三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「2024年春の海南島「現地調査」報告 15」

2024年05月31日 | 海南島近現代史研究会
  4月13日朝9時、海口人民公園に邢越さんと行った。そのなかの解放海南島戦役烈士陵園の入り口で許如梅さんの孫(邢勇さん)と会う約束をしていた。
 邢越さんとわたしは、6日前の4月6日に定安県雷鳴鎮の梅種村に行っていた。
 2010年5月23日、わたしは、許如梅さん(1918年~1943年)と周春雷さんの墓を訪ねた。許如梅さんの娘さんの符如来さんといっしょだった。2010年4月6日に海南省図書館ではじめて読むことができた王俊才・王広虎「堅貞不屈 浩気長存――憶周春雷、許如梅同志壮烈犠牲」(定安县委党史研究室編『烽火』1987年7月)には、
   「敵は許如梅の頭を切りとり、続いて周春雷の頭を切って、梁安利に担がせて、雷鳴墟まで運ばせ大勢の
  人にみせた」
と書かれていた。
 2010年5月23日の13年あまりのちの2024年4月6日には許如梅さんの墓には、墓石が無くなっていた。
 2015年8月に許如梅さんの墓石が、海口人民政府によって解放海南島戦役烈士陵園の中の海南革命烈士纪念碑のそばに新しく建てられた。
 邢勇さんにそのいきさつを聞いた。邢勇さんは、
   “梅種村で殺された祖母の遺体は、村人が土葬してくれた。祖母を殺した日本軍は、祖母の首を切って定安に運び、
  日本軍基地の門にぶら下げたという。その後、その行方はわからない。梅種村に埋められた祖母の遺体は、まもなく
  近くの別の場所に埋めなおされたという。2015年に祖母の墓が海口に新しくつくられたとき、もとの墓石は、破棄さ
  れた。そのとき遺骨がみつからなかったので海口の新しい墓石の下に梅種村の墓石の下の土の一部を埋めた。 
   祖母の墓を海口に新しくつくることにわたしは反対だった。しかし、母はそれを望んだ。
   わたしは、祖母の墓が梅種村に存在することが歴史の事実を鮮明に示すことだと考えている"
と話した。
 日本海軍の1943年3月1日現在の「陸上部隊兵力配備要図」には、定安守備隊本部に「駐屯」していた日本軍将兵は72人となっている。
 海口人民政府があたらしくつくった「許如梅烈士之墓」の5行の碑文の末部には「一九四三年春光栄犠牲」と書かれているだけである。 
 2013年3月に邢越・邢飛編著『読解海南邢氏歴史』を出版しており、邢越さんは2019年7月に海南出版社から『海南邢氏歴代宗譜碑銘文輯』を出版している。

 10時半すぎに解放海南島戦役烈士陵園の出口で邢勇さんと別れ、南海出版公司に人たちとの話し合いの場に行った。
 2015年8月に、南海出版公司は、海南島省文化交流促進会編『真相 海南島近現代史研究会 海南島17年(27次)調査足跡』を出版していた。2014年秋から、海南島近現代史研究会は海南島訪問の際に南海出版公司の人たちと話し合ってきたが、新型冠状病毒肺炎の激しい流行のため2018年10月以後中断していた。
 4月13日にようやく会うことができた。
 2時間あまりの凝縮した時間のなかで、
 【一】石馬村と昌美村の追悼碑建立への南海出版公司と海南島近現代史研究会の共同協力、
 【二】佐藤正人が2024年秋に出版する『海南島近現代史研究』の漢語版を南海出版公司が出版する件、
 【三】張応勇さんの遺稿集の出版、
 【四】紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会が1998年からこれまで25年間海南島で記録してきた映像などの整理・管理・活用・保存、
などが具体的に話し合われた。 
 
 午後9時55分海口発(ホンコン経由で日本に)。

                                    佐藤正人
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「2024年春の海南島「現地調査」報告 14」

2024年05月31日 | 海南島近現代史研究会
 2024年4月12日朝8時、海口の旅館を出発して、海口市石山鎮玉榮村に行った。
 出会った村人の呉淑河さん(1950年生)に“迷人洞”に案内してもらい、話を聞かせてもらった。“迷人洞”は火山岩の割れ目にできた迷路のような細長い洞窟群で、1939年2月10日に日本陸海海軍が12キロ足らず離れた北方の天尾村海岸奇襲上陸したあとまもなく石山鎮に侵入してきたとき、村人たちは洞窟に逃げ込み、追跡してきた日本兵に抵抗しぬき、日本兵を撤退させたという。
 呉淑河さんの家のそばの崖下に“迷人洞”の入り口のひとつがあり、子どものとき長い洞窟の奥まで入って遊んだという。その洞窟の入り口はいまは大きな樹と密集した草に覆われていて見えなかった。 
 その近くに住む呉鐘齋さん(1972年3月生)の家のそばの崖下に別の洞窟の入り口があるというので、案内してもらった。2メートルほどの崖を降りてから崖沿いに20メートルほど進んでいくと洞窟の入り口があった。草や灌木に覆われた道を呉鐘齋さんが大鉈で切り開いてくれた。洞窟の入り口は狭く、わたしには入れなかった。奥を覗くと下方に深く降っていく道が見えた。
 『海南日報』2013年7月5日号に「“迷人洞”里的抗日槍声」と題する記事が掲載されている。

 玉榮村から、天尾村に向かった。 
 2003年3月31日に、わたしたちは、はじめて海南島侵略日本軍が最初に上陸した地点である天尾村に行った。天尾海岸には、対岸の広東省雷州半島の徐聞との間の列車を載せたフェリーが発着する新しい大きな埠頭がつくられていた。3月2日に、海南島三亜と広東省広州との間の粤海鉄道の正式運行が始まったばかりだった。天尾村の住所は、海口市秀英区新海村に変わっていた。
 新海港埠頭から東に1キロほど、海岸線から百数十メートルほど離れたところに、天尾村の旧街区があった。そこで、わたしたちは、当時のことを知っている人たちから話を聞かせていただいた。
 旧街区の入り口の小さな広場に座り込んでいた女性(名前を聞きとれなかった。文字は書けないという)は、
   「日本軍が来た時32歳。このあたりで物を売っていた。今は94歳。去年までならまだしっかり話せただろう。
    子どもをおなかに抱えていたとき、日本軍が来た。とても恐ろしい思いをした。魚を天秤棒で担いでいたのだが、
   日本軍が敬礼をしろと言って、できなかった。そうしたら、ひざまづかされて、おなかを棒で殴られた」
と話した。そのそばで、王乃深さん(1911年生)は、
   「日本軍が来たとき、山の中に逃げ込んだ。日本軍は敬礼をしないと殴った。日本軍は天尾村の人たちに
   娘を出せと言った。娘たちにひどいことをした」
と話した。
 林克良さん(1918年生)は、旧天尾村の自宅で、つぎのように話した。
   「日本軍が上陸する前、2~3日に1回、飛行機が海面すれすれに飛んでいた。船もきて、測量していた。天尾
   の海は浅いから、上陸地点を探していたのだろう。日本軍が上陸してくると、みんな山の中に逃げ込んだ。
   馬も一緒に来た。国民党軍が30~40人ほどいたが、日本軍が来ると逃げてしまった。
    日本軍は、子どもも年よりも殺した。わたしは、父が殺されるところを見た。後ろから3発撃たれた(左肩あたりを指す)。父は牛を飼っていた。村びとがたくさん死んだ。日本軍は女性を強姦した」。
 1939年2月9日(農暦1938年12月21日)夜9時過ぎ、天尾沖に、日本軍の艦船が侵入し、10日未明から、日本陸軍部隊が、天尾海岸に上陸し始めた。
 明るくなってから、村びとが海を見ると、日本の軍艦47隻が沖に停泊し、数えきれないほどの上陸用艇が海岸と沖合いの軍艦の間を往復していたという。はじめ兵士が上陸し、つづいて武器、弾薬、馬、食料が陸揚げされた。
 1月13日に、天皇ヒロヒト、総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣らは、海南島侵略を最終決定し、1月17日に、大本営陸軍部と海軍部は、「二月上中旬ノ頃」に海南島北部を共同で占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んでいた。日本陸海軍合同の海南島奇襲攻撃は、1月13日のヒロヒトの「裁可」を前提にして計画的に実行された。
 2003年1月7日に海南島と対岸の雷州半島をむすぶ「粤海鉄道輪渡」の 連絡船 が運航を開始してから、天尾村に人家は無くなっていった。天尾村という地名も無くなり、天尾村のあったところに新海港埠頭ができていた。

 2024年4月12日午後、新海から海南省図書館に行った。この日は金曜日なので午後は休館で入館できなかった。
 すぐ近くに海南省史志館という名の大きな建物ができていた(2020年4月末開館。地上3階、地下1階。建築総面積9160平方メートル)。「史志館」というが海南島史にかんする史資料は、ほとんど入館者に公開されていない。地下 1階の「資料庫」で係員に海南島近現代史にかかわる基礎文献の何冊か閲覧を申し込んだが半時間後に“検索しても資料庫には見つからない”と言った。
 海南省図書館の地方文献室には海南島近現代史にかかわる多くの史資料が公開されている。これまで、わたしは海南省図書館20数回かよったが、海南省史志館を再訪することはしばらくはないだろう。

 午後4時に南沙路 の新華書店に行って、『陵水黎族自治県革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『澄邁県革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『陵水黎族自治県革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『儋州市革命老区発展史』(海南出版社、2020年4月発行)、『昌江黎族自治県革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『東方市革命老区発展史』(海南出版社、2020年4月発行)、『三亞市革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『中国共産党海南歴史 第一巻(1921ー1950)』(中共出版社、2021年3月発行)、『陵水黎族自治県革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『崖州民歌教典選本』(南方出版社、2018年3月発行)、『臨高哩哩美漁歌教典選本』(南方出版社、2018年3月発行)、『黎族民歌教典選本』(南方出版社、2018年3月発行)、『瓊崖紅色故事 定安巻』(海南出版社、2019年11月発行)、周仁清『民国瓊崖報刊研究』(文化芸術出版社、2022年12月発行)などを購入した。
 夕刻、海口市内の旅館に戻った。

                                  佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 13

2024年05月28日 | 海南島近現代史研究会
 4月11日朝8時、舖前の旅館(「海居日記」という名)をでて、かつての中央通りの坂道(老街)を通って舖前港に向かった。老街は20年前と大きく変わっていた。むかしあった建物の多くが無くなっていた。港に向かって左側にあった日本海軍の司令部の建物も無くなっていた。
 かつては、舖前港と対岸をむすぶフェリーが運航していたが、いまは舖前湾に舖前湾海大橋(2019年3月18日開通。全長5.597キロ)がかかっている。
 その橋をわたり、海口市内に入って海南環線高速道路の澄邁県福山出口を出て北上し、澄邁県橋頭鎮の理善村に行った。理善村には日本海軍陸上部隊の司令部があり1943年3月の時点で日本兵25人が「配備」されていた。
 理善村の名は新興村に変わっていた。新興村では、かつての日本侵略軍の「駐屯地」の位置を知っている人に出会うことはできなかった。
 理善村から、西方の臨高県の臨高角に向かっった。臨興角の近くに中共臨高県委員会・臨高県人民政府が2017年12月22日に設営した臨興角登陸戦烈士紀陵園」があった(2005年設営工事開始)。
 臨興角登陸戦烈士紀陵園」の近くに「海南解放公園」があり、その門を入ってすぐ左に「解放海南島渡海戦役紀念館」があった。      
 「海南解放公園」の奥の中央に「熱血豊碑」と名付けられた18・95メートルの「革命紀念雕像」が建てられていた。 中共海南省委員会・海南省人民政府が1995年5月1日に建設したものだった。
 人民解放軍は、1950年4月16日夜、雷州半島 からの海南島上陸作戦を開始した。人民解放軍は318隻のジャンク船で海南島に上陸しようとした。中華民国軍の爆撃機と大型軍艦により多くの船が撃沈された。そのとき人民解放軍のジャンク船を先導していた雷州半島 から漁民の多くが犠牲になった。5月1日に中華人民共和国は勝利を宣言した。 
 しかし「熱血豊碑」の「雕像」のなかに雷州半島 の漁民の姿はない。
 「解放海南島渡海戦役紀念館」の近くに、2007年8月1日に建てられた「四十軍海南島戦役犠牲烈士紀念碑」と「四十三軍海南島戦役犠牲烈士紀念碑」があった。そこには、「海南島渡海戦役」の時に戦死した人民解放軍四十軍の兵士800人以上の名と四十三軍の兵士3500人以上の名前が刻まれていた。
 午後6時に「海南解放公園」をでて、臨高市内に行き、臨高文史政協辦公室の研究者だった王碧中さんに12年5か月ぶりに会って話をした。
 9時ころ海口の旅館に入った。
                             佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 12

2024年05月24日 | 海南島近現代史研究会
 2024年4月10日朝8時半、 大至坡を発って海口市三門坡鎮大水村を訪ねた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会として27回目、海南島近現代史研究会として14回目の海南島「現地調査」のとき、2015年4月6日に、わたしたちは、はじめて大水村を訪ねた。
 わたしたちは、それまで、海南島で、「大水戦闘」について、なんどか話を聞いていた。2013年11月1日に、文昌市東閣镇红星村委会林村村で符策淮さん(1932年生)は、
   「陳在順と陳在利。ふたりは兄弟で瓊山大水戦闘のときに殺された」
と話した。
 2013年11月2日に、文昌市南陽鎮金花村で龍碧玉さん(83歳)は、
   「ふたりの兄が革命死した。国民党との大水戦闘のとき、国民党に囲まれて犠牲になった。兄の名は、
   龍レンム、2番目の兄。龍コタッ(哥仨)、3番目の兄。革命に参加してすぐだった」
と話した。
 「大水戦闘」のときに死亡した国民党軍将兵の数は明らかになっておらず、その名前もほとんど明らかにされていない。
 海南抗戰卅週年紀念會編印『海南抗戰紀要』(文海出版社〈台北〉、 1980年2月刊?)に掲載されている「瓊崖抗戰殉難軍民姓名表」に、大水村で戦死した3人の名前と略歴が、つぎのように記されている。
   「士泉 年齢:三一、籍貫:高要縣、職別:少尉排長 卅一年一月廿四日在瓊山縣龍發大水村抗敵陣亡」、
   「符春榮 年齢:一九、籍貫:儋縣、職別:中士班長 卅一年一月廿三日在瓊山縣龍發大水村抗敵陣亡」、 
   「楊伯英 年齢:三一、籍貫:雷州、職別:中士班長 卅一年在瓊山縣大水村抗敵陣亡」。

 中国共産党海南省委党史研究室編『海南英烈譜』(海南出版社、2000年12月) に抗日戦争時期に海南島で倒れた英烈7981人の名前と略歴が個別に記されている。 『海南英烈譜』に名前と略歴が記されている「大水戦闘」のときに戦死した共産党軍の兵士は、403人である。
 2011年10月に海南省人民政府によって整備された大水村の「大水革命烈士陵園」の背面の大型の56枚の人工石に刻まれている「大水戦闘英烈名録」に示されている「大水戦闘」のときに戦死した共産党軍の兵士の氏名は、346人である。「大水戦闘英烈名録」は、厳密な調査によって作成されたとは信じがたい。
 「大水革命烈士陵園」の入り口に2011年10月に建てられたと思われる「大水戦闘簡介」に「殲敵近千人」(「敵〈国民党軍将兵〉を約1000人殲滅した」)と書かれているが、この数字の根拠は示されていない。「大水戦闘簡介」には共産軍兵士の戦死者の数は書かれていない。

 2014年11月24日に、大水村で生まれ育ち「大水戦闘」のとき数え年で8歳だったという雲維召さん(1935年生)に長時間話を聞かせてもらい、大水村の村内と近くの羅馬嶺の日本軍の望楼跡などに案内してもらうことができた。
 「大水戦闘」のときの犠牲者は、共産党軍の犠牲者も国民党軍の犠牲者も、いっしょに村人が大水村のはずれの石切り場の穴に埋葬したという。その現場は、数10年まえにつくられた貯水池のそばであった。深い穴だが、遺骨が残されたまま、いつか水没するかもしれない。
 共産党軍と国民党軍の「大水戦闘」を傍観していた日本軍は、「大水戦闘」のあと、まもなく、近隣の龍發、龍發嶺、龍馬坡、東路などに守備隊本部を設営し望楼・兵舎をつくった。日本海軍の『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」(1943年3月1日現在)には、龍發守備隊の兵員数は41、龍發嶺守備隊の兵員数は8、羅馬坡守備隊の兵員数は84、東路守備隊の兵員数は52と書かれている(羅馬坡は龍馬坡の誤記だと思われる)。
 龍馬坡守備隊の望楼跡は、胡椒畑やゴムの樹の林になっていた。望楼のそばに「慰安所」があったという。日本軍が望楼をつくるとき、大水村の村民も働かされ、少年だった雲維召さんも雑用をさせられたという。
 雲維召さんは自宅で、共産党軍の兵士がくれたものだと言って、「大水戦闘」で亡くなった兵士がもっていたという金属製のラッパをみせてくれた。

 「大水戦闘」は、日本侵略軍が、海南島の各地で民衆虐殺・村落破壊、資源掠奪をくり返していた時期の中国国民党軍と中国共産党軍の「戦闘」であった。
 この「戦闘」のとき、中国共産党海南省委党史研究室の文書によっても403人という多数の共産党軍の兵士が命を失っている。
 「大水戦闘」にかかわる歴史事実をすこしてもはっきり知ろうとして、わたしは、2015年以後も何度も大水村を訪ねた。

 中共海南省委党史研究室著『中国共产党海南历史(第一卷)』(中共党史出版社、2007年9月出版)は、1995年8月に出版された中共海南省委党史研究室编著『红旗不倒――中共琼崖地方史』を修訂再版したものである。この修訂作業は2005年7月に開始されていた。『中国共产党海南历史(第一卷)』第三编 抗日战争时期(1937年7月—1945年8月)、第十六章 坚持抗战、团结、进步的方针、四 打退国民党顽固派的反共逆流には、「大水戦闘」における共産党軍兵士の犠牲者にかんして、なにも記述されていない。
 以下は、『中国共产党海南历史(第一卷)』に掲載されている「打退国民党顽固派的反共逆流」の「大水戦闘」にかんする記述の全文である。
  年底,国民党顽固派调集保安第六、七两个团的主力,连续向琼文抗日根据地进犯,大有与独立总队进行主力决战之势。12月下旬,保七团二营营长李紫明率领该营及文昌、琼山县游击大队,分两路向道崇、咸来乡进攻,然后进入文昌县的锦山海边接运国民党从广州湾运来的军用物资,但进攻一开始就被独立总队击退。1942年1月17日晚,李春农部队及民夫数百名与李紫明会合,再度向锦山进军。独立总队部侦悉顽军意图,当即命令第一、二支队预先在顽军必经之路的三江乡斗门村公路附近设下埋伏,准备歼灭顽敌。次日下午,顽军进入埋伏地段,第一、二支队将其包围在斗门村。顽军且战且向文昌方向的路口撤退,李春农在败退时被第二支队第七中队机枪手黄可则击中落马而死。
  李春农被击毙后,顽军在保七团二营营长李紫明带领下进入锦山,将其补给物资运回,企图尽快退回他们的巢穴潭文、甲子。但是独立总队紧紧前堵后追,使其不能脱身,最后不得不退入树乡大水村固守。第一、二支队也随即合拢,将大水村团团围住。冯白驹亲临阵地,与吴克之、马白山两位支队长一起,直接指挥大水的围攻战。上千顽军被围困在大水村里,凭借着优势火力,据险作困兽斗。第一、二支队由于没有攻坚武器和打攻坚战的经验,未能乘顽军立足未稳,迅速攻击歼之,而只是采取围困战术迫其投降,以致给顽军造成喘息的机会。李紫明利用电台向顽军司令部呼救,司令部电令李紫明“坚守待援”。第一、二支队紧紧包围了大水五天四夜,仍解决不了战斗。26、27日,保七团副团长董伯然率领所部第一、三营和琼山、文昌两县国民党游击队驰援,被击退。28日又调集保六团第三营、叶丹青游击总队以及琼东、定安等县的游击大队,共3000余人,再次驰援。第一、二支队为迎击援军,不得不减轻了围困大水兵力,使李紫明部乘机突围,与来援顽军会合。第一、二支队随即集中力量,穷追猛打,两部顽军不敢恋战,且战且退,溃不成军。经过五天四夜的激战,第一、二支队大量杀伤顽援军,但由于既要打围又要打援,弹药消耗过大,因而撤退。
  斗门、大水战斗,是琼崖独立总队与国民党顽军的一次主力决战,虽未达到全歼顽军主力的目的,但少将副司令李春农被毙,董伯然受重伤,毙伤军官10余人,士兵近千人,给保安第六、七团以歼灭性的打击。从此,琼崖国民党顽固派再也没有能力向独立总队发起大的攻势。大水战斗,根据地成万群众参战支前,他们冒着生命危险,把饭团、开水源源不断地送上前线阵地。他们挑着椰子、米粽、牛猪肉、鲜鱼、甘蔗、芭蕉、红烟丝等冒着枪林弹雨前来劳军,在围村的堑壕里,在打援的阵地上,到处都有根据地群众组织的挑架队、运输队、救护队和缝洗队,劳军物资堆积如山。这次战斗,规模之大,战斗之激烈,战斗时间之长,在琼崖革命斗争史上是空前的。顽军在斗门、大水战斗的惨败,促使国民党顽固派领导集团之间的矛盾、斗争加剧,吴道南、林荟材、杨永仁、冯熙周、李紫明等被迫去职,调离琼崖,各县的顽固分子对“反共灭独”逐渐失去信心。至此,琼崖国民党反共顽固派掀起的反共逆流被彻底击退。

 张一平・程晓华著『海南抗日战争史稿』(南方出版社・海南出版社、2008年4月)では、「大水戦闘」については、「第三章 海南国共两党的合作与摩擦」に、「1942年1月、独立总队与顽军在琼山大水展开了自内战以来最大的一次战斗、歼敌400余人」と書かれているだけである。

 李芳著『琼崖革命简史』(中国社会科学出版社、2013年8月出版)の第五章は「共御外侮――日军侵琼与琼崖国共合作」(一 琼崖沦陷:日军侵琼及其残暴统治、二 共赴国难:琼崖国共合作抗战局面的形成、三 击退逆流:琼崖国共之间的斗争)であるが、「大水戦闘」についてはまったく述べられていない。

 1984年に制作が始められ1986年9月に出版された瓊崖武装闘争史辧公室編『瓊崖縦隊史』(広東人民出版社)の第二编 抗日战争时期 (一九三七年七月至一九四五年八月)、第七章 坚持团结抗固 打退反共逆流、第二节 打退反共逆流,巩固琼文抗日根据地、四 斗门、大水战斗胜利,国民党反共逆流被打退に、「大水戦闘」は、共産党軍が国民党軍を「猛烈阻击」することによって開始され、国民党軍兵士が数百人、共産党軍兵士も数百人死亡したと書かれている。
 しかし、日本軍が海南島各地で住民虐殺、掠奪をくりかえしていた時期に、共産党軍が大水村で国民党軍攻撃を開始したことによって、双方の兵士が数百人も犠牲になった事実の総括はなされていない。当時、国民党軍も共産党軍も、日本侵略軍と戦いつづけていた。
 以下は、『琼崖纵队史』に掲載されている「斗门、大水战斗胜利,国民党反共逆流被打退」の全文である。 
  琼崖特委和独立总队部在领导根据地军民反击顽固军多次进攻并取得胜利的同时,坚持以民族利益为根本,继续积极地向琼崖国民党当局开展团结抗日的工作,指出:只要国民党当局停止反共内战,转变反共立场,改变反共政策,共产党和独立总队将既往不咎,和国民党团结一致,共负抗日救乡的神圣使命。一九四一年七月,特委和总队部又采取局部谈判的方式,派出代表与李春农商谈。但李春农毫无诚意,提出苛刻要求,要独立总队“悔过自新”, “听候收编”,并杀害了谈判代表联络员卢赤民,终止了谈判。同年十月,琼崖特委又向吴道南、王毅发出了公开信,重申我党团结抗战的主张,提出解决两党争端的意见,要求他们答复,重开谈判,但又遭到拒绝。由于国民党顽固派顽固坚持反共的立场,我党只好针锋相对,对其挑起的反共逆流给予坚决的回击。
  十二月间,琼崖国民党顽固派又从广州湾运回一批军用物资到文昌县锦山乡海边。他们为了尽快得到这批物资,便假意函请我军派人前往谈判。我特委和总队部虽早巳识破其奸,但仍不放弃共同合作抗日的一线希望,于是一方面答应同他们谈判,一方面作好迎战部署,随时准备给敢于进犯之敌以痛击。顽军迫不及待地要打通运输线,谈判尚未进行,便令保七团第二营营长李紫明率所部从驻地青草村向我咸来乡进犯,我一、二支队在咸来地区击溃了顽军。第二支队第二大队长林茂松在一九四二年一月十二日的战斗中牺牲。李春农急于打通运输补给线,又于一九四二年一月十七日晚上,亲自率领第二营及团部特务连、保六团第九连和五百多名民夫,配有无线电台,乘夜行军,经琼山县三江乡,向文昌县锦山乡海边进发,接取其军用物资。我一、二支队获得消息后,于次日下午将顽军包围在斗门村。顽军且战且向文昌方向的路口撤退,李春农骑马逃窜,被我第二支队第七中队机枪手黄可则击毙,为琼崖人民除了一大祸害。
  反共老手李春农被击毙后,顽军在保七团二营营长李紫明带领下窜到锦山,将其补给物资运回。冯白驹命令一、二支队分头伏击顽军于归途。一支队布阵于咸来乡的大水村一带路口,二支队布阵于三江的公举道路。一月二十三日夜间,李紫明带着六个连和民夫约九百余人,果然从锦山经金堆而来,企图偷越我根据地的咸来乡大水村,奔赴潭文。二十四日拂晓,当顽军抵达龙马坡一带时,我一支队给予猛烈阻击,顽军拚命越过冲湖桥,退入大水村固守,与我激战。我二支队从公举回大水村配合一支队将大水村严密包围。经一天的攻击,顽军被压缩在几栋坚固的房屋里,固守待援。我军由于对敌情估计不足,没有攻坚武器和打攻坚战的经验,未能乘顽军立足未稳,迅速攻而歼之,而是采取围困战术迫其投降,以致给敌人造成了喘息的机会。李紫明拍电报求援。二十六、二十七日,敌保七团副团长董伯然率镇所部第一、第三营和琼山、文昌两县反动游击队来援救,被我击退后,又于二十八日调集保六团第三营、叶丹青游击总队以及琼东、定安等县的游击大队,共约三千余人,再来救援。我打援的部队奋起抗击,经过五天四夜的激战,大量杀伤顽援军。但我军既要打围又要打援,弹药消耗大,难予继续坚持战斗,因而撤退。
  大水战斗,有成万群众参战支前,规模之大,战斗之激烈,战斗时间之长,在琼崖革命斗争史上是空前的。顽军伤亡数百人,我也伤亡数百人,第一支队二大队长蔡文琴在战斗中牺牲。这次战斗,我军虽然未达到全歼顽军之目的,但在斗门战斗击毙了国民党琼崖守备副司令兼保安第七团团长李春农后,又把顽军主力营李紫明等六个连围困了五天四夜,毙伤其数百人,给予了国民党顽固派以沉重打击。为了掩盖其失败的丑相,一九四二年二月七日,敌保六团团长林荟材带领所属部队和游击大队进犯我琼文根据地,大肆屠杀、抢掠。
  琼崖国民党顽固派挑起反共内战的失败,加剧其内部的互相倾轧。第九区行政督察专员吴道南、琼崖守备副司令文乃武、保六团团长林荟材、文昌县县长杨永仁和反动政客冯熙周等一批军政头目,先后被撤职或免职调离琼崖。至此,国民党顽固派掀起的反共逆流被我打退。
  我军经休整和补充兵员、装备之后,第一支队向琼山的旧州、益来等乡开展工作,进驻彰榜村。顽军保七团调集兵力向我进攻,经过一个多小时的激战后,被我击退。我副支队长黄大猷在指挥战斗中英勇牺牲。随后,第一支队和第二支队一起向顽军的老巢潭文、甲子一带地区进军,袭击顽军教导队、后方医院和国民党区、乡公所,毙、伤、俘敌数十人。
  一九四二年春天,第一支队第三大队在大队长陆和、政委张世英率领下,奉命从琼山县东部调往西部,第三大队西进后,从第二区常备队中抽调一部分战士充实了建制,与二区常备队紧密配合,伏击和袭击日军小分队和日伪军据点,打击土匪,同时还配合当地党政组织,在琼山县二区建立除奸队,杀掉一批日本秘密稽查和投靠日本的反动村长,并秘密指派一些共产党员和进步群众打入日伪组织,搜集日伪情报,使琼山县西部地区抗日斗争进一步引向深入,创建了抗日游击根据地。一九四二年四、五月间,日军纠集二百多人从梁沙、十字路、美万铺三个方向向我三大队和二区常备队驻地进攻。我军灵活机动地与敌周旋,寻机歼敌,歼灭了梁沙(现琼山新坡墟)伪维持会和伪军一个小队,缴枪二十多支。此外还击溃顽军向我琼山西地区的进犯,巩固与发展琼山县二区、儒万山一带的抗日根据地,并向澄迈县三区推进,沟通了琼文根据地与澄迈根据地之联系。

 『海南英烈譜』に呉笃修さんは、「海南澄迈县白莲镇孝友村人。中共党员,1939年参加琼崖抗日独立总队,在第四支队第二大队任小队长。l943年在琼山县咸来乡大水村作战牺牲」と記録されており、劉忠财財さんは、「琼东县修智乡(今琼海市长坡镇)良玖村人。1940年参加琼崖抗日游击队独立第一总队。l942年11月在琼山县大水战斗牺牲」と記録されているが、「l943年」は「1942年」の、「1942年11月」は「1942年1月」の誤記だろう。
 陈秋川さんは、「海南省琼山市大致坡镇高林村委会排城村人。中共党员。1927年初参加农民赤卫队,后为琼崖抗日独立纵队第一支队战士。1945年初在琼山县大水村被敌人杀害」と記録されている。「1945年初」は「1942年初」の誤記とも思われるが、断定できないので、陈秋川さんは403人に加えなかった。
 『海南英烈譜』には、
    「洪多充 (1932—1942) 琼东县笃礼乡(今琼海市大路镇)美容村人。1940年参加琼崖抗日游击队独立第一
    总队。1942年1月在琼山县大水战斗牺牲」
と記録されているが、洪多充さんが生まれたのが、1932年というのが事実なら、大水村で戦死したときは、9歳だったことになる。洪多充さんの生年は、誤記ではないか。
 『海南英烈谱』の编者「后记」(2000年12月)には、つぎのように書かれている。
   「《海南英烈谱》一书,是中共海南省委党史研究室为纪念海南解放50周年、中国共产党成立80周年,于
   l999年3月经中共海南省委同意正式决定编写的。
    本书在中共海南省委、海南省人民政府领导同志的关心、支持下,在省委常委、秘书长钟文的直接指导
   下,由省、市县党史研究室(史志办)通力合作,经编委会和撰稿者一年多的共同努力,终于得以与读者见面。
    ………………
    本书所收的英烈原则上为县级以上人民政府或解放军部队正式追认的革命烈士(包括在外省参加革命的
   琼籍烈士及在海南牺牲的非琼籍烈士),时间跨度为l919年五四运动至2000年底。英烈的排列以姓氏笔画
   为序。全书按市县分为l9个分卷,各分卷收录的原则是,哪个市县颁发的烈士证书,收入哪个市县分卷;由
   海南军区颁发烈士证书的,收入海口市分卷。由于年代久远,加上资料方面的原因,书中遗漏、错讹之处在
   所难免,诚请读者和知情者指正,以便将来本书再版时修订」。

 『海南英烈谱』は再版されておらず、誤記は訂正されていない。

 1999年7年に出版された中国共産党琼山市委党史研究室编『琼山革命丰碑』には、「大水戦闘」は、共産党軍(抗日独立総隊)が馮白駒総隊長の指揮下で国民党軍を包囲攻撃して開始され、国民党頑固派が引き起こした「反共逆流」に「有力」な打撃をあたえた、と書かれている。
 しかし、指導部が「大水戦闘」を発動することによって、19歳以下の50人をこす少年兵・少女兵を含む400人以上の共産党軍兵士が犠牲になった事実の総括はなされていない。
  
 1999年7年に出版された中国共産党琼山市委党史研究室编『琼山革命丰碑』には、「大水戦闘」は、共産党軍(抗日独立総隊)が馮白駒総隊長の指揮下で国民党軍を包囲攻撃して開始され、国民党頑固派が引き起こした「反共逆流」に「有力」な打撃をあたえた、と書かれている。
 しかし、指導部が「大水戦闘」を発動することによって、19歳以下の50人をこす少年兵・少女兵を含む400人以上の共産党軍兵士が犠牲になった事実の総括はなされていない。                                       
 以下は、『琼山革命丰碑』の「 二、重大事件篇 三十九 大水战斗――琼崖武装斗争最大规模的战例」の全文である。
  1940年12月,琼崖国民党顽固派置于民族利益于不顾,不抵抗日本侵略军,却掀起一次以进攻我根据地为主要目标的反共逆流,发动进攻我美合根据地。琼崖特委与总队部撤出美合东返琼文抗日根据地,并向国民党当局发出呼吁:从琼崖300万人民的利益出发,停止内战,实现团结,共同抗日。但国民党当局置之不理,并派其军队尾追不舍。琼崖总队迫于无奈曾在琼山的罗蓬坡、斗门等地奋起反击,跟国民党军队连续作战多次。于1942年1月24日至28日,抗日独立总队一、二支队在冯白驹总队长的指挥下,在琼山咸来的大水村将国民党保七团二营营长李紫明带领到沿海一带接军火归来的六个连包围,经一天的攻击,顽军被压缩在几栋坚固的房屋里,固守待援。我军由于对敌估计不足,又没有攻坚武器,未能乘敌立足未稳,迅速攻而歼之,而是采取围攻战术迫其投降,以致给敌人喘息机会。敌被围后急电求援。二十六、二十七日,敌保七团副团长董伯然率领所部第一、第三营和琼山、文昌两县反动游击队来援救,而被我军击退后又于二十八日调集保六团第三营、叶丹青游击总队以及琼东、定安等县的游击大队,共三千余人,再来救援。我打援部队奋起抗击,经过三天四夜的激战,大量杀伤顽军。但我军既要打围又要打援,弹药消耗过大,难于继续坚持战斗,便主动撤离阵地。
  大水战斗,有成万群众参战支前,规模之大,战斗之激烈,战斗时间之长,在琼崖革命斗争史上是空前的。这次战斗,有力地打击了国民党顽固派掀起的反共逆流。
  【相片】大水战斗旧址
  【相片】大水战斗斑痕——子弹孔

 2024年4月10日朝、「大水革命烈士陵園」にも大水村にも、ひとかげはなかった。
 大水村から三江鎮に行き、海口からわたしたちに会いに来た中共海口市委党校の李粒さんと話し合ったあと午後2時40分に咸来に行き3時40分に秀田村を訪ねた。
 2018年10月に秀田村を訪ねた時お元気だった陳貽芳さん(1933年生) は、農歴2021年5月1日(太陽暦6月10日)に亡くなられていた。歩けなくなって2か月ほどベッドで寝ていた、と娘さんが話した。

 秀田村の住民虐殺にもかかわったと思われる兼石績第15警備隊文昌中隊長(大尉)、冨田堯人文昌中隊長、望月為吉文昌中隊小隊長は、海南島で住民を虐殺したとして、広東裁判で死刑判決をうけ、1947年7月26日に銃殺された。最悪の侵略犯罪者ヒロヒトを「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」とする「日本国憲法」が施行されてから2か月あまり後のことだった(「被抑留者(戦犯容疑者)」〈『海南警残務処理報告綴(別冊)』第二復員局残務処理部資料課、防衛研究所戦史研究センター史料室蔵)。『本邦戦争犯罪人裁判関係雑件』日本外交史料館蔵)。『外地における本邦人の軍事裁判関係』(日本外交史料館蔵)。巣鴨遺書編纂会編『世紀の遺書』1953年12月。今井豊平『嗚呼天哉命哉』海南海軍警察隊戦友会、1978年。岩川隆『孤島の土となるとも―-BC級戦犯裁判』講談社、1995年6月)。
 「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」には、兼石績大尉の「被抑留ノ理由(中国側)」として「民国三十四年〈1945年〉七月文昌県羅豆村秀田村ニテ一百八十余人を惨殺ス(以上中国側理由)」と書かれている。兼石績大尉は処刑されたが、海南警備府第15警備隊司令吉田喜一大佐は、いったんは逮捕され、数日後に釈放され日本に戻った。

 秀田村を離れ舖前に行った。舖前に移住していた陳胎嶠さんに2018年10月に自宅で会ったが、2021年ころ亡くなったとのことだった。
 秀田村を、はじめて訪ねたのは2003年3月27日だった。
 村の入り口の大きな樹の下で、陳貽嶠さん(1925年生)、陳明宏さん(1928年生)、陳貽芳さん(1933年生)から話を聞かせていただいた。3人の方がたにとって、両親や妻、子、兄弟が殺されたのは、昨日のことのようだった。祖母、母、妻、そして4か月の子を焼き殺された陳貽嶠さんは、話をしている間、ずっと泣いていた。
 当時12歳だった陳貽芳さんは、
    「父母、兄、嫂、姉、弟、甥の7人が殺された。わたしと陳貽宏は稲藁を積み上げているところに隠れて
   見ていた。八か月のおいが日本兵にゆりかごから連れ去られて、火の燃えている中へ投げ入れられた。あの
  ころは日本人をすごくうらんだ。家を破壊してだれもいなくしてしまった。わたしは、このようなことをやった
  日本兵を殺せなかったことがくやしかった」
と、話した。陳貽嶠さんは、
    「この事件のことを日本人民に知らせなければならない。日本政府に、賠償をさせなければならない。
   ただただ日本の軍国主義を恨む」
と語った。
 陳貽嶠さんは、秀田村虐殺の52年後、1997年農歴6月22日付けで「文昌市羅豆農場秀田村歴史惨案記実」を書いていました(『海南陳氏譜』第二巻 秀田村分冊、1999年)。  

                            佐藤正人                         
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2024年春の海南島「現地調査」報告 11

2024年05月21日 | 海南島近現代史研究会
 4月10日朝、潭牛鎮大頂村に着いた。
 わたしが、はじめて大頂村を訪ねたのは、2013年10月25日だった。
 そのとき、隣の仕陶村の邢福波さん(1953年生)に、大頂村の旧日本軍守備隊の兵舎と望楼の跡に案内してもらうことができた。邢福波さんは、同行した邢越さんの友人である。2013年3月に邢越・邢飛編著『読解海南邢氏歴史』が出版されたが、この本の原稿を書いているとき、邢越さんは、仕陶村をなんども訪ねていた。仕陶村には、明代に中国本土から海南島に来た邢氏にかかわる遺跡が残っている。
 1943年の「海軍警備府戦時日誌」に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」には3月1日現在、日本海軍海南警備府第15警備隊大頂守備隊に日本兵87人が常駐していると書かれている。2013年10月25日には、その兵営・望楼跡は、ゴムの樹の林に囲まれており、樹木や竹林や潅木に覆われていた。日本軍は、付近の民家などを壊して、そのレンガや木材をつかって兵舎や望楼をつくっていた。そのレンガの破片がいくつも残っていた。その周囲には幅が2メートルほどの壕の跡が残っていた。全体的に壕は浅くなっていたが、まだ深さが1メートルあまりあるところもあった。
 大頂村の茶店で、邢治躍さん(1930年生)に話を聞かせてもらった。邢治躍さんは、こう話した。
   「近くの企路坡村で姉が共産党のために食料を運んでいたとき、日本軍にみつかった。日本兵が両足と両手
   と陰部に釘をさした。姉を殺したのは大頂の日本兵だ。
    姉の名は、邢福娥。1943年3月のことだった。
    企路坡村の人が母に姉が日本兵に殺されたことを知らせてくれたが、母は日本兵を恐れて行かなかった。
   姉の遺体は企路坡村の人が埋めてくれた。
    父は南洋に行っており、家には母とわたししかいなかった。姉は、日本軍が海南島にくる前から共産党
   に入っていた。日本軍がきてから、姉は、わたしを連れて食料を運んだことがある。幼いわたしがいっしょ
   だと日本軍の検問があまり厳しくなかったからだと思う。
    わたしは大頂に日本軍がつくった日本語学校に2~3日通ったが、教師が生徒を殴るのをみて、やめた」。

 2024年4月10日朝、邢越さんといっしょに大頂村に着いてすぐに仕陶村の「邢祚昌故居」に行った。そのあと、大頂村と仕陶村の隣の昌美村の魏学策さん(1938年7月9日生)の自宅を訪ねた。魏学策さんは留守だったので、いったん大頂村に戻った。
 2013年10月25日に邢治躍さんに話を聞かせてもらっていると、村人が、近くの昌美村に、日本軍に家族を殺された人がいると言って、迎えに行ってくれた。
 その人が魏学策さん(1938年生)だった。
 茶店に来てくれた魏学策さんに、わたしはすぐに挨拶したが、魏学策さんは、ひとことこたえたあと、しばらくの間、当時のことを思い出したのか、声をおさえて泣き、深い息をはいた。
 それから、静かな口調で話はじめてくれたが、なんども声を詰まらせた。
 日本軍が昌美村を襲って、村人50人あまりを殺害したのは、1942年農暦9月22日(普通暦10月31日)だった。このとき、4歳の魏学策さんの目の前で、母、姉、伯母の3人が殺されたという。そのときのことを、魏学策さんは、昨日のことのように話した。
 1945年7月30日(農暦6月22日)に文昌市北方の羅豆郷秀田村を襲った日本軍によって、陳貽橋さん(1924年生)は、祖母、母、妻、そして4か月の子を焼き殺された。陳貽橋さんは、2003年3月27日に、出会った瞬間からずっと泣きながら話してくれた。秀田村の人たちにとっては、そのとき、58年まえの秀田村虐殺は、昨日のことのようだった。
 2004年4月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年6月からの海南島での「現地調査」の内容を報告するドキュメンタリー『日本が占領した海南島で』を制作した。そのとき、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、秀田村の陳貽橋さんらのことを思いつつ、その副題を「60年まえは昨日のこと」とした。

 魏学策さんは、ときどきそっと涙をふき、なんども声をつまらせ、長く沈黙し、ときに声をあげて泣きながら、つぎのように話してくれた。

    「昌美村は、とうじ、朱村と魏村にわかれていた。わたしは魏村に住んでいた。
    あの日、日本軍ははじめ朱村に入ってきて、村人30人あまりを殺し、家に火をつけた。
    朱村から人の叫び声や泣き声が聞こえ、火の光、炎、煙がみえたので、魏村の村人は逃げ出した。朝、
   5時ころだった。
    そのときわたしの家には、母、姉、伯母、わたしの4人がいた。父は山に猪を追いにいっていた。
    姉の手をひき、わたしを背負った母が、10匹あまりの羊をつれて、伯母といっしょに逃げようとしたとき、
   日本兵が家にはいってきた。
    日本兵が、背負い紐を軍刀で切ったので、わたしは母の背から落ちた。
    日本兵は、母と伯母と姉とわたしを庭につれていって、銃剣で刺しはじめた。庭は血だらけになった。
   刺されたわたしは、気を失った。
    どのくらい時間がたったかわからないが、誰かがわたしに声をかけてくれたが、そのときは、意識がはっきり
   しなかったので答えられなかった。
    戻ってきた父がわたしを病院につれていった。父は、現場を見たとき気を失ったという。
    母と伯母と姉は、日本兵に火をつけられていた。わたしはすこし離れたところに倒れていたので、焼かれなかった。
    母の名は、洗氏。28歳。伯母は、石龍村の博氏。姉の名は魏玉英で10歳だった。
    この日、魏村では、20人あまりが殺された”。

 魏学策さんは、右胸(左胸の心臓の位置の反対側)、背中の右側と左側、腹部(胃のあたり)、下腹部の5箇所の傷跡をみせてくれた。とくに右胸の傷跡が深く、銃剣が左にそれていたら即死したと思われる。日本兵は、4歳の子どもまでをも殺そうとしていた。
 魏学策さんは、日本の総理大臣が、日本は他国を侵略したことがないと言っているのを知って、怒り、2013年8月10日に昌美村委員会にだした告発状「記九廿二惨案 一控告日本侵略者的三光政策」とその「附言」をみせてくれた。「記九廿二惨案」は1600字ほど、「附言」は1800字ほどである。
 「記九廿二惨案」に、魏学策さんは、つぎのように書いている(佐藤正人訳)。

    抗日戦争勝利68周年に、わたしは、日本侵略者がわが国の多くの人民を殺害し、わたしの故郷の昌美村で
   血で血を洗う罪を犯したことを告発する。
    日本鬼子は、昌美村で、50人あまりの同胞を殺害したが、わたしは、そのときの幸存者であり、歴史の
   証人である。
    いま、安倍を首相とする一部の日本の右傾分子は、歴史事実を無視し、歴史を否定し、歴史を書き換え
   ようとしているが、これは許せることではない。
    昌美村は革命老区である。…………
    1942年9月22日に、漢奸を連れた日本軍が新橋からわたしたちの村に侵入した。日本軍は、いたるところで
   人を殺し、放火し、略奪した。日本軍は、朱村を襲い、ついで魏村を襲った。
    朱村の朱任英老人によれば、このとき日本軍は朱村で30人あまり、魏村で10人あまり、両村で50人あまりを
   殺害したという。
    ‘九廿二’惨案のとき、わたしの家族は伯母(大媽)、母、姉の3人が殺された。当時わたしは、わずか5歳の
   子どもだったが、5か所を刺され、気を失い、血のなかに横たわっていた。
    日本鬼子は、門の板をはずして火をつけ、そこに大媽、母、姉を投げ入れた。3人は烈火に焼かれ黒焦げに
   なった。覚醒したわたしは、全身が血まみれで母の焼死体のそばに横になっていた。  
    当時、父は、農作物を見守りに行っていて鬼子の危害をまぬかれた。鬼子が村を去ってから、知らせを聞いて、
   急いで家に戻った父は、血まみれになっているわたしを助け起こした。
    父は、わたしを山のなかの病院に連れていった。そこは祠堂で、共産党が病院にしていたところだった。
    わたしの家は焼かれ、財物は奪われ、10匹あまりの羊・1頭の豚も銃で殺され奪われていた。父の身体は
   しだいに痩せていき、精神的にもくずれていき、まもなく世を去った。
    両親を失い、家もなく、わたしは、飢え、苦しんだ。
    日本の‘三光政策’は、人道に反していた。…………
    ‘九廿二’惨案の日は、わたしが生涯わすれることのできない日である。
    ‘三光政策’は、わが国の人民、および東アジア各国人民にたいする重大な犯罪であるにもかかわらず、今日に
   おいても、日本軍国主義者は、反省せず、歴史を書き換え、憲法を変えようとしている。…………
     わたしは、日本軍国主義が侵華戦争のときにわたしの家族を殺害した罪を告発する。
     日本政府は、公正に答えなければならない。

         告発人 魏学策            二〇一三年八月十日

 魏学策さんは、この告発状と附言を、海南島の新聞社にも送った。
 2013年11月4日の『海南日報』の記事「搜集日本侵琼证据 佐藤正人:我的使命未完成」のなかで、魏学策さんの“控告书”が、つぎのように報道された(この記事の10月27日は10月25日の、1943年は1942年の、今年8月1日は今年8月10日の誤記)。http://www.hq.xinhuanet.com/news/2013-11/04/c_117989268.htm
   「10月27日,魏学策来到与佐藤约定的茶馆,还未落座,这位年过八旬的老人便已泪流满面。他紧紧攥着这份
   凝结着血泪的文书,哽咽着说不出一个完整的句子。佐藤也红了眼眶,静静陪伴。 
    1943年9月22日,日军血洗了朱村、魏村两个村庄,杀害村民50余人。魏学策的母亲、伯母及姐姐被抛进熊熊
   烈火活活烧死。此后漫长的70年中,竟无人问及此事。直至今年8月1日,魏学策才用颤抖的手,提笔写下了这份
   “控告书”。
    “我就要死了,可没有人问过我,当年我经历了怎样的惨剧。”握着佐藤的手,魏学策老泪纵横,“虽然你是日本人,
   但我还是感激你,愿意代我将真相公诸于世,为我惨遭杀害的家人争取一份迟来的道歉」。

 2013年8月10日に昌美村委員会にだした告発状「記九廿二惨案 一控告日本侵略者的三光政策」 を昌美村委員会は放置し続けた。
 2015年1月15日に、魏学策さんは、潭牛鎮と昌美村委員会に「関于樹立遇難者紀念碑的申請書 ーー一九四二年日本侵略者大屠殺“九廿二”惨案」を書き上げた。
 10月25日夕刻、魏学策さんに話を聞かせてもらっていると、そばに来た女性が、
   “わたしの義母も子どものとき、日本兵に刺された。そのとき、母は昌美村の近くの羅楼
   村に住んでいた。家族5人のうち義母だけが生き残り、義母の両親と姉2人が殺された。
    義母の名は潘月桂。1933年の生まれだ。義母の父の名は潘儒彬。義母の母はタイ人
   だった。義母は、いまは寝たきりだが会って傷跡の写真をとってほしい”、
と話した。この日午後5時過ぎに、潘月桂さんの家を訪ねた。背中に5~6か所の傷跡が残っていた。そのうちの2か所は深い3センチほどの傷跡だった。

 2024年4月10日午後、ふたたび昌美村を訪ねた。魏学策さんが家で迎えてくれた。
 前回、魏学策さんに会ったのは2018年10月だった。その後これまで、新型冠状病毒肺炎流行のために海南島を訪ねることができなかった。5年半ぶりに会った魏学策さんは元気だった。
 魏学策さんは、2013年8月10日に昌美村委員会にだした告発状「記九廿二惨案 一控告日本侵略者的三光政策」 と、2015年1月15日に潭牛鎮と昌美村委員会にむけて書き上げた「関于樹立遇難者紀念碑的申請書 ーー一九四二年日本侵略者大屠殺“九廿二”惨案」をもとに、2014年5月11日に、長文の「記九廿二惨案 一控告日本侵略者的三光政策」 をだしていた。潭牛鎮委員会と昌美村委員会の2014年5月13日の受領印が押されているが、10年近くが過ぎたいまも放置されたままになっている。
 2時間近くの間、魏学策さんと話し合って、昌美魏村の自宅の前で見送ってもらってから大頂村への道を200メートルほど進むと左側に昌美革命烈士紀念亭があり抗日烈士紀念碑が見えた。文昌市人民政府が2019年12月に建てたものだった。その中の碑に、烈士25人の名が刻まれていた。その近くに、1963年5月1日に文昌県新橋人民公社三月大隊全体□□が建立した碑が残されていた。
 
◆真相与和解  2013年10月25日文昌大顶采访后感  邢 越
 2013年10月20日-11月3日,以佐藤正人为首的海南岛近现代史研究会的日本研究学者一行三人再次来到海南,继续对日军侵琼所犯的罪行进行第24次的现地调查。这次我有幸作为翻译全程陪同了他们。
 一路上的所见、所闻、所感、所悟,可谓五味杂陈。当中,最难以忘怀的是,一位年逾花甲的老阿公,在我们面前失声疼哭而久久说不出一句话来的情景。
那一天是10月25日。上午,佐藤先生和我到文昌新桥镇,在镇上老人休闲的茶店,采访几位老人。
 下午,我们又来到了新桥附近的大顶乡,参观日军炮楼遗址。之后,在当地仕陶村村民邢福农的向导下,我们又来到了大顶市上老人比较集中的一间茶店,目的是向老人了解当年日军修建炮楼时的具体情况。
 当大家知道我们的来意后,都非常的热情,都七嘴八舌地争着给我们提供各种各样的线索。比如,某某村某某人,以前的事他懂得最多,只可惜他已过世了;某某村某某人,以前的事他也很清楚,当年他就被日军连刺五刀没死,他家就在附近,我去喊他过来找你们。
 就这样,这位当年的历史见证者老阿公来到了我们的跟前,据说他是被人用三轮车拉过来的。阿公远远见着我们就情不自禁地哭了起来,哭声当中还夹着很沉的鼻气声。
等他的情绪平缓下来之后,我们就开始对这位阿公进行采访。
 阿公性急,还不等我们发问,一下子就把几份的资料递交给佐藤先生,以此同时,还掀开自己的上衣并侧转着身体,指点当年被日军刺杀而留下五处伤痕。他眼含泪花,语气急促且不知停顿地只顾往前说。但大致的意思是:“日本鬼子凶残啊! 当年就残杀我两个母亲和我的姐姐,我当时才五岁,我也被他们连刺五刀! ”。
 阿公名叫魏学策,今年76岁,是海南文昌市谭牛镇昌美乡魏村人。一边听阿公的介绍,一边和阿公的反复确认,整理出如下线索。
 农历1942年9月22日凌晨四点钟,驻新桥墟的日伪军,以附近有抗日组织为名,特对昌美乡的朱村和魏村进行扫荡。鬼子包围并进入二村搜查后,没有遭遇任何抵抗,也没有找到任何抗日组织,但却对熟睡中的手无寸铁的农民,包括妇女、儿童、婴儿进行杀戮。当时朱村死难者就有30余人,魏村死难者10余人。二村合计死难50余人。
 魏村死难的10余位中,有三位是朱学策的亲人。我们让阿公写下他们的姓名、籍贯和大致年龄:
  1. 大母亲,石龙村人,符氏,年龄失记。(因无生育,父亲再娶生母)。
  2. 亲生母亲,贤孝村人,冼氏、时年28岁。
  3. 同胞姐姐,魏玉英,时年10岁。
 朱学策阿公介绍说,日军进入家里搜查,把熟睡中的二位母亲、姐姐和自己强拉到院子里,然后就用枪刺刀进行刺杀。当时阿公虽只有五岁,但也被日军连刺5刀,昏死过去。日本兵刺杀他们后,又拆下家里的房门板,再堆上干柴,点上火种,最后更凶残地把二位母亲和姐姐的尸体丢进熊熊的烈火中。说到悲惨处,阿公又情不自禁的哭了起来。
 阿公接着说,当时家里还养有10余只肥羊和一头肥猪,也被日本鬼子抢走。父亲当晚因出外看护庄稼地而逃过一劫。回家后的父亲,因发现火堆旁的我还有点气息,在乡亲们的帮助下,及时送医而保住了我可伶的一条小命。
 突然间降临的大祸和我每次换药时的疼哭声,时时都扎疼着父亲。经不起精神上的折磨和以后的生活困苦,强壮的父亲日渐消瘦,几年后就病死了。成了孤儿的我无家无室,无依无靠,生活牛马不如,真是苦不堪言啊!说到此,阿公又眼含泪水。
  1. 朱学策递交给佐藤先生的资料,共有二份。
 第一份标题为:『忆九廿二惨案--控告日本侵略者的三光政策』,第二份为的「付言」。「付言」。
 第一份资料的内容大致为,日本否定侵略历史、篡改侵略历史不可饶恕;日本当年对中国人民实行的“三光政策”,犯下了滔天罪行;昌美乡的朱村和魏村被日军屠杀50余平民的事实铁证如山。
 当问及为何写这些资料时,朱学策阿公无奈地说:“日本鬼子对我家庭的伤害,罄竹难书,我的5处伤疤,我家的血泪史,何以能忘?! 但是,这么多年了,我们的悲惨经历一直没人重视,有关部门的人从未没有登门找过我们调查情况。我已经是个古稀老人,剩下的时间不多了,但我必须要把以前的悲惨经历写出来,把历史真相告诉年轻人,千万不要忘记日本鬼子对我们犯下的罪行! ”。
 据了解,文化程度不是很高的朱学策,曾经把自己写的这些资料满怀信心的寄给报社记者,以为能得到应有的重视,但却石沈大海,没有任何回音。心灰意冷之际,今天听到日本历史学者下乡调查日军的战争暴行情况,并能一下子就面对面地说出自己想说的一切,这可是有生以来梦寐以求的难得的一次机会啊!
 常言道:“男儿有泪不轻弹”。但是,年逾花甲的朱学策阿公不能自控的哭泣,可谓哭出了埋藏心底70年之久的压抑,而和泪水一样流出来的,是否是生命残年最后一丝的希望和期待?
 那天,就在我们离开文昌前,又按老乡提供的线索,拜访了一位当年屠杀幸存者潘月桂阿婆。阿婆今年81岁,日本鬼子扫荡时,她七岁,被刺中7刀没死,而家里其他四个人,父亲潘仔彬,母亲(泰国人,名失记),二个姐姐(名均失记)均被当场刺死。阿婆的经历和朱学策一样,一直以来也没人查问。

 活生生的历史事实,一直遭到无视,这是为什么? 那场战争已过去了将近70年,但是它至今乃存在很多的模糊点和很多的空白点,真让人心寒。日本投降后,本该是中国进入重建国家和好好清算日本侵略历史的一次最好机会。然而,命运多舛的中国国民又一次遭到抓弄。
 第一、日本一投降,中国的国共两党马上就陷入你死我活的内战(南北朝鲜也一样),因而,没有精力有效地充分地向外申述自己权益。
 第二、国共两岸分治后,政府为了获得国际上的某些承诺,竟牺牲广大国民的基本利益,轻率地放弃了日本应该给与的赔偿,使破碎的国家建设更加举步维艰。
 第三、建国后的新政府,因为经济上困难重重,所以没有精力对日本侵略的历史做一次全面的系统的专业调查和整理。即使整理出来的某些东西,也非常粗糙,缺漏更是不计其数,涉及到国民党的抗日部分也多有掩盖或一笔带过。
 第四、现在,当年战争的经历着和幸存者越来越少,作为历史见证的历史遗址更是缺少保护意识,一个又一个地遭到破坏,历史的真相越来越模糊。
常言道:“没有真相,就没有和解”。
 中国政府因各种原因,没有对日本侵略的历史没有做一次全面的系统的专业性的调查和整理。因而使当年发生的一切任由时间的推移,越发模糊;而当年那些受难幸存者,残疾且生活上不能自理者,因没有得到生活上的照顾而产生怨言。
 日本方面,至今还对侵略战争没有进行正式道歉和赔礼,这样,那些战争受难者以及受难者家庭在精神和心灵上哪里会得到安慰? 相反地由此产生的无解和仇恨必将深深扎根于广大的国民中。最近,日本政府领导人又正式参拜靖国神社,大张旗鼓地修改历史教科书,否认侵略历史,历史真相不仅仅是模糊,而且是越走越远了。
没有真相,就没有和解;没有和解,就没有和平。
 中国也好,日本也罢,假如不尊重历史,不探究真相,没有通过不懈努力,达成相同的历史共识,双方之间的裂痕必将越来越大。假如两国在这不能自醒、不能自控,双方必将成为美国这个国家的最高利益博弈前的两个棋子。

◆文昌市抱羅鎮石馬村で
 1942年3月2日(農歴1月16日)に日本海軍第15警備隊部隊が襲撃し住民172人を虐殺した文昌市抱罗镇の幸存者谢春梅さんに抱罗華僑医院の裏の自宅で話を聞かせてもらった。刘笑非海南日报记者が同行した。
 海南島近現代史研究会創立前、2003年3月に紀州鉱山の真実を明らかにする会は谢春梅さんを訪ねたことがある(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月発行、24~25頁)。
 谢春梅さんに話を聞かせてもらったあと孫の潘浩さんの案内で石马村に向かった。
 石马村では、潘孝勇さんとその弟の潘孝赴さんに迎えられた。
 祠堂の近くの墓地に、「公元一九四二年農歴元日十六日被日本無辜殉逝」と刻まれた石碑が建てられていた。1984年春に建てられたものであった。
 幸存者の潘正川さんの息子さんの家に案内してもらい、午後4時過ぎから潘正川さん(1931年生)に話を聞かせてもらうことができた。
 潘正川さんは、
   「この村は共産党の根拠地だった。共産党の組織が村で活動していた。
    日本軍の兵隊は、抗日組織の遊撃隊に撃たれてけがをした。それでこの村を襲って焼いた。
    1月17日の朝、172人が殺され、22日に22人が殺された。
    自分の家は、大きな部屋2つ、小さな部屋3つ焼かれた。
    当時、石馬村の家は大小合わせて300軒くらい。人口はわからない」
と話した。その場に来てくれた石馬村の初代共産党書記長の王録雰さん(1927年生)は、
   「殺された人が多くて、すぐにみんなを埋葬できなかったので、犬やブタなどに食べられないように、遺体を
   木の上にあげた」
と話した。
 潘家泰さん(77歳)は、
   「母は台所にかくれて助かった。祖父が殺された。祖父は目が見えなかった。それまで日本軍は何回も
   来たが家の中で座っている祖父には何もしなかったので、1月16日にも座っていたが、殺された。祖父
   の名前は、潘先桂。
    台所に9人が隠れていたがみんな助かった。小さいとき母は亡くなったので、このことは母かにら聞いた
   のではない。同じところに隠れて助かった人から聞いた」
と話した。
 午後6時過ぎに暗くなりかけた石馬村を離れ、大致坡に向かった。
 別れ際に、潘孝勇さんは、殺された人たちのなまえは全力を尽くして探す、と言った。潘孝勇さんによれば、石馬村は、トウガラシ、カボチャ、コメ、ラッカセイの産地だが、交通が不便で道路が悪く、経済は遅れているとのことであった。

 2015年3月28日~4月9日の紀州鉱山の真実を明らかにする会第27回・海南島近現代史研究会第14日のとき、4月4日に、わたしたちは南海出版公司の編集者たちと石馬村を訪ねた。潘孝勇さんたちは、犠牲者の名簿の作成を進めていた。

 2024年4月10日午後大頂で朱学策さんに別れ、石馬鎮にいった。潘孝勇さんたちは、今年の秋までに犠牲者の名簿を完成させ、追悼碑建立を実現したいと言った。
 夕刻、大致坡の旅館に入った。

                                        佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 10

2024年05月18日 | 海南島近現代史研究会
 4月8日朝8時に文昌市内の旅館を出て9時半に文昌市郊外の東閣鎮南文村に着いた。
 2014年11月に、南文村の自宅で邢福橋さん(1934年生)は、
   「日本軍が来た時、家族といっしょに山の洞窟に隠れた。食べるものを探しに洞窟を出たが、姉に見つかって、すぐ
  に洞窟に連れ戻された。姉は、わたしを洞窟に隠したあと日本軍に見つかって殺された。そのとき40人以上が殺され
  た。姉の名は、月花。20歳くらいだった思う」
と証言を聞かせてくれた。
 2024年4月8日に南文村を再訪したとき、邢福橋さんは3、5年前に亡くなっておられた。
 南文村を離れ、近くの林村村に向かった。
 わたしがはじめて東閣鎮林林村を訪ねたのは、2011年11月6日だった。
 「抗日戦争遇難郷親紀念碑」が建っていた。「一九九五年仲秋吉日」に「林村村林氏宗親」が建てた碑だった。
 碑の裏面に、「「墓誌銘 哀鴻遍野 日冦侵華連天 鴻史前鮮 凄凄荒草埋寃骨 堆遺爸娘盼儿心 三六前生三六死 七二横遭刀火臨 魂飛雲巻往板來東 徒増父老泣無声」と刻まれていた。
 碑の前で、村人の林樹存さん(1952年生、辰年)が、
   「同じ日に72人が殺された。ここには30人くらいが埋葬されている。ここに埋葬されている以外の人は、家族が
   別に埋葬した。この村出身で台湾から戻ってきた人が金を出して碑を作った。周りの塀などは村民みんなが金を
   出してつくった。
    生き残った林鳳通さんは文昌に住んでいる。林堅さんは海口にいる。このふ たりが72人の名前を知っている。
   生き残った人は、12、3人だった
と話した。

 その数日後、文昌市文城鎭に住んでいる林鴻通さん(1932年10月生)を訪ねた。
 林鴻通さんはつぎのように話した。
   「日本軍が攻めてきたときは9歳だった。朝4時ころ。わたしは祖母(母の母)といっしょに寝ていた。家には、
   母と弟ら全部で7人がいたが、母は朝食の支度をしていた。外から、人の声、犬の吠える声が聞こえてきた。
    村には、日本軍がそれまで何回も攻めてきたときがあるから、急に攻めてきたときに隠れる場所をつくって
   あった。板で覆って草でかぶせてある。そこに一部の人が隠れた。共産党が、日本軍が襲ってきたときのことを
   考えて掘れといって、つくった穴だった。周りの村でもみんな掘っていた。穴は村の若者が掘った。
    日本軍はさいしょ村の入り口の大きな木の下に集まっていた。村に入ってきたのはごく一部で、何もしないで
   帰った。
    警戒解除という状態になったので、朝ご飯の時間でもあるし、洞くつから出てきたら、日本軍がおおぜいで
   また攻めてきた。2回目は6時ころ。朝ごはんを食べているときだった。
    このときは、村は包囲されて、逃げるところがなく、じぶんの家にいた。日本軍は各家をまわって、家から
   人を追い出して集めた。こうしてほとんどの人が外に出されて集められた。ごく一部の人が隠れた。
    日本兵は子どもと大人を分けた。子どもはぜんぶで11人だった。日本兵は、子どもに、水をくめといって、
   列を組ませて井戸の方に連れていった。列の先頭は、林樹民(?)。林樹民(?)の腕をつかんで、そのまま井戸に
   放り込んだ。2番目、3番目の子どもは誰だったか……、覚えていない。子どもの首を抱えてうしろから剣で刺
   して、井戸に放り込んだ。4人目までそうして剣で刺されて井戸に放り込まれているうち、5番目にいたわたし
   は、じぶんから井戸に飛び込んだ。頭と額を固いところにぶつけて、こぶができた。井戸は、わたしの背丈より
   深かった、先に4人の死体があるので、その上に立ってあごまで水に浸かっていた。日本兵は、井戸のふちに座っ
   て、足でわたしの頭を踏みつけた。わたしは何度も、その足を引っ張ったり避けたりした。そうしているうちに、
   日本兵は、剣を銃に付けて、刺そうとしたが、わたしは死んだふりをして、浮
   いたり沈んだりしていた。日
   本兵はわたしが死んだと思った。わたしは助かった。姉さんも目の上とか背中とか刺されて、井戸に投げ込まれ
   たが、すぐには死ななかった。
    11人のうち、9人は井戸で死んだ。わたしと姉だけが、生き残った。姉はわたしのうしろだったが、何番目だっ
   たかわからない。井戸の壁がレンガだったので、這い上がることができた。姉といっしょに這い上がった。
    日本兵は3人いた。顔は覚えていない。太陽が昇ってきて、影が井戸に映った。そのときはじっとしていた。
    先にふたりの日本兵が井戸を離れた。影がなくなって、姉から先に這い上がり、近くの田んぼに逃げて隠れ
   た。稲の収穫時で、まだ稲を刈っていなかったので、稲の中に隠れていた。午後4時ころまでじっとして隠れて
   いたら、爆竹の音とか家が焼けおちる音が聞こえた。正月が終わってまもなくだったので、爆竹が残っていた。
   村が焼かれたのだ。
    その間、姉は2回ほど村に近寄ってみた。2回目は11時ころ。まだ日本兵がいたので、また稲に隠れた。3回目、
   4時ころ村に近寄ってみたら日本兵がいなかったので、姉がわたしを連れに来て、村に戻った。何時間も井戸に
   つかっていたので、寒くて……。
    村に戻って2か所を見た。村は、真っ黒で、屋根とか柱とか、まだ燃えていた。
    ひとつは、さいしょにみんなが集められたところ。入り口で、ひとりが剣で刺されて死んでいた。ふたりが、
   焼かれて外に逃げて死んでいた。祖母はここで殺されて焼かれた。
    もうひとつの家で、7人が殺された。母、曽愛娥。弟、林鴻富。ふたりの兄嫁(2大嫂)(ひとりはいとこの兄嫁か
   ?)、名前はわからない。おばさん、父の姉)。この家の女の人、ふたり。ひとつの部屋に入れられて焼かれていた。
   ひとりだけはわかるが、6人は真っ黒でだれかわからない。
    3日くらいたって、死体を片付けようとしてさわったら、頭とか足とか折れたので……。
    5時ころだったと思う。寒くて、食べ物がなくて。姉はわたしを隠れ家に連れていって着替えさせた。
    日本兵は13人くらい。3人は子どもを井戸に連れていった。5人は、家から人を追い出して集めた。5人は、
   2軒に草とかガソリンとか集めて焼く用意をしていた。
    何軒が焼かれたかわからない。本(『椰林血泪』)には、そのころ覚えていたことを思い出して書いたので詳しい。
   姉の名前は、林月英。当時11歳。父は兄とタイに行っていた。兄弟3人と姉。タイに行っていた兄、姉、わたし、
   弟。弟は5歳くらい。
    李山村に2軒、親せきの家があった。5時ころ、姉に連れられて、母の実家がある李山村に行った。母のいとこの
   弟、曽紀立のところに行き、一晩泊まった。また日本軍が来ると思ったので、姉はわたしを連れて宝典に行った。
   井戸の中で血の水をいっぱい飲んだので、のどが痛くて何も食べられなかった。水も飲めなかった。7日間
   くらい、なにも食べられず、美柳村の人が、やわらかい果肉などを食べさせてくれて、それで、元気になった。
   元気になったので、また李山村にもどった。2軒の親戚に交代で食べさせてもらった。
    姉はさきに林村村にもどって、いとこの兄嫁といっしょに田んぼのしごとをした。いとこの名前は、林樹政。
   わたしも林村村にもどって姉といっしょに暮らしながら、農業の手伝いをした。姉は14歳のとき、婚約して
   いた相手の村に行った。羅晨村。
    日本兵は鉄の帽子をかぶって、まわりに布を垂らしていた。日本兵はその前も見たことがある。日本兵は村に
   来ると、“ヌイヌイヌイ……”と手ぶりで指を丸めて言った。卵をくれという意味だ。
    1947年8月に、わたしは文昌県中隊に入隊した。独立団で、名前は英勇隊といった。
    父はタイで1977年に亡くなった。家に一回ももどらなかった。兄は8回ほどもどってきた。1回目は1975年。
   それから去年、最後に帰ってきた。今年は83歳になる。
    いま昔のことを知っている人は3人だけだ。わたし、林樹逢、林樹慈」。

 1926年に林村村で生まれた林樹慈さんが2010年12月に出版した『椰林血泪』(海南郷土文化研究会主辦 天馬図書有限公司出版)に、林鴻通さんは「剣戮水淹 惨絶人寰——林鴻通的回憶」を寄稿している(8~14頁)。

 2024年4月8日に邢越さんとわたしが林村を訪ねたとき、「抗日戦争遇難郷親紀念碑」の前の広場には人影はなかったが整備されていた。
 わたしは2011年11月6日以後、しばしば林村村に行き、村民に話を聞かせていただいて来た。2015年3月28日~4月9日の紀州鉱山の真実を明らかにする会第27回・海南島近現代史研究会第14回海南島「現地調査」のとき、4月4日の清明節に行われた追悼集会には、南海出版公司の編集者らも参加した(海南省文化交流促進会編・南海出版公司2015年8月発行『真相』217~220頁)。

 2024年4月8日、林林村から楊必森さん(1922年生)に会うために東閣鎮鳌頭村を訪ねた。
 2014年10月30日に楊必森さんは、
   「1943年3月6日の朝、日本軍が来て村の入り口を封鎖した。
    このころはサツマイモの収穫期で、母は薄く切ったサツマイモを天日で乾かすために村の外に出たときに日本軍と出会った。日本軍は母のはらを突き刺した。母は銃剣を両手でつかんで手も切られ、その場で死んだ。
    家の地下に穴を掘っていて、日本軍が来たので兄とわたしはそこに隠れた。
    日本軍は家に火をつけた。煙がひどくて隠れていっれず、出ていくと、兄もわたしも、えりくびをつかまれ、火のなかに放り込まれ、尻を蹴りこまれた。兄は足をやけどし、わたしは火の中に手をついたので、両手をやけどした。腕の皮膚が焼け落ちた。日本軍がいなくなって火から逃げ出した。日本兵は4、5人だった。兄はやけどがひどくて、1948年に死んだ。
    母は、邢氏。兄の名は、楊必雄」
と話した。
 2024年4月8日に家を訪ねた。誰もいなかった。 楊必森さんは亡くなられていた。

 東閣鎮鳌頭村を離れ、潭牛鎮の中心部(潭牛墟社区 )に行って宿泊した。 

     佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 9

2024年05月16日 | 海南島近現代史研究会
 4月7日朝7時半文昌市内の旅館をでて清瀾半島の西端に着いた。数個の高層マンションが建てられており、その周辺から海岸までが広い公園になっている。
 海岸で5日に沙土の王徳林さんからもらったバナナを食べた。
 その後、清瀾港に向かった。
 近くに新しい埠頭ができていた。その埠頭入り口に大きな門がつくられていた。名前が示されていない門は閉められており、普通では入られなくなっていた。その門の近くの道路標識には「三沙路」と書かれていた。
 すこし離れた路上から埠頭の中を見ると、「三沙2号」という船名の大型船が停泊していた。【註】「Baidu百科」には、「2014年年底,“三沙1号”将正式投入使用,奔赴浩瀚南海,担负起神圣而光荣的使命。符戆在致辞中说, “三沙一号”入列使用后必将极大地提升三沙市的海上行政管控、交通补给、综合服务保障能力,为维护国家主权和海洋权益,建设“主权三沙、美丽三沙、幸福三沙”提供强有力的装备保障。“三沙1号”自2013年12月25日在渤海船舶重工有限责任公司正式建造以来,船舶建造进展顺利,各重大节点均提前或按期实现」、「2019年8月21日,海南省三沙设市后建造的第二艘交通补给船“三沙2号”抵达三沙市永兴岛,完成首航」と書かれている。1938年に日本軍はベトナムの領土であった海域の諸島に侵入し、「新南群島」と名付けた。1939年2月20に日本陸海軍が海南島に奇襲上陸し軍事占領した後、日本政府は海南島とともに「新南群島」を1945年8月まで領土とした。 
 
 2024年4月7日9時20分に、2010年ころ訪ねた清瀾港の魚市場に行った。10数年前にはカブトガニなど珍しいものも売られていたが、売っているものの数はかなり少なくなっていた。大型漁船が多くなったので魚の量は多くなっていた。
 10時過ぎに清瀾港から東郊鎮に向かった。

 2014年10月31日に、東郊鎮福羅村で符史森さん(1952年生)は、
   「父、符和桂は2003年に85才で亡くなった。日本軍がこの村を襲ったのは、父が8才~10才のころ。父は逃げることができた。田んぼのそばの川に樹がびっしり生えていて、父は川の中でその根につかまって隠れた。ひとりで何時間も。
   祖父(符副昇)、祖母、父の妹は祠堂で殺された。父の妹は、4、5歳だった父の父方のいとこの兄(符気壹)の妻が強姦されて乳房を切り取られて殺された。
   父は酒を飲んではこの話をしていた」と話していた。
 2024年4月7日11時50分ころ福羅村で符史森さんに再会した。符史森さんは9年半前にわたしたちが訪ねたことを覚えていてくれた。祖父母と幼かった伯母が殺された現場に案内してもらった。自宅のすぐ近くのその場には樹が繁っていた。数10メートル離れたヤシの木のそばに祠堂があったことを示す石碑が2基あった。
 符史森さんは、家の近くで鶏、亀、 アヒル、鵞鳥を飼っていた。そのそばで、ヤシの実をごちそうになった。

 その後、1942年秋に日本海軍第15警備隊の部隊が襲撃した東郊鎮田頭村を訪ねた。
 わたしたちが2014年10月31日に証言をきかせていただいた符福通さんは2019年に亡くなられていた。
 出会った村人に、近くの高台に建てられていた日本海軍第15警備隊の望楼跡と周壕跡に案内していただいた。

 文昌市内の旅館に戻る途中、新華書店に1時間近く寄って、地図・字典などを買った。その間、客はわたし一人だった。書籍売り場にいた店員は5人だった。


          佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 8

2024年05月02日 | 海南島近現代史研究会
  4月6日朝、4時50分ころから鶏鳴。
 7時半に旅館をでて南方の常樹村に向かった。
 
 澄邁県政協文史資料委員会編『澄邁文史』第十輯(日軍侵澄暴行実録 1995年発行か)に掲載されている王明恩「国恨家仇怎能忘 記侵瓊日軍占領加楽峒的罪行」に、
   「一九四一年六月一一日、日軍飛機炸常樹村、炸毀民房一五間、炸死農民六人、受傷一人、炸死家畜四隻
  只。……」(三〇頁)
   「従一九四〇年四月至一九四五年八月的五年、加楽峒共殺死無辜農民八八九人、平均毎村被殺死一〇・二人。
  “重災区”是常樹村殺死二五六人、北柳村被殺死四一人、加塘村遭殺二四人、加応村殺死二一人、加志村殺死二〇
  人……」(三三頁)、
   「日軍占据加楽期間、任意下村搶掄劫農民財産、随便抓人作押、勒索銭財。擄掠最突出的有:北柳村搶劫家畜
  二二三頭、勒索光洋一三七〇〇元:常樹村遭劫耕牛一五七一頭、勒索光洋一二五四三元……」(三四頁)。
と書かれている。

 1940年4月から1945年8月までの5年間に村人256人が殺されたと書かれている加楽鎮常樹を、わたしたちが、はじめて訪ねたのは2012年11月7日だった。
 この日、常樹村の自宅で王汀邦さん(91歳)は、つぎのように話した。
   「はじめ、村が爆撃された。そのあと、日本軍が何度も村を襲った。この村が 国民党と共産党の拠点だったからだ。
   日本兵のなかには台湾人もいた。
   日本軍の占領中は、生活が苦しかった」。若い女性が日本兵に暴行された。
 自宅で王川法さん(1933年生)は、つぎのように話した。
   「日本軍が2回目に村を襲ってきたとき、父が殺された。1942年12月28日だった。わたしは9歳だった。
   わたしは、父が殺されるところを見た。
   日本兵2人が、父の腕を両側からひっぱり、からだの両側から銃剣を突き刺した。父の名は、王澄禄。40歳だった。
   石で殴られて殺された村人もたくさんいた。日本兵がいまいたら、殺してやりたい。ミサイルで日本を攻撃したい気持ちだ。
   わたしの家は、父母、兄、わたしの4人家族だった。姉がいたが、嫁にいっていた。兄は15歳だった」。
 わたしたちが、王川法さんから話を聞いているあいだ、そばでずうっと黙って座っている女性がいた。

 村人の1人が、
   「日本軍が村を襲ってきた1942年12月28日は、その女性の結婚式の日だった。その日の朝、日本兵に強姦され、
  そのあと精神を病んでしまった」
 と静かに話した。
  村人たちみんなから、その女性がいたわれていることが、わたしたちに強く伝わってきた。
  別れ際に、王川法さんは、「この村で殺された人たちの名は、記録されていない。これから記録していきたい」と話した。
  その四か月半後、2013年3月31日に、わたしたちは、常樹村を再訪した。
  王川法さんは、日本兵に殺された常樹村の村人の名簿をみせてくれた。
 そのあと、王川法さんは、父が殺された場所に案内してくれた。そこは、王川法さんの家の近くの四つ角だった。大きな石があった。その石を王川法さんは黙って指さした。
 その後、海南島近現代史研究会は3度、常樹村を訪ねた。
 さらにその7年後、2014年4月6日に訪ねたとき常樹村の風景は大きく変わっていた。
 常樹村を10時半にでて、定安県雷鳴鎮南曲村に向かった。わたしがはじめて南曲村を訪ねたのは2012年3月18日だった。この日に南曲村を訪ねたのは、2011年の秋に海南大学図書館の海南地方文献室で見た海南省定安県地方志編纂委员会編『定安県志』(2007年)で、「為国犠牲」と正面に刻まれ背面に王毅瓊崖守備隊司が書いた800字の碑文が刻まれている「雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵紀念碑」が、南曲村にあることを知ったからだった。同書には、この碑は、1946年春に瓊崖国民党軍政当局が雷鳴郷公所の門前に建てたものであり、1950年代のはじめに南曲村の村民が村に運んで保存していると書かれていた。
 2012年3月に、わたしがこの碑の前に立っていると、村人が、この碑のことをよく知っている人がいると言って、王昭成さんの電話番号を教えてくれた。すぐに電話すると、海口に住んでいる王昭成さんは、たまたま雷鳴に向かっている途中であり半時間ほどで碑のところに到着するとのことであった。
 王昭成さんが来るまでの間、わたしは、その場をくわしくみて歩いた。
 そこは、村道の一角に開かれた200平方メートルほどの草原で、村道から向かって右側に、「為国犠牲」と刻まれた高さ2メートルあまりの石碑が建てられており、そこから7~8メートルほど離れた左側に「馮白駒将軍抗日駐地遺址 雷鳴鎮南曲村居禄山 公元二〇〇〇年四月立」と書かれた同じくらいの大きさの石碑が建てられていた。その左奥には、太く大きな榕樹(ガジュマル)がたっていた。
 まもなく着いた王昭成さんに、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会のこれまでの運動の内容を話した。
 王昭成さんは南曲村の出身で、退職後、南曲村の“名誉の村長”と呼ばれている人だった。
 ふたつの碑の前で、王昭成さんはつぎのように話してくれた。
   「この“雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵記念碑”の正面の「為国犠牲」という文字は、国民党広東省第9区行政監督
  専門員兼保安司令官(陸軍中将)だった丘岳宋が書いたものだ。
   背面の碑文には国民党の瓊崖守備司令官の王毅の署名がある。
   これは、抗日戦争に勝利した後、定安県の雷鳴と富文での抗日戦争の犠牲者を追悼し、日本軍に抵抗した
  軍民の事績を伝えるために、1946年に国民党政府が雷鳴郷の郷公所があった雷鳴村に立てたものだ。
   雷鳴と富文での2度の戦闘中に、国民党の将兵17人と抗日志士8人が犠牲になった。そのなかの1人は、定安県
  遊撃予備第一大隊の隊長王志発だった。かれは南曲村の人だった。王志発は、農暦1942年1月に、雷鳴鎮の隣の
  富文鎮の戦闘のときに戦死した。29歳だった。
   1951年の台風の時に、石碑が傾いた。しかし、その後、管理する人がいなかったので、南曲村の村民4人が、こ
  の高さ2メートル、厚さ10センチの重い石碑を南曲村の王氏の祖廟まで担いで運んだ。わたしの父の王広亨もそ
  の4人のひとりだった。
   文化大革命のとき、村民は、ひそかにこの石碑を井のそばに置いて踏み石のようにして隠した。村人は国
  民党軍の指揮官の題字が刻まれている記念碑が破壊されることのないように守った。
   「馮白駒将軍抗日駐地遺址」という石碑は、2000年4月に南曲村の村民が建てたものだ。その10年後、2010年
  に、「雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵記念碑」が、「馮白駒将軍抗日駐地遺址」のそばに建てられた。
   1941年の前半に、馮白駒将軍が指揮する瓊崖抗日独立総隊の10数名の戦士が南曲村の居禄山に来て、日本軍
  への抵抗をよびかけ、5件の家に分かれて14日間滞在した。「馮白駒将軍抗日駐地遺址」という石碑はそのこと
  を記念する碑だ。
   宿泊した李家の人に感謝するため、馮白駒将軍は、出発が迫ったときに1枚の自分の肖像画を贈った。馮白
  駒将軍が当時泊まった家はすでに崩れ落ちているが、基礎だけは残っている。この肖像画は抗日戦争と解放戦
  争と文化大革命を経て秘蔵されてきた。
   2011年1月7日に、馮白駒の娘の馮尔超と馮尔曾が父のとどまったことがある南曲村を訪ねて李氏の息子の王
  世春さんに会った。このとき82歳になっていた王世春さんは、馮白駒将軍の肖像画を寄贈した」。
 
 日本海軍の『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図(1943年3月1日現在)」には、雷鳴守備隊の日本兵は42人、定安守備隊の日本兵は72人、金鶏嶺守備隊の日本兵は18人と書かれている。
 海南島で日本海軍海南特務部政務局第3課は、特務部海南師範学校を設置・運営していた。海南師範学校の関係者が2004年9月に出版した『天涯に陽は昇る 海南島への架け橋』(発行人山本良一)には、雷鳴の日本語教師には、海南師範学校第3期生の中という人がいたと書かれている(163頁)。  

  4月6日11時半ころ、南曲村のふたつの碑の前で出会った村人に聞くと、 王昭成さんは数年前に亡くなった、と言った。すぐ近くの王昭成さん家を訪ねると鍵がかけられていて誰もいなかった。わたしが最後に王昭成さんに会ったのは2018年10月だった。それまでの間に、南曲村や海口で10回ほど会っていた朋友を失った。
 12時ころ南曲村を離れ、同じ雷鳴鎮の梅種村に行った。
 わたしが梅種村をはじめて訪問したのは、2010年5月23日だった。
 この日、わたしは、許如梅さん(1918年~1943年)と周春雷さんの墓がある雷鳴鎮梅種村を訪ねた。許如梅さんの娘さんの符如来さんといっしょでした(海南島近現代史研究会会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号の表紙に、許如梅さんの墓の写真が掲載されている)。
 2010年4月6日に海南省図書館ではじめて読むことができた王俊才・王広虎「堅貞不屈 浩気長存――憶周春雷、許如梅同志壮烈犠牲」(定安县委党史研究室編『烽火』1987年7月)には、
   「敵は許如梅の頭を切りとり、続いて周春雷の頭を切って、梁安利に担がせて、雷鳴墟まで運ばせ大勢の
  人にみせた。しかし、梁安利同志は屈服することなく、平然と死に対決雷鳴墟で英雄的に義のために死んだ」
と書かれてあった。

 2010年5月23日の13年あまりのちの2024年4月6日には許如梅さんの墓には、墓石が無くなっていた。

 梅種村を離れ、午後2時半に定安県黄竹鎮大河村に建てられている “黄竹三村公墓”の場に立った。「中華民国三十四年」(1945年)に建てられた墓碑には「大河 後田 周公 三村抗戦同日殉難義士林俊南等一百零九名之公墓」と刻まれている。
 1941年8月25日(農歴7月3日)早朝、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊所属の日本軍部隊が三村(現在、大河村・后田村・牛耕坡村・周公村の四村)を包囲し、明るくなってから村人を集め、家に押し込め、火をつけ、逃げ出した村人を刺殺した。母親に背負われた幼児も殺した。さらに逃げようとする村人に日本兵は銃を乱射した。
 わたしがはじめてこの場を訪ねたのは、2002年10月だった。その後わたしは、遺族や目撃者の証言をきかせてもらうために数度この村を訪ねた。

 大河村を離れ、文昌市南陽に向かった。「南陽人民英雄紀念碑」のそばに新しく「南陽英雄紀念園区」がつくられていた。
 5時過ぎに文昌市内に着いた。 
 
                   佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 7

2024年04月21日 | 海南島近現代史研究会
 4月5日朝7時ころから数羽の鶏鳴がなんども聞こえた。
 8時ころ旅館をでて新盈港に行った。1939年9月19日に日本軍(司令長官林田鷹次)は、海南島北海岸の天然の良港新盈一帯を空爆し、9月22日に艦砲射撃をおこない、9月25日に新盈港から上陸した。わたしたちは2002年春に新盈港を訪ねていた。20年あまりのちの新盈港の風景は大きく変わっていた。埠頭に残されていた日本軍の見張り台は撤去されていた。当時、港の近くで何人かの人に話を聞かせていただいたが、もうその人たちに再会することはできなかった。
 侵略してきた日本軍は、近くの高台に司令部を設営し、周囲に壕を掘り、砲台、火薬庫、宿舎、給水塔、食堂、井戸、厩、伝書鳩小屋などを建設した。日本軍はこれらの建設に中国人を排除し、連行してきた朝鮮人だけを使ったという(王京「新盈日軍司令部的設立及暴行」、臨高文史資料研究委員会編『臨高文史』10、1995年12月)。
 1940年1月に、日本軍は、新盈に慰安所をつくった。12歳のときに、その慰安所で洗濯や炊事をしていたという宋福海さんは、
  「慰安所は派遣軍に属していた。中年の日本人女性ふたりが管理し、4人の慰安婦がいた。ひとりは若い朝鮮人だった」
と証言している(宋福海「新盈慰安所」、『臨高文史』10)。日本軍はその後、さらにいくつかの慰安所をつくった。2002年春には新盈の慰安所とされていた建物は残っていた。
 1945年8月に日本軍が消えたあと、その場所に新盈小・中学校が建設された。
 新盈中学校の敷地となっている旧日本軍司令部跡の給水塔、司令部の建物は、1999年ころ3年前に撤去されていた。
 2002年年春、新盈港に残されていた日本軍の見張り台の写真をとっていると、年長の男の人が、わたしたちを見て、日本語で「バカ」と繰り返した。わたしたちは、その場を急いで立ち去ろうとするその人を追いかけて、話を聞かせてもらえないかと頼んだ。かれは、「わたしは何も知らない。日本語をよく知っている人が近くにいる」と言った。その日本語を知っている人は、日本軍が海口につくった日本語学校に15歳のとき入学して日本語を学んだという林吉蘇さんだった(1925年生まれ)。林吉蘇さんは、
   「1944年はじめに学校を卒業して、特務部に通訳として配属された。海口と那大の日本軍で通訳をしたあと、故郷の新盈
  派遣所に勤務した。当時、新盈の商店の主人は、日本人か台湾人。海南島人は、働くだけ。
   那大には、舞鶴第一特別陸戦隊司令部があって、新盈よりも兵隊が多いので、慰安所が大きかった。
   日本軍がいま新盈中学があるところに建物を作っているときに、見にいったことがある。当時は全部、
  墓地だった。
  日本軍が来て、墓を壊して、施設を作った。土地の人は、苦力をした。
   日本軍が降伏したあと、三亜に逃げた。逃げないと、遊撃隊に殺されるから。日本軍に協力した人は、
  たくさん殺された。三亜では、楡林海軍工場で朝鮮人と会った。朝鮮人は、機械の修理・管理のしごとを
  していた。軍人ではない。100人以上いたと思う」
と話した。

 4月5日11時ころ新盈を離れ、旧道をとおって臨高に行き、高速道路に入って東に進み、福山で降りて北方の沙土に向かった。
 わたしたちは、2008年10月と2009年6月に沙土をなんども訪ねていた。
 1941年7月6日(農暦6月12日)に日本軍は、沙土の村々を襲撃した。
 沙土には、13の村(昌堂、美梅、那南、北山、昌表、聖眼、福留、欽帝、上帝、文旭、小美良、木春、扶里)がある。
 聖眼村の近くの墓地に建てられている高さ12メートルほどの「史証碑」の碑文に、1941年閏6月12日に沙土の昌堂、美梅、那南、北山、昌表、聖眼、福留、欽帝、上帝、文旭で村人1119人が殺され、さらにその後200人あまりが殺されたと書かれている。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会として19回目、海南島近現代史研究会として6回目の海南島「現地調査」のとき、 2011年3月4日と6日に、澄邁県沙土の欽帝村に行った。1年8か月ぶりの沙土訪問だった。
 わたしたちは、2008年10月と2009年6月に昌堂村、美梅村、那南村、北山村、昌表村、聖眼村、福留村を訪ねていたが、今回は、福留村と聖眼村を再訪し、欽帝村をはじめて訪ねた。
 欽帝村では、侵入してきた日本兵に機関銃で射殺される寸前に逃げて生き残ることができた王世杰さんと王徳林さんに話を聞かせてもらうことができた。
 王世杰さんは、
   「あの日、双子のあかんぼうを抱いて女性が逃げたが、殺されてしまった。あかんぼうは、生まれて1か月くらいだった。
    父親も殺されており、乳を飲ませる人もおらず、生きていけないので、村人が、母親といっしょに埋葬した」
と話した。
 3月6日朝10時過ぎから1時間ほど王世杰さんに話を聞かせてもらったあと、王世杰さんが機関銃を向けられた現場に案内してもらった。
 そこは、村の中心から200メートルほど離れた伺堂の前だった。石造の伺堂とその周りの囲いの石の壁は、ほぼ当時のままだとのことであった。この日はちょうど村の土神の祭日で、供え物が置かれ、ろうそくの火がともされていました。王世杰さんから当時のことを話してもらっているとき、爆竹が鳴らされた。
 そのとき、とつぜん、王徳林さんが来て、当時日本兵が機関銃を置いたあたりに走って行き、わたしたちに日本兵がどのように年寄りや子どもたちを殺そうとしていたかを、身体で示してくれた。
 王徳林さんは、つぎのように話した。
   「ここに、日本兵は、年寄りと女の人と子どもを3列に並ばせた。前列は年寄り、2列目は女の人、3列目は
  子ども。
    日本兵は腹ばいになって機関銃を撃った。そのそばで小銃を持った日本兵は立って撃った。撃たれた後
  も生きていた年寄りを銃剣で刺して殺した。
    わたしは、王世杰さんたちといっしょに逃げた。妹も逃げたが、小銃で撃たれて殺されてしまっ
  た。
    竹やぶの間に隠れた。しばらくたってから、イ、ウォ、サン、シと言いながら、日本兵は去って行った。午後3時ころだったと思う。
    まもなく、遠くの村のほうから銃の音が聞こえた。
    日本兵がいなくなってから、家族をさがした。
    父(王世桐)の遺体を見つけた。背中から撃たれて殺されていた。祖父(王元享)は父から20メートルほど離れた
   ところで殺されていた。母(王氏)の遺体はそこからすこし離れたところにあった。
    わたしの家では、祖父、父、母、妹2人、伯父(父の兄)、伯父の妻、叔父(父の弟)2人、ぜんぶで9人が殺された。
     その後も、日本兵はなんども村に来た。井戸端で洗濯している女性を強姦してから殺したこともあった。その
   井戸はいまも残っている。
    両親が殺されてから、生きていくのに苦労した。牛の糞を拾って乾かして売ったりして暮らした。
 王徳林さんは、祖父と両親が殺されたところに連れていってくれた。
 村はずれの小道をたどって樹木がまばらに生えているところにきて、王徳林さんは、立ち止まり、ここだ、と言った。そして、祖父が倒れていた地点、母の遺体を見つけた地点を示した。そのあたりには、10人ほどの人が倒れており、銃で撃たれて殺された人も、銃剣で刺されて殺された人もいたという。
 その近くに石でつくられた家があった。その家は、当時もあったとのことであった。石組みのしっかりした家で、人は住んでいなかった。その家の前から、虐殺現場が見えた。
 そのあと、王徳林さんたちが逃げて隠れた地点に案内してもらった。
 伺堂の前の道を右にそれ、大きな樹木の間をぬけたところに細い竹が密集している竹林があり、数百メートルかなたに海(沙土湾)が見えた。その竹林の奥に隠れたという。当時は、いまより竹林の地面が低く、水があふれていたとのことであった。
 王徳林さんと別れて村に入っていくと、日本兵が機関銃で村人を殺害した現場から近い自宅そばの豚小屋の前で、王徳信さん(1954年生)は、
   「兄が日本兵に腹を切られてまもなく死んだ、腹から腸が流れ出していたと、父から聞いた。父は銃剣で
   3回刺されたが生き残った。母はそのとき村にいなかったので助かった。姉は日本兵に強姦されて殺された」
と話した。

 日本政府は、沙土での日本政府と日本軍の犯罪記録を公開していない。当時、沙土地域を占領していたのは、日本海軍舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の部隊であった。
 沙土虐殺にかんする記録・報告は、わずかである。いちばんくわしいのは、澄邁県政協文史資料委員会が1995年ころ編集発行した『澄邁文史』第十期(『日軍侵澄暴行実録』)に掲載されている、温家明・温明光口述(曾憲富、呉可義、雷登華整理)「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」である。
 2003年8月20日に新華網は、沙土虐殺にかんする「目睹大屠殺 八旬老人痛訴日軍在瓊犯下罪行」と題する記事を配信した。
 2003年8月20日に新華網が「目睹大屠殺 八旬老人痛訴日軍在瓊犯下罪行」を配信し、その2年後の2005年8月15日に、橋頭鎮人民政府が聖眼村の近くの墓地に「史証碑」を建立した。
 その碑文の全文は、つぎのとおりである。

  槍声遠去笑声欣、時尚新潮世尚仁。
  血鋳沙土千古恨、碑留史証告来人。
  一九四一年夏、国軍臨高県遊撃大隊長黄坤新率部、于沙土海域截取了日僞軍西路総指揮林桂深営運的貨船、並殺死押運人林桂深之仔林明成。林便誣沙土人民所為、逐勾結日軍,同年閏六月十二日払暁時分、日軍二百多人、従那大、新盈、包岸等地分乗十部汽車、長駆直入沙土峒、旋即包囲了昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等村庄。以検査「良民証」為名、強聚群衆、行槍射、刀砍、剣戮、奸殺、生埋之凶。僅両個時辰、就殺了男女老幼一千一百一十九人。后又両次来犯、再殺無辜両二百余人、焼毀民房五十八間、漁船一百多条、掠搶耕牛六百多頭。這就是瓊島史上惨絶人寰的「沙土惨案」。如此的腥風血雨、鉄証着侵瓊日寇的罪悪、銘刻着沙土人民的冤怨。特立此碑、永志不忘。
                 橋頭鎮人民政府   公元二〇〇五年八月一五日

 2024年4月5日午後3時ころ橋頭鎮を経由して沙土に向かった。史証碑のある聖眼村を訪ねると、沙土虐殺の犠牲者の名簿をつくっていた温国興さん(1928年生)は農歴2016年2月に亡くなっておられた。弟の温国照さんによると、バイクに乗っていて倒れてけがをし、一週間入院したが回復のみこみがないので家に帰り、まもなく亡くなったという。
 温国照さんは“いま聖眼村ではわたしが一番年上だ。1941年8月4日に、家の近くの竜眼の樹の下で日本兵に何か所も刺され血が流れたが歩いて家に戻った。母が南瓜のわたで血止めをしてくれた。いちばん 深かった傷には3年間薬をつけ続けた”と言って、その傷跡をみせてくれた。
 そのあと、王徳林さんの家を訪ねた。その直前、近所に住んでいる人が“王徳林さんはボケていて何もわからなくなっている”とひとち話していた。2015年ころ王徳林さんの家の近くで出会ったことがある。そのとき王徳林さんは、大きな薪の束を背負って元気に歩いていた。
 王徳林さんは、一人で歩行器に座っていた。「好久不見。我従日本来的」と言ったがこたえがかえってこない。7~8分間同じコトバをくり返していると、とつぜん「サトウショウジン」、“メシを食っていけ”と言い、その後なんども“メシを食っていけ”とさそってくれた。家の階段に積んであったバナナをもらった。
 別れの時、家の前に出てきて、訪ねたわたしと邢越さんの姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
 5時半ころ橋頭鎮に向かった。途中、風が強くなり、砂塵で陽が赤くなった。橋頭鎮に旅館が無くなっていたので、澄邁県に向かった途中陽が落ち、金江鎮の旅館に入ったのは8時過ぎだった。 
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2024年春の海南島「現地調査」報告 6

2024年04月20日 | 海南島近現代史研究会
 4月4日朝9時、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」の前に着いた。
 碑の裏面には、
    這是鮮血和生命凝鋳的歴史。随着“九・一八”的硝烟、我祖国大好河山被日寇鉄蹄蹂躪。数千万同胞被殺
  戮。
    一九三九年二月、日軍侵占海南后、我旦場村民為捍衛民族尊厳、不甘当亡国奴、拒領“順民証”、憤怒的撕
  破焼毀日本国旗。
    由此、日軍対我村進行滅絶人性的野蛮報復、当年十一月四日深夜(農暦九月二十三日)、全副武装的日
  軍従水路上岸包囲我村庄、殺害九十三同胞、其中孕婦五人、強奸村姑四人、焼毀民房三十多間、槍劫財物
  無数……制造旦場九・廿三大惨案。
    歴史決不能忘却、惨劇更不容重演! 為報国難、家仇和民族恨、旦場先烈們在抗日戦争中可歌可泣的
  事跡永載史冊、他們寧死不屈的革命精神永遠激励着后人、奮発図強、振興中華、反対侵略戦争、維擁世界
  和平。
    為永恒的紀念、旦場村民立碑銘記。
                        公元二〇一三年三月

と刻まれており、そのそばに犠牲者の名、性别、殉难时年龄、亲缘关系がつぎのように刻まれている。

1 张生珠 男 81 张恩福曾祖父
2 谢连瑞 男 50 良昌祖父
3 许江匙 女 52 文丕富伯母
4 谢宏茅 女 68 张永值祖母
5 符凤岑 女 49 张天太祖母
6 文建熙 男 3 文益忠叔父
7 李则佑 男 28 李开现堂伯父
8 符兰荣 女 46 文名发祖母 
9 文仍面 女 68 符克勤祖母
10 文绍谦 女 54 张天助祖母
11 文士钦 男 70 文国瑶祖父
12 谢先炳 男 67 谢克精祖父
13 谢连兆 男 65 则富伯父
14 林 女拜 角 女 63 则富伯母
15 谢泽兰 女 13 则富堂姐 
16 谢泽坤 女 8 则富堂姐
17 谢泽路 女 一个月 则富堂妹
18 文贵女 女 46 王永双母亲
19 王永成 男 14 王永双胞兄
20 文昌才 男 25 文益丰父亲
21 文丕毓 男 35 文坤卜父亲
22 文成美 男 26 许承仕小舅公
23 文其英 男 37 昌显父亲
24 符玉佳 女 26 文国富前妻
25 黄永银 女 38 张坡弟前妻
26 文 女拜 窝 女 65 张天兴祖母
27 张天梅 女 30 张天兴胞姐
28 文其生 男 29 文昌民叔父
29 文兆和 男 42 文世连父亲
30 文国秀 男 37 文任元父亲
31 王之仁 男 40 永乐父亲
32 张石纯 男 46 张天玉祖父
33 赵永姨 女 40 文益留祖母
34 文瑞赫 男 36 文宗文伯父
35 文亚妹 女 36 文宗文伯母
36 文宗世 男 3个月 文宗文堂弟
37 谢则鸟 女 21 文宗文前母
38 谢祥符 男 32 谢泽长父亲
39 文琼銮 女 32 谢泽长母亲
40 谢泽玉 男 18 谢泽长胞弟
41 谢坡小 男 7天 谢泽长胞弟
42 陶安三 女 62 文秉山祖母
43 王永善 男 21 永乐胞兄
44 文 经 男 35 文德远父亲
45 文庆补 男 36 文高岗祖父
46 李则兴 男 13 李则贵胞弟
47 文亚小 女   王永善的前妻
48 文现熙 男 32 文益成父亲 
49 文令护 男 38 文成群父亲
50 文拜堪 女 35 许瑞梅母亲
51 文仁堪 男   文义五父亲 文昌盛继承 
52 王绍堪 女   文义五母亲 文昌盛继承
53 陶仍姐 女 60 文高荣祖母
54 文其川 男 40 文丕训父亲 
55 文仁均 男 48 亚条父亲开琼继承
56 谢三拥 男   谢良高叔父
57 文妹琴 女   文妹真胞姐
58 张成汤 男   张天才堂伯父 
59 谢金亻于 男  谢宝智父亲
60 谢祖兴 男   谢良才父亲
61 谢则性 男   谢良月父亲 
62 文妹笑 女   文宗娥继承
63 文其兴 男   文丕福叔父
64 文瑞路 男   文相机兄
65 文龙排 男   文其雄兄
66 张玉全 男   张永奎叔父 
67 文昌南 男   文丕高兄
68 许明芬 男 75 许瑞俊继承
69 文绍番 男   文永职父亲
70 文性龙 男   文昌东叔父 
71 黄金才 男   黄永照父亲
72 文康复 男   文永真父亲
73 文兆熙 男   文 女拜 珍父亲 註:「女拜」は、「拜」に「女」偏がついた漢字。 
74 许代奇 男 51 许瑞底父亲 
75 文 女拜 耐 女 60 许瑞俊继承
76 文瑞雄 男   文秉位叔父
77 文世帖 男   昌功叔父
78 谢先堪 女   文相器母亲 
79 文先喜 男   文天亮父亲
80 赵拜移 女 32 文庆勇叔母
81 文拜小 女 几天 赵拜移女儿 
82 文天明 男   文性方叔父
83 张 骞 女   成福祖母
84 谢家宝 男   谢昌姨父亲
85 符登雄 男 38 文永祥小舅
86 文其福 男   克耿父亲
87 符开尧 男   符振养叔父 
88 符仕高 男   符美柳父亲
  胎儿五名

 海南島近現代史研究会がはじめて東方市北方の四更鎮旦場村を訪ねたのは、2012年11月2日(農暦9月19日)の午後3時ころだった。
 このとき、旦場村の人たちが、日本軍に殺された村人の名を刻んだ追悼碑を建立する準備をすすめていることを知った。
 この日の午後8時過ぎに、旦場村から東方市内に着いたわたしたちは、旦場村の追悼碑建立の準備を中心になって進めている謝良昌さんと李永賢さんからくわしく話を聞かせてもらうことができた。
 それから5か月後の海南島「現地調査」の最初の日、2013年3月25日にわたしたちは再び旦場村を訪問しようと考えていたが、出発10日前に、謝良昌さんから、“旦場村の人たちが多く東方市にいるので、旦場村にではなく、東方市にこないか”という連絡があったので、東方市を訪問することにした。
 わたしたちは、1989年にはじめて海南島を訪問しましたが、そのとき東方市にも行きました。東方市は、日本が海南島を侵略した時期には、八所という小さな村だった。石碌鉱山の鉄鉱石を奪って日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。この工事で多くの人命が奪われた。八所港の「万人坑」には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられた。
 東方市は、その北東の昌江黎族自治県、白沙黎族自治県、南の楽東黎族自治県と同じく黎族の人たちが多く住む地域で、1990年代なかごろまでは、東方黎族自治県とされていた。清国時代から1940年代までは、昌江県と感恩県の一部とされており、東方黎族自治県とされたのは、1950年代のようである。

 2013年3月25日午前11時に東方市内の待ち合わせ場所に着くと、謝良昌さん、李永賢さんとともに、旦場村委員会書記の文益夫さん、旦場村委員会主任のまだ20歳代の張恩朝さん、東方中学校の校長をしている謝華さん(謝良昌さんの弟)、東方市の二軽局の局長を退職した文培徳さんが迎えてくれた。
 その席で、追悼碑の建立について、李永賢さんはつぎのように話した。
   “追悼碑は、昌化江に向かって南向きに建てる。場所は、みんなで決定した。
   碑の正面に、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」と刻み、その下に碑文を刻む。
   石の裏面に殺された人の名前を刻む。碑の周囲は樹木や花で囲みたい。
   あなたたちが来た昨年11月には、93名の犠牲者のうち、85人の名しかわからなかったが、その後、これまでに90人の名を知ることが
  できた。
   旦場村の交通の便は、いまは悪いが、これからは道路や橋が建設されると思う。
   この碑を外から訪れる人、とくに若い人たちに事件を伝える教育基地としていきたい。
   ことし、74年前に93人が日本兵によって殺害された農歴9月23日(普通暦では、10月27日)に除幕式を開催したい”。
 謝良昌さんによると、旦場村の追悼碑を建立する運動が本格的に始められたのは7年ほど前からで、犠牲者の名前、年齢、「親縁関係」などの調査を始めたのは、2011年からだとのことでした。犠牲者の名簿(「旦場9・23惨案殉難同胞登記表」)の作成が、1939年から70年あまり経過してようやく行なわれることになったことについて、謝良昌さんは、
   “村ではむかしから犠牲者の名を調べてきていたが、中心になる人が多忙だったこともあり、定年になってようやく本格的な活動ができ
  るようになったからだ”
と話した。

 4月4日朝10時、旦場村の大樹のある広場に行く。文益顕書記が迎えてくれた。
 日本軍の大虐殺後、生き残った村人は2000人以上だったが、その後村を離れる人が多く、今の村の人口は200人あまりだという。
 紀念碑の前に門を造る準備を始めており、設計図はできているという。1947年に故文天政さんが編纂した「村歌」(哀嘆長恨歌 日軍惨殺旦場同胞)を整理した王永效さんはいま東方市に住んでいるという。謝良昌さんは東方市に住んでおり、李永賢さんは数年前に亡くなったという。謝良昌さんに電話すると、紀念碑建設後も犠牲者の名簿の整理を李永賢さんといっしょにすすめてきたと話した。今年秋に会う約束をした。
 11時に旦場村を離れ、三家鎮、烏烈鎮、海頭鎮、白馬井鎮をとおって午後6時半に新盈鎮に着いた。

                                      佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 5

2024年04月19日 | 海南島近現代史研究会
 4月3日朝8時に黄流を出発し、9時半に楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村の邢亜响さん(1923年生)の家に着いた。邢亜响さんは2023年10月に亡くなっていた。脳梗塞で倒れ海口の病院で2か月間闘病したが家に戻って亡くなったという。邢亜响さんは日本軍と戦ったときの弓矢や火縄銃を保管していたが、邢亜响さんの死後、風習にしたがって燃やしたという。
 生前、邢亜响さんは、
   「日本軍と何回も戦った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射った。
    自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。銃はいまもある。弓も使った。矢じりは
   鉄だった。
    仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。女性もいた。女性兵士は、炊事をした。
    機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思っ
   た。日本兵を殺して銃を奪った。
    7日間、連続して戦ったことがあった。戦って逃げて、戦って逃げて、戦って逃げた。歌いながら戦っ
   た。遊撃隊は、みんな歌えた。 黒眉村は、まえは老包嶺のふもとにあった。今は人は住んでいない。
    解放後、村はここに移った」
と話していた。kouniti kuromayumuraHP (hainanshi.org) 
 邢亜响さんの一男の邢福球さん(1959年生)に昔の黒眉村に案内していただいた。
 昔の黒眉村では、多くの村人が日本軍に殺されたので、1945年にいまの場所に生き残った村人すべてが移り住んだという。

 黒眉村から感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)に午後2時過ぎに着いた。
 「一九四五年三月二日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられた「横鎮四特戦闘詳報第五号」が東京の防衛研究所図書室で公開されている。この文書は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊が作製したもので、1945年3月2日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」である。この「戦場ノ状況」と題する個所には、
   「海岸線ヨリ東方一粁ニ位置スルニシテ戸数約八〇戸人口約三〇〇ヲ有シ農業 ヲ主スル一寒村ナリ
    周囲ハ高サ一乃至二米巾約二米ノ潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ出入門ヲ有シ
   西北ノ一部ニ高サ約二米ノ石造城壁アリ」
と書かれている。日本海軍は、住民300人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃した。この村を襲撃したのは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊長猪瀬正信(日本海軍一等機関兵曹)ら11人で、全員が「便衣」を着ていた。この11人が2組に分かれて村を襲撃したのは、1945年3月2日午前10時30分だった。
 わたしたちは1945年3月2日の66年後の3月2日12時40分に、新村を訪ねた。
 「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「敵ニ與ヘタル損害」として、「遺棄死体四(共産党第二支隊指揮中隊長及同軍需主任ヲ含ム)」と書かれているが、新村で聞きとりをして、その「共産党第二支隊指揮中隊長」が湯主良さんで、「共産党第二支隊軍需主任」が王文昌さんであることがわかった。
 湯主良さんの妻の張亜香さんに話を聞かせてもらうことができた。張亜香さん(1922年2月21日、農暦1月25日生)の89歳の誕生日の9日後だった。
 話を聞かせてもらった場所は、小学校の校庭の塀の内側で、その塀の向こう側には、66年前に夫の湯主良さんら4人が日本兵に包囲され爆死した地下室があった。
 張亜香さんは、静かなしっかりした口調で、当時のことをつぎのように話した。その場にいたたくさんの小学生が周りを囲んで、張亜香さんの証言をいっしょに聞いた。
   “夫は、一七歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、23歳だった。
   子どもは2歳半だった。わたしは18歳のときに結婚した。夫が死んだときは22歳だった。夫が死んだ
  のは、正月18日だった。
   夫は、夜、ものを運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
   夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは知らなかった。  
   夫は家にいる時間は少なかった。ほとんど家を離れていた。わたしは、夫の両親と、農作業をして暮ら
  していた。
   夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げていた。あの
  ころわたしも子どももほとんど家に戻らなかった。
   わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所ではなか
  ったので、なにかあったらすぐ隠れる地下室をつくってあった。家の中では、食事や話ができるが、急
  になにか変なことがあったら、すぐに地下室に入る。狭いが、2~3人はゆっくり入れるほどの広さだっ
  た。
   あの日、日本軍が来たとき村にいた六人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て逃げた。
   愚かなことに、逃げて、地下室の方に戻ってきた。この党員を日本軍が追いかけてきた。逃げる
  ときには、絶対に自分の同志の方に行ってはならないのに……。この人は逃げるのが遅かったので、
  日本軍につかまってしまった。つかまって、少し聞かれてから、すぐに、中のことを日本軍に教えた。
   日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
   地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて床にしていた。その床の土を掘っていくと板に
  ぶつかる。日本兵は、村人に命令して、土を掘らせた。
   その音を聞いて、地下室にいた4人は、自殺することにした。地下室から出て日本兵と銃撃戦で闘っ
  たら、あとで村民たちがひどい目にあうと判断したようだ。日本兵は、このとき平服で七~八人だったか
  ら、闘うこともできたが、4人はそうせずに、自死の道を選んだ。
   日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。銃を自分に撃った
  人がいた。手榴弾を爆発させた人もいた。
   日本兵は、村人に地下室で倒れている4人を掘り出させた。
   ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下に向けさせた。
   しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったので、拳銃で頭を何発も撃って殺した。脳が砕けて  
  飛び散ったという。三人の遺体は手も足も爆弾で砕かれていた。
   日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。
   朝8時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなくなってから、村
  に戻り、死んだ4人の遺体を見た。夫の頭に弾の穴があいており、手が無かった。
   そのあと日本兵は、2~3日ごとに村に様子を見に来た。
   隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑された”
 張亜香さんは、夫の湯主良さんらが死んだのは、正月18日だと話した。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊が龍衛新村を襲撃したのは、1945年3月2日であったと書かれている。1945年3月2日は、農暦では1月18日だった。
 湯主良さんの遺児の湯祥文さん(1942年生)に、湯主良さんの墓に案内してもらった。
 墓は村から一キロあまりはなれた広い墓地の中にあった。以前は、村の近くに埋葬されていたが、2006年にこの場所に改葬されたという。
 高さ二メートルあまりの墓碑に、
   「永垂不朽」
   「生于一九二一年辛酉二月二十七日辰時為人正直思想進歩一九三八年投身革命曾任
   村党支部幹事娶同村邦直公次女為妻夫妻恩愛傳男一丁女一口一九四五年正月十八日
   為掩護群衆撤退被日軍囲困寧死不屈而光栄犠牲年僅廿四歳」
と刻まれていた。

 3月2日午後3時半に東方市新龍鎮新村を離れ、5時半に東方市八所鎮新街村に着いた。わたしが新街村の倪定平さん(1936年生)にはじめて会ったのは2003年春だった。その時、新街村の日本語学校のあった場所や横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令部司令部のあった場所などに案内してもらった。日本語学校にかよったことのある倪定平さんは、
   「当時、生徒は160人くらいだった。1クラス40人で4クラスあった。正面に職員室があった。
    左右に教室があった。日本人教師のひとりの名は、水村定男だった。
    学校の後ろに、日本軍専用の病院があった」
と話した。 
 倪定平さんは「日本侵略期の新街小学校の生徒たち」、「新街小学校前の日本兵士と日本語教師たち」、 「新街小学校の教師たち 軍帽をかぶった日本人教師2人とかぶっていない台湾人教師2人」などの写真をもっていた(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月10日発行、76頁)。
 その年11月に再会し隣村の墩頭村の漁港近くにあった横須賀鎮守府第4特別陸戦隊守備隊の望楼跡、日本軍が爆撃した学校の跡などに案内してもらった。その後なんども倪定平さんに会って新街村とその周辺での日本軍の侵略犯罪についてくわしく話していただいた。

 4月3日に家を訪ねると、倪定平さんは1年前(2023年4月20日)に新型冠状病毒肺炎で亡くなっておられた。わたしが最後に会ったのは2014年11月20日だった。一男の倪徳雲さんが“父は発病してから10日間ほど入院したが家で死んだ。肺が真っ白だった”と話した。

                                   佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 4

2024年04月18日 | 海南島近現代史研究会
  4月2日朝9時40分に旅館から回新村に向かった。5年半前にはなかった道路ができていて、なかなか着かない。10時40分に着くが、村中の道路もおおきく変わっている。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が初めて回新村を訪ねたのは、21年前の2003年3月24日だった。このとき出会った哈秉堯さん(当時74才)は、日本人が、朝鮮人を「朝鮮報国隊」の人たちだと言うのを聞いたことがあると言った。 
 わたしたちは、朝鮮人の宿所跡に、案内してもらった。朝鮮人は、飛行場建設や、道路建設をさせられ、殴られて死んだ朝鮮人もいたという。
 哈秉堯さんは、その現場に案内してくれた。哈秉堯さんは、子どものころ毎日のように朝鮮人がおおぜい死ぬのを見たと言った。
 その後、わたしたちは、なんども回新村を訪ね、村人から証言を聞かせてもらった。
 2004年4月に紀州鉱山の真実を明らかにする会は1998年6月からの海南島での「現地調査」での映像を編集して、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』を制作した。2004年7月にその朝鮮語版を、2004年12月にその漢語版を制作し、2005年はじめに回新村で漢語版を上映した。
 わたしが最後に哈秉堯さんに会ったのは、2018年10月下旬だった。今度訪ねたら家は空き地になっており、近所の人が哈秉堯さんは何年か前に亡くなり、家族は飛行場の近くに引っ越したと話した。
 回新村を離れて、「朝鮮村」に向かった。11時10分に「朝鮮村」の南丁小中学校の前に着いた。
 わたしたちは、これまで20回ちかく「朝鮮村」を訪ね、「朝鮮村」の村人に日本軍が「朝鮮村」をその周辺で朝鮮人を強制的に働かせ、暴行し、虐殺した目撃証言を聞かせてもらってきた。
 今回は同行できなかったが、海南島近現代史研究会の会員の在日朝鮮人が、「朝鮮村」の貧しい小中学生に使ってもらうようにと南丁小中学校に100万円を寄金したいと言い、わたしが預かっていた。南丁小中学校の蔡少冠校長は、上部機関(教育局→民生局)に問い合わせてから、受け取ってくれた。校長は、貧しい生徒と成績のいい生徒のために使いたいと言った。南丁小中学校に隣接している広場には日本政府に「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行されて1945年夏に虐殺された朝鮮人1000人以上が埋められていた。

 4月2日12時15分に南丁小中学校から離れてが埋められている広場に行った。広場の南丁小中学校寄りの場所(朝鮮人の遺骸がいまも埋められている)には、陶器工場が建設されていた(現在は休業中)。
 12時40分に「朝鮮村」から黄流に向かった。

                                      佐藤正人
 
 
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2024年春の海南島「現地調査」報告 3

2024年04月17日 | 海南島近現代史研究会
 4月1日朝8時35分に旅館を出発し、9時30分に英州鎮九尾村(前、九尾吊村)に着いた。
 わたしは、2005年に、政協陵水黎族自治県委員会主席の蘇光明さんから『陵水文史 7 日軍侵陵暴行実録』(1995年2月発行)をいただいた。その書には、馮徳郷・藍信郷・馮興瓊口述、蘇光明整理「死里逃生憶当年——九尾吊村“三・九”大屠殺述実」が掲載されていた。そこには1943年農歴3月9日に日本軍が村民72人を殺害したという証言が記されていた(陵水黎族自治県老区建設促進会編『陵水黎族自治県革命老区発展史』(2021年12月、海南出版社発行)には「死里逃生憶当年」が「九尾吊村大屠殺遺址」と題されて6行に縮められて収録されている。314頁)。
 2007年から海南島近現代史研究会は村人に証言を聞かせてもらうために、何度か九尾吊村を訪ねた。
 2014年4月7日に英州镇红鞋村委会九尾村全体村民は、陵水黎族自治县人民政府に、村に日本軍の村民殺害の「歴史真相」を伝える「纪念碑」建設を求める文書を提出する準備を開始していた。
 海南島近現代史研究会が前回九尾村を訪ねたのは、2014年11月4日だった。そのとき、元書記の馮興義(1933年生)さん、現書記王田衛(1970年生)さんらは各家をまわり、戸主が死んだり、全滅した家のばあいは、親戚を訪ねて聞いて、殺された人の名まえ、虐殺の状況を調べて文書をつくったと言った。
 馮興義さんは、
   「日本軍は村の二つの方向から攻めてきた。田んぼの方には日本兵はいなかったので、20何人が田んぼのほうに逃げた。
    逃げられなかった人はぜんぶ、剣で刺し殺された。
    当時わたしは13歳ころで、家族は、父、母、兄3人、姉2人、じぶんの8人家族だった。わたしは末子なので、父はわたしを
   連れて逃げた。兄ふたりと姉ひとりは逃げることができたが、兄の亜楽と姉の玉英は殺された。兄は25歳、姉は15歳だった。
   王廷朝と李家珍はつかまって、隆広の日本軍の基地まで、村のニワトリやブタ、羊などを運ばされたあと、首を切られて殺された。
   首は見つからないまま。隆広の人が見ていて、村の人に教えてくれた。村の人が遺骸を引き取りに行ったが、首がなかった。探しても見つからなかった。
   村の人はみんな山に逃げているので、村には
  人はいない。家は焼かれて、壁だけ焼け残っていた。日本軍は何回も来た。家を壊して、レンガを盗っていった。
   壁を壊したり、運んだりしたのは、別の村の人がした。どこの村の人かわからない。英州あたりの村の人。
  車はないので、みんなかついで運んだ。
と話した。とげがはえた大きなサボテンをゆびさして、馮興義さんは、
   「日本軍時代、大きく茂っていて、村のまわりぜんぶに植えられていた。‘界刺(ゴイシ)’という。動物も入って行かない。
   痛いが、ここに隠れた人は助かった」と言った。
 その9年半後の2024年4月1日に、わたしは 九尾村を訪ねた。村人に聞くと、追悼碑(「纪念碑」)は、まだ建設されていないと言う。
 馮興義さんの家を訪ねた。馮興義さんは、ほとんど目が見えなくなっていた。すこしの間話していると、声でわたしのことを思い出してくれた。馮興義さんは、1958年から1988年まで30年間、村里(周辺のいくつかの村)の書記をしていたという。

 2024年4月1日午後12時15分に、保亭黎族苗族自治県什玲鎮で陳厚志さんに会った。陳厚志さんは、張応勇さんに教えられて海南島で民衆運動を続けてきている人だ。
 保亭市内で張応勇さんの三女の張蕾さんに会った。張応勇さんの妻の黄菊春さんは2020年後半に、一女の張嘉さんは2022年後半に乳がんで亡くなったという。張応勇さんの遺稿集出版について話し合った。
 午後6時、三亞市内に着き、三亞民间文化博物館に行き、館長の蔡明康さんに再会し話を聞いた。『海南島近現代史研究第4号・第5号』を寄贈すると、「このような資料はいちばんだいじなものだ」と語った。

                                     佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 2

2024年04月16日 | 海南島近現代史研究会
 3月31日早朝、海口を車で出発し、高速道路を南に向かい、定安県・瓊海市を通過し、11時過ぎに万寧市万寧鎮に着いた。
 新型冠状病毒肺炎流行のため、海南島近現代史研究会が海南島に行くのは訪ねるのは5年3か月ぶりだった。
 初めに蔡徳佳さんの家を訪ねた。蔡徳佳さんは、2年前に亡くなられていた。
 わたしが、初めて蔡徳佳さんに会ったのは、2002年4月5日だった。その後、わたしが蔡徳佳さんに10数回話を聞かせてもらってきた。
 初めにあった日に、万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行資料専輯)』(『万寧文史』第五輯、1995年7月)をいただいた。その書には、蔡徳佳・林国齋「日軍占領万寧始末——制造“四大屠殺惨案紀実”」、楊広炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・廿一”惨案」が掲載されていた。
 3月31日午後1時過ぎに、月塘村の朱振華さんの息子さんを訪ねると、朱振華さんは2年前に脳の病気で入院し、いまはほとんど記憶を失っていると話した。
 わたしが初めて朱振華さんに出会ったのは、2007年5月24日だった。
 朱振華さんは、1980年代末から、月塘村虐殺の犠牲者の「調査」をはじめ、犠牲者と幸存者全員の名簿をつくった。虐殺三年後の1948年に月塘村で生まれた朱振華さんは、成人後、獣医をしながら、村の家を一軒一軒、なんども訪ねて聞きとりをし、月塘村虐殺の実態を知ろうとしていた。
 月塘村の追悼碑(三・廿一惨案紀念碑)は、2008年農暦3月21日(4月26日)に除幕された。
 追悼碑の建設は、朱振華さんと朱学基さんが中心になってすすめた。
 1945年5月2日明け方、日本軍は、北方の万寧市のほうから、月塘の西側の道を通って、村に入ってきた。その道は、いまでも残っている。
 月塘のすぐ近くの朱光清さんの家を日本軍が襲ったとき、まだ、陽はのぼっていなかったという。その家のあった場所で、朱光清さん(一九三四年生)は、
   「とつぜん家にはいってきた日本兵に、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびでた。
   手でおさえて逃げるとき、右足を切りつけられた。血がいつまでも止まらなかった。
   門のそばで母が殺された。四三歳だった」。
と、ときどき遠い所を見つめるようにして、低い静かな口調で話してくれた。
 朱光清さんは、傷跡をみせてくれた。腹部の傷跡が深く残っており、右足首上部の傷が細長く残っていた。
 2024年3月31日に朱光清さんの家を訪ねた。妻の黄玉金さんが、朱光清さんは家のなかで転んで骨折し、1か月ほど寝込んで農歴2023年2月10日に89歳で亡くなった、と語った。

 月塘村を離れ、高速道路を南西に進み、陵水黎族自治県英州鎮にいった。

                                 佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 1

2024年04月15日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会は、2024年3月30日から13日まで20回目(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては回目)の海南島「現地調査」をおこないました。
 その行程は、つぎのとおりでした。

3月30日午後9時、海南島海口国際空港にホンコンからの直行便で到着。 
3月31日 海口→月塘村→英州鎮大坡村→英州鎮九尾村→陵水泊。
4月1日 陵水→保亭→「朝鮮村」→三亞泊。
4月2日 三亞→三亞民间文化博物馆→黄流日本軍飛行場跡→黄流泊。
4月3日 黄流→感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)→東方市博物館→八所鎮新街村→四更鎮→東方市泊。
4月4日 東方→四更鎮英顕村→昌化鎮旦場村→烏烈鎮→白馬井鎮→新盈鎮泊。          
4月5日 新盈→臨高→沙土(聖眼村・欽定村)→澄邁泊。 
4月6日 澄邁常樹村→雷鳴鎮南曲村→雷鳴鎮梅種村→黄竹→南陽→文昌泊。 
4月7日 文昌→清瀾港→東郊鎮田頭村・福羅村→東角鎮南文村→文昌泊。
4月8日 文昌→東閣鎮→抱羅鎮馬鎮→中国銀行→潭牛泊。  
4月9日 潭牛→三江で李粒くんに会う→咸来→大至坡泊。
4月10日 大至坡→秀田村→舖前泊。
4月11日 舖前→澄邁県橋頭鎮理善村→臨高角解放記念碑→臨高→海口泊
4月12日 海口市石山鎮玉榮村の“迷人洞”→1939年2月10日に日本陸海海軍が奇襲上陸した天尾村海岸(現、新海港)→海口図書館→海南省史志館→新華書店→海口泊。
4月13日 海口人民公園に建てられている海南革命烈士纪念碑のそばの許如梅さんの「墓」に、邢勇さん(許如梅さんの孫)に案内してもらう→南海出版公司との話し合い→海口発(ホンコン経由で日本に)。
                                 佐藤正人
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