尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

曙、笠谷幸生、O・J・シンプソン、ヒッグス他ー2024年4月の訃報②

2024年05月07日 19時26分54秒 | 追悼
 スポーツ関係や1回目に書かなかった人を内外まとめて。まずは第64代横綱曙太郎(旧名チャド・ローエン)が4月上旬に亡くなり、11日に公表された。54歳。(死亡日は未公表。)ハワイのマウイ島出身で、ハワイ初の関取高見山の東関部屋に入門して、1988年3月に初土俵を踏んだ。昭和63年入門の貴ノ花、若乃花、魁皇など「花の六三組」と競い合って昇進、1990年3月に新十両、9月に新入幕した。92年5月場所で初優勝して大関に昇進、92年11月、93年1月に連続優勝して横綱に昇進した。外国人力士として初の横綱である。当時は92年3月で北勝海が引退して横綱不在で、95年1月に貴乃花が昇進するまで一人横綱だった。
(曙)
 として相撲界を支えた。204㎝の身長、223㎏の体重を生かした豪快な相撲で人気があり、貴乃花との白熱した優勝争いが記憶に残る。(曙貴時代と呼ばれた。貴乃花とは21勝21敗だった。)後半は膝のケガに悩まされながら、長期休場が多かったが、2000年に2度優勝した。優勝11回で、2001年1月に引退。引退後は東関部屋に残ったが、2003年11月に相撲協会を退職。格闘技K-1参戦を発表した。しかし大みそかに行われたボブ・サップ戦では1回ノックアウトされた。格闘技は1勝9敗、総合格闘技は4敗で、その後はプロレスラーとして活動した。まだ亡くなる年齢ではないが、心不全だったという。忘れられない相撲取りの一人である。
(貴乃花を圧倒した曙)
 1972年札幌冬季五輪で、スキージャンプ70メートル級金メダルを獲得した笠谷幸生(かさや・ゆきお)が23日死去、80歳。この人の名前は、当時を生きていた人には忘れられない。70メートル級(現在のノーマルヒル)は、笠谷が金、金野昭次(こんの・しょうじ、2019年没)が銀、青地清二(2008年没)が銅と日本勢が独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。90メートル級は7位とメダルを逃した。五輪には4回出場したが、その中で10位位内に入ったのは札幌だけ。まさに札幌五輪のために輝いたのである。北海道の余市高から明治大を経て、ニッカウヰスキーに入社。ニッカでは東京本社広報部長や北海道支社副支社長を務めて1999年に退社。その間に国際審判員の資格を取り、IOC理事、2010年のバンクーバー五輪選手団副団長を務めた。2018年に文化功労者。
 (笠谷幸生)
 アメリカンフットボールの元スター選手O・J・シンプソンが10日死去、76歳。南カリフォルニア大学で活躍し、1969年にドラフト1位でバッファロー・ビルズに入団してプロ選手となった。プロとしても素晴らしい成績を挙げたが、僕はルールもよく知らず何も言うことはない。この人に関しては、もちろん94年に起こった元妻とその知人を殺害した容疑で起訴されたことで知ったのである。刑事事件としては翌95年に陪審員が無罪の評決を出した。(民事では責任が認定され多額の賠償金を命じられた。)その後、2007年にラスベガスのホテルの部屋に銃を持って押し入り、記念品などを奪ったとして逮捕された。有罪となり不定期刑で収監されたが、2017年10月に仮釈放されていた。あれ、そんな事件があったっけ。
(O・J・シンプソン)
 物理学者のピーター・ヒッグスが8日死去、94歳。2013年にノーベル物理学賞を受賞した。エディンバラ大学名誉教授。1964年に南部陽一郎の理論を発展させ「ヒッグス粒子」の存在を予言した。様々な素粒子が発見されたが、長くヒッグス粒子だけ未発見だったが、2012年にスイスのCERN(欧州合同原子核研究所)の巨大加速器を使った実験で発見された。ではヒッグス粒子とは何か、どのような理論から導かれたものかは、手に余るので自分で調べてください。
(ヒッグス)
 元カネボウ会長、日本航空会長の伊藤淳二が2021年12月19日に死去していたことが明らかになった。99歳。20年前なら一面に載った訃報だろうが、長命すぎて忘れられただろう。1968年に45歳でカネボウ(当時は鐘淵紡績)社長に就任し、経営多角化、労使協調の経営路線で注目された。1985年に中曽根首相の要請で日航副会長、翌86年に会長となった。しかし、労使対立が深刻化して87年に道半ばで退任した。山崎豊子『沈まぬ太陽』、城山三郎『役員室午後三時』のモデルとされ、ある時期まで日本で最も知られた会社経営者だった。しかし、カネボウは2007年に粉飾決算が発覚して破綻した。(現在も残る化粧品会社はは花王の子会社として残ったのである。)日航も後に破綻し、結果的に伊藤淳二は失敗した経営者となってしまった感がある。
(伊藤淳二)
 歌手、俳優の佐川満男が12日死去、84歳。当初はロカビリー歌手として成功し紅白歌合戦にも2回出場。その後病気で低迷した後、1968年に「今は幸せかい」が大ヒットして、紅白に返り咲いた。1971年には歌手の伊東ゆかりと結婚し、子どもも生まれたが1975年に離婚。一端芸能界を引退したが、80年代から関西を中心に俳優活動を中心にカムバックした。以後大阪制作の朝ドラや旅番組などに出演した。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。
(佐川満男)
 ルドルフ・シュタイナー研究の第一人者として知られる高橋巖が3月30日に死去した。95歳。慶応大学で学び、西ドイツに留学した。帰国後慶大教授となったが、1973年に退職。「異端」であるシュタイナー研究と普及に全力を捧げるため、アカデミズムを離れたのである。以後、ルドルフ・シュタイナーの著作を翻訳するとともに、神秘学やシュタイナー教育に関する著作を数多く発表した。1985年に日本人智学協会を設立し、一生をシュタイナー紹介に努めた人だった。
(高橋巖)
日本史研究者の訃報が二人。中世史の元木泰雄が9日死去、69歳。京大名誉教授。院政期から鎌倉時代が専門で、『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)や『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011)はとても面白かった。また古代史の笹山晴生が12日死去、91歳。東大名誉教授。律令制下の兵制が専門だが、平安京に関する一般書や教科書も執筆した。小泉政権の「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーだった。僕は単著は読んでないと思う。
外国の映画監督の訃報が二人。エレノア・コッポラが12日死去、87歳。フランシス・フォード・コッポラの妻で、娘のソフィアは映画監督、息子のロマン、ジャン=カルロも俳優や製作者など映画一家で知られている。『地獄の黙示録』のメイキング『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』と劇映画『ボンジュール・アン』を監督している。フランスのローラン・カンテが26日死去、63歳。『パリ20区、僕たちのクラス』が2008年にカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。日本でも公開され評判になったが、他の作品は正式公開がなく全然知らない。
・ヴェトナムの現代美術家、ディン・Q・レが6日死去、55歳。ボートピープルとして子ども時代に渡米したが、後に帰国。戦争の記憶を扱う作品で世界的に評価された。3月に訪日して作品を製作したという。イタリアのファッションデザイナー、ロベルト・カバリが12日死去、83歳。ヒョウ柄など動物柄で人気を得て、服だけでなく時計、アクセサリーなどのブランドを展開した。
・海岸工学の創始者、堀川清司が18日死去、96歳。津波や海岸浸食などを研究した。文化功労者。東大名誉教授。東大退官後の埼玉大学で学長を務め、誘拐未遂事件にあったことがある。政治評論家屋山太郎が9日死去、91歳。
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フジコ・ヘミング、星野富弘、桂由美、P・オースター他ー2024年4月の訃報①

2024年05月06日 19時25分30秒 | 追悼
 2024年4月の訃報特集。1回で終わるかと思ったら、最後になって重要な訃報が相次いだ。タイトルに挙げた4人はいずれも5月になって報道された人である。1回目は文化関係者をまとめて。まずピアニストのフジコ・ヘミングが4月21日に亡くなった。92歳。そのドラマティックな人生は大きく報道された。父親はスウェーデン人、母親が日本人で、1931年にベルリンで生まれた。5歳で日本に移り、戦時中は岡山に疎開、その後青山学院高校、東京芸大を卒業した。若き優秀なピアニストだったわけだが、その後留学しようとしたら無国籍だったことが判明した。難民として西ドイツに留学し才能を認められたが、風邪をこじらせて左耳の聴力を失った。それ以前に右耳の聴力も失っていたのである。その後はスウェーデンでピアノ教師をしていた。
(フジコ・ヘミング)
 母親の死後、1995年に帰国。1999年2月にNHKで「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映され、多くの人がこの人の存在を知ったのである。デビューCD『奇蹟のカンパネラ』(パガニーニのヴァイオリン協奏曲のロンドをリストが編曲したピアノ曲)は200万枚の大ヒットとなった。若い人ならともかく、聴力を失いながら(その後左耳は40%回復)高齢になって大ブレイクしたのは印象的である。最近はあまりクラシックのコンサートに行かない僕も上野の文化会館に聞きに行ったものである。まあ何を聞いたか忘れてしまったが。2023年11月に転倒するまで、世界各地でコンサートをしていた。晩年に円熟した人だった。
(CD『奇蹟のカンパネラ』) 
 口にくわえた筆で絵や詩を創作した星野富弘が28日に死去、78歳。もともとは群馬県の中学で体育教員をしていた。しかし、採用初年度の1970年に体操部の指導中に転落事故にあい、脊髄損傷で首から下の身体機能を失った。1972年に口で絵筆を動かして表現活動を始め、74年にはキリスト教に入信した。80年代に「花の詩画展」を全国各地で開催して大きな感動を与えた。評判を呼んで、91年には東村(現みどり市)立富弘美術館が開館した。草木湖畔に立つ美術館には多くの人が訪れている。足尾に通じるわたらせ鉄道沿いの地区で、僕も行ったことがある。人生というものはどこで道が分かれているか、計り知れないということをこの人の人生は教えてくれる。素直に感動した美術館である。
 (星野富弘)
 ファッションデザイナーの桂由美が26日死去、94歳。デザイナーといっても、この人はブライダルデザインに特化していた。洋装のウェディングドレスを日本に定着させた人である。一時は文学座研究生になるなど演劇を目指していたが、後にファッションを仕事に選び、誰もやっていなかったブライダルデザインを選択した。戦時中に育ち、戦後の憧れだったウェディングドレスを「一ヶ月の給料で買える」ようにしたいと思ったのである。ヨハネ・パウロ2世に博多織の祭服を献上したこともあった。政治的には保守派で「日本会議」のメンバーだったという。死去数日前に「徹子の部屋」収録を行っていた。
(桂由美)
 アメリカの重要な作家二人が亡くなった。まずポール・オースターが30日に死去、77歳。日本では柴田元幸訳で新潮文庫に収録されている。『孤独の発明』やニューヨーク3部作(『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)などは、ある種前衛ミステリー風で取っつきにくい印象がある。しかし、そこで終わらせてはもったいない。『ムーン・パレス』(1989)は最高に心打つ青春小説だし、『偶然の音楽』『リヴァイアサン』も面白かった。もっともその後は買ってあるけど読んでない。
(ポール・オースター)
 映画にも深い関心を持ち、自身の短編を基にした『スモーク』(1995)の脚本を担当、また『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998)では監督を務めた。ボール・ベンジャミン名義で発表されたミステリー『スクイズ・プレー』(新潮文庫)は野球小説としても秀逸。都市生活者の孤独や憂愁を描き、日本でも人気が高い作家だった。『スモーク』は近年修復版が公開され、新宿東口映画祭で上映がある。タバコをめぐる綺譚だが、本人は肺がんで亡くなったのである。
(映画『スモーク』)
 アメリカの作家、ジョン・バースが2日死去、93歳。実験的な作風と物語を融合させた『酔いどれ草の仲買人』(1979)や『旅路の果て』『やぎ少年ジャイルズ』『キマイラ』などが代表作とされる。アメリカのポストモダン文学の代表者と言われるが、短編しか読んでないのでよく判らない。同じ日にフランスの女性作家マリーズ・コンデが死去した。90歳。カリブ系黒人だが、パリに学んでソルボンヌ大学を出た。ギニアの俳優と結婚してアフリカで活動したが、70年にフランスに戻り創作活動を本格化させた。世界的に高く評価されていて、『生命の樹 あるカリブの家系の物語』『心は泣いたり笑ったり マリーズ・コンデの少女時代』など邦訳もある。2018年にスウェーデンの市民団体が設立したニューアカデミー文学賞を受賞した。
(ジョン・バース)(マリーズ・コンデ)
 「ぼくら」シリーズで知られる作家、宗田理(そうだ・おさむ)が8日死去、95歳。この人を有名にした『ぼくらの七日間戦争』(1985)は、昔中学校の文化祭で演劇にしたことがある。その思い出が鮮烈なんだけど、今回Wikipediaで知ったそれ以前の「編集者時代」が凄かった。日芸映画学科に進み若い頃から脚本の助手をしたが、仕事が減って高利貸し森脇将光の「森脇文庫」の編集者となった。今じゃ知らない人が多いと思うけど、造船疑獄の端緒となった森脇メモは宗田が書いたというのである。その後PR会社を設立し自動車業界の裏情報を梶山季之、清水一行らに提供した。そして水産業界の裏を知って書いた『未知領域』が直木賞候補となって作家専業となった。「ぼくら」シリーズは中学生に始まり、高校生編、青年編、教師編と延々と何十冊も書かれ、累計発行部数2千万部と言われる。全然知らない前半生があって、それは忘れられている。
(宗田理)
 フランス文学者、文芸評論家、詩人の粟津則雄が19日死去、96歳。特に詩人ランボーの研究や翻訳で知られる。小林秀雄の影響を受け、詩や文学に止まらず美術や音楽などヨーロッパ文化について幅広く評論活動を展開した。正岡子規、萩原朔太郎など日本の詩人に関する本も多い。特に草野心平と交友が深く、草野心平記念文学館長も務めた。翻訳ではゴッホ書簡全集、ランボー全詩集、モーリス・ブランショなどがある。法政大学名誉教授。芸術院会員。
(粟津則雄)
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「TKB48」を知ってますか?ーより良い避難生活を目指して

2024年05月03日 20時50分35秒 | 社会(世の中の出来事)
 2024年は能登半島地震で年が明けたが、その後も台湾地震など大きな地震が起こった。四国(愛媛県南部)でも初めて震度6弱を記録する地震が起きた(4月17日)。死者が出なかったのは幸いだが、その分「激甚災害」の指定はない見込みで、被害があった人は自費で修理しないといけないから大変だという。激甚災害とは「激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律」により、大規模災害には国庫補助率のかさ上げや国による特別の貸し付けなどが行われる制度である。

 能登半島地震から4ヶ月経ったが、未だ避難所生活を送っている人が相当いる。水道の復旧が特に遅れていると言われる。それに当初の避難所生活は、トイレや食事が大変だったという話がよく聞かれた。「半島部」は交通が不便で、日本は地理的に離島、山間部、半島が多く、ある意味災害時は「そんなもの」で皆でガマンするべきものだと思い込んでいるかもしれない。
(TKBとは)
 ところが最近「TKB48」という言葉を聞いてビックリした。どうしても最初はどこかのアイドルグループかなと思ってしまう。あてはまる町の名前が思いつかないが、JKT48(ジャカルタ)なんてのもあるから、海外の町なのかなと思ったり…。だけど、これはトイレキッチンベッドの略なのである。災害地にトイレ、キッチン、ベッドを48時間以内に整備しようという目標である。それは行政頼りでは出来ない。もともと準備されていて、いざというときはヴォランティアが活動するのである。

 英語だからアメリカ発祥かと思うと、どうやらイタリアから始まったらしい。イタリアも地震大国で、大きな地震が何度もあったのを僕も記憶している。最初の避難所立ち上げは、市民がヴォランティア的に行うものとなっていて、行政が大々的な支援を行えるようになる前に一定の市民生活を送れるようにするのである。それは「災害時であっても、市民が普段営んでいる生活を保障する」という市民社会保護の考え方だという。
(災害時の高齢者向け介護施設)
 僕は聞いたことがなかったけど、日本でも多くの施設などでこの理念が広がりつつあるようだ。日本では二次避難、あるいは仮設住宅が出来るまで、雑魚寝したりするのが当然視されていないか。温かくないままの食事が続いても、あるだけありがたいと思ってないか。特にトイレが困ったという話をよく聞くが、それを「人権」の問題として意識しているだろうか。こう考えていくと、日本の避難生活が全く世界基準に達していないことが理解出来る。

 TKB48という言葉をもっともっと広める必要がある。知らない人も多いと思うから、是非広めていきたい。僕も最近聞いたばかりだが、福祉や行政の現場では知られているのかもしれない。だけど、一般的にはまだ知らない人の方が多いと思う。AKB48に似ているから、一度聞いたら忘れないだろう。もちろん言葉を知ることが目的ではなく、いざという時に自分も出来る範囲でヴォランティア的に避難所運営に関わるという気持ちが大切だと思う。仮設住宅を作るのは一市民では無理だが、避難所をすぐに作って運営するのは可能である。もちろん誰でも安心できるベッドやトイレが絶対に必要だ。
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これからどんどん大変になる遺産相続ー相続を考える③

2024年05月02日 22時19分42秒 | 自分の話&日記
 遺産相続を通して考えたシリーズ3回目(最後)。1回目は相続財産確定が大変な話。2回目は不動産があると自分では難しいという話。3回目は最後にまとめとして、相続が難しくなっていく様子を考えておきたい。相続は「相続財産額」と「相続人数」で決まってくる。この相続人数の確定もなかなか大変である。もちろん自分にとっては、相続人数は判りきっている。親と兄弟姉妹の数だから自分は知っている。しかし、本当にそうなのか証明せよと言われると、これが結構大変なのである。

 「自分が自分である証明」も昔よりはるかに大変になった。何でもかんでも「本人確認書類」がいる。昔はそんなものはなかったのである。母親が主に使っていた銀行は「みずほ」で、自分が使っている銀行は「三菱UFJ」だが、初めに預金したときの名前は別だった。親が家を買った東京近郊は僕の幼少期には田畑ばかりだったが、どんどん住宅や団地、商店が建ち並ぶようになった。地区の発展に合わせて、駅周辺に銀行が作られていった。それが「富士銀行」や「東海銀行」だったのである。

 まあ僕の世代なら、金融危機などがあって銀行がどんどん合併していった様子はよく覚えている。そして、僕は東海銀行に口座を作ったのだが、開いたのは母親である。中学だか高校だかの時に、勝手に作ったのである。親なら子ども名義ですぐに口座が開けたのである。僕の「本人確認」などもちろんなかった。まだ銀行カードもなかった時代である。今じゃ考えられない。

 ちょっと脱線したが、「相続人数を確定させる」とは、つまり父母に他の子どもがいないかどうかということである。そんな話は聞いたことがないけど、それを証明せよと言われると面倒なのである。結局は生まれた時から死んだ時までのすべての戸籍を集めるということになる。この話は前に書いたことがあるが、異様に面倒だった。旧憲法時代の生まれで、「家族制度」があったからである。今と違って「母の父親」も「戸主」の戸籍に入っていたのである。

 だけど、そんな人は知らないし、ひょっとすると祖父の名前や出身地も知らない人がいるんじゃないだろうか。自分の場合、祖父の戸主の戸籍に母の出生が記録されていた。その後、祖父が分籍して戸主となり、さらに結婚で(僕の)父親の戸籍に移った。その戸籍は父方の祖父が住んでいた市にある。結局全部集めると、何十枚にもなってしまうのだった。もちろん戸籍謄本を申請するときには、僕の本人確認書類が必要になる。

 銀行や証券会社で相続手続きを行う場合、原則的にはその「すべての戸籍」の提出が必要になる。じゃあ、何通取ればいいんだと思うが、それを解決する方法があった。「相続情報一覧図」を作って法務局に登録するのである。これは2017年に始まった「法定相続情報証明制度」で、まあ公式認定された家系図みたいなものである。自分でも出来るらしいが、相続手続きを頼む時に一緒に頼めば簡単だ。(もちろん5万円ぐらい別に必要になる。)ただ、これがあれば紙一枚ですべての相続情報を証明出来るのである。
(相続情報一覧図=見本)
 銀行の場合は、振込手数料が取られるが自分の(他金融機関の)口座に入金可能である。(もちろん同じ銀行に自分の口座があれば、手数料なしで振り込める。)しかし、証券会社の場合、自分も同じ会社に口座を開かない限り相続が出来ない。わが家は父親由来の不動産と株式があったので、手続きが増えていったのである。株や投資信託は毎日値が変動するから、売るかどうかの判断は相続人がするしかない。そして証券会社に新規口座を開くときにも、本人確認書類がいるわけである。(他に「反社じゃない」とか、「北朝鮮に住んでる相続人がいないか」などにチェックする。)
(証券類の相続)
 こうしてやってみると、相続手続きは今後どんどん複雑になっていくと思う。母親の世代だと「暗号資産」など持ってない。FXとかネットの株取引もやってない。ネット上で完結する財産があって、パソコンやスマホにもパスワードが掛かっていたら、財産があるかどうかも判らない。それが判っても、財産額をどう見積もれば良いのか。一応死んだ日の値段で決まるんだけど、株や円相場の変動が激しくて困ってしまう。それにしても、どんどん世の中が面倒になっていくものだ。

 僕の身近な知り合いでも、配偶者がいないとか、子どもがいない、あるいは一人っ子であるという人がかなりいる。そういう人の場合、相続人の確定が難しい。そして昔買ったままの株などが残っていると、処理が大変である。昔は「株券」という実物があった。今は株券もなくなって、デジタル化されている。(2009年に株券電子化が行われた。)高齢者の場合、逆に紙の株式が見つかることもあるかもしれない。「デジタル化」に遺産相続が対応仕切れないのである。

 今は死後10ヶ月以内に相続税を払わないといけない。これはなかなか難しくなるのではないか。自分の場合、不動産の納税負担者の基準が1月1日なので、まず不動産の相続を先に行った。続いて、所有株がたまたま3月決算だったので、3月末までに株の書き換えを行った。相続税は少し掛かるレベルだったが、2月末には払った。遺産分割協議書は不動産とそれ以外の2冊になった。そういうことも可能なのである。だが難しいケースを考えると、申告期限を死後1年に延ばす必要があると思う。また「無条件でパスワードを開示出来る」国家資格(「相続士」とでもいうか)も必要なんじゃないか。
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不動産があれば自分じゃ難しいー相続を考える②

2024年05月01日 22時15分44秒 | 自分の話&日記
 今回相続をやってみて、一番感じたのは「不動産の有無」が問題だということだ。遺言がない場合、相続人が二人以上いると「遺産分割協議書」を作ることが多い。なくても出来るかもしれないが、銀行などの相続手続きを頼むと提示を求められる。その協議書は司法書士に作って貰える。司法書士事務所は調べるとあちこちにあるから、最初は自宅近くの司法書士に頼みに行ったのである。そうしたら自分では出来ないと断られてしまった。それは不動産があったからである。

 不動産、つまり土地や家屋がある場合、司法書士には出来ないと言われたのである。司法書士が誰か紹介してくれるのかと思うと、相続に詳しい税理士を別に見つけて欲しいという。そこでネットで探して、総合的に展開しているサポートセンターに頼んだ。結果的にそれで良かったと思う。母親が良く行っていた銀座松屋デパートのすぐ裏に事務所があったのも何かの縁だろう。

 やって驚き、よく「権利証」が大事だと言われる。後生大事に取っている人が多いだろう。母親もわざわざ銀行の貸金庫なんか借りて保管していた。この貸金庫を開けるまでも大苦労だったが、今はそれは省略。そんな大事な権利証が今はないのである。僕も相続の時には権利証が必要になると思っていたが、全く不要だった。売却するには必要なんだろうが、相続には不要。

 そして今は「登記識別情報通知」というものに変わっていた。それは12桁の符号(パスワード)で、不動産及び登記名義人となった申請人ごとに決められるという。それの通知書が従来の権利証に変わったのである。このパスワードは封印されていて僕は知らない。売却することでもなければ開けない方が良いと書いてある。次の所有権移転時の本人確認用に必要という話。
(登記識別情報通知書=見本)
 これは知らない人多いんじゃないかと思う。この新しい登記方法も、その気になれば誰でも出来るというけど、シロウトだと何度も通うことになると大体書いてある。よほど頑張れる条件があればともかく、相続財産がある程度あるならどこかに頼む方が良い。信託銀行はなかなか手数料が高いから、ネットでいろいろ探した方がベターだと思う。
(相続登記が義務化)
 4月から相続登記が義務化されたのは聞いている人が多いと思う。当然のことだが、自分が住んでる不動産なら登記はするだろう。と思うと能登半島地震のニュースでは何代も登記せずにいたという話が出ていた。都市居住者の場合、売買がひんぱんだから登記はしていることが多いはずだ。登記すれば、その人に固定資産税の納税通知書が送られてくる。大事なのは権利証よりこっちで、きちんと取って置く必要がある。親と別居している人は気を付けていないと後で困る。

 ところで僕の世代だと親が不動産を取得した人が多く、その住居で成人したケースが多い。女性の場合、80代を越えて90代、さらに100歳まで生きる人も多い。2023年は関東大震災(大正12年)から100年だった。つまり、大正末から昭和ヒトケタ生まれということになる。この世代だと、戦争と結核で大きな犠牲を被った。自分の両親もそうだが、そこを乗り越えられた人は壮年期に高度成長時代を迎えたのである。(戦争で男が戦死したので、結婚出来なかった女性も多かったが。)

 自分の場合、小中学校のクラスメートは大体自宅に住んでいた。都市近郊に育ったが、農業地帯がどんどん開発され、住宅地に変わっていった。同級生に農家もいたが、それより開発された住宅を買って移り住んだ人が多い。1970年頃にはほぼ高校に進学するようになっていて、同級生も二人を除き高校に進んだ。自分の場合、進学高校から大学へ進んだので、多分そこで出会った同級生も似たような境遇だと思う。典型的な都市中産階級である。

 その世代が買い求めた住宅が、いま相続時期を迎えているのである。僕の周りでも、多少遅い早いがあるのは当然だが、この10年ぐらいで親が亡くなった人が多い。自分は都市近郊で、そこに同居して住むことが可能だった。教員という地方公務員は、(交通機関が多い東京では)異動しても自宅から通勤可能だからである。これが地方出身者の場合、実家をどうするというのは大問題だろう。取りあえず自分の場合は、親が買った不動産の処理をしたわけである。
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全員に関係がある遺産相続ー相続を考える①

2024年04月30日 22時44分41秒 | 自分の話&日記
 高血圧の薬を飲むようになり、大腸ガン検診にも引っ掛かり、昨秋来頭上に暗雲が漂っているような気がしてきた。そして、この間母親の死去に伴う「遺産相続」をずっとやってきたが、これも面倒くさくて頭が痛い問題だった。大金持ちなら全部誰かに任せて、自分はハンコを押すだけで済むかも知れない。しかし、そんな金持ちじゃないので、出来る範囲のことは自分でやる気だった。しかし、どうしても自分じゃ出来ないこともあったので、外部に頼むことになった。で、どこに頼めば良いんだろう?

 自分が経験した「遺産相続」を通して、思ったこと考えたことを数回書いてみたい。まず「遺産相続は全員に関係がある」ということである。いや、ウチは大して財産がないから相続は関係ないと思う人もいるだろう。しかし、それは大間違い。どんな人でも何かしらの「財産」があり、ごく僅かしかない場合もあるだろうが、残された家族はその処理をしなければならない。もちろん「相続税が掛かるかどうか」という問題は別である。しかし、相続税には関係なくても、相続は発生する。

 そして、今後ケータイ電話ペットクレジットカード、スマホ内にあるが暗証番号が判らない暗号資産など、処理に困る「遺産」がどんどん増えてくると思われる。ちなみに、クレジットカードは暗証番号が判っていれば、(本人のフリをして)ネットで解約出来る場合もあるが、判らない場合は億劫。ネット上では難しく、電話すると何番を押せといろいろ操作して、「オペレーターにつなぎます」と言われて待つこと平均10~15分。それでも通じず何日も掛ける場合もある。

 スマホの解約も非常に大変で、本人が病気入院、施設入所の段階では、相談に行っても本人じゃないとダメ、または自筆の委任状がないとダメと言われることが多いと思う。ウチの場合も「ケータイ電話は重いから持って行かない」と本末転倒のことを言い出してから、10年以上払い続けていた。結構高いわけだから、少なくとも入院した段階で解約したかったが、どうせメンドーなこと言われると思って行かなかった。ちなみにさすがに死んじゃえばすぐに解約出来ました。
(相続税の控除範囲)
 「相続税」はいくらぐらいから掛かってくるのだろうか。知ってる人(経験した人)には周知のことだが、関係ない人は知らないだろう。僕も調べるまで知らなかった。まず「基礎控除が3000万円」で、それにプラスして「相続人数×600万円」が控除となる。つまり、父親が死んで、母親と子ども二人が相続人の場合、3000万+600万×3=4800万円が控除。その母親が死んで、子ども二人が相続する場合は、4200万円が控除。それ以下の場合は、相続税は掛からない。だけど、税務署に相続税ゼロという申告は必要だ。不動産と預貯金、有価証券などで6千万あったとすると、先の控除額を引いた額が相続税の対象となる、
(相続税額) 
 今の例で言えば、母と二人の子で相続する場合は、6千万-4800万=1200万円が相続税対象額となり、1000万を超えてしまったので15%となる。つまり1200万の15%=180万を相続分に応じて支払うことになる。これが相続額5千万だった場合は、無税となる。15%になるのは1000万~3000万だから、総額7800万を超える場合に20%になる。大体はそんな範囲に収まるんじゃないだろうか。6千万の財産を家族3人で相続するなら、合わせて180万ほど納税するというのは、そんな高いわけでもないと思う。

 ところで、では「相続財産額」はいくらぐらいになるのだろうか。預貯金や有価証券類、生命保険は大体判るだろう。だが不動産金などの宝飾品ブランド物などをどう評価するべきか。不動産の問題は次回に回し、ここでは預貯金有価証券類について考えたい。今はネット上だけで完結する預金、株、投信信託なども多いが、母の世代だと預金通帳があるから探せば存在は判明する。(株や投資信託などは、ちゃんとした会社なら報告を随時送ってくるから、それを取っておけば判る。詐欺の場合は、正式な書類を送ってこないはず。)だが、それだけでは済まないのだ。

 きちんとした相続サポート事務所(信託銀行や税理士など)に頼むと、「正規の残高証明書」が必要になるのである。今、預金口座はほぼ全員持っているはずだ。よくニュースなどで「年金だけでは食べていけないから大変」という声が聞かれる。ということは、少なくとも年金を振り込む預金口座はあるわけだ。コロナ禍の国民給付金も振込みで貰ったはずである。その口座を閉じないといけない。役所と民間企業の銀行は情報が連動しない。銀行に「死んだ」と伝えない限り、口座は生き続ける。(だから、年金振込みや公共料金、カード代支払いなどが終わるまで口座を残しておく方が良い。)

 注意が必要なのは、カードの暗証番号を知っていて死後に引き出した場合、相続放棄が出来なくなることだ。親が借金を抱えて死んだ場合、放棄する必要があるかもしれない。それにしても、入院費用、葬儀費などを親の口座から出すのは可能。だけど今は窓口で引き出すのは難しい。カードの暗証番号を知っていて、本人の委任を受けたということで引き下ろすしかない。そのためには、親の認知能力が怪しくなる前に、カードの保管場所と暗証番号を教えて貰っておかないといけない。

 そして死後に「残高証明書」を発行して貰う。これが面倒で、即日発行されるのは郵便貯金だけだと思う。(郵便局は身近にある場合が多く、今回郵便貯金の便利さを感じた。)銀行や証券会社の場合、「発行依頼」がいる。ある銀行はネットで来店予約が必要と言われ、見てみると最短でも2週間先。行って依頼書を出しても、発行まで2週間掛かると言われた。つまり、それだけで一ヶ月を空費したのである。またある銀行は「残高証明書発行料」が掛かるという。それが2千円もするというから呆れてしまう。

 証券会社にも一つずつ電話して依頼したのである。えっ、いくつ銀行や証券会社と取引しているんだという感じだが、これは恐らく多くの高齢者にあることじゃないかと思う。バブルとバブル崩壊を体験した世代である。あちこち転勤が多かった人もいるだろうし、地元にずっといた人でもバブル期には無理やり口座を開いてくれ、国債を買わないかと押し掛けてきた。バブル崩壊後に「ペイオフ解禁」などと、銀行が破綻しても預金は一千万しか払い戻さないと言われた。その頃退職金や遺産相続、土地売却などで何千万か手にした場合、銀行数社に分散したものである。これが80代、90代の親によくあることで、今子どもが苦労するわけ。
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ポリープ切除で、短期入院ー大腸ガン検診で内視鏡検査体験記

2024年04月29日 20時22分09秒 | 自分の話&日記
 ゴールデンウィーク前半に3日間更新しなかったが、どこかへ旅行していたわけじゃない。大腸ガン検診で引っ掛かって、「内視鏡検査」を受けたところ、思わず大きなポリープが発見され切除したのである。小さければ日帰りも可能なのだが、二泊三日の入院になってしまった。その間食事禁止で点滴と飴だけ。ポリープは病気じゃないので、予後が普通なら予定通り退院になって、今朝方9時過ぎに退院してきた。家のフトン(エアー)はやっぱり気持ちいいなあ。

 大腸ガンは非常に増えているという。40代から増えてきて、ガンによる死因の中で、女性1位、男性2位である。男の1位は肺がんだから、喫煙率が下落すれば大腸ガンが上回るだろう。特定健診では大腸ガン検診を受けようという案内が必ず入っていると思う。知ってる人が多いだろうが、検便を2回やって「便潜血反応」を調べる。実は前にも引っ掛かったことがあるけど、それは2回のうち1つだけだった。それでも受けた方がいいんだけど、大体は「気付かない程度の痔」が多いらしい。身近にやった人もそういう場合が多い。だからついやらずに来たけど、昨年は2回とも陽性反応が出たのである。

 これはそろそろやらないといけないなと思って、予約したのが11月中旬。ところが、その予定日直前に脳梗塞で入院になってしまった。仕方ないから一端キャンセル。その後、寒いから先延ばししていたが、ようやく電話したら結構いっぱいで4月下旬になったわけである。検査を受けるには、ただ病院に行けば良いというもんじゃない。前々日から下剤を服用し、前日は消化が良い特別の「検査食」を食べなくちゃいけない。これは病院で事前検診を受けたときに、買ってきた。1500円。ハンバーグとクリームチキンシチューとビーフシチューがあると言われた。ハンバーグにしたが江崎グリコが作っていた。
(検査食)
 さらに当日の朝に、水に溶かした特別な下剤を服用する。水を1800ミリリットル入れて、それを10分おきに200ミリリットルずつ飲むのである。タイマーで計りつつ飲んでいくと、やがて水のような便になってキレイになる。つまり当日は食事抜きで行くわけだが、まあ緊張していることもあるのか空腹感はなかった。そして時間になると着替えをして検査室へ。鎮静剤を使うから痛いということはなく、意識もはっきりして内視鏡で自分の大腸も見られた。そして、ここに大きなポリープがありますねと言われて、これを取るので二泊三日の入院と言い渡されたわけである。

 ポリープというのは、『皮膚・粘膜などの面から突出し、茎をもつ卵球状の腫瘤』と出ていたが、要するに体の中に出来た腫れ物(大腸以外もある)。それ自体は病気じゃないが、悪性だとそこからガンに転化することがあるわけ。そういう段階じゃないので、写真で見ても色がキレイ。しかし、大きさはかなりあったので、この段階で取って良かったと思った。切除手術も簡単で、何の痛みもない。そこをクリップで留めて終了。このクリップは自然排出されるという話。ポリープの写真もくれたが、見たい人もいないだろう。
(大腸)
 上記画像の中で、直腸に近いあたりに出来ていた。その切除部が出血しないように、しばらく食事禁止なんだろう。昨年はHCUというとこに入って、全く動けなかったが、今回は個室があったのでそこにした。個室は高いが、まあ2泊と判っているから、そっちを選択。トイレがいつでも行けて、テレビも自由に見られるから、やはり個室の方が気楽なのである。実はお風呂もあったけど、これは使えない。となると、食事、風呂なしの素泊まり・トイレ付としては、ビジネスホテルの倍以上したかなあ。

 早く帰りたいと思ったが、自由に押っ放すと「アルコール消毒だ」などと言ってお酒を飲んじゃう人もいるんだろう。食事抜き、お酒なども禁止では、病院で点滴しないとダメなんだろう。だけど点滴中は動けないので、体が固まってしまう。入院すると思ってなかったので、もうすぐ読み終わる本しか持ってなかった。充電器もないから、スマホを見まくるわけにもいかない。まだ面会は禁止だが、家から持ってきて貰うことは可能。でも2泊だから、着替えも充電もガマンしようかと思った。テレビしか娯楽がない。衛星放送も見られたので、大谷の試合を見た。

 ということで、突然の短期入院。全然元気だが、しばらく(一週間ぐらい)辛いもの禁止だと書いてある。これは困った。まあ甘いものは普段より多く取れとあるから、スイーツを楽しむしかないか。それにしても、きちんと検査は受けるべきだと痛感した次第。僕は昔から肉はそんなに食べないんだけど、なぜか高脂血症気味の数値が出る。体質なのかもしれない。日本人の食生活が洋風化してきて、大腸ガンが増えていると聞いた。日常生活も気を付けなくちゃいけないなと改めて思った。
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教員の「出願ミス」という問題ー東京では起こらないニュース

2024年04月25日 22時34分18秒 |  〃 (教育問題一般)
 「クラス替え」に続いて、「願書の提出ミス」という問題を考えたい。これは時々報道されているから、各地で起こる問題なんだろう。『「教師の事務的ミス」という大問題』を2015年に書いたことがある。教師も人間なんだから、当然幾つかのミスを避けられない。自分も同様だけど、進路先の出願を忘れてしまうという致命的ミスは起こさなかった。当然である。東京では高校の出願には生徒本人が行くことになっているから。東京から見ると、何で学校がまとめて出願するのか理解出来ない。

 全国各地の学校には様々な慣習があって、学校にも「謎ルール」がいっぱいある。最近新聞で見てビックリしたのは「水滴チェック」。「修学旅行などの宿泊行事で入浴後、教員が児童生徒の体がぬれていないか全裸の状態で確認する「水滴チェック」と呼ばれる指導」だそうである。何それ? 今どきやってたらセクハラ、パワハラとか問題になりかねない。僕は生徒の時も、教師になっても、こんなことを経験したことはない。大体「体がぬれていないか」なんて、どうでもよい問題である。

 今回の出願ミスは福岡県の私立高校で起きたという。なかなか複雑な背景がありそうだが、まあ一応「解決」したようだから、ここでアレコレ書くこともないだろう。そもそも今回の希望校は「公立」ではあるが、県立ではないという。全国で3つしかない「組合立高校」なんだという。もちろん教員組合が作った学校という意味じゃない。市町村が連合して作った「学校組合」が設置した高校なのである。その由来はどうでも良いけど、問題はその高校の出願日が県立高校とは別の日だったという。大体の生徒が内部進学する私立中学だったらしく、教員も外部受験に関して経験が少ないんだろう。(だからミスしてよいわけじゃないけど。)

 このようなミスを防ぐ方法は一つしかない。それは「生徒本人が願書を提出しに行く」ことである。自分の経験ではそれが当たり前すぎて、学校がまとめて出願するなんて発想が浮かばない。本人が病気などで行けない時は、保護者が行っても良い。一端当日に登校させて、調査書などを渡したあと、一斉にスタートしたように思う。だから、どうして学校がまとめるのか不思議なんだけど、考えてみると「交通事情」かもしれない。朝の登校時間を逃すと、電車もバスもほとんどないという地域も多いだろう。

 しかし、全県的にそういうわけでもないはずだ。試験日には実際にその学校に行くわけだから、出願も本人が行くべきなんじゃないか。あるいは「授業確保」という意味もあるのかもしれない。だけど、進路先への出願は「私事」である。出願に必要な書類(調査書等)の作成、あるいは進路先決定の支援は、教員の仕事そのものである。だが進路先そのものは本人(と家庭)が決めるべきものだ。「学校でまとめて送る」となると、教員の指導、つまり「落ちる可能性があるからランクを下げるべきだ」に生徒が抗しにくいのではないだろうか。

 これからは「インターネット出願」が増えてくるのだと思う。課題も多いだろうが、そういう方向に移っていくと思う。コロナ禍で「郵送」も多かった。学校が郵送するのではなく、生徒個人が郵送するわけである。だけど、試験日の練習の意味でも、実際に行く意味はある。自分の時は都立高校が「学校群」の時代だった。2~3の高校をまとめた「群」を受けるのである。その際、出願指定校と受験校が違うことがある。僕の場合、出願が白鴎高校、試験が上野高校だった。上野高校を見ておこうと出願した仲間同士で行ってみた記憶がある。学校説明会なんかある時代じゃなく、白鴎も上野もその日初めて行ったのである。
(東京のネット出願のイメージ)
 ところで風間一樹というミステリー作家がいた。結構好きだったんだけど、1999年に56歳で亡くなってしまった。今では文庫本にも残ってないだろう。風間一輝(名義)の最初の作品は『男たちは北へ』(1989)だが、この小説では「中学のミスで都立高校を受けられなかった」高校浪人が自転車で国道4号線を北へ向かう。それとともにある「謎」を秘めた男たちも、北を目指していく…という設定である。面白い本なんだけど、以上の説明の通り、都立高校では「中学の出願ミス」は起こらないのである。

 前回書いたクラス替え問題では、これは前にも書いたことがあるが、岩井俊二監督の傑作映画『Love Letter』の問題がある。小樽の中学校で、男女で同名の生徒が同じクラスにいたことから起こる物語である。とても良く出来ていて、中山美穂も最高。だけど、2年4組に「藤井樹」(ふじい・いつき)という同名生徒が男女ともにいたという設定はおかしいだろう。もし事前に誰も気付かなかったとしても、事後にやり直すレベル。何しろ4組まであるんだから、絶対に離すはずである。

 つまり映画や小説に「学校」が出て来たときは、あり得ない設定が多すぎるのである。物語の効果のために、学校のリアルを無視している。カンヌ映画祭脚本賞の是枝裕和『怪物』にも疑問があった。もちろんもともとファンタジーみたいな設定の話ならどうでもよい。だけど、やはり学校のリアルを追求する場合は、誰かアドバイザーを頼むべきだと思う。
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クラス替えはどうするのか②ー様々な配慮を積み重ねて

2024年04月24日 22時50分06秒 |  〃 (教育問題一般)
 「クラス替えはどうするのか」の2回目。1回目では「まず成績順に並べてみる」と書いた。これはおおよそどこの学校でも同じだろうと思う。そこから、いろいろな「配慮事項」を検討していくことになる。おおよそ「要配慮生徒の扱い」「リーダー生徒の扱い」「その他の事項」になるだろう。クラス替えをやり直したというのも、その「配慮」に欠けた点があったということらしい。

 検索していると、「保護者が要望を出して良いのか」という悩みがかなり出てくる。教師がすべて気付けるわけではないから、気に掛かることは伝えた方が良い。1年生の担任が異動して、2年生から新たに担任に入ったようなケースも多い。1年生の時に起こった問題を知らないわけだから、言っておく方が良い。担任に直接言いにくかったら、学年主任や管理職に伝える手もある。学校側は「様々な条件があるので、必ず要望に応えられるとは確約出来ないが、必ず議論して連絡します」と答えるべきだろう。

 さて「要配慮」にも幾つもある。まず最初が「生活指導案件」。多くの中学校では何かしら生活指導上の問題が起こっている。ケンカ、喫煙、いじめ、万引きなどなど。なければいいけど、それでも多少は「ボス的存在」と「子分的存在」(いわゆる「使いっぱ」)が形成されるものだ。良い悪いというより、それが思春期集団というものだろう。だけど学校としては、その集団を「解体」することになる。ボス的存在を別々にしなければ、そのクラスの勉強が成り立たない。ボスと子分を離すのも当然。

 さらに重要なのは、「障害生徒」「不登校生徒」が一クラスに偏らないようにすることである。これは担任の負担平等化である。障害のある生徒は今は「特別支援」という仕組みもあるが、昔はクラスの中に混じっていたことも多い。身体障害、知的障害(傾向)は判るが、かつては「発達障害」の理解が不足していた。当然「自閉症」「学習障害」「ADHD(多動性障害)」、あるいは「緘黙」などの生徒もいたと思う。「不思議な生徒」扱いされていた感じだろうか。「不登校」も昔からあった。

 ところで、「分ける」「離す」と言うけど、具体的にはどうするのか。まあ、4クラス程度あれば、自然に別々になることが多い。それでも同じになっていた場合、「同成績グループ」どうしで交換することになる。しかし、交替可能生徒がまた別の要配慮生徒だったりして、ひとり動かせば玉突き的に大幅な変更になる場合もある。その場合は上下の成績グループで変更可能性を探るしかない。将来はAIでやるのかもしれないが、昔は「紙の生徒名簿」を作って並べ替えていくことが多かったと思う。

 もう一つ「お世話生徒」の問題がある。病弱や障害生徒には、家も近く小学校時代からプリントを届けたり、旅行行事で一緒のグループになったりしてきた生徒がいるものだ。これが難しくて、思春期を迎えると「そろそろ離れたい」と思っていたりすることもある。クラス内で「低位」の生徒を「お世話」していると、自分も「高位」集団に入れない。一方お世話される生徒の方にも「自立」志向が出て来たりする。その問題で保護者から要望されることも多いと思う。僕はざっくばらんに生徒に聞くのも有りだと思う。ちゃんと頼めば、(どっちの場合でも)納得してくれるんじゃないか。

 さて次は「リーダー生徒」である。本当はこれが一番重要だと思う。各クラスには生活面でリーダーになる生徒が必要だ。委員決めや旅行の班分けで、延々と時間を取るわけにいかない。それに3年生だと生徒会役員がいるはずで、普通はクラス委員にはなれない。だから生徒会役員ばかり集まらないように配慮する。またリーダー生徒にも相性があり、やる気があっても打ち消しあってしまうことがある。異性が気になる年代でもあり、リーダーどうしがうまく行くかという問題もある。

 また「行事リーダー」という問題もある。「運動会」にはクラス対抗リレーがあるから、各クラスの足の速い生徒が何人か必要だ。中学では「合唱コンクール」があることが多いだろうが、ピアノ伴奏が出来る生徒が最低一人いないと困る。その他考え始めれば切りがないが、これらのことを考えて当初の案を変えていく。最終的に何が最適か、やってみないと誰にも判らないが、事前にいろいろと練っておくべきのである。

 最後に「その他の問題」。まずは「双子やいとこは別クラスにする」。また4クラス程度あれば、必ず「佐藤」「鈴木」などの生徒が複数いる。出来れば別が望ましいが、同学年に5人以上いれば、どこかのクラスに2人入る。その場合は出来れば性別が違うといいけれど、あまり変えるのも大変ならやむを得ない。それと「旧クラスから最低でも数人入れる」。旧クラスといっても仲が良い関係ばかりじゃないけど、それでも同クラスの人数は数える。中学だと複数の小学校から来ていることが多いが、「卒業小学校別人数」もばらける方が良い。家庭訪問時に同一地区ばかりじゃ不公平になる。
(クラス替えの地域差)
 まあ挙げればもっとあるかもしれないが、およそこんなことを考えるのである。多分「クラス替えの実証的研究」はないんじゃないかと思う。探すと小学校の場合だが、地域差があるという地図が出て来た。その理由などは不明である。実際のクラス替えは、個人情報的観点からはっきりと書けない部分がある。それにいくら配慮したつもりでも、何か忘れてしまうことがある。複数で確認するが、いやあ、しまったという経験もある。だけど、長い目で見れば、新しいクラスが形成されるにつれ、新たな人間関係を作っていくことが多いだろう。教師や親が心配し過ぎない方が良いのかもしれない。
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クラス替えはどうするのか①ーまずは「成績」で分けてみる

2024年04月23日 22時23分16秒 |  〃 (教育問題一般)
 新書本の感想だとどうしても対象テーマが堅くなる。書く方も飽きて来たので、違うテーマで少し。ブログ開設からしばらくの間は、教育問題を書くことが多かった。教育行政への怒りが書くエネルギーとなっていたわけ。自分で読み直すと、案外いいこと書いてるじゃないかと思ったりする。もう教員を辞めてから長くなって、「教育」について書くなら早いうちにと思う気持ちがある。(なお「教育政策」に関しては、国民誰もが発言して良いから別扱いになる。)

 今回は「クラス替えはどうするのか」を書いてみたい。某県の中学校で、一端発表された新クラスが撤回され、クラス替えがやり直しになったとか。これは極めて珍しいケースだと思うが、今までにあったとしてもニュースになってないのかもしれない。新学期になって、突然新しい転入生が来ることになって、その一人のために基準を上回って1クラス増えたという話なら聞いたことがある。しかし、その場合も春休み中(生徒への発表前)にやり直したという話だったと思う。

 自分もかつて中学や高校の勤務時に、何回かクラス分けを経験したものである。もちろん自分が通っていた時代にもあった。昔の小中学校では結構「クラス替えなし」(担任ごと持ち上がり)が多かったと思う。自分の小学校時代は、3年、5年になるときと2回しかクラス替えがなかった。中学は2年になった時だけだった。(高校は毎年。)しかし、自分が教員になったときは、「毎年クラス替え」が一般的になっていた。校内研修で誰かエラい人が来て、「担任と合わない生徒もいるから、毎年シャッフルする必要がある」と言っていたと記憶している。

 高校の場合は、特に一年生の時は「芸術選択」(音楽、美術、書道)で分けるのが普通だ。また専門高校(特に工業高校)の場合、少人数の学科が多くもともと卒業まで1クラスという学校も多い。進学校でも3年間同じクラスという例があるようだ。自分の経験では、夜間定時制高校では「単学級」校だったから、クラス替えをやれなかった。また単位制高校では授業がひとりひとり別々の時間割になる一方、ホームルームは最後まで固定だった。つまり自分は21世紀になってからはクラス替えを経験してないのである。

 だから自分の経験はもう四半世紀以上前のことになるが、「クラス替え」について書いてるブログなどもあって、今もほぼ同じだなと思った。以下は主に中学3年生を想定して書く。今は私立や公立中高一貫校へ行く中学生も多いだろう。また「学校選択制」などもあるが、それでも公立中学は一応「地域の生徒を幅広く集める」場所だろう。そうなると、成績を上中下で言えば、「中」が一番多い「正規分布」に近づくはずである。クラス替えの基本は、各クラスの成績を「正規分布」に近づけることである。

 中高の学習や部活動は、結局は「進路決定」に結びついていく。現実の進路決定と成績は完全にリンクはしないが、一応「成績上位生徒の方が進路決定がうまくいく」蓋然性が高い。また中学では「学習系行事」も多いし(スペリング・コンテストなど)、今は全国学力テストもある。また定期テストでは「クラス平均」を出すことが多い。最初から低学力生徒が多かったら、学習集団として成り立たないだろう。ということで、まず最初にやることは「成績順に分けてみる」ことである。

 「成績」といっても何を基準にするか。昔は「業者テスト」を校内で行って、それを基準にしていたことが多いと思う。ある時から使えなくなって、今は「評定合計」が多いのかと思う。つまり「5」「4」など各教科の成績を足した数字である。それでも何教科を対象にするか、1年の成績を加えるかなどヴァリエーションがあるだろう。それを全員分並べて、高い方から並べていく。4クラスだとすると、「1位から4位まで」を第1グループとして、「5位から8位まで」の第2グループは折り返して並べる。つまり5位を4位の下に置き、そこから6位、7位、8位と置いて、次はまた折り返していく。それを繰り返すわけである。
(4クラスの場合)
 今はパソコンですぐ出来ることも、昔は手作業で出していた。それでも80年代半ばになると、パソコンに強い教員が駆使してすぐに作っていたかと思う。ところで、今は男女混合名簿の場合が多いと思うが、クラス替えのデータは男女別に作るだろう。体育の授業は性別で行うからである。(「技術・家庭」は昔は男女別だったが、今は共通カリキュラムになってるという話。)この成績順名簿がまず最初に作る基本データで、いろいろな配慮事項によって新しいクラスが作られていく。

 案外長くなってしまったので、一端ここで切って「様々な配慮」でクラスが作られていくところは次回に回したい。ところで、この「クラス替え」は誰が担当するのかという問題がある。それは「学年団」の仕事だが、場合によって担任教員が新年度に変わることがある。特に2年生になるときは、異動する教員がいるものだ。異動内示、新校務分掌提示が終わって、その時点の旧担任団が「成績順データ」を作る。おおよその配慮事項を考慮した「原案」を春休み中には完成させる。最終的には4月初めに「新担任団」の学年会議で、持ちクラスを含めて決定するという流れが普通だろう。

 今後は少子化で1クラスの学年、あるいはせいぜい2クラスという学年も多くなると思う。そうなるとクラス替えが出来ない。2クラスあれば替えられるが、「こっちか、あっちか」という問題になる。そこも含めて、クラス替えがうまく行くかどうか、そこに学年団の力量が見えてくると思っている。
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日米地位協定を考える2冊の新書ー『日米地位協定』『日米地位協定の現場を行く』

2024年04月22日 23時00分55秒 | 〃 (さまざまな本)
 日米地位協定を考える2冊の新書。まず山本章子宮城裕也日米地位協定の現場を行くー「基地のある街」の現実』(岩波新書、2022)を読んだ。今まであまり「沖縄の基地問題」や「日米安保条約」などの記事を書いていない。世界のすべての社会問題を書けないので。でも問題意識は持っていて、新書レベルなら買って勉強したいと思う。著者の宮城氏は毎日新聞記者で、山本氏は琉球大学准教授。その山本章子氏は『日米地位協定』(中公新書、2019)で石橋湛山賞などを受賞したと紹介されていた。果たしてその本を読んだのか、買ったけど読んでないのか。そうしたら他の本を探した時に出て来たのである。

 『日米地位協定の現場を行くー「基地のある街」の現実』というのは、まさに題名通りの本で「基地のある街」現地ルポである。宮城裕也氏(1987~)は沖縄県宜野湾市生まれで、沖縄国際大学卒業後、毎日新聞に入社した。つまり沖縄の「基地問題」を身近に知っていて、本土の青森県などで勤務したのである。青森赴任時は米軍基地のある三沢を訪れ取材を重ねてきた。その他に首都圏の厚木基地や山口県の岩国飛行場、そして自衛隊築城基地新田原基地、種子島近くの馬毛島、沖縄の嘉手納基地を取材してまとめたのがこの本である。各地の実情がよく判るので、読む価値がある。

 宮城氏が出た沖縄国際大学と言えば、2004年8月13日に起きた「米軍ヘリコプター墜落事件」を思い浮かべる人も多いだろう。宮城氏は高校2年生だったが、この事故がきっかけになって沖国大に進学して基地問題を学んだという。この事故は夏休み中だったので奇跡的に人的被害がなかったが、大学キャンパス内に米軍ヘリが墜落したのである。一つ間違えば大惨事になりかねなかった。それとともに、事故直後の米軍が一帯を封鎖して日本側の警察、消防、自治体関係者も中へ入れなかった。もっともその措置は「合法」である。「日米地位協定」があるからだ。さらにこの本で知ったが、国会審議を経ない「合意議事録」というのが根底にある。
(沖国大米軍ヘリ墜落事故)
 そのように米軍基地で起こることに日本側は発言権がないとなれば、全国で「民族派」の怒りが爆発するのかと思うと、もちろんそうではない。それどころか、この本で読むと「米軍基地とは共存していく」と思っている現地の声がかなりある。もちろん騒音問題などが揉めているところはあるが、全国各地で「基地は迷惑だから米軍は撤退して欲しい」と思っているだろうという思い込みは間違いなのである。それにしても、最近大問題になっている基地による水質汚染なども、日本とドイツでは対応が違うようだ。「国防」の名の下に「国民生活」が脅かされる。帯にあるように「日米同盟のもうひとつの姿を映し出す」本である。
(山本章子氏)
 じゃあ、その地位協定とは何だろうかと問うときに、山本章子日米地位協定』(中公新書)はまず読むべき本だろう。もっとも新書本と言っても短い学術書という感じなので、全員読むべしというのはちょっと大変か。それでも頑張って読めば、戦後日米「同盟」史のあらかたの流れがつかめるだろう。戦後のサンフランシスコ講和条約と同時に締結された「日米安保条約」。その時に結ばれたのは「日米行政協定」だった。そして、安保条約が改定されたとき(「60年安保」)、行政協定が「日米地位協定」に改められた。しかし、同時に非公開の「合意議事録」が作られたわけである。

 それからヴェトナム戦争、沖縄返還、「思いやり予算」と続き、1995年がやってくる。米兵による少女暴行事件が起こり県民の怒りが爆発した年である。それら全部を細かく紹介する余裕がないが、表面的には覚えているニュースの裏にこういうからくりがあったのかと思った。沖縄県は直接協定改定を要望している。ドイツ、イタリア、韓国と比べても、地位協定改定交渉を日本政府が全くネグレクトしているのは何故だろうか。しかし、現実にはなかなか難しいのだと思う。日本政府はジブチに自衛隊基地を置いていて、そこでは同じような「地位協定」を結んでいるからである。

 そして、問題はそれだけではない。地位協定を改定して、米兵が犯罪行為を起こした場合、直ちに日本当局が身柄を拘束出来るようになったとする。その場合、日本の警察、検察の取り調べ時には弁護士の同席が認められていない。そのような「野蛮な司法制度」を有する国に、米国民を委ねてよいのか。そういう声がアメリカで湧き起こり議会の承認が得られないに違いない。日本の様々な制度が国際的な人権水準を満たしていない現状があるのは間違いない。アメリカから見れば、日本は「アジアの後進国」であって「不平等条約の対象国」とまでは表面的には言わないだろうけど、底流にはそういう見方があるんじゃないか。

 なお、山本書でイタリア憲法に戦争放棄条項があると知った。Wikipediaのイタリア憲法を見ると、以下のような条文である。「イタリアは、他人民の自由に対する攻撃の手段としての戦争及び国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する。国家間の平和と正義を保障する体制に必要ならば、他の国々と同等の条件の下で、主権の制限に同意する。この目的を持つ国際組織を促進し支援する。」イタリアも敗戦国で、国民投票で王政を廃止してから、新たな共和国憲法を制定した。この結果、ドイツがアフガニスタンに派兵し(数多くの犠牲者を出した)のに対して、イタリアは同じNATO加盟国であってもPKO活動以外に自国外に軍隊を送らないという。その制定過程や運用実態はよく知らないが、比較検討が必要だろう。
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桃月庵白酒独演会で、白酒三席を聴く

2024年04月21日 21時59分06秒 | 落語(講談・浪曲)
 北千住のシアター1010桃月庵白酒独演会を聴きに行った。区民割引で久方ぶりに夫婦で落語。劇場は駅の隣(丸井)の11階だが、終わってからホームまで行くより、電車に乗って最寄り駅まで行く時間の方が短い。それぐらい近いのは楽。2時から4時の会で、前座一人(桃月庵ぼんぼり)の後、桃月庵白酒が中入りをはさんで連続三席。「独演会」ならではだが、独演会と言っても弟子の二つ目も入って、本人は二席ぐらいのことも多い。今一番脂が乗っている噺家の一人だから満足したけど、体力は大丈夫かな。

 前座は「元犬」で、白犬が人間になっちゃう噺。割合とよくやられている噺だ。面白いんだけど頑張ってねという感じ。続いて、色物(紙切りとか大神楽など)も入れず、白酒師匠が二席。マクラのとぼけ方や他の落語家の話題が面白いのは有名だ。今日も落語家は人を笑わせる商売だから、本人は笑ってない人も多い。鶴瓶師匠とか目が笑ってないでしょ、「笑点」の宮治さんなんかも。というのが大受けしていた。言われちゃうとそんな気がしてしまう。

 最初は「代書屋」。これは柳家権太楼がよくやる噺で、どうも権太楼節が頭に響いてしまう。三遊亭小遊三でも何度か聴いていて、多くの人がやってる。履歴書を書いてもらいに、無筆の男が代書屋を訪ねる設定だから、江戸時代の長屋じゃない。いつ頃かというと、日中戦争期に上方落語の4代目桂米團治が作った新作だという。米團治は本当に代書屋をやってたという。そこに自分の名前も生年月日も答えられないトンチンカンが「歴史書」を書いてくれとやってくる。抱腹絶倒だが、人によって細部の工夫が違う。鹿児島出身の白酒は、依頼人の名前を西郷隆盛にしていた。誰にも負けぬ可笑しさの爆笑ネタに満足。

 一度引っ込んだ後で、すぐ出て来て今度は「松曳き」という噺。これは知らなかったので、検索して調べた。 お殿様とお付きの田中三太夫のバカ噺である。このコンビの噺は幾つもあって、「妾馬」(めかうま)のような名作がある。この「松曳き」は殿様が松が伸びすぎて月が見えにくいので移植したいと思うが、三太夫は先代お手植えだからと一端止める。「餅は餅屋」ということで、出入りの植木屋に尋ねるが、植木屋はバカ丁寧に何でも「奉る」をくっつけてしゃべるから、何が何だか判らない。そこら辺が聴きどころ。その時三太夫に早馬が届き…。誤解や早とちりが積み重なる噺。白酒の演じ分けが楽しい。

 その後中入り(休憩)をはさんで、今度は「山崎屋」。これも初めて聴いたので調べた。40分近い長講で、吉原に入りびたる若旦那を番頭が諫める。が、実は若旦那も番頭のスキャンダルを握っていて…。ということで、二人でなじみの花魁(おいらん)を身請けして、いろいろと画策して大店の嫁に迎えてしまおうと作戦を立てる。当時は吉原が江戸では「北国」(ほっこく)と呼ばれていたという。その知識がないと最後の展開が判らない。だから最初に解説するんだけど、廓噺の中でも「明烏」「二階ぞめき」「幾代餅」なんかと違ってあまり演じられないと思う。サゲだけでなく、全体の展開が判りにくい点がある。だけど、そういう噺を聴けるのも「独演会」ならでは。持ち時間が短い寄席ではやりにくい。

 桃月庵白酒(1868~)は、1992年に五街道雲助に入門して、2005年に真打昇進。師匠が昨年「人間国宝」に認定され、一門も盛り上がっている。実は昨日、都内で雲助一門会が開かれていた。まあ二日続けて聴かなくてもと思って行かなかったが。真打昇進時期が近く、今はともに落語協会理事を務める柳家三三古今亭菊之丞らと並び、今後の落語協会を引っ張っていく存在になるだろう。多くの人にも聴いて欲しい落語家だ。(忘れないように落語界はすべて記録しておくので書いた次第。)
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『アメリカ人のみた日本の死刑』、死刑の「デュ-・プロセス」とは?

2024年04月20日 22時40分58秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 この際だからとたまっていた新書本を読み続けている。つい買ってしまったまま、今では授業に使うわけでもないから読みそびれている新書がいっぱいある。今読まないと一生読まずに終わりそうだから、読みたい本を差し置いて先に読んでるわけ。日米地位協定に関する本を読んだが、それを後に回してデイヴィッド・T・ジョンソンアメリカ人のみた日本の死刑』(岩波新書)を取り上げたい。2019年に出た本で、著者は日本の司法制度を研究してるハワイ大学教授(社会学)である。 

 死刑制度に関心があるから(というか、死刑廃止論者だから)この本を買ったわけだが、何だか知ってる内容が多いかなと思って読まずにいた。165頁ほどのそんなに長くない本だが、読んでみたらやはり「外の目」で見ることは大切だと思う指摘が多かった。最近「死刑執行の当日告知違憲訴訟」の判決があったばかりである(4月15日)。判決文を読んだわけではないけれど、報道でみる限り論点を外しているんじゃないかと思う。それもあって、この本のことを書いてみたいのである。
(当日告知訴訟判決)
 その訴訟は「死刑執行を当日の朝告知するのは憲法違反」と主張した。詳しく言うと、当日告知は「弁護士への接見や執行の不服を申し立てることができず、適正な手続きを保障した憲法に違反する」として、国に慰謝料や当日の告知による執行を受ける義務がないことの確認を求めたのである。それに対し、判決は「原告の死刑囚は、当日告知を前提とした死刑執行を受け入れなければならない立場であり、訴えは確定した死刑判決を実質的に無意味にすることを求めるもので認められない」とした。

 先の新書にもあるが、アメリカではこのような「当日告知」はあり得ない。もっと早く告知する(というか本人や弁護士に告知だけではなく、社会全体に発表する)ので、死刑囚が州知事に恩赦を請願したりする。(裁判は州ごとで、死刑廃止州もある。連邦犯罪にあたる場合は、大統領が判断する場合もある。)執行当日は家族も見守る中、死刑賛成派、反対派が詰めかける。ある種「騒然」とするわけだが、それが「民主主義社会」の当然のありかたと思うんだろう。その間死刑執行をめぐって様々な「異議申立て」がなされるが、それこそ「適正手続き」(デュー・プロセス)なのである。
 
 この新書を読んで、「日本では死刑が特別な刑罰ではない」という指摘が印象的だった。日本でも一応公的には「死刑は生命を奪う特別な刑罰である」と言っている。死刑そのものが憲法に反するかどうかが問われた裁判では、最高裁は「人間の命は地球より重い」と判示している。だけど「死刑は合憲である」と結論するのである。しかし、著者によれば「死刑が特別かどうか」は「死刑に関して裁判で特別な規定を設けているか」という問題なのだという。
(デヴィッド・ジョンソン教授)
 つまり、「裁判員全員が一致しないと死刑を言い渡すことが出来ない」というような。アメリカの陪審裁判では、全員一致じゃないと決定出来ないし、有罪無罪の認定だけして量刑判断はしないのが一般である。日本では「裁判官3人、裁判員6人」のうち、裁判官1人を含む多数決で事実認定だけでなく量刑まで決定する。いわゆる「先進国」で死刑を存置するのは日本(とアメリカの約半数の州)だけだから、国民が死刑を判断する唯一の国と言えるのである。

 また時には死刑囚が控訴を取り下げて、一審だけで死刑が確定することも多い。諸外国には死刑判決の場合は必ず上訴しなければならず、複数の裁判所の判断を経なければ死刑が確定しない国もあるという。つまり、日本では言葉上はともかく、裁判の運用においては「日本の死刑制度は普通の刑罰」なのだという。こういうことは確かに外から言われてみないと気付かない論点だ。

 先の訴訟は「死刑制度は憲法違反(の残虐な刑罰)だから、執行を受ける義務はない」という訴訟じゃない。そういう論点だったら、裁判所が「死刑執行を受忍する義務がある」と判決しても、まあ当然だろう。しかし、今回の訴訟は当日告知は「デュ-・プロセス」(適正手続き)に反するという主張である。確かに「当日告知」を禁じる法的条文はないから、違法ではない。それ以前の告知を求める法的根拠そのものはない。(執行日の告知は法律で決まってない。)それなのに事前告知を求めるのは「死刑判決を実質的に無意味にすることを求めるもの」とまで言うのは何故か?

 事前に執行日を知らせると、死刑廃止論に立つ弁護士などが執行停止を求める訴訟や、再審、恩赦などを請求する可能性は高い。しかし、それは死刑囚に与えられている「適正手続き」である。この理由では請求を退ける理由にならない。このように裁判所も「適正手続き」に関心が薄いのである。死刑囚には死刑を受け入れている人もいれば、死刑を受け入れてない人もいる。その中には無実を主張している人もあるし、無実じゃないけど死刑判決には納得してない人もいる。死刑を受け入れている人にも、「反省」として受忍する人もいれば、死刑になりたくて犯罪を犯して早く執行してくれと言う人までいる。

 どういう立場の死刑囚にとっても、当日告知より事前告知の方がいいはずだ。当日告知は執行側にとっても負担が重いのではないかと思う。なお、昔は事前に告知していたのはよく知られている。変更のきっかけは「死刑囚の自殺」だと今回法務省が明らかにした。自殺した死刑囚としては、1977年の「新潟デザイナー誘拐殺人事件」の死刑囚が有名だが、その事件ではないようだ。実はWikipediaに情報が載っていて、確定死刑囚の自殺が5件あったことが判る。1975年に2件あり、この頃変更されたのだろうか。それはともかく『アメリカ人のみた日本の死刑』という本はなかなか気付くことが出来ない論点を教えてくれる得がたい本だ。
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映画『カムイのうた』、アイヌ民族の文化を伝える感動作

2024年04月18日 22時33分17秒 | 映画 (新作日本映画)
 『カムイのうた』という映画を見た。この映画は近代のアイヌ民族の苦難と優れた文化を真っ正面から描いた作品である。北海道で先行公開された後、東京では1月末に公開された。その時から見たかったんだけど、上映時間が限定的で見られなかった。今回阿佐ヶ谷Morcという小さな映画館で見たんだけど、そこも今日が最終日。ホームページを丹念に探すと、今後も上映があるようだ。映画館以外でも自主上映や学校などでの上映があるかもしれない。どこかでやっていたら是非見て欲しい力作である。

 アイヌ民族の口承文芸「ユーカラ」を『アイヌ神謡集』に翻訳したと言えば、知里幸恵(ちり・ゆきえ 1903~1922)を思い出す。この映画は明らかに知里幸恵がモデルだが、名前は北里テルに変えている。アイヌ語を研究する学者は金田一京助じゃなくて、兼田教授。この映画を見ようという人の多くは知里、金田一の名を知ってる気もする。だがフィクション化したことで、テルに婚約者がいたり、兼田教授が人類学教室に乗り込んで「盗掘」を非難するなどのエピソードが可能になった。
(ムックリを吹くテル)
 アイヌ民族が登場する映画は少ないけれど、幾つかはある。武田泰淳原作の『森と湖のまつり』(1958、内田吐夢監督)、石森延男原作の『コタンの口笛』(1959、成瀬巳喜男監督)のように、微温的ではあるが一応民族差別を扱った映画もある。しかし、それらは50年代の製作時点を描いた作品である。福永壮志監督の『アイヌモシリ』(2020)も現代の話。劇映画で明治・大正期のアイヌ差別を本格的に描いた作品は初めてではないか。北海道の東川町が製作に協力し、北海道各地の美しい自然が印象的だ。ずいぶん昔の建物があるなと思ったが、札幌近郊の「北海道開拓の村」でロケされたようだ。
(テルに心を寄せる一三四)
 北里テルは道立女学校を受験するも成績優秀なのに落とされて、旭川区立女子職業学校に進学した。これは知里幸恵の実話である。映画では成績に基づき副級長に指名されるも、同級生から排斥されるシーンは心に刺さる。その頃、祖母のイヌイェマツに東京から兼田教授がユーカラ研究に訪れる。小さい頃から祖母から聞いていたテルも覚えていると言うと、兼田教授は是非にと聞きたがる。そして美しいユーカラを是非日本語に訳して欲しいと頼む。テルはその後一生懸命訳したノートを兼田のもとに送ると、上京して自分の家で勉強してはと言う。旭川から東京まで、長い長い旅をして、テルは東京へ行くのだった。
(兼田教授の家で)
 そういう展開はずべて知里幸恵の実話で、あの美しい「銀の滴(しずく)降る降るまわりに」(Sirokanipe Ranran Piskan シロカニペ ランラン ピㇱカン)の訳語が生まれた瞬間を描いている。心臓が弱かった知里幸恵は、その原稿が完成した日に亡くなった。わずか19歳だったが、それも実話である。僕は今まで『アイヌ神謡集』(岩波文庫)を読んで、この美しい言葉を知っていたが、どういうリズムで語られるのかは知らなかった。今回映像で聞くことが出来て感銘深い。才能に恵まれながら、差別と病苦に苦しめられた薄幸の「北里テル」の生涯が心に残る。
(監督と主演女優)
 この映画の監督・脚本を担当しているのは菅原浩志(1955~)で、誰かと思えば『ぼくらの七日間戦争』(1988)の監督だった人である。その後「ぼくら」シリーズを監督したり、『ほたるのほし』(2004)などの作品がある。2018年に全国公開された『写真甲子園 0.5秒の夏』を撮っていて、そこで東川町との関わりが出来たんだろう。主演のテルは吉田美月喜、恋人の一三四は望月歩、祖母が島田歌穂、兼田教授が加藤雅也、教授夫人が清水美砂。神(カムイ)と生きている先住民族の文化を知るためにも、多くの人にどこかで見て欲しい映画だった。
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映画『パスト・ライブス/再会』、24年目の再会を繊細に描く

2024年04月17日 22時19分41秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画『パスト・ライブス/再会』(Past Lives)は、米アカデミー賞の作品賞にノミネートされた作品だ。アカデミー賞の作品賞は10本の候補作が選定される。10本になったのは2009年からで、それまでは毎年5本だった(昔の1930年代にも10本があったが)。世界で最も有名な映画賞だけに、候補になっただけでも商業的に有利になる。10本に拡大されたことで、海外作品も毎年のように入ってくるようになった。2024年の候補作では、明らかに『オッペンハイマー』『哀れなるものたち』が抜きん出ていた。5本だったらこの映画のノミネートは難しかったのではないか。

 この映画は先の両作のような、エネルギーに満ちて見る側も疲れてしまう渾身の大作と違い、見ていて切なくなるような「あるある感」満載の恋愛映画である。韓国系アメリカ人のセリーヌ・ソン(1988~)の初監督映画で、自分の実人生を反映しているらしい。若い頃を思い出すと、つらい別れをしたまま再会もままならないような「思い出の人」がいるものじゃないだろうか。そこまで行かなくても、片思いしていた相手が急に転校して二度と会えなかったとか、誰にでも切ない思い出の幾つかががあるものだろう。
(12歳のナヨンとヘソン)
 韓国に住む12歳の少女ナヨンと少年ヘソンもそんな二人だった。成績優秀な二人だが、いつもナヨンがトップなのにあるときヘソンが1位になった。そんな時ナヨンの一家がカナダに移住することになった。その前に親同士が二人を公園に連れて行って思い出作りをさせた。お互い幼いながら好き合っていたのである。移住したのは2000年頃。昔の韓国映画には経済的に外国へ移民するとか、軍事政権に抵抗して亡命するとかいう設定もある。しかし、もうそんな時代ではない。ナヨンの父は映画監督で活躍の場を求めて国を離れただけで、政治的な事情はないのである。

 12歳のナヨンは韓国にいてはノーベル文学賞が取れないと言った。作家を目指していたからである。海外移住を期に英語風の名前に変えることになり、「ノラ」と名乗ることにした。12年後、ノラの母が昔幼なじみがいたよねと言ったのをきっかけにヘソンを探してみる。すると父親のFacebookにナヨンを探しているとメッセージが来ていたのを見つけた。21世紀になった頃からインターネットが普及し、久しぶりに同窓会を開いたなどと言われた。2010年代になると、FacebookTwitter(現X)などのSNSが普及してきて、直接昔の知り合いを探せるようになった。「友だち申請」はしないまでも、検索してみた人は多いんじゃないだろうか。
(セリーヌ・ソン監督)
 そして二人は毎日のように時差を越えてオンラインで話すようになる。ヘソンは兵役についていたときに、昔のナヨンを思い出したのである。しかし、名前を変えていたノラを見つけられなかった。その時ヘソンは工学の勉強をしていた。ノラはニューヨークに移って、若き劇作家として認められつつあった。今はノーベル賞じゃなくて、ピュリッツァー賞が取りたいという。二人は互いに、ソウルに来て、ニューヨークにいつ来るのと会話するが、お互い予定があってなかなか現実の再会は難しい。そこで行き詰まった二人は、一端毎日のような通話を止めようとなった。
(24年目にニューヨークで再会)
 そしてさらに12年経って、ヘソンがニューヨークにやって来る。なんのために? その時ノラはもう結婚していた。24歳のノラが作家のために用意されたリゾートでアーサーと知り合ったのである。そして今はトニー賞が一番欲しい。大人になってからは、ほぼこの3人しか出て来ない。ノラはグレタ・リー、ヘソンはユ・テオという二人で、幼なじみが再会してみれば美男美女だから心が揺れる。アーサーはジョン・マガロ(『ファースト・カウ』の主役)で、これがまた善人を絵に書いたような人物で、久しぶりに幼なじみに再会する妻を温かく見守る。だけど…。

 日本映画には片方が難病になったり、虐待されていたり、災害に襲われたり…という展開が多い。もちろんドラマチックだったり、社会問題を提起するのも大切だ。しかし、この映画は才能ある美男美女がすれ違うだけの物語である。それで十分心に沁みるのは、語り口がうまいのである。ニューヨークが美しく描かれているのも見逃せない。ただし、あまりにも淡彩の映画かなと『オッペンハイマー』を見たばかりでは感じてしまうのも事実。だけど捨てがたいのは、SNSなど現代のツールで再会する設定などに「あるある感」を感じてしまうからだ。でもこの二人はソウルにずっといても、きっと別れていたのではないかとも思った。
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