この日記を書き始めて、様々な方達との交流が生まれた。
前回の日記で少し触れたように、私はもうずいぶん長く日記を書いているし、あるリンク集に登録してからも、早、五年以上の月日が流れている。
前回私は
>誰彼との親しさや交流を誇示するため、膨大なメールを送り、そしてまた、暗に受け取るメールの多さを>誇示し、必ず返信する己の姿勢を誇り、自分は人気があることを、トリックで刷り込む。
と書いた。
今のそのリンク集は、アクセス数と投票数のランキングの制度があり、アクセス数は上記のようなトリックでコントロールが、多大な努力をすれば可能でも、投票数の方は出来ない流れに向かっている。
相変わらず、出典を明らかにせずに、無断引用した有名人の言葉を、自らの日記の一部のように見せかけた日記が、アクセスの上位に一つだけ存在する。逆説的に言えば、そのような見苦しいことを行う日記は、リンク集の中では、もう残りは僅かだと言い換えることも可能だ。
投票数に関しては、好悪の情や、ジャンルとしての好き嫌いはあったとしても、筆力や独自性、何よりも借り物ではない一本筋の通った、日記が並ぶようになり、またテーマや思考の方向性で、票数も大きく変化するようになった。
元々、日記を読むのでは無く、投票を営業ツールとして考えるタイプの日記作者は、「投票は人で押す」という言葉の裏に「私と円満な関係を作っていれば、投票はしてあげる」と言う、暗喩でまた人を集めようとする。
そして、それは、投票に飢えている獄一部の初心者や、自己満足なテキストが何故読まれないかを理解しない人達には甘い蜜となる。
自らのテキストに信を置く作者達は、同時に自らの言葉に責任を持つ。そして、自らの行動に責任を持ち、参加するリンクサイトの投票ボタンを、単なる義理で押すことは、極、稀だと考えるのが当然ではないのか。
自分の物差しで人を計る時、人は馬脚を現す。
人目を引きやすい性や恋愛について、出典も明確にせずに引用を続け、そして、まるで投票に参加している人々が、例示したような行為ばかり行っていて、ランキングに拘泥しているように貶め、投票を意識すれば書きたいことを、止めるが如き仮定を置き、自らはそうでないことを暗に誇る毎度の手法に、欺かれる人が存在すると思っているのだろうか。
リンク集の投票には、意思が見えるようになったと感じる。
新しい登録者が、急速にランクを上げてくる。拝読させて頂くと、確かに独創的で、面白い。最近は、そんなケースが増えている。
自らの思想と相容れない内容でも、そこに理があり思考があれば私は投票ボタンを押す。そして、カワイイ猫や犬やペット達の日常や、美味しそうな料理の写真が、嫌味のない言葉で日記として綴られていれば、やはり私はボタンを押す。
ちなみに、その日記が参加しているランキングでは、アクセス数も表示できなくする事は簡単だし、レンタルで借りている場所のランキングに参加しないことも可能だ。しかし、アクセス数だけは公開したい日記は、決してその表示からは離脱はしない。
アクセス数、それがあたかも自分の価値のように誇るには、単にページの開かれた回数を競うのは容易い。嫌悪を持つ者であってもページを開けば1アクセスだ。
リンク集のシステムには積極的に参加したい。その全てが活発化することで、リンク集は生き生きと本来の力を取り戻すと信じているから。
僭越失礼。読了多謝。
前回の日記で少し触れたように、私はもうずいぶん長く日記を書いているし、あるリンク集に登録してからも、早、五年以上の月日が流れている。
前回私は
>誰彼との親しさや交流を誇示するため、膨大なメールを送り、そしてまた、暗に受け取るメールの多さを>誇示し、必ず返信する己の姿勢を誇り、自分は人気があることを、トリックで刷り込む。
と書いた。
今のそのリンク集は、アクセス数と投票数のランキングの制度があり、アクセス数は上記のようなトリックでコントロールが、多大な努力をすれば可能でも、投票数の方は出来ない流れに向かっている。
相変わらず、出典を明らかにせずに、無断引用した有名人の言葉を、自らの日記の一部のように見せかけた日記が、アクセスの上位に一つだけ存在する。逆説的に言えば、そのような見苦しいことを行う日記は、リンク集の中では、もう残りは僅かだと言い換えることも可能だ。
投票数に関しては、好悪の情や、ジャンルとしての好き嫌いはあったとしても、筆力や独自性、何よりも借り物ではない一本筋の通った、日記が並ぶようになり、またテーマや思考の方向性で、票数も大きく変化するようになった。
元々、日記を読むのでは無く、投票を営業ツールとして考えるタイプの日記作者は、「投票は人で押す」という言葉の裏に「私と円満な関係を作っていれば、投票はしてあげる」と言う、暗喩でまた人を集めようとする。
そして、それは、投票に飢えている獄一部の初心者や、自己満足なテキストが何故読まれないかを理解しない人達には甘い蜜となる。
自らのテキストに信を置く作者達は、同時に自らの言葉に責任を持つ。そして、自らの行動に責任を持ち、参加するリンクサイトの投票ボタンを、単なる義理で押すことは、極、稀だと考えるのが当然ではないのか。
自分の物差しで人を計る時、人は馬脚を現す。
人目を引きやすい性や恋愛について、出典も明確にせずに引用を続け、そして、まるで投票に参加している人々が、例示したような行為ばかり行っていて、ランキングに拘泥しているように貶め、投票を意識すれば書きたいことを、止めるが如き仮定を置き、自らはそうでないことを暗に誇る毎度の手法に、欺かれる人が存在すると思っているのだろうか。
リンク集の投票には、意思が見えるようになったと感じる。
新しい登録者が、急速にランクを上げてくる。拝読させて頂くと、確かに独創的で、面白い。最近は、そんなケースが増えている。
自らの思想と相容れない内容でも、そこに理があり思考があれば私は投票ボタンを押す。そして、カワイイ猫や犬やペット達の日常や、美味しそうな料理の写真が、嫌味のない言葉で日記として綴られていれば、やはり私はボタンを押す。
ちなみに、その日記が参加しているランキングでは、アクセス数も表示できなくする事は簡単だし、レンタルで借りている場所のランキングに参加しないことも可能だ。しかし、アクセス数だけは公開したい日記は、決してその表示からは離脱はしない。
アクセス数、それがあたかも自分の価値のように誇るには、単にページの開かれた回数を競うのは容易い。嫌悪を持つ者であってもページを開けば1アクセスだ。
リンク集のシステムには積極的に参加したい。その全てが活発化することで、リンク集は生き生きと本来の力を取り戻すと信じているから。
僭越失礼。読了多謝。