ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

生殺しの日々

2013-02-02 21:38:31 | いわゆる日記

 当分はネットと縁を切って療養生活、と思っていたのだが、なんか黙ったままだと死んだと思われる可能性も出てきたので、簡単に現状報告でも書いてみよう。
 前から言っているように、ちとややこしい病気にとりつかれてしまった。その治療をするための最終検査に必要な微妙なチェックが必要とかで、これは特別な大学病院にしかない特殊な検査機器でしか出来ないんだそうだ。で、よその大学病院まで検査にゆかねばならないのだが、さすがそんな機械ゆえ予約が混んでいて、私が検査を受けられるのはこの13日とか。
 おい。この期に及んでそんな待つのか。検査待ってるうちに手遅れにとかならないのか。などと思いは千々に乱れるのだが、ほかにどうするとも手立てがあるわけではなし、日にちが過ぎるのを待つしかない。
 なんかなあ、ほかに方法はないのか、ほんとにさ。こんな時に相談に乗ってくれる医療相談の組織とかないものだろうか。
 とか言っていたら、インフルエンザにまでかかってしまい、まあ、弱り目に祟り目とはこのことだね。踏んだり蹴ったりというのか。
 などとまあ、ロクでもない日々を過ごしているのだった。

 PS.コメント、いただいております。ただ、先に述べましたように、今の心身の状態から、お答えするほどのパワーがありません。無愛想をご容赦。

明けぬ夜、あの頃のジャズを想う

2013-01-26 03:34:42 | ジャズ喫茶マリーナ

 ”Cool Struttin' ”by Sonny Clark

 相変わらず体調悪いわけですが。悔しいなあ。なんとか負けずに音楽日記も更新したいところなんだけど、そもそもCDを取り出してプレイヤーに入れる、なんてことが気が重くてできないんだから、どうにもならない。さらに、そのCDの音楽と今の体調の悪さに苦しむ気分の記憶とが分かち難く結びついてしまい、今後、それを聞くたびに記憶が蘇る、なんてことになったら嫌だから、そういう意味でもあまり積極的に聴く気になれずにいたりする。

 まあともかく、音楽聞けなくっちゃあしょうがないです。結局、音楽ってのは健康な人のものなんだね。それが陽気なものであれ、陰気なものであれ。
 それでも、深夜、一人で耳を傾けるラジオなんかから流れてくる音楽には時に心惹かれたりする。こちらが選んだのではない、あくまでも偶然流れてきたものゆえ、重さを感じずに済む、ということなのかもしれない。
 そう言う意味でともかく一番ありがたいプログラムは、NHKラジオ深夜便で時たまやる”エンジョイ・ジャズ”のコーナーだ。毎回、テナー・サックス名演集とかコール・ポーター作品集とか、なかなかかゆいところに手が届く(?)テーマを流してくれる。

 こちらもさすがにマイナーなミュージシャンに入れこんで偏屈なマニア道を歩き倒していた青春時代はもはや遠く、それら”普通の”テーマを素直に受け入れる気分になっている。というか、ジャズ再入門講座みたいなもので、若い頃粋がって聴かなかった演奏などがスイスイ心の中に入ってきて、逆に新鮮な気分なのだった。
 いつぞや流れたハードバップ特集などまさにそれであって、時代のど真ん中、そのまた先端を突っ走っていた頃のジャズが躍動する姿がくっきりと浮き彫りになっているわけだ。このハードバップという音楽は。その、颯爽と肩で風を切る様子があまりにかっこよくて、何やら嬉しくなってしまった。

 ジャズを聴き始めの頃は、この種のものを「そんなまともなジャズなんか聞いていられるかよなあ」とかうそぶきつつ、コルトレーンやアイラーの地獄の咆哮に入れ込んでいたはずなんだが。
 まあ、それも時代、これも時代、ということなのかね、要するに。



サスペンスの岸辺にて

2013-01-23 23:50:23 | 書評、映画等の批評

 体の不調に耐えつつ、テレビで「エイリアン2」など見ているわけだが、(この選択がそもそも間違っているのは、自分でもなんとなくわかっている)すでに何度も見ていてストーリーも頭に入っている身としては、登場人物の行動にいちいち「そこでそんなことをすればそうなると、わかりきっているだろうが。何をマヌケをやっているのだ」と、苛立たしくなってならない。

 そもそも、そんな危険なところになんで生身の兵士たちを投入するのだ。索敵用ロボットでよかろうが。そのくらいのものは平気で作られているくらいの、未来社会の出来事じゃないのか。
 そうやって見物人をイライラさせる、そうしなければサスペンスというものが生まれないのだ、という作劇上の都合は理解しているのだが、それにしても仕掛けがセコ過ぎる気がする。

 一度、登場人物たちの行動に一つのドジもなし、偶然の不運も起こらず、使用する機械はきちんと作動し(つまり、車のエンジンは非常時でもちゃんとかかるし、銃は肝心な時に弾切れになったりしない)、密かに余計なことを企む(会社の儲けのためにエイリアンの保護を企む、とか)混乱形成用の登場人物も出てこず、そして登場人物たちは「おお、ジョニー!助かったのね」とか言って抱き合う前に、ちゃんと周囲の安全を確認する、なんて設定でやってみろというのだ。

 なおかつ、主人公は女でもなし子供でもなし、屈強な体と冷徹な判断力を持つクールなタフガイ、みたいな設定で、ちゃんとハラハラさせられる手に汗握るサスペンスを作ってみろと、映画人諸君に言いたいのである。どうだ、ええ?

余談

2013-01-20 03:33:37 | いわゆる日記

 このところ、愚痴や悪口ばかり書いているなあ。と、反省してみる。
 まあ、体調悪いんで、ということで、甘えた話だがお許しください。先日の検査の結果もかんばしいものではありませんでした。まあ、再検査の結果待ちというところなんだけど、そもそも再検査がある、という時点ですでにヤバいわけであってさ。

 自分の不調な体と否応なしに向かい合わざるを得ない厳しき日々。こんな時はあんまり音楽を楽しむ気分にもなれないね。何を聴いても、というか何かを積極的に聴こうという気になれない。日常の雑音の中にいるだけでいいような。
 むしろ本なんかの方が癒しになる。それも小説とかじゃなくて、好きな書き手のエッセイとか。好きなエッセイストといえば私にとってオールタイムでNo.1である伊丹十三など、久しぶりに読み返してみるか。大学生の頃は、吉行淳之介のエッセイなど好んで読んでいたが、あれは今読んでも面白いかどうか、分からない。

 今は宮沢章夫とか穂村弘とか、あのへんか。いや、病院の待合室で読んで、最も不安な心を癒してくれた色川武大を忘れてはいけない。昔の芸人の話とか博奕打ち時代の思い出話とか書いているだけなんだけど、それが救いになるんだ。そうそう、一時、鷺沢萠のエッセイを好んで読んでいた時期があった。あれはなんだったのだろう。

 あと、音楽本関係か。昔、書店で立ち読み中、ガトー・バルビエリに関する文章で人前もはばからず大笑いさせてくれた、それ以来一目置いている中山康樹の本などまた読み返す。また、古紙として始末するつもりで部屋の隅に積んであったMM誌の古い号なんかが妙に面白かったり。好きでもないバンドの顛末記を読むことが、なんでこんなに楽しめるのか。つい、バックナンバーを注文してしまったりするのだが、なんかどこか本末転倒って気がしないでもない。

 などと言いつつ人生は過ぎ行く。助けておくれ。言いたいことは、つまりはこの一言か。

アルジェリア

2013-01-18 03:03:49 | 時事

 ツイッターに、「アルジェリアで日本人の通訳さんは無事だったのかなあ。知ってるひとが行ってるかもな」なる発言あり。
 知り合いさえ無事なら良し、か?それともだた「アルジェリアにも知り合いがいるからよう」と自慢したかったのか。いずれにせよ、くだらん人格と思う。


ボーイング、ボーイング

2013-01-16 04:34:19 | 時事

 これはもう、雪のニュースやらなんやらですっかり忘れられてる感じなんだろうけど、日航が新規導入したボーイング社の飛行機が事故続発、なんてあったでしょ?あれの報道のされ方が、なんか微妙にへんてこな気がして気になってるんだが。

 たとえばエレベーターの事故があった時の報道は、「シンドラー社のエレベーターがまた」とか、「シンドラー社の社長がこのようにコメントした」なんて形をとるでしょう?つまり、どこの会社の製品が事故を起こした、と。
 ところが、今回の事故連発に関する報道は、たとえば14日の朝日新聞の記事の見出しは「日航のB787機、また燃料漏れ」などというもので、まあ大体ほかのマスコミの扱いもそんな感じだ。つまり、「日航の」飛行機が事故を起こしたのであり、「ボーイング社製の」という言い方は注意深く避けられているのだ。

 例のエレベーター事故なら「シンドラー社は直ちに調査に入った」なんて報道がなされるところが、今回の事故連発に関する報道では、「日航が関連を調べている」となっている。
 製造元のボーイング社が今回の事故連発について、どのような見解を持ち、どのように対処しているのか、私は寡聞にして、それを報じる内容の記事に出会っていない。なにやらこれではまるで日航が自社で作った飛行機が事故を起こしているかのようではないか。

 おりしも、さっき全日空のこの件に関する緊急会見があり、謝罪とかしていたのだが、航空会社はむしろ不良品をつかまされた、という意味では被害者と云えなくもないのではないか。で、ボーイング社は、やっぱり知らん顔のようで。
 おかしくないか、この件に関する日本社会の反応。

 どんな事情があるやら知りませんが、いやあ、胡散臭いなあと思わずにいられないのだ。

2013-01-14 03:43:47 | いわゆる日記

 これは既に記事に書いたかもしれないし、そうでなくともなんとなく気がついていた方もおられようが、昨年末より体調不良です。あちこち不調でかなり厳しい。しかも、医師に症状を話してみたものの、その反応が「ん?そんなことあるのかな?」というものだったので、何やら心もとないものがある。連休明けより検査検査の日々が始まるが、どうなりましょうか。

 思えば私の年齢は、父の亡くなった年齢にもうすぐ手が届くところに来ている。それ以後も平均余命は伸びているのだし、糖尿病の合併症を起こしつつ飲んだくれ飽食していた父の享年など楽勝で超えることになるんだろうなと想像していたのだが、生きてあるだけでも大変な作業だよなあと遠い目などしてみる日々である。
 そんな日々、ふとロシア民謡の「鶴」を聴いてみたくなった。
 なんのことはない、漫画家の吾妻ひでおが自身のアルコール中毒との戦いを描いた作品の中で、なぜかは分からぬままこの歌に強くこだわり、渇望というくらいの勢いで聴くことを欲していたから。

 もとより普通の精神状態ではないその時点の彼の、揺れ動く心象が求めた救いの象徴が、かのロシア民謡だったなら、まだ正体定かならぬ病に苦しめられ、先の不安に苛まれる自分の救いにも、もしかしたらなるのかもと、まあ、そんな思いつきで聴いてみたくなった次第。
 盤を手に入れ聞いてみれば、まあいわゆるロシア民謡のメロディであり、しみじみと伝わってくるものがあるが、吾妻のこだわりのよって来るところはよくわからない。この歌は、日本ではダークダックスで知られているとのことだが、私よりちっと前の世代の吾妻はそのヴァージョンを聞いて、この歌に親しんでいたのだろうか。そんな風にして歌に馴染んだ世代でなくては分からぬなにごとかが、歌の背景に横たわっているのかもしれない。

 ロシア民謡と書いたがこの曲は、多くの”ロシア民謡”として知られている歌の数々と同じく、実際は民謡でなく、きちんと専門の作詞作曲者によって書き下ろされた”歌曲”である。
 この”鶴”は、旧ソ連邦内の自治共和国ダゲスタンの詩人が、広島の原水禁大会に参加した感激で書き上げたものだそうな。そのようなことに素直に感動できた時代。まだ”運動”も若く、彼らがまとっていた素朴な白のワイシャツと同じくらい、その想いもまた穢れ無きかと信じられた。そんな時代の出来事。

 戦場で散った戦友は死んでしまったのではなく、鶴に姿を変えて大空を飛んでいるのだ、と。歌は歌っている。ダゲスタンという国に関するなんの知識もない。カフカス山脈とカスピ海に挟まれた小国。イメージしようとするのだが、脳裏に浮かぶのは日本鶴の舞う富士山麓の風景だったりする。



早春

2013-01-12 02:45:59 | いわゆる日記

 さっき、「ココリコ坂」なんてアニメを見ていて、ふと、まあこれは映画のテーマとは関係のない事なんだが、不愉快なことばかりしかなかった我が高校時代の記憶をチクッチクと刺激され、されるうちにも、嫌なことでも嫌なことなりに決着をつけておくべきか、なんて思いが生まれ、この文章を書き始めてみたわけなんだが。

 私の通っていた高校は、もう何度か書いたが学生運動とフォークソングの大好きな連中が集まっているところだった。もっと内実を言えば、”普通の高校”から”進学校”にランクアップする意図を持って、あちこちから”そこそこ成績は良いが進学校に行くにはちょっと足りなかった”生徒連中と上昇志向ある教師たちをかき集め、その結果として中途半端なエリート意識からくる臭気を生徒も教師たちも濃厚に放っていた。

 不愉快な記憶を刺激したとは、あのアニメ映画に出てくる男子学生諸君の”大人の男”ぶった考え方や喋り方などから、なんだが。
 それから、ストーリーに登場してくる”全学集会のある風景”など。あの映画の背景はよく知らず、制作に当たったジブリの首脳陣にとっての青春期へのオマージュ、とかそんなものなんだろうと思うが、懐かしく思い出す人もいるんだろうね、学生運動のこととか。

 ある日、ブラスバンド部の練習をなんとなく見ていた時なんだが、指導に当たる上級生がこういったのだ。
 「この旋律は主旋律をサポートする役割がある。女子なんか、人生においても男を裏からサポートする立場にあるんだから、そういう意味も込めて演奏するべきなんだよ」
 何を言ってるんだ、と全くの見物人である筈の私がムカッと来たものだった。決め付けるのか、女は男の付属品として生きるべきだと。・・・なんてこと、普段は考えるような人間じゃなかったんだけどね、私は全然。

 これが頭の固いオヤジが言ったのならともかく、”ブラスバンド部の男子高校生”の発言なのである。17や18のガキが本気で15,16の女子生徒相手にオヤジ臭い訓示をたれているのである。
 そしてそんな事実に誰も疑問を抱いた気配もなく練習は進んでいった。
 そんな発言が何の疑問も挟まずに放たれる、そういう校風だったのだ。

 考えてみればその学校のクラブ活動といえば、野球部にバレー部にバスケット部に。でも、後にサッカー王国と言われる静岡県の高校でありながらサッカー部はなかった。そもそもが戦前から存在しているみたいな部でなければ存在を認められない、そのような空気が当たり前のものとして世界を覆っていた。
 そういえば。大学に入った後、ジャズ研究会の仲間と昔話に興じていたら、ほかの土地の出身者は高校時代にもう、”軽音楽部”とかその種のところで部活動としてジャズを演奏していたと知り、唖然としたものだった。
 そんなものが”部活動”として存在することが許されたのかよ。私の高校では、考えられない話だったが。

 学校では校舎新築をめぐり、校長と生徒会が対立していたようだが、両者の論争を聞いていても、”出来上がったオヤジ”と”これからオヤジになろうとしている若きオヤジ達”の、つまりは同じ人種の”内戦”でしかない、としか私には思えなかった。闘争の過程において、新しい価値観が提示されるのではなく、対立すべく持ち出された古臭いふたつの立場がただ、予定通りにぶつかり合うだけだった。

 運動家(と、彼らは自称していた)たちはオトナの読む労働運動の雑誌など読むことを「理論武装」と称し、憧れるのは当時流行りの”造反卒業式”を執り行うことだけ。ピント外れもいいところと思うのだが。
 学生運動やらでカッコつけてみせるが、その内実は古臭い価値感ばかりが幅を利かせる。あの頃、あの学校には強固に生きていたと思うのである、”戦前”という亡霊が。

 以前も書いたと思うが、その学校では昼休みのたびに”フォーク集会”と称して全校生徒が体育館に集まり、フォークソングを歌っていた。そんな奴らの歌う、なにが反戦フォークだと思うのだが、なに、ここまで書いてきたものは今だから言葉にできるのであって、リアルタイムで私が感じていたのは「なんか違うよな」という漠然たる反発でしかなかった。
 反発を言葉にしてみることはできず、また、してみたところで耳を傾けてくれるものがいるとも思えなかった。

 そんな私は、当然ながら学校には馴染めず不登校を繰り返し、「そんなダルいこと、やることはねえぜっとローリングストーンズが教えてくれたのさっ」と、つぶやいてはみれども相手にはされず。
 とはいえ街のディスコに行けば、そこの番長決めてる幼馴染から「お前はこんなところに来ずにしっかり勉強してろ、そうだろ」と、なんかまっとうみたいな説教をくらって非行化にも挫折し、ただただ、家出をしてギター一本担いで夜汽車に乗り、当時隆盛を誇っていたグループサウンズに潜り込むことを夢見る大馬鹿野郎だったのだった。

 なんか愚の帝国、みたいな話になってると思うけど。ちなみに問題の高校はその後、学生運動の拠点校みたいな存在となり、進学校へのランクアップとかの予定どころではない、三流校への道まっしぐらだったそうな。めでたしめでたし。



泥炭の眺望

2013-01-09 03:16:26 | いわゆる日記
 NHKのラジオ深夜便の今月の歌で流れている小野リサの歌が良くない。何やら辛気臭いマイナー・キーのメロディで、「恋人が死んでしまって、その人が忘れられない」なんて死ぬほどありきたりの歌詞内容の歌を陰陰滅滅と歌う。
 夜中に何やってんだよ。
 小野リサなんてものは、ブラジル仕込みのギター弾きながらボケーッとボサノバ歌ってればいいんじゃないのか、そういう個性なんじゃないのか。途中で「あなたはエンジェル」なんて横文字入れて、オシャレにでもしたつもりらしいが、歌の本筋がコロンビア・ローズの昔から変わらない「恋人死にネタ」じゃあ、しょうがなかろうが。ああ、オホらし。

 *****

 先日、ツイッターで、

最近流れている車のCMで、「やっぱり愛は勝つよなあ」とか言ってヘラヘラ笑ってるビートたけしを、思い切りぶん殴ってやりたくなっているのは、私だけだろうか?

 と呟いてみたのだが。

 実際、あのトヨタのコマーシャルの”生まれ変わり”シリーズはなんなんだろうね。要するにコマーシャル製作者がたけしにヨイショしたいから、それだけのために作ったとしか思えない。どれもこれも。
 
 この国にある”たけし信仰”ってのも不思議で仕方がないのだが、あれはどうやって形成されてきたのだろう?
 今だに”理想の政治家”なんてアンケートがあると、たけしが上位にランクされたりするのだが、あの男に皆は何を期待できると思い込んでいるのだろう。
 例えば原発事故の際、ネットで見かけた発言で、「たけしはいつ、反原発の宣言をするのだろう?」なんてのがあったのだが、たけしって反原発なのか?ともかく皆、もう無条件でたけしは必ず”良い人”の側にいる、と信じ込んでいる。
 マスコミなんかもそうだ。有名人ともなればどんな立場にいようと、なにごとか悪意のある記事を書かれるものだが、たけしだけは絶対に攻撃の対象にならない。大マスコミから地下出版まで、口を揃えてたけし賛歌を歌い続ける。

 なんなの、あれ?それほどのものじゃねえだろう、あのオッサン。と思うのだがな。この日本中を巻き込んだ新宗教(としか言い様がなかろう)の正体ってなんだ?気持ち悪くてならない。

革命前のイランのサイケ

2013-01-08 04:25:54 | イスラム世界

 ”Funk,Psychedelia and Pop from the Iranian Pre-Revolution Generation”

 1970年代、革命前のイランで民衆に愛され、巷間に流布していた音楽の中から、とりわけサイケでファンクな色彩を放っていた作品が、アナログ盤やらカセットからピックアップされ、ここに登場した。
 一聴、当時のイランには世界各國から様々な文化が流入し、またイランの民衆も、それをたくましい胃袋で受け入れ、消化し、それらの影響下にカラフルな音楽文化を展開させていたことが理解できる。

 我々の感覚では70年代というより60年代末みたいに感じられる”サイケ”の芳香があちこちに漂い、怪しげな花を咲かせている。イスラム伝統文化と奇矯なサイケの試みとの出会い頭の混交。なんともファンキーな。
 聞いていると、なにやら失われてしまった夢の王国の音楽サンプル集が、どこでもない時間の中にぶら下がっている、かみたいに思えてきて、何やら哀しい。これらの音楽はもう、かの国からは失われてしまったのだ。