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(アラビア語版)
(目次)
第5章:二つのこよみ(西暦とヒジュラ暦)(21)
135歴史に取り残されるパレスチナ問題(3/4)
だがパレスチナ人にとってはエジプトとイスラエルが和平条約を締結し、サダトとベギンがノーベル平和賞を受賞しても問題は何も解決したことにならなかった。ユダヤ人たちがパレスチナ帰還のために掲げたスローガン「土地無き民に、民なき土地を」の後段「民なき土地を」と言うのはあまりにも身勝手な発想であった。2千年前にユダヤ人がディアスポラ(大離散)でヨーロッパ各地に移住して以降もその地に住み続けてきたパレスチナ人の歴史を完全に無視したものだったからである。
パレスチナ人たちはイスラエル独立後も土地の返還を求めパレスチナ国家建設のため戦った。アラブ諸国はパレスチナ人を積極的に支援し軍事行動まで起こした。しかしそれも1973年の第四次中東戦争までだった。エジプトが単独和平で支援の輪を抜け、他のアラブ諸国はエジプトを非難したが、パレスチナに新たな手を差し伸べる国はなかった。パレスチナは大転換する世界と中東の歴史の中に取り残されたのである。
もちろんパレスチナ人たちは黙って手を拱いていたわけではない。レバノン南部のイスラエル国境近くに本拠を構えたPLO(パレスチナ解放機構)はレバノン政府が内戦で機能不全に陥っているのを幸いにイスラエルに対して国境を越えた執拗な攻撃を繰り返した。これに対してイスラエルも戦闘機によりパレスチナ難民キャンプにあるPLO司令部を爆撃した。軍事作戦ではPLOは到底イスラエルにかなわない。1982年、とうとうPLOはレバノンを撤退しチュニジアに逃れた。
(続く)
荒葉 一也
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