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橋本胖三郎『治罪法講義録 』を読む・第一回 総論

2024年03月28日 | 治罪法・裁判所構成法

橋本胖三郎『治罪法講義録 』を読む・第一回 総論

【コメント】
第一回講義のうち「総論」を紹介します。原文には小見出しがありませんが、文が長いと意味を取りにくくなりますので、小見出しを括弧書きで入れました。以下、要約です。
①治罪法の法典は明治以前には存在せず
治罪法は刑事手続きに関する法律です。実体法である刑法には、刑法典が存在したものの、刑事手続きに関する法典は日本では存在しまさんでした。
②明治以降の沿革
刑事手続きに関する法律につき、明治になってから治罪法制定までの沿革を紹介しています。治罪法の公布は、明治13年7月ですが、短期間に刑事手続きにつき改良進歩を遂げたことは、古今の万国の歴史に比しても稀有なことであると著者は述べています。
③治罪法とはいかなる法律か
著者は、治罪法を学理上からの観点において考察し、フランスの法学者の「治罪法は、刑事裁判を組成する法式の集合である」との定義を紹介しています。また、治罪法には、凶悪な犯罪を鎮圧する機能だけでなく、人民を保護する機能があり、両者の機能を考慮することが法の制定、解釈に必要であることを強調しています。
④治罪法と国の政体との関係
自由な政体の国と専制政体の国を比較しています。前者では治罪法の内容が充実しており、人民の自由が尊重されることに特徴があります。
⑤治罪法と国家経済との関係
治罪法は国家の経済にも関係し、例として監獄に関する費用をあげています。



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第一回(明治18年4月22日)の続き
総論
(治罪法の法典は明治以前には存在せず)
古来我が国の律令においては、刑法典はありましたが、治罪法(刑事訴訟手続き)の法典は存在しませんでした。我が国の制度は、中国を模倣しており、中国が治罪法なるものを制定していなかったからです。
しかし、古来から断獄(刑罰)は存在しており、これに伴う刑事手続きの理は存在しておりました。ただ今日のような法典というものが存在していなかったのです。
特に、覇政(江戸時代)の頃には、哀訴・誤判・再審等が存在していたのであり、治罪の條規に基づいたことは言うまでもありません。治罪法の歴史を研究することは非常に難しい作業であり、多くの時間がかかります。しかし、現行の治罪法を学ぶにはそれほどの必要はありません。よって、維新以後の沿革のみお話ししましょう。

(明治以降の沿革)
わが国においては、王政維新(明治維新)以降、様々な制度や文物が進歩しました。刑法は明治3年に新律綱領六巻が頒布され、同6年5月には改定律例三巻が頒布されました。同7年には司法警察仮規則が制定され、同8年5月には断罪依証法が発布されました。この断罪依証法は、拷問により自白を取るという野蛮な旧弊を除去する端緒となりました。これは人権を重んじる精神から生まれたものです。法律を学ぶ者は、この法令の発布の日を記憶すべきです。
その後、明治9年に司法警察假規則が改正され、糾問判事仮規則が発布されました。同13年3月に拷問を行ってはならないことが天下に公布されました。
同13年7月には刑法及び治罪法が発布され、同15年1月1日から両法ともに施行されました。
以上が維新後の我が国治罪法の沿革です。
治罪法の改良と進歩は最も著しいものと言わざるをえません。刑法は、往古には大宝律令のようなものもありましたし、覇政(江戸時代)の頃には禁令百箇条(公事方御定書)が設けられておりました。しかし、治罪法は前にも述べましたように、古来法典が存在しなかったのです。僅か数年の間にこのような改良進歩を遂げたことは、古今の万国の歴史に比しても稀有なことです。

(治罪法とはいかなる法律か)
治罪法とはいかなる法律でしょうか。
形式的には、「公訴私訴の手続き及びこれを裁判する際の規則の集成」といえるでしょう。しかし、学理上からの観察するときは、このような単純なものではありません。
治罪法は刑法による制裁の効力を顕わし、その運用を成すべきものと言えます。刑法だけが制定されていても、治罪法の運用がなければ、刑法の実際の効力は発揮できないのです。刑法と治罪法はお互いに補完し合って、初めてその効果が実際に顕れるものなのです。
有名なフランスの法学者フヲースタンエリー氏の「治罪法は、刑事裁判を組成する法式の集合である」との言葉は、その真意を尽くしているといえるでしょう。
一方、同国の法学者オルトラン氏は次のように説かれています。
「物事を生み出すには、必ずそれを生み出すのに必要な力が存在しなければならない。草木が地上に繁茂するのは、地中の温熱と気候との二つの力に由来するものである。また、湯が沸騰するのは火力に由来している。これらの力を運用するには、順序・方法を整えなければならない。刑法と治罪法の関係においてもこれらと同様である。裁判所及びこれに属する官吏は〈力〉である。予審・公判の手続きは〈順序・方法〉である。その〈結果〉が刑の適用である。」
この説はいい得て妙ですが、一方に偏しているといわざるをえません。治罪法は単に犯罪者を刑罰に処するのみではないからです。治罪法は、凶悪な犯罪を鎮圧するだけでなく、同時に人民を保護するのです。オルトラン氏の説では、治罪法は犯罪者を刑罰に処するためだけに設けられたように見えます。これが、一方に偏すると私が述べる理由です。これに対して、フヲースタンエリー氏の説は、そのような非難を受けることがなく、当を得たものです。
このように理解することで、「治罪法」は名実相適するものとなります。「治罪」という文言は、行刑の意味であり、罪悪を鎮圧するの意味だからです。
フランス語では、治罪法を「コード・ダンストリックション・クリュミネール」といいます。犯罪を治めるところの法という意味です。箕作氏がフランス六法を翻訳するにあたり、「治罪法」という文言を用いたのは、このためです。
治罪法のフランス語案では、「コード・ド・プロセジュール・ペナル」と記載されておりました。これは「刑事訴訟手続法」という意味であり、このような文言が最も適しているといえるでしょう。もっとも、「治罪法」の文言は慣用的に長く使われており、今急にこれを改めると
却って不便を生む可能性があります。私は、「治罪法」を「刑事訴訟手続法」に変えるべきだとの説を唱えるものではありませんが、「治罪法」という文言が甚だ不穏当であると考えております。
聞く所によれば、近年のフランスにおいても、「コード・ダンストリクション・クリミュミネール」という文言は穏当ではないとの議論が起こり、「コード・ド・プロセジュール・ペナル」にすべきだとの主張をする学者が少なくないとのことです。このことも「治罪法」という文字が穏当ではないということの証左となるでしょう。

(治罪法と国の政体との関係)
治罪法は刑法を実際に運用するものですから、刑法と共に公法に属することは当然です。それゆえ、治罪法はその国の政体と密接な関係を持ちます。人身保護律、家宅不侵入、書信の秘密、一事不再理などの原則は、最も重要なものであり、これらはしばしば各国の憲法で明記されています。そして、これらの原則が実際にどのように適用されるかどうかは、治罪法の制定内容如何に関わっているのです。どのように制定されるかは、政体の良否によって差異が生じます。自由な政体の国では、治罪法の制定が最も充実しており、人民の自由が尊重されます。その例としては、裁判官以外にも民から選ばれた陪審官を置き、事実を認定します。また、また、弁護人に弁論を許し、法廷を公開し、公平を得ようとします。
これに対して専制政体の国では、治罪法の制定は不備であり、陪審官の置かれないことが多く、甚だしいときには弁護人の弁論は禁じられ、法廷の傍聴は許されないことも少なくありません。
このように、治罪法はその国の政体によって寛厳精疎の差が最も顕著なものとなのです。これは治罪法が国家全体の安寧と人民の個々の自由の両方を保持する必要があり、片方に偏することなく、常に中道を得て、双方の保護をしなければならないからです。
国家全体の安寧と人民の個々の自由の両立は容易ではなく、国家の安寧を重んじるときは人民の自由を害することがあり、人民の自由を尊重すれば、国家の安寧を損なうことがあります。
例として、未決拘留者をあげましょう。未決者は、未だ有罪無罪が明らかとなっておらず、彼らの中には無罪で順良の人もいるかもしれません。彼らを捕らえて獄舎に繋ぐのは、その人の自由を奪うものです。しかし、未決拘留を廃止すれば、証拠は隠滅され、犯人は逃走します。良民が安心することはできませんし、国家の安寧を全うすることもできません。
一方で、国家の安寧を保護する点にのみ偏するときは、順良で無罪の人を獄舎に繋ぎ、自由を束縛することとなってしまいます。人民の自由を束縛することが甚しきに至ると、民間百般の事業を妨げるために、一国の衰頹を招きます。こうなりますと、国家安寧を保ち、国民の繁栄を増進するためにある刑罰が、却って国家を害すすることとなります。
これに対して、人民個々の自由をのみ尊重することになれば、その害もまた前者と異なることはないでしょう。
されば、治罪法は人民の自由と国家の安寧とに注目し、決して一方に偏することなく、必ず二者の中道を得るをことを目的とすべきなのです。治罪法を制定する立法者は、この点に注目すべきです。既に制定されている法典を解釈する場合にもこの点に注目しなければなりません。

(治罪法と国家経済との関係)
治罪法はその制定の如何により国家の経済に大いに関係します。その例として監獄をあげておきましょう。監獄は未決・既決を留置することにより公費が必要となります。その費用の多寡は治罪法の制定如何に関連します。
今回軽罪について控訴が許されたことにより、控訴する者が次第に増え、特に東京控訴裁判所では控訴者がかなり多くなったそうです。その結果、これらの者が東京の監獄署に集まることになり、それに伴い当該監獄署の費用が増加することになります。この費用の増加は東京府民の負担となります。また、新潟において罪を犯した場合、その者を新潟県の監獄署に収容し、その費用は新潟の住民が負担することは理にかなったことです。しかし、控訴がされ、その費用を東京府民が負担することは理にかなったことでしょうか。現にこのことにつき世の中で議論が生じています。
このように、治罪法は一国の経済と関連を有しており、影響は少なくないのです。世の中には刑法や民法のような制裁関係の法を貴び、治罪法・訴訟法等の手続法をを軽視する傾向がありますが、そのような理解は間違いであります。


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転売ヤー幽学・嘉永7年3月中旬・大原幽学刑事裁判

2024年03月25日 | 大原幽学の刑事裁判
転売ヤー幽学・嘉永7年3月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年3月11日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、鎖のことを聞きに、芝などを探し歩かれた。
小生は馬喰町桝屋に忠兵衛殿に会いに行ったが、あいにく留主。帰りには野菜を買って、節五郎と二人で洗い、幸左衛門殿にも手伝ってもらって、野菜を漬けた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生は刀剣を売る転売ヤーの仕事をしています(嘉永6年11月12日条)。鎖も需要があったようで、一昨日は本所を回っていました(3月9日条)。今日は芝の辺りを回っています。
五郎兵衛は仕事探し。しかし、見つからず野菜を買って、漬物をしています。

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嘉永7年3月12日(1854年)
#五郎兵衛の日記
住込みで仕事をしている良祐殿、惣右衛門殿、伊兵衛父の三人が揃って借家に来たので、ごま餅などを振舞った。
小生は、芝尾張町の人形師西村仙太郎店へ行き、仕事がないかとお聞きしたが、「最近は売れ行きがさっぱりで、仕事がない」とのこと。銀座で二軒同様に聞いたが、やはり仕事はないとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
これまで借家で共同生活をしていましたが、住込みの仕事となった者は、折に触れて借家に顔を出すことになります。今日は三人一遍に顔を揃えたので、ごま餅を振る舞っています。五郎兵衛も仕事を探していますが、江戸は不況のようで(天保の改革の影響でしょうか)、仕事先が見つかりません。

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嘉永7年3月13日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿が仕事をしている場所を見に行った。小石川の高松様方に行く。その後は買い物をして、日暮れには借家に戻る。戻ってから、茶碗、土瓶等の掃除。節五郎殿と傳蔵殿が障子はりをしてくれた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は借家で炊事等の係となっています。茶碗、土瓶等の掃除も五郎兵衛の仕事のようです。障子はりは節五郎殿と傳蔵殿がやってくれました。

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嘉永7年3月14日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生が袴地を買いに行かれ、昼前に一度戻られたが、小石川の高松様方に頼み事の為に出て行かれた。お戻りは夜であった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛が日常雑事をこなしているのとは対照的に、大原幽学は袴地を買いに行ったりして、日常の雑事には携わっておりません。
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嘉永7年3月15日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は買物に行かれ、腰物一本買って来られた。お戻りになってからご教諭。「江戸で財産を築くには、正札附で目立つようにして、安く売るようにすれば繁昌するのは難しくない。 眼の前の欲にとらわれないことだ」等とお話になられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学が腰者(刀)を購入しているのは、転売ヤーで稼ごうとしているからです。江戸全体は不況のようですが、ペリー来航以来、軍事的対応を迫られており、武士階級の軍事関係の支出は増えている様子。そこに目をつけた幽学先生、江戸で稼ごうというのは難しくない、と言い切っています。


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嘉永7年3月16日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は日陰町の辺りに行き、腰物を買って買ってお戻りになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学先生は今日も腰者(刀)の仕入れです。

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嘉永7年3月17日(1854年)
#五郎兵衛の日記
一昨日、高松力蔵様が養子縁組のことで幽学先生にご相談に来られたのだが、本日昼もまたお出でになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「力蔵様」は、高松力蔵のこと。大原幽学の身元を引き受ける高松彦七郎(御家人)の次男です。内容は書いてありませんが、養子縁組のことで問題が発生しているようです。御家人の次男坊として身の振り方が難しかったのかもしれません。
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嘉永7年3月18日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が昼前に来た。小生は霊岸島でろうそくを買った。帰り道のよし町で油揚を買い、
良祐殿に邑樂屋と外川屋(いずれも公事宿)に持っていってもらった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は今日も日用品の買い物。油揚げは公事宿への贈答品のようです。住込みで仕事をしている良祐殿が借家に顔を出してくれたので、公事宿に持っていってもらっています。
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嘉永7年3月19日(1854年)
#五郎兵衛の日記
小石川の高松様から使いが来て、幽学先はお出掛けになられた。御帰りは夕方であった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学先生や道友たちは頻繁に高松家に顔を出していますが、高松家から使いが来るのは珍しいことです。緊急の用があったのでしょう。
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嘉永7年3月20日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、本日もお出掛けになられた。腰物と柳行李を買って帰られた。柳行李は惣右衛門の褒美で、小生が佐竹様の辻番(惣右衛門の職場)に持参して惣右衛門殿に渡した。帰りに、伊兵衛父の職場へ顔を出し、網の話しをした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
惣右衛門は、朝早くからの掃除バイトをし、その後佐竹家の辻番の仕事を住込みでしています。毎朝早くから仕事に行っていたのを幽学先生もご覧になり感じいることがあったのでしょう。柳行李を惣右衛門に褒美としてプレゼントしています。

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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 東京編 3月18日-23日

2024年03月24日 | 伊勢参詣日記
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 東京編 3月18日-23日

塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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三月十八日 #明治18年伊勢参詣
午前九時頃、人形町千歲座に芝居見物に行く。(福島の)県庁よりも広く、宏大。 午後十時頃終わり宿へ戻る。見物料一人前六十一銭(昼飯付)。
(コメント)
・本日は歌舞伎見物。午前9時に始まり、午後10時まで。昔の歌舞伎は一日中やっていたとは言われますが、実際に終日見ている観客がいるとは、やはり驚きです。芝居の入場料は昼食込みのセット料金となっています。
・「人形町千歲座」は今の明治座。
1873年(明治6年)、喜昇座として開場したのに始まり、久松座、千歳座と改称を経て明治26年に明治座となっています。明治18年には人形町、現在の久松警察署の前あたりにありました(現在の浜町に移ったのは昭和3年)。
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三月十九日 #明治18年伊勢参詣
午前八時頃出発、役場等を見物。九段坂で四方を眺め、招魂社(靖国神社)を参拝。
上野下神崎で昼食。上野の公園地は桜樹で充ちており、風景佳し。眼下には不忍池 。動物館、博物館を見物。宏大である。午後七時頃宿へ戻る。
(コメント)
・本日午前はまず役場を見物し、九段坂へ。招魂社(靖国神社)を参拝しています。
・午後は上野。上野公園の桜、不忍池、動物園、博物館を見物しており、現代とかわりがないようです(もちろん見ている景色はだいぶ違うはずですが)。

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三月二十日 #明治18年伊勢参詣
洲崎の弁天社、深川成田山八幡社、亀戸天神社を参拝する。亀戸天神社の近くの梅屋敷にも行く。
鮒林茶屋で昼食。向島の水天宮社を参拝する。隅田川ノ土手に桜木が充ちており、風景佳し。浅草観世音、回向院社を参拝する。午後四時頃宿へ戻る。
(コメント)
・今日は東京東部の寺社を回っています。
・「洲崎の弁天社」元禄13(1700)年に建立された神社。洲崎は、現在の東京都江東区東陽一丁目。洲崎は元禄年間に埋め立てられた土地であり、弁天社は海岸に面した土手の先端に位置にあった。周辺は初日の出や潮干狩り、月見の名所として賑わったといいますから、元禄が生み出したウォーターフロントといえるでしょう。

・「深川成田山八幡社」は富岡八幡宮のこと。
・亀戸天神社は現代でもそのままの名称で存在しています。
・「梅屋敷」は江戸時代から続く梅の名所でした。常吉が訪ねたときは江戸時代そのままに梅が咲きほこっていたのでしょうが、明治43年の洪水によって廃園となり、現在は「梅屋敷跡」としてかつての名が伝えられています。
・「向島の水天宮社」と常吉日記にはありますが、「水神宮」「水神社」が正しく、正式名称は「隅田川神社」です。
・その後、浅草観世音、回向院も回っています。
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三月二十一日 #明治18年伊勢参詣
築地の海辺を見物。その後、東西本願寺、芝神明神社、増上寺、徳川公の奥の院を参拝する。愛宕山へ行き、参拝。四方を見渡すと東京中が眼下に見え風景佳し。
徴兵練を見る。雨が少々降って来たので、(人力)車に乗る。ステーション鉄道を見る。電信を見る。針金53本あり。異人館を見る。午後四時頃宿に戻る。
(コメント)
・本日はまず「築地の海辺」に。かつて築地は海辺でした(江戸切絵図参照)。
・その後は、築地本願寺→芝大神宮(「芝神明社」)→増上寺→徳川将軍家墓所(「徳川公の奥の院」)→愛宕神社(「愛宕山」)を参拝しています。
・愛宕山からの景色を、井上安治が「東京名所 ー 愛宕山」として描いています。明治10年代ですから、常吉が見た景色も同様と思われます。
・社寺参拝の後は各種施設の見学。鉄道、鉄道駅、電信施設を見ています。
・「異人館」を見たのは、築地でしょう。当時ここには外国人居留地がありました。居留地は、明治元(1868)年にでき、外国公館のほか、教会や学校がありました(居留地は明治32年まで存在)。
・築地の外国人居留地は、明治十年代の後半、日比谷に鹿鳴館時代が開幕するまで、銀座と共に「文明開化」の同義語であったとの指摘もあります(川崎晴朗『築地外国人居留地』)。
・常吉が「徴兵練を見た」のは日比谷の陸軍練兵場。場所は現在の日比谷公園及び霞ヶ関の官庁街。
・練兵場から、当時の新橋駅(日記では「ステーション鉄道」)はさほど遠くないのですが、雨が降ってきたため人力車で移動しています。
・また電信局を見学しています。
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三月二十二日 #明治18年伊勢参詣
八時頃出発。支那、英国公使館を見物す。神田明神社を参拝する。勧工場を見物する。午後五時頃(人力)車で宿に戻る。
(コメント)
・「公使館」とは、「公使を長とする在外公館」という意味です。今は、中国もイギリスも大使を派遣していますので、「大使館」ですが、この時代はまだ「公使館」の時代だったようです。
・イギリス公使館は、当時千代田区一番町(現在のイギリス大使館と同じ場所)にありました(⇒末尾付1)。常吉が「支那公使館」と呼んでいるのは、駐日清国公使館のことで、永田町二丁目にあったそうです。
・神田明神を参拝したあと、「勧工場」を見物しています。工場ではありません。商品を陳列し、客が自由に手にとって品定めするもので、百貨店(デパート)の前身といわれています。上野公園で開催された明治10年の出品物の売れ残り展示即売するために開設され、最盛期には東京に20箇所以上あったといわれています(塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』)。

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三月二十三日 #明治18年伊勢参詣
午前八時頃出発。(人力)車で王子稲荷社に行き、参拝する。その後、糸取機械を見物する。一日の取上げは250斤位との由。織機械を見物する。一分間に250尺位取上る由。(人力)車で午後四時頃宿に戻る。東京には六日滞在。七夜の泊りであった。
(コメント)
王子稲荷神社は、東京都北区岸町にある神社。徳川将軍家代々の祈願所と定められ、現在の社殿は十一代将軍徳川家斉から寄進されたもの。
・その後、鹿島紡績所を見学します。同紡績所は、明治初年に設置された民間最初の紡績工場。設置者は鹿島万平。設置場所は滝野川の幕府の反射炉の跡地でした。
・糸取機械の一日の取上げは250斤(約150キログラム)、織機械は一分間に250尺(約45メートル)取上げということを、常吉は日記に記録しています。
・本日が東京宿泊の最後です。東京見物編は本日をもって終わります。明日からは、東海道を伊勢へ向かって下る旅が始まります。
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付1 英国公使館について
1878年(明治11年)に日本を訪れたイザベラ・バードは次のように書いています。

「英国公使館はよい場所にある。外務省をはじめとする政府の諸省や大臣たちの官邸に近い。これらの建物は大半が英国の郊外の大邸宅風の煉瓦造りである。公使館は入口に英国王室の紋章の付いたアーチ門があり、敷地の中には、公使官邸や公使館事務局、公使館付きの書記官二名の官舎そして護衛兵の宿舎がある。」 (新訳日本奥地紀行 東洋文庫 840 イザベラ・バード/[著]、金坂清則訳)



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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 福島・栃木・茨城・千葉編

2024年03月23日 | 伊勢参詣日記
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 福島・栃木・茨城・千葉編

塩谷常吉(当時22歳)の伊勢参詣日記。塩谷塩谷和子『明治十八年の旅は道連れ』掲載の「常吉道中日記」を現代語訳し、紹介していきます。
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三月七日 #明治18年伊勢参詣
午前九時に猪苗代町を出立。関脇村まで三里。白岩政吉殿方で昼食 。
同村から三里で熱海駅。会津屋五衛門殿方で泊。泊料は十六銭。
(コメント)
・猪苗代町新町で酒造業を営んでいた塩谷常吉(当時22歳)の道中日記です。塩谷常吉の子孫である塩谷和子の『明治十八年の旅は道連れ』に同日記が翻刻されております。
常吉を含め総勢9名で旅に出ます。
・本日の旅程は猪苗代新町(猪苗代町新町)〜磐梯熱海(郡山市熱海町)。グーグル地図では23 km。全て徒歩です。
・今日の宿は「熱海駅」です。「熱海駅」は現郡山市熱海町熱海のこと。静岡県熱海市と区別するため、現在では磐梯熱海と呼ばれています。なお、当時磐梯熱海に鉄道駅はないので(明治31年開業)、「熱海駅」は宿駅の意味です。この時期には鉄道は、ほぼ通っておりませんので、特に記載のないときは徒歩で移動しています。

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三月八日 #明治18年伊勢参詣
熱海を出立。四里で開成山。大神宮を拝す。三河屋徳蔵殿方で昼飯。一里で郡山。公園地を見物した後、海老屋冶衛門方で泊。泊料十八銭也。
(コメント)
・磐梯熱海を出立し、「開成山」へ(開成山大神宮・現郡山市開成)。同神宮は明治9年、安積開拓民の拠り所として、伊勢神宮から分霊して創建された神社ですので、当時からすれば新しい神社です。新名所で伊勢神宮からの分霊ということで、参詣となったのでしょう。
・今日の旅程。熱海(郡山市熱海町)〜郡山(郡山市)。グーグル地図では約15 km。参拝や公園を見物に時間を割いたのか、さほどの移動距離ではありません。明日からは奥州街道に入ります。

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三月九日 #明治18年伊勢参詣
郡山を出立。須賀川(三里九町)、矢吹(二里十八丁)。この間は(人力)車に乗る。筑前屋で昼食。大雪が降ってきた。小田川(二里)、白河(二里廿二丁)。この間も(人力)車に乗る。白河の勇屋祐吉方で泊。泊料十八銭。
(コメント)
・本日の旅程。郡山(福島県郡山市)〜白河(福島県白河市)。グーグル地図では約38キロ。福島県内のほぼ南端まで来ました。明日からは栃木県に入ります。
・日記では「車に乗る」とあるのは、人力車に乗ることです。人力車は明治初年に考案されたものです。日記の書かれた明治18年には普及していたのですね。この旅は基本徒歩ですが、時々人力車も利用しています。
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三月十日 #明治18年伊勢参詣
白河を出立。境の明神社を参拝。白坂へ二里、そこから芦野へ三里。芦野駅で昼食。ここから脇道、関東筋に入る。芦野から五里程で黒羽駅。中屋義衛門殿方へ泊まる。泊料十六銭。
(コメント)
・本日の旅程。白河(福島県白河市)〜黒羽(栃木県大田原市)。グーグル地図では約34 km。福島県から栃木県に入りました。今日は全行程徒歩で、30キロ以上歩いています。現代人にはなかなか考えられない距離です。現代のモータリゼーション&公共交通機関が、長く歩くという習慣を奪ってしまったのですね。
・「境の明神社」は、白河市と栃木県那須町の県境に二社並立している神社の通称。古来より国境を往来する際には両神社を参拝し、道中の安全を祈願したといわれています。現存する社殿は、火災による焼失のため、弘化元年(1844)に再建されたもの。白河市指定史跡。
・奥州街道は、白河→白坂→芦野と来て、→越堀→鍋掛→大田原と行くのですが、一行はこのルートを取らず、芦野から関東筋といわれる脇道に入り、黒羽で泊まります。

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三月十一日 #明治18年伊勢参詣
黒羽を出立。佐良土村まで一里程。そこから
河井村まで那珂川を船で行く。里程八里。河井村から二里陸行し、茂木町。備前屋小八郎殿方に泊。泊料十八銭。
(コメント)
・本日の旅程。黒羽(栃木県大田原市)〜茂木町(栃木県茂木町)。グーグル地図では約42キロ。栃木県を移動し、南端近くまで来ました。明日からは茨城県に入ります。
・「佐良土村」は、現大田原市佐良土(さらど)。ここから那珂川を下る船便があり、「河井村」(現栃木県茂木町河井)まで8里(約32キロ)を船で下っています。船での移動はこの旅でも相応にあり、舟運が暮らしに根付いていた時代であることがわかります。
・佐良土では門前町並屋号宿という取組みを現在行っています。光丸山法輪寺の門前町の繁栄を今に残す取り組みです。

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三月十二日 #明治18年伊勢参詣
茂木町を出立。五里で仏山峠(仏ノ山峠)。同所で昼飯 。そこから笠間まで三里。午後三時頃到着。笠間の稲荷社を参拝。井筒屋彦兵衛殿方泊。泊料十八銭。
(コメント)
・本日の旅程は、茂木町(栃木県茂木町)〜笠間稲荷神社(茨城県笠間市)。グーグル地図だと約23 km。本日は全行程徒歩。距離としては稼げていませんが、途中県境の仏ノ山峠を越えなければなりませんので、結構キツかったかもしれません。
・徒歩での旅行では峠越えは肉体的にもきつく、峠で休憩は自然な流れだったのでしょう。そのため、峠には茶屋があり、昼食も取ることができたのですね。
・午後は、仏ノ山峠から笠間稲荷神社まで。
仏ノ山峠〜笠間稲荷神社はグーグル地図では6.5 km。午後の旅程は距離が短く下りでしょうから、一行にとっても気楽だったのでは。
・笠間稲荷神社。日本三大稲荷に数えられることもある有名な神社です。「井筒屋彦兵衛殿方」は、笠間稲荷神社近くの宿屋。2011年の東日本大震災による被災で廃業。現在は「かさま歴史交流館井筒屋」として明治期の建物が保存されています。
https://www.kasamaidutsuya.com/

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三月十三日 #明治18年伊勢参詣
笠間を出立。水戸の城市まで馬車に乗る(賃金十五銭)。この間五里。十一時頃着。和泉屋文三郎方で昼食。
昼食後、雷神社及び常磐社を拝す。常磐社の後方は公園地で梅木に充ちている。下方に千波湖が見え、風景佳し。
弘道館を見物。寒水石の大石碑あり(高さ二間余、巾九尺位)。水戸市中を見物。役場は甚だ宏大である。
水戸から船で湊まで行き(水戸市内から二里)、蛭子屋藤吉殿方で泊。泊料十六銭。
(コメント)
・本日の旅程は笠間(茨城県笠間市)〜水戸(茨城県水戸市)〜湊(茨城県ひたちなか市)。グーグル地図上で約35 km。本日は水戸までは馬車、初めての馬車の利用ですが、市部では馬車の利用が可能だったようです。料金は5里で一人15銭ですから、人力車に比べると実は高くはありません(人力車6里で16銭払ってます)。
・「雷神社」は、水戸市元山町にある別雷皇太神(べつらい こうたいじん)。つくば市の金村別雷神社、群馬県板倉の雷電神社とともに関東三雷神と呼ばれている神社。
・「常磐社」は常磐神社(ときわじんじゃ)。水戸市常磐町所在。徳川光圀・徳川斉昭を祀っています。常磐神社に隣接して偕楽園があり、日記では「公園地で梅木に充ちている」と記しています。眼下には千波湖が見え、風光明媚です。
・その後、弘道館や役場も見学しており、現代の観光旅行的な雰囲気も感じられますが、やはり寺社の参詣がメインの旅です。
・本日の宿が所在する「湊」は那珂湊(現ひたちなか市)のこと。町村制施行時には那珂郡湊町。その後、那珂湊町→那珂湊市と名を変更し、平成の大合併時に、ひたちなか市となっています。


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三月十四日 #明治18年伊勢参詣
湊を出立。磯浜(湊から一里)の海辺に沿って大洗山社があり。同社を拝す。(人力)車で鉾田まで。里程六里、賃金二十銭。午後一時頃鉾田に着。
午後九時に、沢屋方から利根川(注:北浦の間違い)を蒸気船に乗り大船津に上陸。里程十里位。午後十二時頃 に若松屋方へ着き、同所泊。泊料十一銭(半泊のため)。
(コメント)
・本日の旅程は湊(茨城県ひたちなか市)〜 大船津(現鹿嶋市大船津)。約51 km。茨城県の県央から南部まで来ました。今日の交通手段は徒歩、人力車。蒸気船とバラエティーに富んでいます。
・「磯浜」は磯浜村、現在の大洗町磯浜町。1954年(昭和29年)以前は「磯浜」が自治体名でした。同年に合併して、大洗町となっています。
・「大洗山社」は、大洗磯前神社のこと。太平洋に面した岬の丘上にあります。
・大洗磯前神社から鉾田(現鉾田市)までは6里あるので、人力車。人力車を多く利用しており、この時代旅行には欠かせなかったようです。
・鉾田から大船津(現鹿嶋市大船津)まで蒸気船。蒸気船はこの日記では初出。鉄道がまだ普及していない明治前半には舟運が力をもっていましたが、蒸気船も登場していたことがわかります。
・大船津には鹿嶋神宮一之鳥居があり、鹿島神宮の玄関口。旅館も参道又はその近くにあったのでしょう。なお、現在ある一之鳥居は2013年6月に建てられたもの。


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三月十五日 #明治18年伊勢参詣
大船津を出立。そこから二十丁程で鹿嶋神社あり。その社を参拝す。
利根川を小舟で横切り、津宮に上陸(川里程三里位)。香取神社を参拝す(津宮から十六丁)。同社から二十丁で佐原町。この町はなかなか盛況である。(人力)車で滑川まで(五里)。賃金は二十銭。梅屋道太郎殿方へ泊。泊料十七銭。
(コメント)
・本日の旅程。大船津(茨城県鹿嶋市大船津;鹿島神宮)〜滑川(千葉県成田市滑川)。グーグル地図上では38 km。茨城県から千葉県に入りました。
・茨城県南部といえば、鹿島神宮への参詣は落とせません。鹿島神宮は言わずとしれた常陸国一宮。大船津に一の鳥居があり、神宮までは参道。参道は約2キロ強あり、常吉たちが泊まった宿も参道沿いにあったのでしょう。
・次いで香取神宮へ向かいます。大船津からは利根川を小舟で横切り、津宮(現香取市津宮)に上陸します。津宮鳥居河岸には香取神宮の一の鳥居が利根川に面して立っています。ここが香取神宮への表参道口でした。鹿島神宮も香取神宮も、一の鳥居が水面に建てられており、そこから参道になっています。
・陸上交通が発達途上である明治10年代には、江戸時代と同様、舟運がまだ力をもっていたことがわかります。
・香取神宮から佐原町(現香取市佐原)まで20丁(2キロ強)。この間は徒歩のようです。佐原から滑川(成田市滑川)までの五里(20キロ)は人力車。運賃は宿泊代よりも高く20銭支払っていますが、長旅で疲れないようにするためには必要な投資ということでしょうか。

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三月十六日 #明治18年伊勢参詣
滑川を出立。成田まで五里。成田には十二時に着く。成田山社(成田山新勝寺)を参拝する。その御社は宏壮。 若松屋貞次殿方で昼食。大雨が降って来たため、(人力)車で佐倉まで。佐倉まで三里、賃金は三十銭。駿河屋又兵衛門方へ泊。泊料二十銭。
(コメント)
・本日の旅程。滑川(千葉県成田市滑川)〜佐倉(千葉県佐倉市)。グーグル地図上では24 km。千葉県内を移動し、佐倉まで来ました。本日のメインは成田山新勝寺。
・滑川(成田市滑川)を出発。同地には坂東三十三箇所の滑河山龍正院(滑河観音)があるのですが、日記には記載がないので、素通りのようです。
・滑川から歩いて、成田山新勝寺へ。
・昼食を「若松屋貞次殿方」でとありますが、若松楼という旅館で経営者は土井貞次が正しいようです。若松楼は現在、「旅館若松本店」という名で新勝寺の門前にあります。
・旅館の経営者土井貞次氏は嘉永六年二月 (1853)生まれ。人事興信録にその名あり。明治21年に『成田山独案内』を著しています。
・成田から佐倉までは大した距離ではなく当初は徒歩行を予定したようですが、大雨の為に人力車に変更。三里で運賃30銭と従前よりもかなり高い(一昨日は5里で20銭でした)。

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三月十七日 #明治18年伊勢参詣
佐倉を出立。(人力)車で大和田まで乗る。里程三里二十九丁。賃金二十銭。大和田から船橋まで二里二十丁。船橋の佐渡屋方で昼食。
船橋から(人力)車で東京両国橋まで乗る。里程六里。賃金三十三銭。馬喰町二丁目の會津屋利兵衛殿方へ着いたのは夜八時頃。同所泊。泊料二十五銭。
(コメント)
・本日の旅程。佐倉(千葉県佐倉市)〜両国橋(東京都墨田区)。グーグル地図上では45km。一気に東京に入りました。
・佐倉(佐倉市)を出発し、大和田(八千代市大和田)まで人力車に乗ります。大和田〜船橋(船橋市)までは徒歩。
・船橋で昼食後、東京両国橋まで人力車。6里(24キロ)と記載されていますが、実際は20キロ位。距離の記載は不正確なものが散見されます。
・宿は馬喰町の會津屋。馬喰町に宿があるのは、江戸時代以来の伝統であり、この時期にもまだその伝統が生きています。

猪苗代を出てから11日目で東京に到着。
次回からは東京見物編となります。


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町役人は夜回りもします・文政12年3月中旬・色川三中「家事志」

2024年03月21日 | 色川三中

町役人は夜回りもします・文政12年3月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年3月11日(1829年)晴
・腫物が出来てしまった。引籠って過ごす。
・中城町の儀助(入江のところの店子)が、組合のものと一緒に来て、刑事裁判の礼にと金一朱と半紙を持ってきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中城町の儀助は、先日息子が刑事裁判に掛けられました(3月8日条)。結果として、処罰されなかったので、町役人の三中のところに御礼に来ています。共犯の方の御礼は半紙二丈なのに、こちらは金一朱と半紙であり、だいぶ違います。

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文政12年3月12日(1829年)晴
・昨日に引き続き体調不良のため、引き籠る。
・牢屋の囚人(未決囚)を連れていくので、町役人として立合ってもらいたい旨指示されたが、足が痛く、外出することができなかった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・三中は昨日から体調を崩してしまい、自宅にて静養中。町役人としての仕事もお休みです。
・牢屋の囚人の連行も町役人の仕事のようです。江戸時代の牢屋は、未決囚(これから裁判を受ける者)を拘束する場所ですので、奉行まで連れて行くのは町役人も同道する必要があったのですね。
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文政12年3月13日(1829年)曇
大塚氏が町役を退き、孫の桂治殿が後を継ぐ旨、昨日付けで仰せがあった。 早速桂治殿に挨拶に行った(名主の入江からも祝いに行くよう連絡があった)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
人事異動。新たな町役人として大塚桂治殿が就任。前任は祖父だったので(お父上は在世していないのかも)、典型的な世襲ですね。もっとも、町役人の仕事はかなり大変な仕事ですし、町役人だけではペイしないでしょうから、経済的基盤や信用がないとやることができないとは思います。
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文政12年3月14日(1829年)曇
・新しく町役人となった大塚桂治殿へ、祝義肴代として金一朱を贈った。
・谷田部の今川宅三郎が土浦に来たので、一晩お泊めした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
新しい町役人(大塚桂治殿)へ、金一朱を贈っています。町役人となって顔も広くなれば、交友関係も広がりますが、一方で付き合いのための出費も嵩みます。町役人もなかなか楽ではありません。
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文政12年3月15日(1829年)晴
駒市(馬市)の夜廻り当番(町役人が交代で行う)。夜九ツ時(午前0時)から夜廻りをした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦で駒市が開催され、馬の取り引きが行われています。町奉行が「駒市には他所者が入り込むので万端気をつけるべきこと、ことにスリ等には気をつけるべきこと」と訓示していました(3月6日条)。町役人も治安維持の一端を担うべく夜回りの警備。午前0時以降に町を回らなければなりません。
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文政12年3月16日(1829年)朝晴 西風
氷張る。御奉行の藤井様が正午から駒市(馬市)の巡回。羽織立付でお供をした。帰りには御奉行様は名主(入江)方に立寄られた。我等もここで少々休息。茶餅菓子が出た。
夜九ツ時(午前0時)からは昨日と同様、駒市の夜廻り。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦で駒市(馬市)が行われており、土浦藩町奉行の藤井様が市の様子を巡回。町役人はそのお供です。最後には名主宅に寄って休憩。町役人にも茶餅菓子が振る舞われました。三中の仕事はこれで終わりではなく、深夜に夜廻りの警備の仕事もこなさなければなりませんでした。
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文政12年3月17日(1829年)晴 南風
駒市(馬市)最終日。夕方、酒狂の者が往来を妨げ、組の衆がこれを制した。その者は、時とともに酔いが醒めたので、灰屋番(色川幸八)が付き添って送っていった。真鍋助四郎のところの居候とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
駒市(馬市)最終日にトラブル発生。飲酒酩酊した者が往来で騒いだようです。宥めていたところ、正気に戻ったので、真鍋の助四郎方まで、役員が送り届けていきました(騒いだのは助四郎の居候)。

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文政12年3月18日(1829年)
昼近く、町組小頭の宮古様のところへ行く(羽織着用)。牢にいる利八と治平の両人を連行せよとのご指示あり。下目附一同と共に東崎牢へ行き、両人を奉行の藤井様宅へ連れていく。科料三貫文とのご判断。町役人への御礼は無しとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日も刑事事件の記事。東崎町にある牢で拘束されている被疑者を裁判のために、奉行の藤井様宅まで連れていくようにとの指示。現在の警察官又は刑務官(拘置所職員)が行う仕事を町役人が担っていました。
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文政12年3月19日(1829年)晴
昨夜、八州から御用状来る。大町中やに居候している芸者風情の女を事情聴取するので、名主差添えで八州方に出頭せよとの内容。町役人の奥井吉右衛門殿が差添えをされた由。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「八州」というのは関東八州廻り、正式には
関東取締出役のこと。関八州の天領・私領の区別なく巡回し、治安の維持や犯罪の取り締まり、風俗取締を行います。3月16日条に八州廻りの原戸一郎が、「大町に飯盛女を置くことは許されない。」と町役人に述べていました。いよいよ事情聴をするようです。
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文政12年3月20日(1829年) 曇
中城町の源八の養子(源兵衛)の出奔につき、「尋行衛相知不申候届書」(探したが、行方しれず)が提出された(同様の届書数通あり)ので、奥印をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中城町の源八の養子の源兵衛が出奔したことは、3月2日条に見えます。人別帳に記録されている者は、出奔した際にも記録に残す必要があり、「尋行衛相知不申候届書」(探しましたが、行方がしれません)というものを提出するようです。
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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第一回 序文

2024年03月18日 | 治罪法・裁判所構成法

橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第一回 序文

【コメント】
治罪法(ちざいほう)は、刑事手続について規定した法律です(明治13年太政官布告第37号)。現在は刑事訴訟法といいますが、当時は治罪法という名称でした。刑事手続きに関する法典としては、本邦初であり、法執行機関には治罪法の習得は必須でした。
橋本胖三郎『治罪法講義録 : 上・下』は治罪法が公布後5年経った明治18年に警察官向けに講術されたものです。同書は、明治19年に警官練習所蔵版として博聞社から出版されています。
警官練習所は、現在の警察大学校の前身で、明治18年に警官練習所として創立されています。橋本胖三郎は、警官練習所の教官です。
今回は講述の第一回です。第一回は序文及び総論から成り立っていますが、今回紹介するのは序文です。原文は漢字にカタカナで句点・読点がなく、また修辞的な言辞も多いため、できるだけ平易な現代語とし、その大意を紹介致します。

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第一回(明治18年4月22日)
序文
諸君。私は浅学寡聞の者ではありますが、教官の末席に加えられ、この度治罪法を諸君に講述する栄誉を与えられました。
さて、この講述では、警部諸君と巡査諸君と同時に行わなければならず、少しく困難を感じております。と申しますのは、警部諸君と巡査諸君とでは、修業の長短が異なるからです。執務の難易軽重も大いに異なっております。別々に講述をするのが良いのですが、そうもいきませんので、「長大は短小を包む」という諺に従い、精密な説明を致します。言辞が不明であったり、論理がよくわからず、諸君の胸中に釈然としないものがあれば、質問をして下さい。

さて、ここで述べるのは、専ら治罪法の法理及びその適用論の概要です。文章、字句の配置、法条の整序などの瑣末な説明は致しません。その理由は、諸君の修業時間に限りがあり、詳細な講述ができないこと、諸君は経験豊富であり、実践により自ずから法の細目を了解していただけるものと信じていることにあります。法学の要旨は法理を研究するものであって、細かな章句に拘泥すべきものではありません。
法理を講じるものは、実際の法の活用をしない空論に過ぎないという者もおります。しかし、私が法理を講述するのは、哲学的な領域で高尚な理論を扱うのではありません。法律を執行する者が理解しなければならない法理を講述するのです。法の活用をしない空論などではありません。法理の一原則を理解すれば、数十の問題を解くことができるのです。
私は、ボアソナード氏に法学を学びましたが、氏は常に法理を詳論し、やむを得ないとき以外は章句の枝葉末節に論及しませんでした。
法律を研究するには様々な方法があり、一つではありません。法章の順序に従って逐条で解説するという方法もあります。また、事項ごとに適宜の区別を設けて講述するという方法もあります。前者は注釈体といい、後者は講義体といいます。現在、我が国で刊行されている法典の解釈や書の多くは注釈体であり、講義体と呼べるものはほとんどありません。
今回、治罪法を講述するにあたっては、講義体により行います。法理を講じるには、この方法が最も適しているからです。刑法の講義を担当する高木氏も同じ方法を取られると聞いておりますので、治罪法でも講義体を取ることは諸君にも便益の多いことでしょう。
本日はまず、治罪法の総論を簡単に述べ、次回以降は治罪法を詳しく説明する予定です。

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節句の贈答は忙しい 嘉永7年3月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年03月14日 | 大原幽学の刑事裁判
節句の贈答は忙しい 嘉永7年3月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年3月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が、邑楽屋(公事宿)に袴代・節句の祝儀を仕事帰りに届けに行った。蓮屋(公事宿)には節五郎殿が、万徳(公事宿)には小生が節句祝儀に行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
3月3日の節句を前に活発に贈り物をしています。公事宿には実際には宿泊していないのに、表向きは宿泊したことにしてくれているので、公事宿(邑楽屋、蓮屋、万徳)への付届けは欠かせません。
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嘉永7年3月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は昨日は散歩に、今日は買い物に行かれた。幽学先生は帰ってきてから、借家に来ていた正太郎殿に雷を落とす。そのついでに、小生も叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
道友たちが節句の贈り物に奔走しているのに、幽学先生は昨日は散歩、今日は買い物と悠々自適。しかし、ストレスはかなりかかっているようで、正太郎に対して怒り、ついでに五郎兵衛にも怒りを向けています。
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嘉永7年3月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・節句祝儀で忙しい。惣右衛門殿は、邑楽屋(公事宿)の後、小石川の高松様方へも節句祝儀に行った。高松様方には酒持参。
・幽学先生、節五郎と風呂屋に行く。晩には先生から色々とご教諭いただいた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・今日は三月の節句当日。節句は当日だけでなく、数日前から贈り物を届けるのに忙しくなっています(3月1日条)。贈答文化が隅々にまで行き渡っていたことがわかります。
・昨日は幽学先生から叱られた五郎兵衛でしたが、今日は幽学先生と一緒に風呂に。様々な教えを説いているところを見ると、五郎兵衛には期待しているのでしょう。
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嘉永7年3月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
米八殿(邑楽屋下代)が奉行所に差添人変更の届けを出しにいったら、訴え所から「この裁判は前回はいつ呼出しであったのか?」と御尋ねがあったとのこと。「去年の3月以来御呼出しがありません」と答えたら、「そうか。いずれご担当者様には申し上げておこう」との返答であったとのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所からは呼び出しすらなく、放って置かれている大原幽学の刑事裁判。奉行所の受付けですら、長期間の呼び出しがないのを訝しく思っています。しかし、決めるのは裁判の担当者や奉行であり、受付には裁判を進行させるようや力はありません。


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嘉永7年3月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
伊兵衛父は、一昨日奉公口が決まった。今日、奉公の様子を聞きに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・「伊兵衛父」は、林伊兵衛(1794~1870)のこと。このとき60歳を超えていますが、道友と同じく江戸の滞在費を稼ぐバイトをすることとなりました。
・林伊兵衛は十日市場村(現旭市)の林家の当主であり、組与力給地四ヶ村の割元名主を勤めた村内最有力の地主。かなりの財力があるはず。しかし、大原幽学の方針で皆仕事をしようということになっているのです。

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嘉永7年3月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生と良祐殿は髪結いと風呂屋。その後、先生は正太郎殿と辻番勤務をしている良祐殿の様子を見にいかれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
辻番。
「町には木戸があって、木戸番小屋と自身番屋がおかれているが、武家屋敷が並ぶ通りには木戸がない。だからと、大名や旗本は辻番小屋なるものを建て、辻番人をおい て警衛することを義務づけられていた」(佐藤雅美『お白洲無情』)

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嘉永7年3月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
本屋から、亜墨利加騒動(アメリカ)の本の写し作成を依頼された。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・五郎兵衛は本の写しの作成のバイトをしており、今回は黒船来航関係。「亜墨利加騒動」とも呼ばれていたようです。なお、五郎兵衛日記では、嘉永6年6月の黒船騒動のときの様子を記していますが、二度目の来航については記載がありません。二度目の来航ではどうも冷静だったようです。
・ペリーは嘉永6年6月に浦賀沖に来航、同月12日には浦賀沖を離れました。再び東京湾内にペリーが来たのは、嘉永7年1月16日。この年3月3日には日米和親条約が横浜で締結されています。この日の日記はペリーの二回目の来航の最中です。
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嘉永7年3月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
長左衛門殿が来て、石川様(下谷に住む旗本)方で住み込みの仕事があると、良祐殿に話しをしていた。良祐殿は佐竹様の辻番の仕事をしているが、石川様の方が条件が良いようだ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・良祐は佐竹様の辻番の仕事をしているのですが(2月5日条)、新しい仕事の話しを耳にして転職をはかっています。少しでも有利な条件の方に転職するのは今も昔も変わりません。長左衛門は、職業紹介をしている者のようです。
・良祐は長部村の百姓、現代風にいう千葉の一地方の農民なのですが、足軽部屋とはいえ、旗本がこんなに気軽に雇うものなのかと疑問に思いましたが、そういうものだったようです。
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/D_00215.html
「江戸の武家地空間を構成する大名あるいは旗本屋敷には、武士身分の家臣とは別に、足軽・中間・小者といった膨大な数の武家奉公人が存在した。彼らの多くは、大名や旗本の国元の農村や城下町から短い年季の奉公人として抱え入れら,れて連れてこられた者たちであり、同時に江戸市中において抱え入れられた者も多く存在した。」(東大史料編纂所 教授・所長保谷徹氏)
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嘉永7年3月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は、本所などにお出かけになられた。内職の仕事の関係で鎖のことを聞きに行かれた。夜には、幽学先生、良祐殿と小生で弁慶橋の夜市に行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
幽学先生は刀剣を売る内職をしています(嘉永6年11月12日条)。現代風にいえば刀剣の転売ヤー。ペリー来航この方、刀剣ブームも起きていたようです。鎖も需要があり、そのリサーチをしています。
佐藤雅美『お白洲無情』(小説)
「江戸の町を歩き、質屋、古道具屋、骨董屋などを訪ね、鈍刀や脇差を二本、三本 仕入れて新品同様に仕立て直し、藤元屋の店先に並べてもらうという商売はまあまあだった。そこそこの稼ぎになった。」

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嘉永7年3月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿の転職が成功。これまで佐竹家(大名)の辻番の仕事だったが、明日から旗本の石川様方の足軽部屋で仕事(住込み)。この話しを持ってきてくれた長左衛門殿が、石川様の足軽部屋頭の平山殿に口を聞いてくれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良祐の転職が変更。これまでは佐竹家の辻番でしたが、辻番は見張り役だけなので、若い良佑は飽きてしまって、足軽部屋の方が良いと思ったのでしょう。
佐藤雅美『お白洲無情』(小説)
「良祐が佐竹家の辻番を惣右衛門と代わり、自分は旗本石川家の足軽部屋へもぐり込んだ」とあり、代わりに惣右衛門が辻番のバイトになったようです。

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町役人はお裁きにも立会 文政12年3月上旬・色川三中「家事志」

2024年03月11日 | 色川三中
文政12年3月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年3月朔(1日)(1829年)
・宮古条助様が、今後町組小頭を兼ねることとなったので、羽織袴でご挨拶に伺うようにとの連絡があった。
・隣主人が雛人形を持ってきた。受取らないといったのに。(これで三度目)。仕方ないので受取ることとする。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・宮古条助(土浦藩士)が町組小頭に任命されました。町役人は町組小頭との接触も多いため、挨拶に行くよう指示されています。
・娘の初節句ですが、倹約のため、お祝いは受取らないという方針です(2月26日条)。しかし、仲の良い隣主人のしつこさにだけは叶わなかったようです。
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文政12年3月2日(1829年)雨
中城の百姓源八の養子の源兵衛が出奔した。
御尋御請書を提出する日限は30日。奥印を遣わす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人の仕事控え。人別帳に載っている者が出奔したときには、町として記録を残す必要があるようです。御尋御請書というのは、その記録の一つのようです。町役人の奥印が必要なため、印形を持っていかせています。

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文政12年3月3日(1829年)雨のち晴
老人が言うには、「3月3日の朝西風が少しあって露がおりるときは、綿には良い。朝雨で昼から南風が吹いて晴れるときは、綿には誠に良くない。これは間違いないことだぞ。」とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
古老の言い伝え。信憑性はともかく、綿の栽培への関心が高かったことがわかります。文政10年9月9日条でも綿作成につき言及があり、綿栽培の重要性がわかります。
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文政12年3月4日(1829年)雨 曇
間原吉右衛門の隠居が亡くなった。香典として金二朱遣わす。羽織袴で弔問に行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この時代正装は羽織袴。弔問も羽織袴ですし(本日の日記)、名主宅に藩の御用で訪問するのも羽織袴です(2月7日条)。
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文政12年3月5日(1829年)曇
・町組小頭から御用ありとのことで、宮古条助殿方に羽織袴で、恐悦しつつ参る。
・戸田や重兵衛が藤兵衛から土地を買い戻し、奥印をもらいにきたので、奥印を遣わす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人としての仕事。①町組小頭に任命された宮古条助殿方から早速仕事につき連絡。正装で御用伺いです。②譲主藤兵衛、被譲人戸田や重兵衛の買い戻し証文に奥印。重要書面は町役人の公証が徹底していたのですね。
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文政12年3月6日(1829年)曇
町奉行の藤井様のところへ、名主・町年寄一同で参る。駒市(馬市)には他所者が入り込むので万端気をつけるべきこと、ことにスリ等には気をつけるべきことを仰せ付けられる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町奉行との会合。町で駒市(馬市)が開催されるに当たっての注意を指示されています。様々な者が土浦に来るため、土浦藩は治安維持をはかりたい。しかし、治安維持の実際は町が負います。奉行所は指示するだけで、実務は町役人が負うのがこの時代の特徴です。
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文政12年3月7日(1829年)
戸田や重兵衛から奥印の礼として金二朱を受け取る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
一昨日の記事(3月5日条)で、戸田や重兵衛が藤兵衛から土地を買い戻し、奥印をもらいにきたとありましたが、その戸田屋さんが本日御礼にきました。御礼は金二朱。不動産売買契約書のときは一朱でしたから(2月19日条)、それよりも高い金額です。
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文政12年3月8日(1829年)晴
清兵衛(田宿町の忠蔵の伜)と詠吉(中城町の儀助の伜)がとんだや富七の湯屋で帯び二筋を盗んだ。町組小頭が両人をお糺しになり、その差添を昨日、今日と勤めた。両人は本来は本縄だが、酒の上の過ちでもあり、腰縄に小手御廻し羽交い締めで、清兵衛は太田甚五右衛門に、詠吉は我らにお預けになられた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人は刑事事件にも関与します。①差添え、②被告人の身柄の確保(「お預け」)。警察の留置場や拘置所といったものがない時代なので、町役人の方で責任をもって預かっていたようです。それにしても「腰縄に小手御廻し羽交い締め」って何かスゴそうです。
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文政12年3月9日(1829年)晴
帯を盗んだ清兵衛と詠吉の件。菩提寺の神龍寺が間に入ってくれて、二度とこのようなことをしないという書面を差し入れることで、お許しをいただくこととなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
清兵衛と詠吉が行ったのは窃盗(被害は帯二筋)。飲酒の影響もありとのことで、書面差し入れで、処分なしとなりました。今でいえば起訴猶予といったところでしょうか。事案の軽重に鑑みて柔軟な処理ができる仕組みはこの時代にもあったのですね。
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文政12年3月10日(1829年)晴
帯を盗んだがお裁きとはならなかったので、清兵衛が、組合(五人組)と一緒に礼をいいに来た。礼は半紙二丈。
#色川三中 #家事志
(コメント)
清兵衛が御礼の半紙二状を持ってきました。不動産売買の奥印は金一朱や二朱だったのと比べると、半紙二状は見劣りします。刑事事件での「御礼」はその者の資力も影響するのかもそれません。
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ひたすら写本作成バイト 嘉永7年2月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年03月07日 | 大原幽学の刑事裁判
ひたすら写本作成バイト 嘉永7年2月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。

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嘉永7年2月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から掃除の仕事(弁当持参)。夜勤明けの良祐殿が借家に来て、風呂屋にいった。幽学先生は、日本橋に筆を買いに行かれた。小生は今日は休みで、他の者と共に風呂屋に行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
惣右衛門殿は早朝から仕事に出かけ。良祐殿は夜勤明けで借家に顔を出す。大原幽学はマイペースで日本橋に買い物に行き、五郎兵衛は休み。仲間と共に銭湯に行くのは楽しそうです。

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嘉永7年2月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から掃除の仕事。昼から幸左衛門殿が借家に来られて、本日泊まり。晩に良祐殿来られたが、深夜に帰られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幸左衛門殿が久しぶりに借家に顔を見せました。幸左衛門は、地頭所藪様の門番をしています(2月5日条)。藪家は番町表四番丁通りにあり(内山朝治『武士にて候』)、借家からは少し距離があるのです。
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嘉永7年2月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝から惣右衛門殿はいつもの掃除の仕事。ほかに上野で日雇いの仕事。宮様が御成のため御供をする仕事とのこと。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
早朝に出かけて行くためか、最近の五郎兵衛日記は惣右衛門の動向から始まります。通常は掃除の仕事だけですが、今日のように一日限りの仕事が入るときもあります。
嘉永7年2月23日は、ペリーが幕府に献上した蒸気機関車の模型が、横浜の応接所の庭において運転された日。二度目のペリー来航は、五郎兵衛日記には記載がありません。嘉永6年6月の黒船騒動は五郎兵衛日記にも記載があるのですが、二度目のペリー来航に江戸庶民の危機感は感じられません。


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嘉永7年2月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝から惣右衛門殿はいつもの掃除の仕事。今月晦日には借家に全員集まるので、米屋に頼んで餅を三升誂えてもらうことにした。馬喰町肴店鈴木屋で紙を買い、 良祐殿に渡した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
仕事を始めて皆が集まる機会が減ったので、一同に集まる機会を今月晦日に設けています。皆が集まるときは餅、なのでしょうか。餅三升を米屋にオーダーしています。晦日が楽しみですね。
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嘉永7年2月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
早朝から惣右衛門殿はいつもの掃除の仕事。小生、真書太閤記30巻の仕事を元浜町の本屋でもらってきた。
幽学先生は蓋茶碗買いに。小生同道。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛のバイトは、書物の写しを作成するもの。これまで軍書でしたが、いきなり真書太閤記、しかも30巻の仕事。もっとも、真書太閤記自体は最終的には12編360巻に及ぶシリーズであり、30巻は全体のわずか12分の1に過ぎないのですが。
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嘉永7年2月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から弁当持参で掃除の仕事。小生は写し物。米之井村(現香取市米野井)の仙右衛門が借家に来られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
真書太閤記30巻の仕事を受けてきた五郎兵衛。おそらく日がな一日写しを作成していたのではないでしょうか。日記では「小生は写し物」としか書かれていませんが、忍耐のいるタイヘンな仕事ではないかと推察致します。
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嘉永7年2月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から掃除の仕事(弁当持参)。幽学先生は小石川の高松様方に行かれ、昼過ぎに戻って来られた。晩に良祐殿来られる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛はひたすら写本作成の仕事。惣右衛門殿は今日も早朝から掃除の仕事です。五郎兵衛も惣右衛門も愚直なまでに、一途に仕事をしていきます。幽学先生に従っていっているのも、この愚直さがベースにあるからでしょう。
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嘉永7年2月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から弁当持参で掃除の仕事。小生は写し物。幽学先生は、井上医師に書物を持参され、昼過ぎに戻って来られた。高松力蔵様がお出でになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
惣右衛門の早朝からの掃除、五郎兵衛の写し物はいつものとおりです。井上医師は伊兵衛父がお世話になっている医師ですが(昨年12月14日条)、幽学もお世話になっているのでしょうか。何らかの交流があるようです。

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嘉永7年2月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
惣右衛門殿は今日も早朝から弁当持参で掃除の仕事。小生は写し物。風呂屋に行ったが、大風のため休み。昼から幽学先生と伊兵衛父は散歩に出かけられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
風呂屋は大風だと休みになってしまうようです。風呂に行くのは、楽しみな時間なのでしょう。何人かで集って風呂屋を往復する間にいろいろなことを話す時間は、貴重だったことでしょう。
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嘉永7年2月晦日(30日)(1854年)
#五郎兵衛の日記
一同で集まる。良祐殿は早朝に、幸左衛門殿は朝食を食べ終えた頃に来られた。昼から全員で風呂屋に行く。夕方には皆に雑煮を振舞った。晩に散会。
その後、幽学先生にから「お前は気が利かないやつだ」と叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
晦日には全員集まって、餅を食べることに一週間ほど前から決めていました(2月24日条)。餅は雑煮として食べたのですね。昨日風呂屋が休みだったので、全員で風呂屋に繰り出しています。五郎兵衛にとっても楽しい一時だったはずですが、幽学先生にまた叱られてしまいました…。


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季節外れの春の雪 文政12年2月下旬・色川三中「家事志」

2024年03月04日 | 色川三中
季節外れの春の雪 文政12年2月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年2月21日(1829年)晴
・寒気がして、終日引き籠もる。名主の入江から用有りとの連絡があったが、体調が悪いため行かず。
・奉行の小幡様が風烈廻りをされた。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉2名。半紙五状、金一朱。
(コメント)
・町役人に任命されてから、様々な儀式や用事をこなしていたからか、三中先生体調不良となり、本日は家でご静養です。
・風烈廻りとは、風が強い日の火災予防等の取締りのこと。江戸ではこれのみで独立の役職ですが、土浦では町奉行と兼任のようです。
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文政12年2月22日(1829年)
昨夕、与市が江戸から土浦に戻ってきた。原料高騰のため、銚子組は江戸の正油問屋と対峙して値上げをはかったが、銚子組以外が値上げに同調しなかった為、値上げできなかったとのこと。
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉2名。カナガシラ五つ、青銅20疋。
(コメント)
原料高騰のため、醤油製造業者は大ピンチ。値上げして価格転嫁をはかるも、醤油製造業者の足並みが乱れ、江戸の問屋の力に屈してしまいました。色川家のメインは薬種商ですが、醤油製造業もサブで行っており、このニュース他人事ではないありません。

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文政12年2月23日(1829年)
雪降る めずらし
#色川三中 #家事志
〈祝儀覚〉なし
(コメント)
・今日は天気の記事のみ。おそらくまだ体調回復せず、自宅療養中なのでしょう。旧暦2月下旬ですから、太陽暦3月下旬〜4月上旬頃。さすがに雪はあまり降らない季節です。
・三中が町役人に就任したことから〈祝儀覚〉をツイートしてきましたが、以降少なくなることから、本日で祝儀覚は終了します。
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文政12年2月24日(1829年)
佐兵衛が本日をもって退職。餞別に酒を出し、金二朱と菓子百文分を贈った。佐兵衛は、明日船で下総に帰る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の佐兵衛(元徳兵衛)が退職。下総出身だったようです。土浦は下総からは結構離れている印象ですが、舟運があれば意外と便利という感覚なのかもそれません。「船で下総に帰る」とあることから、土浦と下総との水運の結びつきがわかります。
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文政12年2月25日(1829年)晴
日向亮元医師が在所に引越し、妹のえい殿は江戸に奉公に出る。餞別として、日向医師に扇子一対を添えて粘入半切百枚、妹御には小半紙十状を贈る。日向、本日泊る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日向亮元は三中が応援している医師。昨年2月にはまだ江戸で修業をしており、その後土浦で医業をしていました。この度、土浦を引き払って、兄の医師は在所暮らし、妹は江戸で奉公をすることになったようです。

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文政12年2月26日(1829年)曇或は雨
ゆみ(娘)の初めての節句だが、今年は穀物を初め諸色高騰、また御役(町役人)に就任して諸方へ心遣いせねばならず、倹約第一とする。ゆみの祝いは白酒作りのみ。雛人形はやめる。御祝も全て返す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
娘が初節句を迎えます(昨年8月誕生)。娘には甘い親ばか三中ですが、物価高騰&町役人就任で倹約第一方針とします。白酒作りのみ行い、雛人形はやめ、御祝も全て返す方針です。
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文政12年2月27日(1829年)晴
日向医師の在所への引越しは昨日の予定だったが、雨の為に馬来ず。今日が愈々別れの時となる。味醂酒(百文)を振舞う。日向からは饅頭。昼過ぎに馬三疋が来た。
別離の情は海の如し。別れに臨みて言うところを知らず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日向医師は土浦から在所に引越します(2月25日条)。昨日が予定日でしたが、雨の為に馬が動かずで、引越しが延期。日向医師とも今日でお別れです。味醂酒と饅頭でのお別れ会。別れに臨みて言うところを知らず。
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文政12年2月28日(1829年)晴
春なのに寒く、氷甚だし。
とりや伝右衛門殿の長男が結婚した。半紙を持参して挨拶に来られたので、あんぽん三つを贈った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦2月も終わりですし、彼岸の中日(この年は2月17日)もとっくに過ぎていますから、太陽暦でいえば4月になっているでしょうが、「春なのに寒く、氷甚だし」の状態。飢饉をもたらした天保の天候不順を予感させるような文政末期の気候です。
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文政12年2月29日(1829年)
与市殿を府中(現石岡市)に遣わす。
与市は、府中からの帰りに府中幸町の彦左衛門の次男寅二郎(年14)を連れて帰ってきた。掛け合いついでに召し連れ帰りました、とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
数えで14歳、今でいえば中学校一年生位の少年を働かせるために、ひょっと連れて来てしまうというこの感覚には驚きです。府中(石岡)〜土浦は15キロはありますから、徒歩で4時間位。ちょっとそこまでという距離ではありません。
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文政12年2月30日(1829年)晴
堰とめ切りの書付ができた、と中城の橋本権七から連絡あり。書付に印形を押しに行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
堰とめ切り自体は10日ほど前に行われたもの(2月20日条)。書付が完成したため、三中は町役人として押印しています。文書を証拠として残すこと(文書主義)が行き渡っていたのです。
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