木の葉燃朗の「本とデジタルと俺の日常と」

購入したもの、ニュースなどの紹介。本の話とデジタルものが中心。

「goo映画」に投稿していた映画の感想を移行しました

2013-05-08 22:57:38 | goo映画レビュー
 「goo映画」に投稿していた映画の感想を移行しました。

 「goo映画」がリニューアルして、レビュー投稿機能をなくして、これまでのレビューも非表示になっているようなので。ということで、もう長らく使っていないこのブログに移行しました。そういう機能があるので。

 なお、点数が0点になっているのは、単に採点をせずにレビューの投稿だけをしていたので、それがそのまま出てしまったということのようです。

 今後映画レビューの投稿先は考えますが、とりあえずは自分の今のブログに掲載していくつもりです(これまでも自分のブログにアーカイブとして掲載していたけれど)。

木の葉燃朗の「本と音楽の日々」: 映画・演劇
http://blogs.dion.ne.jp/konohamoero/archives/cat_259281-1.html



『人生、ブラボー!』 0点

2013-02-24 21:24:42 | goo映画レビュー

人生、ブラボー!

2011年/カナダ

人と人が出会うということ

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 主人公ダヴィッドは、若い頃に人工授精用の精子を提供していた。その精子から533人のこどもが生まれ、うち142人から生物学上の父親を知る権利を求めた訴訟を起こされる。ダヴィッドは友人の弁護士とともに訴訟の準備をするが、その途中で送られてきた原告のリストからひとりを抜き出して覗いてみる。そこにあったのは、プロのサッカー選手だった。彼の活躍をスタジアムで見たダヴィッドは、自分の遺伝子を受け継いだこどもたちの存在が気になり始める。そして、正体を隠して「自分のこどもたち」に会いに行くのである。

 物語はコメディタッチでラストはさわやかという、比較的想像どおりのストーリー。でもむしろ、それくらいの内容で良かったのだと思う。ドキュメンタリー風のフィクションにすることも、シリアスな内容にすることもできたと思うけれど、敢えて今回のような方向を選んだというのが。カナダが舞台の映画だけれど、なんとなくラテン系のカラッとした雰囲気がある。

 そういう中でもいくつか仕掛けはあって、ダヴィッドの恋人の妊娠とか(別の意味で父親としての自分に向き合うことになる)、精子を提供した理由とか、こどもたちの中に色々な事情を抱えた若者がいたりとか、大小様々なエピソードが複雑になり過ぎない程度に折り込まれている。

 登場人物がみな良い人で、物分かりが良過ぎる気もしなくはない。その点が人によっては物足りないかもしれない。しかし、だからこそ見終わった後は清々しい。そして、家族に限らず人と人が出会うことについて思いを馳せることができる。


『コーマン帝国』 0点

2012-06-10 00:16:13 | goo映画レビュー

コーマン帝国

2011年/アメリカ

インディペンディエントで「あり続けること」の困難さと、それを実現するすごさ

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 映画監督、プロデューサーのロジャー・コーマンを取り上げたドキュメンタリー。

 ロジャー・コーマン作品は、映画館でちゃんと見た記憶はない。でも、テレビで放送された作品は何本か見ている。なかなかチープなSF映画が多かったが、やけに印象的だったシーンがあったのも事実。宇宙船を怪物が襲うのだのが、どう見ても水槽で模型のロケットにカニ(ザリガニだったかも)がのしかかっているというのは、衝撃的だった。「そうかそれでもいいんだ!」というね。

 ただ、その程度の認識なので、ロジャー・コーマンについてはほとんど知らなかった。だからまずご本人の雰囲気が意外。映画の中で何人かが「大学教授のようだ」と表現していたが、まさにそんな感じの上品で知的な人。たしかに作る映画の内容とは結びつかない。

 そして、映画についてとても考えている人。作品を見ると、中には適当に作っているのではないかと思わされるものもある。しかし、いかに予算や納期を抑えつつ、客が呼べる映画を作り、次の作品のための資金を回収するかを考えて作られている。このあたり、プロフェッショナルというか、経営者的視点がある。その結果も、興行的に成功なのか失敗なのかはきちんと自己評価している。かつては20世紀フォックスで働いていたもののほどなく退職し、自らのプロダクションでインディペンデント(独立系)映画を作り続ける人ならでは。
 ただ勘違いしてはいけないのは、コーマンはそういう金を得るための「搾取映画」一辺倒、商業主義一辺倒、ではないということ。彼の会社は、海外で評価の高い映画(その中には、例えば黒澤明作品も含まれる)の配給も行う。また、人種差別をテーマにした社会派映画『The Intruder』も、自宅を抵当に入れて監督している(ただこの作品は興行的には失敗し、「共産主義者」と批判も浴びたらしい)
 また、大金を掛けて映画を作ることも良しとしない。そんな金があれば社会福祉に回すべきだと、インタビューで語ってもいる。

 もう一つ、コーマンと仕事をした、というか、コーマンの生徒のような立場の多くの監督・役者が、その後名を成している。ジャック・ニコルソン、マーティン・スコセッシ、フランシス・コッポラ、ロバート・デ・ニーロ、ピーター・ボグダノヴィッチなどなど。
 もうひとつ、コーマンの影響という点では、今のハリウッドで主流となっている映画にも、コーマン映画、あるいはドライブイン映画と呼ばれるジャンル(ジャンルではないかもしれないが)の影響があるらしい。『ジョーズ』はコーマン作品とよく似たストーリー、見せ方をしているし、『スターウォーズ』はコーマン映画を大スタジオが十分な予算で作ったような作品だと、映画の中で評されている。
 その影響力は、ちょっとすごい(ご本人がそうしたメインストリームに出て行こうとしないところも含めて)。そうした影響力もなかなか評価されて来なかったようだが、ようやく2009年にアカデミー賞の功労賞を受賞した。これには、クエンティン・タランティーノの推薦があったようです。

 いやしかし、インディペンディエントで「あり続けること」の困難さと、それを実現するすごさを感じる。映画に限らず、プロとしてなんらかの作品を作るにあたっては、色々な方法があるはず。大きな集団(会社やプロダクション)に属して、自分のやりたいこと求められることに折り合いをつけたり、あるいは商売として割り切ったり。またはそうした集団から離れて、独立して活動したり。場合によってはその両方を行ったり来たり。個人的な感覚としては、自分がつくりたいものをつくるには独立性が高い方がいいのはもちろんだが、映画くらい規模が大きいと、なんらかの資金調達が必要になる。そして、自己資金だろうが出資を受けていようが、次の作品をつくるには売り上げを上げて資金を回収する必要がある。赤字でも良いから一作品だけつくるというのも、考え方の一つではある。趣味(アマチュア)であれば、そうしたことも可能(これはアマチュアの強み)。ただ、プロとして続けて行くにはそうもいかない。
 ロジャー・コーマンは、予算の少なさと自由度の高さのバランスがちょうど良いところで、作品を作り続けていると思う。これも一種の職人的な技能だろう。


『ペントハウス』 0点

2012-02-12 14:31:57 | goo映画レビュー

ペントハウス

2011年/アメリカ

緻密さには欠けるが、それを補って余りある爽快感

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 舞台はニューヨークの超高級高層マンション。主人公はマネージャーとして働くコヴァックス。ある日、最上階(ペントハウス)に住む大富豪ショウが、詐欺罪で逮捕される。コヴァックスはショウを信頼し、従業員の年金を預けていたが、その金は私的に流用されていた。他にも金を巻き上げられた従業員がおり、コヴァックスはその金を取り戻そうと、ペントハウスに隠されているという隠し財産を奪う計画を立てる。

 想像していたよりも大味な内容。使用人たちが一致団結して、マンションのセキュリティをかいくぐって財産を奪い取る話かと思いきや、そうした緻密さには欠ける。しかし、ペントハウスへの進入方法に財産の隠し場所、それをいかにして持ち出すか、などなど、色々な部分が豪快で、爽快感を感じる。なにより、悪い金持ちにだまされた庶民が、金持ちを出し抜いて金を取り戻すというストーリーは、単純だけれど面白い。
 後は、コヴァックスに協力するコソ泥のスライドを演じたエディ・マーフィの、まくし立てるようなしゃべりの健在ぶりとか、巨漢のメイド、オデッサの存在感とか、それぞれの登場人物が個性的で、これもまた楽しい。


『ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬』 0点

2012-01-22 14:42:27 | goo映画レビュー

ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬

2011年/イギリス

さすが、スパイ映画とコメディ映画の国イギリス

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 『Mr.ビーン』の製作チームが手がけ、ローワン・アトキンソン主演の映画。
 かつて伝説のエージェント(スパイ)と呼ばれたジョニー・イングリッシュだが、とある失態が原因で解雇されていた。しかし、英中首脳会談における暗殺計画を阻止するため、再びMI7の一員として活動するのであった。

 イギリスには、『OO7』シリーズを初めとする有名なスパイ映画があり、一方で『モンティ・パイソン』や『Mr.ビーン』などのコメディ映画も知られている。そのふたつの魅力が上手く混ぜ合わさったのがこの映画なのだと思う。元ネタなどを色々考えながら見ても面白いし、難しいことを考えなくても楽しめます。

 最初のシーンで、MI7をクビになっていたジョニーは、ある場所で修行をしているのだが、その登場からしていきなり面白い。アップで映るアトキンソンの顔! ローワン・アトキンソンは面白い顔ということではなく、自分の顔や動きでいかに笑わせるかを考えている人なんだろうと思う。そして、ここでの修行の成果は、途中途中でちゃんと活きてくる。単につかみとしての笑いではないのです。
 そこから先も、虚虚実実の駆け引きや謎の殺し屋軍団など、スパイ映画らしい設定が登場する。また、それこそOO7のような、これぞスパイ映画という小道具が登場し、それを上手く使ったり使えなかったりしながらジョニーは敵と戦っていく。その対決シーンも、比較的正統派のアクションシーンあり、定石を外した、パロディのようなシーンあり。香港で殺し屋を追いかけるシーンでの、相手の裏をかくというかおちょくるようなジョニーの動き(それでいてちゃんと追い詰めていく!)や、車に追われて「カーチェイス」を繰り広げるシーンでの、思いもよらない機能を使っていく部分などは、面白いなあ。
 そして、イギリス・コメディの伝統ともいえる、タブーをものともしない笑いも。目的遂行のために弱者を脅したり、敵と間違えてとんでもない人をぶったたいたり(そういう意味で、香港からジョニーを付けねらう殺し屋は絶妙な配役)。しかしそうしたブラック・ジョークも、いかにもフィクションという描き方をしているので、不快な気分にはならない。


『リアル・スティール』 0点

2012-01-15 22:32:35 | goo映画レビュー

リアル・スティール

2011年/アメリカ

王道のストーリーを、ストレートに描く

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 予告編を見て気になっていながら、なかなか足を運んでいなかった映画。その理由は、予告編で描かれていることがすべて、という内容の映画ではないかと思っていたから。しかし、評判が良いのでやはり見ておきたいと思って、見に行った。
 見て良かったと思う。ストーリーは王道で、複雑なところはない。展開も予告編から想像した通り。しかし、そのストレートな描き方が、この映画にとっては良いと思う。

 あらすじは次のような感じ。舞台は2020年。主人公チャーリーは、かつてボクサーとして活躍していたが、人間による格闘技は行われなくなり、ロボットが戦うようになっていた。チャーリーはロボットボクシングのプレイヤーとして生計を立てていたが、試合は賭け試合や地方回り。資金繰りに悩んでいたところに、かつて別れた妻が亡くなったと知らされる。息子マックスの親権をめぐって裁判所に呼ばれたチャーリーは、夏のバケーションの間にマックスを預かることと引き換えに、金を得る取引をし、新たなロボットを購入する。だがそうして手にしたロボットも、試合であえなく敗れ、マックスとチャーリーとの関係も上手く行かない。
 しかし、ロボットの修理部品を手にするために進入したスクラップ置き場で、ふたりは一台のロボット「アトム」を見つける。旧世代のスパーリング用ロボットだが、人の動きをコピーするシャドー機能を持っていた。アトムに愛着を感じたマックスは、賭け試合に参戦し勝利。アトムを改良し、チャーリーの協力も得て、やがてロボット格闘技の公式戦に挑んでいく。

 くすぶっていたかつてのヒーローの復活とか、離れていた親子の絆を取り戻すとか、テーマもオーソドックスだが、嫌味ではないし飽きることもない。それは、ケレン味がない、真っ直ぐな描き方だからだと思う。
 それから、日本的というか、日本人が好きそうな要素も上手く練りこまれている。そもそも、主人公のロボットが「アトム」というところからそうだし、旧世代で小さなロボットが大きなロボットと戦い、勝利していくのは、判官贔屓やスポ根とも共通すると思う。更に言えば、アトムが倒していくロボットの中には「マイダス(ミダス)」や「ゼウス」といったギリシャ神話の神の名が付けられているものもある。他にもチャーリーが購入したロボット「ノイジー・ボーイ」のボディには漢字が書かれているし、このロボットは最初、日本語の音声認識に反応するように設定変更されていた(そしてテレビゲームで日本語を覚えたマックスが日本語で指示をするシーンがある)。

 個人的には、もう少し掘り下げて欲しい部分もあったけれども、観る人を選ばず、幅広く楽しめる映画だと思う。


『マネーボール』 0点

2011-11-26 09:37:36 | goo映画レビュー

マネーボール

2011年/アメリカ

ネタバレ

成功した者ではなく、成功を目指す者の物語

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 メジャー・リーグでの実際の出来事に基づくフィクション。2002年。オークランド・アスレチックスのGMビリー・ビーンは、それまでとは全く異なる基準によって選手を集める。アスレチックスは、メジャー・リーグの中でも資金力の面で弱い球団。ヤンキースやレッドソックスのように、他球団で頭角を現した選手を高額な移籍金や年俸で獲得するというチーム強化は出来ない。そこで若い選手を育てるのだが、彼らが活躍を始めると金持ち球団に買われてしまう。
 そこでビリーはどうしたか。他球団での評価が低く、年俸は安いが、実はチームの勝利のための能力を持つ選手を見つけ、獲得を始めたのである。そこで彼の右腕となったのが、イェール大学で経済学を学び、インディアンズのスタッフだったピーター・ブランド。ピーターの基準によると、例えば打者にとって重要な成績は出塁率。たとえ打率や安打数が低くても、四球ででも出塁できれば出塁率は高くなる。出塁が多ければ点数につながり、勝利につながる(実際にはもっと色々な数字が関係してきますが)。ピーターは、球団はお金で選手を買うのではなく、勝利を買うべきなのだと主張する。
 そうして集めたのは、一般的な評価から言えば他球団でくすぶっていた選手や、既に終わったと思われている選手たち。スカウトなど、チーム内の他スタッフも、監督さえも勝てるとは思わず、実際になかなか成果が上がらない。しかし徐々にビリーの考えが浸透し、チームは勝利を重ね、ついにはリーグ新記録となる20連勝を達成するのであった。

 と書くと、痛快なサクセス・ストーリーのように感じるかもしれないが、実はそうではない。ビリーは、自分たちの信じる方法で、ワールドチャンピオンになりたかった。しかし、2002年は地区シリーズへ進出するものの、そこでミネソタ・ツインズに敗れている。そして、その後メジャー・リーグの他の球団もマネー・ボールの考え方を取り入れ始めたこともあってか、アスレチックスはワールドチャンピオンという目標を叶えていない。つまり、成功した者を描いているのではなく、成功を目指して(今でも)走り続けている者を描いているのである。
 また、ビリーは2002年のシーズン後、レッドソックスからGMのオファーを受ける。GMとしては破格の報酬で。しかし、ビリーはそのオファーを断ってチームに残り、アスレチックスで勝つことにこだわる。そこで彼は言う。「人生を金で決めたことがある。だが、もうしないと誓った」。この「人生を金で決めた」というのは、ビリーが高校生の頃の出来事。超高校生級の打者という評価を受ける一方、大学に進学することも出来た彼だが、最終的にはメジャー・リーグからの誘いを選び、ドラフト1位でニューヨーク・メッツに入団する。しかし、現役時代は大きな成績を残すことが出来なかった。映画の中では、若い頃のビリーの光景が何度か挿入され、それが現在の彼の思いや考えに影響を与えていることが分かる。ビリーの、エリートとは違う、悩みや苦労を重ねた人物像が、見る側としては好感が持てる。
 ビリーの考えは、スカウト陣や監督のこれまでの経験と勘に頼った選手選び、戦い方と真っ向からぶつかり合う。ここでビリーが選手として成功していたり、逆に野球の経験がまったくなかったりすると、「現場を知らない人間が理論だけを振りかざしている」という印象を持ってしまいがち。しかし、他ならぬビリー自身が、経験と勘による野球の犠牲者であったことが分かるので、ビリーの理論に共感できるし、ビリーに肩入れしたくなる。このあたりの構成は、よく出来ていると思う。

 それなりに野球に興味がある自分にとっては非常に面白かったが、あまり野球を知らない人でも楽しめるのではないかと思う。


『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』 0点

2011-11-14 21:43:24 | goo映画レビュー

グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独

2009年/カナダ

人間としてのグールドを知り、更に彼への愛着が増す

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 ピアニスト、作曲家のグレン・グールドのドキュメンタリー。私はグールドの演奏したCDを聴いてはいるものの、どういう人物か、どんな生涯だったのかといったことは断片的な情報しか知らなかった。そうしたグールド初心者からすると、改めて彼について知ることができたのは興味深かった。また、全編に彼の演奏シーンや演奏するピアノが流れ、その音楽を堪能できる。

 今は、グールドというと伝説の人というか、神格化されている印象がある。というか、私は神格化している。しかし彼をリアルタイムで知る人にとっては、才能は認められているが、変わった人物という評判も多かったことが分かる。人付き合いが苦手だったり(嫌いというよりも、本当に苦手だったようだ)、ツアー(演奏旅行)を嫌い、キャンセルすることもしばしばだったり。31歳の時には、コンサート活動を辞めることを宣言し、以降はレコードの録音、ラジオ番組・テレビ番組の制作に力を入れた。これについては、観客の前で演奏を行わないことは、失敗のリスクを避ける一方で、ライブならではの名演の機会を失ったとも言われている。しかし逆に、録音にこだわりを見せたことが、録音技術の発展にも寄与したし、そもそもグールドは観客の(いい意味での)プレッシャーを必要としない演奏家だったという意見もある。
 そうした毀誉褒貶は演奏や楽曲の解釈にもあったという。例えば、私にとってはグールドが弾くJ.S.バッハの曲は素晴らしいと思う。当時も評価されていたが、一方で演奏を評価しない人もいた。映画の中で、彼の演奏について、「作品を乗っ取った」という表現をしている人もいた。良くも悪くも「グールドが弾く○○」という点が目立ったのだと思う。また、バーンスタインが指揮したブラームスのピアノ協奏曲のコンサートで、バーンスタインが開演前観客に対し、自分はグールドの解釈には納得できないが、今日はソリストを尊重して演奏すると述べたというエピソードも取り上げられていた。そういうことは、他の演奏家、指揮者の間であるのだろうか? 珍しいと思う。
 しかし、こうした好かれも嫌われもする部分、それから奇行とも呼ばれた言動の数々は、レコードを売るための戦略という側面もあったという。いわゆるクラシック音楽の範疇からは逸脱した言動で注目を集めることは、従来クラシック音楽に興味のなかった人を振り向かせる効果もあったのかもしれない。それは、グールドの時代から現代でも変わらない。それが良いことなのかどうかは別として。また、今も残っているグールドの伝説というのは、目立つ(極端な)部分が誇張されているというのも事実だろう。

 そうした極端な部分、パブリック・イメージを取り除いたグールドの姿として、この映画ではまさにタイトルにあるような「愛と孤独」に焦点を当てている。グールドには禁欲的なイメージがあったし、人付き合いの苦手さから、結婚することに不安も抱いていた。自らの結婚について聞かれるのを避けるため、友人の結婚式に自分の両親を出席させることを拒んだこともあったらしい。
 それでも、女性関係については普通の男性だったという。特に、作曲家ルーカス・フォスの妻で、画家のコーネリア・フォスとの恋については、コーネリア本人、そして彼女のこどもたちの証言も交えて語られている。いわゆる略奪愛だが、それでもこどもたちもグールドと打ち解け、幸せな時期があった。しかし、コーネリアによるとグールドはパラノイアに罹り、彼女を拘束するようになったという。結局コーネリアはグールドの元を離れ、再びルーカスと生活するようになる。
 そうしたことが影響しているのかは分からないが、晩年のグールドは自己防衛の思いと、病気への不安に支配されていたようだ。若い頃はインタビューに当意即妙の受け答えをしたけれど、途中から原稿をつくり、書面に残すことにこだわった。結果、インタビューの内容はつまらなくなっていったという。また、自分の健康状態については細かな記録をつけ、複数の医者から薬を処方してもらったという。病院の病原菌を恐れて、入院していた母を見舞うことができず、母の死後深く後悔したり、その後の父の再婚に納得できず、結婚式に出席しなかったりということもあった。
 これはあくまで私の考えなのだが、人は「周囲の人間との関係に助けられて生きていく人」と「自らの力や才能で道を切り開いて生きていく人」というタイプ分けができると思う。もちろんどちらか一方だけではなく、両者の間のどこかに位置するのだが。グールドは後者に偏っていた人なのかなあと思う。才能があり、人付き合いが苦手なグルードにとっては、人と関わることは辛かったのかもしれない。ただ、周囲の人々は決してグールドを嫌っていたわけではない。グールドが亡くなった時、カナダの教会には二、三千人の人が集まった。そして、教会に流れた、グールドの演奏するJ.S.バッハ「ゴルトベルク変奏曲」を聴き、多くの人が涙したという。映画の最後では、その映像と「ゴルトベルク変奏曲」から「アリア」が流れるのだが、その映像、音楽を聴くと、当時グールドとの別れを惜しんだ人々の気持ちが、わずかではあるが感じられるような気がした。
 そして死後25年が経った今でも、グールドの演奏は聴き継がれている。最後に様々な人が証言した中には、この演奏は400年残るとも、世界を良い方に向けてくれるのではないかとも言われている。また、彼のファンには孤独、苦難、不安の中にいる人も多いという話も語られていた。彼自身が孤独であり、晩年には(あるいは実は若い頃から)悩みや不安を抱えた人だったからこそ、同じような境遇にある人を慰めるのではないか。自分のことを書いてしまうと、私も人付き合いが得意な方ではない。しかし、自分で道を切り開くだけの力も才能もない。だから得意ではない人付き合いもして、周囲の人との関係に助けられて生きていくしかないと思っている。そういう自分にとって、この映画を通じてグールドに対する愛着が更に増したように思う。


『ミッション:8ミニッツ』 0点

2011-11-05 23:11:02 | goo映画レビュー

ミッション:8ミニッツ

2011年/アメリカ

ネタバレ

絶望を突き抜けて希望へ

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 ダンカン・ジョーンズ監督の長編第二作。ジョーンズ監督の作品は、長編デビュー作『月に囚われた男』が限られた舞台(セット)、登場人物、予算の中で、アイデアを駆使してつくられたSF映画だったが、『ミッション:8ミニッツ』も凝った作りのSFサスペンス。

 シカゴに向かう列車の中、教師のショーン・フェントレスは目を覚ます。恋人らしきクリスティーナに声をかけられた彼は、自分はスティーヴンス大尉だと言う。なにが起きているのか分からないまま、列車の中で爆発が起こる。再び意識を取り戻したスティーヴンスは、今度は狭いカプセルの中におり、モニターを通じてコントロールルームのような場所から声が聞こえてくる。先ほどの列車の光景は軍の作戦であり、スティーヴンスはショーンの体に意識を送り込まれたことが分かる。列車はシカゴ駅に到着する前に爆破事件に遭っている。スティーヴンスの使命は、事件の犯人を突き止めること。期限はフェントレスが目覚めてから爆発が起こるまでの8分間。
 そこから、舞台は列車と、「包囲された城」と呼ばれる、スティーヴンスが閉じ込められたカプセルと彼に指令を出すコントロールルームを交互に行き来する。スティーヴンスの記憶は蓄積されるので、列車の最後の8分間になにが起こるかは少しずつ分かってくる。しかし、乗客の中の誰が犯人なのか、容易には分からない。そして、スティーヴンスはなぜこの任務についているのか? 自分はアフガニスタンでヘリコプターを操縦していたはずだが、記憶がない。二つの謎を抱えたまま、物語が進む。
 これらの謎はしっかりと解決される。そして、物語はそこで終わってもいいのだが、もう少し物語は続く。そこが、この映画の魅力。更に、組織の中の個人とか、閉鎖的な状況に置かれた主人公とか、『月に囚われた男』と共通する部分もあり、前作よりも予算が増え、多くの人に向けてつくられた映画であっても、監督の考えの芯はぶれていないことを感じる。

 途中で判明するのは、列車での8分間は過去(その日の朝)の出来事なのだが、スティーヴンスはタイムスリップしているわけではないこと。列車の乗客の、死の間際の記憶が8分間だけ残っており、その中でスティーヴンスと親和性の高いフェントレスの意識の中に入り込んでいる。だから、列車爆破事件の乗客を救うことには意味はない。乗客は全員死亡しているから。ではなぜ、軍は爆破犯人を捜し出そうとするのか? 実は列車爆発事故の後も、連続爆破テロが予告されており、軍は犯人を突き止めることでこれからの犯罪を阻止したいのである。列車での8分間は繰り返されるが、「包囲された城」ではスティーヴンスが戻ってくる度に、時間は進んでいく。
 しかしやがて、スティーヴンスは爆弾の位置、犯人を突き止める。そのおかげで、次の爆破テロは未然に防がれた。だが彼は、犯人捜しとともに自分についても調べており、クリスティーナから「スティーヴンス大尉は2ヶ月前に亡くなった」と聞かされる。スティーヴンスは意識だけの存在で、自分がいるカプセルも、モニターを通じた「包囲された城」との通信も、いわば彼のイメージでしかない。
 軍の作戦としては成功したが、スティーヴンスの置かれた状況は絶望的。彼は今後死ぬこともできず、同じような事件が起これば再び作戦に利用される。しかしこの悪夢のような筋書きでは終わらない。そこがこの映画の意外なところであり、魅力的なところでもある。スティーヴンスは、作戦のオペレーター、グッドウィン大尉にふたつの依頼をする。もう一度自分を列車に送り込んで欲しい。そして、8分が経過したら自分の生命維持装置のスイッチを切って欲しい、と。
 最後となる列車での8分間。スティーヴンスは爆弾の起爆装置を解除し、テロの犯人を列車内に拘束して警察に連絡をする。更に死の直前に言い争いとなった父に、スティーヴンスの友人として電話をかけ、グッドウィン大尉にメールを送る。平行して「包囲された城」では、グッドウィン大尉がスティーブンスの眠る部屋に入り込む。周囲の説得には耳を貸さず、スティーヴンスの生命維持装置のスイッチを切るグッドウィン大尉。そして列車では、本来なら爆発事件が起こる8分が過ぎる。列車はシカゴ駅に到着し、スティーヴンスはショーン・フェントレスの人生を生きる。いわばパラレルワールドに乗り換えるようなもの。そしてラストシーンは、「包囲された城」に出動してきたグッドウィン大尉を映し出す。そこで彼女は、シカゴへ向かう列車で、爆破テロ未遂事件が起こり、犯人が拘束されたことを聞かされ、携帯電話に届いたスティーヴンスからのメールに気付く。
 この終わり方は、個人的には後味がいい。軍の作戦で閉じ込められ、自由を失っていたスティーヴンスが、自らの意思でその運命を切り開くところが。


『がんばっぺ フラガール!~フクシマに生きる。彼女たちのいま~ 』 0点

2011-11-03 22:41:26 | goo映画レビュー

がんばっぺ フラガール!~フクシマに生きる。彼女たちのいま~

2011年/日本

ニュースで知っているつもりの出来事を、感じることができる映画

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 2011年3月の東日本大震災で被害を受けた、福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズについて、施設の専属ダンスチームであるフラガールを中心に記録したドキュメンタリー。フラガールについては、2006年に公開された映画『フラガール』でご存じの方も多いのかもしれない。
 私は『フラガール』は未見なのだが、今回の地震でスパリゾートハワイアンズも被災したこと、本拠地での活動休止を余儀なくされたフラガールが、施設オープン時(1966年)以来の全国キャラバンを行ったことなどはニュースで見聞きしていた。

 しかし、自分が知っていたのは、ごく表面的な部分についての知識だったと、映画を見た後では思う。少なくとも、そのことに気づいただけでも、映画を見た意味はあった。
 例えば、スパリゾートハワイアンズには、フラガールとともに、炎を使ったパフォーマンスを見せるファイヤーナイフダンサーという男性ダンサーがいる。彼らも本拠地での活動はできないのだが、キャラバンでもステージには立てない。各地の会場では、お客さんと近すぎたり、室内だったりという理由で、火を使うことができないから。彼らは、裏方としてキャラバンを支える一方で、再開に向けてトレーニングを続ける。その、モチベーションを保つ難しさは、画面を通じて想像できる。
 それから、スパリゾートハワイアンズの中でも被害が少なかったホテル部分は、避難所として広野町の被災者を受け入れていた。その中の一人が、部屋の中に洗濯物を干している理由を、そうしておくことでホテルにいても日常にいるように思えると話していたことは印象的だった。そしてそうした思いや感覚を分かっていない自分について、改めて考えてしまう。映画の冒頭で、東京の風景が映り、東京では地震の影響がなくなったように見える、という趣旨のナレーションが入るのだが、本当にそうなのだと思う。日常が取り戻せない人たちがいる一方で、東京に住む自分たちは良くも悪くも日常を取り戻しつつある、そのことは自覚しないといけない。
 また、ダンサーのサブリーダー、大森さんは、実家が双葉町の福島第一原子力発電所が見える場所(2kmの距離)にある。家族は千葉への一時避難を経ていわき市に移り、大森さんはその間合宿所で生活しながらキャラバンに参加し、その合間に飼っていたペットが保護されているセンターを頻繁に訪れている。大森さんのおばあさんが、原発ができたときは地域が潤うのではないかと思って、反対した人は少なかった、でも今思うと、みんなで反対すれば良かったと、しみじみと語る様子には説得力がある。
 カメラは、家族の実家への一時帰宅にも同行する。町には生活する人はおらず、動物たちだけがぽつりぽつりと歩いている。町並みも地震当時のまま。その中から、お父さんは設計士の仕事の再開に必要な道具を運び、大森さんも大切なものを持ち出し、実家の様子を記録する。原発から一定距離の地域からは避難しなければならない、とか、一時帰宅が認められた、ということは、これもニュースなどから知識としては知っていた。しかし、実際にそういう状況にある人の様子を見ると、現実を突きつけられるような気持ちになる。それでも、時には笑顔を見せながら、これからについて語る人々の様子は力強い。地震以降、被災地や被災者を訪ねた人々が、「逆に元気をもらった」と思いを述べるのを見聞きしたことがある。私が映画を見ながら感じたのも、おそらくそれに近い思い。自分も頑張らなければならないと、改めて思う。

 こうした状況の中、スパリゾートハワイアンズ営業再開までの人々の努力は懸命。映画の前半、開業当時の様子が語られる。炭鉱の閉鎖後の生活のために、それまで炭鉱で働いていた人たちが、一家で生活のためにスパリゾートハワイアンズ(開業当時は常磐ハワイアンセンター)で働き、それが発展の原動力になったという。当時と今回では状況は違うが、それでも地震の後に施設を点検した社員が復旧はダメかもしれないと言ったという状況から、約半年後の10月1日には一部営業再開を果たしている。
 ラストシーンは営業を再開したスパリゾートハワイアンズの仮設ステージでのショー。その姿には、月並みな言い方になってしまうが力がある。彼女たち、彼らを応援したくなる力が。私は特に地震の後、文化とか芸術というものには、人の心を動かす力があるという思いを強くしているのだけれど、この映画を見ても、やはりその思いを強く抱いた。
 そしてそこに表れる字幕が、「さあ、はじまった」。そう、映画はここで終わるけれど、現実にはここはゴールではなく、スタート。制作者側の、その思いを感じた。
 なお、ナレーションを担当しているのは女優の蒼井優さん。今回の映画のスタッフの多くが、蒼井さんが主演した『フラガール』のスタッフであるという縁もあっての出演だという(ニュースによると、出演料はすべていわき市に寄付をした、とのこと)。声や語り口に、自分が抱いていた蒼井さんのイメージよりもより落ち着いた、抑えた力のある雰囲気を感じた。映画の魅力にプラスの影響があったと思う。


『森崎書店の日々』 0点

2011-01-16 22:15:54 | goo映画レビュー

森崎書店の日々

2010年/日本

理想の神保町を描いたファンタジー

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 率直に感想を書けば、どうということのない話。恋愛関係で傷ついた女の子が、神保町で生活して、少しずつ癒されていく、という物語。それでも、登場人物に魅力があり、神保町が記録したいと思う街の姿を残したことに価値がある。その点で、神保町の魅力をPRする映画として良くできている。

 ただ、現実の神保町の姿とはだいぶ違う。例えば今、神保町では古本屋があった場所が別の業種の店や駐車場になっている。それに、主人公のように、それまでほとんど本を読んだことがない若くてかわいい女性が(演じた菊池亜希子さんは本当にかわいい)文学の魅力に引き込まれていくなんて、奇跡のような出来事。

 だがそれゆえに、古本好きにとって理想のような出来事を描いた映画。ファンタジーだと思って見れば、楽しめる。


『ハーブ&ドロシー』 0点

2011-01-16 12:40:04 | goo映画レビュー

ハーブ&ドロシー

2008年/アメリカ

ネタバレ

多くのコレクターに勇気を与える偉大な先輩

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 アメリカの現代美術のコレクターである老夫婦、ハーブとドロシーの姿を撮影したドキュメンタリー。ふたりは、郵便局員と図書館司書という、極めて普通の仕事をしていた。ふたりとも若い頃から芸術に興味があり、働きながら学校で芸術を学ぶアーティストでもあった。しかし途中で、コレクターとして芸術に関わるようになる。
 そこで彼らがテーマとしたのが、ミニマル・アートとコンセプチュアル・アート。それらのジャンルに絞った理由としては、価格が手頃だったこと、コレクターのライバルがいなかったことをあげている。また、決して大きくない彼らのアパートに置くためには、大きな作品では難しい、ということも理由だったようだ。「自分たちの給料で買えること」、「アパートに収まること」という制限のもと、精力的にコレクションを増やしていく。

 感じるのは、作品を集める側も芸術界に貢献できる、ということ。ふたりと交流のある芸術家からは、若く、作品が売れなかった時代に唯一買っていたのがハーブとドロシーだったとか、彼らはすべての作品を見たいと言う、といったエピソードが紹介される。アーティストに直接会って購入することも、彼らの特徴だという。その様子は「本物のコレクター」とも、「コレクターというよりキュレーター」とも評されている。
 それに関連して興味深かったのはこんな話。ある芸術家が、作品をつくる過程で発生したスケッチを床に置いていたところ、彼らはそれを買いたいという。いわば作品の材料を欲しいと。これは芸術家もまったく意図していなかった視点だったらしい。

 こうした考えでコレクションを広げているので、投機としての作品の売買はまったく考えていない。気に入るから買う。それもできるだけ安く買いたい。その芸術家が成功することはうれしいが、だからといって作品でお金儲けをするつもりはない。こうした姿勢は、一部の画廊やディーラーからすればおもしろくない。それでも、アーティストに刺激や情報を与える存在として彼らは貴重である。「フレンド・コレクター」とも呼ばれている。
 その考え方は、なかなかに頑固。彼らが名を知られるようになると、コレクションに加えてもらおうと作品を送ってくる芸術家もいるという。しかし、そうしたものはすべて送り返す。あくまで自分が気に入ったかどうかを考え、購入することに意味がある。

 そんな彼らのコレクションも、ある時限界を迎える。家に飾ることはおろか、保管することすら困難な状態になってきた。彼らも、自分たちの死後コレクションは美術館に行くことは覚悟しているが、コレクションの譲渡には慎重だった。その中で、ナショナル・ギャラリー(アメリカ国立美術館)が購入を申し出て、承認される。決め手になったのはふたつの条件。作品を売らないということ、展示しているギャラリーを入場無料で誰でも見られるようにすること。そのうち、作品を売らない、という点については、コレクションも作品という言葉が印象深い。コレクションを売ることは、作品(例えば絵画)の一部を切り取って売るようなものだと。
 こうして4782点の作品はナショナル・ギャラリーで保管され、彼らには幾ばくかのお金が渡された。ナショナル・ギャラリーとしては、それで家具などを買って、今までよりもゆったりした生活をして欲しいと思っていた。しかしふたりはやはりというかなんというか、再び作品を集め始めている。こうしたあたりは、なんともらしい。一方で、映画の最後は、ふたりがあるものを買う場面で終わる。それはパソコン。この尽きない好奇心は、見習いたい。

 コレクターって、煙たがられたり、奇異の目で見られたりすることもあるけれど、信念を持って集めることは素晴らしいと思わせてくれて、色々なジャンルのコレクターを勇気づけてくれる。あと、芸術が商売であるという意見を臆面もなく表明し、作品の値段が作品の価値であると断言する芸術家や芸術産業の方々を、自信を持って胡散臭いと思う勇気も与えてくれる。


『ベンダ・ビリリ!~もう一つのキンシャサの奇跡』 0点

2010-11-15 23:33:41 | goo映画レビュー

ベンダ・ビリリ!~もう一つのキンシャサの奇跡

2010年/フランス

信念を曲げずに一山当てた人たちの凄さ

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 今や世界的に知られるようになったバンド、スタッフ・ベンダ・ビリリを取材したドキュメンタリー。映画は、2004年のコンゴ、路上で演奏している彼らを撮影し、インタビューしている場面から始まる。
 スタッフ・ベンダ・ビリリについて簡単に説明しておくと、彼らは小児麻痺で障害を持ち、車椅子や松葉杖で生活しているメンバーがほとんどのバンド。撮影当初は、路上で寝泊まりするホームレスのメンバーもいた。彼らを偶然撮影したこの映画のスタッフにより、徐々に名が知られ、CDが作られ、2010年には日本を含む世界各地でコンサートを行うまでになった。その成功の過程が記録されている。

 強く心に残るのは、自分たちの音楽で一山当てたスタッフ・ベンダ・ビリリの凄さ。特に、自分たちの信念を一切曲げずに活動を続け、成功したことが凄い。
 それから、途中でメンバーに加わる最年少のロジェがこんなことを言っている。音楽を演奏することでものやお金がもらえれば、引ったくりをしなくていい、と。そこには生活するために音楽をするという切実さがある。これもまた、彼らの信念の源かもしれない。

 また、彼らを追って撮影し、CD製作の資金も準備したスタッフもまた、信念を曲げずに一山当てた人たちと言えるのかもしれない。なにしろ2004年の撮影は、夜、ストリートチルドレンや物乞いが歩く路上でカメラを回している。その後撮影の予算が不足しても、一旦帰国し資金調達するなど、そこには執念に近い思いを感じる。


『アイ・コンタクト もう1つのなでしこジャパン ろう者女子サッカー』 0点

2010-10-02 22:30:35 | goo映画レビュー

アイ・コンタクト もう1つのなでしこジャパン ろう者女子サッカー

2010年/日本

アスリートとしての輝きは、健聴者となんら変わらない

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 聾(ろう)者女子サッカー日本代表が、2009年のデフリンピック(聴覚障害者が参加するオリンピック)に出場したのを記録したドキュメンタリー。前半は選手や関係者へのインタビュー、後半が大会、試合の様子、という構成。
 まず、彼女たちのアスリートとしての姿に惹かれる。サッカーが好きで、上手くなりたい、勝ちたいという情熱は、健聴者と変わらない。正直に言って、デフリンピックという大会があることも知らなかったけれど、試合の模様には、見ている側も熱くなる。日本代表はまだ発展途上のチームだけれど、試合に臨む彼女たちには輝きがある。
 そして、自分は聾者についてほとんど知らなかったことが分かる。例えば、かつては聾学校では手話を教えなかったという。なぜなら、社会に出たときに手話は通用しない(健聴者は手話を使えないし理解できない)から。その代わり、口の動きで言葉を読みとる口話を教えていたという。そういう時代があったし、今も手話を習うクラスと口話を習うクラスが分かれている学校もあるという。また、聾であっても発声が出来る人、そうでない人がいる。これは聴覚のレベルや発声の練習の経験などによって変わってくる。だから、インタビューでは手話をしながら喋る選手もいて、その様子は健聴者とあまり変わらないようにも見える。しかし、喋れることと聴こえることは別で、それがコミュニケーションの上で難しい点でもあるという。そうした点から、聾といってもそこには様々な違いがあるのだということが分かる。
 サッカーをきっかけにこの映画に興味を持って、聾の世界を(少しかもしれないが)知ることができたのは、映画を見てよかったと思う。それから、色々な人が魅力を感じるサッカーというスポーツの持つ魅力も、同時に感じた。


『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』 0点

2010-09-27 22:19:32 | goo映画レビュー

ようこそ、アムステルダム国立美術館へ

2008年/オランダ

芸術は人々にとって必要なのか

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木の葉燃朗さん

総合☆☆☆☆☆ 0

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 オランダのアムステルダム国立美術館の改築工事の様子を撮影したドキュメンタリー。工事は2004年に始まったが、映画の最後まで、そして上映されている 2010年の今に至るまで、工事は完了していない。この映画が元々どういう経緯で撮影開始されたかは分からないけれど(私は工事が終了してリニューアルオープンするまでの記録の予定だったのではないかと思っている)、結果としては改築に伴って起こる様々な問題を明らかにする内容になっている。
 その問題というのも、しょうもない、と言いたくなるような、本質に関わりないことが、工事の進行を妨げる。例えば、美術館は道路を跨いで建っているのだけれど、リニューアル後の設計では自転車用道路が通りにくいと市民団体が意見を提起し、美術館は構造の見直しを検討する。設計した建築家は、コンペを通った計画が次々変わることに苛立つ。行政(役人)も、研究棟のビルの窓の材質を確認して許可を出すかどうかを決める、などという意見を出してくる。
 こうした騒動に感じるのは、責任の不在。民主的といえば民主的なのかもしれないが、一度決めたことを何度も再検討する(それも必要性のない部分まで)というのは、一度決めた人間の責任逃れだろう。あらゆる意見を取り上げてしまえば、ひとまず「意見を聞かない」という批判からは逃れることができる。そして、意見を言う側はその意見への責任を持つ必要もない。意見が取り上げられ、検討された時点で責任があいまいになってしまうのだから。結果、意見を言う側は好きなだけ言えばいいし、都合が悪いときには沈黙していればいい。そして事態は妥協だらけに見える。
 そこで思ってしまうのは、「芸術って人々に必要なのだろうか」ということ。例えば、改築するのが病院や学校だったら、あるいはショッピングセンターだとしても、もっとすんなり進んだのではないか。美術館という場が、多くの人にとって必需の場所ではないから、これだけの問題が起きたのではないか。そんなことを感じる。また、例えばこれがパリだったら、ニューヨークだったら、東京だったら、と、色々なことに想像が広がる。
 しかし、それでも芸術は必要だと、私は思う。それを感じたのは、改築とともに進められている展示計画。リニューアル後の展示について、学芸員は予算をやりくりして美術品を購入し、配置・見せ方を考える。中でも、日本の金剛力士像に魅力を感じ、ついには購入を実現したアジア美術担当の学芸員の喜びの様子には、芸術への希望を感じる。その希望を広めるためにも、美術館にはいい形でリニューアルして欲しい。芸術の力を信じる私は、そう思う。