考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

久しぶり

2020年01月07日 | 生活
久しぶりに編集画面を覗いたら、以前と全く違っていた。
昔の自分の文章を読んだら、当時がブログ記事をしょっちゅう書いていたから、なかなか面白い、というかリズムがそれなりに取れている文体だった。
何でも練習である。
しかし、今はさほど言うこと、言いたいことがさほどあるわけでなく、ああは書けないなあ。
時間ができた今は、勉強をしたい。
「書いて出す」欲望より、「中に取りこみ反芻する」欲の方が強い。
人生あと何年あるかわからない。
せっかく人間に生まれ、教育も受け、まあ、今のところは食えているから、私は今在るうちに、「人間」というものをもう少し深く知りたいと切に思う。

4技能と外部試験

2017年12月11日 | 教育
 スピーキングの試験を入試センターで賄えないからという理由で外部試験を導入しようとしているとしか思えないが、これほど文科省を、学習指導要領を、それで、現役の英語教員をバカにする制度はなかろうと思う。英検にしろ、その他の試験にしろ、目的が異なる。日本の高校生が日本の大学に入学するために、なぜ実用英語検定、外国留学用の試験を受験しなければならないのか。受験費用はどうなるのか。受験の日程はどうなのか。生徒の学習及び時間的負担、保護者の経済的負担をどう考えるのか。
 業者が儲けようとしているとしか思えない。子供や保護者を大事にしないで国家の発展も何もない。目先の経済、自分の会社、業界が潤えば良いとでも言うような英語教育の公共事業化が益々進む。

予備校の先生の授業に似てる、って。

2017年03月18日 | 教育
 この世界なら誰でも知ってる予備校の先生はたくさんいるが、どうやら私の授業はとある予備校の先生の授業に似ているらしい。
 昔、その先生が今ほど有名でなかった頃、その先生の書いた問題集を見て、自分と似ていると思ったことがある。共通点は、その先生も私も、英文そのものを理解しようとしていることだった。何かの参考書にこう書いてあるから、というのではない。私の場合は、自分が高校生の頃からやってきた方法を進化させているものだ。高校時代、文法を余り勉強しなかった。定期試験もそんなに良かった訳ではなかった気がする。けっこう間違えた。でも、模試他の試験で文法で困った覚えはあまりない。英文の捉え方がそう間違ってなかったからだと今は思う。自分が高校生の時に「発見」したことをものによってはそのまま教えている。
 まあ、そんなものだ。
 学生の頃、英文法の学者が10人いたら10通りの文法があるとか聞いたことがある。そうだろうと思う。全く疑問を感じない。生徒には、自分で自分の文法を作れ、と変わらず言っている。
 読解についても高校時代の進化形である。それも、その先生と同じのようだ。
 (中略)
 「読む」とは実に能動的な営みなのである。

ちょっと良いことがあった

2017年01月31日 | 教育
 ちょっと嬉しいことがあった。やっぱり自分は間違ってなかったんだなと思われることだ。
 せっかくだから生徒にも具体的事項は異なっても、似たような体験をしてもらいたいと思う。もちろん、彼らの遠い将来においてである。私の手を遠く離れてしまってからだ。しかし、そのために今私は何を教えたらよいのか、何を鍛えたらよいのかを自分に問い続け周りに振り回されずやっていきたい。
 感性のよい生徒たちである。活かしてやりたい。


再度、お久しぶりです。

2017年01月07日 | 教育
 お久しぶりです。
 全くアクセスしてなかったので、コメントが放置されていた。お詫びします。
 8ヶ月も放置したのは、ツイッターのせいです。
 ただ、ツイッターは、前にも書いたとおり、タイムラインに乗らないと読んでもらえず、埋もれてしまう。その点、ブログは、なんだかんだ検索で引っかかって読んでもらえる記事がある。有り難いことだ。

 
 この頃、生徒たちをもっと励ましてやりたいと思う。
 彼らは一つの尺度に載せられ慣れているのですぐに他人の評価に依存する。先生の評価だったり、模試の偏差値やコメントだったりに依存するのは自分自身が内的に持つ感覚を忘れようとしているからだ。

 しかし、何かを判断するときに他人の評価を当てにして右往左往するのは、少なくとも教育を受けた人間にふさわしい行動であると私には思えない。幼い子供だったら親を当てにして当然だが、何年かの教育を受けてそれなりに知識を身につけて考える力を得たはずの人間がうろうろするのは「先進国」と呼ぶにふさわしい環境においてみっともない光景であると思う。

 最も問題なのは「どうして良いかわからないときに考える」ことである。私はその際に「わからないときに戻るべき場所」を持つことが大事だと考える。場所といっても「〇〇先生のところ」という依存的なものではない。自分自身の中の「場所」である。それは結局のところそれまで身につけてきた自分の感性や感覚ではないかと思う。肥えて耕された直観のようなものか。生徒にとって身近な試験問題でも同じだ。覚えてきたとおりの解法に頼るのではない思考。これは常日頃から培わなければならない思考である。学校の勉強なんてたかだかしれているが、それでもこの場所を持つか持たないかで実力が問われる。

 日常においても、こうした「場所」、あるいは思考法は重要だろうと思う。特に今現在の日本、あるいは世界の情勢においてこそ大事になるのではあるまいか。予想外の出来事が次々と起こっている状況である。「マニュアル」に従っているのは時代遅れであろうし、マニュアル人間は新しいマニュアルを作ることなど思いもよらないだろうし、現実に作成などできるわけがない。それでは相対的にも、人間として物理科学的、肉体的にも生き残ることが困難になろう。それは忍びない。

 具体的には書かないし書けもしないが、生徒たちにはそのヒントになるものを授業を通して学校生活を通して身につけてもらいたいと願っているが、そのために必要なのは自分の能力を信頼することだと思う。「どうせダメだ」「やってもムダ」など思っていたら、つまり、自分にあるはずの能力の存在を否定したり過小に評価していたりしたら、能力の伸長など望むべくない。
 
 だから、私は彼らの内に潜むものを見いださせ、活用させ、伸長させたいと願う。それこそ一朝一夕になし得ることではないが、時間をかけ、ゆっくりと見いだしてやりたいと思う。それが私の「励まし」である。

お久しぶりです

2016年05月13日 | 教育
 久しぶりにブログを開けたが、ツイッターとブログではずいぶん感じが違う。ツイッターは、タイムラインに乗らなければ忘れられる。でも、ブログ記事はそうでもなさそうだ。いくばくかでもひと様に読んでもらえそうだ。
 ブログに長文記事を書かなくなったのは、時間がないのもあるが、授業でてきとーに雑談してるから、本人としては満足してるのかもしれない。授業の1/3くらいは雑談だろうから。でも、生徒も結構喜んでくれるから、そう自己満足だけというわけでもないと思う。
 生徒は、まじめな雑談に飢えている。自分の人生がこれから始まろうとしているのだから当然といえば当然だが、気の毒なことに、抽象的な話を具体的にしてくれる大人がいないようだ。その昔「おじさん」の必要性について語った本があった。親や教師のような説教じみた話ではなく、もう少し身近な大人の存在。もっとも私は彼らの親より年上だろうし教師でもある。しかし、感覚的には「近所のおばちゃん」だろう。幸いなことに、今私が相手にしている生徒は、一言二言三言続けても、筋が通っていれば耳を傾ける。その意味では面白い。多少でも鍛えてやりたいと思う。

お盆が過ぎればもう2学期

2015年08月18日 | 教育
 ツイッターにかまけていて、こっちはご無沙汰してました。
 ツイッターの場合は、とにかく140字で納めることが目的化する。まあ、連続ツイートのように書いても良いのだが、それも、どこで区切ろうかなど考えなければならないからややこしい。
 文章は、書いているとそのうちに何らかのリズムのようなものが生まれてくるはずのものだが、このところ何も書いてないからうまくいかない。習うより慣れろとはよく言ったものだ。
 夏休み前、生徒から何をしたら良いのか、などのちょっとした相談があったが、私のアドバイスは、至って簡単である。毎日2,30行の新しい英文を読むこと、文法事項、単語等の復習をすること。あ、そうそう、センター演習は時間を計って行うと良かろう。早さになれることは大事だ。
 長文に関しては、生徒はしばしば問題を解くことを目的とするが、それは下手なやり方だ。とにかく、きちんと読み、知らない事項を頭にたたき込む。要約をする、和訳をする。そんなところで十分だ。問題が付いてなかったら何を勉強して良いのかわからないという状態では今後が思いやられる。問題付きの場合、「答えが欲しい」ともよく聞くが、答えがなくても英語は何とかなる。辞書を引けば何とかなる。そんなものだ。何とかならなかった時はそれまで。今までだって、いくらでもあったはずだ。なんで今更問題になるのだ。わからないことは、「やっているうちにそのうちわかってくる」ものなのである。冷たいように聞こえるかもしれないが、キャパは限られている。しばらく奥歯に物が挟まったような状態でいる方が案外学習効果は高くなる。そんなものだ。
 イマドキの生徒に最も欠けているのは、そうした「自分の潜在的能力の確信」とでも呼べるものか。自習であれ勉強をしていれば、自ずから力が付いてくる。さすれば、その前はわからなかったことが、独りでにわかってくるのである。
 うん、大丈夫。
 ということで、2学期の予習もおすすめである。授業を受ける頃に夏休みにやった予習のノートを見ると、自分の間違いに気がつくだろう。
 力がつくとはそんなもである。
 あと2週間頑張ってもらいたいものだ。

twitter始めました

2015年03月03日 | 教育
高校の先生@kkhrpenです。

学校で習うことだけが「知」ではない

2015年02月25日 | 教育
 自民党の礒崎某氏がツイッターで次のように書いたようだ。
 「時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか。」
 この言への批判が多くあるようだが、批判の矛先は立憲主義に関する無知(と呼んで良いだろう)に対するものだ。私も大いに疑問を持つが今回憲法談義についての批判はとりあえず脇に置く。それでもこの礒崎某という方の知見には大いに疑問を持つ。

 気になるのは、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。」という言葉だ。
 学歴は東大法学部の卒業である。高校時代の勉強はかなりよく出来たのだろう。おそらく文科一類からの法学部進学だろうから大学受験の点では文科一類が文系で最難関だから、また、もし特に現役での合格なら、彼は「相対的にものすごくできた」はずだ。
 高校生で「勉強がよくできる」生徒にも多くのタイプがいるが、共通している点がある。どんな難関であろうと入試は、要は試験だから必ず「試験範囲」というものがあり、大学入試のそれは「高校までの学習事項という試験範囲」でしかないので、生まれ持った記憶力と論理的思考力がその試験範囲をクリアできるほどのものでありさえすれば、授業と受験参考書の何冊かを勉強すれば「自ずから点も取れて試験も合格できてしまう」ものだということだ。(うん。今、かなり能力の高い集団を教えているから、ホント、そーゆーものだということは実感としてわかる。同意してもらいにくいとしたら、このレベルの生徒は少ないというだけの話である。)この方も高校生の時はそんな風によくできたことだろう。
 ここで注意していただきたいのは、試験には「習ったこと以外は出ない」ことだ。特に東大の問題は基礎基本を根幹から理解し、十分な応用ができるほどの思考力を習得すれば「それなりにできてしまう」ものである。それで、この際に必要な「思考力」とは「必要なときに必要な既習事項を迅速に思い出してちょっとした思考過程を経て使う」というものだ。思考過程にちょっとしたコツが要ると言えば要る。が、こうしたコツは人から教えてもらっても教えてもらわなくても、東大を目指す程度の記憶力と思考力の持ち主なら何となく体得してしまうことも多い。
 前置きが長くなったが、まあ、要は、上記にのべたような能力が人よりも優れていれば試験はできてしまい、そのせいで、(ここから大事→)本人も自分は優秀だと思い、自分の思考の方法に何の疑問も持たなくなることだ。「オレ、周りの人間よりできるもん」てなわけで。だから、「勘違い」が起こる。
 この礒崎某氏の大きな勘違いは、「大事なことはすべて学校(大学)で人から教えてもらえる」というものだ。
 この方は、世間的な意味で、おそらくもの凄く「アタマがいい」のだろうと思う。ちょうど我々が小学校低学年のときに、先生から教えてもらうことを習得すると「学校で習った」という思いを強く抱く。ちょうどそのように、彼は大学までに学ぶべきことを、もちろんそれが大学の講義内容だけでなく参考文献なども含めたとしても、容易に理解し習得したという経験を持つのだろう。(ここで「ならば、立憲主義を。。」という突っ込みはなしにしてね。論点がずれるから。)
 多く人の場合、大学に入るまでに、或いは、大学に入学してから自分の知的能力の限界を知るなどして何らかの葛藤をするだろう。(もちろん、レベルが低くても「これは必要ない。オレには関係がない」と、葛藤が生じない人も多い。)しかし、この方にはそうした経験はないのではないか。でなければ、大の大人が、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。」などという、「学校で教えてもらってないから知らないよ。当たり前だ。」という小学生がよく口にする言い回しは恥ずかしくて出てくるはずがない。それを堂々と公言するに憚らない方が台頭してきているというのは、今の社会の知性がまだまだなのか、日本がどんどん劣化してきているということに他なるまい。

何のために勉強をするのか

2015年02月09日 | 教育
 俗の言うトップ校の生徒を教え始めて思うのは、彼らにとって勉強をするのはあまりにも当たり前のことだから、これまでの生徒の指導、いかに勉強に興味を持たせて勉強させるかといった指導は全くどうでもいいものになる。学力をどのように付けさせるかと言う観点では、これまでの学校と似たり寄ったりとも言えるし、どうしても若干は高度になるから面倒と言えば面倒である。しかし、長年の経験による蓄積があるせいか今のところはさして問題は生じていない(と思う)。3年生を担当するとなるとどうなのかなとも思わないではないが、まあ、何とかなるのではないかと近頃は気楽に考えている。
 そもそも勉強なんて、少なくとも私が教えている英語という教科に関して、教えなければならないことなんて何もないに等しい。(「授業放棄」じゃないよ、念のために言っておくけれど。)自分自身、英語の勉強で(他の教科でもだが)先生に教えてもらったなんて感覚はほとんどないに等しい。勉強なんて自分でできるものだ。勉強をする機会としての授業はあったし、授業という場を通して他の生徒の発言などから学んだことは多いが、先生の存在は化学反応の触媒程度だろうと自分で思う。英語の解釈や表現の間違い、読解そのものの間違いをすることは誰でもあるから、そうした間違いや間違いの正し方、なるべく正確に読むための方法、より良い表現をするための学習法、自分の間違いの可能な限りの見つけ方などは教える。だが、それらを一通り体得したら、あとは訓練だ。おそらく現役で東大京大に合格しそうな生徒以外はなかなか習得出来ない技能のような気もするから授業は必要と言えば必要だろうが、それでもその程度のものでしかない。だから、もうほとんどのところ「勉強は自分で辞書を引いてやればそれでいいんだよ。」で、終わりである。そもそも知識なんてそのあたりに転がっているのだから、あえて私がわざわざ教えてやる必要なんてないも同然なのである。逆に、知識を人から教えてもらうことに慣れてしまうと自分で発見できない人間になってしまう。知性の極み?に近い生徒集団に対して教えてばかりの指導をするのは人類の知性への冒涜だろう。
 だから、最大の課題は、「授業はなんのためのものか」に収斂する。通常の学校のような授業は必要がないとも言えるからだ。もちろん、受験があるからそれ相応の「学力」を付けてやる必要はあるが、学力なんて、それなりにマトモに勉強をすれば試験に対応する程度の学力は能力に相応する程度には自ずから付いてくる。だから、いかに広汎な力にするか、また、更に、日本の遠い将来のことを考えると、彼らがその知性をどのように使うかという観点の方が授業の目的としてははるかに重要になるだろうと思う。
 生徒はけっこう雑談を好む。ことに今の社会の状況を勘案すると、自分たちが生きる世の中がどうなるのか、あるいは、自分たちでどのように構築していくべきものなのか、関心を持たない訳がないだろうし、逆に、関心を持たせなければならないだろうと思う。しかし、こうしたことは、特に私の英語という教科は、その枠内で十分に考えさせることができるだろう。
 というわけで私の授業は雑談が多い。