日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

「眠り椅子」

2011-10-22 19:50:05 | Weblog
最近ブログの更新をてんで怠っている。カダフィ大佐が殺害され、ユーロ圏ではデモに揺れるギリシャを破綻から救うためにの対策に躍起になっているし、タイでは国の7、8割が冠水し、首都バンコックでもこれから冠水の度合いが高まったいくとか、世界には大きなニュースが行き交っている。もちろん国内でも多岐多様のニュースが報じられる。ところがこれらがすぐさまわが身に引っかかってくるわけでもなし、「それがどうした」割り切ってしまえばそれまでで、それ以上今のわが身は平穏そのものである。そして自分では無気力になったものだなと反省するが、何故そうなのかは私なりに分かっているつもりでそれは「眠り椅子」のせいなのである。

家庭でも椅子生活に長年親しんできたこともあって、私には椅子に対する注文がかなり厳しい。要点はただ一つ、そこで快適に過ごせることである。そこで新居を構えるに当たって、家具展示展に出向いていろいろと吟味することにした。目に飛び込んできたのがソファー、安楽椅子、スツールのセットで、すべての作りが大らかで安楽椅子に坐ると身体を優しく抱擁してくれる。ソファーも幅が2メートルを超えるのでゆっくりと横たわることが出来る。総皮製ということで皮がたっぷりと使われており、それを止める金鋲の並びが美しい。すっかり気に入ってしまい、手に入れたくなった。問題は価格で私にとっては破格なので場所を離れずにしばし考え込んでいた。それを動かしたのが「ここの会社の製品がホワイトハウスに沢山収められています」という店員の一言で、それに引っかかってしまったのである。


母が存命の頃、階段を這うように上がって来てソファーに横たわると間もなくすやすやと寝息が聞こえてきたものである。孫達がやって来るとその上で飛んだり跳ねたりしていたが、それもやがて安らか眠りに陥った。何かこのソファーには眠りに引き込むような魔力でもあるのだろうか。今その虜になったのがこの私である。ソファーに腰をかけテレビを見たり本を読んだり、新聞を読んでいるつもりがいつの間にか横たわって寝入っているのである。それもかなり深い眠りに。どうすればこの呪縛から解き放されるのか、ある意味では今の私の最大の課題なのである。

YouTubeでpastime  「ブンガワン・ソロ」

2011-10-10 18:49:44 | 音楽・美術
太平洋戦争で日本軍が東南アジアに広く展開し、占領区域を広げていくにつれて、現地に宣撫班なるものが派遣された。宣撫班そのものは満州事変直後から組織されていたが、それには多くの作家や音楽家が参加していた。その宣撫班が現地の住民ではなく、日本にもたらした遺産として、私の念頭に直ぐ浮かぶのが小説家林芙美子の「浮雲」であり、藤山一郎の持ち帰った「ブンガワン・ソロ」である。「浮雲」については機会を改めて触れようと思うが、今日はインドネシアの歌「ブンガワン・ソロ」を取り上げて見ようと思う。

私の好きな歌手の一人、五郎部俊朗nの「藤山一郎とその時代~歌が美しかった~」というCDの中に「ブンガワン・ソロ」が収められている。残念ながらこの歌はYouTubeでは聞けないが、なんとこのYouTubeで藤山一郎の「ブンガワン・ソロ」との関わりの話と、彼自身による歌が聴けるのである。



さらに驚いたことには「ブンガワン・ソロ」の作曲者自身が歌っていて、画面にインドネシア語の歌詞が流れるのでカラオケの練習にももってこいである。しかしそれよりもこの歌声のなんと味のあること!伴奏のガチャガチャしているのが私には気になるが、そんなことはものともせずに歌声がゆったりと河面を流れていく。本当に素晴らしい名曲に歌唱である。



ガチャガチャが嫌の方にはこちらが良いのかも知れない。

ブンガワン・ソロ

最近はよくYouTubeで昔の歌を探して時間つぶしをすることが多いが、これは大きな収穫であった。

「ブンガワン・ソロ」からは外れるが、これは凄いと思ったのが石原裕次郎と慎太郎の「夜霧のブルース」のデュエットである。慎太郎のチリメン・ビブラートがとても可愛らしい。私にもチリメン・ビブラートがあるので、親しみを持ってしまった。さっそく「お気に入り」に登録したのが二三日前だったのに、『この動画は削除されました。これは、以下をはじめとする複数の申立人から著作権侵害に関する第三者通報が寄せられたことにより、この動画の YouTube アカウントが停止されたためです』のメッセージとともに削除されてしまった。YouTubeでpastimeがある限り、私に退屈はなさそうである。

ノーベル賞が日本から遠ざかっていく?

2011-10-08 11:55:53 | 学問・教育・研究
アップルのスティーブ・ジョブズ氏のカリスマ性についてはともかく、その何が凄かったのかについて朝日デジタルの解説がわかりやすかった。

 「売り方がうまいだけ。日本にない独自の技術なんて何も使っていないのに」

 アップル商品がヒットするたびに、日本メーカーからは、こんな恨み節が今でも聞こえてくる。

 日本勢は、中核部品の開発から完成品の組み立てまで、「自前主義」にこだわった。それが商品の差別化につながると考えたからだ。だが、製品のデジタル化が進み、同じ液晶パネルや半導体を集めて簡単に類似商品が作れる時代になり、価格競争に巻き込まれていった。

 これに対し、アップルは世界中のメーカーから部品や技術をかき集め、商品の組み立てはコストが安い台湾メーカーなどに任せる。代わりに、ジョブズ氏は、商品のデザインやサービスなどの仕組み作りに徹底してこだわり、独自のアップルワールドを作り上げて差別化に成功した。

 ただ、このビジネスモデルの成功には、ジョブズ氏のように、消費者の心をつかむ商品のイメージが明確にあり、それを徹底するリーダーシップが欠かせない。ソニーのウォークマンや家庭用ゲーム機「プレイステーション」の誕生も、創業者の盛田昭夫氏やソニー・コンピュータエンタテインメントの元会長兼CEOの久多良木健氏ら、個性派経営者の存在なしには語れない。


まったくそうだと思う。今や世界最大の企業となったアップルですら、個性豊かな卓越したリーダー無しには、消費者の心を掴むたった一つの製品すら産み出せないのである。リーダーとは孤独なもの、そしてそこにあるのは結局個人の営みなのっである。そのジョブズ氏がスタンフォード大学の卒業式で、Stay hungry, stay foolish.と説いたその精神が今注目されているが、私たちの世代は否応なしに皆がhangryであり、だからこそ大きな夢が沢山あった。夢とは見る人にとってはまさにfoolishなものである。これまでの日本人ノーベル賞受賞者はそのような風土の中から産まれてきた。

今年のノーベル賞は下馬評の高い日本人もいたが、まだ経済学賞がのこっているが、日本人を素通りして行ってしまった。そして唐突にもこのような思いが浮かんできたのである、ノーベル賞が日本から去り始めたのか、と。それは現在のわが国における科学研究のあり方、さらにはその進路、進め方が、研究者個人の自由な発想を伸ばす科学者主導から、科学官僚・政治家・権威主義的科学者主導になってしまっているからである。そのあらわれの一つが、「グローバルCOEプログラム」や「最先端研究助成」などビッグサイエンスプロジェクトなど、「金ばらまき」と言ってしまえばそれまでの、浅薄な目標邁進型の人数さえかき集めれば出来てしまう性質のものである。今年のノーベル化学賞の対象になった「準結晶の発見」が生まれるような環境とはおよそ縁遠い世界である。

これまでも私はやはり目をつけられたか グローバルCOEプログラム「最先端研究助成」よりましな2700億円の使い方があるのでは  追記有り「最先端研究助成」2700億円の使い道に科学者の反応は?グローバルCOEプログラムなんていらないのに・・・などで、わが国におけるこのようなお金の使い方が、創造的科学の発展の弊害になることを主張してきた。このままでは日本からノーベル賞がだんだん遠くなる。ではどうすればよいのか。くどいようであるがグローバルCOEプログラムなんていらないのに・・・から再掲させていただく。

極論すれば国家百年の大計である人材の育成に必要なのは、国立大学にあっては運営費交付金、私立大学にあっては私立大学経常費補助金、それに加うるに科学研究費補助金に尽きる。今わが国に求められるのは贅肉を一切切り削いだ骨太の大学制度を抜本的改革を通じて確立することであろう。

過去ログ
文科省での日本学術振興会と科学技術振興機構の共存が基礎科学の発展を邪魔する



秋篠宮悠仁親王の帝王教育こそ

2011-10-04 20:31:42 | Weblog
ここ三四日ほど私の雅子妃て皇后に相応しいお方?へのアクセスが目立った。雅子妃についての関心の高さがうかがわせる。

私は以前にも現皇太子について別居・離婚・廃太子?で、『皇太子も雅子妃の心強きよき伴侶としての一面は印象づけられているものの、その印象が強すぎてか、天つ日嗣の皇子なる皇太子として仰ぎ奉るにはなんとなくためらいがある』と、少々踏みこんだ意見まで述べている。

昨日、ハングルを作ったとされる「大王世宗」の韓国歴史ドラマをテレビで観ていた。元来は第三子であった世宗(忠寧大君)が紆余曲折を経て世子(わが国では皇太子)になる経緯の今が真っ最中であるのだか、王としての素質を最終的には父王が判断するにせよ、いつの間にか広まった情報により忠寧大君に集まった国民の支持の力が大きかったようである。ついわが国の皇室事情を考えてしまった。

私は『男系男子』は見て分かる 女系では要DNA鑑定をご覧いただければお分かりのように、女帝を容認しない立場ををとっている。その立場で今最も重要なことと考えるのは、現在第三位の皇位継承資格者秋篠宮悠仁親王の帝王教育である。今のままであると現皇太子が天皇におなりになると、弟君の秋篠宮が皇太子を継がれることになり、皇室の流れが秋篠宮に移って行くことが明白である。帝王教育の開始は早ければ早いほど良いと私は考えるが、現状に関してはなんの情報も持ち合わせていない。マスメディアが雅子妃を追っかけ回すのも良いが、皇室の将来をも左右する秋篠宮悠仁親王の帝王教育への国民の関心を大いにかきたてて欲しいものである。

過去ログ 生物学者・昭和天皇とY染色体



雅子妃て皇后に相応しいお方?

2011-09-29 22:25:43 | Weblog
今日の朝刊に「週刊文春」と「週刊新潮」の広告が並んでいて、それぞれが雅子妃のことを大きく打ち出していた。「週刊文春」は『雅子さま愛子さまに宮内記者が「税金泥棒」「異様な親子」』とあり、「週刊新潮」には『「学習院」を打ちのめした「雅子妃」の月曜日事件」』とどうも過激である。国民の敬愛の対象であるべき皇室としては、宮内記者によるひどい叩かれようで、少なくとも雅子妃は宮内記者を完全に敵に回したようである。何がどうだったのか、好奇心はむずむずするが、まだ店頭で立ち読みするまでは体力が回復していないので、記事の中身は分からない。分からないままに、これまで私の考えてきたことを含めて、皇室のあり方というか行く末について少し触れることにする。

皇室に入る女性に最も期待されることは『皇統に属する嫡出の男系男子の皇族』の出産である。これが現在皇室典範に定められる皇位継承者の資格であるからだ。その意味では現時点で雅子妃は皇太子妃としては失格である。現在進行中のNHK大河ドラマでは、やがて二代将軍となる徳川秀忠の正室お江の方に生まれるのが女子ばかり。もう四五人は生まれたが、まだ男子に恵まれない。秀忠の乳母大姥局には「男子を男子を」とプレッシャのかけられ続け、やがて三代将軍となる家光を産むことになっている。側室制度が確立していた時代にも正室の嫡子の重みはあったのである。そのプレッシャに相当するのが雅子妃にとって皇室典範であった、と私は思うのであるが、雅子妃が実際にどう受け取られたのかは知るよしがない。というのもまともに考えれば皇室典範の『皇統に属する嫡出の男系男子の皇族』を皇位継承者とする取り決めは、きわめて身勝手なものだからである。男子が産まれるのか女子が産まれるのか、それはまさに自然の摂理である。嫡系男子にこだわる限り、嫡系男子が産まれなければお家断絶となる。だからこそ男系社会の皇室や武家では昔から賢明にも側室制度を設けて、非嫡出男系男子の皇位継承をも可能にしていた。この辺の事情を以前に女帝か後宮制度かで述べているので、関心をお持ちの方はどうかお目通し頂きたい。

雅子妃に嫡系男子がお生まれにならない。私は後宮制度を復活させるのも伝統を甦らせる意味において賛成(現実的には天皇家のみ)であるが、今のご時世では同調者はほとんど居ないであろう。となると皇太子が嫡系男子を儲けるまで離婚・結婚を繰り返すのが次の選択肢として考えられるが、そこに至るまでに秋篠宮殿下に平成18年9月6日に皇室としては41年目に男子として悠仁親王がが誕生、皇位継承者を得たことから皇統についての論議が沈静化してしまった。しかし問題の本質が解決しているわけではないので、それこそ時間をかけて皇室典範の改正案を作製していくべきである。

嫡系男子をお産みになれなかったことと、世間が取り沙汰するゴッシップめいた雅子妃のお振る舞いに何か関係があるのかどうか、それは私には分からない。しかしさらに分からないのが「お病気」のことである。「お病気」の実態がどうなのか、またその発症の経緯がどうなのか、宮内庁からある程度は国民に情報がもたらされているのであろうが、私自身はほとんど知らないと言わざるを得ない。それは国民のほとんどについてもそうなのではなかろうか。その「お病気」が関係しているのかどうか、それも私には分からないが、一つはっきりとしていることは皇室の公務というか公の行事に、雅子妃のお姿を見ることがかなり以前から少なくなっていて、その意味でも雅子妃は皇太子妃としては失格だなと思っていた。このような状態を何時までもダラダラ続けているのは、国民の心が外れていくばかりであろう。この思いがあってこそ皇太子さま どうか親孝行をを認めたとも言える。

雅子妃が皇后に相応しいお方なのかどうか、私の今の心情では否定的である。ただ実情については小沢一郎問題よりも不透明で、現状では宮内庁の国民に対する情報開示がほとんど無きに等しいと言わざるを得ない。まずは情報開示に対する現状の打破を期待したいところである。


カーン・リーの歌うチン・コン・ソン作詞・作曲「美しい昔」 追記有り

2011-09-24 15:18:43 | 音楽・美術
最近ブログの更新を怠っている。なんとなく書く気がしないのである。書けばほとんどが政治家の無能振りを浮かび上がらすだけの政治ネタばかり。それに台風12号、15号による国土の荒廃。気が重くなるだけなので気が乗らない。ところがちょうどタイミング良く、時には柔らかいブログでもとアドバイスしてくれる友人がおり、気分を切り替えることにした。

最近私の日課の一つは歌を歌うことである。それもほとんどが懐メロで、YouTube で昔の歌手を探しだしては一緒に歌うのである。藤山一郎の「白鳥の歌」などがあるのには驚いた。五郎部俊朗が「藤山一郎とその時代~歌が美しかった: ~」でも歌っていて私も声を合わしたことがあるが、五郎部俊朗はテナーであるのに対して藤山一郎はバリトンなので、この方が私は声を合わせやすいし発声のリハビリに無理をしなくて良い。そのようなことをしているうちに、面白い歌を見つけた。それがカーン・リンの歌うチン・コン・ソン作詞・作曲「美しい昔」である。

ベトナム戦争は1975年4月30日のサイゴン陥落で終結を迎えた。その後しばらく経って読んだのが近藤紘一著「サイゴンから来た妻と娘」である。彼は産経新聞のサイゴン支局長を1971年から1974年まで勤め、さらに1975年に臨時特派員としてサイゴンへ派遣されて、サイゴン陥落を経験している。先妻を亡くした彼は一人娘を抱えたベトナム女性と再婚し、その二人を呼び寄せて日本での生活を始めた。この著書はそのドキュメンタリーとも言える。この著書に基づいたドラマがNHKで放送されて、私も本を読んでいたものだからこのドラマを楽しむことにした。そこで魅せられたのが挿入歌というか「美しい昔」であった。誰が歌ったのか記憶にはないが、心にジーンとくる歌だった。そして楽器店を訪れるたびにLPを探したがなかなか見つからず、焦らされた末にようやくお目にかかったのが次のLPである。


日本コロンビア株式会社から1981年8月にリリース(AF-7071)されており、ノンフィクション作家角間隆さんの歌手と作詞・作曲家にまつわる詳細な解説が付け加えられている。1968年2月3日、サイゴンでは夜になっても砲撃の音が絶えない。そして歌舞音曲が一切禁止されているはずなのに、死を待つ静寂のなか透き通った唄声がどこからか聞こえてくる。角間さんが通訳に誰が歌っているのかを尋ねると「カーン・リーンさんのテープですよ」と返事が戻り、次のように説明が続く。

「カーン・リー?」
「ええ、ユエから来た美人歌手です。彼女は、同じユエから来たチン・コン・ソンさんの作った唄しか歌いません」
ユエというのは、北緯17度線で分断された南北ベトナムの境界線に近い小さな町である。日本でいえば、さしずめ古都・京都といったところであろうか。

しかし数年前の北ベトナム軍の大反撃によって、その美しい町は完膚無きまでに破壊され、辛うじて死をまぬがれた人々も難民となって南へと逃げ延びた。

「あのとき、チン・コン・ソンさんはユエ大学の三年生でした。21歳の誕生日を迎えたばかりの彼は。数人の仲間とともに、最後まで王城の地下蔵(昔の石牢)に立て籠もり、『なぜ、僕たちの魂のふるさとまでが破壊されなければならないのか!』、『どうして、ベトナム人同士が殺し合わなければならないのか!』・・・・・と、血を吐くようにして叫び続けました。そしてわずか一晩のうちにに、58曲の反戦歌を作りました。『いつの日か、ここでまた、南と北に引き裂かれた同胞が、固く固く手を握りあうときが来るだろう。その日のために、僕たちは生き延びよう。その日あるを、僕たちは信じよう―』という58曲目の作品”同胞の歌”を、古ぼけたギターで力いっぱい弾きならしながら、チン・コン・ソンさんは涙ながらにユエに別れを告げ、サイゴンまで落ちのびてきました。


「同じころ、16歳の少女カーン・リーさんも、命からがらサイゴンにたどりつきました。父母も兄弟も失い、たった一人でショロンのスラム街にころげこんだ彼女は、すっかり生きる張りをなくしていました。そして、死のうかと思ったとき、風の便りにチン・コン・ソンさんのことを聞き、みも知らぬ彼のもとへたった1人で訪ねていきました。チン・コン・ソンさんは、身も心もボロボロになった同郷の乙女を見て、何も言わずにギターの弾き語りを聞かせてやりました。58曲目の最後の歌を聞いたときには、東の空が白々と空け始めていたということです『私も歌ってみたい―』、希望そのもののような朝陽の光を浴びながら、カーン・リーさんがそうつぶやいた瞬間、後に”ベトナムの太陽”とまで謳われるようになった一大国民歌手が誕生したのです。


1975年4月25日、サイゴンで角間さんはカーン・リーと初対面を果たす。ベトナム戦争はまだ続いており「歌舞音曲厳禁、違反者は即刻射殺・・・・」といわれているが、民衆達はテープ・ノイズだらけのカーン・リーの唄の複製に耳を傾けている。その間、彼女は旧南ベトナム政府の下級官僚と結婚し二人の子供を儲けていたが、ついにサイゴン陥落の日を迎えた。そしてある日、黒服に身を固めた共産軍の兵士が妻子の見ている目の前で夫を射殺してしまう。ベトナムに留まると確言していた彼女もチン・コン・ソンに勧められて生後五ヶ月になる乳のみ子をを胸に抱えて船で脱出しようとするが、その後の消息が不明になる。

1980年4月1日にNHKを退職した角間さんは、”ベトナムの太陽”の消息を探り当てることを最重要の課題とた。そして1981年5月3日、サンディエゴで再会を果たしたのである。

「海賊に襲われて虐殺された」とか、「南シナ海で沈没した」、「人肉まで奪い合う飢餓地獄の犠牲になった」・・・・・など、様々なうわさが飛び交う中を丹念に調べながら、パリからアルジェ、アルジェからマニラ・・・・・という具合に次第に糸をたぐり寄せ、アメリカはカリフォルニア州、サンディエゴの難民村でついに彼女に再会したのは、それからまる1年後のことであった。(中略)

このアルバムにおさめられている10曲のうち8曲は、彼女が新しい人生の第一歩を踏み出したアメリカという”新大陸”で新に録音したものである。そして、『美しい昔』と『ユエの子守歌』な、ベトナム戦争のさなかに開かれた大阪万博のコンサートに来日した際、日本で録音されたものである。

YouTubeにアップロードされているのは、おそらく戦後に日本を訪れたときのものであろう。加藤登紀子さんが司会しているようである。演奏の形式はこのLPと同じである。「美しい昔」の背景を知った上でベトナム戦争の悲惨な災害の中から生まれたこの唄に耳を傾けたとき、それぞれの人がどういう思いを抱くであろうか。それにしても美しい曲である。LPからアップロードしたかったけれど、直ぐにカットされそうなのでYouTubeの曲で我慢することにした。




追記(9月25日)

加藤登紀子さんのブログに、07.03.05 『美しい昔』から始まったベトナムとの縁というカン・リーさんとチン・コン・ソン・さんとの関わりを記した記事を見つけた。ぜひ一読をお勧めする。


野田内閣の緊急課題は福島第一原発周辺の高濃度放射能汚染地域を国有化すること

2011-09-15 15:24:03 | Weblog
今日の朝日朝刊に、放射能汚染物質の除染対象になる可能性のある地域の規模について、次のような大きな見出しが一面と二面に見られた。

除染 福島全土の14%

1億立方メートル ドーム80杯分試算

地域絞り込みも

汚染土 行き場見えず

福島 仮置きに苦慮

中間貯蔵 あやふや

こういう問題が緊急課題であるのに、何一つ政府の打つ手が見えてこないので、私は原発被災住民が逃げ出しやすいように政府は一刻も早く住民撤退地域を設定すべしと提言し、次のようなことを述べた。これで汚染土を含めて汚染物質の行き先は一挙に解決するではないか。

住民撤退地域の利用法は時間をかけてじっくり考えれば良い。まず放射能汚染物は全部ここに持ち込めばよい。使用済み核燃料のための高レベル放射性廃棄物処理場も遠慮無く建設出来るし、永遠の墓場とすることも出来よう。その意味では未来への新しい展望が開ける。

戦時中に強制疎開というものがあった。ウイキペディアで一部を抜粋する。

日本において当時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯(防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する事である。(中略)

建物疎開にあたっては、行政機関がその候補を選定し、選ばれた家屋はほぼ強制的に破壊が行なわれたため、当時は「強制疎開」とよばれた。疎開対象の選定に当たっては地域の有力者などからの「政治的助言」が大きく影響し、被差別に対する偏見や、個人的感情から対象に含められたと考えられるものも存在する。(中略)

建物疎開は終戦直前まで行われており、本土決戦に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全国で約61万戸の建物が除却された。また、建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に関しては買収形態のものと借地形態のものの両方が存在した。

建物疎開の後は戦後そのまま道路になった場合が多く、代表的な例では(中略)京都市の御池通の左京区川端御池から中京区堀川御池間などがある。特に横浜のそれらと大阪市道豊里矢田線は地元住民から「疎開道路」と呼ばれている。

今野田内閣の行うことは、これと定めた汚染の激しい地区をすべて国有にすることである。それには特別立法も必要であろうし、国有化の範囲をそれなりに定めなければならないが、日本国中の核使用済み燃料を含めて、放射能汚染物質の中間貯蔵とさらには最終処分場を設置可能な面積を確保するぐらい大きなことを考えてはいかがであろう。

いくら除染を行ったとしても、原発から数キロ以内の住民が、果たして同じ場所に住みたいと思うだろうか。それ以上に離れたところでも同じ問題が起こるのは必定である。このようなところでは数々の問題があるだろうが、国・自治体と住民が根気よく話し合いを進めて、住民撤退地域と(再)居住地域をの設定を一刻も早く行い、住民撤退地域での除染作業は居住地域の整備に集中すべきであろう。

野田内閣成立後まだ間がないが、少しも覇気が伝わってこない。朝日朝刊の二面である。

 住民が元の暮らしを取り戻すのに不可欠なのが除染だ。ただ、汚染された土壌などを取り除いても、それを集約して安全に保管する「中間貯蔵施設」を早急に整備しなければ、除染作業自体が進まない。

 「中間貯蔵施設は福島県内のどこかにお願いせざるを得ないが、最終処分の場所にはすべきではない」

 細野豪志原発相は8日に福島県を訪れた際、そう訴えた。中間貯蔵施設は県内に設けるけれども、いずれは最終処分場を県外に設置して運び出す――。細野氏はそんな論理で地元の理解を得るしかないと判断している。


強調の部分、沖縄普天間基地問題での鳩山元首相の遁辞と同じである。最初から誰しもそう思うように(と私は思いたいが)、福島第一原発を中心とした今や日本最大の放射能汚染地域を日本の放射能汚染廃棄物の墓場と今こそ決定すべきではなかろうか。野田内閣の中でも最年少の、そしなんとか期待出来そうな細野豪志原発相にリーダーシップを大いに発揮して頂きたいものである。

原発被災住民が逃げ出しやすいように政府は一刻も早く住民撤退地域を設定すべし

2011-09-11 11:55:57 | Weblog
福島第一原発事故が発生してほぼ1週間後の3月17日に、私は被災者の「疎開」を一刻も早く組織的にと主張した。「避難所」の生活がいつまで続くのか目途はたてがたく長期化が予想されたからである。そして現在にいたるまでいろいろなドラマがあったであろうが、9月9日付けの朝日朝刊は、岩手・宮城・福島の3県から県外に住民票を移した人が約8万3千人と報じている。転出から転入を差し引いた「転出超過」が最も多いのは福島県で2万2391人とのことである。また次は昨9月10日の朝日朝刊に掲載された世論調査の抜粋である。

原発事故による放射性物質への不安では「あなたや家族に与える影響について、どの程度不安を感じているか」と4択で尋ねた。
「大いに感じている」は岩手32%、宮城県34%に対して福島は54%に上る。
 福島県民だけに「放射性物質絵による被害を避けるため、県外や放射線量の少ない地域へ、出来れば移り住みたいか」と聞くと、34%が「移り住みたい」と回答。中学生以下の子供がいる家庭では51%に及ぶ。

正体が分からないだけに先行きへの不安が大きいのだろうか、現在居住している地域への執着が思いの外薄いのが私には目新しく感じられた。

こういう住民の思いとは裏腹に、現地では一刻も早い復旧・復興を旗印に除染作業なるものが推し進められている。校庭の表土などを削り取りあちらこちらの集積場に集めているようであるが、最終的にその処理をどうするのか決まったとは私には聞こえてこない。聞こえるのは作業に当たる土木業者の「ウハウハ」だけである。

原発被災地の復興計画で政府・自治体が早急になすべきことは、住民撤退地域を設定することである。汚染度の激しいところは一義的に決定してもよいだろうが、そうでないところは住民との話し合いが大切になるであろう。いずれにせよ住民撤退地域が設定出来れば一切の復旧工事などを即刻凍結して、移住に至る住民への土地・家屋買い上げなどの補償、さらに生活再建のための万全の援助に政府・東電は全力を傾注すべきである。

住民撤退地域の利用法は時間をかけてじっくり考えれば良い。まず放射能汚染物は全部ここに持ち込めばよい。使用済み核燃料のための高レベル放射性廃棄物処理場も遠慮無く建設出来るし、永遠の墓場とすることも出来よう。その意味では未来への新しい展望が開ける。



「うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」と思いたいが

2011-09-10 21:37:09 | Weblog
のろのろ台風12号がもたらした和歌山県と奈良県での未曾有の台風被害で、私が反射的に思い出したのが万葉集巻第一の二番目にある舒明天皇の歌である。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は (後略)

「ほんとうに結構な国だ」と天皇自らうっとりとなさっている。私もつい引き込まれる。その延長に小学唱歌「故郷」が、さらには仲間も多いと思うが源田俊一郎編曲「唱歌メドレーふるさとの四季」があり、この日本に生まれた幸せをしみじみと味わう。

しかしこの歌はわが国のある一面を歌ったに過ぎない。その証拠がこのたびの台風災害である。ただ舒明天皇はこの「うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」が、時には自然災害で壊滅的打撃を受けることもあることをご存じの上で、この歌を詠まれたのだろうかと疑問が生じた。歌の深みがそれで大きく変わると思ったからである。自然災害は昔からあった筈である。しかし私には万葉集に自然災害を詠んだ歌があるような気がしないので、調べてみることにした。自然災害ではないがまず思い出したのが山上憶良の「貧窮物語」(巻第五 八九二)で、このように始まる。

風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我を除きて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 有りのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る

風、雨、雪と自然現象は出てくるが、それは「風に交じって 雨が降る晩 雨に交じって 雪の降る晩 やる方もなく寒いので」と、貧乏人が寒さにいかに耐えるかの話に繋がって行くもので、家の中に雨が降り込んできたとか、ましてや風雨の猛威を取り上げたものではない。ではそのような歌が万葉集にあるのだろうかと、万葉集検索Ver 2.2.0で、雨、風の含まれる歌を検索してみた。

雨で引っかかってくるのは125首、でもそのどれも日常の中の雨で変異をもたらすものではない。また風では191首があり、その風の強くなった状況を歌っているのに次のようなものがある。でも白波止まりである。

風をいたみ沖つ白波高からし海人の釣舟浜に帰りぬ 03/0294

住吉の沖つ白波風吹けば来寄する浜を見れば清しも 07/1158

海の底沈く白玉風吹きて海は荒るとも取らずはやまじ 07/1317

ちなみに「日本国語大辞典」(小学館)に次のような項目(引用は抜粋)がある。

たいふう 【大風】はげしく吹く風。強い風。おおかぜ。*続日本紀━大宝元年八月甲寅「播磨、淡路、紀伊三国言 大風潮漲。田園損傷」

台風とか颱風という文字は使っていないが、言葉として「たいふう」はすでにあったのだろう。大宝元年は701年だから、万葉集が成立したと伝えられる延暦2年(783年)頃よりも古い。しかし万葉集検索にこの言葉は引っかかってこない。それよりも注目すべきなのは、続日本紀という公の記録には台風12号と同じような台風被害がはっきりと記載されていることである。自然災害は今も昔も同じ、ただそれが万葉集からは排除されていただけのことなのである。しかしよく考えてみると、排除されていたのではなく、その様な自然災害を詠んだ歌などが入り込む状況ではなかったというのが正しいのかも知れない。

今なら居間で居ながらにヘリコプターが伝えてくれる台風被害の状況を目にすることができる。しかし万葉の時代では細い山道一本が土砂崩れで塞がるだけで、もうその先には進めない。個人の見聞できる範囲はそこ止まりでで、これではよほどの何かがなければ感情の発露としての歌なんぞは生まれないだろう。この時代の人にとって自然災害は、あくまでも怖れそのものであったのである。これが私なりの推論である。

もし万葉の時代に土砂崩れで崩壊された家でもあれば、住民にできることはこのような恐ろしいところからとにかく逃げ出すことであろう。家を復旧してまで住もうという考えが出てくるなんておよそ想像しがたい。ここから私の想像が大きく広がるのであるが、そのキーポイントがのろのろ台風12号のもたらした災害で思うことの最後に次のように述べたことである。折りを見て舞い戻ってくることとする。

地震・台風・津波による自然災害の、日本は宝庫?とも言える。近年は原子力災害がそれに加わった。住みやすい日本にすると政治家は折に触れて口にするが、自然災害対策一つを取り上げても、ただ自然の猛威に振り回されているだけで、被害が生じたらそれを修復するを繰り返しているだけのように私の目には映る。破壊されればそのままにして人間が逃げ出せば良いだけのこと、そんな対応をまともに考えるような人がいないものだろうかとふと思った。


のろのろ台風12号のもたらした災害で思うこと

2011-09-08 23:06:28 | Weblog
私が中学生から大学生の間、海に比較的近い木造二階建てに住んでいた。父の勤務する会社の社宅で、大正時代に建てられたものではなかっただろうか。秋の台風シーズンには何回も直撃に見舞われた。台風の進路に状況はラジオが便りの綱。でもその頃は少し強い風が吹くとよく停電するので、電池で動く携帯ラジオが必須であった。

その頃の雨戸は板戸で、不断は戸袋に収められていた。いざ台風がやって来ると海側の雨戸がにもろに強風が当たり弓なりになる。それを父や弟たちと一生懸命抑えるのである。雨が強いときはもろに部屋に飛び込んでくる。とにかく全力を振り絞っての闘いであった。やがて台風の目の中に入ると音が止む。急に静かになって一休みの時間である。しかし目が通り過ぎると今度は山側からの強風で、そちら側の雨戸とまた挌闘である。ようやく切り抜けたときは自然の猛威に真正面から立ち向かい、それをなんとか切り抜けたという誇らしげな気分に浸ったものである。その程度の台風だったからであろうが。しかし都会の真ん中であったにも拘わらず、どこから上がって来たのだろうか水が家の中に侵入することがあった。幸い床上浸水の経験はなかったが、この問題も次第に対策がとられて、いつの間にか浸水の怖れは無くなってしまった。

のろのろ台風12号がやって来たときは、確か女子サッカーの試合を観ていたと思う。ペアーガラス入りのアルミサッシの窓を、出窓を除いてはすべてシャッターで塞ぎ、風雨への対策は万全を期した。風はあまり感じられなかったが雨が激しく、天窓二つへ降りかかる雨音の凄まじさには驚いたがとくに不安を感じることもなく、観戦を楽しんでいた。昔からの様変わりが嘘のようである。しかしこの同じ頃、和歌山県と奈良県では未曾有の台風被害が発生していたのである。そしてこののろのろ台風の規模を産経新聞は、《台風12号は異例の低速移動で大雨を降らせ続けた。台風の運動エネルギーは強大だ。マグニチュード8クラスの地震の10~100倍の値に達するとされる》と伝えた。地震の大きさとの比較が直ぐにはピンと来ないが、その巨大な運動エネルギーが大規模な深層崩壊を引き起こしたと考えれば良いのだろうか。

地震・台風・津波による自然災害の、日本は宝庫?とも言える。近年は原子力災害がそれに加わった。住みやすい日本にすると政治家は折に触れて口にするが、自然災害対策一つを取り上げても、ただ自然の猛威に振り回されているだけで、被害が生じたらそれを修復するを繰り返しているだけのように私の目には映る。破壊されればそのままにして人間が逃げ出せば良いだけのこと、そんな対応をまともに考えるような人がいないものだろうかとふと思った。