万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

陰謀論と陰謀説は区別すべき

2024年03月28日 10時40分25秒 | 国際政治
 近年、世界各地において不可解な事件や辻褄の合わない出来事が頻発するにつれ、‘陰謀’という言葉を耳にする機会も飛躍的に増えました。かつてはマニアックな人々の好奇心を引き寄せてき‘陰謀’なる言葉は、今では、メディアなどでも堂々と語られるようになりました。しかしながら、その一方で、‘陰謀’という言葉は、さらなる混乱を招くことにもなったのです。

 それでは、何故、‘陰謀’という言葉の一般化が、現実に対する正確な理解を妨げる要因となってしまったのでしょうか。その主たる原因は、‘陰謀という言葉には、以下に述べるように、その使われ方に違いがあるからなのでしょう。

 第一の陰謀の使われ方は、陰謀の存在を否定する側が、陰謀の実在を信じている人々を揶揄するために使われるケースです。この使われ方は、メディアやウェブ記事などで頻繁に目にするものであり、通常、‘真面目であった○○さんが、陰謀論に嵌まってしまって残念・・・’とか、‘何故、かくも人々は、馬鹿馬鹿しい陰謀を信じるのか’という、パターン化された論調で書かれています。こうした記事では、専門家によるもっともらしい心理分析まで付されており、読者に対して、陰謀を信じる人々は、理性を失った一種の‘狂信者’であるとするイメージを植え付けています。そして、‘陰謀論者’という呼び名は、簡単に嘘を信じて騙される愚かな人々、という嘲笑的な意味合いをも持つようにもなったのです。

 なお、この使われ方は、とりわけ、トランプ前大統領が、‘ディープ・ステート’を政治の表舞台に登場させたため、米民主党を中心とするリベラル派の人々がトランプ前大統領、あるいは、共和党支持者を批判する際に目にするようにもなりました。言い換えますと、政治的な対立軸が加わったことで、余計に踏み絵的な役割をも担ってしまったようにも思えます。このことは、理性派を任じていたリベラルの人々も、内心において陰謀の可能性を認めていたとしても、口に出せない状態に置かれることをも意味します。

 その一方で、第二の陰謀の使われ方とは、上記の陰謀の実在性を否定する人々こそ、陰謀を企む側の一員であると見なす場合です。つまり、‘陰謀論という名の陰謀’と言うことになり、ここに、どんでん返しがあるのです。考えても見ますと、陰謀を企む側はその存在を一般には知られたくないのですから、陰謀の存在を否定したいに決まっています。この観点からしますと、第一の使われ方もあり得るのであり、とりわけメディアを介した否定論が多く見られるのも、この主張の信憑性を高めています。今日のメディアは、陰謀実在論者が主張するように、世界経済フォーラムをフロントとする世界権力の強い影響下にあることは否めません。

 陰謀論とは、ケネディ大統領暗殺事件を受けて、オズワルド単独犯説に疑問を抱く国民の声を封じるために、CIAが開発した世論操作の手法であるとする指摘がありますが、近年、CIAによる工作活動の実態が漏れ伝わるにつれ、陰謀論も、同機関の活動の一環であった可能性は高まるばかりです。日本国内でも、安部元首相暗殺事件は、現場の状況や手製の銃器の性能からすれば物理的に不可能であり、山上被告単独犯説は成り立たないにも拘わらず、疑問の声は‘陰謀論’としてかき消されています。

 以上に述べたように、陰謀論という言葉が使われるに際して正反対の見方があり、こうした違いが混乱の一因であるとしますと、両者を明確に区別した方が望ましいこととなりましょう。どちらの意味で使っているのか、直ぐには判断できないからです。そこでまず、何らかの事件等が発生した場合、それが、何者かによる謀略や工作活動である可能性を指摘する、あるいは、合理的に推理する場合は陰謀説と表現し、それが何れの立場であれ、陰謀の打ち消しを目的とする世論操作や世論誘導が強く疑われる場合のみ、陰謀論という言葉を使うというのはいかがでしょうか。

 陰謀論という言葉が出てきますと、正当な根拠を備えた真っ当な疑いや不審点の指摘であっても、どこか‘うさん臭く’聞えてしまいます。陰謀論という言葉を聞いただけで、条件反射的に拒絶反応を示す人も少なくないことでしょう。しかしながら、陰謀説という表現であれば(謀略説でも工作説でも構わない・・・)、受け取り方が違ってきます。‘この事件については、陰謀論があります’と言うのと、‘陰謀説があります’と言うのとでは、聞き手が受ける印象が随分と違うのです。後者のほうが遥かに現実味がありますので、多くの人々が事実の徹底究明の必要性を認識すると共に、真剣にリスク対策を考えるようになるのではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王室皇室の情報公開と陰謀説

2024年03月27日 12時57分11秒 | 国際政治
 英国皇太子妃の公表動画にあって陰謀説が渦巻くこととなったのは、フェイク動画を容易に作成し得る画像処理技術の向上のみではありません。王室や皇室については秘密主義で知られており、あまりにも隠し事が多すぎるのです。様々な情報が行き交う情報化時代にあっては、秘密主義は、諸刃の剣どころか、百害あって一利なしともなりかねないリスクがあります。

 先ずもって、秘密主義そのものが陰謀であるからです。陰謀とは、他者に知られることなく、密かに自らの目的を達成しようとする行為です。言い換えますと、情報を他者に隠しながら物事を進めてゆく手法こそ、陰謀と言うことになります。陰謀の特徴の一つが秘密主義なのですから、王室や皇室が秘密主義をもって自らの情報を隠しますと、自国民をはじめ他の人々から、‘どこか怪しい’と疑われ、信頼喪失に繋がることは仕方がないことなのです。逆から見ますと、秘密主義を貫こうとすれば、隠蔽を指摘されたり、陰謀説が流布されることは覚悟しなければならず、疑惑や勝手な憶測を払拭したいならば、全ての情報を公開しなければならないと言うことになりましょう。

 もっとも、この秘密主義と陰謀との関係については、国家の防衛や安全保障を理由として是認すべきである、とする主張もありましょう。確かに、外国や外国勢力から軍事力による攻撃や工作員による謀略を仕掛けられるケースを考慮すれば、この反論にも一理はあります。国家機密というものは、何れの国にも存在します。しかしながら、秘密主義は、たとえ安全保障上の分野であれ、必ずしも国家や国民を護るとは限らないことも、確かなことです。国家機密という‘隠れ蓑’を、陰謀を企む者達に与えかねないからです。そして、国家機密という隠れ蓑を利用する者達こそが、安全保障や国家の独立性を脅かす外国勢力との内通者あるいはそのメンバーであるかもしれないのです。

 例えば、今般の皇太子妃動画問題も、YAHOOニュースにおける不自然なコメント投稿は、一見、動画を配信した皇室、あるいは、皇太子妃を庇うために投稿されているように見えます。同投稿は、人々の同情心に訴え、陰謀説を唱える人々を暗に糾弾することで、議論を封じようとしたのですから。しかしながら、仮に、今般の病気の原因が、ワクチンのみならず、何らかの勢力による謀略にあったとすればどうでしょうか。暗殺の手段として人為的にがんを引き起こす装置は、既に開発されているとされます(幾つもの発がん物質が確認されていますので、技術的には可能なはず・・・)。

 イギリスでは、皇太子妃に先だって、国王もがんの罹患を公表しております。相次ぐがんの発病は単なる偶然なのでしょうか。国民の多くが、不審を抱いても不思議はない状況にあります。仮に、投稿者が主張するように、陰謀や謀略の可能性を指摘してはならないとしますと、実際に陰謀が存在していた場合には、陰謀を企む側の‘思う壺’となりましょう。この場合、投稿者の目的は、別のところにある可能性も否定できなくなります(あるいは、何れであっても、陰謀説だけは封じたい?)。

 さらにより穿った見方をすれば、王室側が敢えて陰謀の存在を国民に暗に知らせるために、誰もがフェイクであることに気がつく動画を配信したのかもしれません。この場合、‘お察しください’というメッセージ、暗殺やすり替えの危機を前にして、国民に助けを求めていることにもなりましょう。もしくは、何らかの目的のもとに、罹患自体がフェークであることを知らせているのかもしれません。

 何れにしましても、様々な可能性がありますので、王室や皇室の秘密主義は、国民にとりましては、重大なリスク要因です。情報が無ければ、国民は、正しい判断も評価もできないからです。それでは、全ての情報を包み隠さずに全面的に公開するとなりますと(特に世襲であるからこそDNA情報は重要・・・)、王族や皇族にはプライバシーが全くなくなることになります。血統問題、日常生活、発言内容の全面的な公開によって、一般の国民と然して変わらないともなれば、権威としての求心力は失われ、統合の役割をも果たせなくなりましょう。そこで、権威を維持しようとすれば、神聖性やカリスマ性を演出せねばならず、やはり情報統制や劇場化が必要とされてしまいます。つまり、ここに二律背反が生じるのであり、現代という時代にあって、王室や皇室の存続をなおさらに難しいものとしているのではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陰謀論をめぐる理性vs.感情の問題

2024年03月26日 12時19分52秒 | 国際政治
 報道に依りますと、先日、英国皇太子妃が自らががんを患っていることを公表する動画ビデオを公開したところ、SNSなどで、生成AIによるフェイク動画説やワクチン・ターボがん説などの‘陰謀論’が沸き起こっているそうです。先だって公開された家族写真における修正の指摘に端を発したビデオ公開であったのですが、むしろ、疑惑が深まってしまったようなのです。

 公表されたビデオ画像には、確かに不自然さがあります。SNSのユーザーの人々が指摘している通り、野外の撮影ですので、当然、背景に写る木々や花々は風に揺れるはずなのですが、微動だにしていません。別の場所で撮影した動画の背景だけを入れ替えたのではないか、とする疑いも、あながち否定はできなくなります。とりわけ生成AIはこうしたフェイク動画の作成を技術的に可能としていますので、陰謀説、あるいは、フェイク説の主張にも合理的な根拠がないわけではないのです。

 ところが、同ニュース、YAHOOニュースでも配信され、多くのコメントが寄せられているのですが、その中に、驚くことに1.3万人もの圧倒的数の「共感した」を獲得したコメントありました。同コメントとは、「あの動画をAIだと言う人は絶対出てくると思っていた。確定的な自信や証拠があるなら別だけど、そうじゃないなら、カウンセリング受けた方が良いと思う。闘病中の女性を傷つけている可能性に思い至らないなんて人間としてとして虚しすぎるよ」というものです。

 このコメント、いささか問題含みのように思えます。何故、問題となるのかと申しますと、そもそも、日本国内にあってイギリスの王室の記事に1.3万もの数の「共感した」が押されたこと自体が不自然でもあるのですが(この数字、1.3万ジャストですので、千単位以下は切り捨てられているのでしょうか・・・)、以下の点で、自由な議論を阻害したい思惑が透けて見えるのです。

 第一に、同コメントの投稿者は、最初の一文において、AI作成説の出現を確信しています。‘絶対に出てくると思っていた’と述べているのですから。ということは、本人も、同動画の不自然さについては気がついており、この書き出しは、敢えて先手を打って‘陰謀論’への発展を抑えようとする強い意志が読み取れます。

 第二に、‘確定的な自信や証拠があるなら別’とも述べていますが、実際に、SNSのユーザー達は、フェイク説や陰謀説を主張するに際して、スロー再生の動画を提供するなど、具体的な根拠を示しています。しかも、上述したように、動画の背景のみが静止しているのは、誰もが確認できる事実です。提示されている明確な根拠を無視しているわけですから、投稿者は、鼻から議論をするつもりもなく、否、一方的に議論を遮断しているのです。

 第三に、「カウンセリング受けた方が良い」という表現は、相当に侮辱的、あるいは、挑発的な表現です。専門家による診断や治療を要するほどに、SNSのユーザー達は、精神に異常をきたしている(頭がおかしい)と言っているのですから。SNSのユーザー達は、動画に対する客観的な分析に基づいて疑問点を述べているのですから、理性的に対応しているのは、むしろSNSユーザーの人々です。

 そして、第四に指摘すべきは、最後の一文となる「闘病中の女性を傷つけている可能性」に思い至らないなんて人間としてとして虚しすぎる」という言葉の狡猾さです。病身の女性を慮っているようにも聞えるのですが、その実、この言葉は、第三点と同様にSNSのユーザーの人たちに対する人格攻撃を意味します。人格攻撃とは、しばしば、正当な議論から逃げるための手段でもあります。つまり、自らを道徳的な高みに置きつつ、周囲の人々の感情に訴え、したり顔で正当な意見や批判を排除しようとしているのです。このような感情に訴える態度は、巧妙な言論封じと言えましょう。それが、如何に自らにとって耳痛い、あるいは、不都合であっても、他者の意見に誠実に耳を傾け、理解しようとする方が、余程、人間的なのではないでしょうか。

 以上に述べてきた諸点からしますと、同投稿者は、感情論・同情論をもって陰謀説を封じる明確なる意図をもってコメントを投稿したものと推測されます(1.3万人数は、組織的同調圧力・・・)。そして、ここに、何故、コメント欄を利用しても陰謀説を封じなければならなかったのか、という別の問題も浮かび上がってくるのです(つづく)。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自国民ファーストこそ民主主義に適っているのでは

2024年03月25日 12時03分46秒 | 日本政治
 トランプ前大統領が、‘アメリカン・ファースト’のスローガンを掲げて2016年の大統領選挙戦に打って出たとき、リベラル派を筆頭に批判の嵐が吹き荒れることとなりました。リベラル派の博愛精神からしますと、利己的で差別的、と言うことであったのでしょう。もっとも、同大統領が当選したことにより、同スローガンは各国の選挙戦で模倣され、流行り言葉ともなりました。その一方で、先日も、‘政治は日本人だけのものではない’とする旨の発言が日本国の政治家の口から飛び出し、物議を醸しています。かつて鳩山由起夫元首相も. 「日本列島は日本人だけのものではない」と述べて衝撃を与えましたが、国家とは、一体、誰のものなのでしょうか。

 仮に持ち主がいれば、その人、あるいは、その人たちが‘ファースト’であっても、何らの不思議はありません。むしろ、当然のことと言えましょう。この当たり前の視点から国家の所有について見てみますと、今日の民主主義国家では、国家の所有者は、集団としての国民と言うことになります。それでは、日本国はどうでしょうか。

 日本国憲法の前文は、「日本国民は・・・」で始まり、「・・・正当に選挙された国会における代表を通じて行動し、・・・ここに主権が国民に『存することを宣言し、この憲法を確定する」とあります。古今東西を問わず、世襲君主制が一般的であった時代には君主が主権者でしたが、この前文は、日本国民が主権者であると謳っています。すなわち、上記の問いについては、日本国民が、日本国の所有者であると定めていると言えましょう(なお、主権という言葉には多面性があり、統治権のみならず、国家としての法人格をも意味しますので、国家の所有主体となる・・・)。現代という時代では、民主主義体制の国家であれば、何れの国であっても、主権は国民にあるのです(国民主権)。

 主権者が国民である以上、国家の統治機能は、それに属する国民自身によって、国民のために統治機能が提供されることとなります。「人民の、人民による、人民のための政治」というアブラハム・リンカーンのゲティスバーグ演説(1863年)を引くまでもなく、民主主義の本質的な意義とは、国民自身による自治であることは、自明の理と言えましょう。この点に鑑みますと、‘日本は日本人だけのものではない’という言い方は、民主主義を否定しているに等しくなります。また、日本国憲法第九九条では、憲法尊重擁護義務を国会議員にも課していますので、鳩山元首相等の政治家の発言は、同義務に反する憲法違反ともなりかねないのです。

 しかも、憲法には、国民の権利のみならず、義務をも定めています。権利と義務との関係は、通常、当事者を相互に拘束する契約関係として理解されます。政治思想では、中世以来、しばしば社会契約説が唱えられ、近代に至っても、ホッブス、ロック、ルソーといった著名な思想家達が同説に基づいて国家構成理論を展開していますが、歴史的事実を伴わないとする批判を受けつつも、憲法が明記する統治諸機関と国民との関係を見る限り、社会契約説は、国家と国民との本質的な関係を、民主主義を支える普遍的な理論として描き出したと言えましょう。そして、憲法が社会契約説においても説明される‘契約’であるならば、国民は、法的な義務や責任を負う契約の当事者の立場となるのです。この点、改めて‘自国民ファースト’が唱えられる現状は、如何に民主主義の本質が忘却されてきたかを如実に表しているとも言えましょう。

 そして、この問題は、以上の考察を踏まえて、‘日本国が日本国民のものでないとすれば、一体、誰のものなのか’という問いに置き換えてみますと、より明確に理解されるかもしれません。日本国民以外の人のものでもあるならば、日本国民は、主権を他国の人や外部勢力に侵食、あるいは、奪われていることになりますし、何らの公的義務も責任も負わない人々、つまり、‘契約’を結んでいない人々に対して権利だけを認めることとにもなるからです。リベラルな立場からの博愛主義は、実のところ、外国や外部者による主権侵害や内政干渉を容認してしまうリスクが認められるのです。このように考えますと、国家と国民との関係については、感情論よりも、より論理的に説明した方が、余程、多くの人々が納得するのではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

経済学の大いなる矛盾-自由貿易論あるいはグローバリズムの重大問題

2024年03月22日 11時52分44秒 | 国際経済
 今日の自由貿易体制を今なお支えている基本理論は、デヴィッド・リカードが唱えた比較生産費説(比較優位説)とされています。リカードは、18世紀末にロンドンにて生を受けたユダヤ系イギリス人であり、経済学者ではありながら、ケンブリッジ大学中退後にロンドン証券取引所の仲買人となり、その後、庶民院の代議士として活躍した異色の経歴をもつ人物です。比較生産費説とは、下院議員時代に自らが主張していた自由貿易論に理論的な根拠を与えるために編み出された理論とも言えましょう。

 しかしながら、考えてもみますと、19世紀初頭、すなわち、大英帝国を中心とする自由貿易体制がその頂点を迎えた時期に主張された理論が、現代にあっても国際経済体制の基本理論とされているのは奇異なことでもあります。時代で言えば江戸時代の理論を、そのまま維持しているようなものなのですから。アメリカではトランプ前政権の時代に自由貿易体制からの離脱が試みられましたが、日本国を見ましても、2018年末にTPP11が発足すると共に、2023年7月にはイギリスの加盟が正式に決定されています。また、中国を含むRCEP協定も、2022年1月をもって発効しているのです。

全世界の市場の単一化を目指すグローバリズムが広がった今日では、自由化の対象は‘物(財)’だけではなく、サービス、資本、技術(知的財産)、そして、労働力にまで及んでいますが、その幹となる部分が、あらゆる国境における障壁の撤廃、即ち、市場開放を伴う自由化であることには変わりはありません。国際経済の世界では、200年以上の長きに亘って、同一の理論が不動の地位を占めてきたと言えましょう。あたかも‘自由貿易教’のような様相を呈しているのですが、本当に、‘信じる者は救われる’のでしょうか?

リカードの比較生産費説とは、簡単に述べれば、ある国が相手国と比較して低コストで生産できる産品に特化して相互に交易すれば、当事国の双方が利益を得られるという説です。同説が唱える互恵性の成立は、諸国家間の国際分業にも理論的な根拠を与えており、自由貿易体制の構築は、資源の最も効率的な配分を実現させる理想的な国際貿易体制として位置づけられたのです。貿易を介して全ての国が同体制に加わるだけで、どの国にも利益をもたらすと唱えたのですから、いわば、国際経済における予定調和説とも言えましょう。

 しかしながら、現実には貿易戦争は頻発してきましたし、また、富める国と貧しい国との格差も見られ(比較優位となる貿易品を産出できない国も存在する・・・)、リカードの掲げた理想とはほど遠く、現実が理論を実証的に否定してしまったとも言えるかも知れません。そして、この現実と理想との乖離は、経済学における大いなる矛盾をも提起しているように思えるのです。

 この矛盾とは、主として関連する二つの側面から指摘することができましょう。その一つは、自由貿易理論は、国内経済を主たる対象とした経済学’からは否定されてきた自由放任論やレッセフェール論を是認してしまう点です。今日、国内市場にあって自由放任状態となれば独占や寡占に至るとする認識は広く共有されており、凡そ全ての諸国にあって、市場の競争メカニズムを阻害する行為として法律をもって禁じられています。自由が自由を消滅させてしまうからです。実際に、競争政策は、何れの国でも重要な政策分野であり、自由を護るためにこそ、独占や寡占をもたらす規制が必要とされるのです。仮に、この国内市場の当然の道理が世界経済にも当てはまるとすれば、当然に、自由貿易も規制を受けるべきはずなのです。

 第二の矛盾点は、自由貿易論と称しながら、その実、実際に水平であれ垂直であれ国際分業が成立すれば、そこにはもはや自由はない、というポジションの固定化並びに体制の拘束性の問題です。比較優位を原則とする国際貿易体制が成立した時点で、各国は、‘資源の効率的配分’を基準として自らに割り振られた生産品に特化して製造を行なう国へと移行し、この固定化された体制から抜け出せなくなるのです。この側面は、第一点として述べた競争の消滅とも関連するのですが、自由貿易主義あるいはグローバリズムの未来は、国境を越えて物品が自由に取引される軽やかな空間ではなく、むしろ諦観が漂う陰鬱とした管理貿易体制に近い姿なのかもしれません。自由貿易主義にも、いつの間にか目指す方向とは逆となってしまう‘メビウスの輪’が伺えるのです。

 今日、新自由主義が多くの人々から忌み嫌われるのも、自由貿易主義の矛盾点を顧みることなく、この自由放任主義的な論理を国内市場の原理原則として持ち込み、押し通そうとしたからとも言えましょう。世界経済フォーラムに代表されるグローバリストが言う自由とは、自らの無制限な自由なのです。グローバルレベルであれ、国内レベルであれ、自由放任を是認する自由主義についてはその欺瞞性を認識し、日本国政府をはじめ各国政府とも、企業を含む国民経済の自立性(自由)の相互尊重という意味において、真に‘自由’が尊重される国際体制の構築を急ぐべきではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘マルハラ’とは何なのか?

2024年03月21日 12時45分16秒 | 社会
 ‘マルハラ’という言葉を初めて目にしたとき、何を問題としたハラスメントであるのか、直ぐには頭に浮かびませんでした。‘パワハラ’のパワは‘パワー’ですし、モラハラのモラは‘モラル’ですので、どことなく想像がつくのですが、‘マルハラ’のマルが一体何を意味するのか、皆目見当がつかなかったのです。‘マルクス’?・・・。そこで、実際に関連の記事を読んで分かったのですが、マルハラの‘マル’とは、日本語の句点の‘。’なそうなのです。

 何故、マルハラという言葉が生まれた、あるいは、流布されるようになったのかと申しますと、‘。’で終わる文章に対して威圧感を感じる人が、若年層、とりわけ若い女性に多いというのがその理由です。仕事などでメッセージ・アプリを使用するに際して、上司や先輩の同僚からのメッセージの最後に‘。’が打たれていると、叱責されているようで怖いというのです。ハラスメントとは、迷惑行為や他者に対して精神的なダメージを与える行為を意味しますので、句点の‘。’も、他者に不快感を与えているのだからハラスメントに当たるというのがその言い分です。

 しかしながら、‘マルハラ’と他のハラスメントとでは、大きな違いがあるように思えます。パワハラにせよ、モラハラにせよ、パワーやモラルそのものが‘悪い’という訳ではありません。これに依拠した他者に対する行き過ぎた行為が、ハラスメントとして問題視されるのです。このため、モラハラをなくすためにはモラルをなくせば良い、という議論には決してなりません(ハラスメントが解消されるどころか、爆発的に増加されてしまう・・・)。これらのケースでは、許容範囲や一般的な常識の範囲を超えて明らかな利己的他害行為となった場合、ハラスメントと見なされるのです。

 ところが、‘。’の場合には、先ずもってハラスメントの認定に際して、合理的な根拠があって許される範囲、あるいは、限度というものが存在しません。‘。’を使うか使わないかの二者択一の問題となり、使った時点で、即、ハラスメントとされてしまうのです。このため、‘マルハラ’を社会からなくすことこそ正義、とばかりにマルハラ撲滅運動が広がるとしますと、日本語の書き方から句点をなくさなければならなくなります。

 ところが、言語は、国民の相互の意思疎通やコミュニケーション、並びに情報伝達等の手段であり、言語空間はおよそ社会空間と一致します。いわば、社会基盤とも言えるのであり、それ故に、義務教育にあっても句読点の使用を含めて国語は必修科目なのです。日本語は、日本国の公用語ですので(もっとも、当然すぎて憲法や法律によって国語として制定されているわけではない・・・)、マルハラの撲滅運動は、日本語の基礎的表記方法を‘勝手に’変えてしまうことを意味するのです。この突然の変更は、一般の日本国民が望んでいることなのでしょうか。一部の若い女性の句点に対する不快感への配慮は、他の大多数の国民が問題なく使用している自国語の表記方法を変える正当なる理由となるとは思えません。仮に変えるのであれば、国民的な議論並びにコンセンサスの形成を要しましょう。

 句点がない文章とは、読者にとりましては大変読みづらいばかりか、文の区切りが明確ではないので、誤読や誤解のリスクにも晒されます。あまりの不便さからあり得ないようにも思えるのですが、最近、SNS等におけるショート・メッセージのみならず、レポートなどでも句点のみならず読点も全く使われていない長文の文章を見るようになりました。それも、一つや二つではありません。一体、何が起きているのでしょうか。

 降って沸いたような‘マルハラ’の登場が句読点の消滅と連動しているとしますと、そこには、ポリコレやコンス普及問題にも通じるような政治的な思惑があるようにも思えてきます。ジョージ・オーウェルの『1984年』には、ニュースピークという‘新しい英語’が描かれていますが(名詞を並べるので文法的には中国語風・・・)、文章表記の変更を暗に要求するマルハラも、ハラスメント反対運動を装った社会改造計画(グレートリセット?)の一環であり、日本社会に対する隠れた工作活動なのではないかと疑うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇族の存在と国民のメンタリティー

2024年03月20日 10時29分06秒 | 日本政治
 日本国の歴史において天皇が担ってきた国家祭祀の継承については別に議論するとしましても、少なくとも象徴天皇並びに皇族という存在については、その必要性が著しく低下していることは、否めない事実のように思えます。政界では、皇位の安定的な継承や皇族の人数の減少を‘国家的危機’であるかのようにアピールしておりますが、多くの国民は、既に皇族に冷めてしまっているのではないでしょうか。

マスメディアの多くが‘皇室推し’をする背景には、トップの権威を利用したい世界権力の思惑が蠢いていることは、容易に推測されます。三角錐型の国家体制であれば、その頂点さえ手中にしていれば、簡単にその国民ごとコントロールできるからです。古来、政治的実権は、天皇以外の万機摂政、関白、上皇、将軍等によって担われ、御所が荒れ果てようとも、天皇は日本国の最高権威であり続けてきました。しかも、明治維新後は、国家を挙げて天皇への崇敬心を高めるべく、直接に御影を見ることも許されない神聖なる現人神としたのです。第二次世界大戦にあっては、天皇が御座します神国日本は決して負けない、とする不敗神話の下、多くの国民が戦地に赴き、そして命を落とすことともなりました。

もっとも、昭和天皇による人間宣言がありながら、戦前の天皇への国民の崇敬心が戦後も変わることなく引き継がれたのは、占領統治を円滑に進めたいGHQの思惑もあったとされます。そして、今日、国民の前に明らかとされつつある明治維新の実態からしますと、おそらく世界権力は、戦前から天皇を政治的に利用してきたのでしょう(真珠湾攻撃誘導説も・・・)。この視点からしますと、戦後にあって、むしろ天皇を失いたくなかったのは、世界権力のほうであったのかも知れません。今日にあってもマスメディアが、熱心に皇室を‘よいしょ’し、歯の浮くような言葉で礼賛する理由も理解されてくるのです。トップの権威は、利用価値があるからです。

一方、この体制は、日本国民にとりましては望ましいのか、甚だ疑問があります。権力欲や金銭欲にまみれ、かつ、背後に世界権力とも繋がる非日本系の新興宗教団体の陰さえ見えてくるにつれ、国民の意識も大きく変化してきています。そもそも神の座を降りた時点で、天皇の超越性をもって求心力の頂点としてきた三角錐型の構図も崩れてしまうのは当然のことなのです。現実において同構図が成り立たないにも拘わらず、マスメディアが懸命に持ち上げたとしても(北朝鮮のような虚偽報道も混じっている・・・)、それは、既に失われた世界を演技や演出によって再現しているようにしか見えなくなります。皇族を出迎える分別も立場もあるはずの人々が、緊張した面持ちで恭しく頭を下げている姿も、どこか時代劇の演出のような時代錯誤に映るのです。

 そして、皇族に対する特別待遇は、日本国民のメンタルにも悪影響を及ぼしているように思えます。先ずもって、現代に封建時代のような序列を持ち込みますので、卑屈な精神が植え付けられるリスクがあります。封建時代における序列は、上位の主君が下位の家臣の領地を安堵する責任も義務も負いましたので、それなりの理由があるのですが、現代の皇族への忠誠心や崇敬心の国民に対する要求は、それが、メディアによる演出であれ、理由のない不条理なものです。否、国民が納税によって皇族の生活を支えているという意味では、依存・被依存関係は逆でもあります。しかも、現代の皇族は、世界権力による‘メビウスの輪作戦’によって高貴な血筋とも言えず、皇族を前にして一斉に頭を下げるなどの封建的な儀礼の要求は、国民に屈辱を与えてしまいかねないのです。

また、皇族は世襲制ですので、生まれながらにして特権を持つ人々の存在は、若い世代の人々の士気を削ぎ、希望を挫いてしまうかも知れません。生まれだけで特権を享受し、国家予算も好き勝手に使う皇族の姿は、‘親ガチャ’の実例を見せつけるようなものですので、皇族の存在は、日本国民に停滞感をもたらしこそすれ、伸びやかな心を育てるとは思えないのです。

天皇に心酔し、皇族を熱狂的に支持する人々は、しばしば世界最古の王家である天皇家が存在するからこそ、全世界の人々から日本国が尊敬されていると主張しています(しかしながら、明治維新を考慮しますと、世界最古の王家と言えるのかは怪しい。また、そもそも、現代にあって王室や皇室が存在すること自体が誇るべきことなのかも怪しい・・・)。しかしながら、この言葉は、日本国は、天皇が存在しなければ、取るに足りない価値のない国であると言っているに等しく、国民に対して失礼ですらあります。否、現代を生きる日本国民は、天皇に依存するのではなく、一人一人の行動によって尊敬を得るべきなのであり、一強主義的な天皇依存の薦めは、国民弱体化の薦めともなりましょう(一強主義はあらゆる分野に見られ、世界権力の好むところ・・・)。

 天皇制廃止論と表現しますと共産革命が思い起こされ、何か暴力的な響きがありますが、現代という時代に照らした多面的な考察の結果としての皇族不要論であれば、一つの意見として議論するだけの価値も意義もあるように思います。天皇並びに皇族につきましては、“菊のカーテン”を開けて事実を正確に把握し、如何なるタブーも廃して国民的な議論に付すべきなのではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

提案者不明の日本国の政治-皇室典範改正問題

2024年03月19日 09時35分41秒 | 日本政治
 今般、日本国の政界では、皇室典範改正の動きが活発化してきているようです。昨日の3月18日には、自民党にあって総裁直轄とされる「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」が開かれ、皇族確保策の一つとして議論されてきた女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持する案について党内で異論はなかったと報じられています。皇室典範改正は、日本国の統合に関する問題である点に鑑みますと、現状には幾つかの問題点があるように思えます。

 第一に、同会議を取り仕切る会長は皇族の姻族となる麻生太郎副総裁ですので、皇室問題の利害関係者の立場となります(しかも、世界権力の中枢とされるユダヤ系財閥とも姻戚関係がある・・・)。皇室典範の改正は日本国の統合政策の一つですので、当然に、他の政策分野と同様に中立性並びに公平性が求められるはずです。近親者の麻生副総裁が議長を務めるともなれば、表向きは党内組織であっても、同懇談会は、実質的には、皇族あるいはその支援勢力による立法過程への介入機関ともなりましょう。仮に、当事者の立場からの皇族の意見を聴く必要があるとすれば、それは、党内組織とは別に意見表明や発言の機会を設けるべきと言えましょう(国会の方が相応しい・・・)。

 第二に、麻生副総裁は、同会議において「「皇室の在り方は国家の根幹をなす、極めて重要な課題だ。限られたメンバーで、静かな環境で議論を深めたい」と述べております。この発言については、既に批判の声がかなり寄せられており、改めて指摘するまでもないのですが、現行の日本国憲法の第1条には、「この地位は、主権の存する国民の総意に基づく」と明記されていますので、‘限られたメンバー’という表現は、同条文に反することとなりましょう。主権者である国民の排除し、国民的議論の回避を求めているとしか解釈し得ないからです(同発言は、‘‘限られたメンバー’は、日本国、並びに、日本国民を実質的にコントロールし続けたいから、皇室の在り方もそのメンバーのみに都合がよいように決定したい‘という傲慢な発言に聞えてしまう・・・)。

 そして、第三に挙げるべき点は、真の提案者が誰であるのか、国民には知らされていないという不透明性です。同懇談会の議題は政府が設置した有識者会議からの提案とされていますが、実際に、誰が、何時、どのような論拠をもって提案したのか、定かではないのです。女性皇族の皇籍維持案の他にも、「養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とする」、並びに、「皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とする」の二案があるそうです。これらの発案者についても、国民は、政府から説明らしい説明を受けてはいません。

 そして第三の問題点からも、皇室典範の改正については、国民不在の議論としたい政府の意向が透けて見えます。その背景には、皇室利権や宮内庁利権、さらには、世界権力の意向も働いているのでしょう。仮に、同提案に沿って皇室典範が改正されたとすれば、国民負担は跳ね上がることも予測されます。女性皇族が婚姻後に独立した家庭を持つともなれば、皇族費を増額する必要もありますし、その子孫達も母系にあって皇籍を維持するともなれば、代を重ねる度に、皇室維持費は国民の肩にのしかかります。また、今般の女性皇族皇籍維持案と男系男子養子案並びに皇族復帰案は相互に排他的ではありませんので、三つの案が同時あるいは複数実現すれば、さらに国民負担は増えることとなりましょう。しかも、皇族男子継承案と長系女子(長子)継承案では世論が分かれる中、三つの案のどの案であれ、次期天皇が誰になるのか、明確に国民に示しているわけでもないのです。皇位継承の行く先が不透明なまま、しかも、将来的な財政負担の問題も伏せ、国民を置き去りにしたまま、政府、否、政界は、皇室典範の改正に邁進しているのです。

 考えてもみますと、そもそも、政府が三つに案に絞ってしまっている時点で、国民は、巧妙に一定の方向に誘導されているとも言えましょう。どれを選んでも、国民には不利益になるという・・・。天皇や皇室が不可逆的に変質し、国民多数の精神的なよりどころや道徳的模範でもなくなり、世俗のセレブに過ぎなくなった今日、天皇の存在に依拠した日本国の統合の形態を維持したいと願う国民は、政府が決めつけ、メディアが報じるほどの多数派なのでしょうか。サイレント・マジョリティーを含めますと、‘そんな声は一切ない’と断言して無視できるほどに小さい声とも思えません。そして、提案(発案)権という政策決定過程の入り口における国民の声の遮断は、皇室典範改正問題のみならず、あらゆる政策領域に共通して見られる日本国の政治システムにおける重大かつ致命的な欠陥であると思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

統合の象徴は人ではないほうが良いのでは

2024年03月18日 12時41分12秒 | 日本政治
 日本国憲法の第一条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する国民の総意に基づく。」とあります。世界広しといえども、天皇という地位を国家・国民の象徴と定め、合わせてその地位の保障を主権者である国民に委ねている憲法は、おそらく日本国憲法のみでありましょう。

 同条文では、本来両立が殆ど不可能な世襲制と民主主義との間のアクロバティックな折衷が見られるのですが、その背景には、ポツダム宣言の受託に際しての、日本国側からの‘国体の護持’という要求があったとされています。当時の日本国政府は、終戦を遅らせ、戦争を長引かせてでも天皇の地位だけは守りたかったこととなります。この揺るぎない天皇死守の決意は、国民の身を危うくする戦争被害のさらなる拡大の許容を意味しますので、戦後の天皇の地位は、国民の命と引き換えであったと言っても過言ではありません。そしてこの姿勢は、必ずしも政府のみの認識ではなく、国民の多くも天皇陛下のためならば自らの命をも捨てる覚悟で絶望的な戦争に臨んでいたのです。

 昭和天皇のカリスマ性もあって、戦後暫くの間、少なくとも昭和の時代までは、共産主義者を中心とする左派を除いては、概ね天皇の地位は安定していたように思われます。民間出身の皇妃の誕生も、天皇家と国民との間の垣根をなくし、より近しい存在として概ね国民から歓迎されました。‘親しみのある天皇家’の姿がメディアを通してアピールされ、国民の多くも所謂‘象徴天皇’を受け入れてきたのです。しかしながら、平成そして令和へと年号が移るにつれ、皇室を取り巻く雲行きが怪しくなってきたように思えます。様々な情報がネット等を介して明らかになるにつれ、根本的な疑問も沸いてくることにもなったのです。

 この問題は、そもそも明治維新とは何であったのか、という問いかけにもなるのですが、世界戦略をもって海を渡ってきた戦国期のイエズス会の活動もさることながら、江戸末期にあって、倒幕勢力の背後で英国に拠点を置くユダヤ系経済勢力が蠢いていたことは最早公然たる秘密と化しています。ジャーディン・マセソン商会のサポートによって英国留学した長州ファイブをはじめ明治の元老の多くも、同勢力の息がかかっていたのでしょう。となりますと、これらの勢力の支援の元で擁立された明治天皇、あるいは、明治の国家体制にも疑問符が付くこととなります。植民地化を防ぎ、独力で近代国家化を成し遂げたとして高く評価されながらも、明治維新後の国家体制とは、同勢力にとりまして極めて好都合であったことが強く示唆されるのです。世界権力は、外部から操るのに便利な‘一個人への権力や権威の集中’を好むからです。

 かくして、明治維新の実態を解き明かすという課題が見えてくるのですが、この問題は、戦後に始まる権威、あるいは、形式的であれ国事行為を介して政治的な行為をなし得る現行の‘象徴天皇’の問題にも行き着きます。そもそも、日本国や日本国民とは、天皇という存在がなければ纏まることはできないのでしょうか。パーソナルな人格を統合の要とする形態は、独裁者の神格化を伴う独裁体制においてしばしば見られます。超越的な一点に特別なポジションを設け、同ポジションにある人物の下に全国民が等距離に置かれるという円錐形の球心型の統合形態です(円錐のトップに特別の人物が君臨する・・・)。この形態は、権威主義体制とも親和性が高く、全ての国民がトップに対して忠誠を誓い、崇敬心を捧げることで、全体主義的なその“理想像”が完璧となるのです。

 象徴天皇を頂点とする戦後の国家体制も、それが実質的な政治的権能を伴わない権威のみであれ、球心型をモデルとしているとしますと、このモデル自体を維持することが将来の日本国並びに日本国民にとりまして望ましいことなのか、考えてみる必要があるように思えます。しかも、そもそも、神の如き無誤謬の存在ではない、一人の人間に国家や国民の統合の象徴を担わせる制度には無理があるとも言えましょう。人間である限り、必ずや過ちや失敗もしますし、トラブルにも巻き込まれたり、時には国民の反感を買ったり、反発されることもあります(統合の機能を果たせない・・・)。そして、何よりも国民が恐れるべきは、内外の私的勢力による政治的利用です。プライベートを含めて制度的に天皇を他の如何なる勢力や人脈から遮断しない限り、このリスクは常に国民に付きまとうのです。

 このように考えますと、国家並びに国民の象徴は、人ではなく、人格を持たないものである方が安全ということになります。他の諸国では、国旗や国歌などがこの役割を担っているのですが、長きに亘る日本国の歴史に鑑みれば、三種の神器という案もありましょう(三種の神器とは、古代の日本を形成していた三大国の統合の象徴かも知れない・・・)。非人格的なものであれば、欲望に起因する人間的問題とは無縁になりますし、外部勢力に乗っ取られたり、支配の道具として私的に利用される心配もなくなります。客観的な制度論からしても、論拠のある合理的な案となりましょう。政界が急いでいる皇位継承問題や女性宮家の創設よりも、今日、未来に向けて議論すべきは、より無理もリスクもなく、国民の心理的な負担も軽い自然な形での日本国の統合のあり方なのではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝統的権威と世界権力とのメビウスの輪

2024年03月15日 11時45分10秒 | 日本政治
 目下、政界の周辺では、女性天皇の容認や女性宮家の創設等について議論が活発化してきているようです。この現象、ここ数年来、繰り返されているようにも思えますが、なかなか結論には達していません。もっとも、同議論は、象徴天皇、並びに、それに付随する皇室制度の継続を前提としており、議題は上記の女性問題に絞られています。

 それでは、何故、今の時期に女性問題に集中するのでしょうか。おそらく、その背景には、LGBTQと同様の外圧があるのではないかと推測されます。不可解なことに、英王室でも、世論調査の結果、王室内において人気が一位となったのは、女性、かつ、民間出身にしてユダヤ系のキャサリン妃であったと報じられています。昨今、日本国内で実施されたとする世論調査の結果は、女性天皇の容認が圧倒的多数を占めているのですが、英国同様に、世論調査の高い数字については、疑ってかからなければならないのかも知れません。政治家と同様に、王室や皇室のメンバーも、その伝統的な権威は、世界権力にとりましては世界支配のための極めて効果的な手段となり得るからです。

 世界権力が支配のネットワークをグローバルに広げてきた近現代という時代では、一般の国民は、密かなる‘乗っ取り’が行なわれても、気がつかぬままでいます。今般、あまりにも不自然、かつ、露骨な言動によって岸田首相は‘悪代官’という自らの正体を明かしてしまいましたが、皇室もまた、世界権力の手中にあると見た方が、より現実に近いのではないでしょうか。陰謀の存在を否定する‘陰謀論’こそが陰謀であるとする説も、信憑性を増しつつあります。もしかしますと、皇室に海外勢力が浸透したのは、明治よりもさらに歴史を遡り、イエズス会士のフランシスコ・ザビエルが来日した戦国時代頃からであったのかも知れません(織田信長が御所の制圧を試みたとされる本能寺の変も、この文脈から見直してみる必要があるかもしれない・・・)。

 皇室のみが、今なおも、古代から絶えることなく連綿と続く神武天皇の血脈を受け継ぎ、かつ、昔も今も変わらずに国家護持のために祈りを捧げている神聖なる祭祀者であると、信じるには無理があります。そもそも、明治維新に際しての天皇取り替え説を持ち出すまでもなく(大室天皇説を考慮すれば、‘小室’という姓名にも何らかの示唆的な意味合いがあるのかもしれない・・・)、『源氏物語』等に描かれている平安時代の貴族の婚姻形態からしましても、万世一系も相当に怪しくなります。しかも、戦後は、昭和天皇の人間宣言に加え、民間出身の妃が何代も続いています。

 世論調査では、皇室に対する国民の懐疑心は、一切、存在していないかのようですが、理性に照らせば、天皇の正当性に対して確証を持てない人の方が多いのではないでしょうか。事実としての証明を欠いている事柄に対して、それを信じるように求めることは、それは、殆ど宗教の強要に近くなります。内面において自らの理性が強く反発し、真偽を疑う状況にあって、天皇を国家・国民の統合として見なし、一般国民と変わらない皇族をも無条件で崇敬すように求められても、それは自らの心に嘘をつくことになりますので、苦痛でしかありません。

 しかも、万世一系を信じることは、世界権力が巧妙に構築した日本国民支配のための装置を受け入れることを意味しかねないリスクも伴います。否、現下にあって、マスメディアを介して皇族や皇室のパーソナルな行動に関する記事が数多く発信されているのも、メディアを支配する世界権力が、情報のシャワーを国民に浴びせることで‘当然の存在’のように思い込むように洗脳し、各国のトップを利用する‘世界支配の体制’を維持したいからなのでしょう。間接支配のためには、各国の国民には、常に自らが配置した‘トップ’の一挙手一投足を意識してもらわなければ困るのです。そして、ナショナルな伝統的権威とグレートリセットをもって未来を支配したいグローバルな隠れた権力との結合による‘メビウスの輪’は、いよいよもって、その著しい捻れによってちぎれてしまいそうに見えるのです(つづく)。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一般参賀の傘現象は美談なのか

2024年03月14日 13時51分14秒 | 日本政治
 今年の2月23日の天皇誕生日には、皇居で一般参賀が行なわれ、小雨の降る中を凡そ1万5千人の人々が訪れたそうです。気温も2度という寒さであったのですが、このとき、稀に見る奇跡的な現象が起きたとの報道がありました。どのような現象かと申しますと、長和殿のベランダに皇族方が姿を見せると、誰ともなく傘を閉じ始め、皇居前広場には一本の傘も見られなくなったと言うものです。最後に閉じたのは、外国人であったそうなのですが・・・。

この現象、最初に報じられた際には美談とされていました。傘を閉じた理由は、前の歩とが傘をさしたままでは視界を遮られて後ろの人が見えなくなるので、他者への配慮が広がったとする見方であり、先ずは日本人の思いやりの精神の現れとするものです。もっとも、‘一般参賀’という特別の場であることを前提としますと、そこには、皇族に対する日本国民の崇敬心の高さやその神聖性や超越性に対する信仰にも似た感情への賞賛が垣間見られます。傘をさし続けることさえ不敬となる、絶対的な存在に対する崇拝が全員一致の行動によって現れたかのように。

明治以来、天皇は現人神として国民から崇められてきましたので、同現象に感動した人々は、おそらく令和の時代に至っても日本人の天皇に対する気持ちが変わっていないことに安堵を覚え、美談として紹介したかったのでしょう。しかしながら、皇室を取り巻く状況が昭和までの時代とは著しく変化し、皇室自身も変質している今日にあって、国民の天皇や皇族に対する意識が全く変化していないとするのは、いささか現実離れしているようにも思えます。全員が傘を閉じた現象は、別の角度から見れば、必ずしも美談ではないからです。それでは、どのような点において由々しき現象となってしまうのでしょうか。

第一に、参賀に訪れた人々の全員が傘を閉じたとしますと、皇族方は和やかに微笑みながら、冷たい雨の中に傘も差さずに自らを見上げている人々の姿を目にしていたこととなります。一般参賀ともなれば、高齢者の方が多いことでしょうから、この光景は、褒められたものではなくなります。冷たい水で衣服が濡れたままでいれば、直ぐに風邪をひいてしまうことは誰もが経験で知っています。真に‘国民思いの皇族’であれば、むしろ、傘を差すように促すべきであったと言えましょう(少なくとも、宮内庁は参賀者に向けて放送すべきであったのでは・・・)。

 第二に、周囲の空気を読んで全員が傘を閉じた現象は、同調圧力に弱いという日本国民の弱点を象徴しているとも言えます。コロナ・ワクチンの接種に際しても、政府は、国民の同調圧力を大いに利用したと指摘されています。今般の一般参賀での同調圧力も、自らの身体を顧みず、皇族あるいは他の参加者のために自己犠牲を払ったこととなるのですが、同調圧力への弱さが克服すべき課題として認識されている今日、同現象の美談化は、課題克服に逆行しているようにも見えます。そしてそれは、全体主義体制に向けて敷かれているレールにもなりかねない危うさがあります。なお、仮に今回の現象が前例となれば、‘一般参賀では傘を差してはならない’という新たな慣行が生まれることでしょう。

そして、第3に指摘し得るのは、一般参賀に集まった1万5千人の内の多くは、何らかの組織による動員ではなかったのか、という疑いです。かつて宮内庁職員の30%程度は創価学会員であるとする説がありましたが、皇室行事では、常々新興宗教団体が動員されているとする濃厚な疑惑があります(‘お声がけ部隊’などが配置されているとも・・・)仮に動員説が正しければ、皆が一斉に傘を閉じた行動も頷けます。組織を統率する現場のリーダーの行動に信者達が従ったのであれば、あたかもマス・ゲームのパネル如くに傘は閉じられてゆいったのでしょう。そして、それは、周囲の一般参賀者に対しても、強力な同調圧力となったと推測されるのです。

今日、日本国の皇室のみならず、英王室を始め各国の王室には異変が起きているようです。世界権力による既存の権威の利用も疑われる中、パーソナル・カルトともなりかねない現状をどのようにすべきなのか、抜本的な見直しや廃止をも選択肢に含めながら真剣に考えてみる時期が訪れているように思えます(国家や国民の統合の象徴は、人ではなく非人格的な存在の方が適している・・・)。皇室や王室と国民との双方において不可逆的な変化が既に起きてしまい、かつ、もはや統治において君主というものを必要としない時代にあって、世襲的な権威や権力は、世界権力に悪用こそされ、国民にとりましては、戦時体制を含む全体主義へのリスクをもたらすと共に、人類の知性や精神における成長や発展の阻害要因ともなりかねないのではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『世界政府の造り方』について

2024年03月13日 11時32分30秒 | 国際政治
  落ち着いて考えてもみますと、世界経済フォーラムの存在自体が陰謀の実在を証明しているとも言えましょう。何故ならば、自らには全世界を全面的にリセットし、根底からチェンジし得る力があると自負しているからこそ、‘グレートリセット構想’を打ち出しているとしか考えられないからです。表舞台に姿を現わしたグローバルなマネー・パワー勢力は、今や全世界にその威力を見せつけています。それでは、どのようにして世界権力は、全世界に支配のネットワークを広げていったのでしょうか。

世界権力の基本戦略とは、あらゆる集団のトップの取り込みなのでしょう。否、‘乗っ取り’という表現の方が相応しいかも知れません。世界権力には全世界を直接的に支配するする物理的力はありませんので、独断で決定した事柄を実現するためには、自らの手足となって忠実に命令や指令を実行する部下、あるいは、実行部隊を要するからです。そして、仮に、全世界を遠隔操作で自らのコントロール下に置こうとすれば、国家をはじめとした既存の組織を取り込んでしまうことが最も‘手っ取り早い’方法なのです。この手法は、古代にあっては、世界帝国を建設したローマが編み出した手法でもありました。

そもそも古代ギリシャのポリス世界の流れを汲む都市国家であったローマには、他のポリスと同様に‘市民権’という資格が存在していました。共和制の時代より、ローマは内容の異なる様々な権利を征服地の住民に付与することで、自らの統治機構に被征服民を取り込むようになります。そして、征服した国や異民族の旧支配層には、元老院のメンバーとなる資格を含めてローマ市民と同等の市民権を与え、ローマの支配層の一員となしたのです。言い換えますと、軍事的な征服によって自らの属領とした地域については、上層部をローマを中枢とする支配体制に組み込むことで、さらにその下部に位置する現地の住民をも間接支配し得るようになったのです(もっとも、ローマ帝国の場合、市民権の解放はローマ人の消滅を帰結してしまう・・・)。軍事力によってユーラシア大陸の大半を手中にしたアレキサンダー大王の世界帝国が、大王の若すぎる死をもって瓦解したのは、ローマ帝国のような支配の継続化のための老練な知恵を欠いていたからなのかも知れません。

侵略が国際法で禁じられ、民主主義が当然のこととして受け止められるようになった今日、征服や支配の方法については、人々の意識から殆ど消え去っています。実学としても学問的な研究の対象からも凡そ外されています(知識の欠如はリスクの放置に・・・)。しかしながら、もし、『帝国の造り方』というマニュアル本が書かれるとすれば、その内容は案外簡単なのかもしれません。第一のお薦めは、‘力で征した後は、既存の権力や権威を徹底的に活用せよ’となることでしょう(もっとも、力で完全に征服地住民の抵抗を未来永劫にわたって排そうとすれば、全員の命を奪うジェノサイド、あるいは、追放ということになる・・・)。

征服地にあって世襲の君主や為政者が存在していれば、その人物を自らの配下に置けばその後の支配は円滑になりますし、既に官僚組織が整っていれば、それを自らの統治機構と結合させればよいこととなります。そして、事の成り行きで征服戦争に際して相手国のトップを討ち取ることになったならば、君主一族の中から最も自らに従順となる人物を選んで形ばかりの君主とする、あるいは、統治機構だけは維持しつつ、そのトップに自らの代官を送り込む、といった手法が採れたのでしょう(所謂“悪代官”)。この手法、古代のみならず現代に至るまでの人類史を振り返りますと、思い当たる事例が幾つも見つかるはずです。
征服が許され、かつ、自らが実行手段としての軍事力を有していますので、ローマ帝国、及び、同帝国の手法に倣った諸国は、白昼堂々と帝国の建設に邁進しました。しかしながら、今日の世界権力は、国民国家体系が成立しているため、独立主権国家に対して侵略を企てたり、内政に介入することは違法行為となる上に(特に民主主義国家に対しては選挙に介入しなければならない・・・)、上述したように軍事力という実行手段も備えていません。この点において、古代ローマ帝国とは著しく異なっているのですが、この両者の違いこそ、それしか手段がないという、陰謀の必要性を説明していると言えましょう。となりますと、『世界政府の造り方』という教本には、極めて手の込んだ詐術的な‘乗っ取りの手法’が並んでいると推測されるのです(つづく)。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破壊=進歩というイルージョン

2024年03月12日 10時36分54秒 | 社会
 日本語では、芸術を表す言葉として長らく美術という表現が凡そ同義語として用いられてきました。この言葉には、‘美’という一文字が含まれており、その本質において美の追求であることが理解されます。その一方で、芸術の分野における進歩主義、即ち芸術にあっても時系列においてより新しいものに価値を見出そうとする考え方が浸透するようになると、美の破壊という本末転倒の現象も見られるようになりました。

 数年前、とある美術館にて展示してあった作品がゴミ箱に捨てられてしまった、という事件が発生しました。その理由はいたく単純であり、この作品が、展示場のフロアに置いてあったゴミにしか見えなかったからです。つまり、鑑賞に値する価値を見出せなかったから、廃棄すべきゴミと間違えられてしまったのです。もっとも、現代アートの専門家達は、前衛的な芸術表現への理解の欠如として、捨てた人の凡庸さを非難するのでしょうか・・・。

 本来、芸術とは、美術であれ、音楽であれ、書であれ、この世離れしたような美しいものを求める人々の精神に由来しています。古来、芸術家とは、それが個人的な美に対する憧憬や探究心に発し、鑑賞者となる他者の視線を意識しなくとも、霊感を意識しながら美の創造や表現に全身全霊を捧げてきた人々でした。例えば、西欧の音楽は長らく神への捧げ物とされていましたが、古代ギリシャでも、ムーサの女神達が天界から伝えたのが7層の音階であると信じられていました。そして、ムーサの女神達こそ、芸術家達にインスピレーションを与える霊感の源とされたのです。その一方で、芸術家のみならず、芸術を鑑賞する側にも、美への渇望があります。両者の求めるところが一致する場として、芸術は社会において重要な精神活動の領域として成り立ち、人々に精神的な安らぎや豊かさ、あるいは、高揚感や感動を与えてきたのでしょう。芸術が存在しない世の中とは、何と、味気ないことでしょう。

 近代に至ると、音楽を教会や宮廷から解放し、音楽家を一つの独立的な職業とした作曲家として、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトが登場してきます。モーツアルトには根強いフリーメイソン会員説があるのですが、啓蒙思想は、神の認識を変えたのであって、その存在そのものを否定したわけではありませんでした。啓蒙の時代とは、教会組織やそれが説いてきた人間に擬性される人格神としての神が否定されたのであって、むしろ、極めて数理的な調和が成立している宇宙の存在を奇跡として捉え、その隅々に神が宿るとする汎神論や宇宙的調和を実現する唯一の存在を想定した理神論が唱えられた時代とも言えましょう。このため、近代以降にあっても、神的な美しさをこの世に伝えようとする使命感をもって作品を創り続けた芸術家も少なくないのです。天才とは、しばし、凡人では感知し得ない、天界に通じるような超越的な能力を示す人々を意味してきました。

 しかしながら、現代に至りますと、共産主義の蔓延に加え、ゾロアスター教やヒンドゥー教の‘再発見’、あるいは、ユダヤ教のフランキストなどの影響により、破壊や犠牲を進歩への必要不可欠かつ不可避なステップとする考え方が広がるようになります。冷静になって考えればカルトとでも言うべき破壊=進歩とする固定概念が浸透するにつれ、芸術の世界にあっても、美の追求は時代錯誤とされ、それ自体が否定されるべき前近代的な誤りや妄想とされてしまうのです。その結果として登場してくるのが、破壊こそが創造の源と信じる芸術家達であり、彼らは人間の破壊衝動の表現者ともなるのです。誰もが上述した現代アートの作品を、天界の美の表現であるとは思わないことでしょう。

 そして、こうした破壊=進歩とする狂気にも通じるイルージョンは、既存の国家や社会を破壊して新たな支配体制を構築したい人々にとりましては、好都合であったのでしょう。今日、世界権力が目指している新世界秩序やグレートリセットも、これらを実現するためには国民国家体系を含む既存のあらゆる秩序の徹底した破壊を要します。自らの未来ヴィジョンと共に環境、デジタル、宇宙、生命科学など、世界権力が開発を急いできた先端技術は、破壊と新たなる人類支配の手段でもあります。進歩は必ずしも否定されるものでもないのですが、それが破壊を伴う時、人類が多大な犠牲を払いつつ、叡智を尽くして築き上げてきた制度や秩序、そして善性の源や美に対する根源的な意識までが破壊の対象とされるのですから、人類は、大いに警戒しなければならないと思うのです(つづく)。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界権力は美も嫌い?

2024年03月11日 10時31分48秒 | 社会
 学校教育の美術の時間にあっては、芸術も時代と共に進化するものと教えられてきたように思います。美術史でも、絵画であれ、音楽であれ、何であれ、時系列的に各時代の様式が並べられており、ページの最後に現代アートが登場してきます。そしてそれは、時にして、過去の全ての芸術的試みの末に到達した最先端の様式であるかのように・・・。

 しかしながら、現代アートは、人類が到達した芸術の極みなのでしょうか。最近、街の風景を眺めていますと、一つのおかしな現象に気がつかされます。それは、名称はわからないのですが、どの街にも、デザインとしてパターン化された大きなアルファベットの文字が何者かによって描かれた壁や塀あることです。鉄道沿いの壁や河川敷の堤防など、あらゆる壁に描かれており、誰もが一度は目にしたことがあるはずです。この文字のデザイン、少なくとも日本国では、登場してから半世紀上が経過しても全く変わりがないのです。あたかも時間が止まってしまっているかのようなのです。

 最初に登場したときには、それが路上芸術であれ、現代アートの一表現として好意的に受け止められていたようです。今では、薄汚い壁に浮かび上がる文字列が退廃した雰囲気を醸し出しているのですが、軽快でポップな雰囲気の文字表現は、新しい時代の到来を予感させたからです。そして、同文字の登場は、グローバリズムの象徴でもありました。何故ならば、日本全国の街々に描かれるのみならず、都市を中心に全世界のここかしこに描かれたからです。同文字を目にしますと、これを見る人は、自国に居ることを忘れ、‘グローバルな空間’に迷い込んでしまったかのような気分になります。視覚は空間認識と繋がっていますので、同文字は、その存在だけで空間支配の効果を及ぼしているとも言えましょう。いわば、グローバリズムのマーキングのような役割を担っているたのかもしれません。

 しかも、この画一化された文字、誰が書いているのか分からないのです。今日、素性が不明のアーティストとして‘バンクシー’が持て囃されていますが(どのような理由で、‘バンクシー’という名前で呼ばれるようになったのでしょうか・・・)、同文字をペイントしている人々も素性も不明です。闇に紛れて夜中の内にペイントし、朝方には去って行くようなのです。文字のデザインは画一化され、かつ、全世界的な活動ですので、おそらく一人ではないのでしょう。全世界の諸国に派遣し得る‘ペインティング部隊’が組織されているとも推測されるのです(個人的なアーティストによる芸術活動ではなく、雇用された人々なのでは・・・)。言い換えますと、人目の付くところで大量に描かれながら、一般の人々には誰が描いたものなのか分からないという謎もあったのです。

 一説に依れば、何度消しても直ぐに書き直され、いたちごっことなるので、消す労力を考えて放置されているそうです。しかしながら、落書きはれっきとした犯罪ですので、現場で取り押さえることができれば、以後、繰り返される心配はなくなるはずです。今日では、本気で犯人を捕まえようとすれば、監視カメラの設置で事足りるはずなのです。それにも拘わらず、未だに同文字を目にするのは不可解なことでもあるのです。

 以上に奇妙な文字について述べてきましたが、この現象は、現代の芸術が置かれている状況を極端な形で象徴しているのかも知れません。それは、創造的で芸術の最先端を行くようなイメージがアピールされながら、その実、芸術全般が‘何か’を求めよう、‘何か’に限りなく近づこうとする意欲、あるいは、生き生きとした生命力を失ってしまった時代の象徴です。そして、この‘何か’とは、天界に通じるような美というものなのかもしれません。現代に生きる人々は、新興宗教団体によって超越的な善性の源としての‘神’の概念から切り離されようとしているように(仏や天の概念も・・・・・・)、純粋なる美しさというものからも、巧妙に切り離されようとしているかもしれないと思うのです(つづく)。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由主義国における学問の自由の危機とは

2024年03月08日 10時26分28秒 | 日本政治
 日本国をはじめとした自由主義国では、一見、学問の自由の保障には何らの問題もないように見えます。ネットの普及も手伝って、誰もが好きな時に好きな分野について学ぶことができます。しかしながら、その一方で、近年の動向からしますと、自由主義国でも、共産主義諸国と見紛うような極端な歪みを持つ政策が行なわれているように思えます。

 この歪みは、とりわけ教育機関や研究機関にあって起きている現象です。学問とは、これまで謎とされてきたり、分からなかったことを知ろうとする純粋な知的好奇心によって発展してきました。発見者や発明者本人の目的はどうあれ、学問の成果は、人々の心や生活を豊かにし、国際レベルであれ、国家レベルであれ、地域レベルであれ、より善き社会の実現に貢献してきたのです(もっとも、悪用されることもありますが・・・)。様々な分野にあって多くの人々が探求という作業に加わり、試行錯誤を繰り返したからこそ、途絶えることなく発展してきたと言えましょう。この側面は、自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ変わりはありません。

 この発展過程にあってとりわけ重要となるのは、開かれた可能性としての学問の自由です。権威を以て通説や定説とされた説に拘ることは、得てして真実に到達する上では障害になるものであり、実際に、発見や発明の時点にあっては正しいように思えた説でも、後に科学的証明をもって否定されるケースもあります。否、固定概念を脱した別の角度からアプローチすることで、突破口を見つけることも少なくないのです。今では流行り言葉ともなっているイノヴェーションも、本来、過去とは全く異なる発想から生まれるのであって、これを起こすためには、通説や定説と言った‘限界’を設けてはいけないはずなのです(ポッパーの言う反証可能性のようなもの・・・)。

 学問の自由を、学問にあって開かれた可能性を自由に追求することとして捉えますと、今日の学問を取り巻く状況は、危機的な様相を呈しているように思えます。何故ならば、政府が、積極的に‘限界’を設けると共に、ある特定の分野にしか予算を配分しようとはしないからです。共産主義国家であったソ連邦が軍事技術に集中投資をしたように、自由主義国でも、凄まじいまでの集中投資が行なわれているのです。

 自由主義国における集中投資の対象とは、環境、宇宙、デジタル、遺伝子工学等の生命科学なのでしょう。それは、国連のSDGsの方針とも一致していますし、また、日本国政府が推進しているカルトとしか思えないようなムーンショット計画とも軌を一にしています。新設される学部や学科も凡そこの方針に沿っており、先日も、東大が文理融合した5年制の新しい学部を創設すると発表していましたが、この構想も、生物多様性や気候変動といったグローバルな問題への取り組みという制限付きなのです。そして、これらの大本には、おそらく世界経済フォーラムが提唱するグレートリセット構想があるのでしょう。

 かくして、今日の学問の現場では、世界権力が勝手に決めた自らの未来ヴィジョンの実現に貢献する分野のみが優遇され、本来、学問の発展のために確保されるべき開かれた可能性が閉ざされています。他者にはイノヴェーションを求めつつ、自らがその最大の阻害要因となっていることに、世界権力は、気が付いているのでしょうか。学問の自由が保障されているように見えながら、その実、教育、科学技術、研究開発の政策分野において予算配分の権の握る政府は、学問を極めて狭い世界に閉じ込めているのです。しかもその費用の大半は、国民負担なのです。

 これでは、搾取的な構造が出来あがってしまっているかのようです。この結果、一部の世界権力関連の分野にあっては潤沢な資金が国庫から流れ込む一方で、他の非関連分野や世界権力の支配体制の維持に不都合となるような研究、あるいは、ビジネスからは遠い位置にある基礎研究は疎かにされ、研究者の生活は不安的な状態を余儀なくされています。これでは、たとえ純粋な知的好奇心から研究者を志したとしても断念せざるを得ず、広い視野からすれば、学問を衰退させているとしか言い様がないのです。

 日本国民は、こうした状況を望んでいるのでしょうか。民主主義が制度的に機能していれば、政策の方針転換によって国民の声は現状の是正へと向かうはずです。しかしながら、今日の政府を見ている限り、国民の声に応えるとしてたとえ教育・研究開発分野への予算を増額したとしても、上述した世界政府関連分野に吸い取られてしまいことでしょう。そして、現状の打破には、人類の叡智を結集し、世界権力を凌ぐ知性が必要とされることに気付くとき、何故、世界権力が人類の知性を潰そうとするのか、その理由も自ずと理解されてくるのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする