万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

マイクロソフトのAIデータセンター対日投資の先にあるもの

2024年04月19日 10時56分59秒 | 日本政治
 先日、日本経済新聞においてアメリカのマイクロソフト社が、AIデータセンターを拡充するために凡そ4400億円の対日投資を行なうとの記事が掲載されていました。生成AIの利用拡大を見越した大型投資であり、日本国内に置かれることで個人情報や機密が護られるとして概ね好意的に紹介されています。しかしながら、同記事も指摘しているように、データセンターが稼働すると大量の電力を消費するという大問題があります。

 生成AIの電力消費量は、検索等の利用の数倍ともされますので、同サービスの普及は、電力問題と直結します。‘AIが奪うのは仕事ではなく電力ではないか’とする指摘が既に見られますが、2024年1月にIEA(国際エネルギー機関)が公表した試算によれば、2022年に約460TWh(テラワット時)であったデータセンターの消費電力量は、4年後の2026年には凡そ倍となる約1,000TWhに跳ね上がるそうです(同電力量は、日本国の総消費電力に匹敵・・・)。つまり、生成AIの利用拡大と比例して、電力使用量も増大してゆくことが予測されるのです。

 この問題に対しては、新たなテクノロジーの開発による省力化によって克服できるとする見解もあります。実際に、NTTが開発中のtsuzumihaはChatGPTと比較して学習時で300分の1、推論時で70分の1にコストダウンできるとされます。しかしながら、一端、データセンターが建設されますと、省力テクノロジーの発展に合わせて頻繁に設備を更新するのも難しくなりますので、日本国内におけるAIデーターセンターの設置は、電力問題と切り離すのは困難です。目下、日本国政府は、マイクロソフト社のみならず、国内で事業を行なう海外IT企業に対して安全保障や国民の情報保護の観点からデータセンターの国内設置を求めていますが、電力の問題に注目しますと、必ずしも‘問題なし’とは言えなくなるのです(もちろん、国内データセンターが設けられていたとしても、必ずしも情報が海外に漏洩・流出しないとは限らない・・・)。

 生成AIの利用増加に伴うデータセンター数の増加とそれに伴う電力消費量の急速な伸張が予測される一方で、日本国内では、原発再稼働の遅れ、再生エネルギーの普及、急激な円安、ウクライナ紛争などの要因が重なって電力料金の高騰に見舞われると共に、電力需要の増加する夏期や冬期では電力不足も懸念されています。この状態にあって、データセンターが続々と日本国内に建設されるとしますと、一体、何が起きるのでしょうか。

 今日、電力市場の自由化が進み、電力市場が開設されていますので、電力料金もおよそ市場の需要と供給のバランスで決まるようになっています(再生エネの買取制度も、FIP制度の導入により一先ず市場価格を織り込むように改革・・・)。供給不足が予測されている以上、生成AIの利用拡大は、さらに電力事情を逼迫化させ、価格の上昇を招く要因ともなりましょう。

 電力逼迫に伴い、電力供給量が一定であるとすれば、水利と同様に、電力の配分に関する議論が生じる可能性もあります。仮に、政府が国民生活を重視し、家庭向けの電力供給を優先するとしますと、データーセンターの設置数を制限する、同センターの電力使用量に上限を設ける、省力型への転換を義務付ける、生成AIのサービス提供を制限する、あるいは、国民や企業に対しても生成AIの使用の自粛を呼びかける・・・といった対策を講じるかもしれません。その一方で、政府は自ら積極的にデジタル化やAI導入を推進してきましたので、IT大手の事業拡大や利益を優先し、国民向けの電力供給を制限しようとすることでしょう(家庭用電力料金のみの値上げなど・・・)。近年の国民軽視グローバリスト重視の姿勢からしますと、後者の可能性の方が高いようにも思えます。

 そして、電力料金の高騰と電力不足は、中国国営企業のロゴ発覚問題で取り沙汰されることとなった「アジアスーパーグリッド構想」の推進に口実を与えるかもしれません。同構想は、今では中国の一帯一路構想に組み込まれていますが、おそらく、世界経済フォーラムに象徴される世界権力が狙っている全世界を対象としたエネルギー戦略の一環なのでしょう。同構想の存在を想定しますと、日本国内の電力問題は、あるいは、同構想への参加を迫る‘追い込み作戦’であるとも考えられます(あるいは、ワクチンビジネスから推測すれば、次世代型の原子炉開発に乗り出しているビル・ゲイツ氏の先行投資?)。

 このように考えますと、マイクロソフト社による対日巨額投資は、岸田首相が語るほど歓迎すべきことではなく、むしろ、警戒すべき予兆のようにも思えてきます。もっとも、生成AIは期待されているほどには使い勝手も利便性も高くはなく(所謂‘コスパ’が悪い・・・)、EVと同様に失速してしまう、という展開もあるかもしれません。その一方で、最も恐れるべき未来は、マイクロソフト社の生成AIサービスにおける最大の顧客が、国民監視を目的とした日本政府、否、その背後に控えている世界権力であるというものです。このケースでは、対日巨額投資は、エネルギー分野を超えて世界支配の問題へと広がってゆくことになりましょう。

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陰謀説とは合理的な作業仮説では

2024年04月18日 13時01分36秒 | 日本経済
 自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ、いかなる学問分野にあっても、研究とは、事実(真実)の探求に他なりません。もっとも、事実の探求やそれの証明の仕方や手法には違いがあり、自然科学の場合には、観察結果や実験によって証明するという方法が採られます。自らの唱える説は、事後的に他者によって再現性が確認できれば、事実であることが客観的に証明されます。演繹法であれ、帰納法であれ、自然科学の証明方法は極めて合理的、かつ、明晰ですので、近代以降、学問に‘科学’を付すときには、仮説の提起、観察や実験によるデータの収集(今日の実験は、コンピューターによるシミュレーションの場合も・・・)、データの分析・解析、仮説の真偽の検証というプロセスを伴う研究手法を意味することとなったのです(帰納法の場合には、最初に現象の観察が置かれる・・・)。

 観察機器や実験装置の長足の進歩もあって、近代とは、まさに科学の時代とも称されるのですが、社会科学の分野にあっても、自然科学の分析的な手法を取り入れる動きが強まります。早くも19世紀にあって、カール・マルクスの盟友であったフリードリッヒ・エンゲルスは、その著書『空想から科学へ』において、ロバート・オーウェンやサン=シモン、シャルル・フーリエなどの社会主義の理論家達を理想論者として批判しています。そして、とりわけ第二次世界大戦前後にあっては、アメリカを中心に、よりシステマティックで分析的な研究方法が広がったのです。かくして社会科学における科学的手法の導入は、一見、政治学を合理化し、発展させたようにも見えるのですが、現実の政治の世界は、未だに非合理性に満ちているように思えます。

 それは、‘過去や現在において人間が行なった、あるいは、行なっている事実の解明’という、政治学や歴史学において特有となる研究課題において顕著となります。人や集団は自らの意思や目的をもって行動しますので、事実を突き止め、何が起きた、あるいは、起きているかを正確に理解するためには、これらの行動主体やそれらが抱く目的を明らかにしなければならないのです。こうした意思や目的の解明と言った作業は社会科学に固有のものであり、それらが人々に与える影響が大きいほどに、その解明は、人類にとりまして重大な課題となりましょう。

 同課題の重要性に照らしますと、今日の状況は、退行的ですらあります。例えば、昨今、政治の世界において起きた不可解な事件や出来事については、その不審点や辻褄の合わない点を指摘しただけで、‘陰謀論’として嘲笑される風潮があります。自然科学にあっては、何らかの既存の知識では説明できない現象や事象が観察されますと、詳細に調査した上で、先ずもって、その現象が起きる原因を合理的に解明するための仮説が提起されます。自然科学においては、当然のアプローチであり、これを愚かで非合理的な態度と見なす人はいません。ところが、政治の世界では、不可解な現象を素直に不可解と見なし、その原因や因果関係などを仮説として提起しても、‘陰謀論’として頭ごなしに否定されてしまうのです。

 合理的な根拠(矛盾や物理的な不可能性・・・)に基づいて推論として陰謀や謀略の実在性を主張することは、科学的な論証のプロセスにおいては、作業仮説に当たります。不可解な諸点は現実に観察されているのですから、それを合理的に説明することのできる仮説を提起することは、科学的なアプローチなはずです。たとえ情報の隠蔽や捏造等によって現時点では証拠を示すことができなくとも、やがて明らかとなる日が来るかも知れません。その間は仮説のままであったとしても、事実である可能性の高い仮説が存在し、人々がそれを意識していることがリスク対策の上でも重要なのです。

 科学の時代を称しながら、その実、今日の政治を取り巻く状況は、合理的で科学的なアプローチを許さず、政府やマスコミの見解や公表内容を疑うことなく‘信じる’ように強要されているかのようです。人々が‘事実を知る’ことよりも、‘事実と信じさせること’に力点が置かれているのですから。そして、‘信じない者’に対する迫害は、中世の異端審問にも通じるのです。

 なお、この点、上述した『空想から科学へ』におけるエンゲルスの科学に対する認識に、既にこの問題の萌芽が見られます。エンゲルスは、マルクス主義を擁護するために、ヘーゲルの弁証法が分析的であることを理由に科学的手法として評価したに過ぎないからです。しかしながら、ヘーゲルの弁証法そのものが観念的な運動法則の図式である以上、今日的な視点からは科学的とは言えず、‘空想から空想へ’、あるいは、‘空想から信仰へ’という表現の方が相応しいとも言えましょう。過去の歴史から普遍的な運動法則を見出し、未来にまでそれを適用しようとすれば、絶対法則に反する事象は全て否定されるか、無視されてしまいます。国家イデオロギーにまで昇格した主観的法則の絶対化は、今なお、共産党一党独裁体制をもって多くの人々を苦しめていますが、自由主義国における‘陰謀論’に垣間見える‘支配者’の精神性も、似たり寄ったりなのです。

 現代という時代は、先端的なテクノロジーとしての科学は飛躍的に進歩しながら、物事の探求において基本となる‘科学的な論証方法’については冬の時代と言えましょう。そしてそれは、人類の精神性や知性の発展を著しく阻害し、国家レベルであれ、国際レベルであれ、未来に向けた善き社会の構築を妨げているのではないかと思うのです。

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反戦より反核に熱心な奇妙な平和主義者たち

2024年04月17日 12時08分28秒 | 国際政治
 近年、ノーベル平和賞の受賞者には、バラク・オバマ元米大統領やICANなど、核兵器廃絶に尽力した人たちが目立つようになりました。日本国では、唯一の被爆国ですので、戦後、一貫して反核運動が盛んであったのですが、国際社会を見ましても、核兵器に対する反対運動は強い影響力を発揮してきました。核廃絶を求める同運動は、平和を求める人類の良心の声のようにも聞えます。しかしながら、その一方で、核兵器を特定国にのみ保有を許す現行のNPT体制が、その実、全世界を対象とした核の配分による支配体制の構築のための戦略であったとする視点からしますと、同運動は、平和に資するものとして無条件に賞賛されるべきものでもないように思えてきます。

 もちろん、核廃絶運動に取り組む人々の大多数は、平和を願う気持ちから同運動に参加しているのでしょう。組織にあっては、真の目的を知る者は、極一部の中枢に居る人々に限られるケースは珍しいことではありません。しかも、核兵器は残酷且つ非人道的な兵器ですので、同兵器をこの世から消し去ることこそ正義であると信じる人々の心情も理解に難くはないのです。しかしながら、その一方で、組織の内部にいるからこそ、疑問を感じる場面もあるのではないでしょうか。

 例えば、運動資金に注目しますと、同運動は、自発的に参加しているメンバーの寄付やカンパだけで賄われているのか、という疑問が沸くはずです。反核デモへの参加に際して日当や交通費やお弁当代などの実費が支払われているとしますと、何らかの支援金が提供されている可能性が高くなります。また、反核団体の組織が、何れかの政党や政治団体の系列に属しているとしますと、純粋な平和の訴えと言うよりも、政治的な活動としての側面が強くなります。しばしば、日本国の反核運動は、‘アメリカの核はダメで中国の核はよい’とする矛盾した態度が揶揄され、‘中国の回し者’扱いも受けてきましたが、核兵器配分論の視点からしますと、政治団体としての反核組織とは、世界権力が、核の‘抑止力の拡散’の抑え込みを目的として育成した下部組織となりましょう。最大の攻撃力は、最大の抑止力でもあるのですから(少なくとも、防御型指向性エネルギー兵器などの完璧なる防御手段が開発されるまでは・・・)。

 そして、何よりも核兵器廃絶運動において不自然な点は、戦争反対よりも核兵器反対に傾いているところにあります。核兵器とは、戦争という存在があってこそ人類の脅威となるものです(戦争が起きなければ、使われることもない・・・)。その破壊力としての側面のみを取り上げる、即ち、核兵器=非人道的大量破壊兵器=絶対悪の等式から廃絶を訴えている平和主義者であればこそ、戦争が発生してしまう国際社会の構造に反対するはずなのです。しかしながら、反核運動の人々は、ベトナム戦争と言った個別の戦争に反対することはあっても、根本的な脅威の原点となる戦争自体については、国際社会の構造的な問題に触れようともせず、積極的にその‘構造改革’を訴えようともしないのです。

 現職にあってノーベル平和賞を受賞したオバマ元大統領に至っては、戦後の国際社会にあって国連体制を曲がりなりにも支える暗黙の了解事項であった、‘世界の警察官’の職を‘辞任’する意向を示しています。この辞職宣言には、国際社会における治安維持機能の低下、即ち、戦争や紛争に対する抑止力が低下するリスクが全く考慮されていません。ウクライナ戦争も、イスラエル・ハマス戦争も、それが起きたのは、平和主義を党是としていたはずの民主党のバイデン政権でした。このことは、リベラルといえども、アメリカの民主党政権が‘本気’で平和を願っているわけではないことを、その行動によって示しています。

 おそらく、真剣に戦争を廃絶しようとすれば、力によるのであれば、全ての諸国による核の抑止力の保持を認める必要がありますし、交渉による合意解決を目指すのであれば、協議機関を設け、当事国双方に着席義務を課す必要があります。そして、国際法違反の行為に対しては、中立・公平な裁判による平和的な解決が実現するよう、国際司法制度の具体的な改革を要します。そして、大統領自らが反核をパフォーマンスとして叫ぶよりも、アメリカ自らが、具体案をもって提唱してゆくべきであったと言えましょう。

こうした平和的解決の実現に向けた制度改革の努力が見られないからこそ、反核運動も、核の独占体制の維持が真の目的ではないかと怪しまれることとなります。このままでは、アメリカは、自国の軍需産業のために、そして、さらにその深奥では、世界権力が自らの私益となる戦争ビジネスのみならず世界支配のために核兵器の配分をコントロールとする説は、ますます信憑性、否、真実性を帯びてくるのではないかと思うのです。

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核兵器という世界支配の道具-核の配分権の問題

2024年04月16日 15時29分04秒 | 国際政治
 核兵器については、これまで、攻撃兵器にして大量破壊兵器という一面からしか議論されない状況が続いてきました。この延長線上にNPT体制の成立や核兵器廃絶運動があり、何れも、その前提として核兵器=非人道的兵器=絶対悪というイメージがすり込まれてきました。いわば疑うことの許されない‘絶対真理’の如くと化し、核の存在に拒絶反応を示す人も少なくありません。しかしながら、核兵器に限らず、軍事力には、攻撃力と抑止力という二面性がありますので、核兵器に対する視点の攻撃面への偏りは、核兵器の効果や作用の全体像を見失わせ、むしろ、悪用されるリスクを高めていると言えましょう。実際に、核兵器国による非核兵器国に対する傲慢な態度には、目に余るものがあります。

 そこで、先ずもって核兵器の抑止力についてもその効果を認めるべきであり(実際には、冷戦期における核の均衡は、抑止力がもたらしている・・・)、それを認める以上、全ての諸国が等しく同兵器を保有する状態の方が、余程、核兵器国の暴走や横暴を抑えることが出来ます。抑止力として核兵器を用いることは、それがたとえ力に頼るものであったとしても、イスラエルや北朝鮮等を含む核兵器国を無制御のままに野放しにしているよりは‘まし’であり、核の脅威に対する現実的な対処方法でもあると言えましょう。かくして、核が備える抑止力を平和の実現のために活かすという道が見えてくるのですが、もう一つ、考えておくべき問題があるように思えます。

 攻撃力と抑止力の他に、核兵器には、三つ目の重要な作用があるとしますと、それは、核兵器の配分決定権の掌握に基づく支配力です。この視点は、二項対立を想定した二次元的なものではなく、全体を見渡す三次元的な視点でもあります。今日に至るまで、核の抑止力から人々の目が逸らされてきたという不可解な現象も、同視点からは説明が付くかも知れません。特定の国に核を持たせる作戦においては、全ての諸国が核を持てる状態は不都合であるからです。このためには、原子爆弾の残虐性が強調され、抑止力に人々の関心が向かないように誘導する必要があったのでしょう。唯一の被爆国となった日本国内の反核運動も、オバマ元大統領のノーベル平和賞の受賞も、そして核禁止条約の成立に奔走したICANの活動なども、何れも核兵器の非人道性のアピールに重点が置かれていたのです。

 同作戦では、核を持つ国と持たざる国との間では越えがたい軍事力の格差が生じますので、核保有が許されている諸国は、核を持たざる諸国に対して‘管理者’の役割を与えられています。これは、同盟関係であっても、対立関係にあっても変わりはありません。例えば、冷戦期におけるソ連邦による威嚇に加え、中国も、日本国に照準を合わせた核ミサイルを配備することで、日本国の安全を常時脅かしています。また、‘鉄砲玉’の役割を担う故に、北朝鮮は、その特異な独裁体制を維持するために核保有が認められているとする見方もできます。世界権力の中枢を占めるユダヤ人の国家であるイスラエルも、核保有によって中東における同国の安全を確保しており、パレスチナ領の侵害やガザ地区の住民に対する虐殺も、核保有国としての立場からの傲慢と暴走の結果とも言えましょう(なお、今般のイランによる対イスラエル攻撃からしますと、同国も、既に核兵器を保有している可能性は高い・・・)。

 核兵器を保有する軍事大国のみが核の均衡と自国の安全を享受しつつ、同盟国をも核の傘という不安定な状況に置き(属国化・・・)、ウクライナ紛争に見られるように核保有国が非核保有国に戦争を仕掛け、イスラエルや北朝鮮といった暴力主義国家が国際法を遵守する一般の国家に脅威を与える国際社会の現行の構造は、果たして、偶然の産物なのでしょうか。仮に、ここで核の配分権なるものを想定しますと、これを握る者によって、極めて巧妙に全世界がコントロールされている姿が見えてくるのです。

 アメリカが先に核兵器の開発に成功したのも、ソ連邦や中国が核兵器の開発に成功したのも、イスラエルのみが核兵器の保有を黙認され、そして、最貧国であるはずの北朝鮮が核技術を持つに至ったのも、核という絶大な破壊力を有する兵器を、世界権力が自らの世界支配体制の構築にもっとも適した国に配置しているからかも知れないのです。計画通りに第三次世界大戦を起こすことができれば、双方の無辜の若者達を死地に追いやり、相互に殺戮させることもできますし、思い通りに事が運ばなければ、全人類を破滅への道連れにすることもできるのです(つづく)。

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原爆投下人類救済論を主張するならば全ての諸国に核保有を認めるべき

2024年04月15日 18時03分02秒 | 国際政治
 日本国に対する非人道的な大量虐殺である原爆の投下は、国際法上の違法行為でありながらも、米ソ超大国が角を突き合わせた冷戦期にあって、核戦争の恐怖が人類を救ったとする‘見せしめ論’によって、違法性の阻却が主張されてきました。結果論としては、同主張にも一理があるようにも聞えるのですが、今日の世界情勢を考慮しますと、今一度、同論について考えてみる必要ありましょう。ここ数日の間、原爆投下の違法阻却事由について記事を書いてきたのも、この問題が極めて今日的であるからです。

 ‘見せしめ’による人類救済論とは、端的に申しますと、刑法の分野で言えば、犯罪抑止効果による正当化、ということになりましょう。リベラル派の人々は、刑罰については常々抑止効果に対して否定的なのですが、何故か、原爆投下となりますと、それが如何に非道であったとしても‘見せしめ論’に傾斜しがちです。これを認めるとしますと、それには、最低限、目的、手段、結果の何れにあっても、正当性が確保される必要あります。すなわち、(1)違法行為や不正行為に対する懲罰であること、(2)できる限り人道的な手段であること、つまり、他に代替手段がないこと、(3)結果として国際社会に平和が訪れたこと、といった要件の充足です。

(1)の要件については、アメリカは、日本国を中国を侵略し(もっとも、開戦当時は米中間に軍事同盟関係があったわけではない・・・)、真珠湾に対して奇襲攻撃を仕掛けた侵略国家と見なし、自らに正義あると主張していました。もっとも、この正義は、主観的な自己主張であって、歴史を詳細に検証してみれば、日米、否、連合国側も枢軸国側も共に背後から戦争へと誘導されていた節があります。欧米各国によるアジア・アフリカ諸国に対する植民地支配もあり、第二次世界大戦をもって善悪の対立軸でみるのは難しく、二度の世界大戦に関する封印されてきた情報が明らかとなった今日にあっては、(1)の要件を満たしているとは言いがたい状況にあります。

 また、(2)についても、‘見せしめ’の手段が過激な場合には、倫理的な問題が生じます。例えば、かつてはどの国も残虐刑が存在していましたが、近代以降は、できる限り人道的な刑罰の方法へと変わってきています。ところが、戦争に際しては、できる限り残虐な兵器を開発しようと試みているのです。この点からしますと、例えば、当時にあって新型兵器であった核兵器の威力を示すのが目的であれば、他に手段がないわけでもありませんでした。デモンストレーションを行なうならば、民間人が居住している都市部ではなく、山林地帯や海上に投下したとしても、十分にその爆発力は示せたはずです。日本国も開発を急いでいたわけですから、核兵器の開発成功をアピールするだけでも、少なくとも日本国に対して降伏を迫る効果はあったことでしょう。もっとも、核分裂による爆発力のみならず、核兵器の使用による放射能による人体への甚大な被害をも‘見せしめ’とするために、敢えて都市部を狙ったとすれば、原爆という兵器の悪魔性がより鮮明となってきます。

 そして、最後の要件となるのが、結果としての平和の実現です。仮に、同要件を満たさない場合には、 ‘見せしめ’としての原爆投下は、人類を救ったとは言えなくなりましょう。敗戦国となった日本国の場合には、戦後教育にあって、連合国=正義という見方が染みついています。しかしながら、戦時中にあって、既にソ連邦は同戦争を共産圏の拡大に利用し(1939年9月のポーランド侵攻もソ連による侵略公有為・・・)、周辺諸国を侵略しており、連合国にあってもアメリカの潜在的が‘敵国’が出現していました。もちろん、アメリカでも日本国でもなく、ソ連邦が先に原子爆弾を手にする展開もあったはずなのです。となりますと、アメリカが開発に先んじたのは一種の幸運であって、暴力主義にして覇権主義国家が原爆を先に手に入れる可能性もあったわけであり(この場合、自国が核兵器を独占するために対米核攻撃をしかけたかもしれない・・・)、実際に、後手となったとはいえ、抑止力として、ソ連邦は、1949年には核兵器を保有するのです。

 このことは、百歩譲ってアメリカの主観的正義を認めたとしても、人類を救うためと純粋に言えるのは、わずか4年の間に過ぎないこととを意味します。冷戦期にあっては、恐怖による核の均衡が米ソ両超大国間に保たれたのであり、しかも、ソ連並びに同陣営に組み込まれた諸国の共産主義体制は、核によって温存されてしまうのです。言い換えますと、‘見せしめ’は、犯罪や違法行為に対する刑罰的な意味ではなく、むしろ、暴力主義国家による核兵器を保有していない他国に対する服従要求や威嚇のための‘見せしめ’ともなり、この状態は、今日まで続いているのです。それは、‘自らの体制を認めない者、抵抗する者、刃向かう者には目にものをみせてやる!’という態度です。

 暴力主義国家による核保有の現実は、結局、核保有国のみが抑止力を独占すると共に相互抑止の効果が働く一方で、核を保有しない国は、抑止力を持てない状況をもたらしています。しかも、この体制は、NPTによって固定化されてしまうのです。アメリカは、自らは核保有国ですので、‘見せしめ効果’の恩恵を受けているのですが、他の核を保有していない諸国は、むしろ、核保有国に対する無防備という致命的な運命を背負わされているのです。この非対称性を考慮しますと、三つの要件の充足を欠くため、原爆投下は正当化できないまでも、せめて抑止力による平和を実現するためには、全諸国に核の抑止力を備える権利を回復させるべきと言えましょう。日本国も巻き添えになるリスクが極めて高い台湾有事を未然に防ぐためにも。

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日米による核兵器同時開発のケースを考える

2024年04月12日 10時09分15秒 | 国際政治
 第二次世界大戦末期、連合国側のみならず、枢軸国側でも核兵器の開発が急がれていました。現実には核兵器開発競争はアメリカが先んじることとなったのですが、可能性としては、日本国のみの開発成功、並びに、日米両国による同時開発のケースもあり得ないわけではありませんでした。昨日の記事では、前者について考えてみたのですが、本日は、後者の日米同時開発のケースについて論じたいと思います。

 原爆投下に関する違法阻却事由としては、アメリカにおきましては、核の抑止力による人類救済論が一般的です。悪しき行為でありながらも、そこに神の采配とも称されるべき正義を見出そうとする見解です。‘神は、悪からも善を引き出す’と申しますので、人類救済論は、原爆を投下した側となるアメリカ国民を強く惹きつけるのも理解に難くはありません。結果論からすれば、冷戦期にあって米ソ両超大国を盟主とする東西陣営間の世界戦争、すなわち、第三次世界大戦が起きなかったのは、相互確証破壊論が述べる相互抑止力が働いたからともされています。

 もっとも、第二次世界大戦後にあって超大国間の相互抑止力が働くようになるのは、ライバル関係となったソ連邦が原子爆弾の開発に成功した時点となります。それはアメリカから遅れること4年後、ソ連邦が核実験に初めて成功した1949年の夏のことです。このことは、米ソ間の核の相互抑止力による‘冷たい平和’は、戦後4年を経て実現したのであり、アメリカが原子爆弾を使用した時点では、対ソ牽制の意図はあったとしても、相互性に基づく世界大戦抑止の構想は存在していなかったことを意味します。核の均衡論による違法性阻却の主張は、この点において説得力に乏しいのです。

 しかしながら、この核による相互抑止の議論は、核の抑止力の問題を考えるに際して極めて重要なポイントとなります。先日は、日本国のみが核兵器保有国となるケースについて取り上げたのですが、実のところ、核の開発競争における開発の時間差は、最初に核開発に成功した国が出現した途端に、目的が変わってしまうことを示しています。それは、核を持つ国と持たざる国との間の非対称性、あるいは、核の不均衡が、軍事力において国家間の間に解消され得ない格差をもたらすからです。核兵器国に対して非核兵器国は決して戦争に勝つことはできず、核保有国のみが‘無敵’となるのですから。つまり、核兵器国に対して自らを護り、対等な関係となるには、核の均衡を要するのです。

 アメリカによる広島・長崎への原爆投下を受けてソ連邦が核兵器の開発を急いだのも、おそらく、攻撃兵器としてアメリカへの実戦使用を目的としたのではなかったはずです。アメリカ一国のみが核兵器を保有する状態が続けば、圧倒的に有利となった同国による核による威嚇や攻撃等により、戦時中に版図を広げた‘赤い帝国’が瓦解し、共産主義体制が崩壊することを恐れたからなのでしょう。あるいは、最終戦争としての第三次世界大戦を想定していた世界権力が、世界大での二頭体制の構築を欲したからかも知れません。何れにしましても、ソ連邦は、自ら核兵器を手にすることで、‘生き残り’、すなわち体制温存に成功したと言えましょう。因みに、当時のアメリカは、ソ連邦による原子爆弾開発を未然に阻止するために、対ソ原爆使用に踏み切ることはありませんでした。

 冷戦期に見られるように、たとえ敵対関係にある、あるいは、異質な体制の国家であったとしても、核の均衡が共存をもたらすならば、第二次世界大戦末期にあっても、同様の展開となった可能性があります。日米両国がともに核兵器を保有する状態に至った時点で戦争は‘凍り付き’、ほどなく終結に向かったものと推測されるのです。

 そして、核開発における後発組の目的が、核攻撃からの防衛である点に注目しますと、今日のNPT体制には、大いに疑問があります。核兵器の攻撃兵器としての非人道性ばかりを強調し、核兵器の廃絶を‘絶対善’と見なすことで、核保有国からの最大の防御手段を各国に自発的に放棄させているからです。しかも、核によって絶対的な優位性が保障されている核保有国は、必ずしも他国の独立性や主権を尊重し、国際法を誠実に遵守する国であるとは限らず、中国やロシアのみならず、イスラエルや北朝鮮までもが核を保有しているのが現実なのです。このように考えますと、核の抑止力をもって違法阻却事由を主張するならば、核保有国による横暴から身を守るための防衛、あるいは、抑止目的を条件として、世界の全諸国に対して核保有を認めるべきなのではないかと思うのです。

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核兵器開発競争から考える違法阻却事由

2024年04月11日 12時13分12秒 | 国際政治
 第二次世界大戦末期にあって、核分裂から生じる膨大なエネルギーを破壊力として用いる核兵器の開発は、連合国側であれ、枢軸国側であれ、戦争当事国の至上命題でもありました。同兵器を手にした側が、圧倒的に有利になることが予測されたからです。戦局の悪化で追い詰められていた日本国もまた、同兵器の開発に一縷の望みを抱いていたのです。戦争末期の核兵器開発競争は、結局、ナチスによる迫害を逃れてアメリカに渡ってきた科学者達の貢献もあって、アメリカの勝利に終わります。そしてそれは、第二次世界大戦における連合国の勝利をも意味したのです。

 かくして第二次世界大戦は、アメリカによる核兵器の開発成功に終わるのですが、核兵器の存在は、その後、国際社会に多大なる影響を与えることになります。しかしながら、核兵器とは、そもそも国際法違反となる都市空爆を前提として開発されたとしか考えざるを得ません。実際に、アメリカは、広島並びに長崎のみならず、日本国内の複数の都市を攻撃対象リストに挙げていました。核兵器は、少なくともアメリカでは、最初から違法行為となる民間人の大量殺戮用の兵器として開発されているのです。この点を考慮しますと、核兵器の使用を正当化しようとすれば、誰もが納得するような違法阻却事由を示さなければならない、ということになりましょう。

 そして、今日、違法阻却事由の一つとして提起されているのが、日本国側による核兵器開発の事実です。核兵器の使用の違法性を糾弾されているアメリカからすれば、‘日本国も同じことをしようとしたではないか’ということになります。この主張は、正当防衛や緊急避難の根拠ともなり得ますし、被爆国である日本側としましても、正直に申しますと‘痛いところ’ではあります。しかしながら、この指摘を正面から受け止め、考察・検証を加えますと、核が第三次世界大戦から人類を救ったとする核の抑止力の評価による原爆投下正当化論の問題も、核廃絶運動やNPT体制をめぐる今日的な問題も見えてくるように思えます。

 そこで、先ず考えるべきは、戦争末期にあって核兵器開発競争をめぐっては、およそ3つの可能性があった点です。その三つの可能性とは、(1)アメリカ一国が先に開発し、核兵器を保有するケース、(2)日本国側が先に開発に成功し、日本国のみが保有するケース、そして、(3)日米が共に同時期に開発に成功し、両国が共に核兵器を保有するケースです。現実の歴史は、第一のケースとなったのですが、それでは、仮に第二と第三のケースでは、核をめぐる議論はどのような展開となったのでしょうか。

 古来、兵器の性能は戦争の行方を左右しますので、仮に、第二のケースとして、日本国側が核兵器を先に開発した場合、日本国は、アメリカに対して軍事的に優位な立場を得ることとなります。もっとも、実際にそれを使用できたかどうかについては怪しく、核兵器の使用を想定した潜水艦の開発を急いだとしても、同兵器の運搬手段については疑問が残ります。しかしながら、核兵器を保有しながら大陸間弾道ミサイルの開発には至っていない今日の北朝鮮の立場と同じく、アメリカに対して武力攻撃を控えさせる効果は得られたかも知れません。つまり、日本国の場合、核兵器を開発したとしても、実際にアメリカの都市に対して使用するよりも、抑止力として用いた可能性の方が高いように思えます。おそらく、アメリカが実行した無慈悲な対日空爆作戦も回避されたことでしょうし、終戦交渉を開始するに際しても、連合国側をテーブルの席につかせ、講和交渉を優位に進めることができたことでしょう。

 それでもなおも、日本国による対米原爆投下の正当化論として、保有のみならず、日本国による核兵器の使用という緊急の危機があったと主張するならば、むしろ同論者は、日本国による原爆投下をも正当化せざるを得なくなります。核兵器による甚大なる人的物的・被害が‘見せしめ’となって、その後の人類を救ったとする論理構成からすれば、‘見せしめ’は、ニューヨークであれ、ワシントンD.C.であれ、あるいは、ロンドンであれ、新型兵器の犠牲となる都市はどこでも構わないことになるからです。

 なお、原爆の投下を、‘強欲な侵略国家日本国の当然の報い’と見なしたり、‘自由と民主主義を護るためには必要であった’とする違法阻却事由の主張も、人類史上最初の使用による‘見せしめ’効果だけを取り上げれば、説得力を失います。(なお、植民地支配が横行していた当時の世界情勢からすれば、日本国が‘邪悪な国’であったとは言えないのでは・・・)。邪悪な国家による核の独占とその使用も、あり得ないわけではないのです。仮にこうした状況に至った場合には、非核保有国は、核独占国によって常に脅迫されるか、あるいは、実際に戦争を仕掛けられるかもしれません(核保有国の必勝状態・・・)。科学技術のレベルは倫理観とは無関係ですので、新型兵器の開発競争は、‘邪悪な国’が唯一の保有国となる場合もあり得るという問題をも提起しているのです。そしてこの問題は、今日における問いかけともなるのです(つづく)。

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原爆投下の違法阻却事由の問題

2024年04月10日 13時17分08秒 | 統治制度論
 20世紀初頭に成立した「陸戦法規慣例条約」等の条文を読めば、連合国側による国際法違反行為があったことは明白です。今日、イスラエルによるガザ地区に対する攻撃が国際法違反であるのと同様に、民間人を大量に殺害する行為は、当時にあっても国際法、即ち、戦争法に反していたと言えましょう。とりわけ、一夜にして都市を焼け野原にし、住民の命を奪った都市空爆は、弁明の余地がないように思えます(違法阻却事由がない・・・)。

 違法阻却の事由とは、主として(1)正当な行為、(2)正当防衛、(3)緊急避難の三点ですが、都市空爆は、何れにも当たりません。戦争法とは、戦時下にあっても人類が野獣の如き野蛮な状況に墜ちないように、人道的な配慮から制定されていますので、‘皆殺し戦法’が、正当な行為に当たるはずもありません。また、当時にあって、アメリカは既に日本国から制海権も制空権も奪っていましたので、開戦時の真珠湾攻撃とは違い、正当防衛と言える時期も過ぎています(そもそも、アメリカ側が‘防衛’を主張できる状況にもない・・・)。ましてや、緊急避難であるはずもありません。また、仮に戦争の終結を早め、日米両国民の被害を最小限に留めることが目的であったならば、日本国側からの終戦交渉の動きを察知した時点で、連合国側も、即座にこの動きに対応すべきであったと言えましょう(もっとも、この点においては、日本国側にも、‘国体の護持’への強固なまでの拘りがあり、全く責任がないわけではない・・・)。さらには、対ソ威嚇手段としての使用であれば、なおさらに違法阻却の事由とはならないはずです。

 アメリカが戦後国際軍事法廷の場で裁かれなかったのは、法そのものは存在していても、公平・中立的な立場から事実を確認した上で、裁判を行なう国際司法制度が、1945年の時点では整っていなかったからなのでしょう。このため、‘勝者が敗者を裁く’形となり、対日都市空爆は不問に付されたままに今日に至っているのです。なお、日本国に対する違法な攻撃については、日中戦争時における日本軍による違法行為の主張をもって正当化されることがありますが、今日のイスラエル・ハマス戦争にあってハマスによるテロ行為がイスラエルのガザ地区住民に対するジェノサイドを正当化できないように、違法阻却事由とならないことは確かなことです。なお、仮に、中国が‘南京大虐殺20万人説’を主張するならば、第二次世界大戦時に行なわれた‘裁かれざる罪’の全てに対する裁判の実施を主張すべきであり(もちろん、厳正なる証拠集め等も必要・・・)、それには、勝者となった連合国も含めなければ、近代司法制度の要件を著しく欠くこととなりましょう。

 かくして、都市空爆は‘裁かれざる罪’となるのですが、ここで一つ、考えなければならない点は、新型兵器の開発競争という核兵器のみが有する側面です。実のところ、同問題を複雑にしている要因は、まさにこの側面にあります。アメリカによる原爆投下を正当化するに際して、しばしば日本国も原子爆弾の開発に着手していた、とする指摘があるからです。自らも原子爆弾を投下する可能性があったにも拘わらず、先に開発に成功したアメリカばかりを糾弾するのはフェアではない、という主張です。この主張の先には、上述した違法阻却事由の否定を覆す根拠が持ち出されることも推測されます。即ち、日本国がアメリカよりも先に原子爆弾を製造し、それを使用するのを未然に防ぐための正当防衛行為である、あるいは、日本国による開発が目前であったために、緊急避難的な措置として開発に先んじて成功したアメリカが使用した、というものです。核兵器には、通常兵器とは桁違いの、戦局を逆転させるだけの破壊力が理論上予測されていましたので、こうした正当化論もあり得ないわけではないのです。

 原爆投下正当論の一角としての日本国による原子爆弾開発の主張については、戦争末期にあって、その‘脅威’がどの程度であったのか、すなわち、違法阻却事由の有無を判断するためには、日本国側の研究開発の進捗状況を事実として確認する必要がありましょう(一説に依れば、核兵器の運搬手段として、日本国は、潜水艦発射型すなわちSLBMの先駆けともなる技術も開発していたとも・・・)。何れにしましても、この問題は、核兵器の保有における非対称性という今日的な問いをも含んでおり、人類を核戦争から救ったとする、結果論としての見解とも繋がってくるのです(つづく)。

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原爆投下は国際法違反であった-違法行為の阻却事由はあるのか?

2024年04月09日 10時11分04秒 | 国際政治
 第二次世界大戦下にあって原子爆弾の開発に携わり、「原爆の父」とも称されることとなった理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーの半生を描く映画『オッペンハイマー』が、昨年、アメリカで制作されました。アカデミー賞を受賞した注目作品となったのですが、同映画の公開を機に、原子爆弾の投下の是非をめぐる議論も起きています。世界最初にして唯一の被爆国となった日本国では、原爆の残虐性が描き切れておらず、不満が残る作品とする評が少なくない一方で、アメリカ国内では、若い世代には若干の変化が見られるものの、原爆投下を正当化する意見が今なお優勢です。

 アメリカ人が支持してきた原爆投下の正当化論とは、原子爆弾がアメリカの若き兵士達の命を救うと共に、来るべき本土決戦において一億玉砕を覚悟していた日本人の命をも救うのみならず、戦後にあっても、核兵器に対する恐怖心による核の抑止力が働き、第三次世界大戦を防いだというものです。言い換えますと、日本国への原爆投下は、全人類を救ったのであるから、結果論からすれば、日本人の被爆者は人類に供された尊い犠牲ではあるけれども、原爆投下は‘必要悪’であったということになります。

 同見解に対しては、日本人の多くは、原爆投下を先ずもって国際法違反と見なしています(東京裁判等の国際軍事法廷は、敗者の違法行為しか裁いていない・・・)。当時の戦争法にあっても非人道的な兵器の使用は禁止されていますし、都市や民間施設に対する攻撃にも制約が課せられていました。例えば、1910年1月26日に発効した「陸戦法規慣例条約」の条約付属書である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の第23条ホには、禁止事項として「不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト」とありますし、第25条には、「防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又は砲撃スルコトヲ得ス」とあります。さらには、第23条イは「毒マタハ毒ヲ施シタル兵器ヲ使用スルコト」も禁止事項としていますので、爆発時のみならず、中長期的にも健康被害を与える放射能そのものを毒と見なせば、同条項にも抵触するかもしれません。これらの条文に照らしてみれば、原爆投下は明らかに違法行為であり、日本人の多くは、アメリカの言い分に素直に納得できないのです。

 しかも、原爆投下に先立って、日本国は首都東京をはじめ激しい都市空爆を受けております。空爆による民間人の被害者数は、原子爆弾による死傷者数をも上回ります。木造建築の延焼を計算に入れた焼夷弾の使用は、民間人をも苦しみの中で焼き殺してまいますので、大火災の発生を目的とした同空爆も(火あぶりの刑が与える耐えがたい苦痛を考えれば、その残虐性は容易に理解される・・・)、上述した陸戦法規に違反する行為に他なりません。このため、なおさらに原爆投下正当論は、‘後付けの言い訳’のようにも聞えてしまうのです。原子爆弾という新型兵器が使われたため、自ずと広島と長崎に関心が集まるものの、仮に、核兵器の使用がなければ、アメリカは、日本全国の都市に対する空爆をどのような論理で正当化したのでしょうか。南北アメリカ大陸では、ヨーロッパ諸国によって先住のインディオの人々が大量虐殺されていますが、こうしたジェノサイド行為は、‘人類を救うために必要であった’とは言えないはずです。

 加えて、当時のアメリカ政府は、独自の情報収集網、あるいは、連合国の一員であったソ連邦を介して、当時の日本国政府が、終戦交渉に動いていたことは知っていたはずです(フーバー元大統領も、アメリカによる休戦妨害を指摘・・・)。仮に、トルーマン大統領による原爆投下の判断が‘人類を救った’とする主張が正しければ、日本国に対する原爆投下は、それが戦後の対立を見越したソ連邦に対するものであれ、明らかに‘見せしめ’が目的であったことを認めることにもなります。戦争の一環であるならばいざ知らず、外部者に対する戦略上の‘見せしめ’効果を狙って原子爆弾が投下されたとなりますと、‘見せしめ’のデモンストレーションのチャンスとして使われた日本国としては、否が応でも釈然としない思いが残るのです。

 これらの他にも、日本国によるポツダム宣言の受託の主要な要因は、原爆投下ではなくソ連邦の参戦にあったので、アメリカの言い分は通用しないとする意見などもあります。もっとも、上述したように、結果としては、相互確証破壊論によって主張されたように核の抑止力が米ソ超大国間による直接的な‘熱戦’を防いだとする指摘は、それが事実であるが故に否めません。それでは、核の抑止力をもって第三次世界大戦を防いだとする論拠をもって、核使用の違法性は阻却され得るのでしょうか(違法性の阻却事由は、凡そ正当行為、正当防衛、緊急避難の三点・・・)。核をめぐる現在の状況を踏まえながら、この問題についてどのように対処すべきか、しばし考えてみたいと思います(つづく)。

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グレート・リセット構想は時代の逆行?

2024年04月08日 10時10分36秒 | 国際政治
 グローバルリズムが本格化した21世紀は、つい数年前までは、‘新しい時代’の到来と見なされてきました。ITやAIをはじめとしたデジタル技術の急速な進歩も手伝って、‘新しい時代’には、先端テクノロジーという実現手段もありました。こうした時代の雰囲気の中、世界権力のフロントとも言える世界経済フォーラムは、近未来におけるグローバル・ガバナンスのヴィジョンとして、グレート・リセット構想を打ち出すこととなったのです。

 同構想に添うように日本国政府も「ムーンショトット計画」といったSFチック、否、カルト風味のプロジェクトを開始したのですが、先進的であり、未来を先取りするような構想というイメージとは裏腹に、統治システムの視点からしますと、グレート・リセット構想は、むしろ知性面での退行が見られるように思えます。何故ならば、その統治機構の設計はあまりにも杜撰であるからです。

 先ずもって、グレートリットによって出現する近未来のグローバル・ガバナンスについては、漠然としたイメージしか示されていません。‘多国籍企業、国際機関を含む政府、並びに、選ばれた市民団体(CSOs)間の3者の協力によってマネージされる’と説明されているのですが、これらの三者のそれぞれが、統治機構においてどのような役割を果たし、如何なるメカニズムによってガバナンスが行なわれるのか、全く分からないのです。三者による合同決定機関、あるいは、三院制の議会が設けられるという意味かもしれませんし、多国籍企業が決定権を握り、他の二者はその実行機関として決定事項を忠実に執行する、ということなのかもしれません。何れにしましても、はっきりしている事は、近未来の人類は、多国籍企業、政府、市民団体の三者による統治体制に組み込まれるということであり、その具体的な姿は闇の中なのです。

 こうした目的地を明示せずに言葉巧みに人々を‘バス’に乗せようとする手法は、共産主義革命とも似通っているのですが、先日、本ブログでご紹介しました組織の基本モデルに照らしても、グレート・リセット構想が、制度設計として如何に欠陥に満ちているのかが分かります。上述した決定や実行に関する三者の役割の不透明性に加えて、提案、制御、人事、評価といった組織上の機能については空白であるからです。仮に、世界経済フォーラムに対して、‘グレート・リセット構想では、これらの諸機能はどのように制度に組み込まれているのですか?’と質問しましたら、彼らは答えに窮するのではないでしょうか。組織の健全性や発展に必要不可欠となる諸機能間の権力の分有も分立も欠けているのですから。このスタイルは、実行と決定から成る暴走リスクを抱えた独裁モデルであって、近現代の統治機構としての要件を欠いており、前近代的なプリミティブな制度設計に留まっていると言えましょう(モデル図を再掲)。

 また、現代にあって普遍的な価値とされる民主主義の観点から見ましても、同構想は、時代の逆行以外の何者でもありません。そもそも人類の誰も世界経済フォーラムに頼んだわけでも、委任したわけでもないのに、勝手に未来構想を自己提案し、勝手に決定し、それを各国の政府を手懐けて勝手に実行しようとしているからです(‘世界憲法’も制定されなければ、立憲主義も成り立たない・・・)。決定機関の人事も、全人類による普通選挙制度が実施されるわけでもなく、おそらく財閥親族世代間の世襲制ということになりましょう。国際機関を含む政府もグローバル・ガバナンスの構成要素の一つとはされていますが、何れの側面にありましても、民主的な要素は皆無に近いのです。

 そして、もう一つ、重要な問題点を挙げるとしますと、そもそもグローバル・ガバナンスとは何か、という問題です。全世界におけるSGDsの実現と言うことになるのかも知れませんが、これを実現するためには、財政権限をはじめとした内政の権限を含め、各国の主権を‘世界政府’に移譲させる必要がありましょう。また、国家間のトラブルや紛争を解決する仕組みを備えているのか、といった疑問もあります。国家間の対立や紛争を解決するためには、むしろ、国際レベルにあって国際法並びに中立・公平性が確保された司法制度の整備が必要ですので、グレート・リセット構想が想定している三者は、何れにあっても解決手段として不適切なのです。誰も、多国籍企業に司法機能を任せようとは思わないことでしょう。現状にあっても、世界経済フォーラムが、統治権を行使しようとすれば、それは、国際法にあて法的根拠のない不法行為、あるいは、国家に対する主権侵害ともなるのです。

 何れにしましても、グレート・リセット構想には、致命的な欠陥が散見されます(もっとも、人類支配を目指す世界権力にとっては望ましい確信犯的な欠陥の放置・・・)。このことは、その実現が、グローバル・ガバナンス、否、一方的な上からの支配のターゲットとされる人類に不幸と不自由をもたらすことは容易に予測されます。手段としてのテクノロジーの先進性の陰に、人類支配という目的を実現するための制度設計上の逆行性を忍ばせる手法こそ、グレート・リセット構想が人類に仕掛けている巧妙な‘トラップ’なのではないかと思うのです。

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現時点の民主主義の制度化は初期段階に過ぎない

2024年04月05日 14時33分48秒 | 統治制度論
 組織の基本モデルは、独裁のみならず、今日の諸国家における民主主義の制度化が、如何に不十分で初期的段階に過ぎないのかを説明します。否、今日、あらゆる諸国の国民を苦しめ、悩ませている問題の多くも、未熟な統治制度に起因しているのかも知れません。政治腐敗や権力の私物化、さらには、グローバルレベルで進行している世界権力による国家主権の侵害等も、元を訊ねれば、その原因は国民の声が届かない現行のシステムにあるとも言えましょう。

 統治機能の起源とは、分散、かつ、集団を成して生きてきた人類のニーズに求めることができます。危険に満ちた自然の中で生きてゆく、あるいは、他の集団からの攻撃に対処するためには、集団が結束して自らの安全を護る必要がありましたし、公共物の建設などは、資材や労力を分かち合いながら皆で協力しながら行なう必要もありました。また、個々の生命や身体等が相互に護られなくては、暴力が支配する‘この世の地獄’となってしまいます。統治機能とは、人々が生きてゆく上で必要不可欠であり、それは、一つではなく複数存在していたのです。統治の諸機能を人々に提供するために要する権力こそ‘統治権力’と言うことになりましょう。

 統治の諸機能の起源を振り返りますと、民主主義とは、机上の空論ともなりかねない特別の価値ではなく、理に適った当たり前のことなのです(民主主義は始まりであって終わりでもある・・・)。ところが、一端、統治権力が成立しますと、それを誰が行使するのか、という問題が生じます。古今東西を問わず、この統治権力は、実力、通常は武力に勝る者によって握られるのが常でした。この現象を、提案、決定、実行、制御、人事、評価の機能から成る組織の基本モデルに照らしますと、人事権は、力によって特定の個人により掌握され、決定権は、実力で統治者となった人物によって凡そ独占される形となります。そして、実行は、決定権を握る人物の配下の者達が務めたのでしょう。その一方で、当時にあっては、他の組織上の諸機能、即ち、提案、制御、評価については、その存在は意識にさえ上っていなかったかも知れません。つまり、人類史における統治システムは、昨日の記事で掲載した独裁モデルと同様に、決定機関と実行機関の二者からなるシステムが大半を占めてきたのです。

 統治権が建国や王朝の始祖からその子孫に受け継がれてゆく世襲制度もまた、統治者の座の獲得が武力に依らないという点において違いはあるものの、人事権は決定者、あるいは、その近親者の手にあり、両者は融合しています。民主主義が、何より先に選挙制度において制度化されたのも、人事権を介して決定権を国民の元に戻したいという、人々の願望があったからなのでしょう。そして、それは、決定権と人事権の分立をも意味したのです。

 かくして民主的な普通選挙の導入は、民主化のメルクマールとされたのですが、同制度をもって民主主義が十分に実現しているのか、と申しますと、そうではないようです。何故ならば、決定権をはじめ、提案や制御、そして、評価の機能に関する権限については、国民は蚊帳の外に置かれているのが現状であるからです。決定権については、国民投票制度が導入されている国は僅かですし(全ての政策や法案について国民投票に付すことは不可能であっても、国民全員が関わる重大な決定については国民投票が相応しい・・・)、提案権に関しても、たとえ国民発案の制度が設けられていても、この制度はほとんど機能していません。国民が提案し得るルートの欠如は、民主主義を実現する上で致命的な欠陥となりましょう(国民のニーズに応えることができない・・・)。また、国民による制御の相対的な脆弱さが、今日、権力の濫用や私物化、並びに、腐敗を招いていることも疑いようもなく、国民の評価が政治にフィードバックされる経路もありません。しかも、肝心の人事権さえも、不正選挙疑惑が持ち上がるように、常に、グローバルな独裁体制の樹立を志向するマネーパワーに脅かされているのです。

 組織の基本モデルに照らしますと、現行の統治機構の構造的な諸問題が自ずと明らかになってまいります。民主主義の制度化は、今日、初期的段階に過ぎないのです。このように考えますと、同モデルは、国民が未来に向けて国家体制や統治機構の改革や改善を志すに際して、その進むべき道をも示しているのではないかと思うのです。

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組織の基本モデルが説明する独裁体制が無理な理由

2024年04月04日 12時13分18秒 | 統治制度論
 世の中には、共産主義というイデオロギーをもって一党独裁体制を正当化する共産主義者や、カリスマ性あるいは卓越した指導力を備えた人物が救世主の如くに登場することを待望する人々がおります。また、近年、別格化された教祖をトップに戴く新興宗教団体の政治介入が公然と行なわれていますし、グローバリストによる隠れた世界支配も独裁体制の典型例と言えましょう。現代という時代にあっても、独裁体制は、陰に日向に蔓延っているのです。こうした独裁体制に心から憧れ、心酔している人々に対して、独裁体制の根本的な欠陥を説得する作業は困難を極めます。言葉を尽くしても、その頑な心を変えることはできないかもしれません。それでは、半ば信仰化した独裁擁護論に対しては、打つ手はないのでしょうか。

 古代ギリシャのポリス世界では、僭主(独裁者)の出現は、市民達が最も恐れた政治的な危機でした。アテネに至っては、僭主となりそうな危険人物を投票によって追放するという、陶片追放制度まで設けて僭主の出現を未然に防ごうとしたほどです。古代人のほうが、余程、一人の人物に公権力を独占されてしまう体制の弊害について熟知しており、陶片追放制度も、それが自由であるはずの市民達の身に迫る現実的な危険であったことをよく表しています。共和制ローマにあっても、独裁官は戦時における臨時のポストであり、しかも、独裁体制の固定化を防ぐために任期は半年に限定されていました。

 一人の人物に全メンバーの生殺与奪の権を握られてしまう恐怖は、古今東西を問わず、人類が経験してきた災難です。世界史の教科書でさえ、近世ヨーロッパの絶対主義体制は、君主が何らの拘束もなく絶対的な権力を振るい得る忌まわしき国家体制として記述されています。理性に照らして常識的に考えれば、独裁体制を擁護する理由も根拠も見出せないのですが、何故か、現代の政治の世界を見てみますと、上述したように右にも左にも独裁容認論が散見されるのです。

 洗脳等によって内面の価値として独裁が心を捉えている場合、確かに言葉で説得することは難しいのですが、一つ、効果的な方法があるとしますと、それは、分かりやすい図で説明することです。“視覚による認識と理解”という別の物事の把握ルートを使ってみるのです。この点、昨日の記事でアップしました組織の基本モデルは、独裁の問題を視覚おいて把握する上で役立つかも知れません。

 如何なる組織にあっても、その健全性と発展性を備えるためには、(1)提案、(2)決定、(3)実行、(4)制御、(5)人事、(6)評価の諸機能を分立させる必要があります。とりわけ、提案、制御、人事、評価の四者は外部に設けませんと、同組織のメカニズムは働かなくなります。この観点からしますと、独裁体制では、組織に備えるべき機能の内、健全性と発展性を保障する重要な外部的な諸機能が、一人の人物に溶け込むことで、消滅してしまうからです。つまり、独裁体制とは、‘決定’と決定事項の忠実な‘実行’の二者のみからなる、極めて単純なるシステムなのです。外部的諸機能の不在は、独裁者による暴走や権力の私物化等を、誰も止めたり、変更させたりすることができず、評価のフィードバックの経路がない以上、組織としての発展性も望めないことを意味します。その仕組みが欠けているのですから。

 ここに分立体制としての基本モデルと独裁モデルとを並べて掲載してみましたが、両者を比較した場合、圧倒的多数の人々が、分立モデルの方を支持するのではないでしょうか。両者を比較してみれば、共産主義者をはじめとした独裁擁護論者の人々でも、独裁者の無誤謬という現実にはあり得ない条件を挙げない限り(この条件を満たすことはできないので、他者を説得することはできない・・・)、基本モデルに対する独裁体制の優位性を論理的に述べることは難しいのでしょうか。


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最善の制度設計を求めて

2024年04月03日 11時22分42秒 | 統治制度論
 戦争であれ、政治腐敗であれ、貧困化であれ、世の中で何か良からぬ出来事が発生した際には、常々、その原因を当事者個人に求める見解とその出来事が起きた外部環境を問題にする見解とに分かれがちです。もちろん、原因が複合的であるケースも少なくないのですが、特に何らの罪もない人々が被害者となってしまう場合には、後者、すなわち、制度や仕組みに何らかの欠陥があるケースの方が多いように思います。

 ところが、制度設計の善し悪しがこの世の不幸の大方の原因となっているにも拘わらず、善き制度や組織の在り方が真剣に探求されてきたわけではありません。政治の世界では、むしろ、現状に対する人々の不満は、平等を掲げる共産主義といったイデオロギーが吸い寄せてきましたし、その反対に、国家主義や民族主義の高揚によって解消させようとする傾向もありました。伝統宗教、あるは、新興宗教を含めた思想による不満の解消方法は、得てして権力者に利用されがちであり、たとえその主張に傾倒して活動に協力し、革命やクーデタ等によってその‘理想’を実現したとしても、そこで直面するのは自らが目指していた理想とは逆の現実です。騙されたことに気がついても、‘後の祭り’となるのが常なのです。

 思想や宗教による解決の末路を知ればこそ、これらを歴史の教訓として、人類は、別の道を探るべきです。そして、その別な道こそ、力学的な視点を含めた構造全体のメカニズムを見据えた上での善き制度設計の探求ではないかと思うのです。そこで、ここに試案として、制度設計に際して役立つものと期待される基本モデルを作成してみました。決して難しいものではありません。

 同モデルは、組織の健全性並びに発展性を備えた組織に必要とされる諸機能によって構成されています。具体的な制度として実現可能であり、かつ、多くの人々が納得し得る合理性を追求している点において、上記の思想やイデオロギー等による解決方法とは大きく違っています。そして、こうした基本モデルがあれば、誰もが、同モデルに照らして制度の‘善し悪し’を判定できるようになるのです。

 ‘善き組織’にとりまして必要となる諸機能とは、およそ、(1)提案、(2)決定、(3)実行、(4)制御、(5)人事、(6)評価となります。掲載した図で示されますように、これらは一つのフローなシステムを構成しています。何れが欠けても組織は機能不全に陥ったり、何らかの問題を抱えることになるのですが、ここで強調すべきは、同モデルは、権力分立の必然性をも説明していることです。何故ならば、一人の人物、あるいは、一つの機関がこれらの機能に関する権限を独占した場合、同組織のメカニズムが働かなくなるからです。つまり、これらの機能に関わる諸権限は、諸機能間の相互作用が効果的に発揮できるようにバランスを考慮しつつ、それぞれ別の機関に配置する必要があるのです。

 組織上の機能が複数存在することは、今日にあって定式化されている‘三権分立’に拘る必要はないことを意味するのですが、これらの権限は、‘一機関一権限’を原則とする必要もありません。組織の目的や決定事項の内容、あるいは、組織のメンバーや利害関係者によって権限を複数の機関やポストで分有させることもできます。基本モデルとは、あくまでも組織上の諸機能の流れと各々の役割を抽象化して図として表したものであり、具体的な制度の詳細については、基本を押さえさえすれば、それぞれの組織の個別的な状況や条件に合わせて、如何様にも設計できるのです。

 この基本モデルは、政治分野における国家や国際機関等の制度設計のみならず、企業の組織形態を含めてあらゆる組織に適用できます。そして、今日における諸問題の解決に際しても、万能ではないにせよ、大いに役立つのではないかと思うのです。

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世襲権力としての世界経済フォーラム

2024年04月02日 10時53分42秒 | 統治制度論
 民主主義体制が一般化した現代という時代にあって、政治権力の世襲は極めて困難となりました。一党独裁制を堅持している中国等の共産主義国家でさえ、北朝鮮等の極少数の国家を除いては、公式には世襲制は否定されています。もっとも、普通選挙によって国民から選ばれなければならない民主主義国家にあっても、政治の世界では世襲が横行しているのが現実です。日本国内でも、親や親族から‘地盤、看板、鞄’を引き継ぐ世襲議員は多々見られます。そして、そのより御し難く極端な事例こそ、世界権力の世襲なのではないかと思うのです。

 世襲とは、相続によって組織における特定のポスト、通常は、トップの座が継承される制度です。資産の相続であれば、それは家族や親族、あるいは、縁者といった私人間における所有権の移動に過ぎません。その一方で、世襲という制度には、組織が関わるだけに、それが民間組織であれ、私的な領域に留まらない‘公的’な側面があります。この世襲の‘公的’な性質こそ、適性や能力を欠いた政治家の出現のみならず、特定の一族による公権力の私物化や権力の濫用の懸念が常に付きまとう要因であり、実際に、世襲議員が、自らの私的な利権のために利益誘導を試みる事例は枚挙に暇がありません。

 世襲議員の存在は、平等を原則とする普通選挙が実施されつつも、民主主義国家にあっても、国民の参政権、とりわけ、被選挙権が著しい制約を受けていることを意味します。そして、それは、事実上、大富豪や利権屋しか立候補することが出来ないアメリカの大統領選挙に象徴されるように、しばしば‘お金のかかる選挙’が原因として指摘されてきたのです。かくして、民主主義の阻害要因として選挙資金の問題に注目が集まるのですが、グローバル化した今日にあっては、もう一つ、盲点ともなる政治権力の世襲があるように思えます。それは、金融・経済財閥の一族による隠れた権力の世襲です。

 国家レベルでの政治権力の世襲は、民主的選挙制度をもって公的には否定されており、政治家の子弟や親族とはいえ、国民の選挙権、即ち、人事権の行使の結果に服する必要があります。上述したように、この選挙という高いハードルは、‘マネー・パワー’を持つ者であれば、容易に乗り越えることが出来るのですが、世界権力を構成する金融・経済財閥には、選挙の場で国民の評価を受けなくても済む立場にあります。株式を遺産として相続しさえすればよいのです。社内やグループ内選挙を通して選出される必要もありませんし、他の組織のメンバーから‘権威’の承認を求める必要もありません。ポストの無条件継承であり(唯一の条件は血縁関係・・・)、自動就任という極めて稀な形態となるのです。

 今日の株式制度は、経営権の全面的な掌握ではないにせよ、株主には経営への‘参加権’が伴います。この文脈においては、経済における事業組織としての株式会社の形態こそ、私人による経済支配が生じる主因とも言えましょう。そして、無条件継承であるからこそ、政治の世界で批判されてきた世襲の諸問題が、今日、世界権力という極端な形で表に現れているとも言えるのです。

 何故ならば、何と申しましても、資産の相続は他者の合意や承認を要せずして、世界権力のメンバー資格の‘無条件継承’を保障しますので、他者、即ち、非メンバーとなる他の人類を冷酷に扱うことができます。コロナ・ワクチンを利用した人口削減計画が信憑性を帯びるのも、ITやAI技術の普及によるデジタル全体主義化が懸念されるのも、所得格差が放置されるのも、一般の国民が望まない移民拡大策が推進されるのも、マスメディアが人類の低俗化を誘うのも、そして、戦争ビジネスのために戦争が画策されるのも、世界権力のメンバー達を外部から制御する仕組みが皆無に等しいからなのでしょう。しかも、他者から解任される心配もありませんので、終身の地位が約束されているのです。

 近年、大企業といえども、富裕層の道楽としか思えないような技術の開発に傾斜したり(空飛ぶ車や宇宙ビジネス・・・)、国民監視システムへの貢献が疑われるケースが増加したのも(顔認証やIoT家電・・・)、大株主としての世界権力の意向が強く働いたからなのでしょう(もっとも、株主の構成が分散している企業であるほどに、同リスクは低下する・・・)。あるいは、マネー・パワーによって、各国の政治家のみならず、‘一本釣り’のように企業のCEO等が取り込まれているのかも知れません。何れにしましても、経済の世界では、政治の世界を取り込みながら、無制御なパワーが猛威を振るっているのです。

 制度論並びに組織論からすれば、こうした暴走を許す仕組みは独裁体制の一種となりますので、人類にとりまして決して望ましいものではありません。今日、人類が直面している諸問題を解消し、世界権力の暴走を制御するためには、より個々人や各企業等の自律性や自由が活かされる組織形態や、制御可能な経済の仕組みを、未来に向けて考案する必要があるのではないかと思うのです。

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自然エネルギー財団問題-既に‘グレートリセット’は実現している?

2024年04月01日 10時14分47秒 | 国際政治
 ここ数年来、政府は、国民に多大な影響を及ぼす重大な政策の決定に際して、有識者会議を設けるという方法で、政府による独断専行との批判を回避してきました。再生エネルギー推進政策についても「再生エネルギータスクフォース」が設置され、民間団体から‘有識者’が選任されたのですが、民間メンバーから提出された資料に中国国営企業のロゴの入っていたことから、中国の対日介入が懸念されることとなりました。

 同タスクフォースの構成員に選ばれ、問題の資料を持ち込んだのは、自然エネルギー財団事務局長を務める大林ミカ氏です。もっとも、同氏の人選には、現在デジタル大臣等の役職にある河野太郎氏が深く関わっていたとされます。報道に依れば、外務大臣の職にあった際にも、外務省に設けられた「気候変動に関する有識者会合」に同財団から大林氏を含む3名のメンバーが選ばれたそうです。また、今般の騒動の責任をとる形で大林氏が同メンバーを辞任するに際しても、「・・・河野太郎規制改革担当相から「了承した」という返信を事務局経由でもらった」と述べると共に、同氏からの推薦をあった旨も明らかにしていますので、河野氏の関与はほぼ確実と言えましょう。

 かくして、中国国営企業のロゴ発覚問題は、それがたとえ単なる‘ミス’であったとしても、政治家が関わる‘令和の疑獄事件’ともなりました。当の河野氏には中国スパイ説も持ち上がり、「有識者会議」を介して日本国の政策が中国の国策に利用され、同国の政策に沿うように誘導されている実態が明らかとなったからです。それでは、今般の事件にあって、国際法の原則に反する内政干渉を行なった‘犯人’は、中国なのでしょうか。

 確かに、‘実行犯’は、中国なのでしょう。しかしながら、その背後には、全世界のエネルギー政策のコントロールを目指すグローバリスト勢力の陰も見え隠れしています。そもそも、再生エネルギーとは、2011年3月11日に発生した東日本大震災における福島原子力発電所事故を機に、菅直人民主党政権の下で強力に推進されるようになった政策です。大林氏も、反原発の活動家としても知られており、反原発・脱原発運動が、その実、再生エネ利権と結びついていることを示しています。そして、当時にあって反原発運動が全国的な激しさを増す中、ソフトバンクグループを率いる孫正義も、将来予測される国内の電力不足の解消策として、中国、ロシア、モンゴル、北朝鮮等を電線網で繋げる「アジアスーパーグリッド構想」を打ち出したのです。

 ところが、この構想の焼き直しとも言える構想が、中国が進めている「一帯一路構想」にも登場してきます。時系列を見ますと、「一帯一路構想」が最初に提唱されたのは2013年ですので、孫氏の「アジアスーパーグリッド構想」を中国が模倣したようにも見えます。しかしながら、これらの二つの構想は、日中両国においてそれぞれ別々に推進されているわけではなく、事実上、一体化してゆきます。驚くべきことに、孫氏は、中国側の国際送電網構想の事業主体となる中国国営企業、すなわち、件のロゴ使用している国家電網公司を中心として設立された非営利団体「GEIDCO」の副会長に収まっているのですから。日中間の構想が何らの軋轢もなく円滑に一本化された様子からしますと、中国が日本発の構想を真似る、あるいは、‘横取り’したのではなく、既に別の次元で同構想が計画されていたとも推測されます。仮に、後者であれば、孫氏も中国も、同構想の実現に協力しているに過ぎず、‘実行部隊’の一員と言うことになりましょう。

 そして、ここで思い出されますのが、世界経済フォーラムが掲げている未来ヴィジョンです。‘グレートリセット’とも称されているのですが、同ヴィジョンでは、将来のグローバル・ガバナンスは、‘多国籍企業、国際機関を含む政府、並びに、選ばれた市民団体(CSOs)間の3者の協力によってマネージされる’とされています。このヴィジョンに照らして今般の国際送電網構想を見ますと、まさしくこれらの3者の協力によって推進されています。多国籍企業は、国家電網公司やソフトバンク等の国境を越えて事業を展開する企業であり、国際機関や政府とは、AIIBや日中両国政府、あるいは、配下の政治家となりましょう。そして、最後の‘選ばれた市民団体’こそ、自然エネルギー財団となるのです。もちろん、同財団を選んだのは、世界経済フォーラムに代表される世界権力なのです。

 河野太郎氏は、世界経済フォーラムの年次総会であるダボス会議に頻繁に出席するのみならず、2014年には、「グローバル・ヤングリーダーズ」にも選ばれています。また、同ヤングリーダーではないものの、大林氏は、国際太陽エネルギー学会の「グローバル・リーダーシップ賞」を受賞しています。

 今般の中国国営企業のロゴ発覚事件は、それが完成したわけではないにせよ、世界権力による人類支配の仕組みを図らずも公開してしまった観があります。そしてそこには、どこにも国民の声が政治に届く民主的な要素が見られないのです。

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