prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「PS1 黄金の河」

2024年05月21日 | 映画
三時間かけて話半分というのはどんなものでしょうね。
途中でインターミッションが入るはずだが日本ではスルーして続けて上映する。用を足したい人もいると思うのだが。

兄弟で王座を争うというのだったらわかりやすいのだが、兄は父に代わって王座に就きたがっているが(そのくせ父のそばには来ない)、弟は父である王にあくまで従順すぎるくらい従順(そのくせやたらと強い)なので話がこじれるというのは、どうもわかりにくい。

弟とバカに顔が似たキャラクターが出てきたと思ったら、これが身代わりになるというのは、見慣れていない者は混乱します。
悪いけど、女性キャラクターの顔が全部同じに見える。

戦闘シーンのスケールの大きさはインド映画らしい。ただし基本はリアリズムであまりぶっとんだ感じではない。

使用言語はタミル語。

世界的に映像ドラマがシリーズ化されてやたら長くなって時間をとられるのはあまりありがたくない。結末の付け方がだらしなくなる。
推測だが、長大な原作があるのが足をひっぱったのではないか。





「マグダレーナ・ヴィラガ」

2024年05月20日 | 映画
娼婦である主人公が客をとる場面が何度もあるが、これがおよそセクシーでもなんでもない。客の顔が写ることすらない。
監督二ナ・メンケスの妹のティンカ・メンケスが主演しているのだが、「見せる」要素というのがまるでないのだね。ひたすら我慢しているとしか思えない。

冒頭しばらく宗教画や彫刻がひんぱんに背後に配されてセリフもずいぶんと抽象的。16ミリなのだろうか、画面がずいぶんとざらっとしている。

酒場でヒロイン以外の客を全部鏡の中に押し込めて撮ったカットなど孤立を画に描いたよう。





「恋するプリテンダー」

2024年05月19日 | 映画
原題はANYONE BUT YOU。
わざわざプリテンダー pretender=なりすましなんて耳慣れない言葉に直すことあったのかな。

冒頭からシェイクスピアのエピグラフの文字が壁に描かれていたり絵に描かれたいたりするのだが、この自体がシェイクスピアの「空騒ぎ」ほかの喜劇のテイストを持つ。
さらっと同性婚が出てくるのだが、それがぐるっと巡ってシェイクスピアの時代は少年俳優を女優代わりに使っていたり、「十二夜」で女を男と間違えたりしていたなと思ったりした。

他愛ない間違いの喜劇と見せて古典が芯にあると見るべきか、古典自体が下ネタ含めて普遍的なものととるべきか。





「悪は存在しない」

2024年05月18日 | 映画
単純にエコロジー対開発業者の対立の構図かと思うと、村人も戦後の農地改革で移住してきたので、自然に特に近しいというわけではない。というか、農業というのは作物だけ選別して育てることに他ならないのであって、意外と(でもないが)不純な自然観の上に成り立っているのを承知の上で作っている感もある。

薪を割るところの長回しは何か薪に仕掛けをしてあるのかなと思ったら、単に
小坂竜士が本当に薪割の名人ということらしい。

芸能事務所にして開発業者の四人のメンバーの車内に仕掛けられたモニターに映っているのを含めた四人の捌き方が、技巧的でないようで技巧的。
子供が行方不明になるあたりのそれと知らせないようも技巧も同様。

石橋英子の音楽と濱口竜介の映像のコラボから始まった企画だというのだが、これとは別の音楽と映像の組み合わせがあるはずなのだが検索してもこれから見られる(聴ける)のは引っかからない。YouTubeなりDVDなり出てきそうなもの。というか、DVDどころかCDすら出ておらず、なんとLPが出ているだけ。





「鬼平犯科帳 血闘」

2024年05月17日 | 映画
松本幸四郎と市川染五郎の親子を同じ鬼平というキャラクターの壮年期と青年期で共演させるのが商業上のひとつの狙いだろうが、さらに本所の銕と二つ名をとった不良だった平蔵がどうやって鬼平になったか、というドラマを単純に「更生」したという観点からでなくメビウスの輪のように表裏がつながった延長上としてつなげて捉えている。

出だしで酔っている染五郎がそのまま殴り込みに行くくだりで、なんで殴り込みに行くのか、誰のところに行くのかは伏せておいて後になってそのワルだった頃の殴り込みが銕のちの鬼平の身に返ってくるという展開につなげている。

鬼平は多くの密偵(いぬ)を抱えているわけだが、自らに密偵になりたいという平蔵の昔馴染みの女の申し出をいったんは断るが、その命を救いまた救われるという流れで前半の女が殺されているのかどうか曖昧なまま誤解させるのは上手くないが後半の罠にかかるあたりはうまくできている。

柄本明が単独でつとめ(盗み)を働く泥棒で、鬼平の配下に実の息子の柄本時生がいるもので、これはシリーズの後の方(こちらは日本映画専門チャンネルほかで放映予定)で生かすつもりかなと思う。
張り出し屋根からすっと飛び降りるのをフルショットで撮ってそのままカメラに近寄ってアップになるシーンがあるので、何かのトリックでなければずいぶん身が軽いと思った。

タイトルの人名が日本語と英語が併記されているのだが、たとえば松本幸四郎がMATSUMOTO KOSHIROと英語表記でも姓=名の順に並んでいる。いつの間にかこういう表記増えていないか。





「青春18×2 君へと続く道」

2024年05月16日 | 映画
いくつかの時制が同時並行して描かれ、大きくシュー・グァンハンと清原果耶のふたりと、それぞれの過去と現在に属する。
過去と現在としたけれど、映画では両方とも現在進行形なのであって、過去をノスタルジックにかっこに入れるわけではない。

台湾も日本も基本鄙びたロケーションで、都会は台北くらい。
岩井俊二の「LOVE LETTER」が北京語だと「情書」となるのがなんだかおかしい。

役の上の設定では清原果耶の方が年上なのだが、実年齢は逆だし、落ち着いて見える。時制が複雑に交錯する上、片方は遡り片方は急激に流れるという具合に時制は現在であり過去でもある。





「バジーノイズ」

2024年05月15日 | 映画
肝腎の音楽があまり魅力的には思えなかったのが困る。

人と交わりを断つために?音楽をやるというのもわかったようなわからないような。





「マイ・スイート・ハニー」

2024年05月14日 | 映画
冒頭、ユ・ヘジンが朝起きて出勤して昼休みを過ごして退勤してと、すべての行動を時計通りに進めていく描写が「イコライザー」ばりで、特に触れていないにせよ(安直にレッテルを貼ってはいけないが)この人発達障害なのではないかと思わせる。少なくとも変人ではあります。

栄養失調になるくらいお菓子を食べてばかりいる(それが本職になっている)あたり、子供っぽいか偏食かということだろう。

彼とキム・ヒソンだと野獣と美女という感じだが、意外なようで意外ではない組み合わせ。

それにしても、現代の韓国にドライブイン・シアターなんてあるのかと驚いた。調べてみると、ウィキペディアには、
「大都市近郊などに20館ほどのドライブインシアターが現存する韓国でも、各地の自治体主導で、住民の緊張緩和や、住民が安全な環境で文化を享受できるようにするといった目的のために、無料の臨時ドライブインシアターを開業させている」 とある。この「住民が安全な環境で」というのは具体的にはコロナのことだろう。

ヘジンは下戸という設定なのだが、そういえば韓国人の下戸の割合はどの程度なのか調べてみたが、アセトアルデヒド分解酵素ALDH2 の働きが低いのは日本人の44%、中国人の41%に対して韓国人は28%くらいと割と低いがいないわけではないらしい。

刑務所帰りの兄がいるという設定とか、ヒソンに実は手が切れきれていない内縁の夫がいるといった設定は盛り込み過ぎで、特に後者は消化不良。





「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」

2024年05月13日 | 映画
冒頭、「めまい」の音楽がかかるのにあれと思った。この映画がフェミニズムの立場から観客全般が無意識のうちに男視線だったり男の権力的立場に立っていることを指摘しているらしいことは知っていたわけだが、「めまい」といったらこれ以上ないくらいの男視線映画なのです。
さらに解説で生登壇した字幕監修の斎藤綾子氏も「めまい」には驚いたと(マイクを通した声はかなり聞き取りにくかったが)いうのに暗合というのはあるものだと思った。

「(「めまい」)が世の女性たちに好かれないのもまた間違いないのである」小林信彦

最悪の映画として紹介されるのが「マンディンゴ」で、最悪とは文字通り受け取っていいのかある程度反語的に捉えていいのかよくわからないなだが、男の黒人奴隷(ケン・ノートン)と白人の金持ち女(スーザン・ジョージ)が立場を交換して描かれる。
アメリカのマスコミに猛烈に叩かれたのは奴隷制度の醜悪さをずばり突かれたせいが大きいと思うが、スーザン・ジョージがこの前の出演作「わらの犬」でレイプされる役をやっていたのが逆転して主導権をとっているのも反発をかったのかなと思う。

映画の中の男女の役割の非対称性をカメラワーク、照明にまで遡って証だてていく。
映画というのは、半分しか作られていないし、半分しか見られてもいないと思える。

俳優のロザンナ・アークエット、映画監督のキャサリン・ハードウィックらが出演するが、肩書が活動家activistsとあるのが彼我の差を知らせる。





「リバウンド」

2024年05月12日 | 映画
主人公たちのチームにまったく交代要員がおらず、常に背水の陣の戦いを、しかも体力の消耗の激しいバスケットボールで行わなければならないという設定ががちっと決まっている。

決勝戦の相手になるチームの監督が対照的に戦力を余裕たっぷりに投入しながら追いすがられて突き放しきれないのを、何をやってるんだ、叩きのめすのが礼儀だろうと言うのが逆にすがすがしい。

エンドタイトルに出る実物の選手や監督の容貌があれと思うくらい再現性が高い。再現性が高いといったら肝腎のバスケットボールの試合が何より高い。

実話というのでなかったらあまりにすいすいと勝ち進むのがひっかかったかもしれないが、勝敗がつくところを省略したりしてうまく処理している。





「ゴジラ×コング 新たなる帝国」

2024年05月11日 | 映画
ゴジラやコングみたいな強面のキャラクターはともかく、モスラみたいにふわっとしたキャラクターは収まりが良くない。
昆虫色が強いが、元はもっとぬいぐるみっぽくなかったか。

当然みたいに地球が空洞になっているという地球空洞説を前作に続いて採用しているが、ヤボを言うと上下対照というのは重力の性格からして変。

口がきけない娘というのが日本版の小美人にあたるという仕掛け。時間の都合で吹き替え版で見たのだが、とにかくセリフが少なく、吹き替えだと忘れるくらい。





「クラユカバ」

2024年05月10日 | 映画
上映時間がほぼ60分。
クラウドファンディングで製作資金を集めて作ったせいか小品でも画面が十分充実している。

豆タンクみたいな小型装甲車がキャタピラーばかりでなく足みたいになっていたりして、もっと小回りがきく感じにしてある。

レトロ調というか色が抑え気味な中、美少女キャラがふたり揃っていて、かといって美少女っぷりを物欲しげに売っていない。

なんだかパイロット版のまま完成しているみたい。ストーリーの先を作ろうと思えばできるだろうけれど。





「キラー・ナマケモノ」

2024年05月09日 | 映画
ネタ的にナマケモノを取り上げたのかと思うとそうだともそうでもないとも言えない。 

原題はSlotherhouse(屠殺所)。
単語としてはカート・ヴォネガットの小説「屠殺所五号」およびその映画化「スローターハウス5」でおなじみ。
作中ダジャレに使われたりするが英語のダジャレの常で意味が通じにくい。

ナマケモノがCGではなくマペットなのは珍しいが、それはそれで物足りないから贅沢な話。
さほどチャチではないが操演が見事というほどでもない。
「チャイルドプレイ」のチャッキーの名前がセリフに出たりする。

大学のソロリティ(ラテン語で姉妹を意味する社交団体)の会長の座を巡る選挙戦が軸になっていて、史実の秘密修道女会のアルファ・デルタ・パイになぞらえた標語が使われていたり、あちらの大学の秘密結社がモチーフになっている、らしい。
らしい、というのは、あまり馴染みがない世界の話で判断がつかないから。
単純に「キャリー」のプロムクイーンの座を争うのと近いか。

その選挙戦にナマケモノをマスコットとして利用するわけなのだが、その間ナマケモノが邦題通り少なからぬ人間を殺しているのにも拘らず、かなり長い選挙期間中も気がつかないでいるというのはずいぶんズサン。

選挙戦を直接戦う二人より、野生動物であるナマケモノを選挙に利用するなんて許せないと正論を吐く女子(オリヴィア・ルーリエ)の方が明らかに美人だしスタイルもいい。
何かキャラクターの配置がぎくしゃくしている。

後半死んだと思った人間が生きてましたというあたりも、思いつきみたいでなんだかメリハリが効かない。
ナマケモノが神出鬼没過ぎ。
白塗りに目の周りは黒い顔はパンダみたい。





「あまろっく」

2024年05月08日 | 映画
鶴瓶の出番が案外少ない。
タイトルになっているあまろっくというのは運河の小型版みたいに水路を狭めて水が流れ込むのを防いでいる機構で、水鳥の形をしたボートで親子三人で接近するところが可笑しいし、こういう風景というのは見たことがない。

鶴瓶の再婚相手というのが中条あやみで二十歳という設定、娘の優子が江口のりこで三十九歳の設定で、義母の方が娘ほども年下。
鶴瓶がどう亡くなったのか見逃したのかどうか場面としてはよくわからないのだが、最後の方でぱあっと明るく登場するのと、それとふだんのちゃらんぽらんぶりとは裏腹の人助けをしていたことがわかる。

こういうと何だが、三人とも吉本ではない。関西弁ネイティブではあるのだけれど、第二標準語化した吉本語とはちょっと違うのではないかというのが私のあてずっぽう。





「SHOGUN 将軍」

2024年05月07日 | 映画
オリジナルの「将軍」が作られたのはもう44年前の1980年、黒澤明「影武者」がカンヌ映画祭のパルムドールをとって評判になったのと同じ年で、奇しくも日本の時代物が連続する形になった。

ただし自分はこのミニシリーズ版も再編集して劇場公開した版も断片的にしか見ていない(土台配信していない)。
島田陽子が裸になってリチャード・チェンバレンと同じ湯舟に漬かるという「勘違い」日本の典型かと思わせるような描写など見てはおれんはというのが正直なところだった。
伝聞だけれど、原作小説では女性たちの名前がヒロインのマリコはともかく(今回のドラマでは鞠子と表記される)、侍女たちがサズコ、ゲンジコというのは「ティファニーで朝食を」のミッキー・ルーニーの日本人?のユニオシなみのネーミング。

今回真田広之がプロデューサーを初めて務め、できる限り違和感のない日本描写を目指したというのもこの手の「勘違い」「誤解」を解くという大きな目標があったからだろうし、世界が狭くなってそういう「誤解」「典型」が見過ごされるという状況ではなくなったからでもあるだろう。

先述のとおり前回のドラマ版がどのようなのか見てないままで論じるのは本来まずいのだが今回のに話を絞ると、まず意外だったのは真田広之(前回三船敏郎)の虎長は徳川家康をモデルにしているから当然タイトルの将軍とはストレートに彼のことだろうと思ったら、わしは将軍ではないと再三否定すること。
虎永は五人いる大老のひとりであり、合議制で運営するよう亡き太閤に命じられているのだが、やはり大老の石堂和成が先手をうって他の大老をまとめてしまい虎永に詰め腹を切らせようとする圧倒的に不利な場面から始まり、家康が天下をとったという結果は分かっているとはいえ、終始不利なのは変わらず、関ヶ原で決着がつく場面はドラマの上から外されており、誰が勝つかという話ではなく、誰が太平の世を長きにわたって保てるかに話を落とし込んでいる。

世界史的レベルで見るとカソリックとプロテスタントの対立、ポルトガルとスペインの二大国の駆け引きと対立が絡み合っていて、日本国内からはうかがい知れないところから密かに日本を料理しようとしているあたり、ずっと後まで続く帝国列強による領土分捕り合戦まで視野に入れた射程の長いもの。

タイトルバックはじめ枯山水のモチーフが繰り返し登場し、世界の分断を刻むように砂に描かれた紋様が荒っぽくかき乱されるのがシンボリック。
「今の」レベルにアップデートした世界観に思える。

ドラマはブラックソーンが乗っている船が(枯山水とは対照的に)嵐の中を航行している場面から始まり、沈められていた同じ船が大勢の人が力を合わせて引き上げられる場面で終わる。この力を合わせてというところに注目したい。

鞠子という名はモダンすぎるには違いないが、ここではマリアにかけてレディマリアと呼ばれるのがネーミングはそのままに意味づけが変わっているように思われる。
キリシタンで自害を禁じられているのが告解によって許されるという設定が、武士が切腹をある意味名誉として選べるのと対応している。

何人もの人が死ぬが、どの性別や宗派や国籍や文化圏に属するわけではないただの神、ただの死としてあり、それなりの敬意をもって喪に服されることになる。

画面がかなり暗い。湿気も強い。暗い林の木の間を縫って火矢が射ちかけられるヴィジュアルが印象的。
浅野忠信のねずみ男的キャラクターが可笑しい。

鞠子役のアンナ・サワイは島田陽子の方が圧倒的に美人だけれどその後おそらく英語力不足でキャリアが妙なことになったのを思うと、一概に言えない。