素がたり

素は≪素のまんま≫かたりは≪物語≫。現実を見る「科学」と、夢や幻想を見る「文学」との融合。

民俗調査

2013-04-17 13:49:23 | 書画評論

庭の花々(2013)

坪井洋文は、『日本民俗社会の研究資料』隣人社版(1968)のあとがきに、「日本基礎社会の研究にとって、研究上の普遍的要素となる諸現象の分布上の地域的ずれの意味をどのように位置づけるかという問題は、十分に検討されているとはいえない。民俗学的方法による限り、おのずから限界があるといえようが、一つの試みとしてその地域的ずれを説明する概念として”民俗社会”という用語を用いてみた。」と書いていました。
この本には、『日本民俗学大系』平凡社版(1960)に掲載された坪井の「民俗調査の歴史」と「日本民俗調査要項」が再掲されており、発刊当時、いわば民俗社会研究の入門書として読まれていたものでした。 

ここにいう「日本民俗調査要項」は、私にとってとても懐かしいものです。 

私は、高校入学と同時に森正史先生が指導顧問をされていた愛媛大学農学部附属高校・郷土研究部に属し、夏期合宿と呼ばれる民俗調査や、休日を利用したお祭りの調査に同行していました。調査項目は、大系本の「日本民俗調査要項」の抜書きやそのガリ版刷が、先輩から後輩に引き継がれていましたのでそれを使っていました。 
今考えると、不思議なもので、高校の生徒だったころの私は、まさか調査項目を著した当の本人から、将来お教えを受けることになろうなどとは、毫も考えてはいなかったのですから。 

高校時代、それは、東京オリンピックが開催され東海道新幹線が開通した、1960年の中ほどのころのことでした。


世羅高原農場

2013-04-14 19:44:21 | 四季折々

広島・船越のおばあちゃんを病院に見舞い、その足で世羅町に行きました。
尾道IJから尾道自動車道で世羅まで、それから山道を9kmほど走ると、世羅高原農場に着きました。4月13日から5月12日までチューリップ祭りが行われているのですが、まだ少ししか咲いていませんでした。それでも、多くのお客さんが来ていましたので、見頃の頃には、さらに大勢の人々が訪ねて来ることでしょう。


昨日見た夢

2013-03-16 11:41:07 | 書画評論

大塚久雄・安藤英治・内藤芳明・住谷一彦『マックス・ヴェーバー研究』岩波書店(1965) 

昨夜、NHK・BSプレミアムで、世界遺産時を刻む「神秘のバリ島アジア有数の棚田の美」を見ました。
とても美しい映像が流されていて、そうそうタバナンの水利博物館にも行ったなあ、タンパクシリング、ティリタンプル?など独り言を言っていると、静かに見てよと言ったのは、我が家の老猫だったのか、それとも機織る手を休めテレビを見ていた女房だったのか ? それとも夢だったのか。 

岩波書店『世界』に「座談会:神々の島バリ――インドネシアの文化と芸能をたずねて」が掲載されたのが1979年11月。
『叢書文化の現在』に中村雄二郎「魔女ランダ考 バリ島の"パトスの知"」が掲載されたのが1980年12月。
山口昌男先生は、この叢書の編集代表のお一人として活動されていました。 

そのころ私は地下鉄・茗荷谷駅の近くの「組事務所」に出入りしていました。
といっても勤めの身ですから、有給休暇の範囲内に限られ、年に2から3回程度のことでしたが...。
組の名は「芸能山城組」。

山城組は、多くの若者にバリの自然や文化を学習する機会を与えていて、私もその研修にも参加させて頂き、後には、宮脇獅子保存会の若い衆・総勢16名がバリ・アートヘスティバルに招待されプリサレンの御屋敷に泊めて頂くなど、又とない貴重な体験をすることができました。
組では『地球』という季刊誌を発行していました。もともと合唱団「ハトの会」の機関誌から出発していましたので、ごくごくレアーな雑誌には違いないのですが、つい先日、ある公立図書館の司書さんが「お問い合わせが時々あるものの、置いている館がなくご案内できない状態なんです。」と話していました。
その『地球』から。 

辻井 今の山城さんの不純宣言というのは、正にそういう文明史的な裏付けがあるという亊を付け加えておきます。
山城 いやぁ、今日は凄い勉強をしました。なるほど、つまり僕等が一生懸命自分の頭で考えてやっているように思っている行動は、文明史的な必然性の一つの現われとして出て来ているということですね。
辻井 これは残念ながら僕のオリジナリティではなく、マックス・ウェーバーにはじまり、現代の日本では住谷一彦さんや内田芳明さんらが研究している説なのです。 

出た !! お化けじゃないよ。住谷一彦先生だ。
ここにいう辻井は、辻井喬こと西武百貨店を統率していた堤清二氏。
山城は、芸能山城組組頭であるときの名が山城祥二、研究者であるときの名は大橋力先生でした。
そして、もうひとつ、大将の重要な指摘があった。 

山城 個人を前提にした専門家社会も傾き始めているし、南北問題や、環境問題、人類の生存権の問題などは、近代的個人優先の発想をもう許さないところに来ていて、より大きなシステムに価値を置いた方が間違いがないという認識が一般化していると思うんです。
季刊『地球』09「辻井喬と山城祥二の不純宣言(下)」芸能山城組出版局(1977.5)


憂鬱

2013-03-16 00:44:39 | 書画評論

traces


花粉のせいでもないと思うのですが、朝から憂鬱でした。
朝日・ひと欄はエマニュエル・リヴァEmmanuelle Rivaさん。話題の映画はAmour「愛、アム-ル」。当然Hiroshima mon amourに話が及ぶのですが、邦題は「二十四時間の情事」と書かれていました。 

多摩美の港千尋さんらは、広島で撮ったリヴァさんの写真を編集して『Hiroshima1958』を2008年に出版しました。この出版を機に、東京でもイヴェントが行われましたが、何よりも地元の広島で数日間の会期のなかで、リヴァさんを迎え市民参加の催事があり、それ以後、広島ではHiroshima mon amourの邦題は「ヒロシマ・モナムール」と呼び、webの検索でも「ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)」と表記しています。 

こうした市民レベルの活動はフランスでも行われていました。
ブルゴーニュ地方のヌベールNeversがその舞台になっています。
Hiroshima mon amourはあくまで創作された物語で、実際にあった話しではないのですが、映画のロケがヌベールであったりしましたので、現地の人々も「舞台」はここと決め込み、散策コースまで用意されているとのことです。まさにNevers mon amourとでもいうべき企画が、2006年の地元紙に載っていました。
traces の語がここにもありました。


弊衣破帽にマント姿、高下駄

2013-03-14 20:28:13 | 書画評論

『ダウンタウン・ヒーローズ』

坪井洋文、山口昌男、村武精一、住谷一彦。
仲良しと言えども都立大・社会人類学研究室では、住谷一彦先生はやや別格。
家は群馬高崎で指折りの旧家、しかも大学者を輩出した一族で知られていました。 

住谷天来(大叔父) 非戦論者。
住谷悦治(父) 吉野作造門下、同志社総長。
住谷磐根(叔父)画家。
住谷申一(叔父) 『満州日報』論説委員、同志社教授。
住谷馨(弟) 同志社大学教授。

先生は京都で生まれ、父君が昭和12年(1937) 松山高等学校教授に転任したこともあって、松山中学校、旧制松山高校を経て、1949年に東大を卒業されています。
戦争末期、四国の松山で過ごされ、徴兵検査を受ける折りには「当時の交通事情は最悪であったが、弊衣破帽にマント姿、高下駄という当時の高校生スタイルで四国の松山からはるばる群馬県高崎市にあった高崎旅団まで出かけた。」と書いておられました。
日本経済評論社『評論』76号「海軍予備学生だったころ」
http://www.nikkeihyo.co.jp/critiques/view/47 

旧制松山高校を舞台にした小説に『ダウンタウン・ヒーローズ』 (Downtown Heroes)があります。北條出身の早坂暁が書いた自伝的小説で、寄宿舎を「三光寮」と呼んでいた当時の様子を知ることができます。
1988年には山田洋次監督、薬師丸ひろ子主演で映画にもなっていました。