千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「瀬島龍三 参謀の昭和史」

2005-06-29 21:29:26 | Book
瀬島龍三という人物は果たして何者なのか、何者だったのか。
本書はノンフィクション作家、保阪正康さんが月刊「文藝春秋」昭和62年5月号の「瀬島龍三の研究」をもとに大幅に加筆修正したものである。

大正14年の春、北陸の小さな村から当時の村いちばんの秀才がそうだったように、14歳の瀬島少年は親だけでなく地元の期待を背負い、東京をめざして畑道を歩いていた。小柄な少年は、大人たちの励ましに黙ってうなずき、列車が走りだした時は目に涙を浮かべて郷里をあとにした。その列車は東京幼年学校へ向かい、そして16年後には大本営参謀、関東軍参謀につくも終戦後11年間シベリヤ抑留、この間極東国際軍事裁判(東京裁判)に出廷。帰国後は伊藤忠商事に入社して、昭和37年取締役業務部長、やがては土光臨時行政委員など列車は、昭和という時代を凝縮したかのような人物を乗せてかけぬける。

「瀬島会」なる彼を信望するメンバー、高い評価と信頼をよせる政治家がいる一方で、不誠実で無責任、参謀時代の戦術を企業で応用し、異例のスピードで出世しただけと、瀬島には毀誉褒貶がつきまとう。瀬島が脚光をあびたのは、専門商社だった伊藤忠商事を総合商社に格上げした業績もあるが、やはり山崎豊子さんの小説「不毛地帯」の主人公岐正中佐のモデルという説が定着したからだろう。「不毛地帯」を読んだことはないが、山崎さんご自身は特定のモデルは存在していないと否定している。

東京幼年学校という全国から集まったエリート集団において、決してはめをはずすこともなく、情熱のまま理想に走ることもなく、勤勉で勉強家の優等生タイプの少年は、周囲を冷静に観察してふるまう軍人としてのこころがまえを自然に身につけていき、やがて頭角をあらわしていく。そしてガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦など太平洋戦争において、キーパーソンとなる役割を背負っていき、終戦後はシベリアの収容所でもリーダー的な役割と交渉役も勤める。帰国後、45歳にして4等社員、高卒の女子社員扱いで日本の企業人にはじめてなった瀬島の、伊藤忠での業績と暗躍は「沈黙のファイル」の方が詳しい。(銀座の地味なホステスがデビ・スカルノ夫人になった当時の時代を語る経緯もわかる)しかし、本著で保阪氏が”研究”し、明らかにしたいのは旧ソ連との交渉時捕虜抑留についての密約があったのではないかという疑問、そしてその時に公人ともいえる瀬島の果たした役割からくる責任だろう。特攻機とともに海に消えた学徒たち、ソ連への協力を拒否して消えた将兵たち、シベリアでの過酷な重労働のために亡くなった多くの人、そんな彼らに果たす「責任」を求めているのである。

保阪さんの著書を読むのは、これで二冊めだが綿密な資料を丹念におっている。そして読者の情に訴えるというようなこともなく、強引な押し付けがましい主張もいっさいない。けれども信頼がおけ、読みすすむうちに静かなジャーナリストとしての開かれた目と確固たる目的意識を感じる。そんな保阪さんをずっと見つづけている存在を知った。保阪正康の祈り
だから私は、そんな保阪さんの著書を読みつづけたい。

月光族がいく

2005-06-28 22:41:30 | Nonsense
といってもバイクに乗ってマフラーを風邪になびかせている人種ではない。
満員電車でななめ前のおじさまの「日経新聞」を一緒に?読ませていただいた内容である。

テレビが11台、ダーからのプレゼントは400万円(日本円)!のネックレス、5台めの車をベントレーにするか、ベンツにするかが一番の悩みという、30歳をこえたばかりの夫婦のリッチなお話しが紹介されていた。LAや田園調布在住のセレブな方達の日常生活ではない。なんと、中国の新興勢力の勢いのある実業家のご家庭の話である。平等をうたう共産社会でありながら、一部市場開放されていて、徐々に経済格差が広がっているという実例だ。

月光族とは、そんなニューリッチな人々の生活を支える新人類。彼らは給料(月日本円で2万円程度)がでると、化粧品やおしゃれな服の購入、または趣味にお金をつぎこみ、まるで宵越しのお金はもたない江戸っ子のようなライフスタイルを送っている。だから貯金はいつも底をついている。これは中国の一人っ子政策によって、大事に育てられ、欲しいものも我慢する必要なく、こどもの頃から消費社会を知って育った世代である。中国の人口の多さから考えると、実数はまだまだ少数派であるが、そんな彼らのオピニオン・リーダーとして発信する流行や提案は影響力がある。そしてこの国が消費社会に加速化して進むであろう予測から、やはり月光族の消費パターンは、最初は小さな漣かもしれないが、やがては大きな波になり、巨額なビジネスがころがっていそうな気もしなくもない。
政治家の賄賂や不正、行過ぎた縁故主義がはびこるという中国に、共産主義の正しい思想を期待するのはもはや無理なのかもしれない。そしてどんどん消費社会へ向かい、それによってもたらされた経済格差が、今後どのようなひずみで表れるかなんだか心配なところでもある。

元々の「月光族」の由来は、昼間は工場で働き、夜は屋台をひいて食事を提供する勤勉な青年をさしていったそうである。けれども今の月光族は、月の光はなにも残らないという意味からきている。

銀行マンの苦闘

2005-06-26 12:30:13 | Nonsense
NHKスペシャルの日本の群像・再起への20年(2)「銀行マンの苦闘 」をやっと昨夜鑑賞(←この表現イマイチだが)完了。

アークヒルズにG・サックスが入居するようになってからかどうかわからないが、ビル内の飲食店がまるで外資系企業のランチ向けにリニューアル。手ごろな値段と落ち着いたサービス、思い出深いイタリアンレストランが撤退していた。サントリーホールでの夜のコンサート前に、珈琲とサンドイッチで食事は貧しいぞ。と、怒っていたが、まるでやどかりの如く、G・サックスはさっさとあの六本木ヒルズの最上階に移転している。

そんな米国流外資企業の眩しいばかりの光りと、破綻した日本長期信用銀行の元頭取(在籍破綻前のわずか2ヶ月)の裁判にあけくれる生活との対比で「銀行マンの苦悩」を語ること自体が、もしかしたら時代錯誤なのかもしれない。アプローチの仕方から見てもただの敗者の感傷とも受け取れる。

長銀は1952年設立され、大企業向けの長期融資を主な業務とする政策銀行だった。それが時代とともに、橋本さんの日本版ビッグバン始動とともに、その役割、業態も変化せざるをえなかった、そしてバブル時代の甘い無軌道な融資から不良債権が巨額になり経営破綻。巨額な公的資金約8兆円(国民みんなのお金)導入を見越して、安値(10億+資本増強1200億円)で米国のリップルウッドホールディング社が率いる投資家グループNew LTCB Partnersに身売りする。この時点で猛烈な貸し剥がしがはじまったのである。おそらくこのときの経験が、次の新生銀行で融資にたずさわったが米国人の上司とあわずに退職した方の「不良債権とはいうが、長い目で見れば返せるのに」という意見につながるのだろう。

うんざりするほど耳にする「護送船団方式」という手法は、今のグローバル化時代にあっては海外からは受け入れられない。自由な市場というのは、正当なる競争社会である。そんな時代のヨミの誤りとバブル時代の犯罪、これはいったい誰が責任をとるのだろう。あのバブルがこのまま続くと国民は思っていたのだろうか。歌手のSさんが実業家と脚光をあびている時だって、実は資産と同じ額の負債を抱えていることから、いつかは破綻するだろうと予測したのは私だけではなかったはずだ。
結局借金を背負ったのは、我々国民である。そして魚夫の利をえたのは、新生銀行上場により2300億の売却益(国内では無税になる)をえた投資銀行員たち。けれどもリップルウッドを非難するのは、的誤りともいえよう。彼らは合法的に、従来の手法でぬけめなくうまくやったのだから。
それが資本主義の論理というものだ。

東京大学法学部を卒業されて長銀に入行、そして出向先へそのまま転籍した「銀行の役割とは」ということをテーマーに語る元社長の横顔を思い出した。大きな希望とともに国のために尽くしたいという意思をもって長銀に入行された世代も確かにあったのだろう。

内閣総理大臣の談話

『2046』

2005-06-25 21:31:18 | Movie
プッチーニの「わたしのお父さん」(歌劇「ジャンニ・スキッキ」)は、おそらく最も好きな歌曲だと思う。タイトルから想像すると何故と思う方も多いだろうが、歌詞を理解し、ミレッラ・フレーニが歌うCDを聴いたら、私の好み、というよりも女性の好みをきっと納得するだろう。(マリア・カラスの重い声はこの歌にはむかない。)

1960年代の香港、主人公チャウ(トニー・レオン)が滞在しているホテルのオーナーの長女、ジンウェン(フェイ・ウォン)は、日本人の恋人(木村拓哉)との交際を父親に反対され、このオペラ曲を毎日聴いている。叶わぬ恋に思いつめて少しずつ心が病んでいく様子から、チャウは自らの失った恋、捨てた恋を思い出しながら「2046」という彼女達をモデルにしたSF小説を書き始める。
「2046」というミステリー列車には、乗客の渇望を満たすべく美しいアンドロイドが待っている。失った愛を取り戻せるということだが、その列車の終着駅になにがあるのか、帰ってきたものは誰もいない。ただひとりの男を除いて。

チャウの頭のなかで進行する近未来の自分の投影図(木村拓哉)と、壊れかけたアンドロイド(フェイ・ウォン)の哀しい恋物語。感情が10時間後にわいてくるというアンドロイドとの寒々とした抱擁。そして一生の恋に身をささげる女性たちと、永遠の恋を信じないチャウ自身の恋の遍歴。それらがいくつもの年代と未来が交錯しているため、細部までゆきわたった映像美でくりひろげられる絢爛たる世界を構築している。

おなじみのトニー・レオンが、道ならぬ恋でしくじり、自暴自棄になり次々と女性とただ楽しいだけのカラダの関係を続けていく、もう若くない売文家を絶妙な色気で演じている。また黒蜘蛛と称される謎の女性をコン・リー、「恋する惑星」での出演したフェイ・ウォンや「花様年華」のマギー・チェンという女性陣がわきをかためている。王家衛という監督の、集大成ともいえる映画である。”難解”という評判が先にたっていた映画だったが、解釈はひとそれぞれだろう。自己流で許していただければ、過去と未来を瞬間移動する列車にのって、ひとつの成就した恋、多くの過ぎ去った恋、それぞれを堪能できる旅ともいえよう。映像の美しさは随一である。映像を担当したクリストファー・ドイルは、現在「春の雪」の製作にたずさわっている。三島由紀夫の小説のテーマーを映画化するのは困難で、王朝絵巻風の絢爛豪華さを描くことにした監督のたっての希望だそうだ。

お手伝いロボットが我家にやってくる

2005-06-23 22:27:28 | Nonsense
但し残念ながら明日の今ではない。が、そう遠くない未来、25年後の2030年の話である。

今年の3月に経済産業省から「技術戦略マップ」なるのものが公表された。これは300名以上に及ぶ産学官スペシャリストたちの頭脳を集積した20分野に及ぶ20~30年後の未来図である。


それによるとこれまでの産業用ロボットだけでなく、今後少子高齢化に伴うニーズから、家庭での家事支援や高齢者への介護や自立支援を行うヒューマンサポートロボットを中心に開発がすすめられる。今でも東芝「三葉虫」のように、ヒトが動かさなくても勝手にお掃除してくれる家電もあるが、2010年頃には本格的な家事支援ロボットの研究開発から実用・一般家庭への普及をめざしているらしい。家事片づけ、案内・警備ロボット、こどもを見守るロボットの市場デビューは、ユーザー(主婦等)を対象に実施したマーケティング調査で需要をほりおこした結果目標である。何しろロボットだけではない、医学分野、環境問題、宇宙・航空分野も含めて頑張って国際競争力をつけないことには、この国は日が沈む国になってしまうのである。

我々の老後は、大丈夫?ロボットがおむつを替えてくれる。安心して寝たきりになれる。孫の世話や家事はロボットにお手伝いしてもらおう。楽ちんじゃ~。ところで、もしかしたら、秋葉系の男性は、オプションでエプロンをつけた童顔巨乳系の女の子ロボットを発注するかもしれない。だったら私はGacktさんにそっくりなロボットをお願いしようか。。。
そんなエロくてイタイ発想をしていたところ、やはりロボット開発がヒューマン型に向かうのは問題があるかもしれないと考える。家事をしてくれる家庭用ロボットは、映画「スター・ウォーズ」のおしゃべりで心配症のプロトコルドロイドC-3POではなく、R2-D2のような性格も言葉もないロボットが適任だろう。
鉄腕アトムは、永遠に誕生しない。

『インテリア』

2005-06-22 21:42:25 | Movie
裕福で、教養の高い家庭が崩壊していく・・・そんなドラマや映画は、今だったら話題にもならないだろう。進学校に通学するこどもが、爆弾を投げて事件を起こす時代である。連日の事件報道から、家族崩壊はどこにでもころがっている日常的な珍しくもないドラマになってしまったことを私たちは知っている。けれども1978年、この時代におけるアメリカでは、まだ家族というつながりは確かであたたかいものという神話が残っていた。

インテリア・デザイナーである母が、次女のジョーイ(メアリー・ベス・ハード)が映画作家の夫、マイクと住む新居を訪ねるシーンからはじまる。上品なブルー・グレーのコートをはおる母イヴ(ジェラルディン・ペイジ)が、高価な花瓶をどこにおくべきか、自分が選んだ電気スタンドの色から細かくこだわる姿に、完璧主義者の病んだ片鱗をのぞかせる。その様子にうんざりするマイクに観ているうちに同調しながらも、ロング・アイランドの高級住宅地に住み、3人の娘がそれぞれ独立した後に残された両親が、別居していることを理解していく。
シンプルだけれど上品に、完璧だけれどどこか冷たさを感じるインテリアに、この家族を構成する個の寒々しい内面がやがて露呈してくる。

詩人として成功してはいるが、売れない作家の夫との口論の絶えない長女レナータ(ダイアン・キートン)、次女のジョーイは両親から最も才能を期待されながらも、創作活動にいきづまり、妊娠してもこどを産む自信がない。末っ子のフリン(クリスティン・グリフィス)は、女優として活躍しながらも結局はB級のテレビ映画の端役をこなしている現実。

やがて父親は、イヴとはまるでタイプの違う女性パールと再婚したいといい始める。
イヴは、ギリシャ風女神のように結い上げた髪型、上品な色合いと優雅なデザインの服装で、まさに妻としても母としてもすきのないくらい完璧である。笑顔も静かで、知性的だ。それに対してパールは、真っ赤なドレスと少々悪趣味な髪型で肉感的な女性である。映画の話題でも、周囲の難解な解釈にはついていけない。けれども陽気で、開放的なあかるさがある。そんなパールにとまどいと、受け入れ難い拒否感を娘たちは父親に訴える。それは、しかし悲劇でもない。単に、人間として彼女達があわないというだけである。そして両親が離婚して、再婚した夜に本当の悲劇がおこる。

結局、イヴにとっては実業家の夫も、美しく賢い娘たちも、室内、つまり家庭を完璧にするためのインテリアにしか過ぎなかった。彼女の思い描く世界に、美しさと創造性はあったかもしれないが、感情も本質的な愛もなかったかもしれない。結婚後30年間もの間、日々築いてきたつもりの家族が崩壊した時のイヴの絶望感、それを充分に哀しみをもって理解できてしまう。すべて順調で整然と仕上げられていたはずの部屋が、或る日突然なにもない真っ白な箱でしかなかったと気がついた時の喪失感と空虚さは、自分のこれまでの人生をすべて否定され拒絶されたことにつながる。

音楽もなく、暗い海の荒れた波を背景に進行する静謐な心理劇を描いたウッディ・アレンのこの映画を、多くの観客は暗くて退屈と感じるだろう。けれども私はこの小さな悲劇を描いた映画を、特に女性の方にすすめたい。夜の闇で、自分を見つめながら1杯のカクテルを味わうかの如く。

『僕の彼女を紹介します』

2005-06-20 22:09:12 | Movie
172センチの長身でロングヘアーの巡査ヨ・ギョンジン(チョン・ジヒョン)が持ち前の正義感から、静かに、しかし怒るととってもかっこいいのである。従来の外見上の女らしさの殻をやぶった女性像が、韓国でも大人気とは!そして武闘派でありながら、実は繊細で一途に人を愛する表情がとってもとっても可愛い。

ふたりの出会いは、なんとひったくりの誤認逮捕。本来だったら不名誉なだけでなく、これだけ罵倒されてイタめつけられたら逆ギレされて訴訟にまで発展しそうなのだが、気が弱くて人のいい女子高の教師、コ・ミュンウ(チャン・ヒョク)の場合は、必死に弁解するだけで哀れさをそそる。いや笑いをそそる。。おまけに又々彼女の勘違いで麻薬取引現場にまで、手錠で繋がれたままひきづられ、さんざん振り回されて銃撃戦にまきこまれ命からがらで難から逃れる。ふたりの手錠がまるで「女主人と召使」の関係を表しているようなみじめなミュンウの姿に、同情する。いややっぱり大笑いする。

そして手錠で繋がれたこの日から、ふたりの「主人と奴隷」の関係は、一生の恋人への関係に自然になる。この初々しい巡査と教師のふたりの恋物語には、観客の誰もが微笑むだろう。そしてオンボロ車で旅行に出かけた帰り、大雨による土砂に車が流され、ミュンウは一度死にかけるがギョンジンの必死の救出によって命を救われる。その雨に濡れたギョンジンの必死な姿が、愛するものを失ったときの救いようのない絶望感を予感させる。

「猟奇的な彼女」からこの映画は二番目という予想を裏切り、前作におとらぬ作品に仕上がっている。チャン・ヒョクも知性的でよい俳優だとは思うのだが、なんといってもこういう役は、その容姿を含めて。チャン・テヒョンが最もはまり役と感じる私も、おおい満足させられる隠し球が最後にちゃんと用意されている。そしてタイトルにこめられたメッセージは、観客にとってもひとつの紙飛行機かもしれない。そんなファンのツボをおさえたような演出に、監督の余裕とセンスが見受けられる

冒頭にソウルの夜景のシーンがあるのだが、ため息がでるくらいに、そして意外といっては失礼だがNY並に綺麗なのだ。空爆の恐れから日没後の空中撮影が禁止されている政府を説得して、今回このような素適なシーンを見ることができたのだ。のんびりした日本とは違った、生々しい韓国の事情をしるエピソードでもある。後半の「奇跡」を「ファンタジー」ととらえれば、奇跡を信じないリアリストの方でも納得いく泣ける娯楽作品であろう。

電車のガード下の焼き鳥やで、ほろ酔い気分になりたくなる映画である。そういう時はスカートでなくパンツで、かっこよく。

読売日本交響楽団 第467回名曲シリーズ

2005-06-19 17:24:00 | Classic
演奏の最後の音が完全に鳴り止むと同時に、軽いどよめきが会場にわいた。
ヴァイオリニスト、渡辺玲子さんの演奏はいつも聴衆の期待を裏切らない。30代半ば、(東京藝大付属)芸高でもヴァイオリンの豊作期と後々語り継がれるくらいの多くの同世代ヴァイオリニストたちが活躍しているが、渡辺さんはその中でもトップランナーのひとりである。

R.シュトラウスのかくれた名曲、ヴァイオリン協奏曲が演奏される機会はあまりない。しかもソリストは、あの渡辺玲子さんだ。けれどものんびりしていて、読響だし、プログラムも地味目だからと油断していたら、1週間前に予約したらもうP席しか残っていなかった!さすがにサントリーホールでも、ピアノ協奏曲はともかくとして、ヴァイオリンは音の広がり方からオーケストラボックスの裏は、正直あまり良くない。(それでも4000円は高くないか。)だから本当の演奏がどうだったかというのは、今ひとつ生意気に言えない、・・・のだが渡辺さんの演奏がよかったのは、充分後姿からも感じとれる。

この曲は、特別な深遠や、きらめくような音の流れ、感情をゆさぶるほどの情感はない。けれどもヴァイオリン演奏者のための技巧的なみせどころが、随所に散りばめられている。まるでアルプスの山のように、美しいけれど登るのは難関というところだろうか。そうえいばウィーンの墓地には、安っぽい金ピカのシュトラウスがヴィオリンを弾いている像があることから、この楽器に関しては詳しかったことを思い出す。
チャイコフスキー協奏曲のように情感をこめて弾けば、聴衆もノッテクルというほどのおなじみではないから、逆に新鮮さで勝負できるが、耳の肥えたファン、土曜日ということでたまに雰囲気を味わうファンまで、幅広い層の耳だけでなく、こころまでつかむのは意外と難しい。
けれども堅実で、あざとい弾き方はしないけれど、音楽の本質をついた演奏をこなす渡辺玲子さんの演奏は、たとえP席でも隅々まで満足と納得がいく。サービスなしの拍手が、それを如実に語っている。

余談だけれど、諏訪内晶子さんのようなスタイルとルックスはないけれど、マゼンダ色の鮮やかな露出度の高いドレスが、女性の目から見ても渡辺さんにはよく似合っていたと思う。女性ヴァイオリニストの間では、男性はとまどわれるようだが、このような肩を出したデザインの衣装が好まれる。流行のさきがけアンヌ・ゾフィー・ムターが、ディオールのドレスをいつも着るようになった当初は、セクシーなドレスで人気をとっていると一部揶揄されたこともあった。けれども実際は、肩を出した方が楽器が密着してより体と一体感がまし、弾きやすいという現実的な作業着感覚らしい。逆に燕尾服、蝶ネクタイの男性を見ていると弾きにくくないのかなといつも思うのだが、やっぱりなれていくものだろうか。もっとも男性ヴァイオリニストは演奏経験を積むと、比例して脂肪も積む方が多いようなので、燕尾服で固めていただいた方がいいかもしれない。
コンサートマスターは、藤原浜雄さん。

--------プログラム---指揮:エド・デ・ワールト  ’05 6.18 サントリーホール-----------

R.シュトラウス  交響詩「ドン・ファン」 作品20

R.シュトラウス  ヴァイオリン協奏曲 二短調作品8

ラフマニノフ    交響曲弟3番 イ短調作品44

「世にも美しい数学入門」藤原正彦/小川洋子

2005-06-17 23:39:09 | Book
漠然とではあるが、ずっと数学の美しさは、J・S・BACHの美しさに通じるものがあると思っていた。
今評判の本著で、その端緒をようやくつかみかけたような気がする。

何しろ作家の両親の育て方の成果なのか、数学者・藤原正彦さんの「数学は、ただ圧倒的に美しいもの」という語りが実にいいのである。確かに奥様がテレビ出演のさいに、「あなたの顔を30分も見ていたら具合が悪くなる」という的を得た意見から、緑の山を背景に教育テレビに出演されたこともあるくらいの外見だが、中身は繊細なる美意識がゆきわたっている方でもある。作家の小川洋子さんとの対談形式ですすむ、数学者の話、日本人は本当は独創的で美意識に優れているから数学に向いているという教育論から、高校時代の記憶に残る背理法で素数が無限に存在するという証明、そしてオイラーの公式まで、高校生レベルで理解できる数学への憧れが続く。

なかでも長年の苦痛?だった虚数の話だ。だって二乗したら -1 になる数字なんてどう考えてもありえないだろう。(このあたりから私の数学のレベルは、迷宮にはいってしまったのかも)16世紀のカルダノが「虚数によって受ける精神的苦痛は忘れ、ただこれを導入せよ」そうだ、高校時代の数学教師も同じようなことを言っていた。それをガウスが、座標軸で虚数を表していたのだった!→
ガウスによって横軸が実数軸、縦軸が虚数軸、そして複素数をたとえば3+5iと視覚化して、虚数が認知された。

そして今夜から私も一生悩みそうなのが、「ビュッフォンの針の問題」だ。紙にたとえば a センチの幅で平行線を何本も引き、そこに半分の長さ(a/2センチ)の針を投げると、針は平行線に交わるか、触れないで横たわるかのどちらかになる。その平行線に触れる確率が 1/π になる。何故ここで円周率のπが登場してくるのか。ある人がコンピューターで実践したら、回を重ねるごとにどんどん 1/π に近づく。こんなところで規則性が生まれ、しかも全然関係ないと思われる π が登場してくるなんて、確かに藤原さんが「神が隠している美しい秩序」と感嘆したくなる気持ちがわかる。私たちの知らないところ、気がつかないところに、いくつも不思議な規則性や真理が隠れているのだろう。それを天才が発見して、気の遠くなるような歳月をかけて、別の数学者が証明してやっと人の手の届くところにやってくる。実に壮大でドラマチックな話ではないか。

そこでもっとドラマチックとも思えるのが、天賦の才能をもった数学者の人生である。藤原正彦さんの著書で、最もお薦めなのが「天才の栄光と挫折」である。凡人にはない才能という代償のかわりに、その才能がゆえの悲劇も深い。

数字は無限にある。しかしその無限の数字から整然とした秩序を示す美しい定理に、驚くのである。そして音も無限にある。混沌から無駄をそぎおとし、真珠のつながりのような音、それを音楽とよぶ美しい世界は、やはり数学に近いと私は思うのだが。。。


『幸せになるためのイタリア語講座』

2005-06-16 23:11:11 | Movie
オーーソ~ッレ、ミィオオ~~ッ♪
そんな思いっきり明るいイタリヤ・カンツォーネは、このメンバー↓には似合わない。



だからというわけではないが、何故コペンハーゲンから遠くベニスになけなしのお金をはたいて、こんな真冬の小雨に降る寒い日にやってくるのか。
けれどもそんななんとなく沈む都市ベニスのうらぶれた雰囲気を壁紙にすると、彼らにはやっぱりこんな天気がよくあっている。
何しろ、みんなもう若くはない。それも妻に先立たれた内気な新米牧師アンドレス、アル中の母親にふりまわされ、時々毒づかれる美容師カーレン、お人よしのホテルのフロントマンを勤めるヨーゲンはここ数年インポテンツに悩んでいるし、彼の友人であるスタジアム・レストラン店長のハルは短気な性格のため職場をお払い箱に、不器用で失敗続き、偏屈な親父の世話で疲れたオリンピア・・・などなど笑えるくらい運がなく、気がよくて、でも寂しい彼ら。

そんな彼らが市役所主催の「イタリア講座」に通いはじめる。そこで小さな出会いとほのかな心が通じ合い、少しずつ少しずつ肩を寄せ合うようになる頃、全員でベニスに旅立つのである。

ノルウエーの映画は、まるでドキュメンタリーのような荒い映像が多い。俳優たちを化粧と照明で美しく撮ろうということもない。幸福な恋愛映画でも、ロマンチックな映像で観客を酔わせることもなく、俳優の年齢を重ねたしみ、女優のしわも正直にリアルに描く。そこに生身の肉体を、リアルに想像させる不思議なエロティシズムも漂ってくるからおもしろい。この映画を観ていて、そういえば北欧は性に関しては先進国だったとか、ノルウエーの離婚率は50%だったということを思い出した。
肉体の交わりがお盛んだからといって、必ずしも本当に気持ちがつながっているとは限らない。高い離婚率がやすらかな家庭への帰属意識が強まることもある。そして北国の人だけでなく、小さな愛情やつつましい生活の損失がどれだけ現代人に深い喪失感をもたらすことか。

監督・脚本: ロネ・シェルフィグ Lone Scherfig

ちょっと手をのばせば、大人の幸福はすぐそこにあるかもしれない。
そんな気持ちにさせてくれる、ホットココアをふたりで並んで飲みたくなる映画だ。