学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

noteの記事もよろしく

2023-10-01 | コメントについて

ご無沙汰しております。

こちらのブロクにご興味のある方は、noteの方ももしよかったらご覧ください。

申し訳ありませんが、noteのほうは有料記事とさせていただいております。

https://note.com/madographos/n/n46253f09e353

よろしくお願い申し上げます。

 


流行りの教育書を読むな

2022-12-05 | 教育

学校の先生方はとても素直でまじめな人が多いようで、教育書を書いて、マスコミなどで話題になる先生がいると、その実践がすばらしいものであるかのように思って感激し、真似しようとする。自分の学校に不満があったり、自分の実践に自信がなかったりすればなおさらである。

私も若い頃にはずいぶんそういうものを読んだ。しかし、今では全部捨てた。

若い先生方への助言だ。やめたほうがいい。時間の無駄だ。

他の学校でやらない突飛なことをやって理屈をつければ、マスコミは食いついてくる。それは一過性のものだ。話題性があればマスコミは儲かるのだから。後のことまで責任をもっているわけではなかろう。

それに、自分の実践を自分で書いて、客観的に書けるはずがない。だって、自分がよいと思ってやっていることなんだから。レトリックをロジックを駆使して、自分の実践を正当化するだろう。

教育現場に身を置いているならば、自分の目の前の子供や同僚から学ぶべきだ。自分の現場にしか正解はない。正解を求めて呻吟するしかない。そこで得られるものだけが本物だ。「己の立てるところを深く掘れ そこには必ず泉あらむ」と高山樗牛もニーチェの言葉を引いて言っているではないか。

次々に出版される価値の定まらない流行の教育関係の本などを読むよりは、もっと幅広く古典的価値のある書物を読んで自らの人格を陶冶すべきだ。

教師自らの人格の陶冶なくして、教育の問題は解決できるはずがない。


学校における子供の主体性について

2022-12-04 | 教育

主体的に学ぶとはどういうことだろうか。

そもそも学校においては、学ぶ内容は決められている。それを学ぶ学習者は常に客体である。学ぶ内容に関しての主体性を学習者はもっていない。

正確に言えば、現在、教育の世界で言われている主体性とは、与えられた課題に対する積極性、というほどのことに過ぎず、これは言葉を変えれば、能動的受動性とでもいうべきものである。簡単に言えば、「主体的に学べ」ということは、いやいや従うのではなく、進んで従え、ということに過ぎない。

主体的な学びを学校が期待した段階ですでに、その学びは主体的ではないのである。

子供は学校でも社会での主体ではありえない。だからこそ、子供は将来、社会の主体になるために、保護者には子供を学校に通わせる義務が課せられ、子供は国の決めたプログラムに従って学ばされているのである。社会における主体性と学校における主体性は全く意味が異なる。文部科学省も教育学者もそのあたりのことについて混乱があるのではないか。

子供が学校において、「主体的」に学ぶなどという言葉遣いは、公教育の根本に対するまやかしとなりうるものであるがゆえに極めて危険なのである。

 

 

 


アクティブラーニングと論理的思考をめぐって

2022-10-21 | 教育

そろそろアクティブラーニングの限界が学校現場では見えてきていると思うが、未だにアクティブラーニングを信仰しているむきもあるようだ。

とくに、アクティブラーニングが論理的思考力を育むと思っている方に問いたい。アクティブラーニングによって論理的思考力が育つ理由を論理的に説明していただきたい。

西欧の教育の伝統をみていると、論理を教える際に必要とされるアクティブさというのは、精神の姿勢のことであり、教師の言うことをそのまま飲み込むのではなく、その理路を自分なりに明らかにしようとする意識をもって聴く姿勢を言っているようである。

グループでディスカッションをすれば、論理が身につくわけではない。

西欧の伝統的な教育では、まず文法に対する正確な知識が前提として要求され、その基盤のうえに論理に対する理解があり、それは握りしめた手に例えられる。そして、自分の考えを他者に伝えるときに駆使されるのがレトリック(修辞)であり、それは開いた手に例えられる。つまり、論理の理解というのは、自己の内面を徹底的に鍛える学習なのである。この文法、論理、修辞こそが、西洋のリベラル・アーツの根幹をなしている。

そのような教育のあり方を理解しているならば、アクティブラーニングと論理的思考力を直結させることがはなはだ雑な議論であることが分かるだろう。

もともと日本には、西欧のような論理的思考は存在しないと私は考えている。論理的な思考を極力避けることで日本は円滑な人間関係を築こうとしてきたのである。

日本人が他者と話をするときは論理的思考をしているわけではなく、相手と心のチューニングを合わせようと試みるのである。波長を同調させ、相手と同じ心持ちになることが最も肝要となるのである。

子供たちの話し合いなどを見ていると、その話し合いが厳格な型にはめられたものではなく、自由に話しているような場合、その発言は論理的に考えてなされているわけではなく、多くの場合、単に思いついたことをしゃべっているのである。そして、その思いつきが、相手の波長とピッタリあった場合、話が盛り上がるのである。

彼らのディスカッションにおける「そうそうそのとおり」と「それはちがう」の差は、単に波長が合ったかどうかの気分の差にすぎない。本来は、それをさせないためにこそ論理的思考を教える意義がある。

論理的思考ができる者は、時流に流されず、多数意見に流れない。たとえ孤立しても論理の指し示すところに向かう。

日本のアクティブラーニングではそんな人間は育たない。むしろ逆に、思考なき思いつき優先の同調人間をつくるだろう。

それは我々日本人と日本語の奥深いところにある、論理性とは異質な精神性のしからしむるところのであって、そのことの危うさを自覚すればこそ、古来、西欧の論理に匹敵するような知性は、外国語である漢文の教育によって身につけようとされていたのではないかと思われるのである。

だいぶ話がそれた。このへんで。


現代の教育に足りないもの

2022-02-07 | 教育

ここのところ、戦前の教科書などをいろいろと見る機会があったのだが、現代の教育にはやはり足りないものがあったのではないかと思うようになった。

それは端的に言うと、教育の伝統の継承が行われていないということにある。まず何のために学ぶのか、という意味付けが現代の教育は弱いのではないかと思われるのである。

日本の歴史をたどると、勉強や学問は人格の陶冶と直結している。学ぶのは己を人格的に鍛えるためである。そして、勉強の成果は、刻苦勉励の証とされていたように思える。すなわち、どんな人も人格の陶冶をめざして努力精進するそのことが大事だということである。

昔の日本には、孝義録と言われるものがあった。そこには、名もない市井の人々の善行が集められており、功成り名を遂げた人物だけでなく、貧しくても能力がなくても善い行いをした人物が讃えられるべきであるとする思想を見ることができる。

能力よりも努力を、学力よりも人格を、成果よりも過程を重視する思想が、日本には昔からあったように思われるのである。これは長い歴史のなかで育まれてきた知恵であろう。

現代の教育や社会風潮をみるにつけ、いかに学力を伸ばすか、いかにこれからの社会にとって有用な人材をつくるかというような卑小な事柄に教育論議の焦点がおかれ、能力が高く成果をあげた人間が尊いかのような考え方が露骨になってきたことをみるにつけ、何だか薄っぺらい時代になってしまったなと感じる今日このごろである。

老人の戯言と聞き流していただきたい。


筋違いな文法訳読法批判

2021-02-12 | 教育

私は英語教育の専門家ではないが、どうも気になることがある。よく文法訳読法を批判する文脈で、この方法は西欧の古典ギリシア語、ラテン語の教育法に由来し、音声は重視されず、ただ、語彙の知識と文法を頼りに母語に訳せればよしとする教育法というような言い方をしているものをよく見かける。

これは大間違いである。

本来、文法訳読法は、テキストを正確に読むことから始まる。この場合の「読む」は音読である。確かに古典ギリシア語やラテン語が古代人によってどう発音されていたかについては、完全に解明されているわけではない。それこぞ膨大な研究成果があり、時代によって、あるいは教育者の考えによって発音の流儀は変わる。しかし、正確に発音することは極めて重要な学習要素であった。文法訳読を行う教師は、まず自らが流暢に範読でき、そして、学習者の発する音声を矯正する力を持っていることが最低条件である。さらに、古典語に取り組むにあたって、語彙と文法がわかれば訳せると思っているとすると、これも大きな誤解である。古典語に向き合うにあたっては、当然、語彙と文法の正確な知識が必要なのはいうまでもないが、それだけでは歯が立たない。さまざまな古典作品において、どのような表現がなされているか、その類例が思い浮かび、さらに現代語に訳すにあたって、いかなる表現に落とし込むのが最も蓋然性が高いのかを悩みながら判断する高度な知的作業を要求されるのである。当然のことながら、複数の辞書や文法書、スコリア、コメンタリーなどをひっくり返しひっくり返し、机の周りに本をうず高く積み上げながら、訳を絞り出す作業なのである。

英語教育の専門家が、冒頭のように、いとも簡単に文法訳読法を批判し、しりぞける物言いを見るにつけ、ああ、この人は、文法訳読法が本来どのようなものであるかを知らないばかりか、言語というものがいかに恐ろしいものかが分かっていないなあ、と思うのである。

英語とは言語的に全く遠い位置にある日本語を母語とする我々が、学習法をどうしたからどうなるというような生半可なことで、英語を身につけることができるはずがないのである。斎藤秀三郎や田中菊雄や佐々木高政の辞書や参考書を少しでも見れば、彼らの英語を身につけるための努力のすさまじさに畏怖の念を抱くだろう。

小学校から英語を始めようが幼児期から英語を始めようが、そんなことぐらいで英語が身につくはずがないし、学校の授業を受けているだけで語学が身につくはずがない。

言葉を身につけるためには、学習者自らが膨大な時間をかけ、とてつもない労苦を重ねる必要がある。少なくとも、文法訳読法はそのことを教えてくれるのである。

 


国際数学・理科教育動向調査(TIMSS(ティムズ))結果報道の不思議

2020-12-09 | 教育

2019年の国際数学・理科教育動向調査(TIMSS(ティムズ))の結果についての朝日新聞12月9日朝刊の記事を読んでいて、その分析に首をかしげてしまったので、久しぶりに投稿します。

記事には、小学校4年生の理科の平均得点が低下したことを報じている。砂漠にラクダがいたりサボテンが生えていたりする絵を見せて、「絵にえがかれている生き物を2つ答えてください」「絵の中で、生き物ではないものを2つ答えてください」という問いに答える問題で、シンガポールが84%、アルメニアが79%、カザフスタンが71%正解で国際平均値が45%なのに対し、日本では37%しか正解しなかったというのだ。

その記事には、「日常生活の言葉の力が落ちていることがうかがえる」とあり、「生き物という言葉に、虫も草も木も入るということが理解できていない」とある。

はて、日常生活の言葉で「生き物」とはどういう意味だっただろうかと、辞書を引いてみる。「命のあるもの」という意味と並んで、「おもに動物をさす」とあるではないか。私の感覚とぴったりである。日本語の「生き物」にサボテンはふつう入れないだろう。「生き物」という言葉に虫も草も木も入れる言語感覚は、日常生活に用いられる言語感覚ではなく、生物学的な、つまり特殊な用語法なのである。

小学校4年生の子供が、こんな問題を出されたら、「生き物」という言葉をそれこそ日常語として理解するだろう。これは生物学の問題だな、と認知するものだろうか。間違えて当然である。

さらに、朝日新聞デジタルでは「「虫は動物じゃない」という子も 国際調査で浮かぶ課題」という見出しが出てくる。

はて、日常生活の言葉で「動物」とはどういう意味だっただろうかと、辞書を引いてみる。はたして、「とくにけもののこと」という一項がある。私の感覚とぴったりである。日本語の「動物」に虫はふつう入れないだろう。「動物」という言葉に虫を入れる言語感覚は、これまた日常生活に用いられる言語感覚ではなく、生物学的な、つまり特殊な用語法なのである。

このような講評をしているのが、小学校の教育関係者であるならば、ちょっと大丈夫かと言いたくなる。

このような国際調査の結果を分析する際には、言語の違いをきちんと見極めないと危うい。日本語で「生き物」とされているのは、英語では何という単語なのだろうか。少なくともこの問題に関しては、言語による意味内容のずれが得点を大きく左右している可能性が高いと言えるのではないか。正解率の極端な違いからしても推測できることなのではないか。

結局、言葉の力があやしいのは子どもではなくて大人の方だと言わざるを得ないだろう。

 

 

 


論理国語?

2019-09-21 | 教育

「論理国語」という科目ができるそうだ。学習指導要領もここまで馬鹿げたものになってきたかと感慨深いものがある。

そもそもネーミングセンスが奇抜である。「論理」と「国語」をそのままくっつけるという国語センスに呆れ返る。

まあ、「生きる力」あたりからネーミングセンスは崩壊しているのであるから仕方がないとも言えるが、末期的である。

一つだけ言えることは、漱石の作品を味読できる力のある人間が、取扱説明書とかマニュアルとか契約文書とかを読みこなせないなどということは想定できないということである。

国語の場合、文学作品を通してでも日本語の論理は十分身につくはずであることは、しっかりと国語を勉強したことのある人間ならば当然、分かることである。文学は情緒だけと考えている人がいるのだとしたら、義務教育からやり直したほうがよい。

そもそも、歴史的に見て、文学的な文章と論理的な文章は分けられるものではない。言葉で表現されたものすべてを扱うのが、西洋のlitteratureあるいはlettersであり、日本でいう文学である。言語で表現されたものは総体としてある洗練された表現を駆使した論理であり、論理をレトリカルに表現したものでもある。

教育行政に影響力をお持ちの方に、古今の文学を味読する時間的余裕を与えてあげてほしいものである。

 

 


自己肯定感という病

2019-04-13 | 教育

子供の自己肯定感の低さが問題にされることがある。だが、自己肯定感などを問題にする必要があるのだろうか。自分を知ろうとか自己分析しようなどというのは、現代人の病理にすぎないと私は思っている。

そもそも、「自己」など肯定したり否定したりすべきものではない。とくに子供に「自己」など見つめさせるべきではない。子供にとって必要なのは、日々の生活の中で自分の前に立ち現れる問題に対して、なんとか解決策を考えようとする力を養うことであり、「自己」そのものについてどう思うかなどは問題にすべきではない。人間の思考は、もともと他者に目を向けるようにできている。

「自己」を見つめれば見つめるほど自己に対して否定的な傾向に傾くのは、我が国の文化的特性であるかもしれず、そうなると、それを「改善」して自己肯定感を高めようとすることそのものが、自己のもつ文化的特性を否定するという、いかにも自己否定的な考え方であると言わざるを得なくなるのである。


プログラミング的思考はいらない

2019-04-07 | 教育

日常生活でプログラミング的思考をしている人などいるのだろうか? また、仕事でプログラミング的思考をしている人もいるのだろうか? まず、適切にプログラミングされたコンピュータが人間の及ばないような成果を出せるのは、「思考」の秀逸さによるのではなく「記憶」の面で、膨大な記憶容量があり、それらのすべてを迅速に誤りなく取り出せる能力がその基本にあるからである。「記憶」の面ではるかにコンピュータに及ばない人間は、プログラミング的思考を超えた思考力によって、人間としての特性を維持するしかないのである。コンピュータがどう考えているかを理解するために、プログラミングの仕組みやコンピュータの仕組みを勉強するというのなら話はわかるが、小学校の教科教育でプログラミング的思考などを意識した教育を本気で導入すれば、子供の思考力の鈍化と停滞を生み出すことは間違いない。子供にはむしろ、先哲の思考のプロセスや結果を文章読解を通して学ばせるべきなのは、今も昔も変わらない。そもそも思考力のメカニズムが十分に解明されているわけでもないのに、「~的思考」などというものを学校教育の場に持ち込もうとする人の思考力の欠如をこそ問題にすべきである。


「学び合い」という言葉のおかしさ

2018-11-03 | 教育

「学び合い」という言葉をよく聞くようになって久しい。

しかし、この「学び合い」という言葉はおかしな言葉だと感じている。「~合い」という言葉の「~」のところに入る動詞はふつう相手が想定されている動詞である。たとえば、「話し合い」という言葉は、「話す」という動詞そのものが、他者と言葉をかわすことを意味しているので、その行為を相互に行うことが「話し合い」という言葉である。ところが、「学ぶ」という言葉には2つの意味があって、ひとつは教えてもらって習うという意味、もうひとつは自分で勉強するという意味である。後者の場合は、他者が想定されていないので「学び合い」という言葉は使えない。前者の場合は、想定されている他者が教師なので、「学び合い」と言うと、教師と生徒が学び合うことになり、語義から言って矛盾が生じる。すなわち、「学び合い」という言葉は成立しないはずなのである。

ところが、「学び合い」という言葉が流布する背景には、ひとつには言語感覚に問題があると私は思っているが、もうひとつは「学ぶ」という言葉を原義から考えていないことにあると思う。「学ぶ」ということの意味は、他者を想定する場合であっても、知らない者が知っている者から習うということであって、ふつう、それは同輩からではなく、年齢的にも経験的にも上の立場にあるものから習うことを指している。もし、「学び合い」が児童生徒の間で成立するとすれば、それは児童生徒の間に教える者と教えられる者の上下関係をつくりだしているに過ぎない。「学び合い」がもし教室で成立するとすれば、皆が平等な学ぶ者として存在するのではなく、児童生徒を教える者と学ぶ者に分離させているに過ぎず、学ぶ者の共同体が形成されているようにみえながら、その実、優劣や上下関係を固定化させているのである。協同の名のもとで優勝劣敗をマイルドに内面化しているということには、あまり気づかれていないのではないだろうか。


「生きる力」という表現はおかしくはないか

2018-11-03 | 教育

いまさらだが、「生きる力」という表現はやはりおかしいのではないだろうか?

この言葉が出てきたとき、変な表現だなと思ったのだが、普通に使われるようになってしまって、だんだんその違和感は麻痺してしまったのだが、やはり考えてみるとおかしいと感じてしまうのである。

「生きる」というのは、もともと生命を保っている状態を指す言葉ではなかったか。当然、ここから生計を立てるといった意味が派生してくるのだが、「生きる」というのはもともとは、自分の力でどうこうできるものではなく、なにか人間の力を超えたものによって、それは自然かもしれないし、神と言う人もいるだろうが、そのようなものの力によって生かされているというのが、本当のところではないだろうか。

私が中学校の時の校長先生が、しきりに講話などで「生かされる身の尊さ」というお話をなさったが、当時はその意味がはっきりとは理解できなかったが、歳をとってくるとその言葉の重みが理解できてきたような気がする。

日本では、昔から生死は無常であり、人の力ではどうしようもないものと考えてきたように思う。だからこそ、生きていることに感謝し、命を愛おしむべきだと考えてきたように思う。

だから、「生きる」という言葉と「力」という言葉をつなげる感性にどうも違和感を感じてしまうのである。

「生きる力」という言葉が使われだした頃、通勤電車のなかで二人のサラリーマンが「生きる力っていったってなあ、力があろうがなかろうが、生きていかなきゃならないんだよな」と話しているのが聞こえてきたが、まさにそのとおりなのである。

「生きる」ことと「力」を結びつけるべき状況としては、瀕死の人が命の火を保ち続けているような状態のときであって、教育の世界にはふさわしくないのではないか。

教育は「生きる」ことには関わってはいない。西洋の先哲の言葉を借りれば、「よく生きる」ことにこそ関わっているのである。そして、「よく生きる」ために必要なのは「力」ではない。「徳(アレテー)」である。


学校では児童生徒は「主体的」ではあり得ない

2018-08-25 | 教育

言葉は正確に用いるべきだと思うのだが、学校で児童生徒が「主体的」に学ぶというようなことがあり得るのだろうか。

定められた教育課程を定められた仕方で、自分が選んだわけでもない教員に教えられている児童生徒が主体的であるはずはないのである。たとえば、アクティブ・ラーニングなどで、自ら「主体的」に発言することを求められ、それに応えて児童生徒が「主体的」に活動したとしても、それを主体的と呼んでよいのだろうか。これは、「主体的」であることを強いられているに過ぎないので、単に形を変えた強制である。これは、「主体的」などというよりも、せいぜい積極的という程度のことであろう。

もし、自ら進んで強制されたことに積極的に従っていくことを「主体的」と呼んでいるとしたら、とても恐ろしいことである。非常に巧妙な管理体制であると言わざるを得ない。

学校は、「強制」の場である。そのことを、はっきり教職員も児童生徒も明確に自覚すべきである。そして、その「強制」は何のためかというと、将来、主体的な大人として行動するための糧を与えるためなのである。だから、詰め込み教育批判などはナンセンスであって、もし、その詰め込まれた内容が将来、大人として主体的に判断するための何らかの糧となっているのならば、教育の実はあがったというべきなのである。

現在、喧伝されている「主体的」な学習が、果たして、主体的な大人になるための糧となっているだろうか。そのことをこそ、考えなければならないのである。

 

 


どんな本を読むべきか

2018-02-01 | 教育

小生に対して、どんな本を読んでいるのかというご質問があったので、こちらでお答えしておきたい。

私が好んでいるのは古い本である。やはり本というものは、100年ぐらいたたないと本当の価値が見えてこないのではないかと思っている。

特に好むのは、2000年以上前の本である。

教育に関する本も若いころはだいぶ読んだが、ほとんど手元には残っていない。

もう歳を取ったので、古典的価値のないものを読んで、時間を浪費したくないとは思っている。

では、学校教育について、どんな本を読めばよいかと考えてみると、とくに何を読むべきだということはないのではないかと思っている。

大事なのは、目の前の子供から学ぶことであって、日々の実践の手掛かりは子供のなかにしかない。実践の中で必要だと思った本を読めばよいと思うが、大体の場合、本を読んでも答えは見つからないのではないかと思う。


世田谷区教育委員会「新・才能の芽を育てる体験学習」が提起した問題

2017-08-31 | 教育

世田谷区教育委員会主催の「新・才能の芽を育てる体験学習」の一環として行われたコンサート「日野皓正 presents “Jazz for Kids”」において、日野氏が中学生に対して、体罰に相当する行為を行ったという報道がなされている。

この問題に対して、どちらが悪いかというような視点ではなく、学校教育という観点から考えてみたい。

最近、「チーム学校」ということで、学校外の有識者等を学校教育に関与させようとする考え方が取り入れられつつある。今回の「新・才能の芽を育てる体験学習」についても、学校ではないにせよ、世田谷区教育委員会が主催して「新学習指導要領を踏まえた学びを生かしつつ、5つのテーマ(探求、表現、体力・健康、国際理解、環境)の中から通常の授業にはない体験・体感ができる活動」をさせるもののようである。つまり、学校教育の延長上で捉えられているもののようである。そもそも教育委員会がこのような課外活動を計画すること自体、余計なことだとは思うが、その道のプロフェッショナルを招いてこのような活動を行えば、上記の目的を超えていってしまうのは、当初から明らかなことであろう。

〈参考URL:http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/103/133/524/d00033880_d/fil/29_shinsainounome.pdf

学校教育法第11条は、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」と規定している。あくまでも、「校長及び教員」の関する規定である。学校教育に関与してくる教員以外の人間が、児童生徒に体罰に相当する行為を行ったとしても、それは、人に対する物理力の行使ということで刑法上の「暴行罪」が成立する可能性はあるだろうが、体罰の枠組による児童生徒の保護は得られないことになる。

今回の一件は、今後推進されるであろうチーム学校の問題点を象徴するような事象である。学校教育と外部の方では、児童生徒に期待するものとか教育目的とかが異なっているのだということを、あらかじめきちんと吟味し、調整しておかなければならないのだが、今の教育委員会や学校にその力があるだろうか。はなはだ疑問である。