医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

京都の通り番付

2016-02-04 12:59:16 | 日記
京都の通りは縦と横の碁盤目の様になっており、それぞれの通りには名前がついている。そして交差点はその通りをつなげた名前がつけられる事が多い。例えば烏丸通と四条通の交差点は四条烏丸と呼ばれるし、堀川通と丸太町通は堀川丸太町と呼ばれる。ところがどちらが先に呼ばれるのか、という問題は少々厄介で地元の人間でも間違うことがある。大まかには南北の通りが先に呼ばれることが多いのだが例外も多く先ほどの四条烏丸は四条が東西の通りである。どうやら通りには序列がありそうである。そこで京都の通りで相撲の番付を組んでみた。小学生のころ興味をもって自由研究した記憶があり、今回改めて勝っている(前に名前のある)方を上の番付にし、並べてみた。
西の横綱 西大路
東の横綱 東大路(東山)
ここは譲れないところで、どちらもそれなりに対戦が多くなおかつ全勝優勝。歴代最強の兄弟であり、東西大路時代を築いた。東大路は幕内入幕後四股名を東山に変えている。西大路は今出川、丸太町と対戦成績がなく、各々北野白梅町、円町、などと呼ばれ対戦を望む声が大きい。東大路に至っては北大路、今出川、四条と対戦成績がなく、高野、百万遍、祇園と呼ばれている。四条との対戦は好勝負になるとファンの間では期待されている。この様に対戦成績が残っておらず、別の名前になっているケースは他の力士の取組でも多々あり、大概は大一番になる可能性がある取組ばかりである。勝ち負けではなく、そのすばらしい試合内容に重きが置かれすぎたため、別の呼び名で呼ばれ試合結果はどうでもよくなったためにこうなったと分析をする専門家もいる。なお前頭にいる北大路とは兄弟ではないとされている。また北山は北大路と別の力士であり、四股名を変えたわけではない。
大関 
天神川 葛野大路。西側の今勢いのある若い力士。しかし天神川は御池、三条、四条を撃破したものの前頭3枚目の五条に何故か敗北。(五条天神川)葛野大路に至っては前頭4枚目の小兵、高辻に負けるという取りこぼしがある。ただしバス停から物言いがつき、こちらは葛野大路高辻と葛野大路側に軍配をあげている。従ってこの取組は極めて微妙な勝負となっており、審議不十分であったと言われている。西側の南北部屋には若い大型力士がそろっており、古参の東西部屋を圧倒ている。ただし北側の東西部屋力士とは対戦成績がなく今後対戦があれば楽しみである。
このように若手の南北大通りがとにかく強く、上位を独占しており大相撲でいうところのモンゴル出身力士を彷彿とさせる。
関脇 
九条 上位陣にどうしても勝てないが下位への取りこぼしがまったくないのが好印象。東西の通り部屋出身で初めての三役である。河原町、大宮、千本、御前など古参の南北部屋を撃破。古株の堅実な実力派はここで踏ん張っている。殊勲賞を何度か受賞。
十条 こちらも下位への取りこぼしがあまりない。ただし河原町には河原町十条と負けた取組があり、唯一の不覚である。実はこの十条、十両時代の四股名を鳥羽とよばれており、他の一条から九条の古参力士とは出身が違いまだ若い力士である。そのため派手な河原町戦では緊張があったとも言われている。
四条 派手な古参力士で、見た目もイケメンで通りのプリンスと呼ばれた。南北の大型力士にめっぽう強いのに何故か大宮より西側の平幕(御前、壬生川、西小路、葛野西)に取りこぼしまくるのが玉にキズ。小型力士が苦手なのかというとそうでもなく、堀川より東では無双である。派手な東場所での強さは際立つが、やや地味な西場所では負けるという気性のムラが上位進出を阻んでいるといえる。
小結
烏丸 京都相撲界の大黒柱的存在であり部屋の顔である。正統派のがっちり組んでからの寄り切り相撲をとる。四条との取組は史上最大の一番と言われ注目を浴びたが、四条への派手な応援を背に敗北を期した。古参で取組数も多いがとりこぼしはほとんどなく安定した能力を維持している。
大宮 南場所では強いがそれほど強い力士のいないはずの北場所が苦手で敗北が目立つ(北山、北大路、今出川、三条)。それもそのはずで、北場所時代は非常に痩せており貧弱な力士であったのだが、四条より南に来て体重を大幅に増やしたことで急に成績が伸びた。
前頭筆頭
東洞院 小型力士ながらかなりの実力者であり技巧派。古参の七条をも撃破している。しかしながら五条とは五条東洞院、東洞院五条とどちらにも軍配があがっており両者同体と判定された。九条、十条とは対戦成績なくどちらが強いかは不明。同レベルの軽量級力士の中では卓越した力を持っている。技のデパートとも評されており、今後の取組が楽しみである。技能賞を何度か獲得。
七条 下位への取りこぼしなく堅実。小柄な東洞院に何故か負けている。格から言えばもう少し上位でも良さそうだが。
前頭2枚目 
堀川、最も大型の力士。本道一直線のつっぱりからの押し出しずもうである。玄以、今宮、紫明、寺之内など北場所の珍しい力士とも対戦がありすべて蹴散らしている。北から南まで広範囲の力士と対戦しており経験豊富。この力士、七条戦以後は油小路に道を譲るのだが、その油小路は八条、九条、十条にすべて敗北している。また北大路にも何故か敗北している。
河原町 こちらは派手な技で魅了するタイプ。容姿もよく人気力士の一人。南北の通り部屋にもかかわらず前頭にとどまっているのが不思議なくらい。その理由は四条、七条、九条兄弟にどうしても勝てないためだが、十条を撃破しておりこれは金星といって良いだろう。派手同士の対戦といえば四条との一戦であり、懸賞金は3周したとも言われている。
前頭3枚目 
五条 大型力士で見た目は強そうだがこの位置に留まっている。大宮、天神川には勝利しており、堀川より西側での無双っぷりが目立つ。敢闘賞を何度か受賞している。西に弱く東に強い四条とは真逆の成績を見せている。
千本 北側は敵なしだが四条より南では体重を減らしてしまい急激に力を落とした。大宮とは逆のパターンをとった力士。
前頭4枚目 
高辻 こちらも小型力士ながら強い。特に大関葛野大路を倒したと言われているが、前述の通り疑惑の一戦。四条、五条を倒している葛野西戦も制しており西場所でやや成績がよい。
三条 西の果てで横の通り同士の対決という極めて珍しい取り組みがあり、御池との一番で見事勝った。(三条御池)この力士は途中商店街の歩行者天国であったり、一方通行であったり、大通りであったりと様々な遍歴を経た異色力士でもある。
前頭5枚目 
八条 この場所で安定。なかなか上位へ食い込めない。実はこの力士、西の果てで七条と東西同士の珍しい取組があったのだが、成績は伝わっていない。
西小路 西の若手力士の一人。五条、三条に負けたが御池、四条には勝っている。
前頭6枚目 
白川 東の最果てにある。北山、北大路、今出川を撃破している。宝ヶ池、丸太町とは対戦しているが成績は伝わっていない。もう少し南側まで対戦していれば上位進出の可能性は高くなるが現在通りは丸太町止まりである。
今出川、北大路、北山
北側の大型力士3人。大型南北の通りにはどうしても勝てず全敗。小型力士にはそつのない相撲で勝利。北大路は堀川には勝利している。
前頭7枚目 
丸太町 今出川と対戦成績はほぼ同じだがまだ痩せていた時期の大宮に負けており、(大宮丸太町)これは不覚であった。大宮はこの対戦を期に体重を増やしてゆき小結まで上り詰めており、好調のきっかけを与えてしまった一戦と言える。
高倉、寺町、室町
小さい古参力士3人衆。御池、二条に勝っており、小さいながら頑張っている。高倉は不覚にも六角に負けている。
前頭8枚目 
二条 条兄弟の中では細身の部類だが以下の力士を倒しており東西の細い力士としては頑張っている。
富小路、御幸町、麩屋町、西洞院、新町、柳馬場、西洞院
いわゆる烏丸と河原町の間の一群。いずれも二条に勝てない。西洞院は東洞院の弟と言われているが、兄には到底及ばない。もともと平安時代には東西そろった大力士であったようで、今で言う東大路、西大路の役割を担っていたようだが、時代とともに体重を落としており、現在の位置にいる。その意味では兄東洞院はこの一群メンバーだったのだが稽古の虫といわれ頑張り一人抜けだした。
前頭9枚目
六角 高倉には勝っているが。前頭8枚目の一群に太刀打ちできず。
堺町 本来は前頭8枚目一群にいるべき力士だが、六角に負けているためこの位置
前頭10枚目
御池 超大型力士だがまだ若いためか取りこぼしが多く、この位置に留まっている。重量級過ぎて小兵力士の動きについていけないという弱点がある。また東西の通り同士の三条に負けたという珍事も忘れられない。
御前 西にいるだけのことはあり、四条への対策は万全で倒している。
番外
もっとも北に部屋を持つ宝ヶ池は対戦が少なく番付外。久世橋も烏丸、新町、大宮、油小路、御前、千本を倒しているが今回は京都中心部から外れる力士のため番付外とした。

私の格別なラーメン屋

2014-11-16 22:41:08 | 日記
茨木によつばというラーメン屋がありました。11月15日で閉店してしまったそうです。オープンしたのは去年だと思うのでわずか1年の営業でした。私は月1-2回の仕事で茨木に来るので、いける時は必ずよっていました。醤油に魚介系をあわせ、わずかに酸味が残るとろとろのスープを非常に丁寧に作って下さいました。これが自家製麺によく絡んで完璧な調和がとれていました。(スープだけ美味しいラーメンはラーメンではないというのが私の思いです。)さらに驚きが値段で、こんな丁寧なラーメンを650円で出しており、なおかつ帰りには50円割引券までくれるのでした。私はあまりのもったいなさに結局1回もその券を使うことが出来ませんでした。こんなラーメンなら700円でも800円でも出すのにと思いながら。この思いはいつも接客をしてくれるご婦人(奥さんでしょうか)の物静かでも温かい接客がさらに拍車をかけました。

ラーメン屋にせよ、何にせよ明るい接客って基本なんですよね、本当は。明るく「いらっしゃいませ~」「ありがとうございました~」みたいなやつ。あれはあれでいいのですが、私はこの店のいつも申し訳無さそうな感じで、でも変に媚びてるわけでもない、落ち着いたあのご婦人の接客は本来の日本人の愛する形だと思っています。旨いラーメンやごきげんなお店というのはもちろんいくつもあるのですが、私はよつばが特別に好きでした。その大きな理由は先ほど書いたような細部にわたる丁寧さだったのだと思います。人気がでて客が増えすぎるとそれは難しくなってくるかもしれません。行列が出来てしまうのは本意ではなかったかもしれませんね。そうなると値段をあげるか、田舎に移るしかないのでしょうが・・・いかん、悪循環思考です。実は京都にも岡崎に美味しいうどん屋があって、これまた丁寧ないい仕事をしていたのです。しかしあまりの人気に平日昼に行っても1時間以上待ちという尋常じゃない事態になっており、ここ最近は行くことすら出来ません。ああなるとお店もお客も本意ではない状態になり大変だし、残念です。このジレンマの解決は容易ではありません。

 昨日11月15日は茨木で24時間連続での仕事だったので、よつばに行けませんでした。翌朝仕事帰り、店の前を通るといつになく店内はライトがついていて中から普段かかっているジャズがもれかかっていました。あれ、まだ店内に店主がいはるのか、と思いよくドアを見ると、閉店の張り紙が。。。もう、呆然と立ち尽くしてしまいました。せっかく究極のラーメン新人グランプリもとって、行列も出来て上り調子この上ないこの時期に。もう、本能寺の変で信長が討ち取られたことを毛利攻め中に聞いた秀吉状態で、狂乱しながら「の、のぶながさまぁー」と叫びたい気持ちでした。一体全体なにがあったのでしょうか。もちろん並々ならぬ事情があるのでしょう。それを考えるだけでも無念すぎます。必ず、必ずご夫婦で、もう一度、あの味を出して下さい。陰ながら待っています。

きえさりし ともにめでたる 望月を いばらをこへて またもみまほし

健康な細胞はノリで構成されているのだろうか

2013-09-29 23:52:20 | 日記
メタボローム解析の先生の話を聞いてきた。簡単に説明すると、とある細胞が代謝して作るものを数千種類一気に解析できる技術である。がん細胞と正常細胞を比べてがん細胞に多い物質を同定し、腫瘍マーカーにしたり、原因の探索ができる。それは面白い話で、ココでは書けないような産物が同定されている。完全に因果関係が証明されない限り論文化も難しいだろう。下手なことを公表すると首が飛んでしまうようである。是非完璧に証明するところまでいってほしいものである。
しかし一方でこういう概念が頭をよぎってしまうのである。それって、はっきりいってとある人と標準語をしゃべる人の話言葉の50音を全部さらいだして、この人は標準より「よ」が多いから和歌山弁だとか「が」が多いから高知弁だとか、そういうレベルの解析に近いのでは?結局話しの内容については何にも解析できていないような気がするのである。もう一つ言うならば、とある音楽の音符一つをとってきて何かものを言っているような。いや、それが極端なら楽譜全部でもいい。その楽譜の音のつながりと符号だけをみて何かを言うような。誰がどう演奏するかで傑作にも駄作にもなるのに。
今私が研究している内容も、生命が誕生し、魚が海から川、陸へ上って行き、そこから二足歩行する生き物へ変遷するその仮定を後追いするような発想で腎臓の仕組みに迫るようにしている。そう、腎臓、尿細管の仕組みだけをとってもその生命の歴史の歩みがそこに完全に内封されている。しかし、いわゆる元気な腎臓と病気の腎臓はどこに差があるのか、これはなかなか難しい問題で、論文を見てもあの物質が原因だ、この物質が原因だと百花繚乱である。
最近ひらめいたのは、もしかしたら元気な、というのはとあるリズムを持った躍動感のある体内の代謝なのではないかと。つまり一つの代謝産物が影響しているのではなく、またいくつかの相互作用なんかでもなく、簡単にいえば沢山の代謝産物のノリの良さが健康をキープしているのではないかと。しかしそうなると、研究内容はとある曲がなぜ最高にノレるのか、とかこのクラシックはなぜ身も震えるほど感動するのか、とかそういう世界に足を踏み入れるはめになるし、非常に難しい問題にもなってしまう。いや、実際人間の健康なんてそれぐらい仕組みは難しいものなのでしょうが。ただ、もしかしたらこのノリも人間の歴史の中で今まで繰り広げてきた生命活動に関係しているような気はする。

人間の病態を研究するとはどういうことか

2013-02-13 23:15:06 | 日記
病態を分子生物学的に考えるということは例えるならとある会社や国の問題点を誰か一人の人物、組織のせいであるかのように扱うことです。例えばとある会社が不正融資などをしており、経営破たんを起こした。原因を追求した結果、経理部長が独断で個人的な融資を行なっていることがわかった。よって経理部長をクビにし、また第三者機構をつくって二重チェックシステムにしました、みたいな。クビが、腫瘍などを外科的に取り除き、二重チェックシステムが薬と対応します。薬というものはほとんどが病態の分子生物学的な構造、仕組みの鍵になっている受容体のブロックまたは刺激するものです。そういう意味ではシステム上とあるところに資源を投入して刺激するとかそういうことが当てはまるかもしれません。

何が言いたいかというと、物事が悪い方向へ進んでしまっている時、確かにどこか一箇所が原因で転んでいる場合はこの方法が有効なわけです。先ほどのの経理部長独断の不正などです。では例えば昭和10年頃の日本が、これから戦争へ突き進むようになった歴史をどうすれば止められたでしょうか。このような問題を扱う場合はおそらく原因は一つではないでしょうし、歴史上誰かとある一人や組織を抹殺すれば解決できた問題でもないはずです。歴史学者はこの話題についてもさんざん議論をしていおりますが、決定的なものなど当然ないわけです。

とある優良企業が社会の流れについていけず倒産した場合はどうでしょう。会社内のシステムそれ自体は問題がなく、どの社員もまじめに必死に働いていたとします。この場合はきっと、社会の流れに合わせて社内のシステムを変えたり、作るもの(役割)を変えたりしなければならなかったのでしょう。これを人の身体に当てはめた場合どうでしょう。うつ病などはこのケースに近いのかもしれません。

例えば先ほどの癌の話、どこかの部署に非常に周りの雰囲気を悪くする課長がいて、部下に体罰を繰り返したりすると。その雰囲気が周りまで重苦しくさせ、全体的に会社の機能が悪くなったとします。この場合その課長を排除すれば後遺症は少し残るかもしれませんが根本的に解決できたことになるでしょう。しかし考えてみて下さい。なぜそんなどうしようもない人が課長にまで就任できたのでしょう。会社の構造に何らかの落ち度はなかったのでしょうか。こうなると問題は非常に難解です。システムの問題にしてしまうとこのような問題は選択肢が多岐に渡りすぎるので非常に解決が困難になるのです。だれか優秀な人事課長がいれば少しはましなのでしょうが、人の身体はそうそう優秀ではないのです。一般企業だって、スティーブ・ジョブズがなぜ自分の会社にいないのか嘆いてもしょうがないでしょう。

おそらく人の身体もその場の流れ、雰囲気に流れて動いているのかもしれません。そして細胞も臓器も自分の内部を守るのに必死です。そのためには他者と協力することもあれば、蹴落とすことだってあるのです。このような微妙なネットワークでなんとか維持している人間の身体というものを分子生物学ですべて解決できるわけがないのです。それは先程かいたように社会問題を一個人になすりつけているのと一緒です。確かに会社における人事異動でとある部署を活気づかせるために、ある場所から明るくやり手の係長を配転するみたいな方法で会社全体が回ることはあるのかもしれません。しかしこのやり方でもひずみはでてくるはずです。やり手の係長が去っていった部署は落ち込んでゆくでしょうし。またこの方法は人間の身体には当てはめることができません。

国が豊かになればなるほど、一見そう見える中に犠牲になる一団がいるものです。それは自国内の貧民層であったり、もしかしたら他国での搾取かもしれないのです。今やっている医療はまさにそういうことであり、どこかにエネルギーをつぎ込んで治すということはどこかが必ず犠牲になっているのです。それは体内でもどこかの臓器が犠牲を被っているかもしれませんし、身体の外で何処かの環境が破壊されているのかもしれません。

世界の歴史の中で、バタフライ現象のようになにかが変わることで何かが大きく変わる流れを作ることができることも事実です。とある人物のある執念が大きく歴史を変えたことも確かにあります。人間の身体にそれを求めることは一代では到底難しいことでしょう。しかし例えば垂れ流しになっている工業廃棄物や空気汚染を何とかしようとすることは可能にも見えます。腎臓病を考えてみても、身体のなかでなぜ、腎臓だけが被害に合うようなことが起こったのか、それはきっと腎臓以外の臓器の多くに原因があるかもしれません。

とある病気が遺伝子の問題だとよく言われます。現代の病理はなんでもかんでも遺伝子のせいにしたがります。しかし遺伝子はたかだか蛋白(構成要素)の設計図にすぎないのです。まさに会社の模型であり、会社の規則にすぎません。その遺伝子からできた蛋白達がやいのやいの言いながら自分たちの持ち場を守るためにお互い切磋琢磨したり、競争したり、喧嘩したり、裏切ったりしているのです。それを遺伝子のせいだけで説明できるでしょうか。身体の中に流れる社会の風潮みたいなものも大きく関与しているのではないでしょうか。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」はまさにそういうものをテーマにしていました。一個人など周辺の環境次第で良くもなれば悪くもなるのです。遺伝子などというアイデンティティは存在しないも同然です。

今年4月から何の因果か、研究の道に進むことになってしまいました。うちの研究所はバリバリの分子生物をやっていますが、分子の構造、仕組みそのものには興味がありません。この分子がこの病気に関係していた、など到底言いたくはありません。現代のいじめ問題を誰か個人のせいにしたり、どこかのシステムのせいにしたりするのはセンスがない様に思えるのと同様です。私は上記にあるようにその分子達、臓器達がとある環境でどのように振舞ってしまうのかに興味があるようです。そういう視線を忘れないようにのぞみたいと思います。

子供の運動能力を規定しているものは

2012-12-27 18:32:30 | 日記
近年子供の運動能力が落ちているというニュースがあり、最近子供向けのプール教室をみる機会があったので見学してみると面白いことに気がついた。ここではっきりと申し上げておきたい。運動能力の低下は完全にテレビのせいであると。何もテレビをみる時間が増えて運動時間が減ったなどというわけではない。さらに限定していうと、ヒーロー戦隊、仮面ライダー、プリキュア、アンパンマンなどのせいである。これらの番組に感化された子供は、良いポーズをとる算段になると決まって全身にチカラを入れ、さらには目に強い力を込めるのである。そして戦闘シーンの多いこれらの作品では、戦闘中の身体の動きは非常に大きく筋肉を誇張する動きを展開します。これは当然のことで、テレビという二次元の媒体で力強さを表現するためにはそうするしかないからです。古武術の甲野先生のような力を入れない動きはテレビ上では全く力強さを感じないばかりか、動き自体が視聴者には理解不能に見えてしまうのです。感情がこもり集中していることを表現する際も微妙な表現が難しく、特にアニメではそうなのですが、目に力を入れる、という表現をもって感情表現を示すケースがほとんどです。おそらくそういう表現以外に簡易に表現する方法がないのだと思います。

こういった表現形態にどっぷり浸かってしまっている子どもたちはあたかも、頑張らなければならないときは全身をこわばらせ、感情を込め集中するときは目に力を入れなければならないと刷り込まれているようなのです。プールを見ていると上手に泳げない子供が数人いました。いずれも身体に力が入りすぎていて固いためです。それなのにそういう子に限ってプールが終わって脱衣所で遊んでいるのを見ると、ヒーローごっこをやっているのです。これを見た時になるほどなと思ったのです。この様な子供たちはおそらく運動をする際は極力力を抜かなければうまくいかないことや、集中するということが真ん中に力を寄せることではないということはわからないまま大人になるのだと思います。テレビ向けの表現力はとても上手になることでしょうが、そろそろこういった表現から離脱する方法を考えなければならないと思います。そもそも現代のプロの運動選手ですら、このテレビの影響を受けた動きから完全には離脱できていない人がとても多いようです。それだけこのテレビの影響は我々の日常の運動に少なからず影響を与えています。もしかしたらあなたの腰痛の原因もテレビの影響があるのかもしれません。何の気なしに見せているテレビ番組にも身体に大きな変化を及ぼしているということです。それを解除するためには、テレビをやめ、本物の動きを直接見続ける他ないということになるのでしょう。

自転車にまつわる不思議なはなし

2012-02-02 03:25:46 | 日記
用事で京都へ行っていた。JRの駅まで自転車で向かい、近くに停め電車で出かけた。帰ってきたのは翌日朝。ところが停めてあった場所に自転車はない。これは困ったと周辺100mを探しまわるがやはり見つからない。周りに他の自転車は沢山止まっており撤去された形跡もなかったので、これは盗難されたかとあきらめることにした。あきらめると言っても私は今まで携帯をなくし、2週間後に天王寺駅で発見されるなど大事なものが戻ってくる率が高いのでどこからかひょっこり出てくるのではないかという期待もあった。

翌日、昼一応撤去自転車収容所にも行ってみた。予想通りその日はその場所で撤去は行われていないとのことであった。そこで意外な知り合いが働いていることを知った。親切にも、その車種のチャリが入ったら連絡をくれると言ってくれた。一応警察にも行ってみた。残念ながら防犯登録をしておらず、車体番号も控えていなかったのでどうしようもないと言われ警察署を後にした。しかし何故だが自転車がなくなったことに対する残念な気持ちが全く湧いてこない。愛着は十分にある自転車で、中古でも十数万円する街乗りするには良すぎるチャリだ。誰かに持っていかれて転売すればそれなりの小遣いにはなるだろう。盗まれる可能性は十分にある。

さらに翌日は大阪で仕事があった。夕方から出かけるのだが、その日は少し仕事が早く片付いたので何気なくいつもより20分ほど早くタクシーにのって駅へ向かった。そのタクシーは何故か普段通ってくれる最短ルートを通らず素人のルートを通って駅へ向かった。赤信号で止まってふと通り沿いを見ると、なんと自分のチャリらしきものが遠目に見えたのである。すぐさまその脇へタクシーを止めてもらい確認するとまさに自分のものであったのだ。チェーンはかかったまま。おいてあった場所からは少し離れていた。しかも2日前その場所も探した場所だった。その時心のなかではやったという気持ちよりもあぁ、やっぱり、という気持ちが強くわきあがってきたのである。

誰が何の目的でチャリをその場所まで担いで移動し、置いていったのかは全くわからない。ただ感覚としては、私のチャリがどこかから抜けだして道路まで出てきて、おーいタクシーこっちこっちと手を上げてタクシーを止めてくれたような感じ。わざわざ私を迎えに出て来てくれたような。だから、どちらかと言うといなくなったのは自転車ではなく自分であって、自転車の方がわざわざ自分を探しに出歩いていたんじゃないかという。子供を連れてショッピングに夢中になって、子供と離れ離れになって、でも構造上は迷子なのは親みたいな。そういう不思議な感覚にとらわれる事件でした。

同じ物をみているはずだが

2012-01-05 02:06:59 | 日記
つい最近この様なブログを読んだ。以下のところだ。
http://asada0.tumblr.com/post/11323024757
ゴッホは色覚異常があったのではないかという。確かに今までのゴッホの作品をこのブログにで考える色覚異常で見ると全く違った表現が現れる。それは本当に色覚異常があったのではないかと思わせるほど鮮やかである。
ところで信じてもらえるかわからないが、私は右目と左目である色の見え方にやや色調の差が出る。特に肌色は左目はやや赤味がかって、右目は緑がかって見えている。この事実に小学生頃気づき、面白がって片目をつぶっては変化を楽しんでいた。特に女性の顔を見るときには左目で見たほうが魅力的に見えることに気がついた。ちなみに利き目は左である。そのため他の人はもっと違う見え方があるのだろうと思っていたし、その見え方によって印象も随分かわることも感じていた。最近の日々の忙しさにこの事実をすっかり忘れていたのを思い出させてくれる記事であった。

当時この事実は大変な不安をもたらした。自分の2つの目ですらそうなのだから、皆が見ている同じものが皆違うように見えているのではないか。そしてその感じ方も違ってくる。なにやら一人ぼっちになったような気分。私のことを理解できる人はいるのだろうかと。その結論に、人はだれも自分の感覚と同一の感覚を得ている人はいない、つまりは完全な理解は不能であることが前提に人と接していかなければならないと思っていた。だから「何で理解してくれないの?」などと言われてもアホちゃうかと思っていた。結局この問題を解決するキーワードは共感性という文化ということになるのだが。

何かの能力が欠如しているためにはっきりわかったり、感じたりできることがある。それも視力がないというレベルではなく、ほんの少しの色調の変化で。そしてそれはどんなに努力してもなかなか除外することができない。赤ちゃんは生まれてしばらくは色がわからない、そしてまず赤からわかるようになるといわれている。しかしこうやって何かを獲得しながら何かを失っていくのだろう。小さな頃に見えていたもの、感じていたものが。

という訳で今年の目標。とにかく不要なものを極力削ぎ落してゆく努力をすること。

ワクチンの未来を考える

2011-11-24 01:44:34 | 医学ネタ
前置きが長くなったが少しワクチンの話。私は決してワクチン反対派ではない。多くの人の命を奪ってきた数々の感染症がワクチンのお陰で駆逐されたことは素晴らしい歴史上の進歩であった。そしてこのところワクチンの種類もどんどんと増えてきている。最近では癌になりうるウイルスのワクチンも登場した。素晴らしいことには違いないが、これが進むとどうなるのだろうか。我々は数多くの種類の感染症にかかりうる。癌の原因が感染症だったという報告もこれから増えてくるだろう。ではその感染症のワクチンが次々作られた場合「すべて打つのだろうか」。いずれの感染症も重篤化する可能性はゼロではない。また、免疫不全の人にうつした場合悪化する可能性があるからうつさないよう健常人も打つべきという考え方がある。ならばうつる可能性がある感染症はすべてワクチンを打つのだろうか。この考え方は発展すると誰かが感染を起こして重篤化した場合、うつした人が悪いということになり、うつした人がワクチンを打っていなかった場合罪に問われるような流れにもなりうる。現に麻疹やインフルエンザはそういう風潮にある。こうなると社会的強制力、脅迫観念をもって数多くのワクチンを打たなければならなくなる時代が来る可能性は高い。そこで議論になるのは「ではどのワクチンまで打つのか」。現時点では重篤な感染症のワクチンが多く意味のあるワクチンが多い。しかし境界線まで来ると、ワクチン会社、国家の思惑が見え隠れしてくることは間違いない。

 次にワクチンの問題の一つは作り方である。簡単に言うとヒヨコになりかけの卵にウイルスをぶち込んで増殖させたものを使っている。そういう方法でなければ増殖が効率よくできないからである。それって結構残酷な方法じゃないですか。食べるためなら生物の歴史上致し方ないところもあるが、ワクチンを作るために大量の生まれかけのヒヨコにわざわざ感染させて殺しているのですから。この製造法には少し抵抗があるし、ちょっと傲慢な感じもある。

 最後に感染を起こす意義について。私は感染症を起こすことは何らかの意味があって起こっていると考えている派の人間なので、風邪は身体を整える仕事をしているという考え方に納得をしている。なのでインフルエンザを始め、麻疹など、歴史上人類が感染しながら生きてきた菌については感染の意義があるのではないかと思っている。もちろん重症化してしまうことについては残念でならないし、なんとか予防できればという気持ちはある。しかしやはり医学としてはそれを運が悪いというスタンスではなく、何か身体にあったために重症化したのではないかと追求するスタンスで今後も望むべきだと思われる。ワクチンはあくまでそれを発見するまでの過渡期の予防法に過ぎないと考えたい。そして感染することに意義があるということは、感染する時期に意義があるということである。ワクチンは擬似感染を起こすということなので、打つタイミングにも敬意を払いたい。何でも早けりゃいいというものでもないのではないか。その人の身体にとって最適の時期がきっとあるはずなのである。

今ワクチンについて思っているのは、あくまで過渡期の予防法にすぎず、またすごく雑な方法なんだということです。現時点では予防では最良の方法なのでしょうが、あくまで仕方なくというスタンスでそしてたくさんの問題を抱えた方法だという認識を持っています。

どういう視点で考えるのか

2011-11-09 23:12:37 | 日記
一つの問題に対して、どういう結論をつけるかということには多角的な視点が必要だし、視点によっては良い悪いどちらにも結論づけられることが多々ある。今回の原発問題もそうだし、リスクの面から人類が取り返しのつかない被害を被るのであれば反対というのはよくわかる。環境破壊だからというのはちょっと地球を馬鹿にしているようにも見える。おそらく地球はそれほどやわいものではない。また、今回ダライ・ラマは発展途上国での貧富の差を埋めるためには原子力は必要かもしれないという立場をとられたようだ。これも一面ではあるのだろう。今回の電力不足騒動はこの電力エネルギーが我々の高水準生活、産業の維持のため非常に重要だということを教えてくれた。

しかし、我が師の原発反対の理由は非常に身体にしっくりくるものであった。それは決して危険だからとか、自然でないとか、贅沢だとかそんなものではなく、ただ単に原発の存在する根本的な仕組みが「卑怯」だから反対なのだと。彼らがそう判断する危険な作業を日雇いを半ば騙すような形で働かせ成り立っていたり、一部の人がだまってその利益を貪ったり、一部の地域の反映のためにある地域が偽性になるのを変な取引で封じ込めたり。上から下まで卑怯の縮図のような構造で成り立っているというわけだ。そんな卑怯な方法に乗っかってまで優雅な暮らしをおくりたいのかということだ。少なくとも私はこの考え方が一番しっくりくるものであった。きっと師は卑怯な構造をしていなければ原発の存在などどっちでもよいのであろう。それこそ内田先生が好きな問のたて方の問題に帰着するわけで、原発が賛成か反対かはすでに問の立て方が間違っていると。

実はダライ・ラマは原発発言の最後に日本人の伝統的な価値観を大切にするよう述べている。原発のバックにある卑怯な考え方、自分だけがよければよいという考えをいさめる発言にも聞こえるのだがどうだろうか。

横浜の素敵な文化に触れる

2011-10-20 00:06:45 | 日記
最近横浜が楽しい。ここ半年でバーを始め、焼き鳥屋、ピザ屋など名店にめぐりあえている。その中でも印象的な店に今回出会うことができた。たまたま日曜に横浜で用事があったのだが、横浜の名店はほとんどが日曜休みだったのだ。さぁ、どこへ行こうか悩んだ末に前から気になっていた「IG」さんへ。横浜中心からは少し離れているのでタクシーを使わざるを得ない場所のため今まで敬遠していた店であった。ここが大変なお店だった。名店とは、地域とは何かを考えさせる店だったのだ。

20時前にタクシーで本牧(ほんもく)まで行ってみたがなかなか店が見つけられない。本牧は今はいわゆる住宅街で、ぶらぶら散策しているとそのうち雨も降りだした。今日はついていないな、と諦めかけたときぱっとライトがついたところがIGさんだった。カウンターのみの小さなアメリカンな雰囲気のバー。入るとアロハシャツの似あう物腰の柔らかい笑顔のマスターが「ちょっと買い出しにいってて遅くなっちゃったよ」と迎えてくれた。ちなみにこの店も日曜休みでたまたま月曜が祝日なので開けたそうだ、ラッキーである。さらにちなみにマスターというと「やぎちゃんって呼んでくれる?」と。しかしどうみても50代後半の彼をちゃん付けで呼ぶのも抵抗があったが、彼の人柄がその抵抗を取り払ってくれる。

とにかく彼の人柄が素晴らしいので良い人が集まってくるのは間違いがない。彼も「ここに飲みに来る人はみんな立派になっちゃうんだよ」と。隣では若い芸術家達が音楽とCGの融合について模索していた様子。少しでも悪口や仕事モードの話を始めると「ここでは仕事と悪口はやめようよ~」とたしなめている。なんだかやぎちゃんの柔らかい雰囲気に包まれてしまう。元々は外国人が多く住んでいた地域で、今より大きな店で横浜の文化の発信地であったようだ。多くの有名人がここを訪れたり、ここから全国へ出て行ったりしたようだ。それにしても文化の匂いが充満しているこの店、もともと横浜文化のデザイン関連の仕事に従事しておられ、いくつもの素敵なエピソードを聞かせていただいた中で次の話が何だか印象に残った。

ここの名物は四角いピザとホットドック。日本発の「四角い」ピザだそうで、絶品であった。隣の人たちはホットドックを食べていたが、細くて長い真っ赤なソーセージが特徴的であった。ホットドックもやぎちゃん思い入れのある作品で、彼が小さい時に横浜の球場で食べた味が忘れられないほど美味しかったそうで、この店でこの味を再現しようとしたところ今時この様なソーセージはもうどこでも作っていなかったそうだ。そんな話をあちこちでしていると、ある時「それうちの親父がつくってたよ」という人が現れたそうで、家に残っていたレシピを元に作っていただいたそうだ。つまりはこの店のためだけに作ってくれたソーセージなのだ。しかし問題はこれだけではなかった。このソーセージ、長いのでこれを挟めるパンがない。また今のホットドック用のパンは柔らかくするために必ず少し砂糖が入っているのだそうだ。ただ、彼が再現したいパンは甘くなく、柔らかいものだそうで、なおかつそのソーセージを挟める長さのパン。これもどこでも作っていなかったそうで、どの知り合いに頼んでもなかなか難しいとのこと、4件目位でようやくこの店のためだけに作ってくれるところを見つけたそうです。「お陰で思ったより値段があがっちゃったけどね」と。

ホットドック一つとっても地域のみんなの力を借りて完成したことになんだか感動を覚えてしまったのである。普通お店で出す食べ物なんか、おいしいところで取り寄せたりすれば済む話なのに、みんなを巻き込んで何か一つの作品をつくる。きっとこれがここの発想なんだと。何かと何かを融合して新しいものを作ってゆく感覚ってこれなんだろうなぁと。実際このお店から超有名なバンドが出たりしているのだ。彼の一つ一つを愛している感じがひしひしと伝わってくるエピソードの一つではないか。

急に話は変わるが、最近読んだ現代の空海と言われる中村公隆さんの本の中に、京都の街が数々の災害・人災から守られ発展できているのは空海が命がけで結界をはってくれていたからでそれが伝わってくる、というのを読んだ。しかしそれは空海その街を愛し、その街のことを強く強く思っていることの証である。街の人達が皆でその思いを寄せ集めることがその街を守り発展させることの力になるのだということだ。もちろんその方法論に関してはいい悪いが色々あるのだろうが。IGさんで聞かせていただいた話は、その一つの素敵な方法なのだろうと肌で実感したのだ。