玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

開店休業中

2011年05月12日 | 日々思うことなど
このごろ情報を集めたり考えたり文章を書く気力が枯渇してます。
「リア充」になってネット離れしている、のであればいいのですがそうじゃないのが哀しい。

生存報告

2011年03月07日 | 日々思うことなど
すっかり自分のブログの存在を忘れてました。

最後の更新以来ご訪問いただいた方、RSSリーダーに登録してくださってる方、申し訳ありません。
ブログ主はとりあえず生きてます。いくつかトラブルを抱えてますが肉体的には健康です。最近の趣味は筋トレです。
とはいえ、このごろネットでの情報収集・意見発信に以前ほどの熱意がもてなくなりました。しばらくの間、ブログの更新はせいぜい月一度、はてなブックマークも何日かごと、気の向いたときにだけ何か書く、という感じになると思います。

自衛隊は「暴力装置」だから役に立つ

2010年11月19日 | 政治・外交
あまりにもひどい。ひどすぎる。
仙石官房長官の「暴力装置」発言に関する騒ぎのことだ。
いや、誤解なさらぬように。私が怒り、呆れているのは、「暴力装置」という言葉にショックを受けて(あるいはそのふりをして)自衛隊への侮辱だの左翼思想のあらわれだの幼稚な批判を叫ぶ「保守派」のほうだ。
まずはニュースの概要から。

仙谷官房長官:「自衛隊は暴力装置」 すぐに訂正「実力組織」 - 毎日jp(毎日新聞)
 仙谷由人官房長官は18日の参院予算委員会で、自衛隊を「暴力装置」と発言、質問者の自民党の世耕弘成氏から抗議を受け撤回した。そのうえで「不適当だったので、自衛隊の皆さん方には謝罪する」と述べた。

 仙谷氏は自衛隊と他の公務員との政治的中立性の違いについて「暴力装置でもある自衛隊はある種の軍事組織でもあるから、シビリアンコントロール(文民統制)も利かないとならない」と発言。委員会室が騒然となったため答弁中に「実力組織と訂正させていただく」と言い換えた。【高山祐】

毎日の記事タイトルもそうだが、どうも今回の騒動を伝える報道のほとんどが勘違いしているようだ。仙谷氏が「実力組織」に言い換えたのは「暴力装置」ではなく、自衛隊を「ある種の軍事組織」と表現した部分だと思われる(参考 Togetter - 「自衛隊は暴力装置に決まってるだろ…」)。「暴力装置」にカッカする「保守派」議員たちも、仙谷氏が何を訂正したのかわからないマスコミも、どちらも基本的な常識・能力に欠けているのではないか。
あまりのバカ騒ぎに呆れたおおや先生(大屋雄裕・名大法学部准教授)が政治学・法哲学の基本を解説している。

暴力装置 - おおやにき
いやいや何を言っているんだ自衛隊は国家の暴力装置に決まってるだろう(参照:「仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 参院予算委で発言、撤回」(asahi.com))。国家が(ほぼ)独占的に保有する暴力こそがその強制力の保証だというのは政治学にせよ法哲学にせよ基本中の基本であり、その中心をなすのが「外向きの暴力」としての軍隊と「内向きの暴力」としての警察である。

おおや先生の解説はざっくりしていて私のような素人にもわかりやすい。ネット上の「暴力装置」議論を見るとやれ原典はウェーバーだ、いやマルクスだと甲論乙駁しているが、どうも騒ぎの本質とは関係ないトリビアリズムのように見える。自慢じゃないが、というか恥ずかしながら、私などウェーバーもマルクスも本人の著作は一冊も読んだことがない。そんな私ですら高校の倫社の教科書や一般的な解説書(「図解雑学シリーズ」あたり)で国家の成立と治安維持に「暴力装置」が必要なことを理解しているのに、去年まで日本の政治を担い続けてきた自民党議員の多くがぜんぜんわかっていない(あるいは知らないふりをして世論を煽る)のは信じられないほどひどい話だ。以下も「おおやにき」からの引用。
結果的には、むしろこの発言を問題視するほうが、近代国家理論の原則も・自衛隊の持つ実力についても・シビリアンコントロールの理念についても正確に理解していないのだと、そういうことになろう。仙石氏自身が批判を受けてこの発言を撤回したことについては、まあ聞いたふうなことを言ったものの根拠とか理論的背景まできちんと理解していないのでろくでもない結果になるというのは菅直人総理大臣にも共通する性癖なので不思議でも何でもないが(氏の官僚内閣制や三権分立に関する発言を参照すること)、これらの問題に関する正確な認識を欠いた政治を担う資格のない人間(いや私のごく個人的な基準ですが)がこのあいだまで政権与党であった自民党内にすら多数いたこと、さらに自衛隊の中にいた人までそこに含まれていたということであって(参照:「暴力装置についてあれこれ」togetter)、なんかもう平和ボケとかなんだとか言うのも愚かな事態であるなと、そう思ったことであった。自民党が政権を失ったのにも相応の理由があったのだなあと、まあ最近しみじみと感じるところではあるのですがね。


「暴力装置」批判の筆頭は例によって産経新聞だ。どちらの記事も党派的・情緒的でくだらないから引用はしない。

仙谷氏「暴力装置」発言 謝罪・撤回したものの…社会主義夢見た過去、本質あらわに (1/2ページ) - MSN産経ニュース
「非常に残念」「いい気持ちしない」「むなしい」 仙谷氏「暴力装置」発言で自衛官から失望の声 (1/2ページ) - MSN産経ニュース

いやはや、なんともかんとも。こんな駄文を載せるスペースがあるなら、ちゃんとした(「産経御用達」ではない)政治学者に「暴力装置」の意味を解説してもらえばいいのに。社会の公器を自称する新聞は情緒を扇るのではなく読者を啓蒙する義務があるはずだ。右も左も関係ない。
2ちゃんねるを見ると「『暴力装置』なんて一般人は知らない」「ことさらに『暴力装置』という言葉を使うのは左翼的だ」「国会で使う言葉じゃない」「自衛隊員に失礼だ」みたいな批判が多い。バカも休み休み言え、と思う。国会で自衛隊のシビリアンコントロールを論じるとき「暴力装置」という言葉が使われるのはむしろ当たり前で、何の不思議もない。どこに不都合があるのか、何が不適切なのかまったく理解できない。実にくだらないイチャモンだ。

あまりいい例えではないけれど、とりあえず書いてみる。国会で自動車事故問題について論じているとしよう。
国土交通大臣が「自動車はたいへん便利な乗り物ですが、運転を誤ると『走る凶器』にもなります」と答弁する。それに対して野党議員が「自動車はわが国の基幹産業だ、『凶器』呼ばわりなどとんでもない!」だの「善良なドライバーを殺人者呼ばわりするのか!」だのいきり立ったら、一般国民はどう思うだろうか。「アホらしい、怒ってる議員は免許持ってないんじゃないか」と呆れるだろう。
自動車を自動車らしく使うには、一般道路を時速数十キロで走らせる必要がある。他の車や歩行者の近くを通過するのは避けられないし、ドライバーは人間だから時にはミスもする。責任感あるドライバーは誰でも「いい加減な運転をしたら『走る凶器』になってしまう(そうなってはいけない)」と肝に銘じているはずだ。逆に言えば、「自分が事故を起こすはずない」と高をくくって適当に車を走らせるドライバーは免許を持つ資格がない。
物理的な、そして社会的な存在としての自動車と「走る凶器」としての一面は決して切り離せない。クラシックカーのようにガレージにしまいこんで動かさなければ事故を起こす心配はないが、それでは自動車として役に立たない。

自衛隊が「暴力装置」というのも同じである。
普天間基地移設問題で在日米軍(海兵隊)の抑止力が話題になったが、自衛隊も他国の侵略の意図を挫く抑止力として機能している。抑止力とは何か。はっきり言えば、強力な兵器と行き届いた訓練が作り出す武力による脅しだ。武力とは何かといえば、必要に応じて(侵略者の兵器を)破壊し(敵兵を)殺害する暴力に他ならない。大前提としての暴力の存在を抜きにした自衛力も抑止力も存在しない。
そういう「リアリズム」こそ保守勢力(自民党)が自衛隊を強化し、憲法改正して軍隊の存在を認めよと主張する基盤だったはずだ。非暴力・非武装中立を主張する社会党は空想的平和主義と呼ばれて保守勢力の嘲笑の的だった。
それなのに今や「左翼的」な民主党を批判する自民党議員が「自衛隊を暴力装置呼ばわりするなんてとんでもない」と激怒している。世の中変われば変わるものだ。私には「きれいごと(自衛隊は軍隊ではない)で上辺をとりつくろっているうちに本質を忘れた愚かな姿」にしか見えないけれど。

sengoku38と羽毛田宮内庁長官の違い

2010年11月18日 | 日々思うことなど
「尖閣衝突事件ビデオ流出」について書いた記事にiteauさんからトラックバックを頂いた。

sengoku38 の行為について - extra innings

あちらのコメント欄で返信すべきかとも思ったが、少々長くなったのと(といってもそれほどの長さではないが)、コメント欄で議論するのがあまり好きじゃないので記事にすることにした。


iteauさん、ご意見ありがとうございます。
「過去に小沢一郎および鳩山元首相が天皇陛下と習近平・中国国家副主席との会見を強引にねじ込んだことに対する氏のご見解とじゃっかんの矛盾があるのではないかと思った。」
というご批判ですが、私は矛盾があるとは思っておりません。

民主党政権(小沢氏)による「天皇会見セッティング指令」と菅内閣(仙石官房長官)による「尖閣衝突事件ビデオ封印命令」は、どちらもこれまでの慣例を曲げる権力の圧力であったことは共通しています。ですが、それぞれに対する反発の仕方はまったく違います。
羽毛田宮内庁長官は、習近平・中国国家副主席との会見をしぶしぶながら受け入れた上で「こういうことはもうやめてほしい」と苦言を呈しました。会見要請(命令)をサボタージュしたわけではありません。
それに対して、某海上保安官氏(sengoku38)は、ビデオ封印指令を承知の上でそれを反故にする実力行使を行いました。Youtubeにアップした時点で一線を越えています。治安(武装)組織の公務員が個人的判断で勝手に実力行使するのは由々しきことです。

羽毛田長官の政権(小沢氏)批判も、天皇の健康を守るためとはいえ「虎の威を借る狐じゃないか」「宮内庁長官は国家公務員であって天皇の侍従ではない」という批判はありえますし、実際に小沢氏の支持者から猛烈に叩かれました。ですが私は公務員といえど言論の自由はあり、羽毛田長官のように堂々と批判する場合は自らのクビを賭けた勇気ある直言として認められるべきだと考えます。

sengoku38の場合は羽毛田宮内庁長官とまったく違っています。
彼はビデオ封印指令を知りながら、あえてYoutubeへのアップロードという実力行使を匿名で行いました。しかも、海保の内部調査・検察による捜査が始まってからもなかなか名乗り出ず、仲間(石垣海保の同僚)が容疑者扱いされるという迷惑をかけ、国に無駄な支出をさせました。もし海上保安官氏が実力行使を避け、羽毛田長官のように堂々と名乗って「ビデオ封印指令」を批判したのであれば、私も「現場の率直な意見だ、彼を処分すべきではない」と擁護したでしょう。

羽毛田宮内庁長官とsengoku38の行為を「どちらも権力への反抗だ」と大雑把にくくれば同じに見えるかもしれませんが、一方(羽毛田氏)は「命令に従いつつ堂々と批判」したのに対してもう一方(sengoku38)は「実力行使したうえで逃げ隠れ」しました。やったことといい、態度の潔さといい、月とスッポンほどに違います。
私は羽毛田長官が特に偉いとは思いませんし、ましてどう見ても羽毛田氏より小心なsengoku38が一部(多く?)の国民から英雄視されているのが理解できません。やったこと(ビデオ流出)の是非を論じる以前に、まずもって態度が潔くない。あれではいくら「自分は正しいことをやった、後悔していない」と確信犯を気取っても「愉快犯じゃないのか、衝動的な行為だろう」と疑われるのは仕方ありません。

私は件の海上保安官氏(sengoku38)を英雄とも悪人とも思いません。右翼とか反逆者のレッテルを貼る必要もない。彼は単に、自分の素直な(無邪気な・単純な)正義感をダイレクトに行動に移しただけで、深い考えはなかったのでしょう。思いつめてはいたのでしょうが、結晶化した思想があるわけでもない。法律的なことはよくわかりませんが、彼が逮捕されなかったのは良かったと思います。マスコミと彼を英雄に祭り上げようとする人たちから距離を置いて、海上保安庁の上司や同僚の率直な意見(その多くは叱責だと思いますが)を聞き、自分のやったことの意味をよく考えてほしいものです。

ビデオ流出は「ハプニング」

2010年11月15日 | 日々思うことなど
尖閣諸島における漁船衝突事件のビデオ流出犯を擁護する世論が過熱している。特にネット世論では勢いが増すばかりだ。
一週間程度で熱が醒めるんじゃないかと思っていた(期待していた)私は見通しが甘かった。

残念なのは、人々がビデオ流出を擁護するのに熱くなればなるほど、本来の問題である「尖閣諸島における日本の主権確保」や「菅内閣・民主党政権の外交能力」という根本的な問題がおろそかになることだ。ビデオ流出事件それ自体は単なるハプニングであり、国民あげて大騒ぎするような話ではない。さらに言えば、今回の漁船衝突事件も「尖閣問題」という大きな構図の中ではひとつのエピソードに過ぎない。
期せずして、自民党と共産党という左右の軸で対極にある政党の党首が「ビデオ流出」騒ぎが加熱することを戒めている。

公開すべきものをしてこなかったことが問題/尖閣ビデオ問題 志位氏 - しんぶん赤旗
 志位氏は、「明らかになったビデオ映像を見れば、本来、これは非公開にしておくべき内容のものではなかったというのが私たちの判断だ。こういう内容のものであれば、政府の責任でもっと早い段階で公開すべきだった」とのべました。

 そして、志位氏は「いま問われるべき問題の焦点は『ビデオ流出問題』ではない。政府がビデオ映像の扱いについて、責任ある方針をもたず、早い段階で公開すべきものを公開してこなかったことにこそ問題の焦点がある」と強調。「公開すべきものを公開しなかったことが、今回の流出問題につながった。その責任こそ問われるべきだ」と指摘しました。

「二・二六も命令無視」映像流出保安官を自民・谷垣氏が批判 - MSN産経ニュース
 自民党の谷垣禎一総裁は14日午後、さいたま市で講演し、中国漁船衝突の映像流出事件で神戸海上保安部の海上保安官(43)が関与を認めたことについて、青年将校らがクーデターを企てた二・二六事件を引き合いに出し「映像流出を擁護する人もいるが、国家の規律を守れないのは間違っている」と批判した。

 同時に「二・二六事件でも『将校の若い純粋な気持ちを大事にしないと』という声があり、最後はコントロールできなくなった」と指摘した。

 一方で「政治の責任で解決する姿勢がなかったことが一番の問題だ」と菅内閣の対応を非難。「政権担当能力を失っており、一日も早く退陣させないといけない」と強調した。


ビデオ流出犯を擁護して大騒ぎするのは連続ドラマ(尖閣問題)の一つの回(漁船衝突事件)の端役(sengoku38)の評価に血道をあげるようなものだ。そろそろ我に返って本来の問題に立ち返るべきである。


不思議なのは、多くの人が「衝突事件で船長が釈放されたこと」と「ビデオ流出で主任航海士氏(sengoku38)に対して処罰が検討されていること」という二つの問題を直結させて不公平だなんだと論じたがることだ。
いったい何なのだろうかこれは。私には二つの問題は別の話であることは自明で、一つの問題の裏表のように語る人たちの思考法がどうにも想像しにくい。しかも、「法を曲げて船長を釈放したのはけしからん」と言いつつ「sengoku38は立派なことをしたのだから杓子定規に罰してはいけない」という擁護が世論(というか世間の気分)の主流らしい。ますますわからない。
まるで「衝突漁船の船長」と「sengoku38」がシーソーの両端に乗っているようである。衝突船長がけしからん、罰すべきだとシーソーの左端を下げると、右端に乗ったsengoku38の評価が自動的に上がる。まことに奇観と言うほかない。