南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

町役人は大忙し 文政12年4月中旬・色川三中「家事志」

2024年04月22日 | 色川三中
文政12年4月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

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文政12年4月11日(1829年)曇
昼過ぎ、名主(入江氏)宅にて寄合。町役人も出席。先日の高持百姓からの願書(入樋修繕の件)について協議。話しまとまらず。元名主の入江のご隠居も出席して協議したが決まらず。審議は継続となった。この日、腫物まだ治らず立膝で出席した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
足に腫物ができて痛み、体調を崩していた三中ですが(4月5日条)、未だ完調ではありません。本日の町役寄合は、入樋修繕の件の協議であり、町にとっても重大案件で、三中も昨年から高持百姓の立場で主張を展開していたため、痛みを押して寄合に参加しています。
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文政12年4月12日(1829年)晴
昼過ぎ、名主(入江全兵衛殿)と内々に話しをした。先日、公儀より、春米を高値で売らないこと、各種商品についてもこれまで同様の値で売ることとの御触れありとのこと。公儀の役人がそのときに各種商品を買いに来たので、大損害を被った者もあるとか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨年秋から物価高騰が問題となっております
(文政11年11月4日条)。幕府は消費者価格について物価統制を命令。しかし、事業者としては原材料高騰で価格転嫁できなければ、損が膨らむだけです。

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文政12年4月13日(1829年)晴
昼過ぎ、入江(名主)宅で話し。「入樋修繕の件で願書を出した2人に対して、貴君から話しをしてほしい、町役人の意向も、高持百姓の意向も立てるようにしてほしい」との話しあり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋修繕の件では、三中は高持百姓の利益を守るために動いていました。しかし、今年から町役人となり町政を担う立場にもあるため、間に挟まれて苦しいところです。今日の名主の話しはもっともですが、実現は困難です。


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文政12年4月14日(1829年)雨
朝、入江氏(名主)に、高持百姓の願書の件で話したいので、私宅までお出で願いたいとの書面を送った。入江氏は昼前に来たので、願書を提出した者も交えて話す。
その後、昼過ぎに栗山八兵衛殿(町役人)が来られ、この件につき話す。引き続き夕方まで酒を飲む。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日も入樋修繕の件。三中が取ったのは、高持百姓代表(=願書提出人)と名主や町役人と直接話す機会を設けることでした。双方の見解は隔たっています。何とか解決の糸口が見つかると良いのですが…。

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文政12年4月15日(1829年)曇り
「導水琑言」(医学書)を写し終わった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
導水瑣言』(どうすいさげん)は、和田東郭が水腫(浮腫を伴う病症)の理論や方薬の鑑別について口述した内容を門下生が筆記したもの。三中は忙しい合間をぬって医学の勉強をしています。


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文政12年4月16日(1829年)晴
西門の新助市郎平方一件が終了したので、願下書等をお持ちした。また、十一屋与四郎に返答書を出させるようにとのことを仰せつかった。
帰宅後、十一屋与四郎には、返答書を提出するよう伝えた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
訴訟の関係で町奉行宅にでも出向いたようです。十一屋さんの件でも分かるように、奉行が直接当事者に指示するのではなく、町役人を介しています。奉行としては省力化になりますし、当事者にとっても身近な町役人の方が何かと話しやすいでしょう。


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文政12年4月17日(1829年)晴
入江(名主)から会って話したいとの連絡あり。入江宅に行くと、「明朝早く牢内で敲刑があり、執行人が五人来るので、町役人として差添えをしてほしい」と言われる。その後、酒肴出されて雑談。
#色川三中 #家事志
(コメント)
名主からの連絡があり、行ってみると、明日敲の刑の執行があるから、町役人として立ち会って(差添え)ほしいとのこと。町役人の仕事は多岐にわたりますが、刑の執行の立会いもその一つです。

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文政12年4月18日(1829年)
夜明け前に起床し、入江氏宅に行く。明方に執行人が来たので、一緒に牢へ行く。土浦藩の役人もお出でになり、大嶋村の利兵衛を百敲とし、その後、執行人が利兵衛をモッコに乗せ、荒川界まで乗せていき、釈放した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
名主から昨日指示のあった「敲刑の執行の立会い」。早起きをし、名主宅で執行人と合流。執行場所の牢内まで一緒に行き、執行を見届けています。敲刑の後は、町外れまで連れていかれ(刑の執行直後は自立歩行不可なのでしょう)、釈放されています。
⇒要した費用の覚が4月26日条に記載されています(本ブログ末尾付1)
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文政12年4月19日(1829年)曇
入江素行及び木原氏と三人で東城寺駒ヶ滝まで赴く。ゆっくりと歩いて昼前に瀑布に辿り着く。 石上でわりこ酒を飲む。その興は極まりなし。入江素行が立岩上で横笛吹き、自作の漢詩を吟じた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日は町役人や薬種商の仕事から離れて、風流を解する友と滝まで赴き、石上で酒宴。友の一人は横笛を吹き、漢詩を吟じており、三中も「その興は極まりなし」と評しています。「木原氏」は、木原行蔵という土浦藩の武士。三中は町人ですが、木原氏とは様々な交流があり、本の貸し借り等もしています(文政10年9月8日条)。

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文政12年4月20日(1829年)曇
とんだや市郎平が藩役人から呼び出しを受け、同人の組合の弥吾右衛門も出頭。東崎分は、相手も十人、組合も十人出頭。私と八郎兵衛(東崎の町役人)が差添え。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦は中城町と東崎町があり(三中は前者の町役人)、この二町がからむ訴訟のようです。当事者以外に、組合(五人組)、町役人が立会うのが決まりです。

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付1
4月18日の執行に要した費用(執行者の昼食代)(この控え自体は4月26日条に掲載されたいます)

一 300文
上記の件は、先だって(4月18日)大嶋村の利兵衛を追放刑に処した際、執行者が荒川境界まで赴いたため、五人分の昼食代として受け取ったものですが、執行者に確かに渡しました。
丑年4月26日
宮古条助殿
入江全兵衛



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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 伊勢−奈良編

2024年04月21日 | 伊勢参詣日記
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 伊勢−奈良編

塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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四月九日 #明治18年伊勢参詣
雨。伊勢神宮の内宮、外宮社を目出度く奉拝。午後四時頃宿へ戻る。
(コメント)
・伊勢神宮を参拝。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。9日連続。
・本日は伊勢神宮参拝の記事のみ。「内宮、外宮社を奉拝」と書いているので、内宮⇒外宮の順で回ったようです。現在は、外宮⇒内宮の順で回るのが良いとされておりますが、明治18年にはそのようなことは言われていなかったのでしょうか。
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四月十日 #明治18年伊勢参詣
ようやく晴れ。午前七時頃宿を出立し、二見ヶ浦へ(二里)。同所から二里行き、朝熊神社を参拝。十町程下って、豆腐屋佐吉方で昼食。午後六時頃 宿へ帰宅。
(コメント)
・本日ようやく晴れました。雨の連続記録は9日でストップとなりました。
・伊勢の古来の参拝ルートは次のように紹介されています。
二見 → 伊勢神宮外宮(豊受大神宮)→伊勢神宮内宮(皇大神宮)→朝熊岳

江戸時代の参拝ルート 昔ながらのお伊勢参り | 公益社団法人 伊勢市観光協会

目次1 江戸時代のお伊勢参り2 古来の参拝ルート2.1 まずは、伊勢の海が美しい二見へ2.2 次は伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)へ2.3 ~古市街道を通って、外宮から内宮へ向かい...

公益社団法人 伊勢市観光協会


ルートこそ違いますが、伊勢神宮、二見ヶ浦、朝熊神社の三点セットは常吉たちも押さえております。
・朝熊神社
「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊をかけねば片参り」。
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四月十一日 #明治18年伊勢参詣
山田を出立。雨。馬車で六軒まで戻る(四里)。賃金12銭。 磯部屋利吉方で昼飯(十銭)。六軒から大和路に入る。三里行き、大の木村(大仰村)の油屋新七方で泊。泊料17銭。
(コメント)
・山田尾上町(現伊勢市尾上町)には3泊しました。伊勢を離れ、奈良に向かいます。
・山田尾上町から六軒へ。「六軒」は現松坂市六軒町。六軒は初瀬街道の起点であり、初瀬(現奈良県桜井市)まで街道が続いています。常吉は「大和路」と記しています。
・本日の宿泊は初瀬街道沿いの大仰村(おおのきむら)(現一志町大仰)。
常吉は「大の木村」と書いているのですが、正確には「大仰村」。読み方は、どちらも「おおのきむら」ですので、読み方だけ聞いて漢字をあてたのでしょう。

・本日の旅程
グーグル地図では約38 km。山田尾上町(伊勢市尾上町)-大仰村(津市一志町大仰)。六軒までは馬車ですが、それより後は雨の中を徒歩での旅でした。

尾上町 to 大仰

尾上町 to 大仰


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四月十二日 #明治18年伊勢参詣
大の木村(大仰村)を出立。曇。かいど村(二里)で休息。次いで、青山峠に掛かる。この峠は伊勢から伊賀との境である。伊賀茶屋で昼飯(十銭)。峠から三里二十九丁で名張駅。小竹屋彦兵衛方で泊、宿料は酒代込で三十二銭。
(コメント)
・大仰村(津市一志町大仰)を出立。青山峠は、日記にもあるように伊勢国と伊賀国の境。現在の地名でいいますと、三重県津市と三重県伊賀市の間にある峠です。峠には茶屋があり、ここで昼食。峠の茶屋というのは、徒歩での旅行が一般的だった時代に必要な施設だったことがわかります。
・青柳峠を下ると名張(現名張市)。同所で泊まりです。
・本日の旅程
グーグル地図では約42 km。昨日に引き続き、今日も移動のみで見学・参拝はなし。山道で、この距離、しかも徒歩行でしたからタイヘンだったはずです。
大仰(津市一志町大仰)-名張(名張市)

大仰 to 名張市役所

大仰 to 名張市役所



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四月十三日 #明治18年伊勢参詣
名張を出立。天気よし。名張から五里二十丁で榛原駅。油屋三郎平方で昼飯(九銭)。そこから一里で長谷駅。西国八番霊所長谷観音を参拝。長谷駅から一里半(人力)車に乗り、三輪に着く(賃金六銭)。三輪明神を参拝。明神前の竹田屋甚七方で泊。宿料二十銭。但し、その宿は梅川忠兵衛の隠れ家である。
(コメント)
・名張(名張市)を出立し、昼には榛原(現奈良県宇陀市榛原)に着きました。
榛原は、江戸期には伊勢参宮・初瀬詣の宿場として発展した宿場。伊勢本街道と初瀬街道の分岐点にあります。
・午後には長谷観音を参拝しています。
『枕草子』『源氏物語』『更級日記』などの古典文学にも登場する古くからの寺。現奈良県桜井市初瀬。
・次いで三輪(現桜井市三輪)にある神社)に移動し、三輪明神を参拝。
三輪明神は、明治時代に「大神神社」(おおみわじんじゃ)と改名されていますが、常吉は江戸時代まで呼ばれていた「三輪明神」と日記に記しています。
・本日は三輪で泊まりです。
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四月十四日 #明治18年伊勢参詣
三輪を出立。雨。(人力)車に乗って奈良へ(この間四里、賃金十二銭)。魚屋佐平方へ十一時頃着。大雨。午後は休みとする。泊料は二十錢。
(コメント)
・三輪(現桜井市三輪)を出立。昨日は晴れていたのですが、今日は雨。どうも常吉たちの旅は雨にたたられています。奈良までは人力車。昼前には奈良に着きましたが、大雨となってしまいましたので、参拝等は明日に延期としました。

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仮刑律的例 27 兵庫県での 酔狂乱暴につき流刑

2024年04月18日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 27 兵庫県での 酔狂乱暴につき流刑

【兵庫県からの伺】明治二年正月
明治2年巳正月7日、兵庫県からの伺い
先日(6日)、当県の判事である喜多村慶二の下男の友次郎が、同県運上所船改役の柘植重次郎及び三浦行蔵に手疵を負わせました。詳細は別紙始末書のとおりです。友次郎には入牢を申し付けました。
重次郎と行蔵が酔狂に乗じて不作法な行為を働き、士道を見失って禍を起こしたことは不埒至極であります。
怪我を負った両名にはすぐに治療を致しましたが、柘植重次郎は余病を発し、翌7日に死亡しました。三浦行蔵は快復してきております。
喜多村慶二判事は特段の落度もありませんので、これまでどおり勤務するようにと申し渡しております。
三浦行蔵及び下男の友次郎にはいかなる刑とすべきかお伺い致します。
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〈喜多村慶二判事から伊藤博文五位(兵庫県知事)への届書〉
昨日(6日)、七つ半頃、船改役の三浦行蔵外二名が面会を求めてきました。ちょうど夕食中であったため、夕食の後に面会しようとしたところ、三浦行蔵はひどく酔っておりました。三浦に同行していたのは船改役の柘植重次郎と杉浦英之進でしたが、この両名は面識のない者でした。面会したものの、具体的な用件もなく、酒がほしいというので、酒肴を出しました。
彼らは酔狂に乗じて暴言だけでなく、様々な不作法をしてきました。さらに酔いが回って私に対してあまりにも酷い悪口雑言を行いました。
三名のうち、杉浦英之進は最初から冷静であり、三浦行蔵と柘植重次郎の乱暴を抑えようとしていましたが、両名は取り合いません。
安井喜代三が来て、杉浦英之進と共に両名を何とかしようとしましたが、両名はますます暴れるばかりです。
これに我慢がならなかったのでしょう、下男の友次郎が勝手から走って参りまして、いきなり両名に対して手疵を負わせたのです。
このような不始末となってしまい、このまま自分の職務を続けてよいかと恐れ多く感じており、謹慎をさせていただきます。この上はいかなる処分もお受け致しますので、よろしく御沙汰ください。以上のとおり申上げます。
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〈兵庫県判事喜多村慶二の下男友次郎(50歳)の供述〉
私は、昨日(6日)、柘植重次郎殿外一名に対して怪我を負わせてしまい、御吟味を受けております。
私は兵庫県東柳原町に住んでおり、主人の喜多村慶二方で昨年6月から奉公しております。
昨日(6日)、夕刻に食事の用意をしていたところ、普段見知たことのない三人の者が主人に面会したいとやってきました。その旨取次の者に伝えましたが、主人の言葉も聞かないうちから玄関から入ってきました。主人は夕飯中であり、夕食後に面会する旨、取次の者が伝えました。
三名はいずれもかなり酔っており、酒を出せと申しますので、彼らのいうとおり酒肴を出しました。彼らは、主人と一緒に酒を飲んでおり、当初は暴力的なものはなかったのですが、段々と酒が進むにつれ、場を弁えず、言葉が粗暴なり、かつ、不作法なことを行い、主人のことを軽侮嘲弄する始末です。心もとないため、隣の間に控えて三人の動静を伺っておりましたところ、いよいよ暴言が甚だしくなり、一人は倒れて酒肴の器を両足で蹴っ飛ばしました。主人が便所に用を足しに行くのを、「逃げやがった」等と罵っていました。
このとき大阪府より急ぎの御用状が届き、これに返答するため、主人は御用状の返事を書かなければならなくなりました。その際に、主人を軽侮嘲弄したのです。主人は酔った者であり、このようなことをされても頓着しないで、平然と対応しておりましたが、彼らはそれにつけ込み暴行に及んだのです。折しも安井喜代三殿が来訪され、杉浦英之進殿でしょうか(その当時名前を存じあげませんでした)を隣室に招き入れ、何やら話をしていた。その間にも、柘植重次郎外一名が、主人に対して暴言を浴びせました。私は、彼らの以前からの粗暴な振る舞いに腹を立て、また主人が屈辱を受けているその心中を推し量り、身分の低い自分ながらも憤慨を隠し切れず、主人の恩義に報いるのは今しかないと思い、覚悟を決めて、主人から渡されていた脇差で二人に傷を負わせました。
このような行為に及んでしまい大変恐れいっております。この上は法に従って処罰を受ける覚悟であります。以上につき相違ございません。
以上。
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【返答】
正月晦日付紙
本件は、柘植重次郎と三浦行蔵が酔って主人の喜多村慶二に乱暴な振る舞いをしたため、主従関係にあるこの者が憤懣に耐えられなくなって切り付けたものである。過激な行動を取ったことは不届きであり、流刑とすべきである。
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【コメント】
本件は、兵庫県の喜多村慶二判事の下男、友次郎が2名の者に脇差しで切り付け、一名を死亡させ、一名に重傷を負わせたものです。
現代であれば、殺人罪か傷害致死罪かが大いに争われそうですが、その点についてはあまり意識された論述となっていません。
友次郎の刑は流罪となっています。



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ひたすら待機の日々 嘉永7年4月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年04月15日 | 大原幽学の刑事裁判
ひたすら待機の日々
嘉永7年4月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年4月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝、幸左衛門殿が帰っていった。小生は万徳(公事宿)へ袴代を持って行った。節五郎殿は長左衛門殿の所へ行き、部屋での奉公(バイト)について相談してきたとのこと。小生は、蓮屋(公事宿)へも袴代を持参。幽学先生は買物に出かけ、昼過ぎにご帰宅。
⇒上記をアレンジしてみました。
朔日であり、お世話になっている公事宿にご挨拶。万徳(公事宿)と蓮屋(公事宿)に袴代を持っていった。
こういう仕事は弟子の役目である。幽学先生は買物に出かけ、昼過ぎにご帰宅。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が「袴代」を公事宿に届けています。「袴代」は、おそらく公事宿への付届け。大原幽学たちは、本来公事宿に宿泊しなければならないのですが、経費節減のために借家に住んでいます。そのことを公事宿に黙認してもらうためのお金が「袴代」の正体ではないでしょうか。
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嘉永7年4月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿は旗本の石川様の新部屋で足軽奉公をすることが決まり、長左衛門殿が付添って石川様方に行った。
⇒上記をアレンジしてみました。
○節五郎殿は仕事先を探しており、昨日長左衛門殿の所へ行って相談してきた。旗本の石川様の新部屋で足軽奉公の仕事があり、今日、長左衛門殿と一緒に石川様のところに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良祐は先日バイト先を変え、旗本石川家の足軽部屋に住込みで仕事をしています(3月10日条)。節五郎も同じ旗本石川家の足軽奉公の仕事に決まりました。長左衛門が付き添っているところを見ると、彼は仕事の紹介をしているものと思われます。

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嘉永7年4月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿は昨日石川様方に行ったが、今日の夕方道具を取りに借家に一度戻ってきた。小生は石川様の門まで布団を持参した。
幽学先生が買物に出かけて、夕方に帰って来られた。
⇒上記をアレンジしてみました。
○節五郎殿は昨日から住込みの仕事が決まったが、何も持っていかなかったので、身の回りの物を取りに借家に戻ってきた。節五郎殿の布団は小生が持っていった。
幽学先生は本日も買物。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
足軽奉公は住込みです。節五郎は昨日から旗本石川家で住込みで働きはじめましたが、足りないものを取りに借家に戻ってきました。五郎兵衛は布団を担いで、節五郎に同道。その間、幽学先生はのんびりとお買い物です。
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嘉永7年4月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
昼前に高松力蔵様と神谷様が借家に来られた。力蔵様のことでお詫びをされたが、幽学先生は取り成しをされた。夕方まで様々な話があり、神谷様は夫婦の中での問題についてもご相談になった。幽学先生のお話しに感服され、こんどは妻を連れて相談に来ると言ってお帰りになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
日記からは高松力蔵と神谷様の関係がよくわかりませんが、おそらく力蔵の養子縁組上のトラブル(3月17日条)ではないかと思われます。であれば、神谷様はトラブルの相手方のはずですが、話しをしている間にすっかり大原幽学に心酔。これが幽学先生の魅力なのでしょう。

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嘉永7年4月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿が借家に来て、小生と共に会計の帳面に誤りがないか調べた。間違いが多くみつかり、幽学先生から厳しく叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛またもや幽学先生に叱られてしまいました。五郎兵衛は性格も優しく、江戸滞在中は一日も欠かさず日記をつけていたほどの筆まめですが、数字の方の才能はなかったようです。会計帳面に誤りが多く、幽学先生から雷が落ちました。
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嘉永7年4月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は高輪へお出かけになり、昼過ぎに戻られた。
茂兵衛殿は昼前に出かけ、惣右衛門殿が借家に来て髪を結い、湯に入って昼飯を食べて帰った。伊兵衛父も借家に来て、夕方には仕事場に戻った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生、高輪(現東京都港区高輪)へお出かけ。高松彦七郎に会いに行ったものと思われます。「高輪」はペリー来航以降、幕府の外交上、防衛上の拠点となっており、御家人の高松彦七郎は同所で勤務しています。
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嘉永7年4月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が昼前に借家に来て、小生に「節五郎殿が入った旗本石川家で辻番の夜番の口がありますよ」との話しあり。早速、幽学先生にご相談したところ、「夜番で勤めて、借家に来る人への世話が行き届かなくなるではないか!」と叱られた。
昼過ぎ、高松彦七郎様が借家にお出でになられ、二時間ほどでお帰りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛の仕事がなかなか決まりません。道友の良祐殿が心配して、仕事を紹介してくれました。しかし、紹介してくれたのは辻番の夜番。五郎兵衛は借家の雑事を担当しているので、両立の見込みはありません。それがわからず幽学先生に話しをもっていくから、叱られてしまうのです。

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嘉永7年4月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・節五郎殿は借家に昼前に来て、夕方に帰った。伊兵衛父や武左衛門殿も来たが、昼前には帰った。
・幽学先生は寝巻、幸左衛門殿と良祐殿は綿入れを船で地元に送ることになり、小網町まで茂兵衛殿が持っていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・節五郎殿や伊兵衛父は夜番仕事をしており、夜勤明けで借家に顔を出しています。
・江戸の小網町(現中央区日本橋小網町)には江戸時代、行徳河岸があり、ここから行徳行きの船が出ます。小網町は、千葉方面への物流の拠点だったのです。
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嘉永7年4月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が来て写し物をし、夕方に帰り、幽学先生は買物に出かけて、昼過ぎにはお帰りになり、伊兵衛父が夕方に来て、辻仲間の失敗談を話していた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「伊兵衛父」こと林伊兵衛(1794~1870)。十日市場村(現旭市)の林家の当主で、このとき60歳を超えていますが、辻番で夜勤のバイト。すっかり職場にも馴染んでおり、職場の失敗談を五郎兵衛に話しています。

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嘉永7年4月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿が借家に来た。「段々と勝手も分かり、毎日夜番をしております。随分と働きやすくなりました」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
節五郎が辻番の仕事を始めてから約一週間。だいぶ辻番の夜の仕事に慣れてきたようです。何事もなければ、巡回と待機であり、さしたるスキルがなくてもできたのでしょう。。

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付1 「足軽」(4月2日条)
節五郎が足軽の仕事をするとの記事がありました。足軽につき以下のものが参考となります。
尾脇秀和『お白洲から見る江戸時代』
「足軽は戦時なら前線に立つ雑兵である。腰に大小二本を帯びる「帯刀人」の範疇ではあるものの、士には決して含まれない。平時は門番などの単純な守衛業務などに従事し、勤務時の服装は青色や萌黄色の法被(羽織に似た形状)などを着ている。その背中などには 主家の印が入っている(『徳川盛世録』)。」

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付2 辻番の仕事
辻番の番人は 夜分、六尺棒を持って、廻り場(管轄区域)を巡廻するのが仕事。不審な者が来たならば留めておき、支配の役人へ届けなければなりません。屋敷から幕府の目付へ連絡して、目付の差図により動く定めでした。
何事もなければ、巡回と待機であり、スキルがなくてもできたのでしょう。そうでなければ、地方から出てきた農家にすぐに務まるわけがありません。
参考文献:石井良助『江戸の町奉行』



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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 静岡−伊勢編 4月1日-4月8日

2024年04月13日 | 伊勢参詣日記
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 静岡−伊勢編 4月1日-4月8日

塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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四月一日 #明治18年伊勢参詣
静岡を出立。町外れに安倍川。名物安倍川餅を食べる。安倍川の幅は二百八十間。橋は修繕中。仮橋を渡る。
そこから二里行き宇津ノ谷峠。峠には隧道あり、その長さ約二町、巾は約二間。中は暗く燈火を五つ照らす。
そこから一里行き、藤枝駅。かき屋傳造方で昼食。
雨が降ってきたので、大井川橋まで(人力)車に乗る。里程三里、賃金十銭。大井川橋の長さは七百四十間。
金谷駅を通って、小夜の中山峠新道を通る。峠の茶屋前に夜啼石あり。
日坂駅の川坂屋治郎殿方へ泊。泊料二十銭。
(コメント)
・静岡を出発し、安倍川へ。名物安倍川餅を食べます。名物についての言及は、この日記では初めてではないでしょうか。名物に目が無いのは、今も昔も変わりません。
・宇津ノ谷峠。1876年(明治9年)に隧道が開通しており(日本初の有料トンネル)、常吉たちが通ったのはこの隧道です。なお、この初代隧道は1896年(明治29年)に坑道内を照らしていたカンテラの失火によって崩落、閉鎖されてしまいました(現存する宇津ノ谷隧道は二代目)。
・藤枝で昼食を取った後、大井川にかかる蓬莱橋(常吉日記では「大井川橋」)。江戸時代に大井川には橋はなく、蓬莱橋が完成したのは明治12年(1879年)です。現存しており、今も昔も有料です。
・小夜の中山峠は、旧東海道の日坂宿と金谷宿の間にあり、急峻な坂の続く街道の難所でした。明治13(1880)年に中山新道(有料道路)が完成。常吉たちが通ったのはこの新道です。
中山新道は明治22(1889)年に国鉄東海道線の全通により利用者が激減し、明治35(1902)年に公道に編入され、有料道路ではなくなりました。
夜啼石は伝説ですが、夜啼石といわれる石を常吉たちも見ており(「峠の茶屋前に夜啼石あり」)、現在も存在します。
・本日の宿泊場所「川坂屋」。現在は、川坂屋・茶室ともに掛川市指定有形文化財となっており、無料公開されています。
・本日の旅程は静岡の伝馬町〜日坂宿。グーグル地図上では約42 km。宇津ノ谷峠、小夜の中山峠といった難所が多い旅程ですが、隧道や新道ができており、途中人力車をりようしたこともあって、40キロ以上の距離を行くことができました。

伝馬町 to 日坂

伝馬町 to 日坂



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四月二日 #明治18年伊勢参詣
日坂を出立。雨。袋井駅まで(人力)車に乗る(賃金二十銭)。約五里。
袋井駅から右へ二十町程入り、可睡村の秋葉三尺坊社を参拝。同社の後ろ一町は四面庭である。庭内に長さ約三間のホラ穴がある。かつて徳川家康公が戦争のときに御隠れになった由。
同社門前の三島屋成三郎方で昼食。料金七銭五厘。
二里半行くと天竜川。川幅百四十八間。
浜松までは(人力)車に乗る(約二里)。賃金八銭。
浜松の傳馬町五社明神の角、大末屋市郎衛門方で泊。泊料二十三銭。
(コメント)
・日坂宿(現掛川市)を出発しますが、雨のため、袋井駅までの約20キロは人力車に乗っています。
・「可睡村の秋葉三尺坊社」を参拝しています。現袋井市久能にある秋葉総本殿可睡斎のこと。「可睡斎」とは不思議な名前ですが、徳川家康のエピソードが名前の由来にあるそうです。
・「同社の後ろ一町は四面庭」。
秋葉総本殿可睡斎はかなり宏大な敷地を有しているようです。ホームページには以下の記載があります。
「4時間30分。それは可睡斎を一通り見学するために使う時間です。 10万坪(東京ドーム10個分以上)の境内、建造物数25棟、拝観箇所40、季節に応じて咲く花5万本、 日本有数の典座が用意した精進料理を体感することもできます」
・本日の参拝は秋葉総本殿可睡斎だけでした。天竜川から浜松まで人力車。頻繁に人力車が利用されており、明治10年代の旅は人力車が欠かせなかったことがわかります。
・浜松の伝馬町(現浜松市中区伝馬町)で泊。本日の旅程は、日坂宿〜浜松・伝馬町。
グーグル地図上では約40 km。

日坂宿橘屋 to 伝馬町

日坂宿橘屋 to 伝馬町



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四月三日 #明治18年伊勢参詣
浜松を出立。雨。入海(浜名湖)には長さ五十丁の橋があったが、新居までは汽船に乗った(六里)。 賃金十銭。
新居から二川まで(人力)車に乗る(二里)。賃金四銭。山家屋助五郎方で昼食。
そこから一里半で豊橋駅。札木町桝屋庄七郎方で泊。泊料十八銭。
(コメント)
・浜松を出立し、浜名湖は汽船で移動。新居から二川までは人力車。二川で昼食を取って、豊橋までは歩き。今日は移動ばかりの記事で、参拝・見学はなしのようです。

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四月四日 #明治18年伊勢参詣
豊橋を出立。雨。二里脇道に入り、豊川稲荷社を参拝。そこから馬車に乗って御油駅まで(二里)。賃金五銭。ゑびや安左衛門方で昼食。
御油駅からは 、岡崎まで馬車で乗る(約四里)。賃金十五銭。志きの屋篤治郎方に泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・豊橋を出立し、東海道を外れて豊川稲荷社を参拝。「稲荷社」とありますが、豊川稲荷は寺院。寺号は妙厳寺(みょうごんじ)。室町時代の創建です。
・豊川稲荷〜御油駅は馬車。御油は東海道五十三次の一。現在の御油駅は国道一号線沿いですが、JRの駅はありません(名古屋鉄道の駅はあります)。明治18年時点ではこの辺りの東海道線は開通しておらず、東海道五十三次を念頭においた日記の記載となっています。
・御油〜岡崎も馬車。鉄道がない代わりに、馬車便があったのでしょう。本日、岡崎泊。
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四月五日 #明治18年伊勢参詣
岡崎を出立。雨。知立神社を参拝。有松へ四里、團子屋利助方で昼食。名物の絞を求める。有松から(人力)車で熱田神宮まで行って参拝。名古屋で泊。 本町八丁目通、丸屋さとし方で泊。泊料十五銭。
(コメント)
・岡崎を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。
知立神社。江戸時代には東海道三社の一つに数えられており、その意識が常吉たち一行にもあったので、知立神社を参拝したのでしょう。
・なお、東海道三社とは、三嶋大社、知立神社及び熱田神宮(東から西の順)。常吉たちは、本日熱田神宮も参拝しており、この旅で三社全てを参拝しています。
・有松絞りは、名古屋市の有松町・鳴海町地域でつくられる木綿絞りの総称です。江戸時代から有名で、1975年には「有松・鳴海絞」の名前で国の伝統的工芸品に指定されています
・本日は宿泊場所は名古屋。東海地域随一の城下町ですから(東海道の宿場ではありませんが)、名古屋城を見学する予定なのでしょう。
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四月六日 #明治18年伊勢参詣
名古屋を出立。雨。名古屋城を外から見学。城内には鎮台兵がいるので、城内は見学できず。名古屋から津島神社まで馬車(里程約四里)。津島神社を参拝し、三好屋源六方で昼食。津島神社から、入海七里の渡場を小舟に乗って桑名へ上陸(賃金六銭)。丹羽善右衛門方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・名古屋を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。6日連続。どこまで連続記録が続くのでしょうか。
・名古屋では、やはり名古屋城を見学に行っていますが、陸軍兵が名古屋城を使っていたため、城内は見学できませんでした。
「鎮台」は、1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで置かれた日本陸軍の編成単位で。鎮台は、明治21年に「師団」に変更となり、その名称は消滅しました。常吉たちが訪れた明治18年にはまだ「鎮台」だったのです。
・名古屋から津島へ。津島街道という東海道の脇街道です。
・津島神社を参拝。津島神社は、京都・八坂神社とともに牛頭天王信仰の二大社として知られています。
・津島からは小舟で桑名へ。本日は桑名泊です。
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四月七日 #明治18年伊勢参詣
桑名を出立。雨。四日市(三里二十丁)、追分(壱里)。追分の浅草屋五兵衛 方で昼食。神戸(壱里半)まで行き、神戸から(人力)車に乗って津まで(里程五里、賃金十銭)。村田屋与兵衛方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・桑名を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。7日連続。
・四日市は東海道五十三次の一つ。追分(現四日市市追分)から伊勢参道に入ります。
・今日は見学・参拝はなく、ひたすら先を急ぎます。神戸からは人力車に乗り、津(現津市)に到着し、同所で泊まりです。

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四月八日 #明治18年伊勢参詣
津を出立。雨。六軒(二里)、櫛田(二里)。櫛田駅の紅九郎兵衛方で昼食。料金九銭。櫛田から(人力)車で山田尾上町。松島屋善三郎殿で泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・津を出立。今日も雨。4月1日の午後からずっと雨です。8日連続。
・津⇒六軒⇒櫛田と雨の中を徒歩。櫛田で昼食を取っています。「六軒」は現松坂市六軒町、「櫛田」は現松坂市櫛田町。
・櫛田からは人力車に乗り、山田尾上町(現伊勢市尾上町)。いよいよ伊勢に到着です。「山田」は伊勢神宮外宮の鳥居前町として発展してきた地域。山田地区の中に複数の町があり、尾上町もその一つです。
山田尾上町

尾上町 · 〒516-0031 三重県伊勢市

〒516-0031 三重県伊勢市

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仕事のし過ぎで体調を崩す 文政12年4月上旬・色川三中「家事志」

2024年04月11日 | 色川三中
仕事のし過ぎで体調を崩す
文政12年4月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

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文政12年4月朔(1日)(1829年)曇
・町奉行両名(藤井様、小幡様)にお祝いを申し上げた。町役人の栗山八兵衛殿と共に羽織袴で参上した。
・貸金の回収につき、大和や平兵衛が願書を提出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
朔日(1日)だからでしょうか、町奉行両名にお祝いを申上げに、先輩の町役人(栗山八兵衛)と共に出向いています。
中城町の町役人
名主入江全兵衛殿
町年寄 栗山八兵衛殿
町年寄 鈴木金之丞殿
町年寄 奥井吉右衛門殿
町年寄 色川桂助殿←これが三中です
・大和や平兵衛の願書は、江戸時代の貸金回収の訴状といえるもの。三中はその写しを日記に記載してくれていますので、「付1」として訳しておきました(このブログ記事末尾に記載)

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文政12年4月2日(1829年) 晴
・茂吉、佐助が鹿島に向けて出立。
・昼前に隣主人と伊勢や新助両名が来られ、入樋一件の願書を持参されたので相談する。この件は、昨年に我ら一同で案文を作っていたが、私が今年、年寄役となってしまったので、何分にも取り計らい方が難しい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「入樋一件」というのは、一昨年(文政10年)に悪水入樋が破損してしまい、その修理費用をどう分担するかという問題です。修理工事に約60両要し、土浦藩は14両しか出さないので、残りを土浦町人と虫掛村でどう分担するかが問題となっています。
・この願書の内容⇒付3

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文政12年4月3日(1829年)晴
隣主人と新助が来て、入樋の件で願書を提出。よくよくご検討いただきたいとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の件というのは、土浦の町人(高持百姓)の負担軽減を訴えるものです。昨年は三中はフリーな立場で主張だけしていれば良かったのですが、今年は町役人となってしまったので、その立場からはバランスも取らざるを得ず、なかなか苦しい立場です。
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文政12年4月4日(1829年)晴
朝、従業員の政之助と、川原代(現龍ケ崎市川原代町)の親戚、木村源三郎方へ行く。土産は山椒餅とうちわ一本。
日帰りの予定だったが、帰りがけに細井氏宅に寄ったら、引き留められて一晩泊まることにした。政之助は土浦に帰した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏は川原代(現龍ヶ崎市川原代町)に住んでいる三中の風流友達。昨年3月、5月と会っていましたが、そこからはご無沙汰になっていました。
なお、三中の家から-川原代町までは片道約22 km。日帰りとなると40キロ以上の場所です。

土浦城 大手門跡 to 川原代町

土浦城 大手門跡 to 川原代町


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文政12年4月5日(1829年)風 曇
今日、川原代(現龍ケ崎市川原代町)から帰る予定だったが、足の腫物が痛むので、もう一泊させてもらう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、土浦から川原代(現龍ケ崎市川原代町)に来た三中。日帰りの予定でしたが、親しい友人の細井氏と会って、一泊。今日土浦に戻る予定でしたが、足の腫物が痛み帰ることができなくなってしまいました。

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文政12年4月6日(1829年)曇 大南風
・足の痛みがあったが、川原代を出立し、土浦に日暮れに戻る。
・昨日の大風で江戸の芝の辺りで再び出火し、丸之内も焼けたとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・足の痛みを押して、川原代(現龍ケ崎市川原代町)から土浦(土浦市)まで帰ってきました。距離は20キロ以上あるはずで、かなり大変だったのではないでしょうか。
・江戸でまた火事。芝の辺り。旧暦4月というと、現在の5月ころでしょうが、大風に煽られての火事が発生しているのでしょう。

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文政12年4月7日〜9日(1829年)
この間、三中先生はご休筆です
←体調不良のようです
#色川三中 #家事志
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文政12年4月10日(1829年)
7日から今日まで体調不良で引きこもり。今朝、入江(名主)から相談があり、内談のためにも是非会って相談したいとのこと。明日の朝に行くこととした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
7日〜昨日(9日)まで休筆の理由は、体調不良でした。このところ日記の記載もかなり長く、町役人の仕事にかなりのめり込んでいる様子が窺えましたから、仕事のし過ぎでしょう。

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付1: 大和や平兵衛の願書(4月1日条)

貸付滞りの出入り
中城町百姓 願人 平兵衛
合計 金高 52両3分、村数: 12ケ村、人数: 28人
合計銀高 52匁2分
合計銭高 9貫311文
米高八俵
中城百姓 平兵衛
文政十二丑四月
町御奉行所様

奥印
名主 入江全兵衛
年寄 八兵衛
同 金之丞
同 吉右衛門
同 桂助←これが色川三中

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付2
指し上げ申す一札のこと
私たち組合の田兵衛が、府中(現石岡市)の御領分において中町組土橋町の百姓長兵衛という者から、盗品類を買い取ったとの疑いが生じております。
これまで何度か御吟味いただいておりますが、田兵衛は、買取った覚えはないと主張しております。
田兵衛を御吟味落着まで私たちにお預けになるとの仰せ承知致しました。よって、お請け連印し、本書面を提出致します。
大町の田兵衛組合
孫七、利兵衛、記七、与右衛門、伝蔵
文政十二年四月
町御奉行所様

前述の通り、田兵衛を組合が預る旨仰せ付けがあったので、奥印する。
奥印
名主 入江全兵衛
年寄 八兵衛
同 金之丞
同 吉右衛門
同 桂助←これが色川三中
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付3 乍恐以書付奉申上候
(恐れながら書付をもって申上げ奉ります)

一 中城町の高持百姓がお願い申し上げます。当町の田地は古来から水旱の患いがある場所です。田地の耕作だけでなく、商売をしなければ
生計が成り立たない場所です。御城下ですので、商売の利潤をもって、往来継立て、諸役、諸色に対応しておりましたが、町方も昔とは違って商人が多くなり、家の数がも多くなってまいりました。それに伴い、近年は諸掛りも増えました。田地の耕作収入は以前とはそう変わりませんのに、諸懸りは多くなり、高持百姓で専業農家の者は困窮し、難しい状況にあります。
このようなときに、亥年(文政10年)の冬に
、悪水入樋が破損してしまい、その修理が負担となっております。
普請には金59両2分ほど掛かりました。この内
、金14両2分は御上様よりの御下金、金5両は虫掛村よりの出金、残りの金40両は当町の高持百姓の負担となります。合計高は636石9斗6升7合ですので、計算すると、1石あたり、銀3匁7分6厘8毛出金しなければなりません。しかし、前記のとおり、百姓は困窮しております。
これまでにない多額の出金をしなけれならないことに皆当惑しております。
虫掛村の高は600石ほどもあるにもかかわらず、虫掛村方の出金はわずかに金5両です。
中城町に金40両も割付けがあるのは、前列のないことです。
古来の例を見ますと、普請で人足が700人かかる場合は、虫掛村から200人程を出し、中城町からは500人ほどを出していました。諸色については、各々半分を負担していました。
近年、諸懸り等が増えており、このような割合では対応難しいのです。何卒、旧来のとおりに諸懸りの割合をご指示ください。そして、割合が決まるまでは、お取り立てを延期していただくようお願い致します。
虫掛村からは金7両は出金するとのことです。それ以降の入樋普請については中城方より金7両を支払い、あとは虫掛村で引き受けて仕上げていただきたくお願いいたします。この度は、このような形で進めさせていただけるかどうか、一同で協議させていただきます。何分、高持が困窮しておりますし、特に昨年中出水して耕作ができない者もおります。何卒、従来の御定法どおりに、御割合を御仰付けいただきたくお願い申上げます。以上

中城町庄三郎後家ひで 代新助
田宿町 権右衛門
文政12年丑年4月

入江全兵衛殿
栗山八兵衛殿
鈴木金之丞殿
奥井吉右衛門殿
色川桂助殿

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月の最終日は全員集合・嘉永7年3月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年04月08日 | 大原幽学の刑事裁判
月の最終日は全員集合・嘉永7年3月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分)。
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嘉永7年3月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、湯島切通しのかつはやへ、御出になられた。昼過ぎにお帰りになり、風呂に入られた。伊兵衛父が借家に来た。幽学先生は伊兵衛父から漁業の相談等をされた。その後、両国の方に外出された。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛日記は、大原幽学だけにスポットを当てておらず、道友たちの行動を日々記録していることが多いのですが、今日の日記は、珍しく幽学先生に焦点が当てられています。
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嘉永7年3月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
高松力蔵様が昼前に借家に来られ、夕方にはお帰りになられた。幡谷老人は帰村の手続きのため、御役所に行った。
小生は菜の漬直し。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学は刑事裁判の被告人なのですが、彼を取り巻く人々は、幽学を信頼しており、人生の様々なことを相談しています。五郎兵衛日記に記されている幽学の言葉を読んでも、ピンと来る発言をしているようには見えないのですが、周囲の人々を納得させるような人柄だったのでしょう。

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嘉永7年3月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
節五郎殿は、幡谷老人の手続き関係で蓮屋(公事宿)へ行き、五ツ時には戻ってきた。幽学先生は少々ご不快で御休みになられていた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「幡谷老人」というのは、「幡谷」(現成田市幡谷)に住んでいる老人という意味です。
嘉永6年2月25日条では、「幡谷村の古老半十郎」とありますので、この古老のことを指しているのでしょう。日記を書いているうちに、正規の名前ではなく、略したりあだ名を記載するというのは、それだけ近しい間柄となったからでしょう。
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嘉永7年3月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は買物に外出され、腰物三本を買って昼過ぎに戻られた。幡谷老人、伊兵衛父が借家に来られ、日暮れまで語り合った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は今日は、刀剣を売る転売ヤーの仕事の仕入れ。今日は腰物三本を買ってきました。幡谷老人、伊兵衛父、いずれも高齢者ですが、幽学を囲み、様々な年代の人たちとのコミュニケーションが生まれています。
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嘉永7年3月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
小生、早朝に小石川の高松家に行き、鎖のことを聞いてきた。書物や着物等のことも幽学先生から頼まれていたので、高松家から持ち帰った。
幡谷老人の帰村のため、節五郎殿が蓮屋(公事宿)の手代に手続きを頼みに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は刀剣を売る転売ヤーの仕事をしており、最近は本所や芝あたりで鎖を探しています(3月9日条)等。今日は、五郎兵衛を使いとして、高松家に鎖のことを聞きに行かせています。
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嘉永7年3月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は買物に行かれ、腰物一本買って帰ってこられた。良祐殿来て、晩には帰った。小生は石川様屋敷の平山佐平様方まで白米を取りに行った。途中で雨が降り難渋した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学先生は今日も腰者(刀)の仕入れです。3月24日には3本、今日も1本購入しています。この資金はどこから出ているのでしょうか…。五郎兵衛は白米を取りに行きましたが、途中から雨に降られて困っています…。
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嘉永7年3月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿と長左衛門殿が来て、碁を打っていた。小生は丁子屋へたばこを買いに行った。昼前に時雨となり、大雷鳴と共に氷降る。大雨となったが、昼過ぎから天気となる。良祐殿らは夕方には帰られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
碁を打つという記事も久しぶりです。借家住まいの者が多かったときは、暇つぶしに碁を打つことが多かったのですが、良祐を初め住込みの仕事となってしまったので、それもなくなってしまいました。皆、忙しく仕事をしていますが、五郎兵衛は相変わらず仕事見つからず。それでもマイペースなのが五郎兵衛の良いところ。

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嘉永7年3月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
小生は、節五郎殿と日本橋へ鯛を買いに行った。幽学先生は買物に行かれ、昼過ぎにお帰りになられた。小見川の茂兵衛殿が来て、借家に泊られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・日本橋に高級魚を買いにいっています。非常に珍しいことですが、鯛が何のためだったかは記載がありません。
・小見川の茂兵衛は、昨年2月の日記にも江戸に来たことが記載されています(嘉永6年2月21日条)。大原幽学の門人で時々小見川(現香取市小見川)と江戸を往復しているのでしょう。
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嘉永7年3月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
今日で3月も終わり。道友一同決算のために借家に集まる。
昼過ぎには高松彦七郎様が御出でになったが、その後御帰りに。夕方には高松力蔵様が御出でになり、お泊り。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
嘉永7年3月は小の月で、今日29日が3月末日です。末日で締めて帳面を作成するのは、経費削減策の一環であり、資金稼ぎの為に住込みで仕事をしている者もこの日は集まって決算作業をします。五郎兵衛は帳面の作成が苦手で、昨年12月には帳面の作成に悪戦苦闘していました(嘉永6年12月3日条)。
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嘉永7年に3月30日は存在しませんので(嘉永7年3月は小の月)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 
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嘉永7年に3月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判
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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 東京−静岡編 3月24日-3月31日

2024年04月07日 | 伊勢参詣日記
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 東京−静岡編 3月24日-3月31日

塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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三月二十四日 #明治18年伊勢参詣
東京を九時頃出立。泉岳寺、赤穂義士四十七人木像を見物する。十一時頃から大雪降る。
品川の大津屋宇衛門殿方で昼食。
川崎へ二里二十一丁、朝日屋武衛門殿方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・馬喰町で6泊し、東京見物をした一行。いよいよ東京を後にして、伊勢に向かって東海道を下って行きます。
・高輪の泉岳寺。「赤穂義士四十七人木像を見物」とあり、墓よりも木像の方が印象に残ったようです。現在は泉岳寺の講堂2階が義士木像館となっています。
・ここで大雪が降ってきました。3月下旬の東京での降雪は珍しいので(ここ40年では1988年と2020年)、旅にはアンラッキーでした。
・品川で昼を取ったあと、川崎まで歩いて、この日は川崎泊となっています。大雪の影響でしょうか。
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三月二十五日 #明治18年伊勢参詣
川崎から出立。汽車で横濱迄乗る。里程三里、賃金十五銭。十時頃から横濱市中を見物 。福井屋忠兵衛方で昼食。
二時頃横濱から蒸気船に乗り、横須賀に四時頃着。松阪屋藤蔵殿で泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・昨日の大雪による遅れを取り戻す為か、川崎〜横浜まで汽車に乗っています。運賃(当時は「賃金」)は15銭。川崎での一泊が22銭ですから、宿泊料に比べると割高ですね。
汽車の時速は約30キロ、川崎〜横浜間は20分だったそうです。
・「横濱市中を見物」とだけありますが、横浜の外国人居留地を見たのでしょう。
・横浜から横須賀までは蒸気船で向かい、横須賀に宿泊しています。
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三月二十六日 #明治18年伊勢参詣
横須賀の機械場、軍艦等を見物。宏大である。松坂屋方で昼食。
小舟で金沢へ。金沢八景を眺める。風景佳し。
鎌倉に行き、官幣社鎌倉宮を参拝。往時大塔の宮という。八幡社を参拝。
半里行き、長谷村。三ツ橋與八殿方で泊。泊料二十二銭。
(コメント)
・横須賀には、1866年(慶応元年)、江戸幕府により横須賀造船所が開設され、1884年(明治17年)には横須賀鎮守府が設置されています。造船と海軍の拠点であり、当時は工場見学、軍艦見学ができたようです。常吉は、「宏大なること上げて数ふ能わず」と評しています。
かつては景勝地であった金沢ですが、現在ではその景勝は失われており、「金沢八景駅」という駅名にその名残りがあります。明治18年の時点ではまだ金沢八景の形式は保たれていたようです。
・一行は金沢から、鎌倉の官幣社鎌倉宮に行きます。鎌倉宮(かまくらぐう)は、鎌倉市二階堂にあり、護良親王(後醍醐天皇皇子)を祭神としています。1869年(明治2年)2月に造営された新しい神社です。
・八幡社(鶴岡八幡宮)を参拝しています。八幡宮は現代でも鎌倉観光の定番ですね。
・横須賀から金沢(横浜市金沢区)へ。横須賀からはグーグル地図上で約7キロですが、常吉たちは小舟で金沢へ渡ります。

海上自衛隊 横須賀造修補給所 艦船部 to 金沢八景駅

海上自衛隊 横須賀造修補給所 艦船部 to 金沢八景駅


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三月二十七日 #明治18年伊勢参詣
鎌倉を出立。大佛様、その高さ四丈八尺。
観音社、権五郎社を参拝。
小舟で江ノ島まで乗る。賃金二銭。江ノ島に十時頃着き、辦天社を参拝。恵比寿屋茂八殿方で昼食。
江ノ島から三里二十五丁で平塚駅。笹屋伊兵衛殿方へ泊。泊料二十銭。
(コメント)
・昨日は、長谷村(現鎌倉市長谷)に泊まりましたので、まずは鎌倉大仏を参拝します。
・「観音社」は長谷寺のこと。同寺の観音です。また、「権五郎社」は御霊神社(現鎌倉市坂ノ下)のことです。
・鎌倉から江ノ島までは小舟で渡っています。江ノ島に橋が初めて掛けられたのは、1891年(明治24年)です。明治18年には橋は存在していませんでした。
もっとも、干潮時には徒歩で渡ることができました。葛飾北斎の富嶽三十六景「相州江の島」にはその光景が描かれています。
・江ノ島では弁天社を参拝。
・本日は平塚(現平塚市)に泊まっています。
・本日の旅程は鎌倉市長谷〜平塚。
グーグル地図上では約20 kmですので、ノンビリした感じです。

長谷 to 平塚宿本陣旧跡

長谷 to 平塚宿本陣旧跡


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三月二十八日 #明治18年伊勢参詣
平塚から出立し、一里で大磯。そこから小田原(四里)。斎藤福松方で昼食。
小田原から箱根湯元へ(二里)。二時頃着、福住九蔵殿方へ泊まり、入浴。泊料二十三銭。
(コメント)
・江戸後期の浮世絵に描かれた箱根湯本
・本日の旅程は平塚〜箱根湯本。
グーグル地図上では約25 kmですが、これは明日の箱根越えに備えているからでしょう。

平塚宿本陣旧跡 to 湯本

平塚宿本陣旧跡 to 湯本




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三月二十九日 #明治18年伊勢参詣
箱根湯元を出立。天気悪し。箱根峠は険阻。湯元から箱根駅(四里)。土生(はふ)屋で昼食。
三嶋駅へ(三里)。三嶋神社を参拝。馬車に乗って沼津駅(一里半)、原駅(一里)、鈴川駅(二里)。馬車には五里ほど乗り、賃金十五銭。甲州屋喜衛門殿方で泊。泊料十六銭。
(コメント)
・箱根湯本を出発し、箱根越え。あいにく天候が悪く、険阻な峠道を行くのも難儀したことでしょう。
・昼食を食べた土生(はふ)屋は当時、はふやホテルを名乗っており、後に買収されて現在は箱根ホテルとなっています。
・箱根を越えてからは、三嶋(現三島市)までは徒歩で行き、その後は馬車に乗り換えています。沼津(現沼津市)、原(現沼津市)を通って、本日は鈴川(現富士市)泊。
・本日の旅程 箱根湯本〜鈴川。グーグル地図上では約48 km。うち約20キロは馬車でした。

湯本 to 鈴川の富士塚(鈴川淺間宮)

湯本 to 鈴川の富士塚(鈴川淺間宮)


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三月三十日 #明治18年伊勢参詣
鈴川今井村を出立。出立の際雨。倉沢(鈴川から四里)の富士屋七兵衛方で昼食。
午後二時頃興津(倉沢から二里)に着。
水口屋半十郎方に到着。
清見寺を参拝。その御座敷、今上帝(明治天皇)の行在所、御庭等全て奇麗。
水口屋の二階から、三保の松原を眺める。その風景佳し。水口屋にて名物の興津鯛を食べる。水口屋泊。泊料二十六銭。
(コメント)
・鈴川今井村(現富士市)を出発し、雨の中倉沢(現静岡市清水区)まで。
・倉沢で昼食後、興津(現静岡市清水区)へ。倉沢〜興津は二里しかなく、午後二時には興津に着いています。
・興津の清見寺(せいけんじ)。奈良時代の創建と伝えられています。常吉は「御庭等全て奇麗」と評していますが、庭園清見寺庭園は現在国の名勝に指定されています。
・本日の旅程 鈴川(現富士市)〜興津(現静岡市清水区)。グーグル地図上では約25 km。

鈴川の富士塚(鈴川淺間宮) to 興津清見寺町

鈴川の富士塚(鈴川淺間宮) to 興津清見寺町



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三月三十一日 #明治18年伊勢参詣
興津を出立。曇り、風荒れる。久能山(興津から三里)の東照宮、徳川家康公の墓を参拝。坂ノ下の豆腐屋直兵衛方で昼食。
静岡(久能山から四里)の浅間権現社を参拝。七社有り、その上には公園地。四方を見渡すことができ、風景佳し。
傳馬町の東萬屋清三郎方で泊。泊料二十三銭。
(コメント)
・興津を出立し、久能山(静岡市駿河区)へ。久能山東照宮と徳川家康公の墓を参拝しています。
・久能山から静岡市街へ。静岡浅間神社(静岡市葵区)を参拝しています。
・本日の旅程 興津(現静岡市清水区)〜傳馬町(静岡市葵区)。グーグル地図上では約26 km。

興津清見寺町 to 伝馬町

興津清見寺町 to 伝馬町


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仮刑律的例 26 長崎府からの刑律問合

2024年04月06日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 26 長崎府からの刑律問合

【長崎府からの伺】
明治2年正月、長崎府からの問い合わせ。
刑律は、新律の御布令まで、故幕府への御委任に基づく刑律(公事方御定書)が継続されますが、
・磔刑は君父を弑する大逆に限ること
・その他の重罪や焚刑は梟首とすること
・追放や所払いは徒刑に変えること
・流刑は蝦夷地に限られること
・百両以下の窃盗罪は死罪とはならないこと
と修正する旨定められています。
また、死刑については勅裁を経ることが必要で、府藩県とも刑法官に伺いを出すべき旨の行政官からの御布令もでています。
しかし、これまで当地においては徒刑を行ったことがありませんので、徒刑の取り計らい方等につき、問い合わせいたします。
【伺い①】
一、これまで長崎で行われていた入墨・敲・追放や所払いなどの御仕置きを申し付けていた無宿者、又は無罪であっても無宿であり、所々を立ち回って風儀がよろしくない者は、同所大黒町にある人足寄場へ送っていました。銘々のスキルに従って仕事をさせて、説諭を加え、その罪の軽重や身の慎み方の良し悪しに応じて、寄場にいる年限や月限を定めます。期限が来て、身寄りの者の引き受けの願い出がある場合は引き渡しを致します。以上が旧幕府時からの仕来りであります。
今般、この寄場を徒刑場に換え、追放や所払いを徒罪に換えますが、従前と同様、銘々のスキルに従って仕事をさせ、年限が来て、身寄りのものが引き受けの願い出をすれば引き渡す扱いとさせていただきたくお伺い致します。
【返答①】そのとおりでよい。

(コメント)
長崎府の伺いを読むと、長崎府が人足寄場をどのように運用していたのかが分かります。
* 長崎では旧幕府時代から、無宿者は人足寄場へ送られていた。人足寄場は大黒町(現長崎市大黒町)にあった。
* 寄場では、スキルに応じて仕事をさせ、罪の軽重や改心の有無に応じて滞在期間を定めていた。
* 身寄りの引き受けがあれば引き渡しをしていた。


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【伺い②】
一、徒刑の年限は、先例がないため当分の間次の通りでよいか伺います。
- 敲の上、重追放相当者- 1800日
- 重追放- 1440日
- 中追放- 1080日
- 軽追放- 720日
- 長崎市中郷中払- 540日
- 長崎払- 360日
- 所払- 200日
【返答②】徒刑の年限は行政官布告のとおりとせよ。
(明治元年10月行政官布告抜粋)
徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。

(コメント)
徒刑というのは現在の懲役刑です。徒刑は江戸時代にはなかったものですが、「追放や所払いは徒刑に変えること」というのが明治政府の方針ですので、府藩県は徒刑期間をどのようにすべきか戸惑いました。明治政府はこの点について、「徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。」というばかりで具体的な指示を出さなかったので、なおさらです。長崎府の徒刑期間案は、この時期の徒刑期間が分かり、大変興味深いものです。
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【伺い③】
一、徒刑場の囲いを破ったり乗り越えて逃げたりする者には、御仕置きを行うことを承知してください。
【返答③】返答②に同じ。
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【伺い④】
窃盗の被害金額が百両以下の場合は死罪とはしないと行政官布告にあります。これは、手元にある品をはからずも盗んだ場合、戸が開いていた場合、家の中に人がいなかった場合の規定と受け止めております。
窃盗の際に人を殺し又は傷つけた場合、計画的に徒党を組んで押込みをした場合、家の中に忍入ったり土蔵破りをした場合、追剥や追い落としをした場合は、被害金額の多少によらず、長崎府の先例どおりに仕置をしてよいかお伺いします。
また、入墨の上重敲・入墨敲・重敲・敲相当の罪状の者は、行政官のご布告により徒刑に換えますが、次のように換えることでよいか伺います。
- 入墨の上重敲相当の者: 入墨の上、200日の徒刑
- 入墨敲:入墨の上、100日徒刑
- 入墨:400日徒刑
- 重敲:200日徒刑
- 敲:100日徒刑
- なお、入墨を入れる場合は左手の甲に「長崎府二百日徒刑」「長崎府百日徒刑」と入れるように致します。
【返答④】笞刑は五十又は百の二通りと仮に定めたので、それに従うこと。入墨等については、新律が制定されるまでは、従前のとおりで良い。

(コメント)
この伺いには2つ質問がありますので、問の内容毎に見てみましょう。
1 次のような場合は死罪を検討してよい。
・窃盗の際に人を殺し又は傷つけた場合
・計画的に徒党を組んで押込みをした場合
・家の中に忍入ったり土蔵破りをした場合
・追剥や追い落としをした場合
1 長崎府では、入墨の上重敲・入墨敲・重敲・敲の刑を行っていたところ、敲刑を徒刑に変えなければならないと考えていたようです。
しかし、明治政府はこの時期は笞刑を認めており、その数は50回又は100回の二通りと仮に定めていました。
また、入墨を入れる刑も認められていました。

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【伺い⑤】
御仕置の伺書については、旧幕府のときのようなもので良いでしょうか。幕府のときに雛形が用意されておりましたが、その通りでよいかお伺いします。
【返答⑤】そのとおりでよい。
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江戸大火起こる・文政12年3月下旬・色川三中「家事志」

2024年04月04日 | 色川三中
江戸大火起こる・文政12年3月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年3月21日(1829年)晴
従業員佐助のことで、谷田部不動町の徳左衛門のところに行く(茂吉同道)。徳左衛門は酒肴に出して歓待してくれたので、馳走になる。昼過ぎにに親戚の飯塚家へ立ち寄ってから帰る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
谷田部(現つくば市谷田部)には「不動町」があったようですが、現在はつくば市谷田部となっており、大字としてはのこっていません。谷田部の不動並木跡というものがあり、不動町の名残を伝えています。谷田部不動町までは、三中宅から往復約30キロありますが、日帰りしています。
土浦⇒谷田部

土浦城 大手門跡 to 谷田部の不動並木跡

土浦城 大手門跡 to 谷田部の不動並木跡


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文政12年3月22日(1829年)晴
昨日昼前に、江戸の外神田佐久間町から出火し、大伝馬町、小伝馬町、本町通りが全焼、東は浅草見付、 西は鎌倉川岸の豊嶋や、南は芝口新橋で留まる。近年稀なる大火。
取引先で全焼したところ以下のとおり。今朝与市は宿へ帰ってしまい、利兵衛殿は銚子へ私用旅行中。人がおらず、どうにもしようがない。
#色川三中 #家事志
(全焼した取引先)
いせ町 中条瀬兵衛
堀留 長崎や瀬兵衛
和泉町 四方久兵衛
小網三 土浦屋太兵衛
橘町三丁目 大坂や平六
横山町二丁目 近江や小兵衛
小船町 大枝清兵衛
今川はし 和泉や吉右衛門
本町四丁目 北川儀右衛門
本町三丁目 いせや平八
箱崎 常陸や太兵衛
小あみ三丁目 常陸や吉二郎
としま町 今川勾当
大伝馬町弐丁目 いせ屋惣兵衛
通壱丁目 白木屋彦太郎
(コメント)
文政の大火の記事。3月21日、江戸の神田佐久間町から出火。焼失家屋は37万、死者は2800人余りに達したといわれております。昨日起こった火事ですが、ここ土浦でも取引先の情報を把握しており、情報の伝達の速さには驚きます。

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文政12年3月23日(1829年) 晴
・この頃毎日晴れて日照り続き。在方では苗代作りに甚だ困っている由。
・夕方間原平右衛門が帰ってきた。江戸のことあらまし聞く。大火である。親船七艘が焼けた由。土浦船は田安様が御成で、下へさがっていたので、運よく焼けなかった由。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・晴れてばかりで、雨が降らず、米作りにも影響が出ています。
・友人から江戸大火の情報を聞いています。土浦船は何とか被害に合わなかったようです。

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文政12年3月24日(1829年)晴
与市も利兵衛殿も不在ゆえ、火事の見舞いには色川庄右衛門殿に頼んで江戸まで行ってもらうこととした。江戸の取引先等に16通書状を書いた。見舞い金として、金2分2朱銭800文を持っていってもらう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸の大火での被害者に対して、見舞いを遣わすべきところですが、三中の従業員でそのような話しができる者が出張などで出払っており、やむを得ず色川庄右衛門殿に頼むことに。色川庄右衛門は、色川家親族の代表者的立場に有る人です(2月4日条参照)。
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文政12年3月25日(1829年)晴
・朝、色川庄右衛門殿、江戸に向けて出立。被災した取引先への見舞い金と書状を託した。
・熊のや忠蔵が、息子清兵衛の先日の一件で礼に来た。金壱朱、半紙壱状添えで持参してきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
清兵衛は、先日酔った勢いで湯屋で帯を盗むという刑事事件を起こしたのですが、町役人が動いたこともあり、刑事処罰は免れました。清兵衛の礼は半紙二丈でした(以上、3月8日〜10日条)。少ないと思ったのか、父親の忠蔵が金壱朱、半紙壱状添えで礼に来ました。

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文政12年3月26日(1829年)晴
・等覚寺で角力興業の計画あり(寺の境内で行う)。昨日、寺社御役所宛の願書の提出があり、本日、町役にて奥印。
⇒願書の本文は末尾付1&2
・夜に入って大雨。御奉行は風烈廻りをされた。雨は終夜に及んだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・等覚寺は土浦の町にある寺(現土浦市大手町4−16)。寺の境内で角力興業をしたいという願書が提出されました。寺社御役所宛ですが、町役人に提出し、町役人が奥印をしてから、藩に提出されるのがルール。町役人としては、形式が整っているか、宛先をは間違いないか、提出した人物が名義人かを確認しているのですね。
・風烈廻りとは、風が強い日の火災予防等の取締りのこと(2月21日条参照)。これまでずっと晴れて日照りで困っていましたが、風烈廻りをするほどの大雨。文政12年も振れ幅の大きい天候不順だったようです。

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文政12年3月27日(1829年)雨 昼前から晴
等覚寺から角力興行の願書の写しを取りたいとの要請があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
等覚寺の和尚が願書を提出しており、内容は自分で分かっているはずです。それでも写しを取りたいというのは、奥印も含めての写しを残しておきたいのでしょう。現代のようにコピー機はないので、手書きの写し。そのようなものでも記録として残すことに価値があったのですね。
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文政12年3月28日(1829年)晴
奉行所での吟味に町役人として立会。
正午、荒川や太兵衛を呼出す(組合の記七・伝蔵も)。御疑心あるため、細田や次郎右衛門も御呼出し(組合の藤吉・源治も)。次郎右衛門の供述により、田兵衛を再御呼出。夕方になりひとまず終わる。「心得違いのないよう、よくよく町役人とも話すのだな」との仰せあり、一同下がる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
奉行所での吟味(刑事裁判)に立会うのも町役人としての仕事。何が問題となっているのか、私にはよく分からないのですが、被告人荒川や太兵衛の主張に不明なところがあり、奉行所は参考人次郎右衛門も取り調べを行っています。午後いっぱい吟味に時間を取っていますが、決着せず、町役人とよく話すように奉行所は促しています。
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文政12年3月29日(1829年)晴
江戸から帰ってきた者(和田や)から、大火の話しを聞く。
親船三十七艘は全焼の由。船のために佃島にも類焼。今回の火事はその時にはわからなかったが、時をおって詳細が知れると、当初の話しより大変である。
長崎やは店舗のみ焼失。中条は店舗及びかしの樽蔵が焼失。四方も店舗のみ焼失。近小(近江や小兵衛)からは今日書状が届き、被害は店舗のみで、人は無事とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
文政の大火の続報。当初聞いていた話しよりも、被害は深刻そうです。後世には、焼失家屋37万、死者2800人余りと伝わる大火ですので、無理もありません。当時は島だった佃島だったにも船を介して延焼。恐るべき火事の勢いです。

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文政12年に3月30日は存在しませんので(同年3月は小の月)、#色川三中 #家事志はお休みです。
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文政12年に3月31日は存在しませんので(旧暦には31日は存在しません)、 #色川三中 #家事志はお休みです。

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付1:等覚寺の願書①〈3月26日条〉
『書面をもってお願い致します』
当寺の境内は地面が低いため、出水致しますと参詣者が難渋致します。直したいと思いますが、貧寺でありまして自力では難しいのです。これまでに本堂から門前までの敷石の設置を計画し、着手はしたのですが、完成には至りませんでした。資金に難渋しておりますので、江戸大角力興行を行い、この資金を普請金とさせていただきたく存じます。何とも自由がましくて恐入りますが、お聞き及びいただければ幸いです。 以上
田宿町 等覚寺
文政十二丑年三月
寺社御役所
以上のように田宿町等覚寺からの願いがあったので、奧印致します。以上
入江全兵衛
八兵衛
金之丞
吉右衛門
桂助(色川三中)
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付2:等覚寺の願書②〈3月26日条〉
『書面をもってお願い致します』
当寺の本堂、庫裏、裏屋根等が大破しておりみまして、甚だ難渋至しております。修復作業を進めておりますが、境内や外地の窪んだ場所からの水の浸入も深刻です。仏参の方も難渋しております。本堂より表通りまでの土地も整備致したく、この段お願い申し上げます。特に本堂から門前までの敷石の設置は先年願書を提出し、着手もしておりますが、完成しておりません。必要な資金が不足しているため、檀中の皆様とも相談しましたが、近年に打ち続く凶作で一同困窮しております。
当節、近隣で歌舞伎や芝居が行われ、五日間晴天が続いたこともあって、その成功により資金を得たので、当寺にも角力興行を行いたく、よろしくお願い致します。従前、桜橋、銭亀橋、真鍋村辻の三か所に建札を建てたとのことですので、同様に行わせて下さい。
興行場所や日にちについては、後日お知らせいたします。何卒、この願いをご理解いただき、承認していただけますようお願い申し上げます。以上
田宿町 等覚寺
文政十二年丑三月
寺社御役所
奥印は前のとおり



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