓日間で必要な意思疎通を行っている」として、「両国の友好関係を阻害しない方向で解決できることを期待している」と述べた。

【写真】群馬県高崎市の「群馬の森」にある朝鮮人追悼碑=(共同=聯合ニュース)

 日本メディアによると、群馬県は碑を管理する市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」に対し、昨年12月までに撤去するよう求めたが応じなかったため、撤去する方針を固めた。
 碑は2004年に建てられ、日本語と韓国語、英語で「記憶 反省 そして友好」と刻まれている。碑の背面には「朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する」などと記されている。
 群馬県は14年、碑の前で開かれた追悼式典の参加者が政治的な発言をしたとして設置更新を不許可とした。団体は県を相手取り訴訟を起こしたが、22年に最高裁で団体の敗訴が確定した。


『民団新聞』 2019.04.17 
■「群馬の森」追悼碑訴訟…和解協議が難航'東京高裁

【写真】献花台に花を供える支援者(高崎市労使会館)

 【群馬】高崎市の県立「群馬の森公園」に設置された韓国・朝鮮人追悼碑「記憶・反省・そして友好」をめぐる東京高裁の和解協議が難航している。県は公園からの撤去を譲らない。一方、「守る会」は「旧陸軍の火薬庫があったこの場所に追悼碑が立っていることに意義がある」として一歩も退かない構えだ。
 和解協議は1月から始まった。「守る会」は追悼碑を守りたいため「追悼碑の前での集いでは県当局と事前に協議し、実施する。あるいは参列を求める」など4つの条件を提示した。しかし、県は問答無用の撤去に固執し、物別れに終わった。
 3月の第2回協議でも県側の基本姿勢に変わりはなかった。そのかわり、撤去にかかわる費用の負担と別の県有地の提供を提起してきた。これに対して「守る会」弁護団は「追悼碑を移しても保守系団体が納得しない、税金の無駄遣い」と反発して平行線のままだった。次回は5月15日の予定。
 弁護団長の角田義一さんは「県とは和解を望んでいる。決裂すれば判決は早い。むちゃくちゃな論理を主張する県を勝たせるには、裁判所としても論理の組み立てが大変だろう。だが楽観はできない」と気を引き締めている。
 追悼碑の設置は市民団体「朝鮮人・韓国人 強制連行犠牲者追悼碑を建てる会」の請願を受けて、県議会が全会一致で趣旨採択したことから始まる。県は2004年3月、「公園施設」のうち「教養施設(記念碑)」として設置を許可した。期間は10年間。ただし、「設置許可施設については、宗教的・政治的行事及び管理を行わない」という条件を付していた。
 市民団体は建立と同時に碑前で追悼式を行ってきた。ところが、12年ごろから碑文が「反日的」「自虐史観」などとする保守系団体の抗議の的となった。県側は「碑自体が紛争を起こしている」として守る会の設置期間の更新申請にも応じようとしなかった。
 一審の前橋地裁は「政治的行事が行われた」などとする県側の主張はおおむね認めたものの、追悼碑撤去については「裁量権の逸脱がある」として認めなかった。

◆屋内で追悼集会…民団からも献花「いつか碑の前で」
 「記憶・反省・そして友好」の追悼碑を守る会は6日、高崎市労使会館で第16回追悼集会を開催。日本人の支援者を中心に100人余りが駆けつけた。
 裁判のために追悼碑の建つ「群馬の森」以外で集会を開くようになって今年で8年目。角田義一共同代表は「群馬の森で慰霊祭を行うことが犠牲者の慰めになる。来るべき日には駐日韓国大使館から大使を追悼碑に招きたい」と語った。
 民団群馬本部の権在一団長は「追悼碑の前で集会が開かれる日の来ることを祈っている」と述べた。最後に全員が祭壇に献花した。
 1939年から始まった「募集」「斡旋」「徴用」などによる戦時強制動員は、群馬県だけでも6000人以上と推定されている。
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