南斗屋のブログ

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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 近江-善光寺編 5月10日-5月17日

2024年05月18日 | 伊勢参詣日記
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 近江-善光寺編 5月10日-5月17日

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五月十日 #明治18年伊勢参詣
高宮を出立。雨。約三十丁の脇街道を行き、御多賀大社を参拝。三十丁の峠を越えて、鳥居本で昼食。十銭。
醒ヶ井から(人力)車で垂井駅まで。四里、賃金十四銭。垂井の亀丸屋金兵衛方で泊、宿泊料十七銭。
(コメント)
・高宮(現彦根市高宮町)のことは全く知らなかったのですが、調べてみると、天保14年(1843)当時で総戸数835軒、人口3560人、中山道第二の大きさで(一位は本庄)、本陣1、脇本陣2、旅籠数23などの施設を持つ宿場だったそうです。
・高宮は、多賀大社一の鳥居が宿中程に建っており、同社の門前町という性格も持っています。多賀大社は、中世から近世にかけて伊勢神宮・熊野三山とともに庶民の参詣で賑わい、「お伊勢参らば多賀へ参れ」といわれたほど。常吉たちが多賀大社を訪れたたのもこの辺りを念頭に置いてのことでしょう。
・一行は中山道を通っています。
本日出立したのは高宮宿。途中、多賀大社に寄りましたが、昼食を取った鳥居本宿は高宮の次の宿です。
鳥居本⇒番場宿⇒醒井宿、この間は歩いて移動したようですが、醒井宿〜垂井宿は人力車。
ちなみに、醒井宿〜垂井宿間の宿は、
醒井宿⇒柏原宿⇒今須宿⇒関ヶ原宿⇒垂井宿です。現代であれば、関ヶ原の古戦場を見物するところですが、常吉たち一行に古戦場を見る習慣はなかったようです。会津城が攻められ、会津藩士たちが酷い扱いを受けたことの記憶が生々しい時代であり、古戦場を眺める余裕などなかったのかもしれません。

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五月十一日 #明治18年伊勢参詣
垂井を出立。天気晴天。赤坂まで一里半、名物の石工芸あり。赤坂から五里半で加納駅、立花屋忠八殿で昼食。料金は九銭。
同所から五里で今渡村、綿屋文吉殿で泊、宿泊料十七銭。
(コメント)
・午前中に垂井から加納まで移動しています。常吉たちが今歩いているのは中山道。江戸時代の垂井から加納までの宿場は、
垂井宿⇒赤坂宿⇒美江寺宿⇒河渡宿⇒加納宿
の順です。加納は、現在の岐阜市です。午前中だけでこの移動距離はすごいです。常吉日記によれば7里移動したことになります。
・午後は加納から今渡まで移動しています。
今渡(現岐阜県可児市今渡)は、中山道の宿場ではありません。太田宿(現岐阜県美濃加茂市太田町)からから木曽川を渡ったところを渡ったところにある町です。この渡しあります。
(太田の渡し)には、常吉たちが訪れたときも橋がありませんでした。太田の渡しは、中山道三大難所の一つとされ、明治時代にはワイヤーを用いた岡田式渡船による渡し舟が運航されたそうです。橋が完成したのは、1926年(大正15年)のこと。今では橋は当たり前ですが、明治時代はそうではなかったのですね。

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五月十二日 #明治18年伊勢参詣
今渡を出立。天気晴天。三里で御嵩村。同所から二里は(人力)車に乗り、次月村(しづき)へ。賃金五銭。同所からは峠を越える。三里で釜戸村。同所から三里馬車で行き、大井駅。賃金六銭。松島屋三郎兵衛殿で泊、宿泊料十八銭。
(コメント)
・本日は今渡〜大井駅(大井宿)。
今渡からの中山道の宿場は、伏見⇒御嶽⇒細久手⇒大湫⇒大井の順です。
大井宿は、現在の恵那市大井町。

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五月十三日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。大井から馬車に乗り中津川まで行く。二里半、賃金六銭。山路の登り下りが悪路。馬龍峠、綿屋忠七殿で昼食(六銭)。同所から六里で野尻駅、加納屋儀右衛門殿宅に午後四時着。同所泊、宿料は十六銭。
(コメント)
・本日は大井駅(大井宿)〜野尻駅(野尻宿)。大井からの中山道の宿場は、大井⇒中津川⇒落合⇒馬籠⇒妻籠⇒三留野⇒野尻
の順です。
野尻宿は、現在の長野県木曽郡大桑村野尻です。今日もひたすら中山道を東京方面へと向かう旅です。
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五月十四日 #明治18年伊勢参詣
野尻を出立。晴天。木曽川に沿って四里進み、寝覚村に到着。越前屋喜兵衛殿で昼食。名物のそば、料金八銭。裏の川の中央に浦島太郎の旧跡あり。川を見渡すと、多数の岩が並んでいる。 川の幅は約五間ほどであるが、川の深さは何丈に及ぶのであろうか。浦島太郎が腰を掛けて釣りをしていた岩や釣り竿が今も残っている。風景は非常に佳し。
一里進むと、木曽の桟(かけはし)に到達。この橋は昨十七年の洪水で流されたという。男女岩あり。西側はみな大岩で風景は特に美しい。六里半進んで藪原に到着、川上屋作右衛門殿に泊、宿料十六銭。
(コメント)
本日は野尻〜藪原。藪原からの中山道の宿場は、藪原⇒須原⇒上松⇒福島⇒宮ノ越⇒藪原の順です。
藪原宿は現長野県木曽郡木祖村藪原。
今日もひたすら中山道を東京方面へと向かう旅ですが、途中寝覚村で浦島太郎の旧跡を見ています。ここは「寝覚めの床」という景勝地です。花崗岩地帯を木曽川が削り、姿を現したもの。花崗岩特有の割れ方が、大きな箱を並べたような不思議な造形をもたらしているのです。
浦島伝説の地でもあります。浦島太郎が竜宮城に行った後の後日譚のようです。 諸国漫遊の旅に出た浦島太郎が、寝覚の床にやってきて魚釣りをしたという話しが伝わっているようです。

寝覚の床 | 上松町観光サイト

中山道の景勝地として、また木曽路のランドマークとして親しまれてきた奇勝。寝覚の床は昔も今も、旅人の心に刻まれます。木曽八景の一つ、寝覚の床をご案内します。※寝覚の...

上松町観光サイト



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五月十五日 #明治18年伊勢参詣
薮原を出立。晴天。村端には鳥居峠あり。登り下り各三十町、奈良井村に着。一里三十町進んで贄川。同所から二里で本山駅。中扇屋彦三郎殿で昼食(料金八銭)。
その後、馬車で浅間温泉へ。賃金は十四錢。午後五時ころ浅間温泉に着。地本屋形三殿方で泊、宿料十八銭。
(コメント)
本日は藪原〜浅間温泉。中山道を藪原⇒贄川⇒本山⇒洗馬(せば)と辿り、ここで中山道と分かれて、善光寺へ通ずる北国西街道を行きます。「浅間温泉」は、現松本市浅間温泉です。松本城下を通過しているはずですが、見学もせず、一行は善光寺を目指して旅路を急いでおります。

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五月十六日 #明治18年伊勢参詣
浅間温泉を出立。天気晴天。刈谷原峠を登る。二十町で頂上、隧道が八十間、一里下ると刈谷原駅。同駅から一里で會田駅。
立峠にかかり、峠頂上の見晴屋忠助殿で昼食。料金六銭。
同所から二里で青柳、青柳から一里十丁で麻績駅。猿ヶ馬場峠に掛かり、一里進んで頂上からは姥捨山を見物。稲荷山駅に到着。丸屋平衛門殿で泊。宿料十五銭。
(コメント)
・一行は善光寺を目指して北国西街道を進んでいます。本日は浅間温泉〜稲荷山駅(稲荷山宿;現長野県千曲市)。同街道の宿場は
松本⇒岡田⇒刈谷原⇒会田(ここまで長野県松本市)⇒青柳(長野県東筑摩郡筑北村)⇒麻績(長野県東筑摩郡麻績村)⇒桑原⇒稲荷山(ここまで長野県千曲市)です。



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五月十七日 #明治18年伊勢参詣
稲荷山を出立。天気悪し。一里進んで篠ノ井駅、その後二里進んで丹波島駅に至り、更に十六丁進んで善光寺駅に十時に到着。善光寺様を参拝。大門町の扇屋金四郎殿で昼食(料金は六銭)。雨が降りだしたので、(人力)車で牟礼駅に移動。その間の距離は四里、料金は十五銭。牟礼駅の和久屋政衛門殿で泊。宿料は十六銭。
(コメント)
・常吉一行は稲荷山⇒篠ノ井⇒丹波島宿(篠ノ井・丹波島は現長野県長野市)と進み、善光寺に到着しました。
・善光寺を参拝し、大門町(現長野市善光寺大門町)で昼食。雨が降りだしたので、牟礼(現長野県上水内郡飯綱町牟礼)まで人力車で移動しました。善光寺からは北国街道となり、越後高田方面に向かいます。


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五月の節句は付届けの季節 嘉永7年5月上旬・大原幽学刑事裁判

2024年05月16日 | 大原幽学の刑事裁判
五月の節句は付届けの季節 嘉永7年5月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。
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嘉永7年5月1日(朔)(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝、惣右衛門殿が借家から職場に帰った。幽学先生は、藤元屋、その後両国の桐山に行き薬を買ってお帰りになられた。小生は薬を煎じ、鍔の掃除をし、晩には幽学先生のもみ療治を頼みに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幽学先生はどうも体調が悪いらしく、薬を購入しています。五郎兵衛は薬を煎じたり、幽学先生のもみ療治を頼みに行ったりと、幽学先生の為にまめに動いています。

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嘉永7年5月2日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・朝、節五郎殿が来て、髪結いをし、伊兵衛父の親方へ網の相談に行って、昼過ぎに帰られた。良祐殿は昼前にきて義論集を調えた。
・武左衛門殿、長左衛門殿は昼過ぎに借家に来られた。身上の持ち方について幽学先生から教えを受け、感服して晩には帰っていった。小生は夕方に鰯を買い、借家に来ている者に振舞った。夜には藤元屋から脇差しを持って帰ってきた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は今日も幽学先生の為に働いています。大原幽学は刀等の転売ヤーで江戸の滞在費を稼ごうとしており、五郎兵衛が鍔の掃除をしたり(5月1日条)、今日藤元屋に脇差しを取りに行ったのは、その関係でしょう。


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嘉永7年5月3日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝、幽学先生は藤元屋に行き、昼前に買い物に出かけられた。小生は朝、万徳(公事宿)に袴代を持っていき、備屋で上酒切手を拵えて、蓮屋(公事宿)に行った。両国で砂糖を買い、梅ひしおを拵えて、昼からは鍔の掃除をした。夕方に良祐殿は小石川(高松家)に節句祝儀に行った。良祐殿が借家に戻ってから、邑楽屋(公事宿)へ袴代節句祝儀に一緒に行った。 夕方、幸左衛門殿が来て、藤元屋に金子一両を一緒に持っていった。元浜町本屋にも寄って本の写し代金をもらった。
良祐殿が奢り昂ぶっていると幽学先生は心配されており、国元(長部村)に手紙を送られた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
5月の節句(5月5日)を間近に控え、公事宿への付届けが行なわれています。関係している公事宿は、万徳・蓮屋・邑楽屋です。現代では五月の節句といえば、子どもの為の祭りですが、今日の日記をみる限り、江戸の贈答文化の年に数回のイベントという感じです。

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嘉永7年5月4日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝方、幽学先生は買物に出かけられ、昼過ぎにお帰りになられた。惣右衛門殿は昼前に来て、昼食を食べ、蓮屋(公事宿)や御役所へ節句の祝儀に行った。蓮屋の手代の米八殿が礼に来た。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
米八殿の名前は五郎兵衛日記に良く出てきます。彼は蓮屋(公事宿)の手代なのですが、他の公事宿の手代の名前は出てこないので、彼がまめに幽学一門と接点を持っていたことが分かります。


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嘉永7年5月5日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝方に外川屋(公事宿)が来て、幽学先生に脇差しを拵えてくれるように依頼に来た。
昼前に武左衛門殿、米八殿(蓮屋の手代)が来た。昼には良祐殿が来た。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日の日記にも出てきた米八殿(蓮屋の手代)ですが、今日の日記にも登場しています。公事宿の外川屋については屋号での記載ですが、米八は個人名で登場しており、他の公事宿の手代とは差が歴然としています。

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嘉永7年5月6日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・朝方に小貝野の利兵衛殿が来て、長部村から手紙等を届けられた。
・神谷様ご夫婦が昼前にお出でになられ、夕方まで幽学先生とお話になった。「天子から庶人まで、人間の一生を楽しんで過ごすには足ることを知り、身を修めることが第一である。生涯楽しんで過ごすには、夫婦の中の楽しみはこう、親子の楽しみはこう、自分の生涯の楽しみはこうと心法を立て、それを守り通さなければ、ただ目の前のことにだけ陥って苦しみが生じるだけである」。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
神谷様というのはどうやら水戸藩の隠密らしいのですが、隠密とは別の理由で大原幽学のところに来て(4月4日条)、幽学先生の教えに参ってしまったようです。そのときに「今度は妻を連れて一緒に教えを聞きに来る!」と言ってたのですが、本当に奥様を連れてきてしまいました。


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嘉永7年5月7日(1854年)
#五郎兵衛の日記
武左衛門殿が昼に借家に来た。幽学先生は、「問題になっている件は隣村とも相談をして示談するがよい」と仰った。武左衛門殿は江戸から村に戻られるとのことなので、幽学先生は様々なお話をされた。武左衛門殿は、次のものを借家に預けて行かれた。
・包み物大切な品、単物1つ、包み物一つ、茶こし、傘1本、下駄2足、草履1足
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
武左衛門は諸徳寺村(現旭市)の村役人をしています(嘉永6年10月5日条)。何やら紛争となっている件を抱えているらしく、村に戻って調整に当たる様子。五郎兵衛はなぜか武左衛門な預けていった物を正確に記録しています。
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嘉永7年5月8日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝に武左衛門殿が帰村の際に立ち寄られる。幽学先生は荒部村への手紙を託されていた。
・小生は牛込の神谷へ薬方書を持っていき、昼前には戻った。
・その後、米八殿(蓮屋の手代の)が来た。裏店に空きがあるとのこと。幽学先生と同道して見に行く。
#大原幽学刑事裁判

〈その他の記事〉
・昼、長左衛門殿が来られる。幽学先生は「店をこの近所へ引越しをするのであれば、商いは段々と繁昌するであろうよ」等と話され、身上の持ち方や長部村の遠藤の祖父様のことなどを色々と話された。
その後、節五郎殿が来た。先だって、伊兵衛の親父様に網のことを聞きに行く時、羽織を来て行ったことを、親父様に叱られた。幽学先生はそのことについて、「どうしてそのような羽織を着たいのか。この間、親方と良祐が湯に行くときにも、羽織を着ていったが、奢っている。そういうことでは困るといむているのに、どうしてそのようなことをするのか。そういう筋が変わらなければ、身上を持つようには行かぬ」と幽学先生は誠に心配されて、叱られた。そして、小生に対しても、「お前が余を助けるといっているが、なぜ節五郎にそのような考え方を持たせたままにさせて、余を心配させるのか。その前に改めさせるのが、手前の役ではないのか」と叱られた。
・昼過ぎに伊兵衛父が来た。「親方より暇が出て、浅草の方へ参り、その帰りにこちらに立ち寄った。今日は随分機嫌が良くて扇子も貸してくれたし、羽織も着て行くようにと世話してくれた。」
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
早朝に武左衛門は江戸を出立。帰村して紛争解決に当たるためです(5月7日条)。借家に立ち寄った際に、幽学先生から他人への手紙を託されました。郵便制度がない江戸時代でも、人づてに手紙はやり取りされています。


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嘉永7年5月9日(1854年)
#五郎兵衛の日記
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は日記の記載がありません。
五郎兵衛には珍しいことです。


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嘉永7年5月10日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝どき、幽学先生は「これから食事は少なめに」と言われた。その後、先生は藤元屋に行かれた。先生から皮の財布(馬喰町で先生がお買いになった)をいただいた。
#大原幽学刑事裁判

〈その他の記事〉
・幽学先生は昼を食べてから、またお出かけになり、午後3時頃脇差し1本、寿司2本、汗取り6枚を買って帰られた。
・良祐殿は昼前に借家にきて、写し物をされた。昼には米八殿(公事宿の手代)が着たが、すぐに帰った。
・昼過ぎに親父(伊兵衛)が来て、小生に「気を楽にして先生の言う通りにできると思えば、なんにも難しいことはない」と親身になって話しをされた。
 (コメント)
幽学先生が珍しく五郎兵衛にプレゼントをしています。五郎兵衛日記誌上初めてではないでしょうか。それも皮の財布です。最近五郎兵衛を叱ってばかりで悪いと思ったのでしょうか。転売ヤーの仕事がうまくいっていて、幽学先生の手元資金に余裕があることも理由の一つかもしれません。


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江戸時代の五月の節句行事 文政12年5月上旬・色川三中「家事志」

2024年05月13日 | 色川三中

江戸時代の五月の節句行事 文政12年5月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年5月朔(1日)(1829年)甲午 晴
昨日、町年寄の奥井吉右衛門殿から月番御用控帳を受け取った。今月の月番は
町御奉行様:藤井央様
町組小頭:野口四五右衛門殿
町年寄:中城分 色川桂助、東崎分 太田甚五兵衛
月番の町組小頭へ、当月の行司を書き上げて提出した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今月は三中が町年寄の月番にあたっており、四月の月番であった町年寄の奥井吉右衛門から「月番御用控帳」を受取っています。月番がこの控帳を記録して、次の月番に廻すのでしょう。役職が月番で交替するのは、幕府と同じです。わ
(補足)
本日の日記はかなり長く以下の記載もあります。
「羽織袴を着て両御奉行所と両小頭に御礼に出向き、会所附留役所にも御礼を申しあげた。銭相場は変わりないことを確認して届出。銭月番小頭は小津屋小右衛門であることを伝えた。
月番年寄心得
出火があった場合は、すぐに身支度を整え、現場に駆けつけ、火元を注視して、状況を把握することが重要である。
御馳走屋敷御宗門につき、御用人、御番頭、御目附衆が出席し、東崎と中城の町役人一同も出席したし。 脇指をさし、定められた通りに肴一種と酒二升を差し上げた。
相馬長門守様御宿泊
相馬長門守様が今月3日から御宿泊されるため、御見分あり。町年寄は奥井吉右衛門が一人参加。」
←相馬長門守は、中村藩(現福島県相馬市等)の大名相馬益胤。文化10年(1813年)第11代藩主に就任。同年、従五位下長門守に叙任。天保6年(1835年)に隠居するまで藩主でした。

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文政12年5月2日(1829年)
・昼過ぎから大雷雨に雹まで降る。雹は梅ほどの大きさ。夕方には止む。この雹で、谷原の菜種は半分以上打ち落とされたという。
・その後晴れる。相馬長門守様ご宿泊の為、両御奉行の御見分あり。町年寄は和泉屋金之丞殿が見分に参加。名主と町年寄は立付羽織で桜橋まで出迎え。
・相馬長門守様は明日から御宿泊される。役は次のとおり。
御本陣出役 栗山八兵衛
問屋出役 和泉屋金之丞
御先払い 色川桂助(三中)
#色川三中 #家事志
(コメント)
・かなり大きな雹のため土浦周辺で被害が出ています。高持百姓でもある三中は、農作物の損害には敏感です。菜種に損害が出ていることが記録されています。
・「相馬長門守」は、中村藩(現福島県相馬市等)の大名相馬益胤(そうま ますたね)のこと。土浦での宿泊は参勤交代の途中と思われます。土浦藩の方でも準備万端整える必要があるのですね。

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文政12年5月3日(1829年)晴
・新宅のぬい殿がご懐妊したので本町から新宅へと移っていたが、先日、女子を無事に出産した。今日、干物7枚を贈った
・相馬長門守様が土浦をお通りになるので、町役人は羽織立付を着て、銭亀橋までお迎え。昼過ぎに相馬長門守様は本陣にご到着。
・先般の大町の隠女の件につき本日処分が言い渡された。⇒末尾付1へ
#色川三中 #家事志
(コメント)
・新宅のぬい殿が伊勢屋さんと結婚したのは、昨年6月のこと(文政11年6月26日条)。結婚してから一年近く経ち、ご出産と相成りました。
・相馬藩の殿様(相馬長門守)が土浦に到着。町役人一同は銭亀橋までお出迎えです。銭亀橋は桜川にかかる橋です。土浦城よりも江戸方向にあるので、相馬藩の殿様は江戸から中村藩(現相馬市)に戻る途中に立ち寄ったようです。

銭亀橋 · 〒300-0038 茨城県土浦市4

★★★★★ · 橋

銭亀橋 · 〒300-0038 茨城県土浦市4




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文政12年5月4日(1829年)快晴
娘の節句の祝いとして、谷田部の飯塚家から内々の祝儀として金1分2朱が贈られてきた。
祝儀は断る旨話していたのであるが、どうしてもと言われ、とりあえず預かることとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
娘の節句には倹約方針を取り、祝儀は受け取らず、全て返すという方針を取っていた三中ですが(2月26日条)、谷田部の飯塚家(妻の実家)からの祝儀は断り切れなかったようです。「とりあえず預かる」というのが、歯切れの悪さを表しています。
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文政12年5月5日(1829年)曇
・中城と東崎の町役人および両町の名主一同が一緒に、節句の日の御礼に参上した。
両小頭 、両奉行、吟味衆:佐久間伝右衛門様・中里平馬様、大久保一郎兵衛様、神田弥右衛門様、組頭:石嶋様、矢嶋様、岡田様、御代官:神龍寺
・夕方に持病の喘息が再発し、家で療養。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・名主&町役人が土浦藩の奉行等に御礼に参上。節句の日の恒例の行事なのでしょう。現代では五月の節句といえば、子どもの為の祭りですが、現代とはかなり「節句」の意味合いが異なるようです。
・三中の体調がまた悪くなってしまいました。2月にも寒気がして、終日引き籠もったことがありました(2月21日条)。町役人の仕事は忙しそうであるので、心配です。


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文政12年5月6日(1829年)
三中先生は本日ご休筆です。
昨日の日記で「夕方に持病の喘息が再発し、家で療養」と書いていましたので、今日は療養に専念したのかと思われます。
#色川三中 #家事志

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文政12年5月7日(1829年)
山口後ろの田植えを行った。今年初めての田植え。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦五月、梅雨の季節であり、江戸時代の土浦ではこの時期に田植え。昨年も5月に田植えがあちこちで行われてきました。三中は高持百姓であり、実際の田植え作業は小作が行っているのでしょうが、藩に年貢を納める義務は高持百姓にあるので、農産物の出来は生活に直結します。


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文政12年5月8日(1829年)曇
和田屋貞右衛門が江戸から帰ってきた。先般の江戸の火事の様子を聞いたが、江戸ではまだ何も分からず、焼けた土が往来に積み重なっている由。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸の文政大火(文政12年3月21日発生)の続報。三中の日記では翌3月22日条でこの大火のことが初めて記録されています。火災の発生から1ヶ月半が経ち、江戸に行った者から情報を聞き出そうとしますが、まだ混乱しており、何も分からず、焼けた土が往来に積み重なっている状態です。

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文政12年5月9日(1829年)
曇、昼より大雨。
大町の色川金平方から奥印のお礼に酒1升をもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
奥印とは、書類に記載された事実の正しいことを証明するために奥書に印をおすこと。町役人が公証機能を果たしていたのです。奥印を押してもらったら町役人には御礼をする決まりのようで、今日の御礼は酒1升でした。
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文政12年5月10日(1829年)雨
この頃毎日体調不良で不快。どうにもよろしくない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今月5日から持病の喘息が再発してしまい、それ以降、体調不良が続いているようです。時は旧暦5月で梅雨時。昨日も今日も雨ですから、なかなか体調も戻らないのでしょう。
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付1:大町の隠売女の件の処分
(日記の訳)
先般の大町の隠売女の件につき本日処分が言い渡された。
六ツ時、山屋等を御呼び出し。町役人は奥井吉右衛門殿が参加。
今回の件は不届き至極であるので、
山屋 弥助:手鎖の上、過料7貫文
江戸崎屋 伊助 : 手鎖の上、過料5貫文
大屋 定四郎 : 科料3貫文
表組合の者ども:各科料700文
「今回の件は、隠売女に似た者を置いていたという大変不届き至極な行為であり、本来であれば3年間の科料を申し付け、屋敷や株を取り上げ、厳科に処するところであったが、御宥免により、上記の処分に留めた。謹んでこの処分を受け入れるべきである。」
名主・年寄等の町役人へは、「その方町方の役人としてよくやったので満足している。今後は奉行所へ届出るには及ばない。取締りをしっかりとするように。」とのご称美あり。町役人一同有り難くお請けした。

(コメント)
大町(現土浦市大町)には、飯盛女・隠売女を置いているという噂の宿があり、町役人が深夜その宿に踏み込んだところ、女性がいる現場を押さえて、検挙に成功しました(4月26日条)。町役人は土浦藩にこのこと届け出て、口書も作成しています(4月27日、28日条)。
5月3日に関係者の処分が言い渡されました。検挙された宿の経営者2名には手鎖+過料7貫文・5貫文、宿の大家は科料3貫文。組合の者にも科料700文という処分です。これで大町の隠売女の件はスッキリと片が付きました。








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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 神戸−京都、近江編 5月2日-5月9日

2024年05月11日 | 伊勢参詣日記
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 神戸−京都、近江編 5月2日-5月9日

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五月二日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。兵庫、神戸を見物。湊川神社を参拝。海邊には外国人の家。家の前は皆公園地であり、風景佳し。三ノ宮から汽車に乗り、住吉へ(里程二里半)。賃金九銭。住吉からは山。登り道二里、下り道一里で有馬温泉。午後三時頃、有馬温泉の池ノ坊直助方に着。同所にて泊まる。温泉に入浴。泊料二十五銭。
(コメント)
・湊川神社は、現神戸市中央区多聞通にある神社。祭神は楠木正成。明治になってから創建された神社です。明治創建の神社としては、豊国神社がありました(4月22日条)。常吉たちは古来からの神社仏閣だけでなく、最近できた神社もまめに回っています。
・外国人居住地を見学。これも明治ならではです。東京では築地の外国人居留地を見学し、「異人館」と記していましたが、今日は「外国人家」と表現しています。
・三ノ宮から住吉まで汽車。これもまた明治になってからのものです。常吉たちは、関東では、川崎から横浜までも汽車に乗っていましたが(3月25日条)、関西でも汽車を体験しています。関西では1874(明治7)年に大阪駅 - 神戸駅間に鉄道が開業しています。
・住吉からは徒歩で六甲山を越え、有馬温泉へ。温泉宿だからでしょうか、他よりも宿代が高いです(25銭)。

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五月三日 #明治18年伊勢参詣
有馬を出立。天気晴天。有馬から山路を四里。この山は景色が特に美しい。西ノ宮に到着し、西ノ宮神社を参拝。郡司利兵衛方で昼食。料金は七銭。その後六里進む。尼ヶ崎ではあちこちに川があり、橋の通行料を取られること多し。大阪の戎橋西詰の大和屋称三郎方で泊。宿料は二十二銭。
(コメント)
・有馬温泉から西宮方面へ。晴天であり、山上から瀬戸内海を臨み、常喜たちのモチベーションも上がっているようです。
・尼崎付近では川を渡るのに、橋の通行料を結構取られています。明治になって橋を新設して、有料の橋となっていたのでしょう。
・道頓堀戎橋際にある大和屋にて泊。ここは一度泊まっています(4月20日条)。

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五月四日 #明治18年伊勢参詣
大阪を出立。天気晴天。淀川を蒸気船に乗り、橋本まで川を遡上。賃金十五銭。そこから十八丁進み、石清水八幡宮を参拝。非常に立派な大社である。同所から二里半進み、伏見。福田屋元吉方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・大阪を出立し、淀川を蒸気船で遡ります。
橋本でおりて、石清水八幡宮を参拝。橋本は、現京都府八幡市の地名です。
・石清水八幡宮から伏見までは徒歩。本日は伏見に泊まります。

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五月五日 #明治18年伊勢参詣
伏見を出立。雨。官幣大社御香宮および府社藤森神社、官幣社伏見稲荷大社を参拝。その後、京都に行く。官幣社豊国神社や三十三間堂、大仏を参拝。大仏の高さは九百一尺。桃山御殿も参拝。午前十一時、西京(京都)三条橋東詰の扇屋正七方(宿所)に荷物を置き、午後二時から御所と博物館を見学。午後五時頃に宿に戻る。泊料は二十二銭。西京(京都)で三日間滞在予定。
(コメント)
・伏見を出立して、伏見の神社を参拝。参拝したのは、官幣大社御香宮、府社藤森神社及び官幣社伏見稲荷大社です。本日の日記から神社に「官幣大社」等との記載がつけられています。
官幣社とは、近代社格制度においては、皇室から幣帛(へいはく)を奉った、社格の高い神社のことで、大社・中社・小社・別格官幣社があります。府社は、府から幣帛 を供進した神社です。近代社格制度は明治に創設され、戦後に無くなりました。
・京都の大仏が、豊臣秀吉により建立されたことは有名ですが、破却されました。これは初代大仏で、江戸時代に2代目〜4代目大仏が造られています。4代目が造られたのは、天保14年(1843年)。常吉たちが見たのは、この大仏です。4代目大仏は1973年(昭和48年)に失火によって焼失し、以後再建されておりません。
・「桃山御殿」とは、養源院のこと。は、京都市東山区にある浄土真宗遣迎院派の寺院。
・京都のことを「西京」と呼んでいるのが興味深い。東京に対する語でしょうが、今では使われていません。京都府立大学は、1949年に「西京大学」として新設されましたが、1959年には京都府立大学と改称しており、この辺りで「西京」は使われなくなっていったのでしょう。
・「博物館」。京都の国立博物館は1897年(明治30年)に開館ですので、常吉たちのみたものは、国立博物館ではなく、府営博物館と思われます。しかし、ウィキペディアには以下のような記載があり、これを前提とすると、明治18年には博物館は存在しないことになっています。常吉たちが見た博物館とは何だったのでしょう。
「京都には帝国京都博物館開館以前に府営の博物館があった。府営博物館は1875年(明治8年)、京都御所の御米倉に設けられ、翌1876年に河原町二条下ルの府立勧業場に移転したが、1883年(明治16年)に閉鎖されている。」


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五月六日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。市中見物し、神社仏閣を参拝。寺町通の法華宗本山の本能寺、同寺は信長公の寺である。西国第十九番札所である一条革堂。御霊神社、禁裏御所を訪れる。官幣大社下鴨神社では、社内には柳の夫婦の木あり。浄土宗本山の百万遍、官幣中社の吉田神社。銀閣寺は足利八代義政公の寺である。真如堂、净土宗総本山の黒谷寺には熊谷直実の墓あり。また、会津藩の墓もある。浄土宗総本山の知恩院。華頂山の大谷寺は、三大将軍家光公の建立である。大釣鐘あり、厚さ九寸五分、幅九尺五寸、高さ一丈三尺で、重さ二万貫目である。青蓮院では千畳敷の座敷も拝見。さらに、官幣中社の八坂神社では、祇園午頭天王社、八坂ノ塔に上る。西京(京都)を眼下に見渡す。西国十六番札所である清水寺では音羽ノ滝を見る。西大谷寺にはお俊伝兵衛の墓あり。西国十七番札所の六波羅蜜寺など、古い神社や寺も参拝。午後六時頃に宿に戻る。
(コメント)
・常吉たちは京都には三泊予定です。今日は京都の寺社をたっぷりと参拝しています。
・本能寺⇒一条革堂(行願寺)⇒御霊神社⇒下鴨神社⇒百万遍⇒吉田神社⇒銀閣寺⇒
真如堂⇒黒谷寺⇒知恩院⇒大谷寺⇒青蓮院⇒八坂神社⇒清水寺⇒六波羅蜜寺⇒宿

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五月七日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天、日蓮宗の立本寺(西国十八番札所)、官幣中社の北野天満宮、御室の御所を訪れる。嵐山では、桂川の流れ。川岸に遊歩小屋が建てられ、その景色は特に美し。官幣大社の松尾神社、嵐山の虚空蔵や東西本願寺も参拝。午後六時に宿に戻る。
(コメント)
・本日も京都の寺社の参観です。
・立本寺⇒北野天満宮⇒御室の御所⇒嵐山⇒松尾⇒嵐山の虚空蔵⇒東西本願寺⇒宿。


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五月八日 #明治18年伊勢参詣
京都を出立。晴天。山道三里で、比叡山へ。山内には寺院多数。
その後、唐崎の松を見物。松下にある官幣大社日吉神社を参拝。五十丁で三井寺。弁慶の引釣鐘観音社を参拝。同所から琵琶湖の湖水を目の下に見る。近江八景なども眼下に見る。その風景は特に素晴らしい。大津駅の札の辻󠄀、桝屋徳兵衛方に泊。宿料は二十銭。
(コメント)
・京都をたっぷりと見た後、一行は比叡山を越えて、延暦寺へ。
・山を降りて、日吉神社へ。唐崎の松を見物。この松は、歌川広重が描いた唐崎夜雨(近江八景)にも登場します。松に対する愛着は強いですね(5月1日条)。

近江八景之内 唐崎夜雨 文化遺産オンライン



・近江八景

近江八景の旅 近江八景の由来 | 一般社団法人・東京滋賀県人会

一般社団法人・東京滋賀県人会の公式サイトです。世界は動いている、そして日本も動いている。江戸の時代から今日にいたるまで、私たちの生活を支え続ける近江商人たちの知...

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五月九日 #明治18年伊勢参詣
天気は曇り。石山寺を参拝。月見堂から近江八景を遠望する。その風景は特に美しい。瀬田の唐橋を渡る。草津の藤屋与左衛門方で昼食。十銭。
草津から(人力)車に乗って高宮に到着。距離十里、運賃二十五銭。かぶとや忠蔵殿で泊。宿料は二十銭。
(コメント)
・大津を出立し、石山寺。同寺からも近江八景を遠望しています。
・瀬田の唐橋を渡り、草津で昼食。その代金は10銭で、宿料(20銭程度)の半額はかなり高い。現代では外食が気軽にできますが、この時代は外食自体がかなりの贅沢だったのでしょう。
・草津からは人力車を使って、高宮へ(現滋賀県彦根市高宮町)。高宮は中山道の宿場町。中山道の宿場町は、草津⇒守山⇒武佐⇒愛知川⇒高宮ですから、草津からはかなりの距離があります。常吉日記にも「距離十里」(40キロ)と書かれています。しかし、運賃は25銭で、宿泊代金とさほど変わりません(有馬温泉での宿泊代金が25銭でした)。


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仮刑律的例 29-2 彰義隊参加者の為の嘆願

2024年05月09日 | 仮刑律的例
仮刑律的例 29-2 彰義隊参加者の為の嘆願

明治二年已正月十二日、江州伊香郡の禅曹洞宗、栄昌庵悟宗よりの歎願。
【 歎願の内容】
酒井直之助の元家来の松平孫三郎の嫡子右京と申す者がおります。拙僧はこの者と上州前橋竜海院に随身中からの知人です。
このたび右京が落髪して出家し、拙僧のところに来て次のことを話しました。
「今年4月に東京から脱走し、上野の輪王寺宮の守衛である彰義隊に参加しましたが、意見が合わず、様々な問題が発生しました。最終的には追討の御沙汰となり、大罪を犯してしまいました。身の置きどころがなくなり、前非を悔い改めるため、出家をしたい。謝罪をし、仏の慈悲を乞うほかありません。」
これは容易なことではないと驚きいり、一旦は断りました。しかし、出家できなければ自殺しかねない様子。一旦沙門に身心ともに委ね縋っている者を、このまま一命を捨てさせてしまっては、利済の道に欠けるものと思い、天朝に対しては恐れ多い行為ではありますが、やむを得ず法衣を与えました。右京は謹慎し、恭順の意を表明しています。
右京本人に自らの過ちを謝罪させるべきではありますが、近畿に近づくことも恐れ多いことと述べているため、やむを得ず拙僧が彼に代わって謝罪することといたしました。何卒、非常出格の御寛典をもって、右京の
一命を救って下さるようお願い申し上げます。


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【返答】
〈付紙〉
歎願の件は御採用となった。死一等を減じ、元藩への引き渡しとなる。よって、その旨心得ること。

〈明治2年正月二25日、諸侯掛弁事へ返答〉
別紙の通り申し出があったため、酒井直之助の公用人を呼び出し、右京の身柄について尋ねたところ、親孫三郎はかねてより不正の筋があったため、現在格禄を取り上げて、永牢にした処とのこと。右京は上野彰義隊に参加し、官軍に抵抗したのち敗走し、その後行方不明となっていると申述した。これにより、同藩への引き渡しおよび同藩による処置を任せても問題ないと考えられる。なお、右京についてはこれまで当職において関係していないことに留意いただきたい。よって、この段申し入れる。


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(コメント)
松平孫三郎の嫡子右京という者が、彰義隊に参加した罪を悔悟して出家を希望しました。栄昌庵悟宗は僧侶として出家を認め、右京の嘆願をしています。
この嘆願は認められ、死一等を減じ、元藩への引き渡しとなり、同藩による処置に任せられます。
なお、ここでの「元藩」というのは、姫路藩のことです(文中に出てくる酒井直之助は播磨姫路藩主酒井忠邦)。

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幽学、五郎兵衛を叱る 嘉永7年4月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年05月07日 | 大原幽学の刑事裁判
幽学、五郎兵衛を叱る 嘉永7年4月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。

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嘉永7年4月21日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝早く幽学先生は出かけられ、本郷で大小をお買いになり、夕方にお戻りになられた。
小生は帳簿を写した後、幸左衛門殿と2人で元浜町の本屋へ行き、筆墨料のことを相談。五節句毎に勘定することとなった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・幽学先生は相変わらず刀の転売に勤しんでおられます。今日は本郷まで刀の買付に赴かれました。
・五郎兵衛は本屋に行き、本の写し作成バイト代の交渉。いつバイト代をもらうのかを決めていなかったのかもしれません。こういうときはしっかりものの幸左衛門がいると心強いです。

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嘉永7年4月22日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・昨晩幸左衛門は借家に泊まり、早朝に職場に戻った。
・昼に高松彦三郎様がお出でになられたが、小生の気配りが行き届かなかったので、幽学先生に叱られた。彦三郎様は夕方にはお帰りになった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幸左衛門は藪家(旗本)の門番の仕事をしており、藪家に住込みをしていますが、時々借家に戻っており、今日のように泊まることもあります。大原幽学と五郎兵衛は借家にいますが、他の道友は幸左衛門と同様の生活をしていますので、借家での生活費は以前と比べるとだいぶかからなくなっています。

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嘉永7年4月23日(1854年)
#五郎兵衛の日記
朝、幽学先生は買い物のため遠方に出かけられたが、大雨となったため昼すぐにご帰宅。
良祐殿は日の出前に来られて、写し物をしていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
良祐殿は現在石川家(旗本)の辻番をしています。石川家に住込みですが、今日は借家に帰ってきて、書物の写し。自分のためなのか、仕事なのか分かりませんが、夜勤明けでもう一仕事しています。勤勉です。


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嘉永7年4月24日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・節五郎殿、惣右衛門殿、伊兵衛父が借家に来たので、一同で昼食。
・幽学先生から晩に「お前はどうも贔屓があっていかん。私とは全く好みが合わない。以前からも言っているだろう」等と色々と心得を話され、お叱りを受けた。誠にありがたいご教諭である。「自分を改革を致します」と申し上げたけれども、幽学先生にはご納得いただけないようであった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・節五郎も惣右衛門殿も伊兵衛父も、武家に住込みをして辻番等をしたいます。ちょいちょい借家には帰ってきますが、これだけ集まるのは珍しい。五郎兵衛にとっても楽しい昼どきだったことでしょう。
・しかし、幽学先生からはお𠮟りを受けてしまいました。五郎兵衛は「誠にありがたいご教諭であり、自分を改革を致します」とまで言っていますが、幽学先生にはあまり信用されていないようです。

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嘉永7年4月25日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・稲荷下が帰村するのでその仕度をし、頼まれものがあり、買出だしをした。昼食後、雨が降ってきたので、稲荷下の帰村は延期し、逗留することになった。
・幽学先生から、「お前にはどうも困る。予が亡き後は、良左衛門と同様に大勢の者の世話をしてもらいたい。大勢に帰服されるようになってほしい。しかし、お前は何をいうにも贔屓腹であるし、帳面についてもやることなすこと齟齬ばかり、予とも腹が合わなくて困る」とのお話しがあった。
誠にありがたい思し召しである。己を顧みてみて、間違いが多く、融通のきかない性分であり、自分でも呆れ果ててしまうほどである。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日もまた五郎兵衛は幽学先生から叱られてしまいました。幽学先生は、五郎兵衛を遠藤良左衛門(長部村)と並ぶ指導者になってほしいと思っているようですが、指導者になるには五郎兵衛の行いは適さないとご立腹。五郎兵衛の良さは、真面目でコツコツやることにあり、指導者には向いてないのではないかと思いますが。

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嘉永7年4月26日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・大雨。善右衛門殿は借家に逗留することになった。朝食を食べた後、昨日に続いて幽学先生から、小生の筋が悪いとまたお話しがあった。改める決意をしたが、その後も帳面のことで叱られた。
・良祐殿は日の出前に来て書物を調べ、昼から碁を打って本日借家に泊まり。昼から来た幸左衛門殿も泊まり。小生は晩に本屋へ行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日もまた五郎兵衛は幽学先生に叱られています。3日連続です。これは五郎兵衛に原因があるというより、幽学先生にストレスが溜まっているからでしょう。

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嘉永7年4月27日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・早朝に善右衛門殿、良祐殿、幸左衛門殿が帰った。幽学先生からは、お前は奢っているとか、筋が悪いとまた叱られた。
幽学先生は髪を結って、湯に入り、昼前に買物に出かけられた(夕方にお帰りになった)。
・小生は霊岸橋の藤田で蝋燭を買い、佐久間町の山口で炭を買ってから、借家に戻った。武左衛門殿が来て一時(2時間)ほどいた。
・十日市場村の七右衛門殿が鍔、栗、手紙を持参して、鳴戸御屋敷へ行かれた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今日もまた様々な人々が借家に出たり入ったりしています。応対係は五郎兵衛ですが、人が多いだけに行き届かないこともあるのかもしれません。そこでまた幽学先生に叱られています。が、挫けないのが五郎兵衛流。霊岸橋等に買物に行くのは気分転換にもなるでしょう。

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嘉永7年4月28日(1854年)
#五郎兵衛の日記
七右衛門殿が小生に手紙を書いてくれるよう頼みがあったので、早朝七右衛門殿を迎えにいった。頼みどおり手紙を認めた。七右衛門殿は借家に泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日の記事はなぜか七右衛門のことだけ。七右衛門は昨日の記事にしか出てこず、十日市場村(現旭市ハ)の者という以外によくわかりません。

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嘉永7年4月29日(1854年)
#五郎兵衛の日記
・大先生がご不快でお休みになっていたが、昼前には一度おでかけになり、夕方前には戻られた。
・小生は昼前に小石川へ行って、綿入を持ち帰り、昼からは石川様のお屋敷より米を持ち帰りった。幽学先生のためにもみ療治を頼み、八石(長部村)に奇応丸を取り寄せるよう便りを書いた。
・昼過ぎには、両国の桐山方へ薬を調合してもらってきて、煎じて幽学先生に飲んでもらった。
・幽学先生はご病気で休んでいたが、晩には、「お前はすべての事がのろい、ちょっと茶を一つ拵えるのもノンビリとしているから、御馳走になった気にならない。」等とまた叱られた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
・大原幽学の体調が悪くなり、あれこれと世話をする五郎兵衛ですが、「お前はすべての事がのろい」等と小言を言われてしまいました。幽学先生はかなり短気なのでしょう。五郎兵衛はノンビリ屋さんなので、これはもう怒っても仕方ないのですが。
・文中の「奇応丸」は現在の「樋屋奇応丸」のことかもしれません。初代坂上忠兵衛、大坂・天満で「奇応丸」の創製を開始したのが、元和八年(1622年)です。

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嘉永7年4月晦日(30日)(1854年)
#五郎兵衛の日記
晦日、一同集まる。昼前、節五郎殿と良祐殿の二人で日本橋で、ひらめを買ってきた。伊兵衛父と幸左衛門と小生三人で決算をし、昼過ぎに終わる。夕方に夕飯を食べる。
幽学先生からは、「江戸に出府した一同は予を助けようと江戸に来ているのであろうが、つまらないことに気をつかってほしくない。これでは先生が心配するだろう、これなら先生は安心するだろうと一つ一つ考えれば難しくない。それから、夏布団の上に筵を敷くのは奢りの最上である。大勢の子供たち敷いているのを見られれば、子供たちにも筵を敷かせなければならない。そんなことでは身上は持ちきれるものではない。」
一同はその教えを胸にしまって、日暮れまでにはそれぞれの職場に帰っていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
晦日は各職場に散っている道友全員が集まり、食事を共にする日です。また決算の日でもあります。帳面をつけるのが苦手な五郎兵衛ですが、伊兵衛父(名主経験者)や幸左衛門(名主の家の婿養子)の助けを得て、会計帳簿の作成も一応出来たようです。


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明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 宮島、広島、金毘羅−兵庫編 4月24日-5月1日

2024年05月06日 | 伊勢参詣日記
明治18年塩谷常吉の伊勢参詣日記 宮島、広島、金毘羅−兵庫編 4月24日-5月1日

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四月二十四日 #明治18年伊勢参詣
午前六時、宮島の亀屋福松方に着。亀屋方で朝食。宮島を見物。奥の院へ十八丁、宮島の御山ら大石散じて大石より海を見渡せば、甚だ風景佳し。眼下には紅葉茶屋が有る。 また、川があって、あちこちに小滝がある。
。滝に添って休屋が造られており、風景佳し。また豊臣秀吉公が造った千畳敷の塔あり。近くには五重塔。いずれも宏大で風景甚だ佳し。
宿へ帰って昼食。宮島から小舟で広島へ。午後四時頃着。大手町の津森直助方で泊。宿料は二十銭。
(コメント)
午前は宮島。昼食後、宮島から広島へ船で移動し、広島で泊。
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四月二十五日 #明治18年伊勢参詣
天気良し。広島市内を見物。広島城址、鎮台等を見る。二月社を参拝。
宿へ帰って昼食。午後六時、小舟で宇品港に戻り、岡千保丸という蒸気船に乗り、真夜中に四国の多度津港へ向けて出帆。
(コメント)
午前中は広島市内を見物し、午後には広島から宇品港に戻りました。同港からは蒸気船に乗り換え、真夜中に四国に向けて出帆しています。
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四月二十六日 #明治18年伊勢参詣
午後一時ころ、多度津港へ着。多度津までは宇品港から海上を五十里、賃金は一円二十五銭。多度津から一里で善通寺という寺に着く。この寺で弘法大師が御誕生になられた。午後四時に金比羅町に着く。虎屋惣右衛門方で泊。泊料二十銭。
(コメント)
・昨夜遅く広島の宇品港を出帆し、午後一時に多度津港(現香川県仲多度郡多度津町)に到着。
・多度津から善通寺へ。善通寺は弘法大師が誕生した場所といわれております。
・善通寺から金比羅町(琴平町)に移動し、同町で泊まりです。

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四月二十七日 #明治18年伊勢参詣
めでたいことに金毘羅大社を参拝することができた。多度津港へ戻る。桝屋彦平方(七階建)で昼食。 小舟で備前下津井まで移動(海上五里、賃金二十三銭)。笹屋三六方で泊。宿料二十銭。
(コメント)
・昨夜は金毘羅の門前の宿に泊まりましたので、朝イチで金毘羅大社を参拝。多度津港へ戻ります。
・昼食後、小舟で備前下津井へ(現岡山県倉敷市下津井)。本日は金毘羅大社参拝以外は移動ばかりでした。
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四月二十八日 #明治18年伊勢参詣
下津井を出立。天気良し。同所から九十丁で龍ヶ山にある由加神社。同社を参拝。
同社から十三丁で尾原駅。今屋嘉平方で昼食(五銭)。尾原駅から百丁で備中吉備津神社、さらに十五丁で備前の吉備津彦神社。それぞれ参拝。同社から(人力)車で岡山まで乗る(賃金十三拾三銭)。京橋東詰の西中島町。阿波屋治作方で泊。宿料は十七銭。
(コメント)
・下津井(現倉敷市下津井)を出立。下津井港は、江戸時代から明治のはじめにかけて西回りの北前船の中継地として繁栄していとました。
・由加神社(現倉敷市児島由加)を参拝。
同社は、江戸時代から明治にかけて金毘羅大社との両参りがブーム。常吉たちが同社をお参りしたのも、そのためです。
・由加神社から北参道を下って尾原(現倉敷市尾原)。尾原で昼食をとった後、吉備津神社、吉備津彦神社を参拝し、岡山まで人力車で移動しています。
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四月二十九日 #明治18年伊勢参詣
岡山から出立。雨。馬車で一日市まで行く(四里)。香登村の信濃屋栄治郎方で昼食。
そこから大内村まで行く(三四丁)。同村の戸長宅に臥龍の松がある。高さ二丈余、巾は三十五六間である。
大内村から片上に移動(二里)。入海を小舟で行き、赤穂塩浜に午後八時頃着。城市まで十八丁、紙屋町の浜方屋庄助方で泊。宿料十八銭。
(コメント)
・本日もあいにくの雨。この旅はだいぶ雨に降られています。岡山からは馬車。一日市(ひといち;現岡山市東区一日市)までは馬車の便があったのでしょう。
・本日は大内村の臥龍の松を見物した以外は、ほとんど移動です。赤穂塩浜(現赤穂市)で泊まり。
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四月三十日 #明治18年伊勢参詣
赤穂から出立。天気晴天。播州灘を小舟に乗り、飾磨(しかま)湊に午後一時頃上陸(海上六里)。賃金は昼食付で十四銭。一里行き、姫路城下に至る。市中は賑わっている。御城を見物。城内には鎮台兵がいる。
曽根村へ行き(二里)、天満宮を参拝。名松あり。かつて菅公相(菅原道真)が植え、現在のは二代目の松であるという。甚だ佳し。
十五丁行き、石の宝殿。高見倉の神社を参拝する。神社の後ろにはニ三間四方の大浮岩がある。神社の内外は皆岩であり、大岩に添って所々に松がある。甚だ佳い風景である。
高砂まで五十丁。廣田屋惣兵衛方で泊 。宿料二十銭。
(コメント)
・赤穂に泊まった一行は、播州灘を小舟に乗り、飾磨(しかま)湊に到着。飾磨は現姫路市飾磨区。飾磨津は播磨灘に面しており、港湾として栄えていました。かなり埋立てられてしまっていますが、小豆島行きのフェリーが飾磨からは出ています。
・飾磨で船を降りた一行は、姫路城へ。徒歩で一里。
・姫路城。城内には鎮台兵(陸軍の兵士)がいるのは、名古屋城と同様です(四月六日条)。名古屋では城内を見ることすらできなかったのですが、姫路では城内見物をしています。
・曽根村の天満宮は、曽根天満宮。現兵庫県高砂市曽根町。菅原道真ゆかりの「曽根の松」が有名。常吉たちが見たのは2代目ですが、この松も枯死して、現在は5代目の松だそうです。・石の宝殿。高砂市の竜山丘陵にある生石神社(おうしこじんじゃ)の神体として祭られている巨石。日本三奇の一つといわれており、シーボルトの「日本」にもスケッチが収録されています。

兵庫高砂の奇石「石の宝殿」生石神社の参拝方法とお土産紹介

兵庫高砂の奇石「石の宝殿」生石神社の参拝方法とお土産紹介|いにしえから霊力が宿ると信じられ、現代でもパワースポットとして知られるスポットがある。兵庫県高砂市「生...

ORICON NEWS


・本日は高砂(現兵庫県高砂市)で泊まります。
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五月一日 #明治18年伊勢参詣
天気晴天。高砂で相生の松を見物。
十八丁行き、尾上神社で尾上の松がを見物。藤の白花は満開であり、風景甚だ佳し。
濱天満宮を参拝。別府村で手枕の松を見物。
明石まで行く(四里)。王子橋西詰山本屋藤衛門方で昼飯。料金九銭。
(人力)車で柿本の人丸神社(柿本神社)に行き、参拝。市中より高所にあり、見渡せば浜には松が並んでいて、向いには淡路島。海には蒸気船が往復している。風景甚だ佳し。
一ノ谷に行き、平敦盛公の御墓を参拝。 源平戦争場と須磨寺を参拝。
兵庫に行き、和田岬を見物。岬は市中海中に出ること約一里位であり、遊歩している人が多い。兵庫の福屋庄兵衛方で泊。宿料二十銭。
(コメント)
・午前は、相生の松(高砂市)、尾上の松(加古川市尾上町)、手枕の松(加古川市別府町東町)の見物。この辺り、現代とは感覚が違うのかもしれません。
・明石(現明石市)では柿本の人丸神社(柿本神社)を参拝。白砂青松、向いには淡路島、海には蒸気船を見ることができ、風景に感動しています。
・一ノ谷(現神戸市須磨区)。平敦盛公の御墓は、現在は神戸市須磨区の須磨浦公園にあります。
・兵庫に行き、和田岬を見物。和田岬は、明治時代中期以降に、先端部に三菱造船や川崎造船所等の重工業が進出して工業地域として発展していきましたが、常吉たちが見た風景は失われてしまいました。

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橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第三回講義

2024年05月04日 | 治罪法・裁判所構成法
橋本胖三郎『治罪法講義録 』・第三回講義

第三回講義(明治18年4月29日)

第二章 公訴と私訴を行う者

本日から、公訴と私訴をどのような場合に、誰が行うべきかについて説明していきます。まず公訴を行うべき人について説明し(第一款;今回)、次に私訴を行うべき人について説明します(第二款;次回以降)。
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第一款 公訴を行うべき人
治罪法第1条は、「公訴は、犯罪を証明し刑を適用することを目的とするものであり、法律に定められた区別に従って検察官が行う」と規定しています。この条文からは公訴を行うべき者は検察官であることは明確です。条文には、「法律に定められた区別に従って」ともありますので、これがどのような意味かを理解することは重要です。

公訴を提起する権限には3つの区別があります。
①公訴を実行する権限
②公訴を提起する権限
③公訴提起を命令・指揮する権限
①の「公訴を実行する権限」とは、被告人に対して刑罰の適用を求め、その目的を達成するために必要な手続きを行う権限です。例としては、公訴を提起した後、裁判所で無罪または免訴の判決があっても、それに不服の場合は控訴・上告を行って刑罰適用の目的を達成しようとしますが、この権限が「公訴を実行する権限」です。
②の「公訴を提起する権限」とは、すぐに犯罪者に対する刑の適用を求めるのではなく、裁判所に対して私訴を行うことで、刑の適用を目的とする公訴を起こさせることをいいます。検察官が訴追を行う前に、民事の原告人が私訴の申立てを行うことは、公訴の提起です。
③の「公訴提起を命令・指揮する権限」とは、官吏がその下にいる官吏に対して公訴を起こすよう命令・指揮するという意味であり、治罪法の第67条では、公訴の提起を告達すべき人を定めています。
まず、治罪法第1条で示されている「法律で定める区別」の意味について述べます。
この点、裁判所の種類による区別(重罪裁判所、軽罪裁判所、違警罪裁判所)を指すとの見解があります。
しかし、検察官の職務上の区別を指すと考えるのが妥当でしょう。なぜなら、軽罪裁判所の検事は軽罪のみについて公訴を実行する権限を有するわけではありません。重罪・軽罪・違警罪の三者共に公訴を実行する権限を有しています。軽罪裁判所の検事は、軽罪については、予審公判を求めることもできますし、上訴を行う権利もあります。違警罪については控訴権を持っています。また、控訴裁判所の検事は、重罪や軽罪の控訴について、公訴をなす権利があります。このように「区別」を裁判所の種類による区別と考えることはできず、検察官の職務上の区別を指すと考えるのが妥当です。

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次に、職務上の観点からの検察官の区別を説明しましょう。
第一 大審院の検事長およびその指名を受けた検事
第二 控訴裁判所の検事長およびその指名を受けた検事
第三 軽犯罪裁判所の検事長およびその指名を受けた検事補
第四 違警罪裁判所所在地の警部警察署
これらの四つ以外に、裁判所としては高等法院、重罪裁判所がありますが、高等法院の検察官は大審院の検事がこれを兼任しますし、重罪裁判所の検察官は控訴裁判所の検事がこれを兼任しますので、上記のとおりに四つに分類しました。
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第一節 公訴権を実行する人
公訴権を実行する者は検察官です。よって、上は大審院から下は違警罪裁判所に至るまで、必ず検察官という者を置かなければなりません。そもそも、検察官は裁判所構成の一部分であり、これが欠けてしまうと完全な構成とはいえません。そのため、検察官は裁判所には必要不可欠な者です。
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一 違警罪裁判所の検察官
治罪法第51条には、「違警罪裁判所の検察官は、その裁判所所在地の警部がこれを行う」と規定しています。つまり、違警罪を審理する際には、違警罪裁判所の所在地の警部が検察官の職務を行うのです。
この条項は便宜上のものです。警部が違警罪裁判所の検察官の職務を行うことは、この法律上の規定によって与えられた職務であり、府知事や県令の命令によって職務を行っているのではありません。違警罪の公訴に関わる場合は、府知事や県令の指揮命令によるべきではありません。この点は、皆さんに留意しておいていただきたい重要な点です。違警罪裁判所の所在地の警部は、その検察官としての業務を行うために、特に政府の指名に基づいて任命されているのではありません。警部たる者には、誰彼の別なく公訴権が委託されているのです。よって、違警罪裁判所の所在地にに二人以上の警部がいても、双方とも公訴を行う権利を有しています。
フランスでは、違警罪裁判所の検察官となる者は、我が国の法律と同様に、警部または副邑長であり他から指名される必要ありません(治罪法第144条、第167条参照)。但し、警部が数名いるときは、検事長が指名する等の規定となっています。しかし、このような制度として、実際にはそれほど便利ではないため、我が国においては例外的な規定は採用しませんでした。
違警罪裁判所の所在地の警部は、その管轄内の違警罪については、公訴の全権を有します。
よって、違警罪の裁判に不服であるときは、控訴をすることができます。また、証拠が不十分であると考えるときは、公訴を提起しないとすることもできます。そのような取捨選択はひとえに警部の意見によるのですが、法律上例外が定められています。控訴裁判所の検事長から告達を受ける場合です。この場合は、告達に従って、公訴を提起しなければなりません。
この例外を除いはて、警部は違警罪に対して完全に独立した立場を持ち、その職務を遂行することができます。
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二 軽罪裁判所の検察官
軽罪裁判所の検察官の職務は、始審裁判所の検事及びその指名した検事補が行います。これは治罪法第58条に規定されています。
その職務は以下のとおりです。
1. 違警罪についての控訴を担当すること。
2. 重罪の予審を求めること。
3. 軽罪についての公訴を担当すること。
軽罪裁判所の検察官は、この三種の職務を担当することにより、検察官の中でも最も重要な職権を有するものといわなければなりません。
よって、軽罪裁判所の検察官に有為な人材を得られるかどうかは非常に重要です。
人材を得ることができなければ、予審や公判を行わなければいけないのに、それを行わないこととなります。予審を求めてはいけない事件なのに、強引に予審を求めてしまうのは、人々の利益を害します。
現在の状況は検事に人を得ることができるかどうかは、あまり考慮されていませんが、法律上の観点からは、人を得ることができるかとうかは、地域の人々の利害に大いに関係を有します。
検事補について説明します。
検事補は、検事の指揮がなければ、前記三種の職務を行うことができません。
しかし、現状では検事補の名義で控訴や上告を行っており、これは規定に違反するといえます。本来検事補は、検事の指揮を受けるべきであり、検事の意見に反する控訴・上告は行うことができないからです。
検事補と警部との職権には違いがあることも理解してください。
検事補は、検事の意見に反して控訴や上告をすることはできません。これに対して、警部は、一部例外を除いて、違警罪に関する控訴に対して独立した権限を持っています。
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三 控訴裁判所の検察官
控訴裁判所の検事長及びその指名した検事は次の職務を行うことができます。
1. 軽罪に対する控訴を担当すること。
2. 重罪に対する公訴を担当すること。
控訴裁判所の検事長は、この2つの権限のほかに、管轄内の検察官に対して告達を行い、起訴を命じるという重要な権限を有しています。
この権限は非常に重要です。なぜならば、司法卿は司法部の長官として重要な地位を占めていますが、特別な場合を除いて、公訴の点に関しては直接介入することはできないからです。控訴裁判所の検事長は、検事に公訴提起を命令・指揮する権限を持ち、この一点については司法卿を超える権限を持っているといっても良いでしょう。
控訴裁判所検事長の職務は、このように重要なのですが、一般の国民にはほとんど知られていないようで、少しも注目されていません。しかし、フランスでは、控訴裁判所の検事長の処置に注目し、その職務を尊敬しています。検事は
、政府の代理として活動しているからであります。フランスでは、新聞に国事に関連した犯罪が報道されると、その処分は控訴裁判所の検事長の指示によって行われ、非常に注目されます。
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四 大審院の検事長およびその指名を受けた検事
我国の治罪法では、大審院の検事長および指名を受けた検事は、公訴を行う権限を有しています。これはフランスの法律と異なっています。フランスでは、大審院の検事は裁判の当不当について意見を述べることができるにとどまり、刑の適用につき請求することはできません。しかし、我が国では、裁判の当不当について意見を述べるほかに、刑の適用を求める(公訴を実行する権限)こともできます。
大審院は非常に高い地位にあります。が、大審院の検事長の職務は、控訴裁判所の検事長よりも制限されています。控訴裁判所の検事長が重罪、軽罪、違警罪の公訴に関しては、管轄内の検察官に対して告達をする権限がありますが、大審院検事長はその権限がないからです。
以上のように、我が国では、公訴を行う権利を有する者は検察官です。もっとも、公訴の実行において、各検察官の間に差があることは理解してください。
我が国の法とフランス法との違いについても説明しておきましょう。我が国では、公訴を行う権利を有する者は検察官ですが、フランスでは、森林の犯罪に対する公訴に関しては、森林監視人に公訴権を与えられ、税関に関連する犯罪については税関官吏に公訴権が与えられています。我が国ではどのような場合でも検察官の名目を有する者が公訴を実行しますので、この点が異なります。
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第二節 公訴を提起する人
公訴を提起する者は誰かといえば、民事の原告人ですが、民事の原告人が直ちに公訴を「なす権限」を有する者ではなく、公訴を「提起する資格」を有するに過ぎません。
今、「提起」と申し上げましたが、これはフランス語の「ミーズ・アン・ムーブマン」のことでして、これを直訳しますと「運動に於て置く」という意味ですので、「提起」という言葉で訳しております。
さて、民事の原告人が公訴を提起するには、単に告訴を行うことでは足りません。告訴というのは、犯罪を報告するという意味しかないからです。公訴を提起しようとするのであれば、予審判事の面前において民事の原告人であること、即ち私訴を行う旨の申立てをしなければなりません。これは治罪法第110条第2項に、「予審判事が、被害者から民事の原告人となる旨の申立てを受けた場合、検察官が起訴を行っていない場合でも、公訴と私訴を併せて受理したものとする。」と規定しています。
このように、被害者が民事の原告人となるべき旨を申し立てた場合、検察官の起訴を要せずに公訴が起こるのです。
公訴が起きたときは、予審判事は、被告人を引致し、証人を召喚し、家宅捜査等の処分を行い、事実を取り調べて有罪と認めるときは、これを公判に移す言渡しをしなければなりません。
民事の原告人がこの行為を行う場合、単に公訴を提起するだけであり、直接に公訴を行っているのではありません。ただ、予審判事に向かって公訴を起こすように提起を行っているだけです。
公訴は国家に属するものであり、被害者に属するものではありません。政府は公訴権を検察官に委託しておりますが、公訴提起権を私人にも与えたのは、被害者が泣き寝入りしないようにし、検察官の横暴や怠慢を防ぐためです。仮に、被害者にこの提起権を与えないと、検察官が起訴しない場合は、被害者は起訴をする道がなくなってしまい、泣き寝入りをするほかなくなってしまいます。また、検察官が公訴を起こすべきであるのに、検察官の横暴や怠慢により公訴かを起こさない場合がありえます。この場合、被害者に公訴提起権を与えて、被害者が直接予審判事に対して私訴を申し立てることにより、検察官の横暴や怠慢を防止することかわできるのです。以上が被害者に公訴提起権を与えた理由です。
民事の原告人は直接裁判官に私訴を申し立てることができるだけでおり、その権限は非常に限られています。しかし、予審判事の判断に不服があるときは、不服を申し立てることで、公訴提起権を実行することができます。
ところで、重罪と軽罪については公訴提起権が私人に与えられてるのに、違警罪には与えられていないのは、違警罪が微罪であるからだろうかとの疑問を持たれる方もいるかもしれません。
しかし、これは治罪法が違警罪に予審を認めなかったことにその理由があります。
では、民事の原告人に公訴提起権を認めるとして、どうしてこれを予審に限ったのでしょうか。民事の原告人に公訴提起権を認めて、公判を求めことができてしまうと、何もしていない
人々を裁判所に呼び出すこととなってしまいまって、妥当ではありません。人を誣告し、人を陥れて、私怨が晴らすことに使われる可能性があるからです。それでは、人々の名誉を傷つけるという悪弊が後を絶たないことになってしまいます。
予審においては、事実を詳しく調査することもできますし、私訴が誣告に出たものであるかも発見することが可能です。訴えられた者が無実であることが明らかな場合、直ちに免訴を宣告すればよいのです。
また、予審は秘密主義ですので、被告人が一時的に法廷に呼び出されることがあっても、公衆の目に触れることはなく、被告人の名誉を傷つけることは、ほとんどありません。
公判が行われてしまうと、法廷は公開であり、傍聴を許すものですから、被告人が無罪または免訴となる判決を受けた場合でも、法廷で被告人となって訊問を受けたことで、その栄誉を害されることになりましょう。
このように、濫訴の弊害を防ぐため、民事の原告人に公訴を求める権利を与え被告人の栄誉を損なわない為に、民事の原告人に公訴を求める権利を付与しているのです。
ところで、このように思われる方もいるかもしれません。
「人を誣告する者は刑法により制裁をされます。誰が好んで誣告するのでしょうか。誰かを誣告することにの弊害防止という理由で、私人に公訴を許さないのは、全く理解できません。
しかし、この説は実際的ではありません。この説からすれば、法律上既に制裁を科すことになっているのだから、盗賊等するものはいないということになりますが、そうでないことは明白です。
以上のとおり、民事の原告人に公訴をなすことを許さなかったのは、公判を行えば刑を適用することに直結し、被告人には様々な不利益が生じかねないということ、予審がなければ被告人は自己の権利を十分に主張できず、冤罪者が出じかねないからです。
フランスでは軽罪に関しては、民事の原告人が被告人を法廷に呼び出すことが許されており、フランス語では「シタション・ヂレクト」と呼ばれています。フランスのような国では、このような措置を許すことは大きな弊害をもたらすことはないでしょう。人々が知的に進歩しており、誣告されても弊害が大きいとはいえないからです。また、民事の原告人が公訴をなす場合には、証拠を集めて訴えることとなりますので、法官の証拠収集の業務負担を軽減するという利点があります。しかし、我が国はいまだそのようなフランスのレベルに達していないので、治罪法において、予審のみに限定して公訴
提起権を与えているのです。
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第三節 公訴の提起を指揮命令する人
公訴の提起を命令・指揮するのは、司法卿及び控訴裁判所の検事長です(治罪法第435条、第440条、第448条)。実際には控訴裁判所の検事長が行うことが一般的です。
以上説明した、公訴の実行、公訴の提起、および公訴の指揮・命令の三点により、公訴権が完全に実現されます。この三点が機能することで、無辜の不処罰を実現できますし、有罪者の取りこぼしもなくなるのです。

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飯盛女を一掃せよ 文政12年4月下旬・色川三中「家事志」

2024年05月02日 | 色川三中
飯盛女を一掃せよ 文政12年4月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年4月21日(1829年)雨少々降る
・下総の小南村出身「しめ」(女)を従業員に採用した。川口蔵の親父伝蔵の紹介であり、繁忙期でもあるので、今日から極月(12月)20日までの8か月間、計2両1分5匁で雇う。今日1両渡した。
・夜に、町組小頭の宮古条助殿らと一緒に、飯盛女の噂のある大町の宿4軒(清助、利兵衛、山屋、源治)を調査。座敷の中を見回るも、飯盛女は見つからず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・下総の小南村は、現千葉県東庄町小南のこと。土浦までは60キロ以上ありますが、土浦と下総とは舟運でつながっており、陸路ほどの距離を感じないのでしょう。
・土浦藩では飯盛女の一掃をはかっているようです。「飯盛女」とは宿場にいた遊女のこと。大町(現土浦市大町)で飯盛女を置いているという噂の宿が4軒あり、中を見回りましたが、証拠を得ることはできませんでした。

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文政12年4月22日(1829年)
本日、三中先生休筆です(本日のみ)。
#色川三中 #家事志
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文政12年4月23日(1829年)晴、夜雷雨
深夜、入江全兵衛殿(名主)、栗山八兵衛殿、奥井吉右衛門殿(以上、町年寄)とともに、再び大町の飯盛女の噂のある宿4軒(清助、利兵衛、山屋、源治)を訪れ、座敷や二階等の状況を見た。が、証拠がつかめない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中ら町役人は飯盛女を土浦から一掃しようとしており、本日も深夜にもかかわらず、総出で噂のある宿の中を見ています。しかし、宿の方もそう簡単には尻尾をだしません。

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文政12年4月24日(1829年)晴
御奉行所から、芸者風情は宿に置くなとの仰せを徹底するため、一札取るようにとの指示があった。中城・田宿・大町・田中の湯屋、旅籠屋、煮売酒屋等から、湯女・留女等は決して置きませんとの押印付き請書を取った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・土浦藩の奉行所からは、風紀につき綱紀粛正をはかっています。禁令を通知するだけでなく、新たに誓約の書面を提出させることとしています。
・このときに町役人が作成した書面の写しが日記に記されていました⇒本ブログ末尾付1
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文政12年4月25日(1829年) 雨降りやまず
早朝、十一屋与四郎が御奉行所に呼び出された。町役人の差添は栗山八兵衛殿が行い、御奉行所に赴かれた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
十一屋与四郎は、先日返答書の提出を命じられていましたから(4月16日条)、民事訴訟の被告となっているようです。本日の奉行所への差添は町年寄の栗山殿が行っています。

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文政12年4月26日(1829年)曇
深夜、名主と町役人で内談をし、大町の飯盛女を置いているという噂の宿に踏み込んだ。女性がいる現場を押さえ、検挙に成功。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人たちの飯盛女一掃の意思は堅く、深夜であるのに、かなり踏み込んだ捜査を行い、検挙に成功しました。土浦藩の役人は立ち会っていません。捜査の詳細は⇒本ブログ末尾付2。

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文政12年4月27日(1829年)晴
町役人全員で名主の入江宅に集まり、隠売女の件について評議。土浦藩に届けることと決まり、栗山八兵衛殿が町組小頭の野口殿・宮古殿に話された。
その後、宮古殿が入江宅に出役し、伊助、弥助、大屋定四郎を呼び出して尋問。→
深夜に口書案が出来たので、御奉行に提出。伊助と弥助は組合(五人組)に預け、堅く戸を閉めて謹慎するようにとの仰せであった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日検挙した大町の飯盛女の検挙の後始末。町役人から土浦藩の役人に届出⇒藩役人による尋問⇒町役人が口書(供述書)案作成、藩役人に提出といった手続きが行われています。
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文政12年4月28日(1829年)曇
昨日御奉行に提出した 口書案が加筆されて戻ってきた。
昼過ぎ、名主宅で弥助・伊助及びその組合(五人組)を呼出し、口書(供述書)を確定させた。読み上げを担当した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日に引き続き飯盛女を隠していた宿の主人への刑事手続き。口書を確定させています。
町役人が書いた口書案を御奉行の方で加筆し、その内容を三中が読み上げ、当事者に確認する作業です。この手続きには御奉行は出席しておらず、名主宅で手続きが行われています。

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文政12年4月29日(1829年)曇
夜、町組小頭の御用で外出。伊助・弥助のところにいた芸者の引取り人が来たので、引き取らせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
飯盛女の件は、宿の主人には判決が言い渡されましたが、芸者には罰はなかったようです。但し、宿に置くことはできませんので、しかるべき者に引き取らせています。

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文政12年4月30日(1829年)曇
田中の平七の姉もと、その親類の勘兵衛及びもとの組合を呼び出した。平七が出奔しているのに、これまで届けを出していないことをお叱りになられた。平七には人別改からの帳外を仰せ付けられた(私が差添を務めた)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
田中(現土浦市田中)に住んでいた平七が出奔してしまったのに、その家族はこれを藩に届けていませんでした。これは手続き違反となり、家族はお叱りを受け、平七は人別改から帳外となる旨の処分を受けています。
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付1:4月24日条関連の書面
指上申一札之事
隠売女につきましては、前々から禁止となっておりました。この度更に厳しい取締りをなさるとのこと、町方・小前一同に隠売のような怪しき商売は行わないようことなど申し渡し渡しております。
・旅籠屋、煮売酒屋等で若い女性に酒の相手等をさせてはならないこと。
・湯屋では湯女を置いてはならないこと。
・売女はもちろんのこと、芸者なども一夜たりとも宿を共にしないこと。
・もし往来の者が宿泊に困っているのであれば、町役人から役宿を申し付け、そのことを届け出るべきこと。
・これらのことに背く者がいれば、当人は勿論のこと、組合・地主・家主・名主・年寄に至るまで厳重なる処罰を申し付けること
以上のことを名主が銘々に漏れなく読み聞かせて、一札を取るべきことを申上げましたところ、一同承知致しました。
よって、私どもお請け連印を致します。
文政12年4月
年寄 桂助
同 吉右衛門
同 金之丞
同 八兵衛
入江全兵衛

町御奉行所様

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付2
夜10時過ぎ、予定どおり入江(名主)・奥井(年寄)・栗山(年寄)一同と大町(現土浦市大町)の飯盛女のいるという噂の宿に向かう。
まず、山屋弥兵衛方に行く。八兵衛(栗山)と共に隣りの伊助の裏口から山屋の奥に回りこんだ。入江と奥井の両人は表口からいつものとおり案内されて入り、屋敷の中を見回ったが、問題は見当たらず。
裏口でも何も見当たらなかったので、帰ろうとしたところ、隣りの伊助方であやしい物音が聞こえた。伊助の家の裏戸を開けて、女一人がこちらをうかがっている。闇でこちらは姿は見えないが、女の方は家の灯で姿が見えるのだ。どうも怪しい。小道伝いに表の方に向かおうとした。女性はなおもこちらの様子を窺っている。多くの犬が集まっているの追い散らしながら女の方に近いていく。
すると、女は戸口をさっと引いて中に入ってしまった。我々は戸に近寄って、中の様子や物音を聞いたが、ますます怪しい。表にいる入江と奥井と示し合わせ、裏口に奥井と栗山を残し、私と入江は表に回って、戸口を叩いて中に入った。
すると閨の中に男が一人、女が二人いて逃げようとしている。押しとどめて、なぜ逃げようとするのか尋ねたが、答えることができないほど狼狽している。ここで裏の戸口から奥井と栗山が入ってきた。彼らの供述を書き取っていく。山屋の主人は外出中であるとのこと。山屋の組合を呼び出す。
山屋の方は入江と奥井にまかせて、栗山と共に源治方に向かう。山屋の方でだいぶ騒ぎになってしまったから、勘づいて源治方には誰もいないかもしれぬなと思ったので、表戸口から二人して入った。どうも物音がやかましい。さては、山屋での騒動を今知って飯盛女どもを隠すのだなと思いつつ、さらに中に入る。
泊まり客がいて、水戸道五本榎久兵衛と名乗った。話しを聞いたところ、「いろいろなところを回って水戸に帰るところなのです。隣の山屋さんへの債権があって催促していて、ここに逗留しているのです」等と言っていたが、よくよく話しを聞くうちに、「すみません、恐れ入りました」と飯盛女とのことを話しだした。
そのうち、組合の者がやって来た。事情を話したところ、「承知致しました。申し訳のないことです。しかし、何卒今夜のことをこの場だけで済ませて、御役所には届けでないようにしていただけませんでしょうか。」との話しがあったが、それは町役人で相談して決めることとした。飯盛女を置いていた宿の主人二人は組合に預け、八ツ時に解散した。


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仮刑律的例 28&29-1〈兵庫県〉 関係者の役職への処分等

2024年04月29日 | 仮刑律的例

仮刑律的例 28&29-1〈兵庫県〉 関係者の役職への処分等

※本件は仮刑律的例 27の事案において、被害者の一人である三浦行蔵(重傷)及び同行していた杉浦英之進(被害無し)の役職への処分に関する伺いです。詳細な事案は仮刑律的例 27(過去記事)をご参照下さい。
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【兵庫県からの伺】明治二年正月
三浦行蔵からの申出
「昨日6日、私(三浦行蔵)と柘植重次郎は、杉浦英之進と共に喜多村慶二判事宅に赴き、酒肴を求めました。酒が進み、泥酔状態となり、その後のことは全く覚えておりません。手疵を受けたことにつきましては、恐縮するほかございません。処分につきお伺い致します。」
【返答】
正月晦日に付紙で返答。
「この者は、同僚である柘植重次郎及び杉浦英之進と一緒に喜多村慶二方に赴き、酔って同人に対して乱暴な行為に及び、慶二の従者に怪我を負わされた。この始末は不埒であり、役職を免ずる。」

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杉浦英之進からの申出
「昨日6日の午後7時すぎに、同役(船改役)
の柘植重次郎と三浦行蔵と一緒に、喜多村慶二殿宅に赴き、すぐに帰る予定であったのですが、行蔵が慶二殿に酒肴を求め、もともと酒気を帯びていたので、さらに大酔してしまい、重次郎と行蔵が不作法なことを起こしてしまいました。心配となり、両人を制していたのですが、隣の部屋から名前を承知していない人が
重次郎と行蔵に手疵を逐わせてしまいました。私の不行届きにつきましてはお詫び申し上げます。その後、旅館で謹慎をして過ごしています。処分につきお伺い致します。」

【返答】
正月晦日に付紙で返答。
この者は、同役(船改役)の者と喜多村慶二方に行き、同役両名が慶二に対して乱暴な振る舞いをしたのであるから、取り鎮めなければならないところ、取り鎮め方に不行届きがあったものである。よって、謹慎30日とする。

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(コメント)
本件は仮刑律的例 27の事案の関係者の役職への処分に関するものです。
仮刑律的例 27の事案というのは次のようなものでした。
* 明治2年1月6日、喜多村判事の下男友次郎が、運上所船改役の柘植重次郎と三浦行蔵に手疵を負わせた。重次郎と行蔵が酔狂に乗じて判事に対し不作法な行為を行ったため、友次郎は怒りにかられ脇差で両名に切り付けた。重次郎は余病を発して7日に死亡、行蔵は重傷を負ったが快復。
今回の伺いは、被害者の一人である三浦行蔵(重傷)及び同行していた杉浦英之進(被害無し)の役職への処分に関するものです。
三浦行蔵⇒免職
杉浦英之進⇒謹慎30日

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